名探偵ティファ

 Discordで、こないだFF7におけるミステリー要素というような話になり、ある方が名探偵ティファという鍵言葉をおっしゃったので、なんだかこれについてしばし考えてしまった。

 この話が出たのは少し前のことなのだが、Wikiのために当時の資料を集めていて、そのなかで、北瀬さんが7の中盤はミステリーふうの展開になっているという話をしていた。これはわたしなどはちょっとびっくりする話で、自分のうかつさに笑えてくるけれども、これまで7のストーリーを謎解きとして見たことが一度もなかった。いわれてみれば、クラウドの自分探し、ないしクラウドという存在の有無=謎であって、ティファはこれをひもといていく探偵と云えるわけだ。

 そこでわたしは考えた。クラウドという存在の謎に関する探偵役がティファだということは、結局、神羅時代にセフィクラが成立した可能性が一ミリもないことの証左になってしまわないか? と。

 考えてみてほしいのだが、セフィロス氏はライフストリームに落っこちても自我が拡散することなく活動できるような、強靱な自我意識と意志力をもったお方である。もしもライフストリームをユングのいう集合的無意識のようものととらえるとすれば、セフィロス氏の自我の強さは要するに、無意識に対する抵抗力の強さと自我のまとまりとが尋常でなく強靱であることを意味する。そしてクラウドはその逆なわけだが、このような方にとっては、クラウドの自我意識を、それがいともたやすく拡散霧消しようとするライフストリームの中から拾い集め、再構成することなど実に容易であるように思われる。

 もしも神羅時代、セフィロス氏とクラウド・ストライフとがすでにある種の関係を築いていたとしたら、クラウドの自我の核は疑いようもなく、お互いにほとんど話したこともないようなティファ・ロックハートなる幼なじみではなく、思春期という鮮烈な時期をともに過ごしたセフィロスとの結びつきや記憶のほうにあったはずである。ここまで考えて、わたしはほとんど絶望に近いものを覚えた。つまり、ニブルヘイム事件が起こるまで、セフィロス氏とクラウド・ストライフとのあいだには、まったく文字通りの意味でなんの関係もなかったのだ! いまや我々の愛する、あの十代のクラウド・ストライフと英雄時代のセフィロス氏が関係を持ったという可能性は絶たれてしまった。Q.E.D、証明終わり。この慣用句はなんとむなしく響くことか。

 このようなむなしさと奇妙に荒廃した気分のなかで数日を過ごしたあと、しかし突如わたしに天啓が下ったのである。その声はこう云ったのだ。

 しかしおまえは考えてみなかったか? セフィロスは14、5歳になる以前のクラウド・ストライフのことはなにも知らないのだということを。そして記憶というものは、それが実際には欠落だらけで奇妙に錯綜しているにもかかわらず、基本的には一本の道筋を描きたがるのだということを。そしてその描き出された一本の道筋を頼りに、人はおのれをおのれと認識するのだということを。

 この声を受けてわたしはまた考えた。なるほど人にもし、14歳以前の記憶がまったく欠落しているとしたら、その人は自分というものに対するある種の疑いを免れ得ないに違いない。すなわち、それ以前に自分はどこでなにをしていたのかという疑いである。

 人の記憶というものは非常に曖昧かつ頑固でやっかいなものだ。それは人がそれに拠って立つことによって、かろうじて自我なるひとつのまとまりを導き出すよすがとするからである。たとえセフィロス氏が死力を尽くしても、おそらくセフィロス氏は氏の直接に知らないクラウド・ストライフの過去には手出しができなかったのに違いない。否それをライフストリームの中から集めてくることはできたろう。だがそれは、彼の集めてきたクラウド・ストライフは、セフィロス氏の関係する直接的な経験でないだけ、力強い実体と実質とを欠いている。人の自我を形成するうえでそこに真の力を与えるものは、直接の、生きた経験である。自我というのはそのような性質のものであるし、自我の根拠たる記憶というのもそのような性質のものである。
 なるほどセフィロス氏はクラウド・ストライフの、おそらくほとんどすべてを知っているのに違いない。しかし彼は、彼と出会う以前のクラウド・ストライフのことを直接には知っていない。その直接知り得ない部分に関しては、直接知る人間に委託する以外に、拡散しライフストリームの中へ消えてゆく意識を留めうる手段がないのだとしたら……そこまで考えて、わたしはセフィロス氏のたくらみがわかったような気がしたのである。

 セフィロス氏はライフストリームに落ち、そこに集合するすべての知識を手に入れた結果、いまやすべてを知っている。しかしそれはいわば形而上的な知、知の総体としての知であり、いわば神的知なのであって、それは全能であるが、惜しむらくは生きた経験を欠いている。そしてこの生きた経験こそが、神ならぬ人の知なのである。
 しかるにクラウド・ストライフは人である。彼の知はあくまで人の知であり、彼そのものはあくまでこの世の現実的人である。この現実的人を、呼び覚まし具象化するすべを、神的知は知らなかった……なんとなれば、創造は神的知のそのさらに奥にある知、人と神とを分かつ最後の一線の先にある知だからである。

 しかしセフィロス氏はそれを試そうと試みた。彼はおのれのまだあずかり知らぬ神の知を先取りしようと試みた。彼は創造神になろうとした。かのデミウルゴスの名をここで持ち出すのは、氏に対する公平性をいささか欠いているが、しかしどうしても持ち出さずにおれない。彼はこの世の神になろうとした。クラウド・ストライフなる一個の人格を通して。それをおのれの手でもてあそび築き上げ擬似的にあらたに創造することで。そしてFF7の中盤以降の物語は、その試みに対する人間の側の反逆なのである。人間の生きた知の反逆、経験という地上的体験の反逆なのである。

 竜巻の迷宮に打ち寄せられたセフィロス氏、そこでセフィロス氏と出会い、セフィロス氏の完全な玩具と化したクラウド・ストライフ、彼はまことのセフィロス氏の玩具であるが、彼を相手にセフィロス氏は創造主になった、彼の人格をもてあそび、彼の存在を亡き者、風前の灯火のもとにさらされているものにすることによって。しかしこの試みは、結局人間の生きた経験的な知によって、人格がそのすべてを委託し、そのすべてを背負わせる、直接的体験なる知によって……ティファ・ロックハートを殺し損ねたことはセフィロス氏の致命的な誤りであった……覆される。

 ところでセフィロス氏をしてこのような実験へと駆り立てる、クラウド・ストライフとは何者であるか。
 それはセフィロス氏がその生前において、おそらく唯一不覚をとった相手である。その唯一の不覚がなにに由来するのか、それをいまここにくだくだしく書こうとは思わない。いまはただ、かの無敵を誇ったセフィロス氏が、この十代のひ弱な、ひよっこ以下というような少年に不覚にも不覚をとったのだということを書いておくだけでよい。そのとき、セフィロス氏にとってこのひ弱な少年は、真実に生涯をかけて追求し、破壊し、滅ぼし尽くすにふさわしい相手になった。彼がおのれを滅ぼしたように、おのれは彼を滅ぼす。運命はこのとき決定した。滅ぼし尽くすために、まずは創造し尽くさねばならぬ。おれは彼を創造しなければならぬ

 だがセフィロス氏にとって不運なことに、ティファ・ロックハートなる生き延びた幼なじみがいた。この幼なじみは、別にクラウド・ストライフと深い関係にあったのではない。というより、彼らのあいだには、その幼少期、ほとんどいかなる関係もなかったといってよい。しかし、そうした関係のなさなど、同郷であるという威力の前には無力である。生きた人に力を与えるのはこのようなほとんど荒唐無稽な、なきに等しい根拠や理論なのである。

 ティファ・ロックハートはセフィロス氏の躓きの石だった。この女を始末しておいたならば、セフィロス氏はおのれの計画を成就し得たであろう。だがなんの因果か、いかなる運命の采配か、クラウド・ストライフなる男の幼年期の鍵を握る、あるいは唯一そのころを知るこの女は生き延びた。そして彼女は幼なじみの記憶をたどり、その存在を真実に、その自我を真実にこの世に呼び戻したのである。

 最後に、今日ある方が、過去のFF7に関する雑誌の特集をわたしに送ってくださった。それがわたしにいまこれを書かせているわけだが、その中に、ティファ・ロックハートという女性のことが実によくわかる、実によくそのツボを心得た開発者の意見が紹介されていた。ティファはなぜ、故郷の村において実際にはほとんど関わりのなかったクラウドを自分の幼なじみだと思っていたのか、という質問に対して、その開発者は、幼なじみという言葉がふたりの関係を表す言葉としてしっくりきたのではと説明した上で、

「さらに言えば、ソルジャーという成功者を自分の幼なじみだと考えることが、彼女にとって重要だったのかもしれません」

 と回答している。まことに正鵠を射た、ティファという人間の性質をよく飲みこんだ言葉ではないか。最近、特にリメイクあたりからティファのことを知った人は、ティファがどういう女性かについて、オリジナルとは根本的に異なった意見を抱く危険がある。だがティファ・ロックハートとはこういう女性なのである。それはオリジナルFF7における彼女の行動を見ればわかる。彼女は非常に思慮深い、思いやりのある女性である一方、しかしその一方で、骨の髄まで女なのである。

 同時に、もしあなたに幼なじみと呼べる人があるとしたら、その人のなかに、自分と幼少期に一定の経験をともにした人という以上のものがあるかどうか、よく考えてみるがよい。

 思ったより長くなったが、今度こそQ.E.D、証明終わり!
 これは酔っぱらって書かれた。だがわたしは酔っぱらったときのほうが、よくものが書けるような気がする。