セフィロス氏のテオーシス

 本日二回目の更新ですが、ちょっと興奮しているので書きに来ました。

 ツイッターのほうでセフィロス氏のテオーシスの話を時々していますが、テオーシスっていうのは日本語に訳せば「神化」でキリスト教の(おもに東方の)神学の一ジャンルです。人が神に似たものとなり、神の性質に与るようになるという非常に重要なものなんですが、セフィロス氏はFF7本編で神になろうとした、つまりテオーシスの過程にあったわけですよね。

 このテオーシスは人間の創造論や救済論をも巻き込んだ非常に大がかりな思想で、ここにキリスト教信仰の核心があるといっても過言ではないが、「神が人となったのは、人が神になるためであった」というアレクサンドリアのアタナシオスの言葉にすべては集約されてくる。

 人は元来、神にかたどって創造された。ところが、人間は楽園において悪魔にそそのかされ、食べてはならないと戒められていた善悪を知る木の実を食べてしまった。それが人間の罪のはじめだが、重要なのは、神が人に対して、善悪を知る木の実についてなんと忠告していたか、ということである。神はこう忠告している。

「おまえは園にあるどの木の実を食べてもよい。しかし、善悪を知る木の実は食べてはならない。それを食べると、必ず死ぬ。」(創世記2:16-17、フランシスコ会訳)

 それを食べると、必ず死ぬ。
 これが非常に重要なポイントで、つまり木の実を食べたことによってなにが起きたかというと、人が死ぬ身になったということである。死、すなわち朽ち果て腐ってゆく肉体というものをわたしたちが帯びるようになった、ということである。死は恐怖を呼び、防衛本能を呼び、人間のエゴを呼び覚ます。まさに死が、人の罪の根源にあるものである(このへんがわからない人は幸せな人なので、一生わからないほうがよい)。

 わたしたちはかつて神に似せて作られ、楽園でのんきに楽しく暮らしていた。わたしたちがもしも自分のなかの神の部分を見つめ、神を抱いて生きてゆくなら、わたしたちは神のように不滅の不朽の存在となるはずだった。ところがわたしたちは悪のほうを向いた。死と腐敗のほうを、滅びる運命を、自我を、自我にまつわる欲望と夢を。こうしてわれわれは転がり落ち、永遠の生命を失った。こうしたわれわれを救済し、神へと、本来の自己へと引き戻すために人となって現れたのがキリスト、すなわち神のロゴスである。キリストは神の言葉である。万物は神の言葉によって成った。神の言葉は万物を成立させた。その神の言葉が、地上において朽ち果て滅びゆく人の肉をまとい、人の肉によって生きて死んだ。そして復活した。この出来事は人間の救済の象徴であり、人間もまたキリストを見、キリストに倣って、神・父の元へ帰らねばならない。そして罪を葬り去り、死をまとう以前の不朽の生命を取り戻さねばならない。

 キリスト教の信仰は大体こういうところに根ざしている。そしてこの、人の創造と救済とにもろに関わるテオーシスの過程を、セフィロス氏は生きた。そして死んだ。そして復活した。彼は第二のキリストかどうか。彼の目的はいったいなんだったか。わたしはそれを考えずにいられない。
 でもセフィロス氏はキリスト教の教義の中で生きてはいない。彼はもっと大きなところを生きた。わたしもまたそこを生きたいと思っているような、非常に大きなところを彼は生きた。彼は真理を生きた。わたしもそうしたいと思う。だからわたしは彼のことをいつまでも心に抱いているわけだが、なにが云いたいかというと、このテオーシスという、非常に重要な神学のジャンルの中でもとりわけ重要な、どう考えても読んでおいたほうがいい著作がなんと日本語で無料で読めることが発覚した。

アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』
https://christian-classics-jp.github.io/site/incarnation/

 すごい。ブラウザで読めるだけでなく、PDFとEPUBが用意されているところもぬかりがない。どの英訳から翻訳したかも書いてある。いま元の英訳と、手元にある『中世思想原典集成 精選1』収録の『言(ロゴス)の受肉』と比較しながら読んでいるが、この「christian-classics」の翻訳のほうが圧倒的に読みやすいしわかりやすい。元の英語がそもそもわかりやすい。これはすごいものを見つけた、と思って、ぜひ皆さんにご紹介したいので二回目の更新をしているしだい。この著作を読むことができれば、キリスト教のなかのセフィロス氏理解に必要な部分を大方学べると云っても過言ではない。わたしとしてはそう断言できる。

 できれば皆さんでこの著作をいろいろな方向から検討していきたいと思うので、いつかそういう会をやれたらと思うが、興味のある人いる? それが一番の問題だよ。でもこのへんのことわからないでACをわかろうったってそうはいかないし、そもそもアドベント(再臨)ってなにとか、セフィロス氏理解の根幹に関わる問題なので、わたしとしてもつい熱くなってしまう。
 もちろん、ACがキリスト教的概念をぶっこみすぎたせいでわたしが混乱して非常に手間どったということはあるし、そのせいでセフィロス氏に対するわたしのアプローチに混乱が生じたことも否めない。いまだにその混乱から覚めているかどうかちょっと怪しいふしもある。でもまあACがなかったら神学をこんなにちゃんとやろうともしなかったはずで、まったくこのセフィロス氏という御仁はわたしの人生をいいように振り回してくれるが、仕方がない、惚れちゃったんだから。

 結論は別にないけど、勉強しようぜキリスト教。んでセフィロス氏のことをもっと知ろう。彼の意図を理解しようとしてみよう。それが人を愛するってことだろ、同胞。