普遍的な対立

 連日の投稿になるが、ツイッターのフォロワーさんがとある投稿をしたことにより、遅ればせながらFF7がどうしてこんなことになっているのか、問題の根源がなんであるかに気がついた。

 これまで少しもこの可能性に思い至らなかったとはうかつだが、こんなことは本来CCをプレイしていたときに気がついているべきであった。自分がいかに鈍い人間であるかをよくよく心にとどめつつ、考えが飛んでゆかないうちに、少しまとめておく。

 野村氏がザックスを推しているらしいことは最近知ったのだが、そういえばCCはザックスが主人公で、あのCCの世界の独特のノリというか陽性な感じを、わたしはザックスという人格から来るものだろうと思っていた。

 実際、CCをプレイしたあとに書いたこの記事にわたしはこう書いている。

これはザックスの話で、ザックスのような現実的な男が世界を見るとき、それはクラウドが世界を見るのとはまるで違ってしまう。わたしはクラウドのした/している冒険のことはとてもよくわかる。でもザックスのような男がものごとをどう見ていて、どう感じているのか、わたしには正直確信が持てないし、それはわたしがものを経験する次元と決定的に異なっていて、たぶん、解釈や内在化のようなものを含まない。彼は物語をつくらない、創る必要がないからだ。彼は創造的な人種ではない、少なくとも、クラウドが自己を物語として語り直さねばならない人間であるようには物語を必要としない。彼の世界に文学という内的経験の層はない。ゆえにわたしはザックスがなにを経験したのか、理解できない。ザックスの視点を通しては、わたしにはセフィロスもジェネシスもアンジールも、どういう人間なのかさっぱりわからなかった。彼は解釈しない。ただそのままに放っておくのだ。彼は考えない。現実はただ現実であり、起きたことは起きたままにされ、ゆえに彼の生とは単に回想にすぎない。そういう意味だと思った、あのDMW? だっけ? というシステムを見ていてそう思った。クラウドにはすべての出来事と行動に内的必然性があり現実とは別に彼の内的経験の世界がある。そしてその内的経験の世界が彼の世界を構成しているが、ザックスはそうでないのだ。

 これが結局答えなのだが、要するに、クラウド・ストライフというごくごく内向的な人間を主人公にした内向的な物語が、その対極に位置するザックス・フェアを中心とした外向的な物語になってしまったとき、否、書き換えられようとしているとき、と云ったほうがいいかもしれない、そのときに起こる対立が、この場合にも起きているということである。

 どういうことか。性格というか特性というか人間的なタイプとしての内向と外向の話をここでいまさらくり返そうとは思わないが、いま現在FF7の一部の界隈をめぐって起きていることは、要するに有史以前からあるこの外向タイプと内向タイプの対立という問題に帰着するように思われる。古くはたぶんプラトンとアリストテレスあたりにまで簡単に遡ることができそうだが、観念的人間と現実的人間の対立、自己の内部をめぐって生きている人間と外部に向かって生きる人間との根深い対立、これが問題の根にあるようだ。

 この対立がどういうものかわからない人は、クラウド・ストライフがどういう人間で、ザックス・フェアがどういう人間かほんの少し立ち止まって考えてみるとよい。クラウド・ストライフがFF7の主人公であるのはなぜか。あれは彼の物語だからであり、彼が非常に内向的な人間だからである。あの物語は彼の自我のために、彼の内部で行われた非常に神話的な冒険であった。強烈な自意識を持つ人間が、非常に混乱したゆるい自我しか持たない場合、それはたいへん悲劇的なことだと思うが、その悲劇があの物語を生んだと云ってよい。その悲劇から自己を回復するため、あるいは自己を獲得するために、ただそのためだけに、彼はあのような冒険を必要とした。

 自我は自己のなかの英雄である。それは神話に出てくる英雄と同じように、試練を受け、冒険し、強くなって帰ってくる。日本神話で行けばスサノオがどういう冒険をしたか見てゆけば、自我がどのような冒険をして、なにを勝ち取ってこなければならないか理解できるだろう。クラウド・ストライフという内向的な人間の自我は、外へ向かって出てゆく前に、まずはこのように非常な危険に満ちた自我の冒険を必要とした。それをやりきることでしか、彼は自己というものを確立し得なかったし、自己でない外部との境界を定め得なかったし、外部とはなにかを規定することもできなかった。

 彼にどうしようもなく漂うもろさは、ただただひとえに彼の自我のもろさに起因している。彼は外部からの影響を非常に受けやすく、そして外部から影響を受けることに弱い。これは河合隼雄が出した例えだったと思うが、いまあやふやな記憶から引き出してくるけれども、外向的な人間は、散歩していて水たまりに足をつっこんで転んでも、比較的あっけらかんとしていられる。そこに羞恥や複雑な感情の動きや自己嫌悪や自己反省のようなものはあまり伴わない。
 ところが、内向的な人種には、散歩していて転んだというただそのことが、もうかなりの一大事である。その人は自己を恥じ、自己の行為を恥じ、自己の軽率さ、愚かさ、見通しのなさ、不注意、うっかり、その他ありとあらゆるものを恥じて呪い、自己を呪い出す。これは決して大げさな表現ではない。ただ転んだだけではないかと人は云う。転んだのは、それはたしかに少々不注意だったかもしれないが、別にそんなことで人生終わりはしないし、たとえ誰かが見ていたとしたって、その人ももう明日になれば忘れている。そううじうじと考え恥じるに及ばないではないか。

 これはその通りであるが、しかし散歩中に転ぶなる実に些細な現実の一事でもって、このような自己反省を伴わずにおれないのがわれわれなのである。われわれの目は常に自己の内部に向かっている。つまり、おのれの感情や感じや感覚や内的世界に向かっている。これが外に向いている人は、散歩していて転んだとき自分の中でなにが起きているかなどいちいち感じはしないし、そんなことどうでもいいのだろう。彼は転んだという事実をただ認め、それでおしまいである。あるいはこんなところで二度と転ばぬためにどうしたらいいかなどと、現実的な問題に対処することを考えるのだろう。

 これはしかし、ずいぶん違った人種であり、ずいぶん違った考え方をする人たちである。外向の世界に生きている人は、内向の世界に生きている人たちのことがよく理解できないだろう。われわれ内向の人たちはしかし、あなたたち外向の人たちがしたことを考え、感じ、それを受け止めて生きているのである。というより、そうやってひとつずつものごとを咀嚼し自己の中に落とし込まなければ生きていられないのがわれわれなのだ。

 ここでザックス・フェアの話に戻る。彼は確かに外向的人種である。彼に深刻な自己反省だの省察だのといったことはおよそ望めそうにないし、彼がそんなことをはじめたらザックスはザックスでなくなってしまう。ザックス・フェア氏はザックス・フェア氏でよい。いつまでも永久につきることのない、不滅の太陽のごときザックス・フェア氏であってくれればよい。だが思えば彼のような男にクラウド・ストライフが影響を受けたというのも、これもまた宿命的なことであり、ある意味約束されたことであり、クラウド・ストライフにとって当然くぐりぬけねばならないひとつの通過儀礼であった。

 外向的な人間は、おそらく内向的な人間よりは現実社会への適応に困難を感じないに違いない。この世は事実彼らのものである。彼らは文学とは無縁だし、詩とも無縁だ。彼らは自己の感情をもてあましたり自己自身とはなにかを問うようなことには縁がないだろう。それらはすでにここにある、非常に自明なものだからである。彼らは日向を生きる。この世をただこの世として謳歌する。めいっぱい太陽を浴び、思いきり空気を吸って、おのれの足が地面の上に乗っていることを、そしてその足でいま歩くのを謳歌するだろう。だがわれわれはその足がそこにあること、それがおのれのものであることや、ほんとうにそれを自分が持っていいのかというようなことに絶えず疑いを抱いているものだから、難なく足で歩けるその人たちを見て驚愕し、自分はなぜこんなつまらないことすらまともにできないのかと劣等感を抱く。

 われわれにとって、日向のあなたは自己を確立するためにどうしても必要な痛みの中の一部である。この劣等感をある日抜け出して、世界がはじめ自分が思ったようなものでないことを、自己は自己以外のなにものにもなることができず、ただ自分と人とは違うだけだということを、われわれは多くの年月を費やし、多くの痛みをともないながら学ぶ。われわれはそもそも自己をすんなり肯定することができないからして、勢いその人生のはじめは自己を懸命に否定してかかろうとする。だが否定しようがザックスになろうと努力しようがおのれはおのれのままである。人は別の人にはなれない。ザックスにはザックスのよさが、クラウドにはクラウドのよさがある。そのようなことを、われわれは通過儀礼的にザックスのような人間を通じて学んでゆく。

 ところが、ザックス・フェアはそういうことをこんな形では学ばないし、ひょっとするとクラウド・ストライフのような人間がうざくて仕方ないということになる。ザックスはもちろんそういう人間ではないが、われわれにとって彼らが光であるとすれば、彼らにとってわれわれは闇なのである。闇とまともに対峙したい人間はあまり多くない。それはわれわれにとっては比較的簡単なことだが、彼らにとってはおそらくそうではないのだ。

 ここまで書けば、だいたい結論が見えてくるだろう。ザックス・フェアを愛する人間にとって、クラウド・ストライフは必ずしも好ましい存在ではない。そしてそれはわれわれにとってよくわかるし、そんなことはいまさら云われるまでもない。われわれがあなたたちに憧憬を抱くようには、あなたたちはわれわれに憧れはしない。そんなことはわかりきっている。
 そのわかりきっていることが、FF7にもどうやら起きているらしい。FF7がザックスの物語になるとき、クラウド・ストライフのような人間があの物語から駆逐されるとき、なにが起きるか? それはわたしにはわからないし、別にわかる必要もない。わたしはザックスのこともクラウドのこともわかるが、ザックスのことが非常によくわかる、彼に感情移入しがちな人間は、わたしがザックスをわかるようにはクラウドをわからないに違いない。

 この非対称性はいまにはじまったことではない。こんなことは昔からずっとくり返されてきたことであり、人間の世界がわれわれに冷淡であることはいまにはじまったことではない。もしも誰かがFF7からクラウドを消し去りたいならそうしても別によい。そんなことをしてもクラウド・ストライフは死なないからである。ニブル山の事件が象徴しているように、彼は普通の人が死にそうなときには決して死なない。圧力を感じれば感じるほど彼の自意識は強くなり、自我は強化される。われわれは有史以来何千年もそういう状況で生きてきた。そしてそこから歌が生まれ、詩が生まれ、踊りが生まれ、言葉が生まれた。それらはわれわれとともにある。だからわれわれは少しも寂しいことはないし、心細くもない。クラウド・ストライフを消し去っても、退屈で魅力のない世界が消えるわけではない。退屈で魅力のない世界を見なければならないあなたが死なないかぎり、それはなくなりはしないのだ。

 なお、ここまで一気に書いた段階で、野村氏が自分は悪役だと自覚しているらしい旨の記事を読み、微笑んだことである。この世でなにかをなす人はわれわれのような人でもあり、こういう人でもあるのだ。一周回ればわれわれは友だちになれるのだが、向こうはそんなこと思いもよらないのかもしれない。