寂滅の境地へ

 最近7関係の新しいなにかが出ていることは承知しているが、どういうなにが出ているのかまったく知らないままでいる。
 こんなところまで読んでいる人は、わたしがインターナショナル版よりあとに出たものを基本的に無視している人だということを知っているはずだが、なんだか少し書きたくなったのでこのへんのことを改めて書いておく。

 いま新しい7のなにかから、わたしのところまで来る人がいるとはあまり思えないので、ほんとうならこんなことは別に書く必要がないような気もするのだが、しかしわたしが最近の新しい情報をまるで無視していることを一度も書かないのも変だという気もする。新しいなにかが出たのに、ジャンルにいる人間が黙っているなどということが別にあってもいいが、一応ジャンルにいる人間としての立ち位置の表明のようなものは、その都度必要になるような気もする。

 そもそもなぜこんな難しい問題に頭を絞らねばならないかというと、それはもちろんFF7というゲームが大きくなりすぎたためだが、こんなに大きくなりすぎてもう自分の手に負えないから撤退すると宣言できるほどのつきあいなら、そもそもこんなに頭を絞ったりしていないはずである。最近のわがツイッターは、見ている方はお気づきのようにポケモンスリープでほぼ埋まっているが、それはもちろんわたしがこのゲームにはまっていて、日々編成画面やポケモンボックスを眺めながら誰をどう育成するか頭を絞っていることがあるわけだが、ツイッターというのは無数の使い方があって、自分が見たい情報を取捨選択できるのだということに、遅ればせながら最近気がついた。

 最近のわたしはポケモンスリープの情報しか検索していない。もともとツイッターで情報を検索するという習慣がなかったのだが、いま話題のいわゆる旬のゲームにはまると、ツイッターにいろんな情報がどんどん流れてきて、ユーチューブにもいろんな動画がどんどん上がること、この流れるような情報の多さ、参加している人数の多さを感じるというのはわたしにはなかなか珍しい体験なので、いまそれを楽しんでいるわけだが、一方でFF7関連の情報は一切入ってこないし、見ない。公式関連のアカウントをみんなブロックしているからである。

 このブロックという機能をこんなふうに使う芸当も、実に最近知ったことである。正直に云って、新しいFF7のなにかには少しも興味がなく、しかしほんとうに興味がなく無関心であるなら、見ても見なくてもなんの反応も示さないはずであるが、そこはわが弱きひとりの人間の悲しい性である。見てしまった以上なにか反応を示さずにいないので、しかしその反応を示す時間すら無駄に思えるわたくしであるから、そんな時間を作るのはいやである。よって、誰がなにをリツイートしようが目に入らぬように、リツイートされた公式アカウントや関連するアカウントをその都度片っ端からブロックしている。
 おかげさまで、新しいなにかやリメイクの情報はわたしのツイッター上に少しも流れない。たまにおすすめやらなにかで見ることはあるが、そんなものは目が素通りするくらいには修行を積んだ。

 いまなにげなく修行という言葉を選んだが、この言葉の選択には思いがけなく深い含蓄があるように見える。というのも、ツイッター上でわたしがフォローしたりされたりしている人は、FF7関連の人がほとんどであるから、ツイッターのシステム上わたしも自動的にFF7関連に興味がある人種のひとりに数えられることになる。そうすると、ツイッターはかなり必死で、頻繁に、FF7関連のおすすめアカウントやらなにやらいろいろを提示してくる。このへんがつまりAIやビッグデータ的なものの限界なのだろうが、それらのおすすめはわたしにとって少しもおすすめなものでない。FF7といったって長い歴史があるのだから、その歴史上のどこに自分の軸をおいているかということをわたしはツイッターに学習させたいように思うが、いまのところそんな手段はないし、そんな学習を必要とするようなユーザーもおそらく少数派だろう。

 つまりわたしはツイッター上FF7仲間みたいな扱いになっているえせFF7仲間であって、これはすごく例えが悪いとは思うがセフィクラの人ばかりおすすめされるクラセフィの人みたいな状態になっている。いま笑った方はしかし一度立ち止まって考えてみてほしいのだが、最近ではリバOKという人が昔よりよほど多いだろうから、そんなんどっちでもいいじゃんという人が多数派を占めるようになると、ある日あなたのおすすめに逆カプが平気で出てくる世界がこの世に顕現するのである。ツイッターはピクシブではない。そもそも前提としているユーザーやシステム設計がまったく違うはずである。人間の非常にセンシティブでやっかいなこだわりに配慮などしてくれるはずがない。

 上記のようなことを踏まえて、それでもツイッターを使うなら、それはもう修行という領域に限りなく近づく。新作絶対反対即ブロックみたいな姿勢を貫いたとしても、必ずその間隙を縫って現れるなにものかがある。それも排除しようと思ったら、しかしそれはもう生きるのをやめるといっているに等しいかもしれない。自分にとって不愉快なノイズのない世界などこの世にないからである。絶えざる努力によってそれを減らすことのできる方法はある。しかしそれにもまたおのずから限界がある。そこまでわかったとき、人はどうするか。寂滅の境地へ向かうことを決意するのはそのときである。

 誤解しないでほしいが、寂滅の境地とは無ではない。それはなにものも存在しない世界を目指すことではない。ノイズに反応しない練習を積んで(そんなことができればだが)、ついにノイズに反応しなくなる世界のことでもない。寂滅の境地とは、もっとなにか大らかな世界のことだ。最近やっとこのことがわかってきた。よし地上におけるわたしは新作絶対反対即ブロックみたいな人間であるかもしれない。しかしその新作絶対反対即ブロックみたいな人間は、骨の髄までその怒りに凝り固まっているのかというと、別にそういうわけでもない。新作絶対反対即ブロックはわたしの基本姿勢ではあるのだが、その絶対反対のわたしが、絶対反対でないわたしを包括していて、かつ新作大歓迎リメイク大好きみたいな人のいる世界を許容し(あるいは放置し、でもいいか)、それに飲まれつつ飲まれるわけでなく、引きずられつつ引きずられるわけでもなく、それによって情緒がぐちゃぐちゃになりつつもその奥のわたしは静かに笑っているような、そういう状態のことである。

 人は情緒がぐちゃぐちゃになってよく、なにかの猛烈なアンチになってもよい。それはあなたの大切な権利である。それこそがあなたがあなただということの証である。この証すら立てられない人間が、寂滅だの涅槃だのいいはじめても気にしないでよい。それは体のいい逃げだからである。人は人である以上、なにかに自分を預けたり賭けたり足下をすくわれたりしなければならぬ。人であるということはそういうことであり、それが人の証である。そしてそこからなお一歩先へ進もうというなら……ぐちゃぐちゃになるのに疲れたのか、怒れる自分に疲れたのか、自分がいつの間にか偏狭で偏屈で凝り固まった人間になってしまった気がして耐えられなくなったのか、それは知らないが……その対立と怒りとむなしさとの先へ行こうとするなら、その方法もまた確かにある。

 その道を示すことはわたしにはできない。それはひとりびとりが個別に自分の運命に導かれて、その人独自の方法で理解するものだからである。いまわたしは、新作絶対反対即ブロック人間でありながら、同時に新作絶対反対即ブロック人間ではない。やっていることは確かに新作絶対反対即ブロック人間なのだが、同時にそうではないのだ。

 こんなことまで理解させてくれるのだから、FF7というやつはたいしたものである。いったいこいつはわたしの運命にどういう作用をして、どういう宿命によって、わたしにこんなにいろんなことを教えるのであろう。たぶん、神になろうとしたセフィロス氏が、神になろうとするわたしにそれを教えてくれるのであろう。