連休の成果

 というほどのものでもないが、ここ数日なんだかやけに絵を描くので、個人的な展望としては絵を真面目に描く予定など少しもなく、その領域には手を出さないで一生を終える気がするとか思っていたのだが、どっこいわたしの遺伝子のなかにおわす画伯がそうはさせてくれないようである。

 わたしから数えて四代前に狩野派の雅号をもつ画伯がいた。その人の手習いの本なんかがうちに残っているのだが、そういうご先祖がいるということはわが血の中に多少の絵描きの気のようなものがあるのか知らない。祖父も絵を描く人だった。わたしはというと、前にも書いたが絵を描くことからは高校以来すっかり遠ざかってしまっていた。
 もっとも、見るほうならかなり好きだ。好きだというか、絵を見ていると画家の気持ちがなんとなくわかる気がする。本を読んでいて書き手の気持ちがわかるというのと一緒である。その人がなにに力を入れているのか、これを書きながらこの人はなにを考えたか。そういうことがすなわち作者と自分との(大いに空想上の)対話なわけだが、この対話が成立することがすなわち真実に絵を観る、あるいは小説を読むということだとわたしは信じるわけで、ときに小説家の気持ちなどより画家の気持ちのほうが自分に近しいもののように感じられることもある。ゴッホは特にそうだ。わたしは彼の魂に親しみを感じる。とはいえ、実際に会ったとしたら二分で逃げ出すような気がしないでもないのだけど。

 話がずれたが、今日試みにがさがさ描いていて、なんとなくセフィロス氏でも描いてみようかと思った。ここ数日、わたしは自分のなかのいくつかの人格を描き出すのに時間を費やしていて、それはすなわちそうしたものをわたしが絵というものを通じて表現できるようになったという、自己精神の探求においては記念碑的な出来事なわけだが、そんなことはおいといて、なんだかセフィロス氏っぽいものができたのである。こんなやつだ。

 これはいかにも硬質というか硬直というか固いというか下手くそというかで客観的に見れば云いたいことはいろいろある気もするが、ようやくこれくらいの氏が描けるようになったのだなあと思って、なんだか感慨深かった。4Bだの5Bだのいう法外な濃さの鉛筆を駆使して荒々しい画用紙に描いた絵をスマホひとつでデジタル画像としてとりこめるようになったという、これもまた便利な世の中になったものである。

 これを描きながら、なぜかガンダーラ美術における仏像を思い出していた。たとえばこんなもの。

 セフィロス氏にはどうしても東洋らしいものを感じる。西方と東方の出会いから生まれたこの美しい美術様式に、なんとなく彼のことを感じるのは当然のことであるかもしれない。そして自分自身がそこから多大な影響を受けていて、仏像にひとつの理想を見出している、ということもまた。