今後の運営方針について

 2023年になりましたが今年もよろしくお願いいたします。
 年初に今年の、というか今後の運営方針について書いておく。

 今後書く作品については、基本的に長編はオフライン発行の形をとろうと思っている。
 まずは手はじめに、近日中に『北の果てへの巡礼』を現物の本にしようと思っていて、たぶん170ページくらいのB6の本になるはずだ。詳細はまた後日別のページに。

 これまでかたくなに本を作ることを拒否していたが、こないだちょっと思いつきで本を作ってみて、これもまあそんなに悪くないではないかと思ったことがあった。わたしはデータ至上主義デジタル万能主義みたいなところがあるので、テキストだってしょせんはデータだし、データをデータとして販売するのが最も効率的であり無駄な金も時間もかからないで大変よいと思っていた。いまだってほんとはそう思っている。

 でも、まあいろいろあって結局データは現物の本にかなわないということがわかった。わがデジタル主義は破れたのだ。これが破れたということは、現実にいま生きているこの肉体的自己なるものとわたしなる意識との関係に少なからぬ変革を迫るものであり、こいつはわたしにとっては非常に苦しいのではあるが、そんなことは措いといて、本を作る作り方もなんとなくわかったので、今後は長編(目安として百枚を超えてくるくらい)はたぶん本で出すだろう。本を出すにあたっては、通販手段としてBOOTHを利用し、あんしんBOOTHパックを利用しようと思っている。お互いに匿名でやりとりできるあれである。
 とはいえわたしのことだから、なんで自分でできるのにわざわざ別のシステムを介さなくてはいけないんだとか思わないでもないのだ。外部サイトないし広告の入っているページに自分の情報が載るのがわたしはほんとに嫌いである。でも通販をする側からしたら、というかわたしからしたってそうだが、お互いの個人情報などできればやりとりしないで本を送ったり送られたりしたほうがいい。こうしたことは個人ではほぼ不可能なので、既存のシステムを利用させてもらうことにする。

 昔はあちこちのサイトで自家通販にお目にかかったものだが、時代は変わるものである。自分の美意識的なところからいけば、将来的には自分の会社の名前のもとにすべてのサービスを統一したいような気持ちがある。とはいえおのれの会社の従業員というのはおのれだけなんで、結局わたしが全部やることになるわけだが、こういう一貫性への飽くなきこだわり、よい言葉でいえばブランディングへの執拗な執念は、わたしの長所であり致命的な短所でもある。
 このサイトもまだ完成形ではないし、結局わたしは自分の手でいちからなにかを作り上げなければ、やはりなにかを作ったという気には到底なれない。それは責任の問題でもある。すなわち、わたしは自分がすべてをやることによってはじめて自分で責任がもてるという安心感を得ることができるわけだ。
 ワードプレスから降りたのは主にこうした理由による。あれを運営するには、HTMLやCSSに加えてPHPやSQLなどに関する知識が求められるわけだが、わたしはサイト運営においてこうした新しい知識を学ぶには、自分が古すぎる人間だということ……あるいは保守的に過ぎる人間だということ……を学んだだけで終わった。同時に、そういう宙ぶらりんで他人の技術におんぶに抱っこである状態が、自分にはひどく不愉快で耐えがたいものであるということも学んだ。

 この耐えがたさが、狂気と紙一重のわが強烈な責任感をわたしに思い出させたのである。
 思えばわたしたちは、あんまり自分の知らないものに囲まれすぎている。その意味で、責任のとれないものに囲まれすぎている。そうしたものごとの責任をちゃんととってくれる人が別にいればいいのだが、現代の科学技術はあまりに分野が細分化しているために、全体をちゃんと見渡すことができ、すべてを理解して責任がとれるというような人間を生むのは至難の業である。
 こうしたことは非常に歯がゆく、もどかしいことに違いない。Wi-Fiがつながらないのはどうしてかとか、なんだかスマホの具合が悪いのだがどうしてかとかいったことが、誰に訊いてもほんとのところよくわからない。わたしはこないだ自宅のテレビの不具合から、Wi-Fiの仕様とAmazon Prime Videoの仕様に関する致命的な問題を発見したが、こうしたことは、アマゾンのカスタマーセンターの人に訊いてもわからなかったし、Wi-Fiの機器を提供している人に訊いてもわからなかった。教えてくれたのは、種々のガジェットに関するブログを運営している、どちらの企業にも全然関係のない人であった。

 現代に生きるわたしたちの無力感ややりきれなさ、いらいらは、多くこのようなところに由来しているに違いない。細部についてはよくわかっていても、全体がどう動くかということを誰もほんとうにはわからない。あるいは、動かすことはできるが、それがなぜなのかが誰にもわからない。
 このような状況がわたしたちを必要以上に逆上あるいは萎縮させ、必要以上に責任をとることにおびえるようにさせてしまうのだ。だって、この目の前にあるスマートフォンに関して、ほんとの意味での責任を誰がとれるというのだろう。機器を開発している人と本体で動くシステムを開発している人、アプリを開発している人はみんな別の人だし、Wi-Fiを運用している会社、Wi-Fi機器を製造している会社、充電器を売っている会社とそれを製造している会社、こんなにそれぞれみんな異なっているのでは、どこのなにが悪いのか突きとめるだけでも、理論上は天文学的な数の可能性があるわけだ。

 こんな社会に生きてると、わたしはときどき気が遠くなる。そして空恐ろしいような気がしてくる。それで、せめてわたしの聖域だけはなにがなんでもわたしが全責任を負えるようにしておきたいと思うのだ。それを守りたいように思うのだ。すなわち、いまこの場がそうであるように、わたしのあらわれる世界、わたしの表現するこの世界においては、わたしは少なくとも技術的には自分がすべて責任を負えるような状況を確保しておきたいと思う。これは狭量な考え方であり、かなり閉じた考え方である。すべての人がこのように考えていたら、世界に広がりはないし、人的交流も生まれない。
 だがわたしはそういうことを云いたいのではない。自分が好んで責任を負えるような領域というものが、人には少なくともひとつは必要なのだろう。それがウェブサイトの構築なのか、小説なのか、そのほかなんであれ、人には健全な、しかし同時に愚かしい自尊心の保持のために、なにかひとつはそうしたものが、これは全部自分で作ったんだ、だから仕組みから組みたてまで全部知っているよ、というものが、どうしても必要であるに違いない。

 しかし小説に関しては、わたしはおそらくこれをやりすぎたのである。ここがこの世界の、そして人間の難しいところだが、なにかを握りしめすぎれば、あるいは握りしめるポイントを間違えば、それは破滅へつながる。だが握りしめることをまったく放棄すると、それもそれでまた破壊的な影響を及ぼすことになる。
 ウェブサイトを自分の手で作り、だからこそ責任を全うすることができるといって誇ることと、小説を書き、これは自分が書いたのであるから自分の責任において万全の管理をしていますといって得意になっていることとは、一見同じことに見えるのだが実は全然違っている。ウェブサイトと小説とが、はなから性質を異にするものであり、本質的に異なる次元のものだからである。
 この違いを理解するまでに、わたしは20年以上かかっている。おそろしいことである。気がついてよかったような気もするが、遅すぎたような気もする。こんなことを、わたしはあなたに理解しろと云うつもりはない。理解というのはなにごとも、ひとりびとりの頭脳に対して異なる要求をするものだ。わたしに要求されたことがあなたに要求されているわけではない。あなたに要求されたことが、わたしに要求されているわけでもないのだ。

 そしてわたしはわたしの理解に則って世を進む。愚かしく、愚直に、のろのろと、負け犬のように、しかし奇妙に英雄じみてわたしは進む。あなたの歩みもそうであるに違いない。わたしはひたすらサイトでデータを扱ってきたこれまでのやり方から、少し別のやり方へ移行してみる。わたしの小説が本になる! なにやらおそろしいことだ。ほとんど不気味な、吐き気を催すようなことだ。これはわたしにとってほんとうに大きな挑戦なのである。だって、本を作ったら、そのうち同人誌の古本屋(?)みたいなところに売られるかもしれない。それは本を捨てられるより数億倍ひどい苦痛をわたしにもたらすに違いない。皆さんはどうか、後生だから、わたしの本が不要になったら捨ててください! そしてこんな些細なことにこんなに感情的になっている人間に、神が分別と勇気とを授けてくださるように祈ってほしい。

 もうおわかりになったろう。わたしを支配しているものが一種の支配欲であり、自己の客体化ないし客体の分離への病的な不安であることを。これを乗り越えないことには、この世でほんとうの意味で生きてゆくのは難しい。遅まきながら、生まれて40年もたって、わたしはこのことに気がついた。だが、ああ! これはなんという厳しい、危険な冒険であることか! クラウド・ストライフがどんな冒険に乗り出す羽目になったのか、わたしはいまこそわかったような気がする。

 などと書いてきたが、別に皆さんはこんなことにつきあう義務などなにもないのである。ところがなぜか不思議なことに、これは真実にこの世においてもっとも不思議なことのひとつだが、わたしの七転八倒をあわれんでつきあってくれる人がおり、その人たちはわたしが貴様らの意見などいらぬから黙っておれと云えば微笑んで口を閉じており、サイトを会員制にするといえば嫌がらずに登録してくれ、作品をデータでしか売らないといえばデータを買ってくれるのである。
 いったいあなたたちは何者であろう、とわたしはいつも思っている。おそらくあなた方は、地上における天使であるに違いない。わたしはウジだがあなた方は光り輝く天の御使いであるのに違いないのだ。神があなた方を雲間から使わすので、わたしはたぶんときどきは、ねぐらである暗くじめじめして腐った寝床から、かろうじて一条の光を見るのに違いない。どうもありがとう。わたしがどれほどあなた方に感謝していることか、とても言葉で云えない。それなら態度に出せと思われるだろうことはわかっている。でもね、皆さん、わたしがどうやって感謝を返すかといったら、やはりそれは作品においてしかないのですよ。そのために、それに没頭するために、わたしは人づきあいを絶ち、余計なことを一切しないように気を配って、おのれの作品を生むものの中に没頭しているのです。これが傲慢だといったら傲慢だ。わたしが傲慢な人格破綻者の一員であることは、云われるまでもなくわかっている。これはわたしのまた別の本質からして非常に苦しいことであるが、だがこの領域での傲慢を手放したわたしなどもはやなにも書けなくなるだろうとも思っている。
 評価は社会的なものだ。しかしわたし個人、究極に個的な内的な意味でのわたし個人の人生は、社会などというものの評価を受けつけない、まったく別の次元のなにものかだ。それはあなたの人生も同じである。それに正直でなければならない。そして自己の認識における主体と客体とを、われとなんじとを、それがどれだけかけ離れていても、なるたけ一致させるように努力することだ。そして社会へ出てゆくほうの自己の客体については……それを巣立った子どもと思って、放っておくことだ!

 これが今年のわが冒険のテーマである。わたしが現物の本を作ることは、そのための手段のひとつである。その手段が、なんらかの意味で皆さんにとっても有益なものになってくれればいいと思う。少しもそうはならないかもしれないが。