旧サイトの作文をひとつあげておきました|あと最近考えてることと近況

 マスダです。
 昔書いたものを再確認する作業を定期的にやっておこうかなと思いますね。面白いですね。わたしぜんぜん変わってないことわかるよ。進歩ってなんだ? そんなものはない。

 今回あげたのは、ある映画ですが、まあこれ、実は書き直したいんですよね。読んでて思いました。
 書き直したいものが、結構あるんですよ。この話もそうだし、forgivenessもそうだな。いま書いたら、どんな感じになるかなと読みながら考える。わたしのセフィロスさんとクラウドさんが変わったとはあまり思えないが、書き方は変えることができる気がする。もう少しつっこんでかけそうな気がする。でもつっこむと、よさがひとつ失われるのではとも思うのだが……。

 小説って生きてるんですよね。その当時の自分が生きていた時間を、生を生きている。よく原体験なんてことを云いますが、人間って、未来を考えようとするとき過去に戻りますよね。過去の幸福な瞬間だったり、過去の美しい体験だったりへ、戻ろうとする。またあれを体験しようとする。そのために動こうとする。未来を作るものは過去なんですね。未来は過去に先導されている、といおうか、人は不安やどうしたらいいかわからない状態に追いやられると、過去をふりかえる。そして過去のなかから答えを見つけようとする。そして答えはそこにちゃんとある。

 ちょっと関係ない話に聞こえるかもしれないが関係あるから我慢して聞いておくれ。
 昔、カウンセリングなど受けていたとき、自分の原風景はどんなものか聞かれたことがあります。ちょうど、前のサイトをやっていたころよ、それこそ。そのときはわからなかったが、ついこのあいだ思い出しました。これだな、と思ったものが出てきました。
 わたしはど田舎の、雪深いところの生まれで、防雪用の杉の木が家の裏にずらっと植えてあったのですが、わたしはその杉の木と会話をしておりました。わたしたちは友だちなのでね。青ぐらい暮れどきでした。雪がつもっていた。わたしは木の根元に座っていて、自分をとり囲んでいる自然とひとつになっていた。雪や、木々の向こうに見える山並みや、用水路を流れる水や、じっと我慢して立っている庭の梅の木や、雪の下にしずんでいる庭の置き石や、そうしたものとわかたれずにわたしはひとつになって、呼吸し、感情をわかちあっていた。わたしたちはすべての美しいものを一緒に見て、一緒に感じていた。わたしはまだ、なにものとも分離していなかった。分離の痛みを、悲しみをわたしはまだ知らなかった。その忍び寄る足音だけを聞いていた。雪の上についた自分の足跡を見ながら。

 こういう幸福な子ども時代は、ルソーが『エミール』のなかで理想としているものです。エミールの家庭教師であるジャン・ジャックは、小さなエミールに、決して書物を読ませようとしない。ものを学ばせるかわりに、エミールを自然のなかへ連れて行く。そしてそのなかでたくさんのことを体験させる。それはとても尊い体験です。自然が自分の友だちであり、自分は自然そのものだということを知らない人間ほど不幸なものはない。自然になぐさめてもらい、遊んでもらい、ともに涙し、笑ったことのない者は不幸だ。これほどまでに自分を受け入れてくれる存在が身近にあることを知らないで、人間だけを見て絶望することほど不幸なことはない。わたしは心からそう思います。

 なにが云いたいのかというと、この原体験、あるいは原風景は、わたしを決定的に、すでに決定してしまっていたということです。雪深い修道院で、静かな青ぐらい夜明けを前にして、神に両手両足を投げ出せたら、わたしはもう死んでもいいほど幸せだろうよ。しずかで、深く、瞑想的な空気、杉やブナの木立ち、そしてまばゆい日の出と生命の目覚め。そういうイメージを、わたしはもうすでに書いていたね、八年も前に、7の小説のなかで。不思議なことですよこれは。自分が認識する前から、わたしがどういう原体験をもっているやつなのかは、書いたもののなかにあらわれていた。わたしはそれをなぞっているのね。思いだしている。導かれるようにして。
 たぶんねえ、セフィロスさんがねえ、媒介になっているんだと思うんだなあ。なんでこの人がたびたびわたしの人生に出てくるんだろうと思うけど、ほんとにねえ、神になりたいこの人に、わたしは無限の共感を感じるよ。彼は神の空位を埋めようとしてるんです。再臨して、空白の玉座を埋めようとしている。絶望し、神を見失ったおのれの民のために。
 これ、神学のジャンルで終末論ってんですけどね。ここからFF7ACを読んでいく試みをしたいので、今日も神学書の充実した図書館で、五冊ほど関連書籍を借りてきました。もう二十冊か三十冊か読んだら、書きはじめられるでしょう。

 面白いなあ。人は過去に、必要なものをほんとうは全部持っている。そして、なにかあるたびに戻ってくる。わたしもまた過去へ戻ろうとしている。先へ進むために、過去へ戻ろうとしている。

 現在はない。記憶だけが実在である。ベルクソン。彼の本を、わたしはいまようやく少し読めるようになってきた。わたしの認識がそういうところへ追いついたんだろう。これは幸福なことだ。時間というやつは一筋縄でいかないやつだが、わたしはおまえのことも、きっと愛してみせようよ。行きつ戻りつ、おまえと自由な関係を、構築してみせようよ。しゃにむに未来へ進もうとするのではなくてね。

 明日、一年以上ぶりに働きに出るために履歴書を持って面談に行く。人様のところで雇われて働くことを考えたら、もう五年ぶりくらいの話になる。どうなるかわからない。神がわたしに働いてほしいのなら働くことになろうし、神がお望みでないならそうはならない。すべて神がお決めになることだ。人間はあくせくするだけだ。神の意志も知らずに、しかし必死に知ろうとして。それでよい。すべてのことがそれでよい。試行錯誤だけでよい。不断に過去へ戻り、過去のうちに、おのれの未来を見るがよい。おまえはすでに完成されている。未完成のなかに、完全な姿をおまえはもっている。

 神よわたしを憐れみ、わたしをお守りくださるように。あなたのしもべがこの世でなすべきことだけを、させてくださるように。もうすぐあなたは死から復活なさる。それまでに、あなたの復活の祭までに、わたしにどれほどのことが起き、どれほどの苦痛と喜びが、わたしの上に注ぐだろう。それは恵みである、それこそが、恵みである。