FF7をアップデートする|その1

はじめにまえがきを少々

 マスダです。
 このサイト、ACをのぞくコンピレーション作品をいっさいとりいれていませんが、そのへんのことについてちゃんと書いてなかった気がするので書きに来ました。これはどうもびっくりするほど長くなりそうなので、数回に分けて(たぶん二回か三回)投稿しようと思います。

 タイトルの通り、いろいろきっかけがあって、わたしはいまわたしのなかのFF7をアップデートしようとしている。アップデートってどういうことかと云うと、

1.やってないコンピレーション作品を(できるかぎりにおいて)やってみる。
2.無印7のプレイし直し
3.読んでない資料の読みこみ、ならびに既知の資料の再読

 といったところ。

 1を書いた段階でおわかりだと思うが、わたしは無印7とAC(ACC)以外ほとんど追いかけてない。CCはやっていないし、DCは純粋に操作性の問題で挫折した。ゲーム作品はこういうことがあるので、アニメだとか漫画だとかの二次創作と話がぜんぜん違ったものになってしまう。
 DCはわかった、じゃあなぜCCもプレイしていないのかという問いに対する答えは複雑なものになるので、次回に回す。今回は、全作品を制覇しているようなファンでないにも関わらず、たしがなぜFF7ジャンルにたびたび出たり入ったりするのかについて説明したい。
 そのために、まずわたしとゲーム作品との関係が概ねどんなものなのか説明し、わたしの作品やキャラクターの愛し方が、これまでどんなものだったのか説明する。

 はじめに云っておくけれど、これは愛の問題である。愛することの意味をめぐる問題である。そして自己についての問題だ。わたしの生はいつもそうだ。いつもこの問題をめぐって、わたしは動き、行為する。
 たかだがゲームや二次創作に「愛の問題」とは大げさな、というあなたは、不幸な人である。なにごとも真剣に想い、真剣に愛し、真摯に行為するならば、それはあなたをとても遠いところへ連れて行く。ただの趣味、ただの好き嫌い、ただの暇つぶし、は、あなたがそう思うかぎりにおいて、真実そうである。もしもあなたが真理を求めるなら、あらゆるもののなかに、世界の象徴と、あなたを呼ぶ呼びかけの声を求めるなら、あなたはたったひとりのキャラクター、たったひとつの作品、たったひとつの感情や出来事から、すべてのことを学ぶことができるであろう。

 この記事と関連記事に「FF7を語る」タグをつけることにしました。今後このような感じの記事を書くときには同タグをつけるので、トップのタグクラウドさんから拾ってください。
 では、本論に入る。

習慣の問題

 ゲームというやつは、プレイせねばならない。当たり前だと思われるかもしれないが、このハードルがどれだけ高いかということが、ちょっとわからない方にはわからないだろうというほど高い。わたしはこれがよくわかる。わたしにはこのハードルは、山よりも高い。エリコの城壁のように、まわりを七周回って鬨の声をあげたらば崩れてくれないかと思うほどだ。

 ゲームは、明らかに、する習慣があるかどうか、それだけが問題だ。高校くらいまでは、わたしにも習慣があった気がする。家にあったからね。忘れもしないが、わたしが子どものころ、ある日喘息で寝こんでいたら、父がわたしにゲームボーイを買って帰ってきた。あのころはあれが最新鋭のおもちゃだった気がする。父がなぜわたしにゲームを買う気になったのか、それはいまだに謎である。父のなかでは、漫画もゲームもアニメも同じような装置だったのかもしれない。子どもの好きなもの、喜ぶものといったら、そういうものだ、という頭だったかもしれない。これが真実に近い気がするな。
 それがゲームとの出合いで、それからたとえば幼馴染の家にファミコンがあってやりにいったとか、弟がひと通りのゲームをみんな揃えたりとか、いろんなことがあったが、残念ながら、わたしにゲームの習慣は根づかなかった。実家から出て、ゲーム機がなくなったら、わたしはもうゲームをするのをやめた。その程度のものだったわけだ。

 これがとても大きな、ただひとつの答えだ。ゲームは、やる習慣のある人にはやらないことを想像できないようなしろものだと思うが、わたしに云わせれば、文学を読み、哲学書を読み、真理のことばに触れることなく時間をやり過ごし、はるかな東方のイコンやカラヴァッジョやルオーの絵の前に時間を忘れることのない人のことが信じられない。神を思う時間のない人の生活が想像できない。そういうことだ。
 もしもあなたがそういう人ならば、わたしたちは、お互いにきっと相当な他人である。そういう他人が、あるひとつの作品やキャラクターを通して出会ってしまう。ほんとうはまったく他人で、心性なんかまるで別だろうに。たとえば、ゲームをやる習慣があり、それがあまり苦にならない人は、ゲームをやったことないけどキャラクターは好きで二次創作をしている人なんてものは信じられないだろう。そのお気持ちはわかる。でも反対に、ゲームをやる習慣のない人や、あまり嗜むことに慣れていない人は、なにかのきっかけでそのキャラクターや世界観に惹かれたとしても、作品の中へ入っていくハードルはすさまじく高い。この気持ちもわたしはわかる。

 要するに……などと云ってはあまりよくないが……わたしたちは、習慣も、考え方も、なにもかも、ひとりずつみんな別物なのだ。漫画を読まない人は、漫画を読む人がなんでそんなに漫画ばっかり読むのか理解できない。ゲームをしない人は、ゲームをする人がなんでそんなことにそんなに熱中できるか理解できない。わたしたちは自分以外の誰かになることができず、みんな自分を基準にしてものを考えざるを得ない。だから、自分とぜんぜん違う思考回路の人間に出会ったとき、困惑する。自分が正しいと無意識に信じている人は、あるいはその逆で、あまりにも自分に自信がない人もまた、他人の行動をどこかで蔑みはじめる。自分はそうでないなんて思わないように。こんなことは、万人に共通のもので、だから人間は面白いのだから。この気持ちがないなら、あなたは人間でない。人間はみんな正しく、みんな間違っている。

 すべての人に、すべての人に固有の愛着の持ち方や、愛し方がある。わたしはそんな話をしたい。そしてわたしの愛し方について話したい。わたしの愛し方を話すことで、わたしが今回どうしてアップデートを試みようと思ったかということや、また、どうしてこれまでアップデートせずにやってこれたのかについて、話せるだろうと思う。

 ちなみに、わたしはあなたのことが好きだが、あなたにとってわたしはすごく他人かもしれないと思う。その他人どうしがこうやって出会ってしまうのだから、面白いと思わないか。わたしは思う。神はどうしてわたしをここへ遣わしたのか、ときどき考える。きっと、その決定をなさったときには半分寝ぼけていたのだろう。

純粋な領域における愛の問題

 わたしのようにゲームなど普段まったくしない人間が、ゲームジャンルに来たりするから人生は面白くてやめられないのだが、それにしてもFF7は定期的にわたしを呼ぶ。なぜだろうと考えるに、この作品の世界を生きないことには、人間は人間を生きるようにならないからだよ。世の中にはそういう作品があるのだ。これはきわめて神話的な作品だ。そして人間には神話が必要だ。あなたの内面は、いま生きている現実よりもはるかに神話の世界に近い。あなたの意識がたとえ現代のど真ん中を生きていようと、あなたの無意識の一部は確実に古代を生きている。だからわたしたちは物語を愛し、冒険を愛し、神を愛する。
 この話はこれくらいにしよう。なにが云いたいかきっとあなたはわかるだろう。7の世界で幾度も震えるような気持ちがしたあなたならきっとわかるだろう。あなたの心が震えるとき、あなたはあなた自身というより、その背後にあるもっと広大な領域を生きている。あなた自身など小さいものだ。だがあなたの奥深くには、無限のものが広がっている。

 わたしの話をしよう。わたしがどんなふうにFF7とともに生きてきたかの話をしよう。これは大切な話だ。お暇ならぜひ聞いてほしい。
 たとえば2012ー2013年ごろこのジャンルにいたとき、わたしの最大のテーマは「自己と調和せよ」だった。あのときわたしは必死に自己を探していた。ええ、もちろん、だって、自己というのは探すに値する唯一のものですからね。クラウドさんが体を張ってわたしたちに教えてくれることだけど。

 だって、自己というものは、知らないで一生すませることができる。あなたののぞみは何なのか、あなたのほんとうの願いはなんなのか、あなたはどんなふうに生きたいか、どんな風を感じ、どんな風景に涙し、どんな愛を愛し、どんな美しさをこの世に顕したいか。そんなことを、あなたはなにも知らないで生きていくことができる。もしあなたが自己自身を、狭隘な、閉じた、小さな自我に限定してしまうなら、あなたの人生はそんなものだ。でも、そうじゃない。あなたというものは、この世で最大の謎だ。暗い月光の色をしたベールに幾重にもくるまれた、神秘の謎。そのベールを剥ぎ取るときだけ、あなたはほんとうにあなたを見、あなたの幸福と、真理とに近づく。
 クラウドさんはその行為を、あなたのかわりに、犠牲を捧げながら、象徴として、やっているだけだ。英雄とはこういう行為をするもののことだ。神話の英雄とは、こうした人間、あるいは半神のことだ。

(クラウドさんという興味深い英雄のことについては、いつか話そう。わたしが考えをまとめるあいだ、あなたも考えてほしい。たとえば、彼に父親がいないこと、しかし、父親の正体が明かされ、それを乗り越えているのは彼ではなくて、セフィロスさんのほうであること。クラウドさんの父親についてはただ分厚い沈黙だけが存在する。ここには、とても美しくて奇妙なねじれがある。クラウドさんがとても美しく、男性でありながらあまり男性性を強く感じさせないのは、父親殺しの英雄ではないからだろうか? いや、でも彼は父親殺しの英雄を殺した。さあ、どうする?)

 クラウドさんは、あなたのかわりに、痛みをともない、苦しみをともなって、自己を探しだす姿をあなたがたに示した。だからあなたがクラウドさんを愛するなら、あなたのすべきことはあなたもまた自己を探すことだ。彼と同じように血みどろになって、苦しんで探すこと。それがあなたを救うだろう。自己探しの英雄の営為は、あなたが自己を探す冒険に踏みだしたとき、あなたのものになる。英雄の行為はそこから波及し、彼のもたらす叡智が、この世を変える。
 でもそんなことはどうでもいい。あなたがクラウドさんを愛するなら、あなたのとるべき道はひとつだ。座っていないで、あなたもあなたを探す旅に出よ。ほんとうに誰かを愛するなら、愛する者のしたことをしなければならない。愛する者の生き様をあなたが生きなければならない。真の愛はそのよろこびと苦悩のなかにある。あなたがクラウドさんを愛するなら、彼が生きたように生きなければならない。これが愛する者の責任だ。おわかりか? あなたはもはや彼と他人ではないのだから、彼を愛しているのだから、彼と同じ苦しみを苦しみ、同じ痛みを痛まねばならない。そうでないなら、あなたの愛は円を描かかない。循環しない愛は、愛の性質を欠いている。

 わたしは彼への愛ゆえにわたしの生を彼へ捧げた。彼が捧げてくれたものをわたしは捧げ返す義務を感じたのだ。これはわたしがジャンル変遷してからも無意識下で続いていた。わたしは彼のために彼の痛みを痛んだ。彼のために彼の生をおのれの生とした。わたしはわたしの生命を賭しておのれを探求した。それに七年ほどかけたことになるのだが、それがなんだというのだ。聖書にもこうある。

 ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはヤコブにとって数日のように思われた。(ジェネシス29:20 フランシスコ会訳)

 そしてこういうことはよくある。人間の内的生活にとって、芸術の源である愛と手をたずさえたうるわしい成長にとって、五年、十年がなんだろうか。そんなことはなんでもない。自己の成長と成就にとって、時間は時間として流れない。リルケも書いている。

 すべての印象、すべての感情の萌芽は、全く自己自身の内部で、幽暗の境で、名状しがたいところで、無意識のうちに、自己の悟性の到達し得ないところで、安全に発育させるようにし、深い謙虚さと忍耐とをもってあらたな明澄さの生れ出るのを待ち受ける、これのみが芸術家の生活と呼ばれるべきものです、理解においても創作においても。
 そこでは時間で量るということは成り立ちません。年月はなんの意味をも持ちません。そして十年も無に等しいのです。およそ芸術家であることは、計量したり数えたりしないということです。
(『若き詩人への手紙』高安国世訳)

 わたしはこんなふうにクラウドさんを愛してきた。わたしの生によって彼を愛してきた。つまり賛美してきた。彼を愛することが、わたしを一体どれだけ高いところまで連れてきたか、誰にもわかるまい。自己を探求することの力において、わたしがどれほどの恵みを受けたか、きっと誰にもわかるまい。
 彼はわたしをわたしという至福へ、約束の地へ導いた。わたしはこうして物語を生きる。これこそが人間の生命である。人間の生とは、このような次元のものである。わたしは魔法を知っているし、モンスターを知っているし、ジェノバにとりこまれたときの感じも、おそらく知っていると思う。あらゆるものを象徴とみなすなら、それを体験することは、誰にでもできるのだ。

そして形而下において愛することを

 自己を探す旅は、一生の旅である。それにはさまざまな段階がある。次はこのジャンルに戻ってくる直前にわたしの身に起きたことについて書きたい。

 わたしの神羅ものを読んだ方はこう書いたらわかると思うが、わたしは今年のはじめ、実に七年越しに、わたしの書いたセフィロスさんがやろうとしたことをほんとうの意味で成就しようとした。わたしがいつでも修道の夢を見ていることはもう書いたね。今年のはじめ、ちょっといろいろあって、わたしは経済的自立ということをまじめに考えねばならなくなった。その前の一年、マルクスとか貨幣とか経済にかかわる問題にかかりきりになってたことを考えると、とてもおもしろいタイミングではあった。
 それがわたしに目覚めをうながしたが、わたしはまたぞろあの、わかる人にはわかるであろう、この世に生きるべきか、それともこの世に対して死ぬべきか、という問題を真摯に悩まねばならなくなった。昔からそうだが、わたしは半分この世に生きていない。わたしの魂は、半分現世にあって、半分は詩的な象徴的な世界にある。内面のイマージュとか無意識の領域といってもいいよ。わたしたちが7の世界を体験する領域、そして追体験することのできる領域だ。この内的世界だけがわたしの真実の世界だ。この世のことなどそれに比べればなにほどのものでもない。
 こういうタイプが、自立しろといわれると途方に暮れる。わたしは自分の魂を売り渡しても生きたいとあまり思わない。自分を活かすためだけに生きねばならないのなら、あまり生きないで食いっぱぐれていたほうがいい。たとえ一杯のコーヒー代にこと欠くことがあっても、そして実際こと欠くことも多いが、わたしはいつもわたしのままでいたいよ。だって、せっかく苦しんで見つけたわたしなのだからね。エンデのすばらしい神話。

 わたしはそういうやつだが、年始からいろいろともがく中で、本気で田舎に行って畑仕事して暮らそうと思った。ある共同体を見つけてね。芸術と共同体の思想とは相性がいいのでね。芸術だ神だというやつは、だいたい自分で食えない人間だから、どうやって生き抜くか考えたら、誰かにたかるか、そういう理想を掲げるしかないのよ。それでだいたいみんな夢破れているんだけど。
 それで、わたしはある共同体に本気で移住しようとした。そしてわたしのこれからの生涯を、自然を友とすることの美しさを歌い、神がこれだけはわたしのものだと思わせてくださるわたしのこの文体に血を注ぐことを、生涯の目的としようと思った。この世よ、わたしから離れ去れ。おまえはわたしの前に、いったいなんであるというのか。おまえとわたしとに、なんの関係があろうか。

 これはたぶん実現半歩手前だったと思う。しかし神はそれをおしとどめた。わたしの理想のひとつは実現しなかった。そして実現しないことのなかから、わたしがこの世から退くべきでない理由が見えてきた。要するに、わたしは修道へ向かうには、この世に背を向けるには、文学的野心がありすぎるのだ。

野心に捧げる詩

 野心よ! おまえはなんという美しい凶暴な姿をしているのだろう。おまえを人は醜いと云うだろうか。然り、おまえは醜い。しかしまた、おまえは美しい。おまえを美しくするのも、醜くするのも、わたしの心しだいであることに気がついたとき、わたしはおまえを愛することにした。おまえはわたしである。わたしのうちに憩うがよい。安心して、安らかにしているがよい。わたしはおまえを必ずや愛し、目をかけ、おまえが美しく、うるわしくなるように、手をかけるであろう。わたしの欲望よ。おまえは大きく醜いが、わたしはおまえを愛する。おまえがわたしであるかぎりにおいて。

 こうしてわたしの「セフィロスさん計画」(とはいえこのときはまだセフィロスさんとの類似には気づいていなかった)は挫折した。挫折したら、セフィロスさんが夢に出てきた。彼はわたしをある別の領域へといざなった。わたしはふいに、昔の自分のFF7小説を読みかえしたい気持ちになって、読みかえした。そして衝撃を受けた。
 そうか。わたしはこのころのわたしの書いていたセフィロスさんになりたかったのね。ようやくおまえはおまえの理想をひとつ実現しようとし、しようとしたはしから挫折し、そしてはじめて自分がなにを夢み、ほんとうのおのれがどこにいてなにを叫んでいるかを見た。ああ、おまえは最初からここにいたではないか。ここにいて、はじめから詩を書いていたではないか。わたしの過去のセフィクラ小説は小説というより詩である。そうだ、わたしは詩人であったのだ。小説家であるよりなによりも先に、わたしは熱情の詩人であった。わたしの魂は詩人の形をしていたのだ。わたしはそのことに気がついた。わたしの詩よ。おまえはなぜいままでわたしを呼ばなかったのか。そしてこんなに長いあいだ、わたしをどうして放っておいたのか。いや、違う。詩よ、わたしがおまえを見なかったのだ。

 セフィクラはわたしにとって詩である。人生の節目にかならず奏でられる音楽であり、歌われる歌である。その歌のふしはわたしにとてもなつかしく甘い。詩は神話に似ている。ほとんど同じものだ。そして宗教ともほとんど同じものだ。わたしがそういう領域の人間である以上、そういう領域をわたしは見つめることになる。FF7は、いまわたしの前に、経済と、自然と、宇宙と、神話と、宗教において、尽きることのないものを与える。おまえにはまだやることがある。おまえにはまだ知るべきことがあり、理解すべきことがあり、生きるべき苦しみと愛がある。
 そんなことを、夢に出てきたセフィロスさんはなにも云ってなかったが、彼の導きを通してわたしは知った。

 わたしはこれから、セフィロスさんへの愛をちょっと自分の生において成就したいと思っている。彼のことをちょっとどころでなく愛しているのはほんとうなので、彼を愛するのだから、わたしは彼と同じだけ引き裂かれ、絶望し……ああ、でもわたしはもう絶望を過ぎてしまったのだった。わたしはもう神になれないことを知っている。その安堵と幸福たるや、いかばかりのものか知っている。そのことはたぶん彼も知っている。知っているが、彼はあえてそこにとどまったり、また出てきたりして、たぶん、遊んでいる。だから彼がいまわたしに望むのは、もっと複雑なことだ。形而上と形而下とを、泳ぐことだ。彼のように。

 セフィロスさんがどんな人か知っているか? 神になることの意味、それをやめることの意味、そこを抜けてしまったあとに見えるものをあなたは知っているか。あなたはあなたのうちに神になりたい自己を自覚しないか。自覚しないならやりなおすべきだ。自覚するまでおのれを見つめよ。そしてそこを飛びこえろ。これは生涯をかけた仕事になる。あなたはあなたを見るのだ。あなたのなかに、彼を見るのだ。あなたが愛するものを、あなた自身のなかに見るのだ。
 彼を愛しているなら、あなたはそうしなければならないよ。あなたがほんとうに、あなたの生からなにかを得たいと思うなら、あなたはあなたを捧げねばならない。彼の犠牲に向かって、犠牲を捧げ返さねばならない。そうすれば、あなたの捧げたものはあなたに返ってくる。二次元だとか三次元だとかは小さな問題だ。あなたはそんなものにとらわれてはならない。愛はそんな限定されたものでない。あなたの愛が無限になれば、あなたの存在もまた無限の息吹を帯びる。

 セフィロスさんはわたしに形而上と形而下を行き来せよ、しかも魚のように身軽に、と命令しているので、わたしはひとつの課題を立てた。
 ここまで読んだらもうおわかりだと思うが、わたしはわたしという存在ひとつだけで、どこまでも突っ走ることができる。わたし自身を知ることよりほかに、わたしにとって大切なものはなく、それがすべてを生む。だが、わたしは形而下へ降りねばならない。ということは、わたしは他人に目を向けなければならない。

 原作というものが他人の創作物だということを、二次創作者がどこまでまじめに意識しているかわたしは知らない。それはたしかに他人のものだが、わたしのものでもある。だから、原作をどの程度情報として、客観的に受けとるかは、まったくその人しだいである。わたしはぜんぜん客観的に受けとらない。わたしの強みはこの過剰な主体的体験化とでも呼ぶべきもののなかにある。それは同時に最大の弱みでもあり、詩人の魂の秘密がここにあるが、いまはそんなことはいい。
 わたしは少し、客観的に、現実のものとしてこの作品を見てみようと思う。この作品に対する他人の考え(というのは製作者やファンやすべての人たちの言説、言論を含む)を、ちょっととりこんでみようと思う。わたしはこういうことをまじめにやるタイプではないので、非常に苦しい作業なのだが、仕方がない。セフィロスさんがそれを要求している気がするので、わたしはやらねばならない。汝自身を出よ、汝の神殿を出よ、そして形而下へ降りてゆけ。この世へ降りてゆけ、おまえは神の子であると同時に、まったき人の子である。

 わたしのFF7のアップデートは、この文脈において語られねばならない。こんなところまでたどりつくのに、これほどの時間を要するとは、人間とはのろまな生き物ではないか。体の成熟に二十年かかり、なにかひとつのことを学ぶのに十年はかかるというような、そういう人間ののろまさが愚かしくて美しいではないか。わたしはとりわけのろまで愚かなほうだが、そんな愚か者でも、なにかを学ぶことはできるだろう。

 次回は、アップデートを決意するに至った、また別の側面の話をする。これもまた実に長い話になりそうだ。あなたが退屈しないといいのだが。
 まあお茶でも飲んで、春らしい、美しい景色でも眺めて、目を休めてください。こんなところまでおつきあいいただいて、どうもありがとう。