戯曲について書き落としたことやいま書いているもののことなど

 マスダです。
 こないだあげた戯曲は、どうも思いがけずいろんな方に見ていただいているようで恐縮です。いや恐縮でもないか。見ろよ、って思ってますもんね。そしておののけばいい。あれ読んでおののけないやつはかわいそうだとすら思っていたりする。石川啄木が、おれに頭下げさせるやつは死ねみたいな詩を書いてるんですが、わかるなあ、それ。それくらいの感じでわたしもいたいね。自分の武器の出しどころっていうのは難しくて、丸出しにしていていいわけではないんだけど、引っこめすぎるのもよくないって昔云われました。多分そのとおりだと思います。

 何度も書いてるけど、いやここには書いてないか、「文学はこの世にわれわれが戦争するときの道具である」って内村鑑三が云ってます。

 われわれの心に鬱勃たる思想が籠もっておって、われわれが心のままを……綴ることできるならば、それが第一等の立派な文学であります。(『後世への最大遺物』より)

 これを肝に銘じて書くことですね。文学は戦争の道具、これは真理です。キリストがわたしはこの世に平和をもたらすためでなくて、剣をもたらすために来たんだと云ったとき、彼はこのことを指していったのだろうと思う。宗教も文学も不断の戦いにおいてのみ存在価値がある。なにと戦うか? おのれの無明とですよ。おのれの無明と戦うことは、すなわち同胞の無明と戦うことです。同胞の無明と戦うことは時代の無明と戦うことであり、歴史の無明と戦うことでもある。
 わたしがいかにあなたがたを愛し、あなたがたの弱さを愛し、わたし自身の愚かさを愛し、この世を愛しているか、わたしはあなたがたに示したいと思う。いつも思っている。どうか忘れないでほしい。

 やや、話がずれたな。今日の最初はこないだの戯曲について書き落としたことを書こう。といってもあまりないのだが。
 鍛冶屋の見習いの名前はアーナルというんだけど、これは古アイスランド語で「憧れの目で見る者」です。エッダに出てきますよ。さあテキストを読んでおくれ。そしてあなたの解釈をほどこしておくれ。テキストは、あなたの解釈なしにはこの世に存在しないのと同じことなのだから。
 この作品についてはほんとに云うことはもはやあまりない。わたしはみんな書いてしまった。あなたは読むでしょう。そして理解するでしょう。人物のそれぞれになにが起きたか。

 でも、これ書きながらわたし、セフィロスさんってほんとにすばらしい存在感を放つ人だと思って。彼が出てきた瞬間になんもかもセフィロスさん色というか、雰囲気みんな変えてしまう人だなと思った。実際そうだ。いま書いてるのでも、わたしはそれを痛感している。

 いま書いてるやつは、まだできてないので確かなことは云えないが、どうも長くなる予感がする。トップの進捗状況のとこにも書いといたけど、200枚超えの予感がしてきた。いまちょっとささっと書いただけでもう50枚を超過してしまった。まあしょうがない。わたしがどれだけゆったり書くかによります。
 最初は、短編にしようと思ったんだ、初期のハインリヒ・マンみたいな感じの。こないだの戯曲のエピグラフにハインリヒ・マンを持ってきましたね。あのときたまたま久々に読み直してたからあんなことになったんだけれども、やっぱり好きだ、この書き手のことが。で、こんな気配のこもったものを書きたいなと思って、ネタはあったので書き出したのだが、まあまあご機嫌で生き生きしてます、セフィロスさんが。ああ―この人こんな人だったなあ、わたしのなかでは……と思って、久々に本気のセフィロスさんに再会した気がしました。

 最近クラウドさんを書くのに夢中なので、セフィロスさん視点になってしまうのですが、セフィロスさん、ともすればクラウドさんに埋もれてしまうかと思いきや、やっぱりぜんぜんそんなことない。人気投票の1位と11位の差は、セフィロスさんが同じ数字をもぎとった説をわたしは推します。彼には自分の順位だとか人気だとかどうだっていいんだそんなことは。彼はクラウドさんへの執着というか執念というかをときどき妙にねちっこく主張していればそれでいい。今回書いてる作品のセフィロスさんもちょっとそんな感じ。

 でもいつも主張しているかというとそんなことはなくて、普通にしてると淡白に見えるが、なにかあると全然そんなことないのが身にしみてわかる感じにしたいと思っております。あー早く読んでいただきたい。ので、せっせと書きます。

 そういえば、体験版来ましたね。みんな大丈夫か、生きてるか。わたしはやってない。何度も云うがPS4がない。買う金もない。いろんなグッズが出ているのも知っているが、買う金はない。わたしは金よりオタク活動よりほかのものを選んでしまった人生なので、仕方がない。信じてくれなくていいが、神と、真理と、わたしの至福のためならば、ほかのものなどみんな犠牲にしてわたしははばからない。金なし、職なし、なにもなし。
 わたしにはわたしの思想よりほか、あなたにあげられるものはなにもない。わたしはなにももっていない、わたし自身という無限のものよりほかには。そしてそれこそがわたしの至福なのだ。わたしはわたし自身を知っている。わたしの至福がどこにあるか知っている。至福はサンスクリットでアーナンダと云う。ブッダの十大弟子のひとりだ。
 この世で一番幸福な者は、自分の至福がどこにあるか知っている者、自分の約束の地がどこにあるか知っている者である。そして大いなる者の導きのままに、その地を目指して旅する者のことである。先のことは知らずに。

 約束の地はどこにあるか。この地上のうえに。どこにでも。あなたが願うなら、この地上のどんな場所のなかにも。どうか信じてほしい。それはこの地上にあり、もっとはっきり云うならば、あなたのうちにいつもある。これは真理である。わたしが絶望を見つめ、そのなかからつかんできた真理だ。血にまみれたほんものの真理だ。まやかしでない。このことをどうか信じて、そしてあなたの至福を見つめてほしい。そのとき、この世は天の国になる。