マスダです。
RESのページに、本日(2020/02/17)いただいたメッセージに返信をしております。くださった方、どうもありがとうございます。あの、最初にお断りしておきます返事長いです。すみません……。
それから、拍手ぱちぱちしていただきまして、どうもありがとうございます。届いておりますよ!
いま書いてるもの。
戯曲。いやごめん戯曲ふう。セリフとト書きしかないものです。いまフェデリコ・ガルシア・ロルカという詩人の戯曲集を読んでるのですが(身近なとこだと、ショスタコーヴィチの交響曲第14番に彼の詩が使われている)、読んでいてどうしても書きたくなってしまったものが出てきたので、ちょっとやってみようと思っています。どうなりますことか。
戯曲が大好きなのよわたしは。で、自分でも書きたいんだけど、ちょっと練習しないと書けないので、練習がてらにセフィクラさんで。
もう何度でも云うけど、このふたりの、メテオ後仲直り話が大好きでねえ。何度でもおいしく書けるし、おいしくいただけるので皆さん書いてください。なぜこんなに好きなんだ……とちょっと考えたのですが、わたし昔から復縁話が好きだった。愛した女が出ていって、やっぱりあの女しかいないんだとわかるとか、その逆とか。
受けさん側にファム・ファタールの要素を求めすぎなのよマスダさんあなたは。あなたのなかの永遠の女ね。自分のものでありながら、花開かないあわれな女よ。ファム・ファタールになるには、わたしには決定的に足りないものがある。わたしはむしろそんな女に出会って、踏みぬかれ、搾りとられて、抜け殻になりたい。そういう欲望をわたしはもっている。でも現実に、映画のなかのカトリーヌ・ドヌーヴのような女や、マレーネ・ディートリッヒのような女はそういない。一度だけ、ほんとうに幸運にも、ほんもののファム・ファタールを見たことがあるが、わたしはその日からその女の一瞬の姿だけで生きていられると思った。いまもまだ生きていられる。わたしの頭に、彼女の姿は焼きついている。きっと生涯消えない。
こういう女が(そうだわたしが女であるところに、とても面白さを感じる)、もんもんとしながらおのれの宿命の女の幻想を抱きつづけると、わたしが書くようなものが書ける。わたしの書いているクラウドさんは、ファム・ファタールというにはあまりにもセフィロスさんをド直球で好きすぎるきらいがなきにしもあらずだが、いいのだ。これが正解などというものはない。わたしの書くセフィロスさんにとって、クラウドさんはいまもいつも永遠にこの世の終わりまで、自分を苦しめ、愛し、傷つけて赦す存在にとどまるだろう。ああ、この美しさよ、わたしの詩情の生まれる場所!
そんなことを最近考えております。