宴のあと――イベントの所感や寄付のお礼など

 セフィクラWEBオンリーイベント「Recall」無事終了しました。
 イベントが終わったので、特設ページURLを公開しております。こちらからどうぞ。
 作品をDLしてくださった方、メッセージいただいた方、寄付をくださった方、どうもありがとうございました。

 以下所感。

 今朝から、イベント内でいただいたコメントやメッセージの返信を書いていた。いただいたものにはすべて返信してあるので、ご確認を願いたい。
 それらを書きながら、いろいろと考えていた。お暇なら下記のわたしの精神的逍遙におつきあいくださればと思う。

今後も、わたしはこれまでと変わらないし、これまで同様、みなさんが書き手としてのわたしに気を遣ってくださる必要はないことについて

 わたしがイベントに出ると聞いて、わたしのことを知っている方はもしかすると驚かれたかもしれない。そもそもの大前提として、わたしが交流というものをほとんど望んでいない書き手だということがあるからだ。ある人曰く、そんなことはダダ漏れているとのことなので、たぶんみなさんもおわかりだろうと思う。おまけにわたしは人の感想も別段求めていない。わたしは職人だ。ただものが作れればいいのだ。もの書きとは寡黙で愚かな職人のことだ。職人は、ただ手を動かしていればいい。それを人がどう思おうと、脇目も振らずに自分の仕事に没頭するのでなければ、人はほんとうの職人になどなれるものでない。

 二次創作をなんのためにするのかは人によって大いに異なると思うが、わたしはただ作品を書くために二次創作しているのであって、同じジャンルにほかにどんな人がいるのか、ほかの人たちがどんなことを書いているのかなど、ほとんど気にもとめていない。申し訳ないがこれはほんとうだ。昔わたしはこのことを非常に申し訳なく思い、交流というものに乗り出してみたこともあるが、わたしの唯我独尊的本質は変えることができないらしい。わたしは必要なもの以外、いっさい読むことも見ることもできない人間だ。それはたぶんこれからも変わらない。わたしは相変わらず、自分の内的な衝動がこれを見ろと云わないかぎり、人の作品を見ないだろうし、他人に注意を払わないだろう。
 このような人間がイベントに出ることに客観的に見て意味があるのかどうかわたしは知らないが、夢がわたしに出ろと告げたのだから、出ないでおれようか。わたしはわたし自身のことを知ってほしいとはこれっぽっちも思っていないが、必要な人に作品は届くべきだと思っている。わたしの言葉、これはある意味で神の言葉であるが、それを必要とする人はいるのである。読書とはそういう経験である。それは書き手であるわたしとは、なんの関係もないことだ。書き手と作品とは別のものだ。あなたは、どうかわたしの作品とは、可能な限り濃密な関係を築いてほしい。でもわたしという書き手との関係など、それに比べればおそらくどうでもいいことだ。言葉は神のものだが、わたしはただの人間だ。どうかそのことを覚えていていただきたい。わたしは仕事をしたまでだ。それを受けとめたり、考えたり、楽しんだりするのはあなたの仕事だ。わたしの仕事は、ただ書くことだけだ。あなたはそれを読んだ。それだけのことなのだ。わたしに感想を送らないと書かなくなるのではないかとか、コメントが来ないと寂しく思うのではないかとか、そんな心配は、今後も一切無用である。

CC以前と以降――ザックス・フェア氏について

 わたしはこの場所で、いまや忘れ去られようとしている2000年代くらいまでのザックス・フェア氏を、いつまでもとどめていたい。それを昨日再確認した。このザックス・フェア氏は、CCが発売されたためにもうほとんど死んでしまった。だがわたしには、ザックス・フェア氏とはいつまでもこのかつてのザックス・フェア氏なのだ。わたしが書かないで、少数の心ある人がこれを記録し続けないで、もはや誰がこの記憶をとどめておくのだ? 彼はかつて確かにいた。わたしの書くものの中に出てくるようなザックス・フェアである。それは16の坊主などではない。彼はクラウド・ストライフという人間の成長に必要な、すべてのものを持っていた。そしてセフィロスにとってもまた。彼の登場シーンは、インターナショナル版の、ほんのわずかなシーンだ。でも、あのわずかなシーンであれだけの印象を残し、あれだけのキャラクターを見せつける男はそうそういない。わたしはこの宝石のようなシーンだけを、いつまでもわたしの胸の中に輝かせていたいと思う。わたしの敬意というものは、そういうところにあらわれるものなのだ。
 ザックス・フェア氏よ永遠なれ。彼がどんな男かを、わたしはちゃんと知っている。そしてその美しさの輝きを、その魂のことを、ずっとここにとどめておく。

寄付のこと――人の使命とその遂行について

 今回、おおっぴらに寄付を募ったのは、あなたが端末の前で一時間もうなって感想を書くより、1000円払ったほうがきっとずっとお互いのためになると思ったためだ。いまのところ、ものの価値というものをあらわすために値札という基準しか設けられない以上、これはしかたのないことだ。わたしはある意味ではほんとうに貨幣というものを憎んでいるし、また別の意味ではこの万能の基準におそれおののいている。金銭と文学や芸術作品ということは、非常に問題の多いテーマであるが、わたしはこれに正面からとり組んでいる。こんなことは個人的なことで、あなたがたにはなんの関係もないことだが、これはわたしのそのテーマの追求の一環でもある。
 今回、早くも複数の方から寄付をいただけたことにわたしは驚いている。そして反省したのだが、どうもわたしはあなたがたのことを少々見くびっていたかもしれないと思う。わたしはいつも書きながらこう思うのである。
「とはいえ、わたしのこの試みを理解してくれる者がいるだろうか。わたしのこの精神の冒険を、ともに冒険してくれるほどの人間がこの世にどれほどいるだろうか」

 わたしの追求するテーマは、わたしの額に神が手ずからつけた印であり、今回ほどそのことを意識しながら書いたことはない。わたしは中世人だ。わたしは自己と世界を聖なるものにするために戦っている。だがこの世界には、もはや聖なる領域などほとんど残っていない。あの万能で横柄な貨幣が、いまやこの世界から聖性をすっかり駆逐してしまったかに見える。ほんとうは、万物は神のものだ。神がすべてを創り、すべては神に還るのだ。でも、きっとこの意見は、いまではあまり共感を得られないだろう。わたしはこの意味において、神になろうとしたセフィロス氏と一緒に戦っているのだ。セフィロス氏はわたしにとって、この戦いの象徴である。これはわたしの肉体と魂のすべてをかけた戦いである。わたしは十字軍の名もなき兵士である。わたしの使命はジハードである。神は十字架の力によってわが国とその皇帝を守りたまえ、とかのキリスト教帝国ビザンティンの祈祷文は述べているが、わたしの戦いは、いまも、これからも、この守護のもとにこの世に神の国を引き寄せようとつとめることの中にある。あなたがたの心の中に、神の火を、神があなたの誕生の日にその心の中にともした神の火を、かきたて、燃え立たせること。あなたがたの生命はここから来るのだ。この火が燃えさかるとき、あなたがたの生命は輝きを放って燃える。それが人間の生命だ。人間の生とは、ただその瞬間に存在するのである。

 解説まで読んでいただければ、わたしがなにを考えてこんなことを書いているかきっとおわかりになる。わたしはそのことをただあなた方に伝えたい。わたしはそのために仕事をしている。そのために、こんな道にいて、こんなところで物語の力を借りて叫んでいる。荒れ野で叫ぶ者の声がする……主の道をまっすぐにせよ。

 わたしの二次創作を、わたしはニュートンの錬金術と呼んでいる。かのニュートンは、偉大なる近代科学の父であったが、同時に頭のてっぺんから爪の先まで中世人だった。彼は重力や光に関する研究をこなしつつ、錬金術の研究に熱中したという。というより、重力だとか光だとかは片手間で、錬金術が本命だったのだと思う。これは多くの現代人を困惑させるようだ。ニュートンともあろう人が、なぜそんな愚にもつかない研究に熱中したのだろう。ニュートンほどの頭があるなら、その時間を使ってもっともっと有用な研究ができただろうに。
 これは確かにその通りだ。だが、ニュートンが科学文明の発展と進歩などに関心を払っていたかどうか、そしてなにを自分にとって有益な研究と思っていたか、そうしたことはぜんぜん問題が別である。錬金術は、確かにその後の科学文明の役にはあまりたたなかった。おそらくいくら研究を重ねても、役に立つものにはならなかったろうし、金を生むこともなかったろう。わたしの二次創作もこれと同じだ。わたしはこれに生命を燃やしているけれど、こんなもの、ジャンルや時の趨勢におそろしく左右されるし、しかも、おそらくあなたがたは八割方、真実にはわたしの読者ではないのだ。だが真理というものは、そんなことなどどうでもいいのであって、往々にしてこうした有用性だの文明の発展だのとは無縁のところに住んでいるものなのだ。否、文明の発展というものは、非常に逆説的だがこの発展などという概念と無縁のものの中から生まれるのであり、そのことを忘れたとき、人は同時に発展への契機も道筋も見失うのだ。

 わたしはそのことを危惧している。FF7のテーマと同じだ。わたしは文明というものを非常に危惧する。それがどの方向へ向かうのか、この先人間がどうなるのか、ほんとうに危惧している。人間は、神がいないでほんとうにやっていけるのだろうか。人間の尊厳というものを、神ぬきにどうやって打ち立てるのかは、興味深い問題だ。わたしにはこんなことは不可能だと思う。日本に人権意識がないといわれるのは当然だ。この文化土壌からは、そんなものは生まれようがないのだから。人権はきわめて契約的概念であり、日本においてそれをかたちづくっているのはまた別の心情によるのである。
 もう一度いうが、人間は神ぬきでやっていけるだろうか。このことをじっくり考えてみてほしい。そして、セフィロス氏がやろうとしたことはなんだったかを、彼がなにを背負っていたかを、心から考えてみてほしい。

 わたしは現代においてなお神を考える者である、否、神と交流する者である。だから、わたしはセフィロス氏のことを考える義務を負っている。彼の戦いを戦う義務を負っている。彼の敗北はなにを意味したのか。そのことを真剣に憂慮し考える義務を、わたしは負っている。そして云わせていただければ、人の魂を養うことができるのは、この義務を自らの義務とする人間だけだ。
 つまり、わたしはあなたがたに魂の食物を供する。ここにおいて宴を饗する。だから、あなたがたはわたしに、この食料の代わりに、わたしの日ごとの糧をあたえてほしい。いまのところ、金銭はそのもっとも有効な手段である。こうしてわれわれは交換する。互いの持ち物を。この中にしか、人間の相互交流を支える基盤はないように思う。わたしはそういう形の交流があればそれでいい。このことだけを了承してもらえればいい。わたしのことを横目に見ながら、あなたがたはわたしの書いたものを食べる。そしてわたしは、それによってわたしの食べ物を食べる。真の食べ物は、わたしの書くものの中にすでにあることを知りながら。

結び

 今回のイベントでは、わたしは計りしれないものを得たように思う。こういう人間なので、相変わらず普段人との交流などはいっさいしないが、別にそれを悪と思っているとか、憎んでいるとかいうわけではない。わたしはただ、わたしのやるべき仕事に集中したいのだ。だから、今後もきっとこの場所にわたしはこもりつづける。そして神の祝福と呪いを書きつづける。それがわたしだ。わたしはそれ以上のいかなるものでもない。神よわたしの誕生を祝え、そして呪え! わたしはここにいる。セフィロス氏があの北の大空洞にいて、そのときを待ち続けたように。