突然ですがサイトを開放しました

 お久しぶりです。クリスマスの話にまだかかってるマスダです。
 突然だけど今日、会員制構築のプラグインを外しました。パスワード無しで見られます。登録しなくても見られます。

 なんでこんなことしたかというと、ひとことではとても云えないが、ちょっとワードプレスの運用に疑問を持ちはじめたというのがあって、このサイトレベルのことなら別にワードプレスのような大がかりなしかけでやらなくたっていいのではないかということがあります。サイトはどうしても重いし、運用は素人でもできるくせにメンテナンスがなかなか大変で複雑で、いやになってきたなというのがひとつ。

 要するに、なんかめんどくさくなったというわけです。いち素人が管理して運用するには、ただの会員制サイトとはいえちょっと負担がでかすぎた。たぶん訪問する方にも負担がでかすぎたと思う。素人でもこの程度のことならやれるということがわかったので、それはそれでいいのですが、でもやっぱりいたずらにIDパスワードを増やすのってよくないと思うし、そもそもこのパスワード制というやつにだってわたしは非常に疑問を持っているし、そういういくつもある矛盾というものを、ちょっとここらで整理したほうがいいのではないかと思いました。

 これが技術的な話ですね。作品とそれを出すということの観点でいうと、わたしはやっぱり自分の作品を外部に置くのが好きじゃないんですよ。さっきピクシブに投稿して改めて思ったんだけども。こういう人間からすると、外部サイトに置いておいたら読んでもらえるということのメリットをとるのか、あくまで自分の作品なんだからおれの家の中でおれの考える最高の棚に置いておきたいと思うのかは、ちょっとむずかしい問題なわけです。このへんのことになるとわたしのプライドはすぐさましゃしゃり出てきて、ピクシブでもの読むなんて読みにくいだろうしろくに読めねえだろ書いてるおれもたいしたことねえからおあいこだけどよ、ちくしょう、みたいなことを考えたりするわけです。
 まあでも考えてみたら、これは自分の気持ちや美意識には誠実なわけだけど、それは書いてる人間の話であって、作品から見た作品としての幸せってなんなのかしらね、という問題もあるわけですね。書いた以上読んでもらうことが作品の幸せなのだとすれば、どの棚に置こうが、どんな状態で陳列されていようが、関係ねえよおれは、と作品が思っている可能性もあるわけだ。

 作品の幸福とはなにか。読まれること? では誰に読まれるためなのか。できるだけ多くの人にか。でも読んだ人みんながその作品を理解するわけではない。多くの人間は、作品を理解する以前に消費して終わってしまう。だから、自分の作品を消費されたくないと思うなら、理解ある人を探してきて、ほんとに真面目に作品を読むということがいったいどういうことであるのかを知っている人間を探してきて、その人に読んでもらえばいいのかもしれない。でもどうやって? だいたいそんな人そのへんにいる? どうやって見つけんの? 見つかんの? じゃあどうする? もうめんどくさいから、作品出すのやめよっか?

 いやいや、ちょっと待ってほしい。作品は作品それ自体として存在するのではないのか? わたしは幸福にもいくらかの作品の生みの親らしいが、しかしこれらはほんとに自分が書いたのだろうか。たしかに自分の時間は使っただろうけれども、これはわたしなのか、という問題は残る。わたしの作品はわたしのものなのか、という問題は。子どもが親のものかどうかという問題のように。たしかに親のものとは云えないようだが、それをほんとうに真面目に受けとって理解するのは、たぶんかなり難しいことだろう。

 ここまで来ると、もはや作品を前にして陳列棚がどうこう云うのはおのれのエゴではないかという気がしてくる。いや間違いなくエゴなのだが。美意識というのはあらゆる意識と同様厄介なものなので、これがなにもないならないで問題だが、あるならあるでこれもまた問題だったりするわけだ。態度が固定できるならそれはそれでいい。おれは絶対に貴様らに妥協などせぬ、貴様がたのいいようにはさせぬ、おれは銀行口座も持たぬぞ納税もせぬぞ、みたいな態度を死ぬまで続けられるならそれはそれでとてもすばらしいことだ。あるいは「ねえねえねえねえねえねえ、見て見て見て見て見て見て見て!」みたいなやつだったらこれもこれでまたつき抜けていて幸せなわけである。
 で、どっちかに態度を決められるだけの幸福な性格あるいは根性が、自分にはあるのかという話なのだ。われわれの多くはたぶんどっちつかずであって、ねえねえモードと貴様ら死ねモードが同居しており、常にそのあいだを揺れうごいている。わたしはかなり容易に貴様ら死ねモードになる人間だが、ねえねえモードがないかといったらそんなことない。そのバランスのとり方を、ずっと模索しているし、これからもするような気がする。

 もしかすると、われわれが持っていると思うものは、ほんとうになにひとつ自分のものではないかもしれない。自分の感情や思考や知恵や自分の手が作るものも、なにひとつ自分のものではないかもしれない。そこにむなしさがあるかもしれない。だがそのむなしさのために、信仰は神がいると力強く云うのだし、なにも持たないことこそ神の子たる資格なのだという。このなにも持たないという意味を、どのようにとるかということで、全てが変わるような気がする。人間は、なにかは持っていたいものだ。なにかはコントロールできる安心感を持ちたいものだ。そしてたいていのものはコントロールできないことに絶望する。自分自身も統御できなければ、他人などもってのほかで、自然現象も、時間も、なにもかもわたしの手を離れたところにある。だがこのわたしの手を離れているといういらだたしいところに、奇跡が起こる余地があり、神が立ちあらわれる余地がある。これはどうもほんとうだ。自分が握りしめてなどいないと思っているものを、人はほんとうに握りしめている。わたしは束縛してなどいないと思っているものをこそ、人は本当に束縛している。そのことに気がつけるかどうか。問題はただそれだけのことである。ただそれだけのことであるが、これはずいぶんえらいことである。

 長々と書いてきたけれども、要するに、わたしはわたしの作品をきれいな棚に飾って自分の家に置いておくことから、少しはなれてみよう。やはりそれではほこりまみれになり、子どもがベタベタした手で触ったりするからいやだということになったら、また引っこめてみる。そういうことにしてみよう。わたしはいつも両極端へ向かう性向があるので、またそのうち貴様ら死ねモードになりそうだが、そのときはそのときである。作品を全部消去すればいいだけの話だ。それはとてもかんたんなことである。ほかのすべてのことと同じように。

 ともかくも、そんなようなしだいで、会員制をやめることにした。登録していただいた皆様どうもありがとうございました。また引きこもりたくなったら、そのときはそう云います。