CCをプレイしたことを報告します|あと小説の進捗

 皆さんこんばんは。夜中のマスダです。最近軽躁期なのであまり寝なくても平気です。直接の関係があるかどうかわからないですがけっこうFF7のせいだと思います。

 表題の件。まずは進捗から。
 先月あたりから書いていたやつが無事200枚を超え、ようやく自分がなに書かなければならないか見えてきました。1ヶ月くらいまじで取り組むと、ようやくなにをすべきなのかが見えてくる。すばらしい。小説ってそういうものだ。最終的に、やっぱり500枚くらいになる気がします、このペースでいくと。セフィロスさんとクラウドさんとザックスさんがある事件にとりくむことになるのだが……。今回は、昔懐かしい旧サイトの「盗まれた鏡をめぐる冒険」に対して個人的に挑んでいる感じがある。あれも原作にない舞台を設定するところから始まったのだが、今回もそうなる。原作に出てきていない場所を、その文化や歴史を含めて創作することは、たいへん愉快なことだが、自分の知識のなさを痛感することでもある。またプレジデントがセフィロスさんを休暇に行かせるのも同じだが、プレジデントとセフィロスさんの関係はかなり複雑で愉快な感じになっている。なんだかヴァリエーションを作っているような気分。作曲なんかしたことないけど。
 まあこの8年でわたしがどこまで成長したかね……ほとんど成長していないような気がするがね……出来上がりまで気長に待っててください。

 次、CC。CCFF7をついにやりました。終わりました。10月6日のことです。それからもう10日経ってるんですが、いっこうに結論がまとまらないので一応ご報告だけと思って。
 一連のコンピレーションは、正直に云って結局あとから出てきたものなので、それも原作からだいぶたってから出てきたものなので、わたしの中では特にあってもなくても同じというか、ないならないでやっていけるわけです。でもそれぞれの作品でまた微妙に違ってもいて、たとえばACはわたしのクラウド理解がかなり深まった作品であって、あれがないとわたしのクラウドはわたしのクラウドでなかったと思う。たとえばわたしのクラウドがなんでも分解したり作ったりするのは、あの合体剣を作らせて持ち歩くようなとこにそういう気質を感じとったからだし、わたしのクラウドさんがセフィロスさんの前でやたら態度が違うのはもう何度も云っているけど彼のティファとの会話における曰くありげな微笑のせいだし(彼の世界認識は端的に「セフィロスっていうか自分|その他」なのだ。これはセフィロスさんよりクラウドさんに顕著なことだと思う、あのACを見るかぎりは)、あの微笑がわたしの世界を崩壊させてしまったが、まあそんなこんなでACはとてもよかった、よかったというか、あれは自己でない世界を嫌悪する極端に内向的なタイプの人間の苦しみが非常によく出ていて、なんであの作品だけあんなにギリギリでうまいところにはまったんだと思ってわたしはびっくりしてしまう。いや奇跡だと思うよ実際。あとちょっと崩れたら、見るも無残な作品になっていたと思う。

 なんかACの話になってしまったからどうせだから続けるけど、ACのクラウドさんが苦しんでるのは結局外の世界とのバランスであって、根本にあるのは自己でない世界、現象している世界への本能的嫌悪なのだ。彼のようなタイプは、自己の内的経験のみしか真実に経験することができない。それ以外のもの、自己でないもの、すなわち世界は、彼には苦痛なのだ。自己と他者の対立するその対立に彼はたぶん常に苦しんでいる。だから、この苦しみを知らない人に彼のことは多分わからない。そういう人は、無印7において彼がなにをしたのかも、どこを冒険してなにを手に入れたのかも、たぶんわからないだろう。

 CCは……CCは、正直に云ってわからなかった。ほんとにすがすがしいくらいなにもわからなかった。たぶんタイプの問題だと思うが。これはザックスの話で、ザックスのような現実的な男が世界を見るとき、それはクラウドが世界を見るのとはまるで違ってしまう。わたしはクラウドのした/している冒険のことはとてもよくわかる。でもザックスのような男がものごとをどう見ていて、どう感じているのか、わたしには正直確信が持てないし、それはわたしがものを経験する次元と決定的に異なっていて、たぶん、解釈や内在化のようなものを含まない。彼は物語をつくらない、創る必要がないからだ。彼は創造的な人種ではない、少なくとも、クラウドが自己を物語として語り直さねばならない人間であるようには物語を必要としない。彼の世界に文学という内的経験の層はない。ゆえにわたしはザックスがなにを経験したのか、理解できない。ザックスの視点を通しては、わたしにはセフィロスもジェネシスもアンジールも、どういう人間なのかさっぱりわからなかった。彼は解釈しない。ただそのままに放っておくのだ。彼は考えない。現実はただ現実であり、起きたことは起きたままにされ、ゆえに彼の生とは単に回想にすぎない。そういう意味だと思った、あのDMW? だっけ? というシステムを見ていてそう思った。クラウドにはすべての出来事と行動に内的必然性があり現実とは別に彼の内的経験の世界がある。そしてその内的経験の世界が彼の世界を構成しているが、ザックスはそうでないのだ。

 と、ここまで書いてきてここからなぜか急に辛口になるけど、この作品はどうも思わせぶりな雰囲気に満ちてはいるが肝心の中身がなにも見えてこないという感じを免れない。LOVELESSは叙事詩らしいが、そして叙事詩というのはジェネシスの名字がギリシア語のラプソードス(語り手)であることから推してホメロスの叙事詩ならびに叙事詩の輪と呼ばれる一連の詩を暗に指しており少なくともそれに類したなにかであることはほぼ疑いないことであるが、これはいったいヘクサメトロンで書かれたホメロスの叙事詩的叙事詩なのだろうか? どうもそうは思えない。ホメロスは深淵の謎、それは女神の贈り物なんてことは云わない。いやこれは現実の世界ではないのだからそんなことはどうでもいいではないかと云われるとはいそうですとしか云えないのだが、少なくともラプソードスという言葉を持ち出してくるのならば、文体として思想としてそれ相応のものが欲しくなるではないか。ホメロスの天才には誰も及ばないにしてもである。このラプソードスは、アオイドスと呼ばれる初期の吟唱歌人と比較して、創作するというより固定されたテクストを伝承していった語り手たちらしいので、その意味ではジェネシスのやっていることにあっていないこともないと思うが(彼はテクストをくり返し、再現するだけだから)、しかしそれにしても話がわからん。ジェネシスがなにしたかったかさっぱりわからないし、セフィロスさんの行動も矛盾だらけだ。ミネルバとは? きみはなぜローマの神なのだ、このラプソードスだのヒューレーだのがいるギリシアの世界において。ギリシアを征服するからか?
 この点についてなお考えてみれば、たとえばのちのローマの詩人たちは、ギリシアの韻律ヘクサメトロンを自国の叙事詩にとり入れるべく血を流すような努力をして、その結果としてたとえばウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』などの傑作ができたのである。このローマの詩に対するギリシアの絶大な影響を思うとき、片翼の天使において用いられているカルミナ・ブラーナのラテン語詩までつながることに思いを馳せれば、かろうじてなにかがつながってくるだろうか。ちなみにACにおける片翼の天使の歌詞は(などと話題があちこちに飛ぶが)、先に意味ありきでこの韻律という非常に重要な要素をあまり考慮していないため、カルミナ・ブラーナの歌詞にくらべてやはりどうしても聞き苦しいのである。

 先に意味ありき……いまなにげなくこのことを書いたが、これはたぶん、一連のコンピレーション作品のすべてに共通しているような気がする(BCとDCはやってないけど)。ACとCCにおいてわれわれに強制されている(とあえて云う)のは、原作のFF7を知っており、そのうえで、製作者たちの内輪の発想的なノリについていくことであるような気がする。コンピレーションという枠組みであることを最大限に考慮しても、なんというか必要な説明がどこにも足りていない。思わせぶりだというのはそういう意味で、ACが成立しているのが奇跡だというのはそういう意味だ。わたしがこんなに過剰にクラウドさんに肩入れしていなかったら、ACだってたぶん一ミリも理解できないで終わっていたと思うし、いまだって理解できているとは思えない。

(わたしはたいへん自己中心的な解釈者だ、というよりわたしもまた解釈しない。解釈するには客観性が足りず、内的体験が勝ちすぎるのだ。そのことは頭に入れておいてほしい)

 もっとも、わたしはひどく偏った文学作法にしか通じていないから、これがゲーム作品とその周辺の伝達と解釈の作法なのだと云われればそうですかと云うだろう。そしてんなもんくそくらえだ、と思いながらわたしはわたしの創作をする。
 だって無印7はCCに比べてはるかに複雑なストーリー構成をしていると思うけど、でも普通にプレイしているだけでしかけはわかるはずだ。そしてさらなる理解を求めて2周めに行くはずなのだ。CCには、残念ながらその引力がない。これはあのザックスが受け入れられるかどうとかいう問題とは全然別のもので、作品のボリュームや媒体の制限などともまったく別のものだ。わたしはCCのザックスをザックスとしては一瞬も認識していなかった。まったくすがすがしいほどに認識していなかった。プレイ中、わたしはザックスとされているキャラを動かしていて、セフィロスとされている人とクラウドとされている人に会ったみたいな気分だった。なぜわたしはこんなに醒めていたのだ。なぜわたしをここまで醒めたままにしておかせることができたのだと問いつめたい。わたしはやっぱりゲームに向いていない。

 さらになお、ジェネシス・ラプソードスとホメロスに内在する英雄叙事詩をくつがえす英雄像との接点など、考えたいことは山ほどあるが、これらは考えるに値するだろうか。これ、もう一回丁寧にプレイしたらストーリーの全体が頭に入ってくるようになるのだろうか? わたしには見落としている情報がありすぎるということなのだろうか。わからない。そうかもしれない。でも根本的になにか認識の方法がぜんぜん違う人が作ったという感覚からのがれることができないので、何度やってもわからないかもしれない。ただでさえ、わたしはわかることが非常に少ないのだし。おまけにゲームとして面白いかどうかというようなことは、批評する資格すらない。
 やっぱり無印7がすごく特別だったのだ、と思う。あれ以外のゲームでまじめにプレイしたことのあるものなんて数えるくらいしかない。わたしはいつもそうだ。体系的理解といったものからは、わたしはもっとも遠いところにいる。わたしはただ個別のものと関係を結ぶだけだ。しかも非常に情緒的な関係だ。情緒的でありいちじるしい内在化を含む。この内在化を起こせないなら、わたしは理解の入り口にも立つことができない。わたしを入り口に立たせるものとはなにか? 共感である。クラウドへの共感でありセフィロスへの共感である。この共感はおそろしく生々しくてひとりよがりだが強烈なやつだ。この強烈さを持てないなら、ものを好きになることなどかなわないというくらいのやつだ。たとえ誤謬に満ちていても、この共感のあるところ、わたしは愛し、信じて進むだろう。