昔のサイトをアップ|メニューに「Archives」を追加

 マスダです。メニューバーにArchivesなる項目が追加されたかと思いますが、

1.お遊びの別館
2.昔のFF7サイト
3.倉庫
4.一次創作サイト

 へそれぞれ行けるようになっております。特筆すべきは2ですが、なんのことはない昔のFF7サイトにちょっと手を加えて上げなおしただけのことで、ほぼそのままです。昔の小説に関してはこっちに全部まとまっていることになるので、こっちのほうが見やすいかもしれない。
 ロゴに昔のサイトアドレスが書いてありますが、ドメインはもう契約してないので、なんか表示されたとしてもうちとは無関係です。スマホからだと全体が縮小されたいへん見にくいです。当時のいろんな技術を結集したものですが、もう10年も前のものですので、あくまでお遊びだと思ってください。

 以下急にこんなことした理由など。

 特にないといえばないのですが、このサイトもなんだかんだで再開してから1年くらい経ってしまい、昔のサイトはそういえば2年かそこらでやめてまったな、と思って、若かりしころの記録用に残しておくものです。
 最近思ったのですが、わたしの契約しているサーバーにはひとりではとても使いきれないくらいの容量があって、写真や絵や動画をたくさん使用する人はいいだろうけれども、わたしの場合ほぼ文字だけであるからして、なんならもうこれまでに書いた作品なんかみんなぶちこんでしまったところでどうってことないのではないか、などと思った次第です。このサイトのドメイン自体は2007年だかそれくらいからかれこれ15年くらい使い続けているので、もう更新し忘れたとき以外はずっとわたしのものだろうと思うし、わたしが消さない限りこの先なにも消えていかないと思う。
 作者というのは勝手なものなので、自分の作品を憎むあまり消したくなり、自分の心の整理のために消したくなり、とかく自己都合によって作品を虐待しがちなのであるが、作品というものはそのようにおのれの分身のように扱うにはあまりにもなにか自分とは別のものを帯びている。そうしたものどもを、自己都合というむなしいものによって消滅させるのは、自己が自己の思うままになると信じているのと同様、なにか非常に醜悪な自我の妄想に過ぎないかもしれないと思う。

 といって、わたしは自己の作品が尊いと信じているというわけでもない。そうではなくて、作品の価値は作品自体のうちにありつつ、もっと云えば、それを読む人間の側にあり、それはもはやわたしの制御を超えたものでありわたし自身がどうこうできるものではないというような意味で云っている。これをもっとつきつめて考えていくに、たとえば作品に値段をつけることであるとか、作品を販売することであるとか、そうしたことにいったいいかなる意味があるか、そもそもそれは有意味であるかどうか、というようなところまで話は進んでいくわけであって、こんな疑問にまで読者の皆さんを巻きこむつもりはないが、とにかくわたし自身のなかでも自己の作品に対する意味や態度といったものは変化する。それこそ日々変化する。それが自然な人情ではないか。
 いまの段階では、わたしは作品というものに対し、書いている段階では作者の内的な対話以上の意味を持たないかもしれないが、それがいざ完成したときには、なにかわたしの手を離れ、わたしに権利があるなにものかではなくなる、というような感じを持っている。自己が持っていると思っていた権利を手ばなす、ということは、義務を手ばなすということではないし、責任を手ばなすということとも違うが、そこにまつわる我を手ばなす、といったら伝わるだろうか。権利とは、ときに我の意識のように思われなくもない。いかに我執をなくすべきか? 仏教のみならず、広く宗教の課題であり人間のテーマである。だが我執をまったくなくしてしまったところには、なにが残るのだろう。すべては空であるかもしれないが、われわれの世界はいまこの瞬間に空であることはできない。少なくとも、わたしとあなたのあいだにおいては。