Bliss

ピュグマリオン

 町の画材屋はほこりっぽく、暗く、狭い店内にイーゼルや絵の具や筆、定規、スケッチブックなどがごたごたと並んでいる。店のおやじは明らかに、商売人というより画家になりそこねた内向的な人間の顔をしている。みじかく刈り上げた髪はてっぺんが大きく丸くはげ上がっている。値段を忘れたり、商品がどこにあるのか見当がつかないと、おやじはそこを平べったい手でつるりとなでる。そして低くて聞きとりにくい声で、ちょいとお待ちを、と云って、カウンターの奥の、書類が山積みになった棚に向かって体をひねる。
 本来ならもっとにぎわってもいいはずの店内に、客の姿は少ない。この町は、新進気鋭の芸術家たちによる、新しい町だ。ジェノバ戦役後しばらくたってから建設がはじまり、ある破天荒な画家がその破天荒な生涯の終盤をこの町の創立とともに送ったことで、いつの間にか芸術家と芸術家くずれの集まる町になってしまった。詩人、文士、彫刻家、画家、雑多な現代アートの担い手たち、そしてそれになれなかった者たち、あるいはなることをあきらめきれない者たちが、町の一画にいつの間にかかたまって、この町を不思議に活気のある、豊かなものにしている。昼間から酒場で飲んだくれ、ただでさえ激高しやすい連中が、議論や関係のもつれから死ねの殺すのといった騒動を起こし、たいていの人間は、なにをしてどうやって飯を食っているのか、自分自身にも他人にも説明ができない。そのくせ、ウータイ地方で仙人になる修行をしたという老人が、食物を摂取せずに生きてゆく方法などと銘打って講義を開けば、みんなどこかから金をかきあつめて参加する。この老人は町のちょっとしたグルだが、しめくくりの言葉はこうだ。
「星と調和せよ。星の豊かで清浄なエネルギーをなんじのものとせよ。しからばなんじ自身もまた清浄なり。オーム」
 そうしてみんなして、間延びしたような声で、森羅万象の聖なる音である「オーム」をくりかえす。
 そうしたわけで、町には画家の見本市のごとくにありとあらゆる画家が住んでいるのだから、この画材屋も本当ならもうすこし繁盛してもいいはずだが、客の姿はまばらだ。あいにくと、目抜き通りにもっと清潔で、大きくて、品ぞろえのいい文具屋があるせいだ。おまけに値段もそちらのほうが安いときては、ほとんどの人間は、明らかにそちらのほうを好む。
 目抜き通りの店と、この小さな路地裏の店のどちらを選ぶかが、いわば人間のわかれ目なのだ。セフィロスはそう考え、クラウドにもそう云った。大通りの店を選ぶなら、それは清潔な、まったく清浄な町の市民である。デパートや公園や通りのレストランが彼らの居場所である。一方で、路地裏のうらぶれた店を選ぶ者は、詩と文学のなかに住み、人間の内面の世界を楽しもうとする傾向をもった人間なのだ。外のととのった、文明的な世界ではなしに。
 クラウドはふうんと云った。それから、みんなでどんちゃん騒ぎしながら飲むやつと、部屋でひとりで陰気に飲んでるやつの違いみたいなもん? と云った。セフィロスはそれをじっくり考え、想像し、実にぴったりなたとえだったので、笑ってしまった。彼はクラウドの、抜群に皮肉の効いた、地に足のついた比喩表現能力を、心から愛していた。
 画材屋の店主は、間違いなくひとり部屋で陰気に飲むタイプだ。セフィロスが店に入っていくと、店主はカウンターの奥に陰鬱な顔で座っていて、カタログのようなものを繰っていた。客のほうへ顔を上げようともしない。こんなことではしょっちゅう商品を盗まれてしまうのではないだろうか。セフィロスはこの店主の無頓着な、厭世的な顔だちに、もはや愛着のようなものを抱きはじめている。画家になりそこねた、芸術家の魂をもった芸術家くずれ。だが絵が売れる画家の魂と、この画家になりそこねた男の魂のあいだに、いったいどんな違いがあるものか。
 セフィロスがスケッチブックと鉛筆をカウンターへ持って行くと、店主はやはりこちらとちっとも目を合わせないで、興味もなさそうに、金を受けとる。店にはもう何度か来ているのだが、まともな会話をしたことは一度もない。それでいて、彼らはお互いに、確かに相手と自分は知りあいだと思っているのだ。なにか奇妙な同胞意識が、魂の同じ側の影のようなものを互いにもちあわせているのだ、という意識が、ふたりを会話や社交とはまったく別のやりかたで、別の次元で、知りあいにしてしまった。それは言語によらないし、身ぶりや手ぶりによるのでもない。ただ相手の存在から感じられる、ある魂の傾きが、ふたりを引きあわせ、知りあいの意識をもたせたのだ。
 むき出しの鋭利な魂で生きる者よ。店を出てからセフィロスは思わず微笑んだ。その無関心な鎧の下に、なんという繊細な魂を、あの男はもっていることだろう。内向的な灰色の目、あきらめたような口もと、いやいやながら生きているといったしぐさ。生の矛盾よ、純度の高い魂の前に、おまえはなんと残酷に映ることだろう。だがすべてはそこから生まれる。芸術も、愛も、悲しみも痛みも、この世を彩るすべては、そこから生まれる。この世はなんと苦しみに満ちて、美しいことだろう。

 クラウドは午前の客対応が長引いて、少し遅れてやってくるはずだった。彼は心から労働を愛してやまない男だった。自分の体で日々の糧を稼ぎだすというこのごく単純で、必然の営為は、クラウドの体にぴったりした服のようになじむ。この町に住みはじめてから三ヶ月になるが、クラウドは町へやってきたその日にバイクを買いに行き、買った店にやとわれて帰ってきた。彼はそういう男で、これまでに、一日たりともこの誓いを破ったことはない。
「おれはね、十五のときから、おれがあんたを養わなきゃならないんだと思ってんの。あんたみたいな半分あっちの世界で生きてる人のこと働かせたら、おれは人でなしだよ」
 半分あっちの世界で生きている誰しもが……つまりは芸術家の魂をもった誰しもが……このような伴侶に恵まれるというわけではない。たいていは現実の頑固さの前に膝を屈して、そしてあの画材屋の店主のようになるのだ。魂の半分はかろうじて生きているが、半分は死んでいる。無限を求め、美を求めてさすらう魂は、現実の牢獄のなかで手枷足枷をはめられて、やがてはその高貴なあこがれを痛みとともに封じこめ忘れさるか、あるいはもっと小さな、くだらないものに向けてしまうのだ。
 セフィロスは待ちあわせのレストランのテラス席で、買ったばかりの画帳と鉛筆を広げた。新しい鉛筆のつるつるした手触りと、新しい画帳の真っ白な処女地のごときページが、彼を愉快な気分にさせた。目抜き通りに向かって解放された席から、目の前の通りを彼は描いた。おおざっぱに、大づかみに、ざくざくとした筆遣いで。絵を描くのは好きだった。詩人にはなれそうにないが、絵描きにならばなれる気がする。いずれにしても、やることは同じだ。対象を愛して、包みこみ、慈しむ。こうしていると、きっといかにも画家くずれに見えるだろう。この町によくいる、見た目も中身も正体不明といった画家たちと同じ人種に、自分も見えるだろう。それはとても愉快なことだった。
 バイクのエンジン音が近づいてきて、どこか店の近くでとまった。しばらくして、クラウドが席にあらわれた。かけていたサングラスをはずして、ちょっと生意気に見えるしぐさで髪をなおしてから、椅子を引いて座った。
「買えたの、スケッチブックだか」
 セフィロスはまだ鉛筆を動かしながら、ん、とおざなりに返事をした。もう少し描いて、それから画帳を閉じ、クラウドを見た。クラウドはメニューを見ていた。朝ぶりで、朝と変わらずに美しかった。「初の給料」で買ったまがいもののシルバーのピアスが左耳に揺れていた。彼は新入りなので、まだ本物を買えるほどの給料はもらえない。初の給料日、クラウドはそいつをさっそく耳からぶらさげて、その足で、セフィロスを書店に放りこんだ。財布を投げてよこして、これあんたの、今月ぶん、足りなかったら早めに云って、と云いおいて、自分は意気揚々と雑誌のコーナーに突進していった。あの画材屋は、その日の帰りに見つけた。この町らしく、画家ぶってみるのもいいだろうと、セフィロスはそのときに思いついたのだ。
「絵描きね」
 クラウドは吟味するように、ちょっと皮肉っぽく首を傾けて云った。
「別にならなくても、あんた昔から絵描きだった気もするけどな。あんたがどこにでも大事に持ってく捨てられないスケッチブックに、なに描いてるか知ってるよ、おれは」
 セフィロスには昔から、ひまを感じるとクラウドを描きはじめるくせがある。実物を見なくても、セフィロスのなかにはクラウドに関する記憶があふれかえっている。クラウドはいつの間にか大量になってしまったセフィロスの捨てられないスケッチブックの数々を、大いにからかいをこめて「セフィロスさんのクラウドコレクション」と呼んでいる。「十八歳未満閲覧禁止のやつ」は特に彼のお気に入りだ。もちろんセフィロスのお気に入りでもある。
 レストランは大がかりなビルとビルのあいだにはさまるようにして建っている、二階建ての古くて小さな店で、店内よりテラス席のほうが圧倒的に広く、思い思いの格好の人たちが、思い思いのものを食べている。この小さな店で出される料理は、クラウドにとってふるさとの味というわけではないが、近いものがあるらしい。店主がニブル地方に近いところの出で、クラウドいわく「似たような貧しい食生活」のおもかげが感じられるとのこと。肉などめったになく、出たとしても「たまに豆まみれのスープのなかに、細切れの切れっぱしがお情け程度に浮いて」いるだけで、「タンパク質といえばたいがい干からびたチーズと漬けた魚しかな」く、「腹一杯遠慮なく食えるのは芋だけ」で、その芋ですら「霜にやられると全滅」して住民をおののかせる。クラウドのうるわしい故郷ニブルヘイムは「墓場のどんづまりみたいな村」なのだ。
 その墓場村の貧しくも美しい伝統食に近い、ディルをそえたニシンのオイル漬けと山盛りのゆでただけの芋を、クラウドは文句も云わずに食べはじめる。とにかくなにがなんでも食えるときに食えるものを食わねばならぬ、という人生の厳しい掟は、彼の体に染みついている。いざとなれば、ニブル山の獣どもと争ってでも、食わねばならぬ。なんなら獣ごと食わねばならぬ。生きるためには。
「おかしい」
 クラウドはふいに云った。
「どう考えても、こんな目抜き通りのど真ん中で、こんなまずくて手のかかってない料理、流行るわけないと思うんだ」
「いや、郷愁の力をなめてはいけない。おまえのように、そのまずくて手のかかっていない料理にどうしようもない郷愁を感じてしまう一団が、きっといるような気がする。現におまえも週に三度はここに来ているし」
「おれは粗末なものを食ってたほうがやる気の出るタイプなんだよ。いまに見てろよって思うだろ」
「いまさらなにを見せるものがあるのだか」
「なんだろ、収入? 独立? それもいいな。事業興して、一国一城のあるじになる。で、あんたは左うちわで貴族じみた生活をする」
「金持ちの画家ほどつまらないものはない」
「じゃあ、どんな画家ならつまるわけ?」
「金がなく、職もなく、なにかをまじめにやる気もなくて、誰かにたかっているか、ヒモになっている」
「いまと一緒じゃないか」
「美しい人に熱中して、追いかけ回し、痴情のもつれのあるたびに死にかける。もらった金はその日のうちになくなってしまう。金をどうしたのかと訊かれたらこう答える、そんなことはいちいち覚えていられない、おれは生きるのに忙しい」
「ああ、あんたのことだ……」
 クラウドはわざとらしく天を仰いだ。
「こんなのに惚れられたのが運の尽きだよ。十五のときから思ってた。おれきっと、この人のために生涯馬車馬みたいに働かなきゃならないなって」
「当たらずも遠からずだが、いやなら早く別れればよかったのに」
「どうやって。おれ以外に、誰があんたみたいなのの面倒なんか見るんだ。絶対無理だろ。責任感が強い男なんだよ、おれは……」
 それはほんとうだった。もうずっと昔から、クラウドはセフィロスの存在に責任を持つためにいるようなものだ。そしてそのかわりに、セフィロスはクラウドの存在に責任を負っている。クラウドは「後始末」という。おれはあんたの後始末ばっかりしてる。で、あんたはおれの後始末ばっかりしてる。まあ、どっちもどっちだね。
 その責任感の強い男は、ニシンと山盛りの芋と「しけたしょっぱい」豆のスープを食べ終えると、また仕事に戻るために店を出ていった。まずいのしなびているのしょっぱいのとさんざん文句を云うくせに、毎回完食するし、店に通うのはやめない。彼はこの店に愛着をもってしまったのだ。そしてそれはすばらしいことだ。説明のつかない愛着のひとつももてない人間に、ろくなことができるわけがない。

 クラウドはベッドに寝そべったまま、頬杖をついて電話で話をしている。ベッドは広く大きい。クラウドがいつも真っ先に気にするのがこのベッドの問題で、条件はただひとつ、「あんたが好きなだけ暴れてもいいやつ」。セフィロスはそのクラウド期待のひと暴れを終えて、クラウドのまだどこか湿ってほてったような肌を楽しんでいた。
「おれは大丈夫、仕事は見つけた……なんだと思う? 先に云うけど風俗じゃない、残念……」
 電話の向こうで真っ赤になっているだろう男の顔を想像して、セフィロスは微笑んだ。リーブ・トゥエスティは、長年世界再生機構を率いてきたトップであり、あきらかに世界最重要人物のひとりだが、クラウドいわく「チャンピオン級のカタブツ」で「結婚できたのが奇跡」で「奥さんに乗っかるんじゃなく乗っかられてなし崩し的にやられるほう」だ。
 セフィロスが肉体をとりもどしてしばらくたったころ、うっかりしてタークスの面々に見つかってしまったことがあるが、リーブはそれ以来「クラウドさん」をいたく気にかけている。クラウドによると、リーブの個人的な会計のなかに「クラウドさん予算」というのがあるらしい。長くひとところにとどまれないためにあちこちを転々としながら暮らすふたりに、あるときは身分証を発行し、身元保証人をつけ、家を借りたり生活用品をそろえるのに必要な資金、ということらしい。
「おれ、だから、首まで借金まみれなんだよ。あいつにいくら借金してるんだか、くたばる前に返せるかな……もうけっこう歳だからな……」
 その理屈に従えば、クラウドは数ヶ月前にさらなる借金を重ねたことになる。とはいえそれは自発的なものではなくて、リーブのほうから誘われたのだが、そんなことははじめてだった。ふたりは突然、リーブの所有する部屋のひとつに呼び出された。
 むやみやたらと親戚の多い人間というのがいるが、リーブ・トゥエスティはその見本みたいなやつで、世話をしたり、相談に乗ったり、もめごとを解決してやらねばならない親戚をあちこちに抱えていた。自分があまりにもまじめにつきあいすぎるせいだとは本人も気づいているのだが、性格はどうにもしようがない。トゥエスティ一族の結束の堅さを呪うしかないが、リーブの話はこうだった。
 誇り高きトゥエスティの一族に、一族の期待を裏切り、画家になるなどという愚かきわまりない無思慮な野望を抱いて、家を出たひとりの男がいた。男はどうやって生きていたのか、誰もよくは知らなかったが、ともかく老年まで生きぬいて、この町でひっそりとその生涯を閉じた。親族とは縁を切っており、またおよそ財産などと呼べるものはびた一文残さなかった人間の常として、誰もこの男の遺体をひきとったり、葬式を出したり、部屋の撤去費用を出そうとしたりする者はいなかった。そして結局、リーブにお鉢が回ってきた。リーブ自身、その男には会ったこともなかったが、なにがしか血のつながった者が死んだときに知らん顔をしていたなどということがあっては、トゥエスティ一族は世の終わりをまたいでまで神に呪われるであろう。
「それがね、予想に反して、実に感じのいいアトリエだったんですよ」
 親戚の後始末をするなどという仕事は、代わりの者にいくらでもやらせることができるのに、そうしないのがリーブのリーブらしいところだった。
「仮にもひとりの人間が生きて、死んだわけでしょ。その生活や思想や姿の、まあ断片でも、誰かが受けとめてあげないとかわいそうじゃありませんか」
 リーブは云った。「そういうとこくそまじめ」とクラウドはあとで感心したように云ったのだが。
 そのときふたりはリーブの個人的な「避難所」のひとつにいた。仕事に忙殺され、自分が人間としてなにか大切なものを失いかけていると感じるか、あるいは精神が磨耗したのを感じたときに、何日か心を休められるような場所を、リーブはいくつか持っていた。そのうちのひとつに、彼らは招かれ、テーブルを囲んで話していた。とても感じのいい部屋で、政治家や成功者の部屋というより、内省的な人間の部屋だった。美しく整えられているが、どこか堅実で、過剰に踏みはずすことがない。たとえばあの青みがかったカーテンは、もっと大胆に深い青緑でも使えば面白いアクセントになったろうが、この部屋の主にはおそらくそれは逸脱と感じられるのだ。
「ともかく、いいアパートだったんですよ。広々しているとまでは云えないんですけどね、絵を描いたり道具をしまっておいたりするには十分な広さのリビングと、寝室と、バスルームと。三階にあって、日当たりがよく、プラタナスの木陰が窓辺にかかっている。通りにはかぐわしくリラの花が咲いている。わたしが使ってもいいなと思うようでしたよ。実際には、あの町へ行くような用事はないだろうから、そんな機会もないでしょうけど」
 クラウドは美しい皿に盛られた、高級そうな焼き菓子にバターをぬりたくってかぶりついていた。プラタナスやリラの感傷的な描写も、クラウドの食欲の前には裸足で逃げだすしかない。食うとなったら、彼はどこまでも食べぬいてみせる。生きるとは、食うことだ、いのちを殺して。それが人間の真実だと、なぜ彼はこんなに素直に知っていて、体現できるのだろう。
 リーブは元気に食べているクラウドを見て微笑んだ。クラウドが食べ、飲むためなら、たぶんこの男はなんでも差しだすだろう。
「でもなんだか手放すには惜しいので、結局、わたし名義で借りてしまいました。なぜかはよくわかりませんが。それで、あとから気がついたんです、あなたがたが新しく住むのにどうかなと……いまは山男になっているとクラウドさんがいつだか云ったのを、ふいに思いだしたもんですから。ご自分で小屋を建ててしまったとも……山男でいるのはそりゃあ楽しいでしょうが、また久々に、ちょっと人の集まるところへ出ていらしたらいかがだろう。あの町は新しい町で、住民も若い人たちが多いし、あまり不都合はないのでは……そんなふうに思いまして……」
 クラウドはテーブルの上のありったけのものを平らげる勢いで食べていた。山男を長くやっていたので、実のところこんな文明的な食べ物は久しぶりだったのだ。食べていた小ぶりなサンドイッチを飲みこむと、クラウドはセフィロスを見上げてきた。
「だってさ」
 云いながら指で唇をぬぐい、指先をちょっとしゃぶって、紅茶をとりあげ、ごくごく飲みだした。いつまでたっても、こういう子どもっぽい食べ方がなおらない。
「あんたの意見は?」
「おれの答えはいつも決まっている。なんにせよ、おまえが望むのなら」
「そう云うと思った。無責任なやつ。じゃ、いいよ、そのナントカいう木のあるアパート、しばらく借りる。山暮らし飽きた」
 セフィロスはどちらかというと、クラウドは山暮らしに飽きたのではなくて、目の前の文明的な食べ物につられたのだと思ったが、云わずにおいた。そんな動機からはじまった町暮らしで、よりによって一番まずいレストランを行きつけにしてしまうあたり、クラウドらしいとも云えた。
「でかいやつ? 元気にしてるよ……相変わらず……あっそう……いや、快適だよ……特にベッドが」
 電話の向こうで、あの男はまた顔を赤らめただろう。「チャンピオン級のカタブツ」に対して、クラウドはこういうからかいをやめない。たぶんリーブのほうでも、やめてほしくはないだろう。普段の生活でこういう色めいた話をする機会など、ほとんどなさそうだ。責任感が強く、自制心が強くて、胸のなかに大きな情熱を秘めているのに、それを仕事に向けることしかしてこないでしまった、セフィロスの知っているリーブはそんな男だった。根が善人で、常識人で、あの会社のなかではどこかあわれっぽく見えた。目的のためにがむしゃらにやってきた男だが、そのことのために自分自身をいつも罰していた。正義感の強い、抑圧的な男。
 そんな男にとって、生死をかけて殺しあいをした男と駆け落ちするようなクラウド・ストライフは、よほどの衝撃だったらしい。一度失踪してふたたび目の前にあらわれたクラウドは、だから、リーブにとって、もう以前のクラウド・ストライフではありえなかった。彼はクラウドのなかに、それまでまったく見ていなかった、ぜんぜん別のものを見出した。カタブツの男の大半が、生涯で一度もまともに見つめることのないものだ。リーブ・トゥエスティは驚愕し、懐疑に陥り、うろたえた。クラウドの意味ありげな微笑の前に、彼はおののき、自分が揺さぶられるのを感じた。そしてその見出したものに夢中になってしまい(クラウドは「あいつが転がり落ちる音が聞こえた」と云った)、すべてを捧げたい気になってしまった。リーブ・トゥエスティにとって、だから、クラウド・ストライフは救主であって、美と性的魅力のまごうかたなきイデアなのだ。クラウドと再会したのちにあのカタブツが結婚したのは偶然ではない。彼はようやく、おのれの一面に、人生の別の一面に、気がついたのだ。
「あんた、なにひとりでにやにや笑ってんの」
 クラウドがいつの間にか電話を終えて、セフィロスを見て意地悪く微笑んでいた。
「……おまえが破壊的に破壊するもののことを考えていた」
「なんの話?」
 クラウドは体をひねって、セフィロスに真正面から向きあった。けだるげについた頬杖の先に、淡い金髪がふりかかっていた。
「たとえばカタブツのカタブツなところ。自分が破壊するものの前でだけ、おまえはおまえでいることができる」
「だってあいつ面白いんだよ。おれのこと好きだし」
「あれはもはや崇拝の域に達している」
「そうかもね……拝みたきゃ、勝手に拝んでればいい」
 そしてなにを思ったのか、クラウドはふと微笑んだ。
「このあいだ、あいつに会ったとき、金の話しようとした。ちょうどあんたが席外してたとき。この話したっけ?」
 セフィロスは首を振った。
「あいつ、本気で泣きそうになってた。思わず訛りが出てた。そないなこと云うて、水くさいやないですかクラウドさん、だって。おれ、なんかあっけにとられちゃって、もうあいつに金の話するのやめようって思った」
「そのほうがいい」
 セフィロスは微笑んだ。
「おまえに頼りにされていると思うだけで、あの男は自分がこの星で誰よりも力のある男だと思うだろう」
「なんだその妄想。あいつは力のある男だよ、いまじゃ、実際に」
「だが大事な妄想だ。人に実際に力を与えるのは、金でも権力でもない。もちろん武力でも。おまえの云う妄想が、一番大きな力になる。世にも美しい顔をした、生意気で、つかみづらくて、謎めいて、いやおうなしに解釈を要求するこの男が、この地上にいて自分を頼りにしていると思うだけで」
 セフィロスはクラウドの頬杖をついた腕に手を伸ばし、腕をはずして、クラウドの半分起きていた体を横たえた。そしてその上に覆いかぶさり、顎をとらえてまじまじと顔を見つめた。
「それだけで、あの男はもう千年も生きるかもしれない。おれのように。そしておまえが燃える傍らで灰になりたいと思う」
「……みんな灰にしてもいいけど、あんたはだめ」
 クラウドは高慢な感じに微笑んだ。
「おれ寂しがり屋だから。今度ひとりにしたら、今度こそ殺してやる」
「悲しいことに、気がついてしまったのだが、おまえに殺されるのは嫌いじゃない」
 クラウドは笑いだした。笑い転げ、セフィロスの頭をつかんで、自分の胸に引き寄せた。
「バカなやつ」
 子どもをあやすように銀髪をなでながら、クラウドはつぶやいた。
「あんたがそうしてほしいなら、なんでもするよ、おれは」
 それから急にまじめな表情で、よし、その気になった、もっかい、と云った。


これはピグマリオンみたいな話になるはずだったもの

 バーナード・ショウのね。これから彫刻家の男が出てきてクラウドさんといろいろあるんですけども、しかしこのころはクラウドさんのいろんな可能性を模索していたんでした。あとリーブさん。
 これのテーマは、永遠に若く美しいとはどういうことを意味するか、でした。日本や中国だと不老不死ってなにやらよろこばしいもののように思われていますが、キリスト教圏では罰として受けとられます。たとえばわたしの好きな小説の中では、ゴルゴタの丘に向かうキリストを嘲笑したために呪われて死ぬことができなくなった男が登場しますが、西洋の文学の中に、このモチーフは再三登場します。永遠にこの世をさすらうということは永久に地上の運命から解放されないということです。もちろんキリスト教においてはこの世はいつか終わるものとされているのだが、その終末の日まで、生きて地をさすらい苦しみ続ける。
 地という言葉には、そもそも苦しみや苦痛、悲愴の感じがつきまとう。ヘブライ語に「アハツアレツ」という言葉があって、「地の民」という意味ですが、貧しく、あるいは病に侵された、最下層の民のことを指します。ユダヤ教においては病とは罪に対する罰であり(これがヨブ記の主要なテーマになります)、あるいは神殿へ十分の一税を納税することは義務ですから、貧しいことや病に侵されていることは神に見捨てられた者であることを意味する。地べたの民、地べた這いずりまわっている民です。それは神のまします天からもっとも遠いものであり、これら地に縛られたものは神から追放された者です。それはひるがえって、罪を抱える人間すべてにあてはまるのだが、この罪を滅ぼすためにやってきたキリストは死ぬわけです。楽園での罪の結果人間は死ぬものとなったわけですが、キリストは死んでこの死を滅ぼしたわけですね。死んで死をくぐりぬけてはじめて、われわれは復活にあずかるのです。この死という儀式から排除されているということは、救いの可能性から外れているということになる。

 わたしは不老不死設定のセフィクラさんをあんまりよろこばしい気分で読むことができないし、よろこばしい気分で書くこともできない。そういう問題を追及しようとしていた気がしますが、いまはもうちょっと別の視点から追及しようと思っている。もう少し別の視点から。セフィロスさんがなにをもってよみがえり、なにをもって生きているか、それを考え続けることが、わたしのひとつの課題でもある。自分自身がこれを書いていたときから遠い所へ来てしまったいま、これはもう書けないでしょうが、別の形でお目にかけることになるでしょう。

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