Bliss

ジェレマイア

 久々の町は人が多くてうまく歩けずクラウドはいらいらし、公衆電話を見つけようにもこの携帯電話の普及した時代にそんなものはほとんどなくてこれまた彼をいらだたせ、さんざん歩きまわってようやく見つけたボックスへ入ると今度は投入口に入れようと思った小銭が床へ転げ落ちて、これまた彼はいらいらした。家を出てからもうずっといらいらしっぱなしのように思える。原因はなにか? 決まっている、セフィロスだ! なにもかも、みんなあのいまいましい男のせいなのだ、とにかく、全部、なにもかも。あんなやつ、切り刻まれて油で揚げられればいい!
 衝動的に家を出たものだから、金のもちあわせなどというものはなかった。いまやポケットに入っている数枚の硬貨が有り金のすべてとは情けないが、かろうじて電話くらいかけられそうなのはさいわいだった。とにかく、電話がつながればなんとかなる。クラウド・ストライフはWRO局長リーブ・トゥエウティのごくプライベートな番号を知っている、数すくない人間のひとりなのだ。三度間違えて、あやうくもう思いだせないかと思ったが、なんとか思いだした。
 相手は数コールで出た。
「……もしもし?」
 公衆電話からの着信のせいか、どこか様子をうかがうような声音だった。
「……あの、もしかしてクラウドさんですか?」
「おれだよ」
 クラウドはまだいらいらしたままで云った。
「いま金もなにもないんだ。ここがどこだかもよくわからない。なんとかしてくれ」
 電話の向こうで、リーブが小さくため息をつくのが聞こえた。
「また家出なさったんですか? わかりました、待ってください、いまどこの公衆電話なのか特定しますから……」
「腹減った。三日もろくに食ってない。いや五日? 知るか。ここどこ? なんて町だ? 見たことない。おれどれくらい移動したんだろ。ぜんぜんわからない。小銭切れそうなんだ、急いでくれないか?」
 クラウドはせかすように云った。
「ちょっと、ちょっと待ってくださいよ……あとちょっと……ああ、わかりました、わかりましたよ。クラウドさん、いままでどこにいて、どう移動して来たんです? そこ、砂漠のど真ん中ですよ……とにかく、こっちからかけなおします、かけなおしますから、後生だからそこから動かないでちょっと待っていていただけます? 五分でかけなおしますから、五分ですよ、お願いだから動かないでください」
 電話が切れた。クラウドは受話器に向かってふんと鼻を鳴らし、ボックスにもたれて待つことにした。リーブのやつは、クラウド・ストライフが五分と待てないたぐいの人間だと知っているのだ。五分なんてかなりの譲歩だ。仕方がないので、彼は透明なボックスごしに外を眺めていた。
 曇った、陰気な日だった。砂漠というと、コレル砂漠のことだろうか、それならどうりで空気が乾いているはずだし、自分が知らない町がたくさんあるのもうなずける。メテオ戦役後、バレットが有志たちとはじめた石油の発掘事業は、二年ほどの探索と実りのない時期を経て、コレル砂漠にとてつもないでかい油田を掘りあてた。それからこっち、この地方には発掘や製油や出荷にたずさわる無数の人間どもが移り住み、急速に発展しているらしい。らしいというのはちょうどそのころにクラウド・ストライフが蒸発したためだが、聞こえてくる噂では、よくある利権問題でよくある政治闘争が頻発し、大地という大地はもぐらの大群が押し寄せたかのようにどこもかしこも堀りかえされ、あられもない姿を日のもとにさらす事態になってしまっているらしい。その話をすると、すべての元凶であるところのセフィロスはちょっと笑って、「人間的な、あまりに人間的な」のひとことでもってすべてを云いつくしてしまった。
 空は曇っていたが、雨は降る気配もなかった。ここもきっと油田にたずさわる作業者たちが移り住んだあたらしい町のひとつなのだ。クラウドは大通りに置かれた電話ボックスのなかにいたが、通り沿いの店はやっつけの間に合わせといった木造やプレハブがほとんどで、街路樹だとか花壇だとかベンチだとかいう、ちょっと文化的なにおいをただよわせるのに欠かせない装飾がほとんどなかった。成熟した経済圏のように看板も乱立していないし、高層ビルもない。
 ある日人間どもがわっと移ってきて、わっと作ってしまった、間にあわせの、しかし興味深い町。通りの向こう側で、肉体労働にたずさわっているに違いない、日焼けした男たちが立ち話をしている。雑貨屋の前で犬がしっぽをふっている。小さな子どもたちがボールを蹴って遊んでいる。人間の住むところ、そこはかならず人間の住む場所になる。相変わらずのいとなみ。食って、寝て、子どもをこしらえ、老いて死ぬ。いかなる事態が起きようと、この地上から人類が根絶されないかぎり、決して終わることも、変わることもないいとなみ。
 クラウドはしかし、そんな感傷的なことより町の建設にかかった金のことを考えていた。たぶん、費用の大半はWROが出したのだろうが、リーブはいったいどこから金を捻出し、どうやって経済活動を統制しているのか、あるいはいないのか、決してあかさない。戦役からこっちのあの男の行動を見るにつけ、セフィロスが「まったき政治家」と呼ぶタイプの人間なのは理解できたが、クラウドにとってのリーブ・トゥエスティは、そんな仰々しい存在などではなくて、ちょっと鬱陶しいがなにかと役に立つ男であるにすぎない。立場もかえりみずに「クラウドさん」の心配ばかりしており、こっちがちょっと不機嫌になろうものなら大汗をかいて、からかってみせると真っ赤になる、あか抜けない、くそまじめなカタブツだ。そのくせどこかで話にオチをつけ、ちょっとばかりおちゃらけないではいられない。そして笑いをとったはいいが、そのあとすぐにそれを恥じるようなそぶりを見せるのだ。セフィロスいわく、リーブが持ちあわせているのは「あまりにも自制的で抑圧的な男の顔と、それを突きやぶろうとするお祭り男の顔、だがしょせん健全の域を出られない」。
 それにしても、待つのに飽きてきた。絶対に、電話を切ってからもう二時間はたっているに違いない。クラウドはまだいらいらしていたので、こんなに自分を待たせるなどとは、あのリーブのやつに罰を与えるためにボックスを出ていってやるべきだと考え、寸でのところで実行にうつすところだった。彼がドアを押し開けた瞬間に電話が鳴ったのだ。
「よかった、クラウドさん、まだいてくださったんですね」
 リーブはあからさまにほっとしていた。
「いま出てこうとしてた」
 クラウドは不機嫌に云った。
「もう三時間は待った」
「ああ、惜しい、三分半くらいですね、実際には。お待たせしてすみません」
 リーブは丁寧に謝罪し、とにかく町のホテルを予約した、部屋はもうとってあり、話を伝えてあるので、受付で自分の名前を出してもらうだけでよい、今夜じゅうにそちらへ現金や必要なものを届けるので、シャワーを浴びて、食事でもして、休んでいてもらいたい、とてきぱきした口調で云った。クラウドは電話を切った。こういうことがすぐできるというのは、権力のある人間のいいところだ。権力とまるで無縁になってしまった男と、権力とはまるで無縁の生活をしていると、こういう対応が実に好ましく見えてくるものだ。
 クラウドはボックスを出て、教えられた宿に向かって歩きだした。
 電話を切る直前の、最後の会話はこうだった。
「ところで、聞いてもわからないでしょうけど、今度はまたどうして家出なんかなさったんです? 喧嘩でもしたんですか?」
「…………忘れた」
 電話の向こうで、リーブの苦笑ともため息ともつかない息づかいが聞こえた。

 やっつけでできたような町だから、ホテルとはいえ民宿に毛の生えたようなものだった。とはいえ清潔なベッドがあるし、シャワーもちゃんとお湯が出た。いったい何日前に家を出たのかもう忘れてしまったが、三日か、ことによると五日くらいたっているかもしれない。これまたもう詳細は忘れてしまったが、家を出たときにはかなり腹が立っており、セフィロスなどというやつはやはり粉みじんにして二度と再生できないように殺しておくべきだった、クラウド・ストライフというやつはなんて愚かなのだろう、こんなろくでもない男につきまとわれる人生なんか苦痛でしかない、と考えながらずんずん歩いていた。向こうが追っかけてこないので、ますます腹が立った。それでクラウドはもう完全に怒ってしまい、永久に帰らないとの決意を固めたのだ。今度こそだ、今度こそ、あいつを見かぎってやる。
 そして偶然通りかかったバスに飛びのり、終点まで乗って、また別の夜行バスに乗った。そんな移動を気まぐれにくりかえし、今日の昼どきに吐きだされたこの町のロータリーで、クラウドは不機嫌に電話をさがす羽目になったのだ。要するに、もう理由は忘れたしどうでもいいのだが、なにもかもあの男のせいなのである。クラウド・ストライフは、とにかく、あの男に罰を与えねばならないのだ。うんと遠く離れて、泣いてもわめいても懇願しても帰ってやらない。そこまで考えて、クラウドはにんまりした。風呂に入ってさっぱりしたこともあって、ようやく気分が上向いてきた。ホテルの一階に開放的な、ごく大衆向けのカフェがあったので、山盛りの揚げたイモとサンドイッチと炭酸水でせっせと腹を満たした。それからベッドに転がって、ちょっと眠った。
 起きたときには、日が沈みかけており、町はすみれ色に染まっていた。クラウドは窓枠に頬杖をつき、そのすみれ色の外を眺めて、オレンジ色の最後のひと筋が、掘削機やクレーンごしの地平線の向こうに消えてゆくまで見送っていた。自由だ。クラウドはふいにそう感じた。おれはひとりだ。おれは自由だ。隣にあのデカブツがいないぞ。堂々とベッドを占領できるし、襲われないし、あの長ったらしい髪の毛がからみついていらいらさせられることもない。おれは自由なんだ。最高だ。
 それでクラウドはすっかり上機嫌になってしまい、窓枠から離れ、これからどこへ行って、なにをしようか、いっそのこともうこの町にしばらく住みついてしまおうか、などとセフィロスふうに云うところの自己への問いを出してみた。でもこのあたりにいたらうっかりバレットあたりに遭遇しないともかぎらない。自由を謳歌したいのに、知りあいにばったり会うなんてごめんだ、そんなことは面倒すぎる。そのくせ運の悪いことに、かつての知りあいは世界じゅうあちこちに散らばっているときている。どこか場所を探さなくては。誰にも知られない、ひとりでいられる場所を。ああ、おれはいまやひとりぼっちなんだ、それで、なんて自由!
 自由の美しい羽ばたきが、彼を舞いあげた。そして彼の気分を外へと誘った。すみれ色は彼を導くように色を増し、いまや輝きだすように見えた。クラウドはその美しさにちょっとぼうっとなってきた。ほんとうは部屋でおとなしくリーブからの連絡を待っているべきなのだろうが、そんなことでこの気分を台無しにしたくはなかった。外へ出た。そして通りをぶらつき、通行人に不信げにじろじろ見られたり猫に威嚇されたりしながら、大通りをはしからはしまで探求した。
 あたりはもうすっかり夜だった。美しい、輝かしい夜だった。店の明かりが優しげな色の光を窓から通りへ投げ、星は踊っていた。仕事帰りの一杯を楽しむ連中の陽気な声が通りへもれ聞こえていた。ひとりきりで、誰ひとり知りあいのない、知らない町に彼はいた。すべてのものから遠く離れて。孤立の甘さが、彼を満たした。孤独の優しい手が、彼をいざない、導くのを感じた。
 いつの間にか彼は通りを抜けて町の入り口まで達していた。入り口には、左右に間隔をあけて二本の柱が立っていた。そこにプレートがとりつけられており、町の名前が書かれてあった。クラウドは柱にぼんやりともたれかかり、自分がいま来た通りを眺め、それからふりかえって、町の外を眺めた。だだっ広い道と、砂っぽい大地、ところどころに砂丘か、岩山のようなものが見える。町を一歩出れば、なんと荒涼とした世界が広がっていることだろう。その広さにはほとんど限りがない。そしてその荒涼さこそが世界なのだ。なあクラウド・ストライフ、おまえはたかだか……何年だ? もう四十年に近くなったのか? それともまだ三十何年なのか? 忘れてしまったが、その程度生きただけで、世界中のありとあらゆるものを見て、すべてを知っているような気になっていたのか?
 そのとき道の向こうから、車のエンジン音が響いてきた。砂埃をあげて、一台の古ぼけた、あるいは使いこんだと云ったほうがいいか、ジープが走ってきた。町の灯りがとどくところまで来ると、車体にWROのロゴが入っているのが見えた。リーブはいつの間にか、いっちょまえに軍隊の親方になってしまったのだ。この世から軍隊がなくなる日だけは来るまい、人間が死滅したあとも、それは消えないかもしれない、とセフィロスが云っていたことがあるが、いまはあんな男なんかくたばってしまえばいい。
「クラウドさん!」
 助手席から降りてきたのはリーブ本人だった。運転席から別の男、体格のいい、軍人くささ丸出しの男が降りてきて、なにやら荷物を下ろすのを手伝った。
「どうなさったんですか、こんなところで……」
「あんたのこと出迎えてやろうと思って待ってた。親切だろ」
 口から出まかせだったのに、リーブは恐縮し、照れたように頭をかいた。出会ったときから年齢以上に老けた印象の男だったが、職務のせいかこのところますます疲れて、老けこんでいるように見える。彼はいまいくつなのだろう? 四十代? 五十代になってはいないはずだが、自信はない。黒い髪はあいかわらず豊かで、まだ後退するきざしは見えないが、眉間に刻まれたしわの深さや、目尻の細かなしわ、髭に覆われた口もとに漂う気配は、この男の肉体的な成熟と疲労とを、どちらも濃くあらわしていた。勤めのときに着ている服に身を包んでいるところを見ると、たぶん仕事からそのまま来たのだろう。ただでさえ仕事に忙殺されているところを、ほかの誰かに任せるようなことをしないで、この男はこうしてみずからやってきたのだ。
 クラウドは満足した。そしてちょっとはこの男に優しくしてやろうと考えた。軍人男はボストンバッグをふたつ局長に渡すと、クラウドにちらりと目をやって、しかし詮索するようなまねはせずにきびきびと去っていった。クラウドはバッグのひとつをもって、リーブと並んで歩きだした。
「ホテルは快適そうですか?」
 この男はいつ会っても、まず第一にクラウドの機嫌と状況とを確かめずにはおかないのだった。万が一にもクラウドが不機嫌だとか不快だとかいうことがあれば、それこそ自分の責任だとでも思っているかのように。
「まあ、ふつう。昔軍にいたとき、あれの三十倍も汚い部屋にとじこめられて毎日暮らしてた」
 こんなことを話したのは、あの軍人男を見たためだろうか? 百八十を優に越す身長、鍛えられた体、無駄のない動作、そしてクラウドをちらりと見つめたあの目。あんな男が、軍隊には大勢いた。というより、あんな男しかいなかった。そのなかには、クラウド・ストライフを見ると目の色を変えるやつが、確かにいたものだ。
「そうでしょうね。信じられないですよ、あなたのような方が、あの悪名高い神羅軍に在籍してたなんてね。ずいぶん問題児だったみたいですけど」
「そうだったんだろうけど、もう忘れた。生きてるといろんなこと忘れる。別に忘れてもいいけど」
 そのときにリーブが浮かべたどこか悲しげな、苦しむような微笑が、なぜちょっとのあいだ目に焼きついたのだろう。どうせあなたは放っておくとわたしたちのこともみんな忘れるんでしょうと、云われているような気がしたからだろうか。それはたぶん真実だった。こんなことでもないかぎり、クラウドは昔のことなど思いだそうとしない。そんな必要はないのだ。彼の前には、ただぼんやり開けている、いつまで続くかわからない時間の連続があった。そしてそれがどれくらい続くかは、セフィロスいわくクラウドしだいだった。あの腹の立つ男は、結局肝心なことをみんなクラウド・ストライフまかせにするので、クラウド・ストライフは歯ぎしりし、頭をかきむしりながら、あの男の後始末をしなければならない。そんなものを背負いこむだけで、クラウドはすでに手一杯だった。ほかのものなど思いだしたり考えたりする余裕があるものか。まったく、疫病神のような男だ。
 急に黙りこんでしまったクラウドを、リーブはそっとしておいてくれた。彼はそういう男だった。めったにしないだけに、彼の意見には重みがあった。めったにあらわにしないだけに、彼の感情には真実のものがあった。クラウドは突然、この男にちょっと優しくしてやろうという考えをとりやめにすることにした。こんな男は、せいぜいきりきり舞いするがいいのだ。突然呼びつけられてあわててやってくるくらいが、こんなつまらなそうな人生を生きている男にはちょうどいいのだ。クラウド・ストライフは親切な男なのだ。
 部屋につくと、リーブはさっそくバッグの中身を説明しにかかった。
「これは着替えです、いつだかどこかの部屋に置いていったもの。あなたのものは捨てられませんよ、わたしのじゃないんですから。あの部屋ですか? もう誰か別の人が借りてるんじゃないでしょうかね。いい部屋でしたけどね、日当たりがよくて、静かで。窓辺にリンゴの枝がかかっていて、花が咲いてましたっけ。あの窓辺から、わたしの帰りをあなたが見送ってくださったのを覚えてますよ……」
 この男は、クラウド・ストライフと話しているときだけこんなにしょっちゅうわき道にそれ、セフィロスが「ロマン主義的調子」と呼ぶものになるのだった。「せいぜい好きにしゃべらせてやるがいい、あのロマン主義的気質を、あの男は生涯どこにも発揮できない運命に生まれついているのだから。そしてそれだから、あの男にとっておまえは運命の相手だということになる」
「それ、あんたと同じ理屈じゃないの」
「ああ、痛いことを云う。実際のところ、おれとそれら有象無象を分ける唯一の違いは、おまえ自身の感情という幸運だけだ。昔もいまも、おれはおまえがどうかそれを手放さないでくれるようにと、必死になって願いつづけている。愚かしいが、おれのようなのには似合いの話だ」
 リーブはバッグから当座必要な日用品や現金、身分証のたぐいを次々に出してみせた。
「あなたの年齢をいくつにしようかいつも迷うんです。ひょっとすると十代のほうがいいんじゃないかと思うときがありますからね」
「さすがにそれはないだろ。おれいまいくつ? 自分の年も定かじゃないんだ、もうずっと前からだけど」
「ニブルヘイムの出生記録、調べてあげられたらいいんですが、残念ながら残ってないですからね……いつも思うんですけど、ほんとうはあなたの身分証は、偽造とは云えないんですよ、そもそも記録が存在しないんですから……」
 リーブはまたあの、悲しそうな、苦しく、切なげな微笑を浮かべた。
 この男とこんな会話をするまでになったとは、いったいなにがあったのだろう? いまとなっては思いだせなかった。リーブとは、厳密にいえば一緒に旅をしたわけではないし、「本体」との接触の機会がそう多かったわけでもない。それなのに、リーブはいまこうしてクラウド・ストライフをわがことのように気にかけ、個室のあるレストランへ誘いだし、食事といえば、食える、まずい、程度の舌しか持ちあわせないクラウド・ストライフに分不相応とも云える料理を食べさせている。そしてときどきかかってくる、おそらくは重要だろう電話を、微笑を浮かべ首をふって無視するのだ。
「わたしなんか、そんなに必要じゃなんですよ。トップがなんでもかんでも首をつっこむような組織なんて、ろくなものにならない」
 どこか寂しげな、なにかからとり残されてしまったかのような微笑。あのジェノバ戦役は、確実にそれに関わった人間を変えてしまった。相変わらずふらふらして変わらないのといったらクラウド・ストライフくらいだ。その後の世界にうまく適応し、日常生活に戻った者もいる。だがいつまでもなにかがちぐはぐなままにとどまっている人間もいる。リーブ・トゥエスティは、大企業の重役くらいまでならあるいは想定の範囲内だったかもしれない。だが世界最大の組織のトップとは、さすがに思い浮かばなかったろう。
「でも、楽しいですね。なにか自分が働くことが、結果につながるんだという実感がありますから……世の中を動かしている実感がある。わたしはそれにとりつかれているんですよ、裏からあやつるという行為にね。物心ついたときからそうでした。この能力で、いろいろな遊びをしたもんです……」
 個室にしつらえられた花瓶の花の一輪が、ゆっくりと抜け出て、クラウドの胸の前へすっと移動してきた。リーブがこういうことをしてくれるのは好きだった。クラウドは花を手にとり、香りをかいで、ふんと鼻を鳴らした。花はまたひとりでに浮き上がって、たわむれに、リーブの水の入ったグラスのなかへ降りたった。
「はじめはぬいぐるみでした。赤ん坊のときから一緒にいたクマのぬいぐるみ、母親が買ってくれた……わたしはそのぬいぐるみがほんとうに生きていると思っていたんです。自分がそうしていることに気づいたのはずっとあとの話で、なにが起きているのか理解するまでにはもっと時間がかかりましたよ。石を動かしてぶつけたり、並んでいるものをめちゃくちゃにするいたずらをしたりなんてことは日常茶飯事でしたけど、それが普通じゃない、とても危険な能力だってことがわかってからは、絶対に人に気づかれないように注意してました……」
「なんかやってよ」
 クラウドは云った。リーブは肩をすくめ、しばらく考えていたが、やがていたずらっぽい顔をして、視線を自分のカトラリーに向けた。ナイフやフォークが一本ずつ起きあがって、一列に並んで宙を行進し、クラウドのカトラリーのところへやってきた。すると今度はクラウドのナイフやフォークが起きあがって、一列になって空中を行進しはじめた。やがて列は左右にわかれて、舞踏のはじまりのようにちょんとおじきをし、ダンスがはじまった。すれちがったり、列が入れ替わったり、輪になってくるくる回ったり、彼らは宮廷のダンスをしていた。クラウドは頬杖をついて、それを眺めて楽しんだ。やがて銀色のダンサーたちは、また互いにおじぎをしあって、それぞれの場所にもどった。
「要するに、これの延長ですね、わたしの仕事は。わたしはいろいろなものを動かすのが好きなんです。ぬいぐるみ、石ころ、軍隊、会社、なにより人間。これが一番やっかいなだけに、一番やりがいがある」
 クラウドは手元にもどってきたナイフやフォークを手にとって、まじまじと眺めた。それは冷たくて、ただの金属で、いまのいままで勝手に動いていたものとは、どうしても思われなかった。
「そしてそのわたしはあなたに動かされる。ひどく動じる、でも不動のあなた。セフィロスさんの気持ちが、わたしにはわかるような気がしますよ……ルーファウス社長はたちの悪い冗談だと思っていますが、わたしはね、あの方があなたのゆえになにもかもが起きるのだと云うとき、真実を語っているんだろうと思うんです……」
 そうしてリーブはクラウドをじっと見つめた。悲しむような、あわれむような、いつくしむような、不思議な目で。
「あなたがご気分を悪くなさるかもしれないと思ったんですが、やっぱりこれ、お渡ししておきます」
 リーブはポケットから携帯電話を取りだした。
「何度渡してもあなたはなくしたり壊したりしますけど、いいんです、何度でもお渡しすればいいんですから。わたしにだって、これくらいの特権があってしかるべきでしょ? 自分だけあなたと連絡がついたり、居場所を知っていたりするんだって優越感くらい、持っていたっていいじゃないですか。だってみんなあなたを恋しがっているんです……ほんとうですよ、ナナキのやつなんか、しばらく見るも無惨だったんですから。怒りと悲しみが交互にやってきてるって感じでね……とても抑えきれない様子でした。ああ、この子はまだ子どもなんだなって、そのとき実感しましたよ。でも、あなたにはどうでもいい話でしょうね」
 クラウドは電話をとりあげて、電源を入れ、角度を変えたり逆さにしたりして眺めた。こういうものとはすぐになじみになれる。使い方なんか聞かなくたって、なにをすればいいのかわかるのだ。ひとしきり使ったら、分解して、また組みたててやろう。
「……不思議な方ですよ、あなたは。誰にも絶対に、しっぽをつかませてくれないんですからね」
 クラウドは顔を上げた。リーブはあのどこか苦しげな微笑を浮かべていた。
「おれにしっぽなんかない」
「ああ、そうですね、すみません、わたしの云い方が悪かったんです。わたしが云いたかったのはね、たとえあなたの居場所を知っていて、連絡が取れるからって、あなたを知ったことにはならない。こんなふうに頼りにしてもらって、お話をさせていただいているとですよ、ついあなたのことを知っているような気になるんです。でもあなたは気がつくといなくなっているし、脇をすり抜けている。誰のところにもいないし、誰のものにもならないんです。セフィロスさんが自分の幸運を口にするとき、それは心からの本心だろうと思います」
「いまそいつの話したくない」
 クラウドは不機嫌に云った。
「そうでしたね、喧嘩中なんでした。すみません、うっかりして」
「まあいいよ、もう永久に別れてやろうって決めたから」
 リーブは母親のように優しくほほえんだ。母親が、小さな息子に向かって、なにをばかなことを云っているのかしらこの子は、とでも思っているときのような顔だった。

 リーブはホテルに部屋を取り、明け方には帰る予定だというので、その明け方にやってきた迎えのジープに、クラウドもいっしょに乗りこんだ。ジープは砂漠を走りぬけ、町から一番近いWRO支部に向かった。リーブのほうはこれから輸送機に乗るというので、そこで別れることにしたが、リーブはさんざん渋って、文句を云った。
「心配ですよ、当たり前でしょ、あなたは丸腰だし、放っておくとどうなるかわからない。お願いですからとりあえず一緒に来てください。酔い止めならありますし、すぐにどこか住むところを探しますから……」
 酔い止めのことを云われたのでクラウドはむっとし、よけいなお世話だと云い、おれの家出なんだから放っておいてくれと云って、まだ叫んでいるリーブに背を向け、基地を出た。
「住む場所が決まったら電話をくださいよ!」
 クラウドの背中に向かってかけられた最後の一声は、どことなくあわれっぽく悲痛な叫びに聞こえた。

 さあ、また迷子になってしまった。クラウド・ストライフときたら、どこででも迷ってばかりいる。もっとも、場所を見失っても困らないのなら、それは問題ではない。リーブのやつにさっそく電話してやってもよかったが、別れ際に酔い止めのことを口にされたのを、クラウドはまだ根にもっていた。乗り物酔いのつらさがわからないやつに、酔い止めのことなんか云われたくない。だいたいクラウドは、もう市販の酔い止めなんか意味のない体になってしまった。病気になどほとんどならないから、薬が効かないのは納得だが、そのくせに乗り物酔いがなおらないというのはどうかしている。そのことについて、セフィロスに文句を云ったことがあるが、あの男は涼しい顔でこう云ったものだ。
「狭くて揺れる空間にとじこめられたせいでえらく不服そうな顔をしているおまえがいなくなったら、この世から潤いがひとつ消えてしまう」
 要するに、あの男は単に楽しんでいるのだ。
 またも幾日が過ぎたのか、どこをどう通ってきたのか、クラウドにとってはどうでもよかったが、とにかく迷い迷ったあげくに、彼はひとつの町にたどりついた。またも見覚えのない町だ。新しくできたのか、自分が忘れただけなのか、それもまたどうでもよかったが、コレルエリアの、海岸に近い町なのは理解ができた。このあたりは気候がおだやかで、定年後の人間だとか別荘を持てるほど財のある人間だとかに人気があるのだ。
 だが悪環境を天下に誇るニブルヘイム育ちのクラウド・ストライフには、おだやかな気候などというものはほとんど死を意味するかに見える。それは凪いでいるということだ。凪いでいるということは、動かぬことだ。躍動せず、起伏がなく、上下がないなら、それは死んでいることのあかしだ。
 こんなに場違いな場所はないという理由から、クラウドはその町に住むことにした。それで町をぶらついていたら、ある薄汚い路地裏の建物に、入居者募集、格安、と書いた張り紙をしてあるのが目にとまった。なにがどう格安なのか知らないが、クラウドはその建物のいかにも古くて投げやりで裏ぶれた雰囲気が気に入ってしまい、張り紙に書いてある番号に電話をした。大家は最上階に住んでいた。クラウドは階段を上っていって、大家に会い(ひねくれ顔の小柄な老人だった)、上から下まで眺められて、理由は知らないが合格の判定をされた。
「ここの角を曲がったとこにな、不動産屋があるからそこ行きな」
 大家はぞんざいな口調で云った。灰色の猫が部屋の奥から出てきて、大家の足にまつわりついた。
「おれは手続きとか書類のことは知らん。電話しといてやるから、気が変わらんようなら行ってきな。これ部屋の鍵だ。ひとつ下の階の左。勝手に見まわりゃいい。前のやつの家具が残ってるんだが、どうも処分したもんかどうかふんぎりがつかんでなあ、使うなら使やいいし、捨てるなら捨てりゃいい。暖炉があるからな、ぶっこわして燃やしゃあ楽だ。どうせみんな木製だよ。好きにしな」
 これはクラウド・ストライフの知るかぎり、最高の大家であるかもしれない。すべてがどうでもよく、愛着も興味もない。クラウドは満足したので、不動産屋における殺人的に退屈なやりとりさえ我慢ができた。リーブがくれた身分証と銀行口座は役に立った。それによると、クラウドはどうやら定期的な収入のある身分のようなのだ。お金というものは、とリーブが云っていたのを思いだす。
「それを生みだすのもまたひとつの能力なんです。そういう能力に長けている人間にとっては、お金は自然に増える性質をともなってあらわれるんですよ。わたしはそっちの能力にはあまり恵まれていないんですが、親族にはそういうのが多いですからね」
 トゥエスティ一族には、きっとリーブのインスパイア並みに不思議な力をもったのがうじゃうじゃいるのだろう。

 手に入れた部屋は狭かった。細長いメインルームとバスルームがあるだけで、あとは窓がひとつ、草が生え放題の裏庭のような空間に向いてついている。裏庭には見捨てられて朽ち果てたような荷車がひとつ打ち捨てられて、草にとりまかれてほとんど埋もれていた。部屋には確かに木製のベッドと、古めかしい小さい正方形のテーブルと、椅子が一脚、置きっぱなしになっていた。なにか絵でもかけていたのか、少し斜めになった焦げ茶色の額縁がひとつ、壁の釘にかかって、残されていた。クラウド・ストライフとしては、これでもうすべての装備がととのったような案配だった。部屋というのはそうしたものだ。寝られればそれでいいのだ。安心したら眠気がおそってきたので、クラウドはマットレスだけのベッドに倒れて、そのまま眠ってしまった。
 次の日になって、彼は町へ探索に出た。広場の隅に投げ捨てられていた木箱と、工場の前で拾った割れた大きな鏡をもって、部屋に帰った。それらを部屋におさめて、携帯電話についていたカメラの性能を試すために、部屋を写真にとってみた。画質は悪くなかった。
 それからふと思いついて、クラウドはまた部屋の写真を何枚か撮った。しかたがないから、セフィロスにでも送ってやろうと考えたのだ。部屋というものを単一の視点から一目見てわかるような写真をとるのは不可能だから、クラウドはあれこれ考え、要素に分解して合体させて展開することにした。そうすれば、ひとつの視点からすべてのものがいちどきに見える。これは便利な技なのだが、あまり理解してもらえない。子どものころ、こんなことばかりやっていて気味悪がられたのを覚えている。あの村の人間は誰もわかってくれなかったが、セフィロスはクラウドのことを「わがキュビズムの巨匠」と呼んでいる。ろくでもない男だが、なぜかクラウドのやることがみんなわかるという特技をもっているのだ。
 通りかかった写真屋で、写真をハガキに印刷するサービスをやっていたので、ふと思いついて、ハガキをこしらえてもらった。帰りがけに油性ペンを買い、ハガキの表に「ひっこしたへや」と書いた。部屋の住所も書いてやって、次の日ポストにつっこんだ。
 数日後に、よく見知った筆跡から手紙が来た。セフィロスの字を、ため息がでるほど美しいと評した女性がいたが、本人はこんなものは幼少期の大変苦痛な、まったくもって非人道的な訓練の結果であって、ありがたいものとはいえないと云っている。
 封筒はとてもなめらかな、少し黄みがかった紙でできていた。びりびりに破いてもよかったが、なんとはなしにためらわれてナイフを使った。同じ紙でできた便せんが何枚も出てきた。

前方に置くべきあらゆるものを省略

 まさかハガキをもらえるとは思っていなかったので、おまえの慈悲深さに感謝するあまり、昨日は眠れなかった。部屋の写真を見て、何時間も過ごした。おまえが出て行ってしまったので、そろそろ干からびて呼吸困難を起こすところだった。まったくあやういところだった。
 それでその問題の部屋だが、あまりに殺風景なことにおれの魂がおののいている。その部屋は……そんな部屋を部屋と呼べればの話だが……こう云ってよければ、完全無欠の不感症に支配されていると云うべきだ。きめの粗いささくれだったような床板や、どうでもいいといいたげな壁や、あるといえばあるというようなベッド、ひとりで使用することしか想定していない安っぽいテーブル、そしてなにより、そのひどい割れた鏡の残骸だ。そんなものを使っておまえは身づくろいするというのだろうか。それがおまえの部屋のすべてなのか? そんな部屋でおまえはこれから過ごすのか? 想像するだけで胸が苦しくなってくる。
 もちろん、おまえがそういうことをいっこう気にしないのは知っている。死体の横でも寝られる男だ、部屋などあるだけましなほうだと感謝しなければならないだろうが、それでもどうか後生だから、人の命を助けるのだと思って、部屋に花の一輪も飾ってはくれまいか。たとえばそのぞっとするような安っぽいテーブルの上にでも。そのような殺風景な、魂を殺害しにかかりそうな部屋でおまえが過ごすことを考えるとめまいがし、寒気がし、とても耐えられそうにない。
 もっともおまえがおれの殺害を計画しているのならば、簡単なことだ、この手紙を無視し、相変わらずひどい部屋に暮らしているがよい。おまえの魂は平然と耐え抜くだろうが、おれの魂は日に日にしおれて死に絶えるに決まっている。これは合法的な、決して処罰されることのない完全犯罪であり、唯一の殺人と呼ぶにふさわしいものである。肉体を殺すことは簡単だが、魂を殺すことはそう簡単にできるものでない。それは選ばれた者のみがもちあわせることのできる能力である。そしてその能力は、美しいものには先天的にそなわっている。
 おまえが望むならば、おれの魂はいつでもおまえのために死ぬだろう。

 手紙の必死な、しかし皮肉な、そしてどこか感動的な調子がクラウドの心を少し動かしたので、彼は云いつけに従ってやることにした。札をポケットにつっこみ、はじめ花屋を探したが、花瓶がなければならないことに気がついて、そっちを先に探すことにした。他人の要求を満たすというのは、大変なことである。
 骨董品というよりがらくたを扱っているような店で、彼は白いスカートをなびかせて逆さにしたような、やたらと女性的な花瓶を見つけた。美しいの部屋の調子がどうのと云っているやつにはこんなものでよかろうとクラウドは思い、それを買って、花屋を探した。
 大通りで最初に目についた花屋に飛びこむと、若い女性が台の上に花を並べてブーケを作っていた。クラウドはつかつか歩みより、この花瓶に入れるような花をくれと云った。女性はちょっとびっくりしたような顔をして、あわてて作業を中断し、クラウドが抱えている花瓶を見た。縮れた赤毛でそばかすの、ちょっとぽちゃぽちゃした、おそらくただそれだけの女性だった。やや鈍そうで、なにかを真剣に考えるような顔をしていない。だがそれでもさんざん悩んで、ピンクと白が中心の、実に少女めいた花束をこしらえてくれた。そういえば、彼女の薄青い目は、終始なにかうっとりしているように見えた。
 とりあえず、これで云いつけは守ったのだ。クラウドは家に帰って写真を撮り、またハガキにして送った。親切にも、また油性ペンで「はなかった」と書いてやった。どうせ返事の手紙が来るころには、この花を枯らしている自信があったけれども。

 返事の手紙。

 きっとおれの書き方が悪かったか、あるいはその花束をこしらえた花屋の店員が絶望的にセンスに欠けていたかしたのだろう。その花瓶のことは、この際云うまい。それに関してはおれが悪いのだ。花についての指示は出したが、花瓶についてはひとことも云わなかったのだから。
 こんなことを云っておまえを怒らせたくないのだが、もしできるなら、花瓶からやりなおしてほしいものだ。そのバロックからあらゆる精神と装飾を剥奪し、忌まわしくわざとらしい形だけが残ったというような花瓶はいったいなにか? その花瓶を手に取ったとき、おまえはきっとなにも考えていなかったか、さもなくばおれのことを考えていたのだろう。そうに違いない。だがそうではなくて、どうか自分のことを考えて選んでほしい。自分自身の部屋に飾るのだということを忘れないでもらいたいのだ。おれはなによりもその死に絶えた部屋を、おまえにふさわしい部屋とするために、あれこれ注文をつけているのだから。

 怒らないでほしいなどと書いてはいるが、クラウドはもちろんちょっとむっとして、それを先に云えとひとしきり文句を云った。気分を害したので数日放っておいたが、考えなおして、しかたなく別の花瓶を探すことにした。ほかにやることもなかったので。
 花瓶さがしは難航した。だいたい、どこへ行けば花瓶など買えるのかクラウドにはわからなかった。がらくた屋はたまたま見つけただけの店だし、そもそもそこへ入ったのだって、入り口のドアに飾られていた古い大きな歯車がかっこよくて興味を引かれたからだ。だがその歯車はなにか貴重な品で、売りには出せないというし、店の中には小さな鍵やタイルやおもしろそうなものがたくさん売っていたけれども、花瓶はというとあの白いものしか売っていなかった。それでクラウドはもう面倒になってしまって、花だけ買って帰ることにした。
 花屋には、あの赤毛の女性ではなくて、でっぷり太った存在感のある女性が座っていた。浅黒い肌をして、油っぽい長い黒髪を頭のうえで団子に丸め、横に花の飾りを差していた。女は入ってきたクラウドを見とめると、上から下まで眺め、それから満足げににっこりと笑った。
「ははあ、きっとあんたのことだね、うちのレイラがやいやい云ってたのは」
 レイラというのはあの太った赤毛の女のことで、うちで雇っているアルバイトなのだと女は云った。
「ここんとこ何日も、そりゃあ大変なもんだったのよ。店にすごくきれいな人が来た、でもあれは夢で、もしかしたら現実じゃなかったかもしれない、それかあたし妖精か、精霊でも見たのかもしれないってさ。あの子、ばかじゃないんだけど、ちょっとそういうとこあってね。日増しに興奮してくるから、今日は休ませたのよ。もとはといえば、うちで雇ったのだって、あの子の両親に頼まれたんだけどね。あの子は花が好きだし、自立させるために、なにかはさせないといけないからって」
「おれは妖精じゃない」
 クラウドは顔をしかめて云った。女は豪快に笑った。
「そんなことわかってるよ。でも、そう云いたくなるあの子の気持ちもわかった。で、今日はどうしたの、色男さん? また花がほしいの?」
 腰に手を当て、ちょっと首を傾けて、存在感と自信たっぷりに自分を見つめてくる女に、なにを感じたのかはわからないが、クラウドはあらゆることをぶちまけて話してしまった。家出中であること、相手を懲らしめるためにひとり暮らしをはじめたが、向こうが部屋の装飾にうるさく、せめて花を飾れと云ってきかないこと、せっかく買った花瓶にダメ出しをされたが、そんなものをどこで買えばいいのかわからないこと、先日の花束はえらく不評だったこと。
 女はじっくりと話に耳を傾け、クラウドが話し終わると、その話をたっぷり味わうように目を半分閉じたまま少し時間をとった。それから大きく息を吐きだし、ちょっと待っててちょうだい、と云って店の奥に消えた。
「これ、うちでずいぶん前に使ってたものだけどね」
 女は大きな尻をゆさぶりながら、手に黒い陶器の花瓶を持ってあらわれた。わずかに丸みを帯びた四角い形に、わざと少しだけひねりが加えてあり、ガラス質の釉薬をあらっぽくかけ流しているために、その部分がつるりと光っている。
「もう長いことしまったままだし、いい使い方も見つからないから、あんたにあげるよ。いまあんたの気むずかしい恋人が満足するような花束をこしらえてあげるから、もうちょっと待っててちょうだい。だけど、あんたの恋人、気が気じゃないだろうね。あんたみたいなのが家出して、ひとりで暮らしはじめてるなんてさ。あたしは好きだけどね、そういう話」
「おれだってひとり暮らしくらいできる」
 クラウドは女が手際よく花を選びだし、切りそろえていくのを見ながら云った。女の仕事は気持ちがよかった。ときどき考えるために花を見まわし、手を止めるが、それはあの赤毛の女のように、むやみやたらに考えこんでかえって筋道を見えなくしてしまうようなものではなくて、ものごとを一本の線に絞るための、意識的な逡巡だった。
「まあ、誰だってやろうと思えばなんだってできるさ。あたしが云いたいのは、あんたみたいな色男を、ひとりきりにするのはさぞ心配だろうってことよ。相手、男じゃないの? たぶん、年上の? そりゃわかるさ、あたしをいくつだと思ってんの……」
 女は花束をこしらえ終えた。黒みを帯びた赤と紫のアネモネを中心にした、驚くほど色味の多い、だが不思議にまとまった花束だった。
「さ、これをあんたの苦労の多い恋人に見せてやんなさい」
 女は花瓶に水を入れ、花を差して、クラウドに渡してよこした。
「それで、あたしからだって、こう云っておやんなさい。あんたの心配をひとつとりのけてあげる、部屋に飾る花のことについては、あたしが引き受けてあげるよってね」
 クラウドはまた写真を撮りハガキをつくり、油性ペンで、「はなやのおんなのひとがはなのことまかせろっていってる」と書いて、送った。ハガキのふちにそって文字をめぐらしたので、はからずも写真をフレームで囲んだようになってしまった。

 返事の手紙。

 完璧だ、文句のつけようがない。その花束を作った女性は、あきらかに傑物であり、先日の花束を作った人物とはなにもかもが異なっている。その女性はおまえの雰囲気をよくつかんだようだ。そしてまったくおまえにふさわしい花を選んでくれた。すばらしい。その黒々とした赤の咲いた部屋にいるおまえのことを想像するだけで愉快になってくる。花屋にそのような人物がいる町ならば、おまえを置いておく名誉にあずかるにふさわしいというものだ。その女性に、もし伝えられるものならば、おれの心からの敬意を伝えてほしい。
 追伸。その女性は信頼してよい。もしもおまえが誰か信頼する人物を作るような気があるならば。あるいは、おまえはもう彼女に自分の心を打ちあけてしまっただろうか、びっくりするほどあけすけな、あの調子で。おれはおまえのあのあどけない感じをなつかしんでいる。おまえの目や表情が恋しいのだ。

 ふと気がついたのだが、おまえが家出してからかれこれ三ヶ月にはなる。それで、おまえがどうやって無聊を慰めているのだろうとおれは考えている。やさしく云うと、ひとり寝の寂しさに耐えかねていないかと訊きたいのだ。
 どうか切実な問いとして受けとめてほしいのだが(おれはおまえの与える罰に血を流しているのだ)、おまえはほんとうにひとりで暮らしているのだろうか、それとももう誰か、あわれな下僕でもこしらえてしまっただろうか?
 まさかおれの怒りをおそれるでもあるまい、どうか正直に打ちあけてほしい。おれは決しておまえに怒るということができないのを、よく知っているはずだ。おれがそんなふるまいに及んだら、おまえはおれを滅ぼしてよい。怒りには怒りを。当然の報復である。

 この手紙が届いたころ、確かにクラウド・ストライフはひとり暮らしの瀬戸際とでも呼ぶべき事態に遭遇していたのであった。彼はそろそろ無為な毎日に飽きていた。それで職探しをはじめた。大通りや路地裏をうろつきまわって、従業員募集の張り紙がしていないか見てまわった。広場の掲示板も見に行った。教会の前で炊き出しをしているのに遭遇して、かつて映画界を席巻した女優が、最後は教会に住みこみで掃除婦をやり、炊き出しで飯を食っていたという話を思いだした。だが炊き出しだろうと物乞いだろうと、食わねばならぬ以上、同じことだ。
 教会の近くでなぜかできもののできた薄汚い犬につきまとわれてしまい、まいているうちに、彼は歓楽街のほうへ足を踏み入れていた。まだ明るい時間で、店はどこも閉まっていた。路地裏は人通りもなくてひっそりしていた。夜になればたくさんの電球に照らされる看板が、自然の光のなかでは身の置き所がなさそうに見える。猫がゴミバケツの上で顔を洗っている。その横で、眠そうな目をした女が、気だるげにほうきであたりを掃いている。女はときどき猫の背中をほうきでかいてやっていた。そのたびに猫は喜び、気持ちよさそうに身を伸ばした。
 経験上、この手のところへ近づくとろくなことがないのは身にしみて知っていた。だがずいぶん得な目にあうことが多いのも事実だった。クラウドは自分の容姿について、いいとか悪いとかいう判断そのものを、そもそも保留していた。それがどうしたのだ? どっちにしたっていざとなれば人間にはこの二択しかないのだ。惚れるか、無理かだ。
 こんな時間にぶらつくのも悪くない気がして、クラウドはぶらぶら歩きまわった。どうせ暇なのだ。そして部屋に帰ればひとりなのだ。誰となにをする約束もなく、時間に縛られる必要もない。道は日の光をはねかえして明るく、シャッターや扉を閉ざしている店のつらなりをかえって暗く見せていた。建物と建物との隙間に細い闇のような暗がりがあった。それはときどき向こう側へ抜けられる気配を見せて、通行人を誘っていた。クラウドはときどき誘いに乗った。そしてぜんぜん知らない風景が目の前に飛び出してくるのを楽しんだ。
 その調子で、ある路地を通り抜けたとき、クラウドはひとりの男とぶつかりそうになった。華奢な体つきの、まだ若い男で、といっても二十代の半ばにはなっていそうだったが、肌のつるつるした、妙に若々しい印象の男だった。パーカーのフードをかぶり、ぱっちりした灰色の目の上に、いやに明るい金髪の巻き毛が幾筋も垂れていた。どちらかというとかわいらしい部類に入る容姿で、丸っこい鼻先が、ちょっと小型の犬を思わせた。
 男は、急に変なところから出てきたクラウドに驚いて飛びのき、それが化け物などではなくてただの若い男だとわかると、顔をしかめて立ち去ろうとしたが、ふと思いとどまったらしく、今度は彼をじろじろと上から下まで眺めた。
「……あのさ、ダメもとで訊くけど、あんたひょっとして仕事探してない?」
 男はちょっと神経質そうな早口でクラウドに云った。なにかあって、気が急いているようにも見えた。
「探してるよ」
 クラウドは投げやりに云った。男はもう一度上から下までクラウドを眺めわたし、ちょっとうなずいた。
「よかった、天の助けだ! おれの代わりをつとめてくれるやつ、探してるとこだったんだ……店じゃ穴あけないようにするのはこっちの責任だって云うし、知り合いはみんな断りやがるし……薄情なやつらだよ……こっちは急用だってのに。あんた、もしよかったら、おれの仕事引き受けてくれない? 店の前に立ってるだけなんだ。ほんとに立ってるだけなんだよ。それ以外の仕事いっさいなし。案内とか会話するとかもない、むしろ黙ってなきゃいけない。楽だし、あんたなら文句ない。むしろ歓迎されるよ。ね、人助けだと思ってさ、頼むよ」
 なんだかいやにいろいろ頼まれる家出だ。


ジェレマイアというのは男の名前

 こっから、なんやかんやあって、クラウドさんがジェレマイアっていう名前の金満家に出会うんですね。ジェレマイアってエレミヤのことです、旧約の預言者の。それで、セフィロスさんと手紙のやり取りを続けながら、半分はクラウドさんの無自覚なやや気の触れかかった魅力(これを追求したかったんでした)によって、半分はセフィロスさんの手紙での非常に巧妙な示唆によって、かわいそうなジェレマイアは死ぬんでした。そういう話。
 セフィロスさんは続く手紙の中で、「美人は気のふれているほうが魅力的だ」と書くのですが、これはモーリヤックの『愛の砂漠』という小説からとったんでした。クラウドさんのそっちの可能性を追求したかったんでしょう。ACクラウドさんに直結するあの魅力ですね。あのクラウドさんはもうひと押しでその領域に突入する感じがある。いや、もうすでに突入しかけていたけれども。
 正気で良識的な美なんてのはつまらんものです。すべてのもの書きはそれを心に刻んでいるからこそものを書くのではないですか。そして自分の正気を疑っているからものなど書くのではないですか。正気なものなんぞつまらんものです。正気の奥にうごめくものを正気のなかで昇華させてこそもの書きの面目躍如たるものがあるんで、そこを最初から無視してかかる、あるいは軽く見ているもの書きなんぞくたばったほうがいい。わたしはそう思っています。

 これらふたつの作品が挫折したことからもわかるように、わたしはもうこういうテーマにこういう形で挑むことができなくなりました。それがいいことなのか、悪いことなのか、知りませんが、なにが変わったのかといってわたしのクラウドさんが変わったんでしょう。彼になにを見るかということが、たいていそのときのわたしの心理を如実に示しているだろうと思います。セフィロスさんも変わるが、彼の変わり方はわたしの形而上的部分とかかわっているので、形而下のわたしがいまなにを考えているかはクラウドさんにかかっている。
 書き手と書いたものは不可分であり、そこにわたしがぶん投げた小説を決して完成できないことの秘密がある。そういうものです。わたしの魂がたどっている場所がここにあり、それは一度通りすぎると、もう戻れない地点なのです。

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