SCサイトリンクが充実した背景

 ふと思いついて、リンクにいくつか二次創作サイトを追加した。
 Aboutのところにも少し書いておいたが、いまやFF7は発売から二十年以上の歴史をもつゲームになってしまい、いまだに続編が出ているということは、それをきっかけにこの世界に入ってくる人もいるかもしれないわけだ。いまは九十年代の終わりではないし、時代が変われば人も変わるので、セフィクラが当時のようなブームになることはもうないだろうけれども、ともかくこのカップリングは九十年代の終わりにはひとつの社会的現象だったわけである。

 当時セフィクラがどれほどすごかったのかは、地方の一中学生に過ぎなかったわたしには知りようがないが、コミケ会場がセフィクラサークルで埋め尽くされていたとか、サークルの中には大金を稼いでいた人もいるとかいう話だから、相当にすごかったのだろう。セフィクラを扱う個人サイトも星の数ほどあった。
 わたしは主にネットを通じてその世界に触れていたわけだが、FF7発売当初の雰囲気やその当時の二次創作世界を知っているということ、そしてそういう人間がいま現役でこの世界の、それも同じジャンルにいるということは、別にわたしに限ったことではないが、しだいに少数派になってきているのに違いない。その中でいまだに現役でウェブサイトの管理人をしているとなったら、人数はさらに絞られるだろう。そういう人間のひとりとして、なにがなし果たすべき責任というものがあるにちがいない。そしてそれはおそらくFF7のセフィクラというひとつの文化的な現象を同時代人として体験し経験している人間が、すべからく果たすべき役割であるに違いないのだ。

 ひとつひとつはいかに個人運営の辺境地にある弱小ウェブサイトであろうとも、それらが集合するとき、それは文化における紛れもないひとつの潮流となりひとつの現象になる。セフィクラほどの社会的現象であってみれば、その文化的……ないしおそらくは歴史的な……価値は疑いようがなく、それはサイトに展示されている作品そのものの価値やウェブサイトのデザイン的な観点からなされる評価などとはまったく別のものである。ウェブサイトを作るにはインターネット上の住所であるドメインが必要だが、個々のドメインはたとえ管理者が契約更新を放棄して消滅したのちであろうと、サーバーがサービスを停止したのちであろうと、半永久的に残りつづける。どこかの誰かがそのウェブサイトのURLを知っているなら、あるいは広いインターネット上のどこかに、そのアドレスへのリンクが残っているなら。

 もちろん、この状況がこの先どうなるかはわからない。ウェブサイトのアーカイブ化や、資料としてそれをどのように保存するかということは、議論の多い、決着の見えないやかましい問題である。サイトの管理人がウェブサイトを閉鎖したのなら、それは閉じられ、捨て去られたものとして、なんらかの形で再び見られるようにする権利は誰にもないというのもうなずける考え方である。しかし一方で、あのころお世話になったあのサイトが、たとえアーカイブ化された不完全な形であるにしろまた見られるというのなら、あるいは最近知ったもう閉鎖されたサイトが、やはりアーカイブの形で見られるというのなら……人はどちらを優先させるべきだろう。インターネット上になにかを投げるということは、どのみちこのような議論の俎上に自分の投げたものを乗せることだ。本人にはそのつもりがなくても。

 だからウェブサイトが完全に消え去るということは、こうした意味ではおそらくあり得ない。例えばこころみにわたしの昔のウェブサイトのアドレス(http://blissto7.com/)をウェイバックマシンに投げてみるといい。そうすると、2013年から2017年にわたって六回保存されたログが出てくる。最初のものは2013年5月20日21時40分24秒だ。試みに開いてみよう。こんな感じになる。
 この調子で、サイトのURLを知ってさえいれば、過去にインターネット上に存在したどんなサイトのアーカイブでも見ることができる。だから、あるウェブサイトのURLを知っているというのはある種の価値を有するのだといえるし、それは財産であるとさえ云えるだろう。つまり、リンクというのは財産だ。URLは財産だ。最近そう思うようになった。裏を返せば、一度インターネット上になにかを上げてしまうと、いつまでも過去になれないということだし、いつまでも忘れ去られることのない世界に身を置く羽目になってしまうということだ。それが幸せかどうかは、わたしにはにわかにわかりかねる。わたしはこの世界で永遠の存在になりたいと願ったことはない。自分が永遠であることをすでに知っているからだ。そうした観点から見れば、インターネットはどこかわたしたちの精神や魂に似ている。部分的には、かなりよく似ている。

 ともかくも、インターネット上におけるセフィクラ二次創作サイトの歴史をたどるうえで、そのあらゆる文化的価値を考えるうえで、決して外すことのできないウェブサイトというのがいくつかある。それらの多くはいまやほとんど閉鎖され、見ることができなくなった。わたしの膨大なブックマークリストも、パソコンが壊れたり携帯を変えたりするたびに失われて、いまでは大方失われてしまった。わたしはわたしの財産の多くを失ったのである。
 だが、まだ現役で残っているサイトもかなりある。そのうちのいくつかをわたしは今回Linkに載せることにした。これはまだ生き残っているサイトのほんの一部だ。わたしの好みとか読みたいものとかいう以前に、時代性をこよなくあらわしていたり個人のウェブサイトがどういうものであったかを示してくれたりするものを選んだつもりである。そしてなるべく、ACやら続編やらが出る以前には、FF7のキャラクターがどれほど多様な解釈を受けていたかを示したいとも思った。

 FF7二次創作の世界はかつて途方もなく広かった。いまだって、アドレスを知ってさえいればその世界に浸ることができるのだ。こんなとこまで読んでくれたあなたのために、わたしはわたしの財産の一部をここに公開しておく。いまでは閉鎖された、初期のセフィクラサイトのURLだ。URLをウェイバックマシンにかけてみてほしい。たぶん、わたしと同じお年ごろのお姉さんなら知ってるサイトがあるはずで、運がよければいくつか小説が読めたりもするはず。さらにはリンク先なんか見はじめると、もう泥沼である。ウェブリングやそれに登録されたサイトの数だけでも、途方もない数のセフィクラサイトがあったことがおわかりいただけると思う。

PLATINUM MINORITY:http://www.sephiroth-web.com/
OFFICE T&S:http://cloud-s-web.hp.infoseek.co.jp/
supream:http://www5.plala.or.jp/ma-rino/information.html
Half Moon:http://www.asahi-net.or.jp/~fa7n-stu/tsukimoto/index.html
under_lined:http://www2.tiara.cc/~notfound/under_lined/

 かつてインターネットはこういう世界だった。わたしは過去の礼賛者ではないけれど、現代の追従者でもない。人はどのみち過去の集積なのだ。いま現在の自分が、この先どうなりたいかは自分で決めることができる。でも、過去の自分がどんな時代にどのような思春期を過ごし、その時代に支配的な思想や文化や雰囲気がどんなものだったかまでは、自分でコントロールすることはできない。わたしはわたしの過去のこの面を、いまは誇ることができる。本質的にわたしはこのときからなにも変わっていない。セフィロスがいなかったらわたしはラテン語をやらず、ギリシア語もやらず、こんな人間になりはしなかった。セフィクラがなければわたしはこんな人間には決してなりはしなかった。FF7をやっていなかったら、わたしはどう転んでも、こんな人間になどなっていなかったはずである。
 そうしたことを、誇れる人でいたいものだ。自分の人生には意味があり、自分の存在にも意味があり、自分というひとつの現象が、まぎれもなく世界の一部であったと思える人間になりたいものだ。わたしはほんとうに最近まで、自分のこの部分のことを秘匿しつづけていた。昔FF7のサイトをやっていたときでさえ、わたしはわたしのこの部分について隠しつづけていたのだ。だが年をとるにつれ、時間が過ぎるにつれ、人生というものは複雑な編み目の連続によって織りなされたつづれ織りのようなものだと思うようになった。自分の人生を通徹する重低音がいったいなんであるのかを、いまのわたしは昔の自分よりはよく知っている。そしてそういうことを幸福と呼ぶのではないかとわたしは思うのだ。

 わたしの人生にはいつでも次のようなテーマがある。神、超越、彼岸と此岸、そのあいだのバランス、人間の魂と肉体との不可思議な関係。
 これらをもたらしたのはセフィロスというひとりの人である。彼はわたしにとってもはやゲームの登場人物ではなく、わたしの神話の中の象徴的人物だ。ついこのあいだもわたしは彼の夢を見た。そしてその夢の中で、彼はかつてのわたしをこの世に向けて再びもたらすようにとのメッセージを発していたのだ。あの揺らぐ時期のわたし、自我がまだ堅牢になる前のわたしを。それはいかによくさまざまなものとつながっていたことだろう、そしてそれをいかにやすやすと、だれかと共有できていたことだろう!

 今回の更新は彼のその指示に従ったものだ。こういうことを書いているとき、わたしがどれほど勇気を振り絞っているかあなたは知るまい。しかしその行為はわたしの恥をとりのぞき、わたしの壁をひとつ、突き崩すのに違いない。彼が人間の壁を突き抜けていったごとくに。