FF7インターナショナルプレイ記その3……ひとつの試論

これ以前のプレイ記
その1 その2

※今回の記事も長いです(約6,800字)

 前回から数日あいだが空いてますが、なんでって、怖くてできなかったからです。
 カームの町に入ると、宿屋に入って、あのクラウドくんの過去回想話になってしまう。ソルジャークラスファーストという名のレベル1のクラウドくんと、魔法も物理攻撃もキレッキレのセフィロスさん。この組み合わせが拝めるというだけでもセフィクラ人間には夢のようではあるが、しかしこの回想は、わけがわかったうえで見てしまうと非常にしんどいものがあり、わたくしの精神がごりごり削られてゆきもする。

 そう思ってなんとなく気後れしていたら、どうしたわけかこの週末で一気に竜巻の迷宮まで行ってしまった。物語が一気に急展開する、あの非常に象徴的な場である。

 今回の記事は、なにやらプレイ記というものとはほど遠いなにかになりそうである。これからなにを書こうとするのか、いまのわたくしは少しも知らないが、単純なプレイ後追い日記のようなものになりそうにないことは確かだ。
 わたしはどっちに転んでも、しょせんセフィロスとクラウドにしかほんとうの意味で興味をもてない。ザックスのことはほんとうに大好きだ、でも彼を好きなことと、セフィロスとクラウドというこのコンビを好きなこととは、ぜんぜん別の系統の好きに属する。

 わたくしは結局、このふたりのことしか語ることができず、このふたりのことしか知ることができない。それはナナキの物語に胸を打たれたり、古代種の神殿で自己犠牲精神を発揮するケット・シー一号機に心を震わしたりするのと、やっぱり全的に、単に異なっている。これらの話もわたくしの心を揺さぶる。しかし心を奪うものといっては、ただセフィロスとクラウドのみなのだ。

混沌から自我へ

 昔の話からはじめよう。
 わたくしがはじめてFF7をプレイしたのは中学一年生のときなので、脳みそがいまの10分の1くらいしか機能していなかった。そのころのわたくしは、FF7のストーリーをほとんど理解できなかった。特にジェノバがどういうものなのかとか、クラウドくんの自我がどうのこうのというような話は、12歳のわたくしにはあまりに複雑に過ぎた。わたくしがこれらのことをなんとなく理解しはじめたのは、高校生になって家にネットがやってきて(なつかしいダイヤル回線式のあれ)、セフィクラの二次創作サイトを拝めるようになってからである。

 12歳くらいから17、8歳くらいのわたくしがなにを考えていたのかよくわからないが、そのころのわたくしは、単に画面のセフィロスにもだえ、画面のクラウドに悶えていたのであった。そのころ、セフィロスはわたくしにとって、ちょうど13、4のクラウドくんがそうであったように、自分には手の届かない、力や権威やはるかなものの象徴だった。わたくしはちょうどクラウドくんのように、それらのものに及びもつかぬおのれというものをよく知っていた。世界に対して気後れと不信とぎこちなさ以上の態度を持ちあわせておらず、ともすれば容易に怒りや憎しみに変換されうるありとあらゆる劣等感のかたまりが、当時のわたくしであったとすれば、それはまた当時のクラウド・ストライフのことでもあって、われわれはそのゆえに深く共鳴しあう関係にあったのだ。
 わたくしはその共鳴を知的理解をすっ飛ばして本能的に感じていたのであり、嗅ぎとっていたのであり、肝心のストーリーなんぞ半分以上わからなくても、なにがなんだか理解できなくても、この共鳴のゆえにわたくしはこの世界に立っていた。そしてセフィロスを見上げていた。

 こういうことを投影というのだろうか。よくわからない。わたくしはただ、13、4のクラウドくんを、切実にわたくしの分身のように思っていた。彼にこのような感情を抱いている人はかなりの数にのぼるにちがいない。彼は典型的なひとつのタイプだ。そしてセフィロスもまた。

 わたくしは、あのころの劣等感を自分が克服したなどとはとうてい云えぬ。あの日、あのころ、わたくしがクラウドくんの中にさかんに見出していたおのれ自身の弱さというものを、わたくしが超克し得たなどということは、この世の終わりになっても来ないように思う。そうではなくて、わたくしの学んだことといえば、一種の諦めに似たものである。わたくしは彼らではない。すなわち、ティファやその取り巻きの男の子たちのようではない。自分は到底彼らのようになることはできず、彼らのようであることもできない。わたくしと世界とのあいだには深く、絶望的な壁がある。けれどもその壁をこしらえているのは自分であったりする。そう思って、なにかを解決した気になったけれども、この壁は自分の認識が改まるくらいでは到底去らない。病んでいるのは世界でなくわたくしである。わたくしは単にわたくしであるというただそれだけのことのために病んでいる。病んだわたくしは、ひとりただ病みぬいたわたくしは、この圧倒的なひろがりをもつ未知の世界を前にしてうずくまっている。明らかに自分ではなく、異物である世界を。

 こんなことを書いて、わたくしはなにが云いたいのか? わたくしはいまは、もうそうしたことにけりをつけようなどと甘いことを考えない。わたくしはこの世界のなかの何者でもない。しかしあの世界にライフストリームがあるように、すべてのものが精神エネルギーの祝福を受けて誕生してくるように、この世界においてもまたわたくしの誕生を祝福するなにものかがあった。お釈迦様の生まれたときのように神々が礼拝したり、天からマンダーラの花が降ってきたりということはなかったのだけれども、人がもしも生に対するあらゆる疑念と憎しみと反逆とを生まれながらに植えつけられたとして、しかしそれでも、たとえ惰性であれ気概の欠如のせいであれ単純に怯懦のせいであれ、何十年か生きたとしよう。たとえば30年とか40年とか。
 そのようにして、ある生まれながらの根深い恨みつらみに支配された人が、生きたとする。するとその人は、あるときおぼろげに理解する日が来るはずである。自分を祝福する何者かの存在を。それを神と呼ぶか、摂理と呼ぶか、そのほかなんと呼ぶかはわからないにしても、その人はあるとき気がつくはずである。自分の存在というものが、まったくの負債、まったくの無駄、まったくの無意味というわけでもないことを。それはその人にしてみれば、むしろののしられ呪われるより苦しいことである。受け入れられるということは、拒絶されるよりはるかに苦しい経験であり得る。しかしあるときそうしたきざしを見たならば、その人はその光のほうに向かって歩かざるを得なくなるだろう。そうして、その人は、自分がいままでたどって来た道よりもはるかに苦しい、幸いや調和というものの見える道へ向かって歩くのである。

 わたくしはいまクラウドくんのことを書いているのか、セフィロスのことを書いているのかわからない。セフィロスはある意味でひとつの調和を、というかひとつの新しい秩序を、だな、こっちのほうが正確だ。彼は摂理そのものになることによって、ひとつの摂理への反逆を……否、これも違うな。彼に反逆だの憎悪だのといった言葉は意味をなさない。彼はすべてのものをひとつにしようとした。自分の意志という、この世界においてただひとつ存在の確実なもの……デカルトかきみは。ああ、デカルトなんだな、あなたはまさしく、この問題に関して、この瞬間に。

 それならば、あなたたちは同じ迷宮にいるのである。セフィロスもクラウドも、ふたりとも同じ迷宮のなかに住んでいるのだ。わたくしたちプレイヤーは、その迷宮のふたつの極が織りなすものを見たのだ。それは美しい物語であった。それは現実そのものと同じように残酷であった。それは現実そのものであった。彼ら二人にとっては、たしかにそうであったのだ。

自意識の迷宮

 自意識のあるのは苦しいことだ。それはそうだ、当たり前である。自我のあまりに強烈な人間と、自我のあまりに弱い人間とは、ともにひとつのものに根ざしたおなじ痛みを分かちあっているのだといえる。ライフストリームに溶けこむことを拒否し、そのなかで自己を再構築しはじめたセフィロスの強烈な自我と、クラウド・ストライフなる貧弱な自我をもちあわせた……この場合の弱さ強さとは、先天的な自我の強度のことだと思ってもらっていい。わたしはこのことをユングを通して学んだが、自我の強度というものは、各自先天的に異なっている。生まれつき、自我のまとまりがゆるく、くずれやすく、もろい人がいる一方で、セフィロスのように先天的に自我が強固で、どんな揺さぶりをかけられてもそれに屈しない人がいる。
 自我のまとまりが生まれつきゆるい人は、無意識に対する抵抗力のあまりない人である。反対に、自我のまとまりがたいへん強固で頑丈な人は、実に意志的な人であり、男性的な人であるが、無意識や自分以外の領域に向かって開いてゆくことが難しい。ライフストリームを仮にあらゆる生命意識の集合体であるとする。一種の普遍的無意識のようなものであるとする。この無意識と自我意識とは常に対立している関係にあるから、自我意識の強固な人は、ライフストリームに溶けないで自己のままとどまっていることができるが、そうでない人は、容易にこれにのっとられて(無意識が自分を襲ってくるときの感覚は、このようにしか表現できないもののようである)拡散し崩壊してしまう。

 自我の強度もまたさまざまなグラデーションをえがいているが、セフィロスのように強の極地にいる人と、クラウドのように弱の極地にいる人とが、不思議と接近してくるのはなぜであろう。弱の極地にいる人にとって、強の極地にいる人は、まったく手の届かない、遥かに仰ぎ見て憧れをつのらせる存在である。反対に、強の極地にいる人にとって、弱の極地にいる人は、まったくとるにたらない存在であり、どうでもいい存在なのであるが、なぜか気になる存在である。というか、それは自分がこの弱者に代わってこの弱者の人格の支配者になってやらねばならないような、そのようにしてこの者を成り立たせてやらねばならないような、そんな気にさせる存在である。別にそんなこと誰も頼まないのだが、そうしなければならぬような気になるのだ。

 いやしくも人の形をしたものには、すべからく主人がいなくてはならぬ。ひとりの強固な、強烈な、力強い専制君主が。

 この専制君主とは自我のことであり、それはすなわち神である。自我はおのれ自身の神であるから、自我はすなわち神である。この神が、ある非常に脆弱でもろくて隙だらけで、どこからでももぐりこんでいって操ることのできそうなひとつの人格に出会ったとする。するとその神は、そのもろい人の神にならずにおれない。これはほとんど本能である。わからぬ人は永久にわからぬがよい。わたくしにはよくわかる。

 わたくしは長いあいだ神を求め、神の前にぬかずいてひれ伏そうとしながら神と戦った。わたくしの中にはあの全能の神に戦いを挑もうとする部分が確かにあった。しかしまた同時に痛切に神を求めてもいた。このような人が、世界中のどこにも神を見出せぬということに、ある日気がついたとしよう。すると、次なる手段はひとつしかない。自分が神になるのだ。

 奇しくも彼の前には、彼の足元にも及ばない、無能で脆弱で、いてもいなくてもまったく同じような、なんの価値もない人間どもがうようよしている。よろしい。この者どもは、おれほどの強さもなく、知恵もなく、なにもない。このような存在がこの世界にひしめいていることは、明らかに神の失態である。おれならばどうするか? このあわれな者どもを、おれならばみんな救ってやることができる。あの者どもはもちろん救済などという深淵なことを考えてもいない。だからこそ彼らには救済が必要である。あの弱さ、あの迷妄、あの愚かさ、あのおぞましさ、ああしたものをあの連中の中から、この世界の中から駆逐して、滅ぼし尽くし、すべてを神のもとに返せばよい。そこに残るのは、真実の強さ、雄大さ、調和した美、完全さ、単に静謐で美しいひとつの秩序であるだろう。それこそが神の生むにふさわしい世界である。そのときはじめて、この世界はほんとうの姿をとりもどす。

 ジェノバの破壊的本能といったものは、こんな人格に出会ってしまっては裸足で逃げ出すしかなかろう。この人格を支配することは誰にもできない。彼自身が彼自身の支配者であり、彼自身が彼自身の王であるような人間には、つけいる隙がなく、あやつる糸口などあるはずもない。この偉大な自我は、あまりにも強烈で偉大な自我は、すべてを飲みこみ、すべてが自分となるまで拡張をやめない。

 セフィロスというひとりの男の発言からFF7を見るに、これはあまりに強い自我意識の話だ。そしてそれがあまりに弱くもろい自我意識をどうやって転がし、ひとつの慰みものにしているか、その見本のようなものである。

 ところがこの彼の配下にあるあわれな操り人形は、彼にとって致命的なものを含んでいる。このような自己が自己であるかも定かでない、ほとんど無のもの、彼にとりなんの価値も有していないように見える何者でもない者は、同時に彼以外のすべてのものである。この者をつぶせば、彼はほんとうにこの世界でただひとつの存在になるだろう。対立も争いも止揚した先の、寂滅の境地に彼は至るであろう。だがこの者を、彼はどうしても殺せないのである。この者が必要だからだ。彼にはこの者が必要なのである。使い捨ての手袋みたいなやつだが、なかなかどうしてその手袋は、彼の気を惹いてやまないのである。不可解だ。まったくばかげている。だが、これをまったく無視して捨ててしまうことが、なぜかどうしてもできない。

またひとつの救い

 わたくしはもうずいぶん長いことセフィクラとつきあって生きているが、こういう見方を、これまでしたことはなかった。こんなことを考えたのは、やはりいまこの時期に古代種の神殿とか竜巻の迷宮を進んで、セフィロスに会ったからである。彼の意志を確かめたからである。わたくしは今回彼がほんとうに、彼のテオーシスの過程を楽しんでいるのだということを知った。彼は本当に生き生きと、ライフストリームで得た知識をもとに世界を再構築することを楽しんでいる。その動機が憎しみであるとは、もはやわたくしには思えない。これは単純に、彼の知的好奇心と自我の織りなす結果である。

 彼はその名前からして、すでに神秘的存在であることを宿命づけられているけれども、だからわたくしは彼のことをずっとそのように解釈してきたけれども、でもどうやら彼はたぶん、もっと純粋に自分の好奇心や欲望に、素直にしたがって生きているのである。このことを発見したのは個人的にたいへんよかった。彼のことをこのように理解したということは、わたくしの長きにわたる神との格闘にようやく一段落ついて、わたくしが洋の西から東へ一気にもどってきたこともあるだろう。最近のわたくしは仏教やヨーガやインド哲学に多く惹かれている。そしてわたくしがどうしてセフィロス氏の武術的、というか身体的ルーツを無意識のうちにウータイに置いたのか、ようやく理解しつつある。

 近代以降の西洋哲学は、自我意識を存在の根元に置くわけだ。それはもちろん、西洋のもとでかの一神教の神が、人間の人格と自我を要求する存在へと変貌したことと無関係ではないだろうけれども、その自意識というやつだけでは苦しく、いずれ行きづまるよ、ということを、東洋の哲学は云っているんである。
 わたくし自身、あるとき身体意識というものへのひとつの目覚めを経験して、能をやってみたりヨーガやってみたり、身体というものとようやくまともなつきあいをはじめた。それがわたくしの自我にどれだけ大きな影響を与え、自我ではたどり着けなかったどれほどの境地に導いてくれつつあるか、とてもここでは書けないくらいである。

 なにが云いたいかというと、結局、自我なる神の専制の王国は、崩壊する運命にあるのである。そしてその崩壊をもたらすものは、常に自我以外の部分、このわたくしなる意識のほかにある、わたくしでないすべてのもの、なかんずく、わたくしのなかでわたくしなる意識からこぼれ出てしまい、把握されずにいるすべてのものであり、いずれこの者が自我の専制の王国を、真実に打ちやぶる日がくる。そのときこの王国の、最前まで圧倒的専制君主が鎮座していた玉座の中央に、静かに座って微笑んでいるのは、あの操り人形、あの自分の意志もろくに持たない、無力な奴隷であったりするのだ。

 そしてそれを見たときに、かつての偉大なる専制君主は、なぜかみずからもまた小さな救いを経験したような気になるのである。