オペラハウスにて

 

 遠目から見ても、彼は輝き、匂い立つ美しさをそなえていた。金の巻き毛は長雨のあとにあらわれた陽光のように鮮烈であり、目の覚めるような青い瞳は理知的な、それでいてどこか楽しそうな光に絶えず揺れていて、形のいい、控えめな赤みの差す唇は微笑をたたえている。首、腕、胴体、そして脚、ギリシア的な肉体美よりももっと近代化され、都会化された身体……肉体の活動よりも感性や頭脳の活動が優位であることを示す、繊細な造形。けれどもいざとなればおどろくほど俊敏で鋭利な動きをしてみせる、とびきり上等な身体だ。それは実に彼らしく、小気味よく愛らしい。
 オペラハウスでは、魔弾の射手を上演中だ。少佐の理解するところでは、魔弾の射手となる狩人のマックスが、愛によって身を滅ぼしかけ愛によって救われる話だ。ウェーバーはドイツ・オペラの確立を目指していた。ジングシュピールの形式を用いたドイツ的な旋律、ドイツ的舞台背景、教養としてお勉強した知識はあれど、少佐にとってはだからなんだ、という話だ。どのみちオペラなど彼には関係のないことだ。関係のあることといえば、軍事機密をアメリカへ横流ししようとしているらしい男が、ここを情報交換の場とするに違いないという情報だけだったがそれももう過去のことだ。おおよそ五分前、休憩時間がはじまった直後に片がついた。DとEが、その男を外へ連れ出した。表向き、気分の悪くなった客を介護するスタッフという体で。
 少佐は疲れていた。任務のあとはだいたいそうだ。Aが気を遣って、このままオペラ鑑賞でもしていらしたらいかがですか、と云った。それはつまり、このまま席で寝ていたらどうか、ということだった。どのみち、チケットは持っているし、耳には耳栓も装着されている。雑務はAが片づけるだろう。そういうのは得意な男だ。少佐は提案に従うことにした。疲れていたが、解放感があった。そして幾ばくかの、虚無感や寂しさのようなものもあった。身体の中心が空洞であるかのような感覚があり、なんとなく気持ちの底が浮ついていて、同時に気だるい。このあと、規定により休暇を取らされるだろう。そのあいだは城を修理して過ごすことになるはずだ。そしてまた、復帰する。その繰り返しだ。いつもそうだ。
 そういうことを考えながら、ぼんやりあたりを見回していたときに、見つけたのだ。あの金髪坊やを。少佐はいわゆる天井桟敷席にいたのだが、確かに見知った金髪が、二階の貴賓席近くに座っていた。少佐は反射的に、オペラグラスを目元にあてがっていた。
 彼は、いつものことだがすばらしい服を着ていた。シフォンブラウスの上に、ファーのついたストールを羽織っている。耳や首や腕を飾る宝飾品が、ホールの照明を受けて、ホログラムのようにさまざまの色に、幻想的にきらめていた。少佐の目は、そこへ吸い寄せられ停止してしまった。なにか逆らいがたい力によって、そうさせられていた。
 伯爵のとなりには、見知らぬ男が座っていた。七十を過ぎているだろう。年をとってはいるが、全身の肉づきは悪くなく、まだどことなく精力的な感じがした。伯爵はひっきりなしに男の方を向き、耳に唇を寄せて、親しげになにか話しかけている。唇の動きは、ドイツ語らしく見えた。意外な気がした。伯爵は、ドイツ人よりも正しく美しいドイツ語を話せるくらいだけれど、あえて話す必要はないのだ。彼は自らの英語に誇りを持っている。彼の英語は、いつも詩のように音楽的だ。それを聞きたいがためにわざわざ電話をかけてくる人間がいるくらいだ、といつだかボーナムが云っていた。君に譲歩してるんだからね、と伯爵は云ったことがある。ドイツ語を話してあげてるんだよ、別に感謝する必要はないけど。これも愛だよ。愛の前に、プライドなんて持ち出してるひまはない。わたしの愛の大きさがわからないかなあ、わからないんだろうなあ、君って、そういう男だよ。
 少佐は、なにがなし動揺している自分に動揺していた。なにも伯爵のドイツ語が自分のためだけに存在していると思っているわけではなかったし、それについてうぬぼれているわけでも、なにかしらの優越感を抱いているわけでもないはずだった。ただ、伯爵の中に自分が占めているらしい場所やその範囲、それが真実存在するということについては疑っていないというだけだったが、少佐は自分が知らぬ間にずいぶん横柄に、その上にあぐらをかいていたらしいことを知った。
 伯爵は男と話しながらときどき首を傾け、眉をつり上げ目を見開いておどけた顔をする。そうして甘ったれた微笑を浮かべる。はじかれたように笑う。年をとった男は、明らかに伯爵の正規の好みの範囲外だ。だから、あのふたりの関係はなにかと云えば、たぶん、伯爵を溺愛している男と、それにつきあっている本人、というものだろう。伯爵はきっと、あの男とふたりきりのときにはもっと甘ったれた態度をとるのだろう。相手の機嫌を持ち上げ、すり寄り、いい気分にさせておく。そういうことをする彼についてはほとんど知らない。彼の媚態については、なにも知らない。というよりも、伯爵についてなにかを知っているようで、なにも知らない。彼は見えるようで見えない。ここに、あるいはどこかに、いるようでいない。
 休憩時間が終わり、ふたたび劇がはじまったが、少佐は眠れなかった。目を閉じても金の光がちらついて、眠りの波の中へ入ってゆくことができない。
 あの光に、誘われている。いつもそう感じる。彼の金髪やしなやかな身体を飾る美しいアクセサリーの数々、現れては消え、ちらちらと揺れるそのきらめき。どこかあぶなげで、ひどく落ち着かない気持ちにさせられる。そしてそれがかえって、逆らいがたい魅力となってこちらをとらえる。伯爵は、いつも遊びのさなかにいるようだ。手を出し、逃げまわり、隠れ、ふいにまた現れる。かくれんぼや鬼ごっこ、あの、遊びにまつわる楽しさと不安。はじかれたような哄笑と、絶えずどこかから忍び寄ってくる、決して振り払えない恐怖。あやうい境界線、越境と侵犯への期待とおそれ。伯爵はその原初的な力の中にいるかに見える。子ども時代の無自覚で混沌とした領域、そこへ回帰せよとの呼びかけ。あのころの想像力へ、制御できない感情や熱狂の中へ、ふたたび迷いこんでみる気はないか? 彼は、絶えず境界線の向こう側から、そう誘いかけてくる。それに乗るのは危険なことだ。なぜなら、人間はその段階を、己から切り離し見捨てることによって社会的に成熟した者となるからだ。それは死だ。確かに一種の死滅だ。おそらく魂の一部が壊死することに等しいだろう。だが、ほとんどの人間はそれを必須課程だと信じている。少佐もまた信じている。信じていた。盲信していた。あの光を見るまで。そして彼の全身から匂い立つような独特の雰囲気と芳香に、ふれるまで。
 少佐はついに目を開け、オペラグラスを取り出し、舞台を見るふりをして金髪頭を眺めはじめた。熱心に舞台に見入っている。身動きひとつしない。たぶんいま、彼はあの一点を凝視するときの、目に力の入ったちょっと間の抜けた顔になっているだろう。彼の目には、もしかしたら舞台の照明の光が少し映りこんで、きらめいているかもしれない……少佐は微笑した。彼がなにかに夢中になっているのを見るのは、自分のことでもないのに、なぜだかいい気持ちがした。少佐はしばらく黙ってオペラグラスを目にあてがっていたが、やがて満足げにため息をつき、座席に深くもたれて、眠りこんだ。

 

 割れんばかりの拍手で目が覚めた。オペラが終わったところだった。出演者たちが、舞台の上で手を振り、お辞儀を繰り返している。少佐はなおざりに拍手し、金髪坊やのことを思い出してまたオペラグラスの世話になった。伯爵は手をたたきながら、隣の男に興奮しきりという様子で話しかけている。というより、まくしたてている。興奮だとか感慨だとかいったものが、たぶんあふれているのだろう。少佐はまた微笑した。老年の男は穏やかにそれを聞いている。伯爵のそういう調子には、慣れているふうだった。
 すべてが終わると、ふたりは立ち上がった。連れの男は足が悪いらしかった。伯爵の手は、男の腕と身体にからまり、足を引きずるようにしてのろのろと歩く男を支えていた。自分よりも背が低い男の方へ身を屈め、気遣うようなまなざしを向けている。男はまんざらでもないふうだ。あたりの観客たちが男の歩き方に気がつき、道を譲る。伯爵は笑みをうかべ礼を云って、そのあいだをすりぬけていく。ふたりが通路へたどりつくと、劇場のスタッフが待ちかまえていて、男を支えた。やがてふたりの姿は見えなくなった。
 少佐はしばらく、彼が消えた出口を、その姿を探すように、あるいはその存在の余韻に浸るかのように、ぼんやり見つめていた。疲れはすっかり取れており……あるいは別のものに押しやられてしまって、身体から消えていた。倦怠感や虚脱感は微塵もなかった。そのかわりなにか心地よく、小気味よいものが、川のせせらぎのように軽やかで愛らしい雰囲気に似たものが、自分の中で踊っているのを感じた。いつもそうだ。彼を見、彼にさんざんに振り回されるときには。かっとなり、むかっ腹を立て、そして笑い出したくなってしまう。自分の中でなにかがはじけているという感覚、内側からくすぐられているという感覚、自分が規定したもの、築き上げたもの、それを超越し、突き破ろうとしているという予感を含んだ感覚。無秩序の側へ、自由なほとばしりの方へ、垣根を超えてゆくことへのおそれと期待とのあいだで、激しく揺れる。そしてそれを、ほんとうは待ち望んでいる自分がいる。あの光に、あの自由に、導かれて。
 愛の中には、絶えず格差と不均衡があるものだ。愛する者と、愛される者。お互いに愛し合っている関係においても、常に優勢と劣勢は存在する。少佐はいつの間にか優勢の側から劣勢に転落した、と感じている。どちらがより多く愛する? いまでは、向こうでないことは確かだ。伯爵は少なくとも、エーベルバッハ少佐という男が目の前にいない時間は、いろいろな男のあいだを飛び回ることができる。ちょうどいまのように。伯爵は、どう控えめに見てもエーベルバッハ少佐よりははるかにひとに好かれるし、かわいがられている。そして本人もそれを、楽しんでいるかに見える。伯爵には、愛の自由がある。愛の対象、愛の深さ、愛の分配、そのすべてにおいて、彼には自由がある。少佐には、その自由はすでにない。彼の愛情という愛情……それは、伯爵のものよりもうんと範囲が限定されており、なにより絶対量が圧倒的に少なかった……は、全部あの男に吸い取られてしまったかに思われる。そしてもう、その固定化された愛情の中で、少佐は身動きが取れない。
 ……でも。頭を切り替えようと意図的に視線をあちこちへ彷徨わせながら、その実少佐はまだしつこく考えていた。直接的に関わることなく、あの美しさを堪能できたのはよかった。美しさは、間接的に愛でるに限る。直に接して、その中に隠されたもの、見た目を超えた魂に触れたなら、内面の動揺が、葛藤が、感情が、生じざるを得ない。それを振り払うのに、またあれこれと頭を使わなくてはならない。だから、ああいうのは遠目に見て、美しい、と思えばいい。でも、たとえばその美しさだけを目の前に提示されていたとしたら、惹かれたろうか? マネキンみたいに目の前におかれたとして、あの男に、なにかしらの感情を抱いただろうか?
 出口へ向かうひとの波は途切れることなく続いている。部下が来るまでに、もう少しだけ時間があるだろう。さあ、もう考えるのをやめて、目を閉じろ。そして目の奥の残像に、身体の奥深くに刻まれた印象に、その自由な飛躍を許せ。少佐は微笑し、目を閉じて、背もたれに深く身体を預けた。コンサートホールじゅうに、彼が放つ芳香が、あの金の巻き毛のきらめきが、そしてあの肉体の放つエーテルのようなもの、その残滓が、まだ充溢している。そういう感じが確かにしていた。少佐はそれにくるまれているという感覚に、しばし浸ってみた。音楽の余韻がまだ鈍く広がり、漂っているホールの中で、少佐の閉じたまぶたの裏では、あの男がいま見たままの姿で、こちらに向かって微笑んでいる。……
「……少佐、お時間です」
 頭上で声がした。少佐は目を開けた。伯爵は消え去り、代わって、まじめくさったAがあらわれた。少佐は周囲を一瞥した。出口へ急ぐひとの列は、まばらになっていた。あの男の気配も、すっかり消えてしまっていた。そして、それでよかった。少佐は立ち上がり、耳栓を引っこ抜いて、Aからの報告に耳を傾けた。

 

あとがきみたいなのをここ

 

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