反抗
死闘のかぎりをつくしたような心もちがした。エーベルバッハ少佐ともあろう者がだらしなく寝床の上にひっくりかえって身動きもしなかった。全身が汗に濡れていた。髪の毛が頬や額に張りついて不快だったが指一本うごかすのも億劫だった。疲れ消耗し放心していた。
その横で伯爵も同じようにほとんど疲弊しきっていた。これはたしかに莫大なエネルギーをついやす運動に相違なかった。彼らは上限というものをまだ見きわめないのでやれるだけのことをやってみようとしてほとんど暴虐のかぎりをつくしたような時間をすごした。女相手ではこうはいかぬことのひとつを少佐はまた学習した。伯爵はこの道の先達なのをいいことに少佐の男体をして玩具でも扱うごとくにもてあそんだ。少佐はあべこべに自分が抱かれているかのような気がした。なにがなしはじめて女性の貞操の危機なる概念を理解したような気がしたものである。少佐は伯爵を通りすぎた無数の男の影を思った。それから反逆に打ってでた。ふたりは飽きずこれをくりかえして消耗しきってやめた。
うつろな目どうしが合わさった。ふたりはどちらからともなく笑いだした。はじめ息の漏れるようだった笑いはしだいに大きくなりふたりしてだいぶ長いこと笑いころげた。なにがおかしいのかわからなかったが妙におかしかった。そうしてなぜかふたりのあいだに学友どうしのようにこだわりなく打ち解けた感があった。甘ったるい余韻でなしに。
「近ごろよく思うんだけどねえ」
仰向けにひっくりかえった伯爵が快活に云った。少佐がうんと云いながらサイドボードへ手をのばして煙草とマッチをひっつかむと伯爵がマッチ箱をうばった。そして少佐のくわえたのへ火をつけた。伯爵はマッチを自分の側へ擦るのだ……向こう側へでなしに。
「きみはほんとにこれまでただの一度も男とは経験がないの? わたしは疑るよ……」
「おれの清廉潔白さを疑るのか?」
「疑るさ。きみは飲みこみがよすぎるよ。きみはもう何ヶ月もしないうちに男相手に名うての手練れと称していい男になるよ! そうなったらひと買いに売りつけてやろうかしらん」
少佐は笑った。いい気分だった。
「ひと買いはおれをどこへ連れて行くだろうなあ」
「さあ……どこか無法地帯へ引いていくんじゃないの? そして夜な夜な怪しげな見せ物に出したりするだろうよ。きっと好事家がひとさまの行為を見物するような出しものに出るんだ」
「給料はいいだろうかね」
「わからないねえ。温情のあるのに買われれば小遣いくらいはもらえそうだけどねえ。でもたぶん囲いものになる算段のほうが大きいだろうな」
「見てきたようなことを云うな」
「それに近いのは見たよ」
伯爵は少佐の口から煙草をもぎとった。ひと息吸って顔をしかめ「いやな煙草」と云ってすぐに少佐の口へ戻した。
「いやとはなんだ」
「きみはきっと最大限効率のいいニコチン摂取のために煙草を吸うんだろう」
少佐はしばし考えこんでしまった。まさか! 日に幾度かは煙草はたまらなくうまいのだ。食後の一本や緊張した仕事の合間の一本や一日の最後をかざる一本や……しかしそれ以外の数十本にたいしては……どうだろうか?
伯爵は気だるげに起きあがった。億劫そうな気のない挙動は彼をなまめかしく見せた。彼はスイッチをひねって枕元のランプをつけた。そうして美しい裸体を明かりのなかへ惜しげもなくさらして浴室へ向かった。少佐はにやついてその後ろ姿を眺めていた。それから自身もまただるそうに身を起こしてあとを追った。
「水を持ってきて」
浴槽に向けて放たれた蛇口から勢いよくお湯がほとばしって大きな音をたてていた。それが浴室じゅうにけむりとともにこだましていた。その轟音じみたののなかで伯爵が声をあげた。少佐は引きかえした。冷蔵庫から水を二本取った。ご丁寧に産地のちがうのが二種類ならべてあったからだ。
「おフランスの水とわが誇りたかきドイツ産とどっちがいいね」
「きみが祖国に責任をもったらいいさ。きみはきっとフランスの水なんか飲んだらおなかを壊しちゃうだろうからね」
少佐は浴槽のなかへ沈みつつある伯爵へ容器を投げた。伯爵は受けとって飲んでから心地よさそうに目を閉じて湯のなかへ浮かんだ。巻き毛がふかい藻のように浴槽のうえにただよった。少佐はそれに巻かれたい気がした。巻かれて身を休めたい気がした。彼はそのなかへ両足を入れてわけ入った。伯爵が頭を起こし微笑して身体を浮かした。少佐は伯爵と浴槽とのあいだへ割りこんだ。お湯が悲鳴をあげて逃げだした。水面の動揺にあわせて巻き毛が揺れうごき少佐へからまりついてきた。少佐は濡れた巻き毛を頬や首や肩から胸にかけて受け目を閉じた。湖のなかへでもおぼれているようだと少佐は思った。
浴室はひっそりとしていた。ときおり起こる水音と伯爵のかすかな息づかいの気配だけが少佐の耳を満たしていた。目を閉じたまま巻き毛の奥へ頬をよせ唇で相手の耳や頬をさぐった。伯爵もさぐりかえしてきた。ふたりはかなり長いこと黙ってそのままでいた。少しまどろんでいたと云ってもいいほどしずかに黙っていた。
伯爵のえもいわれぬ身体が手のうちにあった。少佐は今日までこのような男の肉体の世界のあることをつゆ知らずにきたのが悔やまれるような気がした。少年時代から体格のいいのにものを云わせてきたし運動も得意で苦でなかった。彼は身体をよく用い身体もまたこれによく応えた。彼らは良好な関係をきずいていたので頭でっかちで肉体の感覚にとぼしいようなのを少佐は軽蔑した。肉欲については身体の当然の要求であってみればなんら恥じるところのないものと思ってきた。少佐はこの点まことに屈託のないすなおな成長を経てきていた。彼は男たるおのれと男たるおのれの肉体とになんら疑問のない満足をもっていたのである。
その満ち足りた楽園を追われたことはしかしある意味で幸福であった。彼はおのれの肉体というものについてなにひとつ知っていなかったことを知った。同じく男の伯爵の身体というものがそれをまざまざと少佐に見せつけるのであった。少佐は快楽にいかなる深みのあるかを知らなかった。深みのずいぶん上のほうにいて底を見とおした気になっていただけだった。伯爵が用いるあらゆる手管と自分へ見せるあらゆる媚態とが少佐を魅了していた。屈託なき健全なエーベルバッハ少佐は瓦解した。しかしそれが不幸であるとはもう思わなかった。彼はなにか自分の肉体についてよりふかい確信へ達しつつあるような気がしていた。
「男だっていいもんだろう? ねえ?」
伯爵がからかうように云った。伯爵はよくこれを口にした。自分の満足と少佐の満足とに彼もまたたしかな手ごたえを感じているらしかった。少佐は答えず微笑した。
「きみみたいなのを女の占有にするのはもったいないよ。男の身体のことがわかるのは男だけだからね……」
少佐は目を開いた。伯爵がこっちを見つめていた。この瞳と美貌とに魅入られる以前のことを少佐は急速に忘れつつあった。伯爵の身体はすばらしくそして美しかった。まじわるたびにそれが耐えがたい引力でもって少佐を引きつけ拘束した。少佐は周到に用意されていた檻のなかへまんまとはまりこんでしまったような自分を感じた。少佐は人間のおろかさとあやうさと矛盾とを思った。巻き毛に巻かれながら自分がやってきた場所のことを思った。
子育てを終えたゴシキヒワの椀のような巣が高い木のうえにぽつねんと置き忘れてあった。伯爵が木のぼりをしていて見つけたのである。晩夏をすぎ日差しは日々にぶくなり衰えをみせているようだった。それは地上をあたためる力を失いつつあった。朝晩の冷えこみはきつくなっていた。餌の見つからなくなったゴシキヒワはまもなく南へ渡るだろう。少佐は伯爵の指さすからっぽになった巣を見あげてもはやそこにない小さな卵やひなや親鳥の懸命な世話を思った。
「わたしの庭へもゴシキヒワは巣を作るよ」
木から降りてきて伯爵が云った。
「おれんとこの敷地へも巣づくりにくる。姿はめったに見ないが春になるとよく鳴くのが聞こえる」
ふたりは歩き出した。
「きみの家の敷地も広大なの?」
「屋敷の裏はほとんど森だ。たまに鹿がいる。いたちかなんかが来て庭のものを荒らすんで庭師がいつもぶつぶつ云っとるんだ。いたちなんてものは法律で禁止するべきだとさ」
このドイツ的な悪態に伯爵は笑った。
「土地を売ってくれないかという相談はいまでもたまに来る。ばかに広い土地を占有しとるのは不経済だとでも云うんだろうさ。たいていは外国の連中だ。景観保護だとかボン市の歴史なんてことについちゃいっさい頓着のない連中だ。たぶん開発してなにか金を生むものをこしらえたいんだろう。おれは面倒なんでみんなおやじにおっつける」
「するときみのお父さんは話のわからない外国人商人相手に獅子奮迅ということになるわけ?」
「まさか。おやじはただ首を横にふるだけだ。するとそれを見とどけた不動産屋のおやじが連中にNeinをつきつける。まあおやじだって他人におっつけてるようなもんだがね」
「ものごとってみんなそうやっておっつけあうように出来てるんだねえ。わたしはみんなジェイムズくんにおっつけちゃうよ。うちにも土地の売買の話が来るみたいだけどわたしはなんにも知らない。その問題に関してはわたしはおそるべき怠惰な現状維持主義者なんだ。敷地を一インチだって手放すつもりはない。よそへ土地を求める気もないしね。必要な場所はみんなお友だちが見つくろってくれる」
ふたりはいままさにそのお友だちが見つくろった土地のうえを歩いているのである。美しい山の裾野にひろがる森のなかを散策しているのである。このあたり見わたすかぎり一帯がその伯爵のお友だちの土地で、お友だちは伯爵へこれを丸ごと与えたのだった。やかまし屋のジェイムズくんが税金で頭を悩まさないよう名義はお友だちの名前のままにして。そして伯爵はこのあたり一帯の景観と動植物とを愛しときおり保養におとずれた。ことにひと仕事したあと酷使し緊張しきった心身を自然のなかへ憩わせるのはたとえようもない心地がするものだ。伯爵はふかいタータンチェックのショールをゆらして朝に夕に熱心に逍遙した。森のなかを景気よく歩くそのすがたを少佐は「自然愛好家の純然たる田舎名士」と名づけた。そうしてきみだって純然たる田舎名士じゃないかと云いかえされた。エーベルバッハ家の祖先をたどれば地方豪族だからたしかに少佐こそ田舎名士と呼ばれるにふさわしいのかもしれなかった。
「するとわれわれは田舎名士のカップルということになるね」
と伯爵は満足そうに云った。それから実は生粋の貴族を相手にもったのははじめてのことなのだとうれしそうに白状したのだった。
「わたしの貴族づきあいは簡潔簡素を旨としてるのさ。これといって理由はないけどまあいろいろと気おくれするところもあったりしてね。それにイギリスの貴族社会界隈では母がかなり幅をきかして増長しているからそれに遭遇したくないんだ。なにしろせまい社会だからねえ」
「そういうせまい場所で増長するようなのは煙たがられないもんかね。おまえのおふくろさんがどんな女性か知らんが……」
「煙たがられてるさ。そりゃあね。だけど日増しに増長してゆくような人間と正面からとっくみあったって時間の無駄だからね。みんなうまいことつきあってるんだろうよ。よくは知らないけど」
それからふたりはそれぞれの国家における貴族の現実や役割というものについて話しあったのだった。少佐はそういうことを他人に語るのははじめてだと思った。少佐だって生粋の貴族を相手にもったのははじめてのことだったのだ。ふたりはその日熱心に話しこんだので森のうるわしい景観や空気を楽しむのを忘れた。
森の生き物どもは短い秋のあとの長い冬にそなえ忙しくはたらいているようだった。虫どもはひっきりなしに地面を飛び交った。リスが頬をぱんぱんに膨らましてちょろちょろと動き回っていた。穴ぐらの中へ食料をためこんでおくのだろう。鳶か鷹かが大きな羽を広げて旋回していた。彼らは生き物の気配の濃い森を歩いて屋敷へもどった。屋敷には六十近い男がひとり一手に管理を任されて住んでいた。無口だが陰気というのでもない男だった。この男の身元を少佐は知らなかったし伯爵も知らないと云った。だが男のほうでは伯爵のことをよくわきまえていてまめまめしく仕えた。男はなかなか美男だった。もしかすると昔はお友だちの小姓かなにかしたかもしれないと伯爵は云ったことがあった。ありそうなことではあった。男の顔立ちやしぐさにはなんとなく妙になよやかなしなるようなところが散見された。
午後の日差しがよたよたと重たくすぎていった。伯爵はぽろぽろと古いピアノを悲しげに鳴らした。少佐はソファに寝そべってなにもしないでぼんやり煙草をふかしていた。窓からは森が見えた。あのゴシキヒワの巣から巣立った雛はいまどこでどうしているだろうとふと思った。雛はもうあらかたいっちょまえの鳥になり渡りの前に力をたくわえているはずだった。鳥は人間のようにいつまでも子どもを抱えたり養ったりしない。また人間のようにいつまでも伴侶を見つけないで繁殖に精を出さないということもない。少佐はこのところときどき結婚についてやかましく意見してくる父親のことを考える。いかなエーベルバッハ少佐の父とてこのたびの息子の背信については知るまい。また息子がその背徳たる道をいかに急速に転がり落ちているかを知るまい。少佐は知らすつもりがない。息子をなにかにつけいつまでもいっちょまえに扱わない父親がいかなる謀反をうけるものか見ているがいい。少佐は残忍な笑みをうかべる。少佐はおそらくこの先も父親にはなるまい。そして永久に父親の感情を理解してやらないのだ!
伯爵がツイードのショールを羽織って歩いてきた。日がかげりつつあった。輝かしい昼間にも日のかげる夕暮れにも陽光の具合で伯爵はおりおりの美しさをみせた。かげりのなかでは彼は秘密めいて物憂く見えた。ソファのそばへやってきた彼に手をのばして少佐は自分のほうへ引いた。かげりのうちにある彼の容貌にふくまれた秘密と物憂さとを引きよせたいような気がしたからである。
彼らは密着した。少佐は伯爵の甘くかおる香水をめいっぱい胸へ吸いこんだ。おれは男になっても父親にはならん。少佐は考えた。伯爵の細かなやわらかな巻き毛へ顔をうずめながら考えた。伯爵の男の身体を引きよせた瞬間ふとつよくそう思ったのである。それはたぶん子どもじみた強情であった。たぶんガキくさい反抗であった。しかし少佐はなんとしてもこの反抗を生涯にわたって決行したかった。父親の云いなりになるのはごめんだった。その価値観を押しつけられるのはごめんだった。父親は父親なりによき妻を得て幸福な結婚生活をおくったろう。ごく短い期間ではあったが。だがおれにはおれの人生があると少佐は思った。
「なにを笑っているの?」
伯爵が頭をうしろへ反らして少佐を見つめてきた。少佐は知らず知らず微笑していたのだった。少佐は答えなかった。今夜もまたこの男を抱こうと思った。そこにエーベルバッハ少佐じしんの人生があり良心があるやもしれなかった。その父親の思いもよらない人生が。少佐を知るだれもが夢想だにしない人生が。