die Locke
Dona praesentis cape laetus horae.
いまここに流れる時の贈り物を喜んで受け取るがよい。
―― ホラーティウス
エーベルバッハ家の城はボンの郊外にあって、背後には樅や唐松の茂る森が広がっていた。森はエーベルバッハ家の所有だが、その管理は公的機関に依頼している。以前はエーベルバッハ家お抱えの森林管理人一家が森の中に住んでいたが、いまの管理人は市街地に家を持っていて、車で通っている。もっと世の中が優雅だったころには、貴族たちがここで狩猟を楽しんだり、馬を走らせたり、散歩をしたり、あるいは若い男女が追っかけっこをしたりした。執事のヒンケルに訊けば、そうした古きよき時代の話がいくらでも出てきた。中でもヒンケルの十八番の話は、美しくも悲しい愛の物語だった。
ハプスブルク家とつながりがあり、軍人一族のエーベルバッハ家は、時勢に応じてスペインやオーストリアや、イギリスからも嫁をもらっていた。十八世紀、ドイツがイギリスとの関係強化をはかったころ、イギリスの名家から、十六歳の清き乙女が嫁いできた。ほっそりした内気な少女で、目を見張るような美しい金の巻き毛を持っていた。美しい長い巻き毛は彼女の誇りだった。また、彼女の夫となった人物もそれをたいそう愛でていた。ふたりは深く愛しあい、二男一女を設け、つつましい、愛らしい家庭を築いていたが、結婚十年にもなろうかというころ、夫が戦死した。彼女は嘆き悲しみ、一年のあいだ屋敷から出ず黒服に身を包み、喪に服したあと、夫が名誉の死を遂げたそのちょうど一年後、森の中で自ら命を絶ったのだった。
「翌日、近所の者たちも総出で捜索しましたところ、ちょうどあの森の中心のあたり、少し開けたところにある大きな樅の木の下で、彼女は胸をナイフで貫いた姿で発見されたのでございます。それはそれは胸の痛む光景だったそうでございます。しかし彼女の顔は穏やかで、その金の巻き毛は、木漏れ日を受けて輝き、まるで夢幻のように美しかった、と、これはわたくしの曾祖父が、そのさらに父親から聞いた話だそうでございますが……」
この話は、少佐と伯爵と双方に、なにやら深い感銘を与えずにはおかなかった。その話を聞いた次の日は、よく晴れてさわやかな天気になった。伯爵はふいに森へ出かけたいと思った。まだあの物語の余韻が彼のうちにあったのだろうか? ともかく、彼は少佐を散策に誘った。少佐は窓から外を見て、ごくうるわしい天気なのを確かめると、ちょっとまぶしげな顔をして、うなずいた。伯爵はよくこんなふうに突然なにかを思いついて、そのたびに少佐を振り回したが、彼はぶつぶつ云いながらも口ほどには気にしていないらしかった。少佐は、突拍子もないことをやらかして面白がる伯爵を見て満足しているところがあった。伯爵はそんなとき少佐が無邪気な子どもの遊びを眺めるように、あるいはなにかまぶしいものを見るような目で、自分を見ているのを感じた。彼の視線は面白がるように伯爵を追いかけた。そして自分が相手の目を楽しませているらしい、という考えが、伯爵を満ち足りた気持ちにするのだった。
ふたりは昼食の入ったかごを手に森の中へ散策に出かけた。伯爵は片手に四角いかごを、もう片方の手に自分の相棒のテディベアを抱いていた。この愛らしいベアの肩には、タータンチェックの水筒がぶら下がっていて、中には熱い紅茶が入っていた。少佐の手にはハンモックとシート代わりの布切れと新聞が握られていた。彼はハンモックをどこか具合のいい枝にでもぶら下げて、昼寝をしようと思っていたのだ。
森の中ではたくさんの鳥の声を聞くことができる。ヒワやコマドリがちょろちょろと枝のあいだを動き回って、すぐに飛び立ったり、また戻ってきたりする。ときおり虫の羽音がする。梢はさらさらと心地よい、清らかな音を立てている。ふたりはさわやかな空気をたっぷり吸いこみながら、話をしたり、つつきあったり、それそれの物思いにふけったりして森の奥へと歩いていった。そうして、例の、森の中心部にあるひときわ大きな樅の木のところにたどり着いた。
もう昼どきだった。伯爵はかごを地面におろし、少佐はハンモックを脇へのけて、丸めていたシートを広げた。白い光沢のある布が、草に覆われた地面に広がった。厚手の布の中央には、エーベルバッハ家の紋章が刺繍されていた。勇ましい顔をしたイノシシが、いまにも敵を蹴り上げ、粉砕せんと身構えている。伯爵は持ってきたかごと相棒をその紋章の上に置いた。そうして、ワインの瓶から赤黒い液体をグラスに注ぎ、料理人マンツがはりきってこさえたフォアグラ入りのサンドイッチとフルーツを布の上に広げた。相棒のテディベアの前には、ワインの代わりの葡萄ジュースが置かれた。
空は青く冴え渡っていた。はるかな高みで、鳶が円を描いて舞っていた。食べ物の匂いに惹かれたのだろうか? ひらひらとチョウが飛んできた。伯爵はサンドイッチを口に運ぶ手を止めてつかまえようとしたが、チョウは右へ左へ揺れながら、彼の美しい指のあいだをすり抜けていった。伯爵は鼻を鳴らした。少佐は笑った。
「チョウをつかまえるのだけは、昔から苦手なんだ」
伯爵は云った。
「どうしてだろう? 狙いをつけたら、大概のものは逃さないんだけどねえ! もしかして、わたしがほんとはチョウをつかまえたくないんだろうか?」
「チョウだって、おまえみたいなやつにはつかまりたくないだろう」
少佐は楽しそうにワインを飲み干した。
食事を終えると、少佐はハンモックで昼寝をするために立ち上がった。大きな樅の木のまわりをぶらついて、ちょうどいい具合に間隔の開いた木を二本見つけると、両端のひもをしっかりくくりつけた。そうして、おそるおそる網の上に寝転がった。ハンモックは少佐の体重をどうにか受け止めた。少佐は満足そうに唇を持ち上げて、盛大に身体を伸ばし、新聞を広げた。彼の上に、木漏れ日が複雑な模様を投げかけた。
伯爵は相棒を連れて、森の散策へ出た。森の中は明るく、五月の春の陽気に満たされていた。すがすがしい、いい気分だった。
「昨日コンラートが話していたイギリスからの花嫁だけど、こんな天気の日に、こうやって森の中を一時間でも散歩したとしたら、自殺しようなんて気持ちは起こらなかったんじゃないかとわたしは思うよ」
相棒は、昔の高貴な女のひとはあんまり森を歩いたりなんてしなかったんじゃないかな、と云った。
「だからさ。人間、ときには違った場所からものを見なくちゃいけないよ。別に自殺が悪いんじゃないけどさ。少なくとも、わたしはクラウスが戦死したくらいじゃ死なないな。死ぬほど悲しむだろうけど。だって、それでわたしが死んじゃったら、なんだかんだいって彼、浮かばれないからね。安易な答えだけど」
相棒は、そうかもしれないねえ、と云い、空を見上げて、気持ちよさそうに目を細めた。
樅の木のところへ戻ってくると、少佐はハンモックの上で寝ていた。伯爵はくすくす笑って、あたりを見回し、足下の雑草を引き抜いて、それで少佐の頬をくすぐった。少佐の眉がぴくぴく動き、手が虫を振り払うようなしぐさをした。伯爵が声を上げて笑うと、少佐は目を覚ました。
「おれの昼寝を邪魔しやがったな」
少佐は怖い顔で云った。
「だって、退屈だったんだもの」
伯爵は身体を折って、少佐の腹の上に両腕と頭を乗せた。そうしてハンモックを揺するように、前後に力を入れて揺さぶった。
「やめろ、落ちる」
「落ちちゃえ落ちちゃえ」
ふたりはしばらくそれで遊んだ。それに飽きると、少佐は起き上がり、ハンモックに座った。伸びをして、煙草に火をつけてふかしだした。伯爵は歌いながらそのあたりをぐるぐる回りだした。日差しはいよいよ高く、木々の合間からふたりの上に降り注いだ。
ふいに名前を呼ばれて伯爵は振り向いた。少佐の顔は強い日差しのために、あまりよく見えなかった。
「なに? クラウス」
少佐は微笑したように見えた。そうして云った。
― Nimm dich in acht, deine Locken schmelzen ja in der Sonne.
伯爵は目を見開いた。少佐はまぶしそうな顔をしてこちらを見ていた。日差しがふたりのあいだに降り注いでいた。鳥が鳴いていた。木々が葉を揺らしていた。時間が止まったように思われた。伯爵はふいに喜びにはちきれんばかりに満たされた。彼はいま、美しい絵の中の人物だった。背後に重々しい城を背負い、森の中で、日の光を受けて、画面の方を振り返っている。もしかしたら、印象派の描き方を認めなければならないかもしれない。光がまぶしいので、輪郭をぼかして、境界線をうやむやにしてしまう。あたかも光の中へ溶け出すように……気をつけろよ、おまえの巻き毛が光の中に溶けてしまいそうだ…………
伯爵は大きく息を吸いこんだ。空気とともに喜びが身体の隅々まで広がり、行き渡った。彼は目を閉じてそれをじっくりと味わった。次に目を開けたとき、少佐はまだ彼を見つめていた。伯爵は少し待って、光の魔法の輪から抜け出し、少佐のところへ戻った。
「君が絵描きだったら、わたしを描いた?」
伯爵は彼の腕をとって、もたれかかった。
「おれは絵描きじゃない」
少佐は云った。彼はまだ少しまぶしそうだった。目をしばたいて、光にくらんでしまった目を元へ戻そうと森の奥の暗がりをしばらく見ていた。それから伯爵をうながし、立ち上がって、ハンモックをしまいにかかった。伯爵は、自分がもはや光の魔法にかかっていないことを意識した。もう一度魔法にかかりたいと思ったが、それは済んだことだった。
「君に描いてほしかったな」
伯爵は云った。
「君が絵描きなら。君にわたしがどう見えてるか、そしたらよくわかったのに」
伯爵はほんとうに残念だった。彼は少佐に、自分の美しい魔法の瞬間を記録してほしかった。彼の手で。彼の目で。すぐに消え、過ぎ去ってしまう一瞬を。
金髪は、日の光を蓄えているって話を知っとるか、と少佐は云った。伯爵は首を振った。金髪ってのは、ほんとはもともと色がないんだとさ。で、外をほっつき歩くあいだに、陽光を吸収するんだと。だから、金髪は日の光の色をしている。それで、美しいんだとさ。太陽光発電みたいなもんか?
伯爵は笑った。
「わたしの頭もソーラー発電なの?」
伯爵はうっとりと少佐を見やった。少佐は目下話題の金髪の中へ鼻先を差し入れた。そして、非常に美しい金の巻き毛だと云った。
※ドイツ語の一文は、Theodor Storm "Im Saar" から。