ドリアン・レッド・グローリア伯爵の心配

 

「禿げ散らかったの? あの髪が? ほんとうに? あはっ、彼ってかわいいな。見たかったよ。いや、見れるんだよね。彼の髪の毛がばらばらになるところとか、彼が食事を用意してくれるところとか。君のとこの執事くんってすてきだよ。目がチャーミング。キリキリ舞いさせてあげたくなるよ。早く会いたいな。ブルガリアの用事をなるべくとっとと片づけるよ。イコン博物館の話をしてもいい? 違うよ、君の興味になんてはなから期待してない。よく眠れると思って。ほら、歴史の授業中に限って、突如われわれを襲う睡魔がいるだろう。あいつが君にとりついてくれるかと思ってさ……」
 ピーチクパーチク。伯爵の口はどうしてこう軽々といろいろなことばを吐き出すのか? それでもまだ足りないでひとのことばまで持ち出してくるのだからたいしたものだ。少佐は適当に相づちを打ちながら、寝る前の最後の一服に火をつけた。
「でも君ほんとにいいの?」
 伯爵がふいに改まったような口調で云った。
「知らないよ、そんなにわたしに優しくして、なにがあっても。わたしはたとえ君の家だろうと、君の鋼鉄パパの前だろうと、わたしでいることをこれっぽっちもやめないからね。やろうと思ったってできないし。いまならまだ間に合うんだよ。わたしの前で、義理と世間体と常識にむしばまれ、半分以上自分を見失ってる平凡な男たちがするみたいなこと、しなくていいんだからね。恋人を家に招待するとかさ、親戚一同かき集め、見せ物よろしく引き回すとか。まあ引き回されてもいいんだけど。君の親族なら。もしそうするなら、精一杯いい子にしてみせる。どんな無礼な態度も堪え忍んでみせるよ。その日だけね。どこの一族にもいるおせっかいおばさんや俗物根性まみれの連中が、やれやれクラウス坊やがようやくいい子を見つけて片づいたんだと思ったら、とたんにわたしの化けの皮がはがれるんだ。一同大騒ぎ。わあ、楽しくなってきた」
 少佐は返事をしなかった。伯爵の妄想にまじめにつきあっていたら疲れるだけだ。
「まあそれはそれとして、ほんとにさ。ほんとに知らないよ。君が好意を示してくれたからって、それに遠慮していい子にしてるなんてしないよ、わたしは。君の執事くんがわたしを見ると吐き気がするとかいうことになったとしたら、気が重くなるのはわたしじゃなくて君なんだからね? そういうことちゃんと考えた?」
「おまえ、意外と心配性だな」
 少佐は頭をかいた。その問題は、このあいだ納得させたかと思ったが。
「古女房みたいにね。ああいやだいやだ、誰のせいだ。君だよ。なにもかもが君のせい。君の常識的な側面を心配してるんだ。それとわたしの摩擦。君って異端児だし、すごくスリリングで常識やぶりだけど、でもそれは仕事ってものが絡んでいる君であって、それを離れた君の本質はとっても正統派で常識人なんだよ。わたしの云いたいことがわかるよね? わたしは君のプライベートな、規律正しくて古典的な空間まで踏みこむことにためらいを感じてる。君の心の中って意味じゃないからね。そっちなら諸手をあげて駆け回るよ。そうじゃなくて、君の城、君の部屋。そこには君の人生の秘密がうじゃうじゃつまってる。そこではいまの君になる前の君もまだ息をしている……君をずっと見守ってきたひとがいる。そのひとは、たぶん君より君を知ってる。そういうひとがわたしをどう思うかなんて、想像しなくてもわかるよ。あーあ! わたしに云われたくないだろうけど、君の今回の提案は正気の沙汰じゃないよ。君は気が狂ったんだ、きっと、わたしの愛に応じてくれた瞬間から」
「……たぶんな」
 少佐は云い、煙草を灰皿に押しつけて、寝る体制に入った。気が狂っただって? そりゃあそうだろう。恋をしている人間も、仕事に打ちこんでいる人間も、なにかにがむしゃらになっているやつはみんな気が違っている。ドリアン坊やはああ云っているが、少佐は少なくとも、彼よりは執事のことをよく知っている。そしてその少佐が考えるところによると、ドリアン坊やが考えているようなことは、たぶん起こらないのだ。たぶん。起こったら? そのときはそのときだ。スイスの親父に話が飛んで、すぐさま血相を変えて鉄砲玉みたいに飛んできたとしてもたいしたことはない。世界を巻きこんだ核戦争でもあるまいし、結果などたかが知れている。この場合、常識的なものにとらわれているのはむしろ伯爵なのではないか? 他人の痛み、というものに。それを分析し、想定して回避しようとする……きわめて人間的な思考だ。
 おれだって遊び心くらい持っとるんだ……少佐は寝入る直前に、そうつぶやいた……あるいは、頭の中で思っただけだったかも知れない。昔はこの時間に想像するのは穏やかな綿毛のかたまりみたいな羊だったのに、いまではぴょんぴょん跳ねてやかましい金髪羊になっちまった……ということも、思ったような気がする。その金のきらめきを、意識を失う直前まで楽しんでいたような気がする。

 

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