聖夜の息子たち

 

かつての悪事
 
「君は窃盗なんてしたことないだろうから、わからないんだよ」
 伯爵さまは孔雀青に近い色をした美しいナイトガウンにくるまれた身体を、ヴィクトリア朝時代を思わせるカウチソファに横たえ、幾分気だるい様子でシャンパングラスを傾けている。少佐は天蓋つきのベッドに寝っ転がって煙草をふかし、伯爵を眺めながらそのおしゃべりをBGMみたいに聞いていたところだった。身体の中心に、ひと勝負終えたあとの心地よいだるさがあった。伯爵は夢みたいに美しかった。すがすがしく、それでいてどこかなまめかしい色艶をした金の巻き毛をどう形容したらいいかわからない。それが彼の顔や肩のまわりをゆるやかに覆っている、そして、孔雀青とまばゆい対比を成している。孔雀青は、彼の白肌とも鮮やかな対比を作り上げていた。伯爵の左足はソファから滑り落ちてだらりと垂れ下がっていたが、ガウンの隙間からこぼれ落ちた足がまたすばらしかった。足首には宝石をちりばめたアンクレットがはめられていたが、その足首と、そこから続く足の甲、指先、土踏まず、かかと、そのすべてに、なんとも云えない愛らしさがあった。少佐はそこに口づけるのが好きだった。そうするあいだ、伯爵は目を細めて少佐を見下ろしている。わたしの足が大好きだ、という男、たくさんいるんだけど。とあるとき伯爵は云った。この足、君の専属にした方がいいんだろうか?
 少佐はもちろん、できればそうしてくれたらありがたいと思ったが、云わなかった……足くらい拝ませてやらなくては、伯爵の崇拝者たちがかわいそうだ、とも考えられたからだ。エーベルバッハ少佐は、なにしろ慈悲深い男である。
 少佐は伯爵を眺め回していた目を、彼の顔へ向けた。いまのことばは聞き捨てならなかった。
「おれだって盗みくらいしたことがある」
 伯爵は楽しそうに、少しからかうような調子で、眉をつり上げた。
「へえ、ほんと? 君もそういう不道徳なこと、したことがあるんだ? 君ってそういう面ではわりかし潔癖な人間かと思ってたけどな」
 伯爵はシャンパングラスを脇の小さなテーブルへ置き、ソファをひとつ引き寄せてそれに両腕を乗せた。
「そいつはどうも。期待を裏切って悪いが、おれもガキのころはそれなりにそれなりだったんだ」
 少佐は灰皿に煙草を押しつけた。
「聞かせて」
 伯爵は半ばうっとりしたように目を細めて云った。
「君がどんな窃盗その他の悪事を働いたか」
 少佐は頭の下に両手をつっこみ、ひとつ息を吐いて、まあ、そうだな、例えば、と云いながら、記憶の底をまさぐった。
「我ながら手際がよかったのは、家にある皿を盗み出して売っぱらったときだ。いろいろあって、金が欲しかったんだが親父が腹立つほどケチでな……」
「そのいろいろとは、酒か賭け事か女か?」
 少佐は目を見開いておどけた。
「いわゆるそれらの、複合的帰結だ」
 伯爵は笑い出した。
「で、おれは考えた。あのくそ親父がいたんじゃ、おれはそのうち破滅しちまうってな。で、計画を練った。たかが皿一枚だが、これがなかなか難しかったんだ。家中、いつも誰かがいて、目を光らせてたからな」
「それが貴族さまの悲しいところだよ。わたしもそれについては多少苦労したからよく知ってる。特に執事がくせ者だった」
「そうなんだ。なんであの執事って連中はなんでもかんでも見てて、気がつくんだ? 目が三十個もあって、身体を離れてあちこち移動できるのか? (伯爵さまはげらげら笑った)具合が悪いったらなかった。だから、執事が休みの日を見計らって……これもめったにないんだが……夜にこっそり台所に忍びこんだ。普段使いのを売るのが大事だってことには気づいてたんだ。飾ってあるようなのは高すぎてすぐばれる」
「その通り。君のとこのは、普段使いとはいえいい値段で売れただろうね。売ったのはマイセン?」
「ああ。おれが皿を持ちだして、別の男が売った。まとまった金が入ったのはいいんだが、結局なんだかんだで、飲んでたらなくなっちまった」
 伯爵はまた大笑いした。
「偉大な仕事をするのはそういう男なんだよね。気前がよくて、剛毅でね。悪いこともするけど、それは通過儀礼みたいなものなんだ。この点、世の中窮屈でいけないよ。善と悪は、そこまで明確なものでも、隔たりのあるものでもない」
「どうも親父は皿のことに気がついてたらしいんだ」
 少佐は気分がよくなり、自分の舌がいつも以上に転がっていることを意識していたが、別によかった。
「執事もな。おれは翌日か、翌々日には大騒ぎになるだろうと思っとった。でも実際には、不気味なほど静かだったんだ……しばらくなんとなく居心地が悪かった。もちろん、気にしてたわけじゃないが。これはずっとあとになって執事に聞いたんだが、親父も昔は似たようなことをやって、おれのじいさんをぷりぷりさせとったらしい。だから、ふたりとも黙認したんだろうな」
 伯爵はうっとりと目を閉じ、話の余韻を味わうように、あるいはなにかを感じ取るように、しばらく黙っていた。それから目を開け、少佐に優しい微笑を向けた。それで十分だった。なにか云われたら、おそらくなにを云われたにしても、少佐はしっくりこないか、気恥ずかしい気持ちになるか、腹を立てるかしただろう。この種の思い出は、そういう繊細さをともなうものだからだ。
「ほかには? どんな悪事を働いた?」
 少佐は目を細め、また記憶の中をかき回した。ふと、ある人物のことを思い出した。
「……リンゴを盗んだ」
「リンゴ?」
 少佐はああ、と云った。
「うんとガキのころだ。クリスマスのころだった。近所にな、ちっと頭のいかれたじいさんがいて、といっても話せばわりかしまともなこと云うんだが、他人にゃわからん行動様式を守り通すことに取り憑かれとってな……」
「ああ、いるよね、そういうひとが」
 伯爵はうなずいた。
「その男が、いつもクリスマスの時期になると二階の窓からリンゴを吊るすんだ。こう、ロープでリンゴの枝のところを縛って、にんにくをぶら下げるみたいにいくつも束ねて、ガキの身長くらいあるやつを窓からぶらーんと」
「リンゴを? なぜ?」
「知らんよ。じいさんに訊け。そういや、昔心理学を習ったときに、先生にその話をしたことがあるな。興味深い、と云っとった。もしかすると、それは性的な罪の意識の現れかもしれないとかなんとか云ったな」
「とても象徴的だとは思うよ」
 伯爵は考え深い顔で云った。
「リンゴ……真っ赤なリンゴ。アダムとイブ、罪の果実。楽園と追放。イエスキリストの誕生。救済。学者なら、いくらだって面白い解釈をひねり出せるだろうね。当たり外れは別にして。でも、そのすてきな老人の心の中に立ち入るのはやめよう。君の話を続けて」
 少佐は少し考えてから、また口を開いた。
「そのリンゴを盗んでみることを思いついたんだ。おれたち……おれと、もうひとり、クルトってやつと」
「友だちだった?」
 伯爵は目を細めて訊ねた。
「期間限定のな」
 少佐は質問者の美しい顔に微笑を向けた。伯爵は首をかしげた。
「いわゆる、旅の一座ってやつの芸人の息子だったんだ。親父は確か道化役者だったと思う」
 伯爵はああ! と云った。
「あれほど豊かな才能を必要とする職業はほかにないよ。あれに比べたら、画家や小説家なんてひとりよがりのうじ虫みたいに思える。地上の富は、ああいう真の芸術家、人間の理解者のためにあるべきだ。現実はそれとはかけ離れてて、彼らにとても冷淡だけど……ああ、ごめんごめん、また話をそらしちゃった。ほんとにいけない舌だな! 続けて」
 少佐は微笑して、話を戻しにかかった。
「十二月になってからうちのクラスに入ってきたんだが、年が明けて休みが終わると、またどこか別の土地へ行っちまった。いつもそうなんだとさ。ひと月以上同じところにいるなんてまれだとクルトが云ってたな。一応学校には通うが、友だちは作らない。どうせすぐにさよならするからな。それに、出席率がいいってわけでもなかった」
「しょっちゅう休んだ?」
 伯爵はシャンパングラスを取り上げ、ひと口飲んだ。
「週に一度か、二度くらいだ。そういうときは、一座の手伝いをしてると云ってた。まあ、当然だが、浮いとったよ。なんでそいつと仲良くなったかっていうとな、転校生なんて、だいたい最初に学校のボスみたいな上級生に洗礼を受けるだろ。どつかれるか、脅されるか、なんかそんなことで。うちの学校にもいたんだ。性根の悪いやつでな。いつも何人かで組んで、いじめたりなんだり、いろいろやってた。クルトは絡まれて、まじめにそいつと喧嘩をおっぱじめた。喧嘩慣れしてたな。あちこちで洗礼を受けてきたからだろうな。そのうち、うちの学校の大将が劣勢になったもんで、取り巻きがあわてて加勢した。ひでえだろ。いくらなんでも、一に対して五人じゃ勝ち目がない。で……」
「クラウス少年が加勢した」
「おまけに全員ぶちのめしてやった」
「ブラボー、ブラボー」
 伯爵は手を叩いた。少佐は寝転がったまま、胸に手を当てておじきをする真似をした。
「クルトはいつもどこか暗い顔してたが、いいやつだった。なんでか知らんが気が合って、放課後は毎日ふたりで遊んだな。あいつはすばしっこくてな、おれはとうとう競走じゃそいつに勝てなかった」
 伯爵がふいにゆっくりと起き上がり、ベッドに歩いてきた。天蓋からぶら下げられた幕を払い、白いシーツの上に腰を下ろして、優しい目で少佐を見つめた。それから、ゆっくりと少佐の頬に手を伸ばし、触れ、包みこんだ。伯爵は目を閉じた。
「クルト君の髪の毛の色は、ブラウン系だった?」
「……いや、ちょっと違うな」
 伯爵はむー、と小さくうなり、微笑した。
「待って、待ってね……金髪……違うな、赤金みたいな色をしてる。違う?」
「……そうだ」
 少佐は多少驚いて云った。
「赤金色に似てた」
 伯爵は相変わらず目を閉じたまま、眉を寄せ、考えこむ顔をした。
「彼は小柄で、華奢だけど、でもものすごく芯が強い身体をしていて、ちょっとやそっと殴られても、引き倒されてもびくともしない。色白で、そばかすちゃん。違うかな?」
「……当たりだ」
 少佐は起き上がった。
「なんでわかった?」
 伯爵は目を開け、楽しそうに笑った。
「無意識の領域の活用、と云えばいいかな。人間の意識は、その一番奥の部分ではみんなつながっているからね。わたしたちはすべてのものを、ほんとうは共有しているんだよ……なんて、実は、単なる想像」
 少佐は脱力した。
「子どもの君を想像して、それから、その君のとなりにいる少年を想像する。旅回りの一座の子ども……決して裕福とはいえない……あちこちの学校で洗礼を受け修行してきたことによって、彼はある種の勘を身につけたと思う。それに観察力も……どんな容姿がふさわしいだろう? 君がブラウンの髪を否定したから……ブラウンの定義って広いだろう? あとは黒か金か、赤系しか残ってなかった。君が黒髪だから、相手に黒でいてほしくなかったんだ。わたしが金だから、金であってほしくもなかったし。なんとなくね。でも、ただの赤毛じゃなんだかインパクトがない。それで、赤金って云ってみたんだよ。色白のそばかすは当てずっぽう」
「無意識の活用のほうが迫力があったな」
 少佐は笑って、新しい煙草に火をつけた。
「ほんとだよね」
 伯爵が少佐にもたれかかってきて、目を閉じた。すばらしい香りが少佐の鼻を刺激した。少佐はひどく、満たされた気持ちになった。
「続けて……君の話……」
 伯爵がささやくように云った。少佐は記憶の領域に、更に深く手をつっこんだ。
「……あるとき、おれはクルトに頭のイカれたじいさんがぶら下げるリンゴの話をした。クリスマスが近づいてて、じいさんが例によってリンゴを窓からぶら下げたのを見たからだ。やつは面白がって、見てみたいと云った。で、おれたちはじいさんの家に行った。家の横には、大きな樫の木が植えてあった。その枝が、どうかするとじいさんがリンゴをぶら下げた窓に届きそうになっとった。こりゃあ、いけるんじゃないかな、とクルトが云った。それでふたりして近づいて、その枝をよく観察してみたんだが、目測によると、腕の長さに対してちょっとばかし足りなかった。でも、おれたちはなんとかじいさんのリンゴを失敬してやりたかった。窓の下から肩車しても身長が足りなかった。枝でつつこうにも、適当な枝を探すほうが手間に思えたし、ロープは固く結わえてあって、ちょっとやそっとじゃ取れそうになかった。はしごを持ってくるなんてのは反則技だろ? んなことならばかでもできる。われわれは知恵を絞った。で、最終的にこれしかない、となった方法が」
 少佐は伯爵の顔を見た。彼はまるで自分がこれから泥棒するみたいに目をきらきらさせて、一心に少佐を見つめていた。少佐はとてもいい気分になった。
「ひとりが枝のぎりぎりまで進んで、もうひとりのやつの腕をつかむ。もうひとりはその状態で、空中ブランコよろしく支えられた腕だけで宙にぶら下がり、はずみをつけて、足でリンゴを引き寄せるわけだ。で、あとは噛みちぎるなり、もうひとりのやつがナイフでロープを切るなり、とにかくロープさえ押さえちまえばどうにでもなる。おれたちはそれを、聖夜に決行することに決めた。じいさんも家の連中も、日曜日とクリスマスのミサには必ず出席してたからな」
「ああ、クラウス! 君たち、それをほんとうにやったの?」
 伯爵は少佐の首に腕を回して、興奮を抑えた調子で云った。少佐はこらえきれずににやりと笑った。
「やった。しかもな、成功した。気づかれず、見られずだ。リンゴの列下半分を、根こそぎごっそり持ち出してやったんだ」
 伯爵はああ! と叫び、笑いながら少佐の頬にキスを浴びせた。
「すてきだ! とってもすてきだよ。そして上出来だ。勇敢で機知に富んだ少年たちに拍手! わたしもそこにいたかったなあ」
 半ばうっとりと、そして半ば興奮で輝く伯爵の顔が実に美しかったので、少佐は思わず彼の額に口づけた。伯爵はくすくす笑い、また少佐にもたれかかった。
「次の日、じいさんが大騒ぎしたらしいのをあとで知った。結局最後はぶつぶつ云いながらリンゴを片づけたらしいがな。で、次の年もその次の年も、じいさんはリンゴを吊るした。でも、おれはもうリンゴには興味を惹かれなかったし……相棒もいなかったしな。じいさんは九十近いいまでも毎年リンゴを吊るしとるが、誰もおれたちみたいに盗むことは考えつかないらしい。あるいは、成功してないだけかもな。じいさんはいまでも、リンゴが盗まれたときのことを覚えてて、ぶちぶち云うそうだ。お話おしまい」
 伯爵は熱烈な拍手をした。
「すばらしかったよ。とってもすてきな話だった。ほんとうに……クルトとは、別れてそれきりなの?」
 少佐は伯爵を抱えこんだまま、ベッドにごろりと転がった。
「向こうから、何度か手紙が来たことがあったな。おれも、何度かあいつが書いてよこした住所に送ったことがある。でも、そのうち途切れて、それきりだ。リンゴなんてありふれたものをまじめに盗もうと思ったのはそれが最初で最後だな」
「盗みの価値は、本質的には盗むものにあるんじゃないんだよ」
 伯爵は、柔らかく微笑していた。
「大部分は、動機と、その過程にあるんだ。たとえ鉛筆一本だって、動機しだいで、なによりも貴重な、かけがえのない対象になる」
 少佐は、それがよくわかった。
「話を聞けて嬉しかったよ」
 伯爵は、少佐の腕の中でもはや感動の域に達しているらしかった。
「君が、大好きだよ。君のクルト君もね」
 うっとりとつぶやくと、伯爵は目を閉じた。少佐は彼の巻き毛に顔をうずめて、あとを追うように、目を閉じた。

 


 
 クリスマスには、例によって父親がボンに戻ってくることになっていた。少佐は絶対に、父親と顔を合わせたくなかった。伯爵は少佐が自分の父親の害を述べ立てると、君のお父さんが口やかましいのは歳のせいであって、本人のせいではない、とまるで弁護するようなことを云ったのだが、少佐はそれも気に入らなかった。じゃあ親父をおまえとふたりきりにしてやろうか? と云うと、歓迎するようなそぶりを見せたので、少佐の機嫌はますます悪くなってしまった。親父が伯爵にそういう気を起こすとは思えないが……完全に否定はしきれないところがおそろしかった。伯爵の年上男性に対して振りまかれる魅力ときたら、ハエに対する食べ物の匂いよりももっと強力で、容赦なかった。
 じゃあ、わたしの隠れ家に案内してあげるよ。機嫌を損ねてしまった少佐をなんとかその気にさせ、自分の奥へ奥へと誘いながら、とろけるような声で伯爵は云った。ねえ、来てくれる? 少佐は自分の脳髄が、そして下半身が、しびれるような気がした。そのときのことを思い出すと、いまでも一瞬全身がかっと沸き立つのを感じる。
 休暇を過ごす場所は確保できたが、今度はクリスマスプレゼントという悩ましい問題が浮上した。伯爵の例年のクリスマスの過ごし方は、自宅で山のように届くプレゼントを眺めつつのパーティー、だということだった。クリスマスに家族と過ごすより、金を払ってでも伯爵と過ごしたいという男はうんざりするほどいて、伯爵はそういう男のリストの中から、完全に公正な抽選によって、パーティーへ招く人間を決め、案内を出す。当日、それこそ世界中から、浮かれた顔の男たちがやってくる。伯爵はそれをにっこり笑って出迎える。皆、めいめいに伯爵に対するプレゼントを持ってきている。宝石、絵画、彫刻、毛皮、希少本、なにからなにまで、そろっている。今年はそのパーティーたらをやらんでいいのか、と少佐が訊ねると、伯爵は笑って、わたしがパーティーを開かないということは、わたしにいいひとがいるか、仕事をしているか、どっちかだということだから、それはみんな納得済みなんだよ、とこともなげに云った。
 そんな男に、いったいなにを買ってやればいいというのか? 少佐には思いつかなかった。望めばどんなものも手に入る男に対して、なにかを買ってやるなんて実にばかげたことに違いない。女にするように、金のかかった贈り物をするのではなくて、なにか自分らしいもの、自分らしい色で、彼を満足させるよりほかなかった。誕生日に拳銃をやったときは、喜んでいた。一緒に練習してやったが……いつまでたっても伯爵は笑えるほど下手くそだった……そのときは、伯爵は目をきらきらさせて、こんなに楽しかったことはないと云った。少佐は満たされ、自分に対して自信を持ったものだった。そういうふうにするしかないのだ、エーベルバッハ少佐は。あるいは、別の云い方をすれば、それはエーベルバッハ少佐にしかできないことでもあった。
 少佐はそんなつもりはなかったが、気づくと毎日プレゼントのことについて考えていた。思いつかんなあ、と云いながら、少佐は自分がその悩みすらも楽しんでいるということに気がついていた。なんも思いつかんかったんだ、と云ったら、伯爵はなんと云うか。たぶん、君がいてくれればそれでいいんだよ、と云うに違いない。ねえ、キスして。
 エーベルバッハ少佐は乞われればもちろんキスするだろうが、それが最も望ましい展開だとは思えなかった。で、しつこくあれこれ考え、しつこく方方を探した。寄り道してから帰るので、ほとんど毎日違う道を通って帰っていた。ある晩、少佐は偶然あの老人の家の前を通った。クリスマスまでまだ一週間以上あったが、老人は今年も、リンゴを窓から吊るしていた。少佐は車を停め、そのリンゴを見やった。リンゴは一個も欠けることなく、堂々と冷えきった空気に身をさらしていた。丸く、赤く不揃いなそれは、エーベルバッハ少佐が子どものころからここにあった。ちょうどこんなふうに、ここにぶら下がっていた。変わらぬものに、ひとはいつもなぜだかほっとする。少佐は微笑し、ふたたび車を出した。
 伯爵さまへのプレゼントは決まった。相棒がいないから、今度は、ひとりでやるのだ。

 

 その晩、おやすみ電話とメリーさんの羊のあとでいつものように眠りについた少佐は、久々にクルト少年の夢を見た。クルト少年は、いつもなんとなく暗い顔をしている少年だった。でもときどきその目に強い光をにじませて、きっと前を見つめる癖があった。彼は、決して単なる感傷的でナイーブな弱い少年ではなかった。
 クラウス少年はクルト少年と遊んでいた。真冬なので、ふたりとも厚手のコートを着、マフラーや手袋で完全防備していた。ふたりは雑木林の中へ入っていって、木を揺さぶったり、追いかけっこをしたりした。動き疲れて、ふたりは嵐か寿命かなにかで倒れた木の上に座った。クルト少年の赤金色の髪に、木々のあいだから差しこむ木漏れ日が当たり、にぶく輝いていた。クラウス少年はコートのポケットに入っていたチョコレートを取り出して、ふたりで半分にわけた。クルト少年はがつがつ食べた。彼はいつもそんなふうに食べた。味わうよりも、早く腹につめこむ食べ方をした。クラウス少年は、友だちのそんな食べ方を見ると、自分でもわけがわからなかったが、ひどく胸苦しい感じがしたものだった。
 ふたりはあれこれ話した。家のこと、学校のこと、クルト少年が、これまで見てきたいろいろな都市のことについて。クルト少年は、自分の父親を尊敬していると云った。
「ぼくはさ、将来、父さんみたいな役者になるんだ」
 クラウス少年はそれがにわかには信じられなかった。クラウス少年は、クルト少年の一座の公演を見に行ったことがある。彼の父親は、顔を真っ白に塗りたくり、ばかなことをやってはお客を笑わせていた。クラウス少年には、自分の友だちの父親があんなふうにひとに笑われるのは耐えられないことのように思われた。クラウス少年はいらいらしてきて、悲しくなり、一緒に来ていた執事を促して、途中で帰ってしまった。でも、クルト少年はそんなふうになりたいと云う。クラウス少年はわからなかった。
「父さんは、すごいんだ。なんでも知ってるし、なんでもわかるんだ。この仕事をするには、あらゆることを知ってなくちゃならない、って父さんはいつも云う。学校の勉強もいい、でも、この仕事をするためには、人間のことを学ぶ必要がある、って云うんだよ。ぼく、ほんとのこと云うとそれがどういうことか、まだよくわからない。でも、父さんの仕事は面白そうだし、仕事をしてる父さんも面白そうなんだ。それって、大事なことじゃないのかな。だって、おとなってみんなつまらなそうな顔してるもん」
 クラウス少年は自分の父親のことを考えた。父親は、つまらなそうな顔をしているだろうか? クラウス少年の父親は、あまり感情を表に出すひとではなかった。だからわからなかったが、少なくとも、つまらなそうな顔をしているようには思われなかった。
「君の父さんはなにをしてるひとなの?」
 クルト少年が訊ねてきた。
「軍人だよ」
 クラウス少年は答えた。
「でも、うちのお父さんもつまらなそうな顔なんかしていない。戦車を動かしてるんだけど、おれにあってる、ってお父さんは云うよ。ほんとのこと云うと、ぼくもお父さんを尊敬してるんだ」
 クルト少年は微笑した。
「ぼくたち、いい息子だね」
 ……目が覚めたとき、とても幸福な感じが少佐を覆っていた。それは起きだして、朝食をとるあいだも、職場へ向かうあいだにも、少佐の身体の奥のほうでずっと響いていた。……いつから。少佐は考えた。親父と口を利くのも嫌になったのはいつからだったろう? 大学のころ? でもあれは、単に自分がまだ未熟なだけだった。仕事についてから? 否、しばらくは、親父はおれにいろいろ気を遣っていた。昔の話をするのはそのときも同じだったが、そのころは、まだ気持ちがずいぶんおれに近かった。昔はおれもそうだった、こういうこともあったし、あんなこともあったもんさ……そこには、確かに息子を見守る父親というのがいた。それがうるさくなってきたのは、こっちが三十近くになってからだろうか。正確には、親父が結婚した歳に近づいてきたころから。嫁候補はいないのか、という話からはじまり、おれがおまえくらいの歳のころには、母さんと知り合っていたがな、おれがおまえくらいのころには、階級はなにで、社会的信用はどうで……そんな話にはうんざりだった。それは外的なことで、内的なことではない。それが心配という親心から出てくるものであることくらい、わかっている。頭ではわかっている。でも、おれにはそれがたまらなくうるさい。父親が引退し、公的な立場から身を引いて、ただの口やかましいじじいになったなんてことは…………
 少佐は、はっとして身体を固くした。父親がやかましくなったのは、その引退とほとんど時を同じくしていた。そういうことなのか? クラウス。少佐はこめかみに指の骨を押しつけ、ペン先で机の上をとんとんやった。親父がただのじじい化していくのは、いやなのか、おまえは。当たり前だろう、とクラウスは答えた。このクラウスは、エーベルバッハ少佐よりも断然頭が柔らかく素直だった。おまえ、自分が引退して、老いさばらえていくことに耐えられるか? 誰からも必要とされず、尊敬もされず、評価もされなくなるんだぞ。いまの親父を見ろよ。あのびしっとした、いつも戦いに備えて構えてるって感じだった親父が、いまじゃ回顧録に熱中して、かつての同僚や使用人や、それにおまえをうんざりさせるしか能のないつまらん老人じゃないか。
 ……少佐はため息をついた。そうだよ。少佐は云った。おれは失望してるし、情けなくも思っている。たぶん……腹が立つんだ。わかっている。おれは親父が嫌いなわけじゃない。
 この発見を、少佐はひとりでじっくり検討したかった。検討したかった、というより、いまはまだそっとしておきたかった。まだ受け止める準備ができていないと感じたからだ。少佐はその晩伯爵からかかってきた電話にも、いつものように応じた。なにか彼にもたれかかっていきたくなる衝動と、少佐は戦った。少佐は本来女や、あるいは自分の身内と感じる人間に甘えていくタイプではないが、伯爵はなにかそういうふうにしてもいいと思わせるものを持っていた。それはたぶん、彼の一種の才能、本人曰く文学的才能という共感能力のためだった。伯爵はいつもひと息に、相手の心の核心部分にたどりつく。そして、そのために泣くか、怒るか、悲しむか、喜ぶか、なにかする。そうすることで、彼になにかを取り払ってもらいたいと思うのだ。大きな幕を。あるいは暗闇を。でも、まだその時期ではなかった。伯爵はたぶん、少佐の様子がすこし普段と違うことに気づいていたはずだが、いつものように明るく、じゃあ、おやすみ、バイ、クリスマスに君に会えるの楽しみにしてる、と云って、電話を切った。少佐は彼を、心の底から好きだと思った。

 

伯爵さまのお召しもの
 
 ロココ調のソファに身体を投げ出して、伯爵さまは目の前に次々に現れる美しい青年たちを眺めていた。青年たちは目眩を起こしそうな美しい生地……まだ裁断も仕立てもされていない生地を古代ギリシアのひとたちのように身体に巻きつけ、ステージの袖からさっと現れて、伯爵の目の前でくるりと回転し、ポーズを取り、ひとによっては伯爵に意味ありげな流し目をくれてから、身を翻し、ソファの正面に設けられたステージに立つ。伯爵さまは、ある男に身体をもたせかけるようにしていた……老年の男で、きれいな白髪を伸ばして後ろでひとつに結び、キャバリアブラウスとストライプのスーツ、それにニーハイブーツという、垢抜けたコーディネイトに身を包んでいる。服飾デザイナーとして唯一無二の地位を築いているフランソワ・ヴァルモン氏で、ここは氏の個人的なアトリエだった。ヴァルモン氏の目は厳しい調子を帯びてステージに向けられていたが、その手は伯爵の身体に回され、彼をいとおしげに撫でていた。
 モデルの男たちが皆、ステージに出揃った。伯爵さまは身体を起こし、ヴァルモン氏に微笑みかけ、それから足をぶらぶらさせながら美しいモデルの男たちを見た。
「三番と五番」
 伯爵さまはフランス語で云った。
「そのどっちかの生地がいいな」
 伯爵さまの声の調子は、子どもみたいに甘ったれていた。ヴァルモン氏は目を細め、伯爵が云った番号の男たちを見つめた。
「それから、一番の君、すごくセクシーだよ。六番の君は顔がとってもタイプだ」
 モデルたちは笑い出し、お互いをつつきあったり、身体をじろじろ眺めてにやついたりしはじめた。ヴァルモン氏が立ち上がり、手を叩いた。
「さあさあ、君たち、この子が云った番号以外の子は戻っていいぞ……こらこら、容姿を褒められた子のことを云ってるんじゃない、しょうがない連中だな……そのふたりはここへ来て、わたしに生地をよく見せるんだ」
 モデルたちは伯爵に手を振り、あるいはウィンクし、投げキスをする者もいたが、舞台袖に帰っていった。三番と五番のモデルがやって来て、伯爵に小さく膝を曲げてお辞儀をし、うやうやしくヴァルモン氏の前に立った。三番のモデルは燃えるような真紅の生地を身にまとっており、五番のモデルは、ほんの少し紫がかったなめらかな黒の生地を身につけていた。
「君は赤が好きだったね」
 ヴァルモン氏は生地を目を皿のようにして見、指先で触りながら、打ち解けた、優しい態度で云った。
「大好きです。でも、赤のブラウスってどう思いますか?」
「君には似合う。君はなにを着ても似合うよ、ドリアン。ただしとびきり上等なものに限るがね。君のためなら、どんな生地も、どんなふうに仕立てられたって嫌とは云わないだろう。ちょっと立ってごらん、ドリアン……後ろを向いて。この生地を……前を向いて。次はこっち。どうかな、君の要望にこたるためには、赤よりもこっちの黒のほうがいいと思わないかな? ちょっと紫がかっているがね、それがいいと思うんだ。内に秘めた情熱を表すにはね。それに黒なら、とても上品に見える。袖は刺繍をしたシフォンにして、カフスボタンと……それにそうそう、背中も忘れちゃいけなかったな。それが一番のご注文だからね。君の注文を聞くかぎり、君の恋人はセンスがあると思うよ。どこの誰で、なにをしている男かは知らないがね、少なくとも、エロティシズムに対する理解のある男だと思う」
 伯爵さまはうなずいた。ヴァルモン氏はどこか大儀そうにソファに腰を下ろし、モデルたちに向かって手を振った。モデルたちは一礼し、引き下がった。
「わたしのうなじと、足に目がないんです」
 伯爵さまは笑って、ヴァルモン氏にもたれかかりながら云った。
「あんまり刺激的な服を着ると怒るくせに、全然なにもないのも嫌。さじ加減がすごく難しいんですよ。ものすごく微妙な、ぎりぎりのところが好きみたい。ちょっと匂うか、匂わないかくらいの」
「ほんとうのエロスはそういうところにあるのさ。それはなにげないものなんだ。いまは、なにもかもがあけっぴろげで、面白みがないね。秘すれば花と云うのじゃないが、ほんとうの興奮や官能は、ぎりぎりの縁で感じることによって高まるものだ……これは、わたしより君のほうがよくわかるんじゃないかな。君はそういうことにかけて、天性のものを持っている」
 伯爵さまは礼を云い、微笑んだ。
「クリスマスの前に、取りに来ますね。楽しみだな。あなたの服も、それを着て彼に会うのも。……でもほんとのこと云うとね、彼に会えるのは嬉しいけど、なんだか気後れするんです。彼、お父さんと折り合いが悪くて……お父さんって、引退してスイスで暮らしているんですけど、そのお父さんがクリスマスには帰ってくるんですよ。で、それに会いたくないからって、わたしのダーリンは毎年逃げまわっているんですって」
「性格的に合わないのかね」
 ヴァルモン氏は葉巻を取り出し、火をつけた。伯爵さまは首を振った。
「そういうわけじゃないと思うんですよね。彼のお父さんのことよく知らないけど、でも、昔から仲が悪かったって感じはしない。それどころか、たぶん……ううん、彼、ほんとはお父さんのこと嫌いじゃないような気がする」
 ヴァルモン氏は伯爵の顔を見、そこに悲しげな色を認めて、彼を抱き寄せ、額にキスした。
「別に、他人のわたしには関係のないことだけど……でも、なんだかちょっと悲しくて。だって、お父さんはたぶん、息子に会いたくて帰ってくるわけでしょう? なのに、当の息子は会いたくないときてるんだから。そういうすれ違いって悲しいんです。だって、お互いにいつまでもこの世にいるわけじゃないから。わたしは父をとっても愛していたけど、もういないから……この地上で愛し合える期間って限られていて、それを、いろんな争いやすれ違いのためにむやみやたらと縮めるのって、ほんとうに必要なことなのかなって思ってしまう」
 伯爵さまは話しながら泣きだした。ヴァルモン氏は葉巻を放り投げると、伯爵を抱きしめ、子どもをあやすようにさすりながら、巻き毛に何度もキスした。
「君たち親子はとても幸福だったんだよ。お父さんは君のことをよく理解していたし、君もお父さんを心から尊敬していた。君のお父さんは、息子でなくたって尊敬せざるを得ないような素晴らしいひとだったがね。いつも明るくしていることを忘れないひとで。君のお父さんとわたしは親子ほど歳が離れていたが、わたしにとっては大切な友人だった。君ときた日には孫だがね……いいかい、ドリアン。父親と息子というのは難しいものだ。君と君のお父さんは例外なんだよ。わたしだって、自分の父のことは尊敬していたが……でもわたしたちの関係はとても難しかった。父はいつもわたしをコントロールしようとしていたようだった。わたしが将来どんな仕事をするべきか、どれくらいの年収を得て、どんな社会的地位を得るべきか、どんな家庭生活を送るべきか……そういうことを、父は頭から決めてかかっていた。自分の人生と、理想とを考えあわせてね。わたしはそれがいやで飛び出して、そしていまの地位を得たわけだが……父が想定していたより何倍も価値ある地位と、名声と、収入をだね。わたしはこれで父もわたしを認めてくれるだろうと思った。ところが、想定を超えたことをやらかした息子に対して、父はたぶん嫉妬し、卑屈になった。わたしたちは、結局理解し合えないままに終わってしまったよ。わかるね? ああ、困ったな、ますます君を泣かせてしまったじゃないか! 君は聡明すぎるんだよ。そして感じすぎるんだ。君のお父さんはいつもそのことを心配していたよ。わたしの愛する息子には、人生というものがどうも大変な茨道だと思うんですよ、と云っていた。だからわたしは云ったよ。深く感じ、深く悩みぬくことのできる人間だけが、ほんとうの人生の意味を掴み取ることができるのだ、とね。そうだろう? 君は優しい子だ。他人の気持ちがみんなわかってしまう。だから、もしかすると君の彼がどうしてお父さんを煙たがっているのか、その理由もなんとなくわかるのかな。わかるんだね? よしよし、そんなに泣かなくてもいいんだ。でも、どうしようもない。放っておきなさい。それをつきつけることをしてはいけない。そんなことをしたら、余計にこじれてしまうからね。彼がそれに気がつき、受け止められるようになるまで待つんだ。もしかしたら、それは一生やってこないかもしれない。彼のほうで準備ができても、お父さんが準備できないまま終わってしまうこともある。うちがそうだった。それは、仕方のないことなんだよ。わかるね? さあ、もう泣くのはやめて。涙を流すなら君のナイトの前だけにしなさい。わたしが彼に決闘を申しこまれて冷たい死体になってもいいのかね? 笑ったね? その顔だ。いつもそうしているんだよ」
 伯爵さまは涙をぬぐい、取り乱したことを詫びた。ヴァルモン氏は首を振り、伯爵さまの乱れた衣装と巻き毛を整えた。
「あなたのクリスマスの予定はどうなってるんですか? お仕事?」
 帰りがけに、伯爵さまはヴァルモン氏に訊ねた。ヴァルモン氏は茶目っ気たっぷりに微笑した。
「実は、新しい恋人ができたんだ」
「えっ、ほんとですか? いつの間に?」
「ついこのあいだ、十月のことだよ。そうか、手紙に書かなかったね。実を云うと夢中なんだよ。若いモデルなんだが……」
 伯爵さまはからから笑った。
「なーんだ! じゃあ、わたしが心配しなくてもいいわけですね。彼と仲良くね、ヴァルモンさん」
「君もだよ、ドリアン。服は間違いなく作っておくからね。二十日までにはできるだろう」
 伯爵さまはウィンクし、手を振って、彼のアトリエを出た。

 

リンゴを恋うる記
 
 日曜日の午後、少佐は目下の獲物の偵察に向かった。子どものころに比べて、知恵も体力も身長も比較にならないくらいついたが、相棒がいないのはなんといっても痛手だった。ひとりでやるより、ふたりでやるほうが心強いものだ。特に、なにかちょっといけないことをする場合には。
 例のじいさんの家が見えてきた。リンゴは相変わらず窓のところにぶら下がっていた。リンゴはなぜ凍らないのだろう? 盗んだリンゴを、ふたりの悪ガキはさっそくかじりながら教会へ戻ったのだが、まるでもぎたてのようにみずみずしく、冷たくておいしかった。道々お互いにつつきあいながらリンゴをかじり、勝利のよろこびに浸っていた、あのなんとも云えない興奮が、蘇ってくるようだった。
 少し離れたところに車を停め、少佐は歩いていった。日曜のミサの時間だった。じいさんは留守のはずだった。
 少佐が驚いたことに、リンゴのところには先客がいた。ふたりの少年だった。ひとりは窓の下で釣り竿を操り、なんとかリンゴを引っかけようとしていて、もうひとりは木に登って、棒切れを振りまわしていた。だがどちらもあまりうまくいっていないらしかった。釣り竿の糸はむなしく宙を空回りして落ちてくるだけで、棒きれの方も、なにをどうやったってリンゴには届かなかった。でも、少年たちは真剣だった。お互い無言でこのむなしい泥棒作業に熱中していた。少佐はうれしくなり、笑い出したくなった。ようやっと、おれたちの跡継ぎが現れたか……あるいは、跡継ぎはずっといたのだが、成功していなかったのか。どのみち、子どもの考えることはみんな似ているものだ。
 少佐はしばらく少し離れたところから、この少年たちの奮闘を見守っていた。ふたりでばらばらにリンゴに挑戦しているうちは、成功の見こみはなさそうに見えた。少佐は時計を見、もうすぐミサの時間が終わることに気がついて、少年たちに近づいていった。ふたりはそれぞれの作業に熱中していて、少佐が近づいてもまったく気づかなかった。
「おい」
 少佐が声をかけたときの少年たちときたら見ものだった。窓の下で釣り竿を振りまわしていた赤毛の、そばかすだらけの少年はびくりと飛び上がり、木の上に登っていた金髪の少年は、だぶついたニット帽をかぶっていたのだが、同じように飛び上がって帽子を落っことしそうになり、あわててつかんでかぶり直した。
「やばい、グスタフ、逃げるぞ!」
 窓の下にいたそばかすが云うなり駈け出した……が、少佐はその首根っこをひっつかんで止めた。
「おいおい、坊主、自分だけ逃げるってのはちっと具合が悪かないか?」
 少佐はにやつきながら云った。赤毛の少年ははっとして目を見開いた。
「そうだよ、おじさんの云うとおりだよ。自分だけずるいよ! どうやって逃げろって云うんだよ、ぼくは木の上にいるのにさ!」
 木の上にいたグスタフ少年が叫び声を上げた。
「悪かったよ。動揺したんだ」
 赤毛はばつが悪そうに云った。少佐は赤毛をつかんでいた手を離した。赤毛は逃げ出さなかった。少佐は微笑した。
「おまえら、リンゴを狙ってたのか」
 少佐はふたりを交互に見て、訊ねた。木の上のグスタフ少年が不安そうに相棒の赤毛を見下ろした。
「ぼくが提案したんです」
 赤毛が唇を突き出して云った。
「グスタフに、日曜のミサのときに、一緒にあのリンゴかっぱらってやろうって。ぼくが悪いんです」
「でも、ぼくも彼の提案に乗りました」
 グスタフ少年が木の上から叫んだ。
「ほんとは気が進まなかったけど。うまくいきっこないと思ったし、絶対取れそうになかったし……」
「おまえ黙ってろよ、グスタフ」
 赤毛が気分を害したように云った。少佐はいかめしい顔をしながら、その実笑いをこらえるのに必死だった。
「ぼくの家の住所と、電話番号を云います。家に連絡してください……でも、その……ミサが終わってから。いま、家にばあちゃんしかいないんです。ちょっと耳が遠くて」
 赤毛が云った。少佐は吹き出しそうになるのをようやくこらえた。
「ほんとなんです。彼のおばあちゃん、すっごく耳が遠いんだ。喉が潰れるくらい叫ばないと聞こえないんです」
「だから、お前は黙ってろってば!」
 赤毛はかんかんになって云った。少佐はこらえきれずに吹き出した。
「あーあー、わかったわかった。通報はせんよ、安心しろ」
 少佐がなんとか笑いを収めて云うと、少年たちはほっとしたような顔をした。少佐はもう一度、ちょっと苦労していかめしい顔を作った。
「あのなあ、おまえたちのやり方ときたら、見ちゃおれん。そんなんじゃ明日までかかったってリンゴは盗めんぞ」
 少年たちはお互いの顔を見つめあい、それから少佐を見た。
「特別に、いい方法を教えてやる。あまり時間がないから手際よくやれよ。まず、赤毛のおまえも木に登るんだ。それから……」
 少佐はかつて自分と、相棒のクルトがやった方法を伝授した。ふたりの少年は目を輝かせてそれを聞き、すぐに実行に移った。赤毛の少年はすばしっこそうだったので、リンゴのロープをつかみとる大役を与えられた。赤毛の少年はグスタフ少年に両手を掴まれ、枝からぶら下がると、ちょっと興奮してげらげら笑った。
「早くしてよ、重いよ!」
 グスタフ少年が情けない声をあげた。赤毛の少年は身体を前後に揺さぶり、弾みをつけてリンゴに飛びかかった。一度目は失敗。二度目もあと少しだったが、両足は宙をから回った。体勢を立て直すために赤毛の少年が一度枝の上に戻り、グスタフ少年は両腕を振りまわして感覚を取り戻した。もう一度。惜しい! 少佐は顔にこそ出さなかったが、少年たちと一緒にはらはらし、興奮した。四度目。少年の足は、見事リンゴに引っかかった! 少年はそれを素早く両足のあいだで転がして、ロープの端を口でくわえた。大勝利だった。赤毛の少年は枝の上に戻り、グスタフ少年がナイフを取り出してロープを贅沢に半分ほど切り落とした。ふたりは手を叩きあい、叫び声を上げ、興奮して抱きあった。
「おじさん、ありがとう」
 赤毛の少年が少佐を見下ろして云った。
「おじさんのやり方、最高だよ」
 少佐は肩をすくめた。赤毛の少年はリンゴをふたつロープから切り取って、少佐へ投げてよこした。
「それ、授業料として納めてくれませんか?」
 少佐は受け取ったリンゴを見た。つやつやして、丸かった。少佐は微笑し、うなずくと、もうミサも終わるので早く木から降りるように云い、ふたりに背を向けて歩き出した。
「ほんとだ、やばいぞ、グスタフ。とっとと逃げよう」
「待ってよ、クルト」
 少佐は立ち止まり、眉をつり上げた。そうして少年たちを振り返った。ふたりは木から降りてくるところだった。少佐は赤毛の少年を見た。クルト……でも、あのクルトとは似ても似つかない。否、利発で、すばしっこくて、そばかすだらけなのは、ちょっと似ていた。
「さよなら、おじさん」
 ふたりの少年は少佐の横を、風みたいに走り抜けていった。少佐はしばらくぼんやりと、ふたりの少年がいなくなってしまうのを見ていた。それから、微笑し、自分のものになったふたつのリンゴを見てまた微笑し……それをコートのポケットにつっこんで、今度こそ現場から立ち去った。

 

聖夜
 
 伯爵は、待ち合わせ場所にイギリスの田舎のとある駅を指定してきた。少佐は小ぶりな荷物ひとつを抱えて、ぼんやりと待った。空が暗くなりかけていた。夕暮れどきの、なんとなくものさびしい気分がふいにやってきて、少佐を包みこんだ。駅前の通りを、都会よりもどこかのんびりと、車やひとが行き交う。駅の前には大きなクリスマスツリーが飾られており、無数のライトをぶら下げて輝いていた。
 少佐の父親は、午後遅くに家に着く予定だった。親父には仕事が入ったと云っておけ、と執事に云いつけて、少佐は出てきたのだったが、案の定、執事はどこか寂しげな顔をした。少佐はそれに腹が立って、お気をつけて行ってらっしゃいませ、と云った執事のことを、無視した。
 少佐は自分の気持ちが揺れていることを、わかっていたが、無視し続けた。空港に向かうあいだも、機内でも、そして、いまこの瞬間にも。少佐は伯爵のことを考え続けた。彼の微笑を、美しい青い目を、金の巻き毛とその感触のことを、彼の香りのこと、その止まらないおしゃべりのこと。伯爵の云ったことは、正しかった。父親が口やかましいのは、歳のせいであって本人のせいではなかった。伯爵はなぜそのことがわかったのだろう? エーベルバッハ少佐と違い、他人だからだろうか。おそらくそうだろう。そして例の「文学的共感能力」のためだろう。彼はなんでもわかってしまう。人間の感情のことなら、なんでも。
 派手な、真っ赤な車が少佐の前で止まった。クラクションが鳴らされる。運転席に伯爵がいた。彼は少佐が視線を送ると、手を振り回して投げキスをした。彼は今日は、美しいモスグリーンのコートを着ていた。襟と袖口にファーがついているやつだ。少佐は苦笑した。ばかなやつ。伯爵が車から飛び出してきて、少佐に抱きついた。そしてとめどなくしゃべりだした。少佐はそれを適当に聞き流し、お互いに凍えないようにある程度のところで押しとどめて、彼を助手席に押しこんだ。助手席には伯爵の相棒のテディベア、ウィスパーが座っていたので、伯爵はそれを抱き上げ、唇をとがらせた。伯爵は不満げだが、彼の運転ときたら、少佐に云わせると、見ちゃあおれんかった。別に下手なわけではないのだが、少佐は自分以外の誰の運転にも満足したためしがないのだった。
「で、どこに行けばいい」
 伯爵は首を傾け、地図を広げて少佐に道を示した。少佐はアクセルを踏みこんだ。車の中は、伯爵の香りで満ちていた。彼は今日も、いつものように美しかった。その美しさの前に、少佐の動揺は、ひとまず脇へ追いやられた。

 

 真っ赤な車がたどり着いたのはレストランで、ふたりが案内されたのは個室だった。素晴らしい料理とワインを、ふたりは大いに楽しんだが、少佐がなにより楽しんだのは、伯爵さまのお召しものだった。紫がかった黒のガリバルディシャツふうのブラウスは、ゆったりした袖の部分がシフォン素材でできていて、ハイネックの襟の部分にはおそらく本物の宝石がちりばめてあった。ボタンにも、すべて本物の宝石が使われていた。それは伯爵さまをよりいっそう美しく、魅力的に見せた。
 料理の支払いは問題にもならなかった。伯爵はこの店では完全にその義務を免れているらしかった。そういう店があちこちにある。伯爵さまは経営者の好意によってびた一文払わなくてもいいか、あるいはあとあと誰か別の人間が支払うので、レジの前を素通りすることを許されている。差し出す現金はチップだけ。伯爵さまは、一ペンスだって所持していなくても暮らしていける最初で最後の人間かもしれないと少佐は思った。ファム・ファタール……しかしこれは、男を破滅させる女のことだ。彼はカルメンではない。伯爵はそういうたぐいの人間ではない。彼の行く先々には、幸福と笑いとがある。それがこの、ひと悶着起こさずにいられない容姿にそなわっているとはいったいどうしたことだろう? 少佐はアルコールで少しだけ弛緩した頭で考えた。ヘレネーはその美貌のために戦争を引き起こしたが、伯爵さまは? 嫉妬の山こそ積み上げているが、それは本人のせいではない。彼は、男を魂の抜け殻にするような愛し方はしない。相手に寄り添い、相手の感情を愛する。幸福な愛され方だ。少佐は思う。彼は、親父とのことをどう思っているだろう? ほんとうは、どう感じているだろう。
 クリスマスに浮かれる街並みを、赤い車は走り抜けた。飲酒運転がどうの、というような細かいことなど、このクリスマスの夜には誰も気にすまい。それに少佐は酔っていなかった。本人の弁によれば、エーベルバッハ少佐は生まれてこのかたみっともなく泥酔したことなどなかった。伯爵は、何度か意識を失ったことがあるねと云った。危ないから、ほんとに信用してるひとの前じゃなきゃやらない。少佐は、まだ伯爵さまが意識を失うほど泥酔しているところを見たことがなかった。君はまた別、と伯爵は云った。君の前で、そんな醜態晒したくないからね。まあ、確かに酔っ払いは面倒だから好きじゃないな。
 伯爵さまの隠れ家は、豊かでのびやかな田園風景の中にあった。夜だからあまり判然としなかったが、ピーターラビットかなにかで、少佐はこういう風景を見たことがあるような気がした。木造の小さな家で、どこかから川の流れる音が聞こえていた。
 階段を数段上がり、ウッドデッキをやり過ごして玄関ドアを開けるとリビングで、部屋の隅に大きな暖炉があった。伯爵さまはなかなか器用な手つきで火を起こした。暖炉の横に、小さなクリスマスツリーがあって、綺麗に飾りつけられていた。よくよく見ると、窓にも壁のあちこちにも、明らかにお手製らしい飾りつけがなされ、羊飼いの礼拝を描いた絵がかけられていた。美しいそれはたぶん、どこかからの盗品だろう……少佐は微笑した。暖かく、いい部屋だった。部屋の中央にソファがあり、そのそばにギンガムチェックのひざかけが乗っている揺り椅子があった。伯爵さまはそこへ、相棒のウィスパーを置いていた。少佐はそいつを抱き上げ、代わりに自分がそこへ腰を下ろした。
「なにか飲む?」
 伯爵は云い、暖炉のそばの棚のところへ歩いていった。少佐はなんでもいいから酒、と云った。たぶんすごいのが出てくるだろう。微笑しながら伯爵を追いかけていた少佐の目がふいに釘づけになった。棚の引き出しを開き、どこか物憂げに中身を物色しながら、伯爵は巻き毛をかき上げて器用にくるくるとまとめ、取りだした黒い髪留めで留めた。これからすっかりくつろぐというとき、彼はよくそうした。そうすると普段は隠れているうなじがあらわになるので、少佐はそれが大変に好きだった。少佐の目は彼のうなじと、巻き毛がいなくなったことによってはじめてあらわれた、黒いブラウスのV字型に開いたベアバックとに吸い寄せられていた。その三角の切りこみは袖と同じシフォン素材で覆われていて、それがかえって独特の艶かしさを醸し出しているように思われた。少佐はにやつきを抑えるのに苦労した。伯爵さまはいつも、エーベルバッハ少佐がどのようなお召しものをお好みか、ぬかりなく考えているのだ。一度になにもかもわかってしまうようなしかけは、面白くない。おおっぴらなのは気が萎える。音楽のように、徐々に暴かれ、展開し、進行してゆくエロティシズムはでも、伯爵が少佐に教えたことでもあるのだ。少しずつ高まってゆく気分。かいま見える色香。
 ブランデーの入ったグラスを差し出してきた伯爵の指に、少佐は明らかな意図をこめて触れた。伯爵は微笑し、それを受け取ったことを伝えてきたが、まだそれ以上に進行してはならなかった。伯爵さまは少佐の手からウィスパーを取り上げると、ソファに移動するように、少佐を促した。ふたりは座ってちょっとおしゃべりした。この隠れ家ができた経緯、この部屋をクリスマス仕様にするために伯爵さまがした苦労のこと、ボーナム君が大掃除に買い出しに奮闘してくれたこと……彼はまったく驚嘆すべき部下だ。少佐は自分の部下に欲しいと何度思ったか知れないが、ボーナムは伯爵さま専用だった……伯爵はいくらでもしゃべっていられる男だ。でもいつものようにぺらぺらやるあいだにも、伯爵の眼差しや、口調や、身体の動きは少しずつ変化していった。少しずつ、少佐を深いところへ導いていた。否、正確には、お互いに少しずつ、同時に進んでいた。少佐の態度も口調も、伯爵のそれと同じように、どちらが先かわからないが、同時に、同じところを目指して。
「雪になったね」
 伯爵がもうほとんどうっとりしたような声で云った。少佐は窓の外を見た。真っ黒な窓を、ときおり白いものが横切った。
「今日は寒かったからね……君のとこも、雪降るの?」
「あまり降らない」
 少佐は気だるい声で云った。
「ドイツでも、山に近い方はよく降るが」
「昔、乗っていた列車が雪の中で立ち往生しちゃったことがある」
 伯爵が夢を見るような調子で云った。
「父とアルプス地方を旅行していたんだけど。わたしが、たっぷりの雪が見たいとか云ったからなんだ。父は、わたしが云うことはなんでも叶えてくれた。絶対だ。絶対だった。わかったよ、坊や、って云ったその、遅くともひと月後には、願望どおりになってた。クリスマスに、たっぷりの雪を見に行くよ、ふたりだけでね、と云われて……これ、まだ両親が離婚する前の話。わたしと父は、そのころからもうふたりだけでいろいろしてたんだ……わたしはすごくうれしくて、いろいろ準備した。防寒対策バッチリ。スキーもスケートもバッチリだった。運動神経だけはあったからね。雪焼けしないクリームと、あかぎれしないクリームを、執事がどこかから手に入れてくれて。父は、旅行の前日に、ふわふわして暖かいイヤーマフをくれた。わたしはそれをしっかりつけて、ウィスパーにコートを着せてニット帽をかぶせて、脇に抱えて家を出たんだ。雪山にだって、彼のこと置いてくわけにいかないからね。わたしがいないとすごく寂しがるから……」
 伯爵は横に置いていたテディベアを抱き上げ、ちょっと撫でた。少佐は微笑して、ベアを撫でる伯爵の手を撫でた。伯爵が少佐に擦り寄ってきた。少佐は巻き毛に口づけた。ほんとうはうなじにしたかったのだが、それはまだ早かった。
「行きの天気がすごく悪かったんだ。猛烈に雪が降って、途中で、ついに立ち往生しちゃって。最初は全然怖くなかったけど、二時間も列車が動かないでいたら、なんだか不安になってきて。父の服をぎゅっと掴んだら、父は、大丈夫だよ坊や、って云って、わたしを膝に乗せて、抱きしめてくれた。ウィスパーと一緒に。わたしは大丈夫なんだなって思って、眠ってしまった……目が覚めたら、列車はそろそろと動いていて、予定より大幅に遅れて真夜中に駅に着いたんだ。それだけなんだけど、そういうことだけ、よく覚えてる。アルプスの雪山でなにをしたかってことより。次の日は、クリスマスイブだった。わたしは雪山にサンタクロースが来られるかどうか心配だったんだ……いいよ、笑いたまえ。どうせ十代半ばまでサンタさんを信じてた人間だよ、わたしは。とにかく心配で、何度も父に聞いた。だって、わたしひとりにプレゼントを届けるためだけに、サンタクロースが遭難とかいう事態になったら、世界中の子どもに影響が……ああ、もう、バカ笑いすることないだろう? すごく真剣に心配したんだよ! 父はやっぱり、大丈夫だよ、坊や、って云った。子どもって……大人になってもそうだけど、何度も何度も、繰り返し、大丈夫、愛してる、って、云ってもらう必要があるんだよね。少なくともわたしはそうだった。父がしつこいくらい大丈夫って云ってくれたから、わたしは大丈夫な人間になったんだ。わかる?」
 少佐はバカ笑いをおさめて、どこかうるんだ目をこちらに向けている伯爵に微笑みかけた。わかるような気がした。少佐は彼の巻き毛を撫で、頬を撫でた。伯爵はうっとりと目を閉じた。
 ……クルトを助けるために殴り合いに加勢した日の夜のことを、伯爵の柔らかい思い出に誘われるように、少佐は思い出した。その日、父親は少し遅れて夕食の席についた。クラウス少年に遅れたことを短く詫び、すぐに食事をはじめたが、ナイフを一、二度動かしてすぐ、父親はクラウス少年にたずねた。
「執事が、担任のコードン先生から電話を受けたそうだ。なんのことだかわかるか、クラウス」
 クラウス少年はやや緊張して、はい、お父さん、と応えた。
「殴り合いの喧嘩をしたそうだな」
 クラウス少年ははい、と云った。ふたりは話しながらも食事を続けていた。クラウス少年の左頬はちょっと腫れていて、右目の上に切り傷ができていたのだが、父親の目が、それに止まった。クラウス少年は反射的に身体を固くした。
「なんでも、上級生五人をめったくそにしたとかいう話だったが」
 父親がこういうくだけたことばを使うとき、笑っていいものかどうか、クラウス少年はいつも疑問に思っていた。で、今回もやりすごした。
「そうです、お父さん」
「経緯を説明しなさい」
 クラウス少年は少し考え、口を開いた。
「ぼくのクラスに転校してきたクルトという生徒を、上級生たち五人がからかいに来たんです。はじめ、上級生たちがクルトをつついたり、からかうようなことを云っても、彼は黙っていました。でも、上級生のひとりが、彼の父親の仕事のことをばかにして……クルトの父親は、道化役者をしているんです。クルトはかんかんになって、その上級生に殴りかかりました。はじめはその上級生とクルトの一対一でした。でも、上級生の方が劣勢になってくると、ほかの四人も殴り合いに加わってきました。ぼくは黙って見ていられませんでした」
 クラウス少年を見つめていた父親は、小さくうなずいた。
「担任のコードン先生は、おまえや、そのクルト君になんとおっしゃった」
 クラウス少年は少し考えた。
「騒ぎを起こしたことについては、よく考えるようにと云われましたが、殴り合いそのものについては、なにもおっしゃいませんでした」
 父親はまた小さくうなずいた。クラウス少年は黙って父親を見つめた。
「コードン先生からの電話だがな」
 父親はフォークを置き、顎に手を当てて、少し思案するような顔をした。
「先生は、おまえのとった行動を非難するようなことはおっしゃらなかったそうだ。おそらく、先生とおれは同意見だろう……よくやった、クラウス」
 クラウス少年は目を見開いた。父親は満足げにうなずいた。
「男というものは、そうでなくてはいかん。いざとなれば拳に訴えてでも、正しいことができるようでなくてはいかん。だからといってなんでもかんでも殴り合いで解決できると考えているようなのにはつける薬がないが、今回のおまえの行動は、実に立派なものだった。たとえおまえが殴り合いで負けたとしてもだ、それでも、おれは同じことを云っただろう」
 クラウス少年は目をしばたいた。目の前がぽうっとなり、胸に熱いものがこみあげてきた。
「さあ、冷めないうちに食べなさい」
 父親はふたたびナイフとフォークを手に取り、動かしはじめた。クラウス少年ははい、とうなずき、父親と同じことをした。ふたりは、しばらく無言でかちゃかちゃやった。
「コードン先生は、なにか罰を科したのかね」
 ふいに、父親が云った。
「反省文を提出するように云われています」
 クラウス少年は肉のかたまりをあわてて飲みこんでから云った。
「そうか、反省文か……」
 父親は、ふいになにかをなつかしむような顔になった。が、すぐにいつもの厳しい顔つきに戻った。
「それはもちろん、決まりとしては提出しなければいかんだろうな」
 クラウス少年ははい、と云った。
「おまえは作文があまり得意ではないからな。なんなら、執事に手伝ってもらうといいぞ。あれは作文が得意なんだ。気をつけないと感傷的になりすぎていかんのだが」
 父親はちょっと唇を持ち上げて云った。
「ありがとうございます。でも、その……もう別の生徒が考えてくれています」
 父親はほう、と云った。
「同じクラスのマックス・ドーデラーです。作文がべらぼうに得意です」
「そうなのかね?」
 父親はちょっと面白がるように云った。クラウス少年は、得意な気分になった。
「ほんとうです。将来は世界的な作家になると云ってます……反省文なんて、クルトのぶんとふたつあわせても、寝る前の三分もあればできると云ってました」
 父親は笑いだした。クラウス少年はちょっとびっくりした……彼の父は、めったに声を上げて笑わないひとだったので。
「そうかそうか、そうか。同じクラスに専門家がいるなら安心だ。その未来の作家に任せるといい。執事よりは断然おまえらしく書いてくれるだろう」
 父親はそれきり口を閉じ、あとは会話らしい会話をしなかったが、クラウス少年は父親がとても満足しているらしいのを感じた。彼は、めちゃくちゃにうれしかった。
 寝る前に書斎にいる父親に挨拶に行ったとき、父親は机に座って、ちょっとぼんやりしているふうだった。酒の入ったグラスを自分の前に置き、そして、そのさらに前にはクラウス少年の母親の写真が置かれていた。
「ちょっとこっちへ来なさい、クラウス」
 こんなことは、常にないことだった。クラウス少年が挨拶に行くと、父親はたいがい「うむ」とか「おやすみ」とか、ひとこと返してよこすだけだった。それに彼の父親は、就寝時間や起床時間にはじまり、とにかく、規則正しい生活をすることにやかましかった。クラウス少年はおそるおそる父親の横に立った。次の瞬間、彼の身体は床から浮いて、父親の膝の上に乗っていた。クラウス少年は正直に云って、生きた心地がしなかった!
「おまえのお母さんだ」
 父親は写真を指さしながら云った……少し酔っているようだった。
「はい、知ってます」
 クラウス少年はまだ動揺を引きずりながら云った。
「おまえのお母さんはきれいなひとだった」
 父親は云った。その声はどこか、クラウス少年の胸をしめつける響きを持っていた。クラウス少年は写真を見た……見慣れた写真だった。つややかなブルネットを後頭部でまとめたきれいな女のひとが、こちらに向かって微笑んでいる。クラウス少年も同じ写真を持っていて、ときどき、ちょうどいまの父親のように、自分の前に写真立てを置いて眺めてみることがあった……見慣れていて、懐かしく、そして、ぜんぜん知らないひとだ。クラウス少年にとって、母親とはそういうものだった。クラウス少年は、でも、心密かにこの自分の母親が、世界で一番きれいだと思っていた。
「きれいで、頭のいいひとだった。女性というものは、一般にあまりわれわれ男のことを理解してくれないものだが……特におれのような仕事をしている人間のことについてはな。でも、おまえのお母さんは違った。今日おまえがなにをしたか聞いたら、おまえのお母さんは、きっとおれ以上に喜んでくれただろう」
 クラウス少年は父親の顔を見た。彼はいつものように、あまり表情らしい表情を浮かべていなかったが、でも、実に満足そうな顔をしているように見えた。クラウス少年は、母親の写真を見た。写真の中の母親はいつもと同じように微笑んでいたが、でも、父親のことばに同意しているような気がした。
 クラウス少年はふいに、自分のお腹に回された父親の手を意識した。がっしりしていて、力強かった。尻の下にある太股は、引き締まって固かった。そしてとても温かかった。煙草の匂いがした。クラウス少年は、自分もいつか、こういうふうになるのだと思った。身体が大きくなり、煙草を吸い、酒を飲むようになり、そして父親のように、なにかどっしりした、力強いものになるのだと思った。クラウス少年はそれがうれしかった。自分と父とが同じものだということがうれしかった。そうしてたぶん、この写真の母親のように、きれいなお嫁さんを見つけるのに違いない。クラウス少年は、父親と、写真の母親と自分とが、同じ空間にいて、一緒に呼吸をしている、なにかひとかたまりのわかちがたいものであることを感じた。
「大変だ、寝る時間を過ぎてしまったな。もう休みなさい」
 父親が時計を見て云った。クラウス少年はまだもう少しそこにいたいような気がした。その温かさを、太股の固さを、そしてこの部屋にあふれているなにか温かい空気を、もう少し、感じていたいような気がした。でもクラウス少年は父親の云うとおり、その膝から降りた。そうして、おやすみなさい、お父さん、と云った。父親はうなずき、おやすみ、坊主、と云った。クラウス少年は書斎を出た。そうして、階段を駆け上がった。部屋に飛びこみ、そのままの勢いでベッドに潜りこんだ。クラウス少年は興奮していた。どう表したらいいのかわからない気持ちだった。ただ、彼は、自分にも、自分のしたことにも、自分の友だちにも、満足だった…………
「……なにを考えてるの?」
 気がつくと、クラウス少年、否、エーベルバッハ少佐は、金髪巻き毛の男の肩に顔をうずめていた。細長い指が繊細な動きで、エーベルバッハ少佐の黒髪を梳いていた。少佐は首を振った。それから、目を閉じ、ため息をついた。髪の毛に唇が落とされ、抱きしめられた。少佐は伯爵の、螺鈿の黒い髪留めを引き抜いた。巻き毛がどこか蛇に似た動きで、しゅるしゅると落ちてきた。少佐はそれを丁寧にほぐし、その中に顔をうずめて目を閉じた。伯爵が微笑したのがわかった。
「……君のパパに、電話しないの?」
 だいぶたってから、伯爵が小さな声で云った。なにかを壊してしまうことをおそれているような声だった。少佐は目を開け、しばらくじっとしていた。そうして、首を振った。伯爵は「そう」とささやくように云い、黙った。少佐はふたたび目を閉じ、じっとしていた。
「……おまえ自分の親父が死んだとき」
 まただいぶたってから、少佐は云った。伯爵が少し首を動かし、こちらに顔を向けるのがわかった。
「正直にどう思った」
 伯爵は少佐に回していた腕を動かして組み直し、しばらく考えていた。こんなことを彼に訊いたのははじめてだった。無礼で残酷なことをしているかもしれないと少佐は思った。でも、伯爵は許してくれるだろうと思った。
「……正直なところ、ちょっとほっとした」
 伯爵は真剣な顔をしていた。少佐はその顔を見つめた。
「なぜって、これでもう父は病気で苦しまなくてもよくなったんだと思ったから。ほっとしたっていうより、うれしかったんだと思う。考えてみて。痛みも苦しみも不安も、全部肉体からやってくる。これは、ほんとうだよ。そうじゃない? 肉体の痛みや苦しみや、死への恐怖。わたしたちの精神や感情や、そういう目に見えないものは、物理的な破壊なんて不可能だ。破壊することができるもの、消滅させることができるものは、肉体だけ、物理的なものだけだ。それが壊れて、なくなってしまったからって、わたしたちの愛や、思い出や、感情までなくなるわけじゃない。わたしたちの存在の、肝心要の部分はね。わたしはそのことを知ってた。確信してたし、いまもしている。でも、葬式やなにもかもが終わったあとにね、どうしようもなく、悲しくなった。どうして悲しいんだろう、ってわたしは考えた……父が生前云ってたんだ、わたしが死んだからって、悲しむ必要はないんだよ坊や、って。父は、わたしがいくつになっても、わたしのこと坊やって呼んでいたんだんだけど……肉体があろうとなかろうと、いつもそばにいるからねって。でも、実際は悲しかったよ。もう、触れられないってことが悲しいんだ。あの存在に、あの微笑みに、もう触れられないんだってこと。そしてね、それは、わたしもまた肉体ある存在として、当然の悲しみなんだって、気づいた。それでわたしは泣くことにした。自分の感情を尊重したかったから。そのほうがうまくいくんだ。押し隠すよりもね。面会謝絶で引きこもって、大泣きして、思い出にひたってるうちに、あるとき……朝だった。すばらしく晴れたいい天気の日だった。わたしは窓辺に立って、射しこむ日差しを浴びて、そのときふと気づいたんだ。わたしたちの存在は、その本質は、こんなふうに遍在しているものだって。わたしの肌に日差しが触れるみたいに、わたしたちの感情や心の動きは、わたしたちに触れてくるものだろう? そのとき、わたしは自分の周りにあるあふれんばかりの愛を、感じたんだよ、ふいにね。それで、父がいつもそばにいるって云った意味がわかった。うれしかったな。わたしは庭に出て、バラやヒヤシンスやスズランやみんなにあいさつして、その香りにつつまれて、しばらくうっとりしていた……ヒバリがかわいい声で鳴いてた。わたしはそういうもの全部とひとつだったよ。それから、ドリアン坊やは復活したんだ。正確に云うと、生まれ変わったにひとしい。すばらしい体験だった」
 伯爵の顔は、興奮のために輝きを増し、頬には赤みが差していた。美しかった。少佐はうなずいた。伯爵は優しい目つきで彼を見た。
「わたしがこんなふうに思えたのはね、父との関係が、とても幸福なものだったからだよ。わたしたちはめいっぱい愛しあったし、すばらしい思い出をたくさん作った。だから、失ったときの悲しみはそりゃあひどいものだったけど、でも、だからこそ、そこから再生することができたんだ……わたしはそう思ってる。だから、わたしはひととの関係に、誰かを愛することに、いつも全力でいたいと願うんだ。正直で、誠実でありたい。後悔したくないから。そしてそうすれば、きっとそのひとにいい影響が残ると思うから」
 少佐はそれについてしばらく考え、やがてうなずいた。伯爵は微笑した。
「でも、だからって、君とお父さんの関係が、わたしとわたしの父のような関係であってほしいなんて云わないよ。関係性はひとつひとつが唯一無二のものだし、理想はいつも理想だ。そうあれたらすばらしいけど、そうじゃない状態のときにも、大きな意味がある。そう気がついたんだ、さっき、君に話していたとき」
 伯爵は目を閉じ、しばらく考えこむような顔をしていたが、やがて小さく微笑んで、少佐の額にキスした。
「明日は、雪が積もるかな?」
 少佐はどうだろうと云った。伯爵が身体を起こした。
「すっかり忘れてた! 君にプレゼントがあるんだけど、ちょっと取ってくるよ。大きいんだ。少なくとも、大きさだけはある。あと、愛もこもってるよ、もちろん!」
 少佐は眉をつり上げ、伯爵が出ていったドアを見やった。まったく、ころころ気分と考えの変わるやつだ。でも、それはいつもとてもいいタイミングで変化する。これ以上同じ雰囲気でいることに耐えられないとき、同じ雰囲気である必要はないとき、変わった方がいいとき。伯爵はたぶんそれを、注意深く見計らっているのだ。少佐は微笑し、煙草に火をつけた。
 伯爵が大きくて薄い、四角い包みを持って戻ってきた。脇には折り畳まれたイーゼルのようなものを抱えている。
「ハイ、ダーリン、メリークリスマス。ドリアンサンタからのプレゼントだよ。これは、このようにして使います」
 ドリアンサンタは抱えていたイーゼルを広げ、それから、少佐に四角い包みを差し出した。
「君がやぶいてくれなくちゃ」
 少佐はうなずき、金のリボンをほどいて、きれいな薄緑の包装紙をやぶった。案の定、絵が出てきた……それも、エーベルバッハ少佐の油絵だった。上半身を描いたもので、少佐は見慣れたスーツとトレンチコート姿だった。胸のあたりにある右手に煙草を持ち、顔は正面よりやや左に向けられ、目もそちらを向いていた。視界になにをとらえたのか、灰色がかった緑の目は鋭い光を帯びていた。黒髪がかすかに風になびいていた。
「時よ止まれ、君は美しい」
 揺り椅子に腰を下ろした伯爵が云った。少佐は彼を見た。どこかうっとりした、そして茶目っ気のある顔をしていた。
「それがタイトルだ。あえてつけるならね」
 伯爵が少佐の手から絵を引き取り、それをイーゼルに立てかけた。少佐はじっくりと眺めた。自分をまじまじと見る趣味はないのだが、少佐はふいに、あの紫を着る男の絵を思い出した。あれに似ている似ていると云われ続けてきた。少佐自身はそんなことはこれっぽっちも思わなかったし、またどうでもいいことだったが、少佐はこのときはじめて、もしかすると似ているかもしれぬと思った。あの男の目も、鋭かった。あれも、戦いを知る男の目だった。危険に身をさらすことを肌で知っている男の目、そしてその中で生きることを知る男の目だった。少佐は微笑した。うちの男たちは、代々そういう人間なんだ。あのご先祖も、おれも、それに親父も。少佐は視線を、その絵から伯爵に移した。彼は相変わらず美しく微笑していた。
「おまえ、収集するより生産した方がいいのと違うか」
 伯爵は両手を挙げた。
「わたしは自分がわかってるんだ。他人の作り上げたものの中に見えるもので満足してるような人間は、生産者になってはいけないし、その資格もないんだよ」
 少佐にはよくわからなかった。ただ、自分が非常に満足していることだけはわかった。
「おれもおまえにやるものがある」
 少佐は立ち上がり、荷物の中から紙袋を取り出して、伯爵に放り投げた。伯爵は受け取り、おそるおそる中を覗いた。彼の目が見開かれ、顔全体が、興奮と驚嘆とで輝いた。彼はその顔を、そのまま少佐に向けた。少佐はうなずいた。
「そうなんだ。おれはまた悪事を働いてしまった。正確に云うと、未来ある清き少年たちに、悪事を教えこんじまった」
 伯爵が悲鳴を上げ、少佐に抱きついてきた。少佐は伯爵がイーゼルに引っかかって倒れないように、すばらしい判断力でそれを少し脇に押しやった。
「ああ、クラウス、クラウス!」
 伯爵はささやくように云った。
「君ってすばらしいよ。すごくうれしい。宇宙旅行プレゼントされたときよりうれしいよ」
「されたのか?」
 少佐は面食らって云った。
「断ったけどね。すごく興味があったけど、訓練やらなにやらで、ほんの数分のために何日も拘束されるみたいだったから」
 少佐は脱力した。金にものを云わせたプレゼントなど考えなくて、ほんとうによかったと思った。
「愛してるよ」
 伯爵がうっとりと云い、目を閉じた。少佐は自分に抱きついてうっとりしている男を見、揺り椅子の上に置かれた紙袋からはみ出しているリンゴを見、それから、エーベルバッハ少佐の肖像画を見た。エーベルバッハ少佐の肖像画は、エーベルバッハ少佐でありながら、どこか、その父親にも似ていた。
 ……来年。少佐は考えた。来年あたりのクリスマスには、もしかしたら、父親に電話くらいはできるようになっているかもしれない。それはただの思いつきだった。根拠があるわけではなかったし、実現の可能性が高いわけでもなかった。でも、少佐は漠然とそんなふうに思った。少佐は微笑し、相変わらずうっとりしている伯爵の、あのV字型に開いたベアバックの背中を撫でて、巻き毛をかき上げ、うなじに口づけた。伯爵はうっとりとため息をついた。そうして身体を起こし、少佐の首に腕を回して、神妙に目を閉じた。少佐は、神妙に口づけた。
 暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。その火が、部屋のあらゆるものの上に、ゆらゆらと波打つ印象的な影を、与えていた。

 

あとがき

 

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