開かれるもの
電話をくれと云われていたがする暇がなかった。狂いのない腕時計は午後十一時近くを指している。メールは送っておいた。「おそくなる」という文字だけだが。建物を出て、少佐はふたつある携帯電話のうちのひとつを手に取り、二度ほど電話をかけた。お次はもうひとつの方。着信もメール受信もなし。少佐は眉をつり上げた。こいつぁ大変だ。伯爵さまがおかんむりなのに違いない。
大通りへ出て、大急ぎでタクシーを拾う。ホテルの名前を云ってしまってから、罪滅ぼしになにか買ってやるべきだったかと思う。でもどのみち無理だ。良心的で良識のある店はもうとうに営業を終了している。少佐はロンドンの景色を眺めることもせずに目を閉じて、ちょっと居眠りをした。疲れていた……肉体的な疲れというより、精神的な疲労。半日会議室にこもって、陰険な男たちと陰険な会話を続けることが、エーベルバッハ少佐のような行動派の男にとってどれほどのストレスか、部長も少し考慮するべきだ。だが、それなら誰か適任者を推薦しろ、などと切り返されても困る。少佐の知る限り、少佐の部下たちは皆上司に似て、現場と泥まみれの肉体労働が大好きときていた。それを思うと、少佐は少し誇らしい気持ちがする。能書きばかりで行動はひと任せという人種は大嫌いだ。そんな男になるくらいなら、少佐は万年少佐でいることを選ぶだろう。
車が停まったので目を開けた。ごく短い睡眠時間だったが、身体の奥、あるいは脳味噌の奥にこびりついていた疲労感は、ほとんど回復していた。これも訓練のたまものだ。どこかの金髪巻き毛みたいに長々と眠らないと気が済まないようなやつは、とてもじゃないが軍人など勤まらない。あんな自堕落で快楽主義なやつは。
タクシーを降り、ホテルのエントランスを抜けて、エレベーターのボタンを押してから、少佐は電話をかけた。コール音が響く。エレベーターが来た。少佐は乗りこんだ。出ないつもりか、寝ているのか。どちらの可能性もあった。少佐は壁にもたれて待った。コール音がやんだ。
「起きてるか、坊主」
ゆっくりと徐々に大きな数字に向かって点滅してゆく文字盤を眺めながら、少佐は微笑して云った。
「もう寝てるよ。いい子だから」
大きな坊主は云った。でも声は寝ていなかったし、怒ってもいなかった。少佐は、とりあえずほっとした。と同時に、少し残念に思った。怒った伯爵を見るのは、割と好きだった。
「君、いまどこ?」
「エレベーターの中。昨日も思ったんだがこいつはえらいのんびり屋だな。じりじりじりじり仕事しやがる」
電話の向こうで笑い声がはじけた。
「年代式だからね。イギリス人は古いものを大事に大事にするんだよ。そのあいだに、ガラスの向こうの夜景を楽しむんだ、ふつうのお客はね。情熱的なお客は、ロマンティックな光景をバックに、キスする。それ、やる?」
「この監視カメラつきの密室でか?」
少佐はあきれたように云い、電話を切った。のんびり屋のエレベーターが目的階に着いた。少佐はそいつを降りて、まるでそののんびりが伝染したみたいに、常日ごろのかつかつ歩きをやめて、ぶらぶらと廊下を歩いていった。部屋に入る前に、ブザーを二度押した。予想はしていたが、お迎えはなし。少佐はドアを開けた。部屋の中は、明かりを落としてあった。伯爵も寝室にいるのか、見あたらなかった。少佐はコートを脱ぎ、ソファに放り投げた。一服したい気もしたが、思い直して、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して飲んだ。それから、腕時計を見、寝室のドアをそっと開けた。
伯爵さまはベッドに仰向けになって目を閉じていた。美しい白いサテンのネグリジェが、全身を覆っている。足は、伯爵がスリッパがわりに履いている黒のバレエシューズで隠されている。豪奢な巻き毛がたっぷりとシーツいっぱいに広がっていた。部屋中に、伽羅のエキゾチックな、あのまつわりつくような香りがたちこめ、サイドボードの上に置かれた花瓶には、芳しいバラが飾ってあった。少佐はちょっと鼻先を近づけてライチのようなその香りを嗅ぎ、ベッドに腰を下ろした。身体を屈めて、彼の美しい顔を間近に眺め、小さな声で、寝ているのかと訊ねた。伯爵は目を閉じたままちょっとうなずいた。少佐は微笑した。ふわふわした巻き毛を撫で、左耳を隠している髪を丹念に脇へのけた。柔らかい耳たぶを、エメラルドをはめこんだ銀細工のピアスが飾っていた。薄暗がりの中でも、それはきらきらとよく輝いた。少佐は微笑して、指先でそいつをちょっとからかった。
少佐は伯爵の全身を眺めた。サテンのネグリジェは前開きのタイプで、真珠のボタンが連なっている。伯爵はまだ目を閉じている。捕まって、死を覚悟した獲物みたいに、おとなしく。あるいは、厳格に用意された生贄。少佐はボタンをひとつずつ、手をすべらせるようにして時間をかけて外した。衣服の裂け目とは、なぜかくも魅力的であるのか? その下から覗く肌が、全裸を見るよりももっと卑猥であるのはなぜか。少佐はボタンを外し終えた。白いサテンの下から、彼の肌と、その上を飾っている宝飾品がちらちらと見えた。ネックレスが三つか四つ、腰回りにも金鎖が見え、太ももと、足首にも。多種多様な宝飾品を生み出してきた人類に最敬礼。少佐は、宝石類をじゃらじゃらさせた伯爵を見ると、実のところとても興奮する。彼の美しい指、腕、なだらかで魅力的な首、なんとも云えない足首、それ以上になんとも云えない腰まわり、そういうところへ、さらに美しいものがのっかっているのを見るとき。伯爵は、地上でもっとも美しいとされるものたちを自分の肌の上に侍らし、従えて、微笑する。熔けるような微笑。彼の圧倒的な美しさ、すべてのものの上に君臨するその力を、目の当たりにするのが好きだ。あらゆるものが、彼の従者だ。撒き散らされるその香りの、空気の、存在の奴隷だ。そして少佐もまた、そこへ引きこまれてゆく。
サテンの上から身体の線を確かめ、包むように撫で回しながら、少佐は彼の顎に口づけた。じゃらじゃらと音をさせて、首に腕が回された。彼のまとう素晴らしい香りが少佐を満たした。少佐の意識は彼の身体の上に集約されていった。
伯爵がボディタオルで白い肌を優しくこするたびに、お湯がぱしゃぱしゃと音をたてた。少佐は目を閉じ、ゆったりと風呂につかりながら、その音を心地よく聞いた。彼の頭は伯爵の、後頭部でまとめられた巻き毛の上に乗っていた。背中ごしに、伯爵の動きが細かい振動となって伝わってくる。楕円形の浴槽は広さがあり、男ふたりが背中合わせになってもまだ多少の余裕があった。伯爵はその美しい足の指先まで丹念に洗い終え、絹のボディタオルを丁寧に洗い、絞って、頭ごしに少佐に渡した。少佐は受け取って、備えつけのボディソープをタオルに落とし、左腕をごしごしやりはじめた。伯爵は、ホテルの備品は使わない。いつも彼専用に作られたボディソープやら洗顔料やら一式を持ち歩く。少佐は一度使わせてもらったことがあるが、香りがすごいのと、原材料が天然素材だけとかで、いまいちすっきりしないのとで、それ以来遠慮している。
「君が遅いから、せっかくの計画が台無しになったんだからね」
背中ごしに、伯爵がすねたように云った。彼はさっきから妙にすねている。でも、少佐はそれが本気ではないことを知っている。あの熱心で情熱的なセックスを越えてまで、伯爵が怒りを持ち越しているとは思えなかった。あるいは、それがあったから逆にすねているのか。少佐はさっきからもう三回は、明日は午前中のんびりできるので許してくれと謝っていたが、また謝った。伯爵は鼻を鳴らした。
「いいレストランにつれていってあげたのにさ。仕事が忙しいのにそのうえ恋をするなんてとんでもない、妻帯者のくせに女を口説くのとおんなじ、ってジョン・ダンが云ってるよ。わたしの理解者はこの世で彼だけな気がする。もうとっくに死んでいるけど。仕方がないから、今日の夜はそこで友だちと食事したんだ」
少佐は右腕をさすっていた手を止めた。そうして後ろへ向けて首をひねった。
「友だち?」
少佐は訊き返した。
「そう、友だち。ほんとの友だちだよ。その昔、あれはただの友だちだよ、ねえ君、って方々いろんな男にいろんな男のことについて云って回ったあれじゃなくて、ほんとにほんとの友情が通った友だち」
少佐は身体をひねり、「おまえ、それ、どういうふうに云ったんだ、ん?」と伯爵に云った。伯爵はどこか冷たさを感じさせる声で笑った。
「どうって、普通に云っただけだよ」
「ちょっとやってみろ」
伯爵はまた笑った。
「ここで? いま? いやだよ」
少佐は伯爵の腕を取り、半ば強引に自分の方を向かせた。伯爵は声を上げて抵抗したが、少佐は力を緩めなかった。バスタブの湯がばしゃばしゃ音を立てた。ほとんど少佐の下敷きになるようなかっこうになり、顎をとらえられ、伯爵はようやく抵抗をやめた。浴槽の縁に頭を乗せ、腹の立つほど美しく、あるいは半ばあざけるように、小さく微笑した。
「云え」
少佐は云った。伯爵は少佐を見つめて、まばたきし、唇をゆがめた。そうして、どこかうっとりした顔で、「彼はただの友だちだよ、ダーリン」とささやくように云った。その艶やかさとわざとらしさの魔力。少佐は暗い満足を覚え、唇を歪めて、伯爵の顎から手を離し体勢を元へ戻すと、首を洗いだした。伯爵が少佐の肩に頬を押しつけてきた。
「そういう君、大好きだよ……貸して、洗ってあげるから」
背中を洗い出した少佐のボディタオルを取り、伯爵は少佐の背中を優しくこすりはじめた。
「ほんとに友だちなんだよ。冗談抜きに。たったひとりの友だち。ほら、わたしって、男と見ると興味ないか、愛するかのどっちかだから。女性とは親しくなれないしね。彼は……テディって云うんだけど……本名セオドア。わたしはテディボーイって呼んでる。別に不良じゃないんだけど。それどころか、とってもいいやつなんだ。子爵家の次男坊で、幼なじみって云っていいのかな。大学まで全部一緒だったんだ。わたしがちょっとおいたして転校したときまで、一緒についてきてくれた。お父さんを説得して、半分家出みたいにして……わたしのこと、すごく心配してくれてたんだ、いつも。でもずっとべったりだったわけじゃないし、もちろん、身体の関係があったわけでもない。彼はノーマルだよ。わたしたちのこと、なんて説明したらいいんだろう。すごく難しい。友愛。だけど、並の友愛じゃない。すごく強いんだ。わたしみたいなやつにこそ、恋愛なんて微塵も関係ない男友だちが必要なんだって彼は云うんだけど、その関係を、いつも全力で死守してくれる。わたしには、彼が最後の逃げ場なんだ。男に疲れたときにさ……わたしだってたまにそうなることもあるんだよ、信じてもらえないけど。でもそういうとき、彼といるとすごく生き返るって感じがする。なんにも気にする必要がなくて。わたしが寝起きで髪ぼさぼさで、Tシャツにジーンズなんて最悪の格好で会えるただひとりの男って云えばわかる? そういうひと」
少佐は伯爵の手からそっとボディタオルを取った。そうしてちょっと身体の向きを変え、うるんだようになっている伯爵の目をのぞきこんだ。少佐は、なにかひどく神妙な、清らかな、それでいて少し息苦しい気持ちになっていた。気持ちの底が、胸苦しくさざめいていた。彼は思い返した……何人かいる、気のおけない男友だちとの関係。異性に、恋愛対象にそうするような気の遣い方を、まるで放擲した関係。多くの人間は、同性同士でそういう関係を作り上げ、異性関係とのバランスをとっている。でも、伯爵は? 彼と関係のある男の大半は、伯爵を崇拝し、敬愛し、あるいは猫かわいがりし、その美しさにひれ伏している。伯爵もそれをわかっていて、そういうふうに振る舞う。振る舞わざるを得ない。それは周囲の期待の結果であり、伯爵の望みの結果でもある。少佐はふいに、奇妙な羞恥心に襲われた。少佐はさっき、部屋に入る前、伯爵のために少しのんびりして時間を置いた。自分のためにあれこれ準備するだろう彼のために。宝石を身につけ、ネグリジェを整え、横たわり、雰囲気を作り出す、彼が当然そうすることを期待し、むやみに部屋に入るのを遅らせたあの時間、あの好色な期待。それがふいに、ひどく下品な、ばつの悪いもののように思われた。
伯爵が微笑した。その微笑で、少佐は我に返った。
「だから、誰よりも大事な友だちなんだ、わかるよね?」
少佐はうなずいて、微笑した。
「おまえがTシャツにジーンズなんつう格好をすることがあるとは思わんかった」
伯爵は笑った。
「めったにないよ。人生で数えるほどしかない。ほんとの緊急時だけ。わたしの美意識が許さないからね」
「そいつといると楽しいか」
「うん、楽しい。きっと、普通の男ってこうなんだろうなって思う。些細なことでプライドに傷がついて、女にメロメロになって、なんとしてもものにしたいとか、あげく感化されて結婚したいとか子どもが欲しいとかなんとか云い出す。彼、もう結婚してるんだ。去年子どもも生まれた。君、この女と結婚したいって思ったことある?」
少佐は身体の向きを直し、ふたたび身体を洗いはじめた。
「ある」
「何回?」
「たぶん……正確には二回。まず、だいたいはじめてまともに恋人なんつうものができたときにゃ、これがおれの人生でただ一度の恋で、間違いなくこの女と結婚するんだって思うだろ。それから、まあ人生そんな単純なもんでもなくて、いろいろあることを学習するわな。男泣きしながらな。あとはまあ……そのときどきに応じて、してもいいとか、それはちょっと考えもんだとか、なんとか、いろいろ段階があるだろ」
「わたしは君と結婚してもいいよ」
少佐は首を回し、呆れたように伯爵の顔を見やった。
「婚姻制度に興味もねえくせになに云ってやがんだ、阿呆」
伯爵はにっこり微笑んだ。
「おい、電話。鳴ってるぞ。出ろ」
少佐はまだ夢の中でむにゃむにゃ云っている伯爵をちょっと乱暴に揺さぶり、ブーブーやっている電話を耳に押しつけた。午前九時三十七分。まともなやつなら、もう起きだしている時間だ。もちろん伯爵はまともではないので、特に起きている必要はなかったが。
「ハロー……モーニン……なんだ、リズか。眠いよ。起こさないでくれる?」
少佐は眉をつり上げた。伯爵の口から女の名前を聞くのは妙な感じがした。
「君の都合なんて知らない……他人の規則に合わせて働いてるのがいけないんだよ。人間の精神は自由なものなんだよ……ああ、もうわかったよ。ちょっと待って、かけ直す」
伯爵は電話をベッドに放り投げ、起き上がって、ガウンをはおり、バスルームへ消えた。いくらか眠気を追い払った顔で戻ってくると、少佐に「おはよう、ダーリン」と情感たっぷりに云ってキスし、電話を取り上げ、枕元に鎮座していたテディベアを抱きしめてベッドに転がった。
「ハロー。君のせいで目が覚めちゃったドリアンだよ。なにかあった? こんな朝早くから電話なんて。十時前は、わたしには夜明け前なんだからね……うん……そりゃあ、身体は空いてるけど……違うよ、ダーリンがいるんだ、話しただろ、彼のこと……まあしょうがない、いいよ。忙しい君のことだから! ノースダウンズまで来られる? カビカビにならないように、たまに空気を入れなくちゃね。うん、アーニーは元気にしてる。なんでも喜ぶよきっと。じゃあ、日曜日にね。待って、ウィスパーにキスしてあげてよ。バイ」
伯爵は電話を放り投げてベッドにうつ伏せになり、腕の中に抱きしめたテディベアの頭を撫でながら、あーあ、と云った。それから起き上がり、また電話を手にとって、どこかへかけはじめた。
「ハロー? ボーナム君? ねえ、ノースダウンズの城だけど。週末にちょっと使うんだよ。アーニーに伝言ゲームしてくれる? リズが一緒。秘密の会議だよ。たぶんトリスのことだと思うけどね。クワバラクワバラ。なにが飛び出してくるんだろうね? じゃあよろしく。戻り? さあ、いつになるかわからない。素敵なひととランデブーしてるから……わかった、わかったよ。え? まさか! ゲランは諦めてないよ、これっぽっちも。来年じゅうに手に入れようね……そう云ってくれるのは君だけだよ。愛してるよ、ボーナム君。バイ」
今度こそ用済みとばかりに電話を放り投げ、伯爵はごろりとベッドに転がった。
「ねえ」
少佐は、ん、と云った。
「君、朝食食べた?」
「いや?」
伯爵は首を曲げ、少佐を見た。
「ちょっと出ない? 外の空気を吸いたい気分なんだ。テムズ川沿いを散歩なんてどう?」
「さっきの電話、姉からなんだ」
伯爵は右手に見えるテムズ川を眺めながら云った。彼がのんびり歩くので、少佐も例のかつかつをやめてゆっくり歩いていた。
「何番目の?」
伯爵に三人も姉がいることは知っていたが、少佐はあまりつっこんだことを訊かずにきた。興味がないというより、いたずらにつつかない方がいいという気配を感じてのことだった。
「二番目。リズとは仲がいいんだ。どっちかっていうと、気質が父の系統だから。すごくわかりあえる。一番上と三番目はぜんぜんだめ。人種が違いすぎる。母方の系統だね。つんとしてて、やな感じだ。一番上の姉はお堅くて、家柄と地位の権化。たいしたお金があるわけでも、権威があるわけでもないのにね。三番目は……あーあ、トリスのこと考えると複雑だ。ある意味で、わたしに似てるんだよ。男が大好きなんだ。すぐぽうっとなって、目を血走らせて追いかけちゃう。似てるけど、ちょっと違うか。わたしは血眼で追っかけたりしないもんな。それに一応選別はしてるつもりだし。でもトリスは、云いよられると弱いんだ。何度だまされてるかわかりゃしない。そのたびに、こっちがこっそりなんとかしてあげてるんだよ。本人知らずに飛んでるけどさ。早い話が、すごくおばかさんなんだ。悪いのに引っかかるのが大好きときてる。結婚詐欺師とか、ひも男とか、他人の財産を狙ってるようなやつ。リズが改まった調子で話があるって電話してくるときは、たいていトリスのこと。きっとまたなにかやらかしたんだ。ここ最近おとなしかったから、油断してた」
少佐は話を聞いていることを示すために、ちょっとうなずいた。
「日曜日、リズがノースダウンまで来ることになった。こういうときにする話って、おおっぴらにできるものじゃないからさ、ひと目を忍ばないといけなくて。君、一緒に来る? 予定は? 愛憎たっぷりの人間関係に興味があるならどうぞ。リズなら平気だよ。わたしのことわかってるし、秘密保持は得意だし。それにもう君のことは話してあるんだ。君に興味津々って感じだった。あんたが好きになるタイプだとは到底思えないんだけど、なにがあったのよ、って云われちゃった。そう云われても困るよね。こればっかりは。ひょっとしたら顔だったかもね、って云っておいた」
少佐は肩をすくめ、そいつはどうも、と云った。
「どういたしまして。じゃあ悪いけど、ついて来てよ。リズが来るときは、みんなを城から出しちゃうから平気。わたしのかわいい、いい子たち、犬猫ネズミ、ノミにダニ、微生物のたぐいまで! しばしさらば、さらば。そしてがらんとした城で、ひそひそ話をはじめるんだ。どうせしまいには大声になるんだけどね。複雑だね、家族って。大嫌いだけど、まるっきり絶縁するわけにいかない。自分と血がつながってるんだって思うだけで、誇らしくなったり、顔も見たくないと思ったり。どこもそうみたいだけど、君のとこもそう?」
少佐は笑った。
「世の中で一番普遍的な現象だろ。親戚にぎゃんぎゃんやっとるのがいるぞ。くだらん理由なんだが、本人たちは大まじめなんだ。おれには血をわけたきょうだいなんてもんがいなくてよかったと思うことがある。自分の性格からいって、どうあってもうまくいきそうにないからな」
「君は妹がいたらかわいがるタイプだと思うな」
伯爵はふいに楽しそうに笑って云った。
「もちろんその妹が、君みたいな性格じゃなければだけど」
伯爵は笑い転げた。少佐は鼻を鳴らした。云ってろ、この野郎。でも伯爵の姉に会うことができるというのは、実のところ少しだけ、楽しみでもあった。伯爵がまともにつきあえるというなら、たぶん、悪い人間ではないだろう。どんな女性なのか? 少佐は彼女がなにをしているひとで、どこに住んでいるのか、訊いてみたかったが、それは日曜日までとっておくことにした。よそさまの家の血みどろのいがみあいには興味がないが、たぶん、ほんとうのところは、自分の姉であれなんであれ伯爵が女性と接する姿に、興味があるのかもしれなかった。あるいは、もしかしたら伯爵と同じ血が流れる女性というものに。これはちょっと危険な関心の示し方だ。伯爵には口が裂けても云えない。でも少佐は、そのぎりぎりの感じを楽しんでみたい気もした。
ロンドンへ来てからこっち、伯爵のいろいろなものが自分の前に開かれている。その人間関係と環境のひろがり、彼の培われてきた過程のようなもの。そこから彼の過去へ思いを馳せるのはたやすいことだった。そしてそれを愛することも。少佐は、知らないことを知るということは、なんとも楽しく、すばらしいことなのだと思うのだった。人間はそうやって、誰かひとりのことをつきつめ、探求し、知り尽くすことができるだろうか? たぶん、できないだろう。六十年も連れ添っている夫婦でも、おそらく、相手を知り尽くした、と思う瞬間は訪れたことがないに違いない。自分のことですら、よくわからないままに終わるのが人生だ。それが他人のこととなってはなおさらだろう。そしておそらくはだからこそ、興味は尽きず、そしてこの相手に対する興味が潰えぬ限り、ひとはどうにかしてそのひととの関係を保ち続けることができるのではないだろうか。
ふと横を見ると、伯爵がいなかった。少佐はあわてて振り返った。伯爵は、数メートル手前で立ち止まり、テムズ川を優雅に進んでゆく客船を見ていた。巻き毛をそっと風に揺すられながら立ち尽くす、どこか物憂げなその顔は実に美しかった。少佐はふいに、これが自分のものなのだ、と思った。この存在が、そのすべてが、いまや自分の人生の中に入りこんできて、その歯車の横でゆっくりと回転している。その不思議な調和は、自分の中に確かにある。確かに、そこで脈打っている。彼が自分の城を訪れたあの日から、まったくふいに。それがいつの間にかしっかりとここにおさまり、息をしている。
ふたり組の男がやってきて、にこやかに笑いながら伯爵に声をかけた。どこかへ誘っているらしかった。ふたりとも決して悪い顔ではなかったが、伯爵は慣れた様子で愛想笑いをし、それから首を振り、どこか誇らしげな顔で、少佐の方へまっすぐに歩いてきた。少佐は彼が自分のところへやってくるのを、同じくらい誇らしげな顔つきで待った。伯爵がやってきた。これ見よがしに腕を回したりなにかしたりはしなかったが、少佐は自分のまわりの空気で、彼をそっと包みこんだ。それはすぐに相手に伝わった。伯爵は顔をほころばせ、軽やかに歩きだした。少佐も歩きだした。
午後にはまたホワイトホールへ行かなければならないのだが、少佐はそうしたくなかった。伯爵は少佐の時間をしきりと気にした。そして、今日はもう少し早く戻ってもらわねば困ること、でなければ、本気の「お友だち」を召還すること、などを少しくどくど云った。少佐はわかったわかった、と云った。それからふいに訊きたくなった……グローリア伯爵の中にも、エーベルバッハ少佐はこんなふうに深く絡みつき、食いこんでいるのか、と。でもそれは愚問だった。愚問の上にも愚問だったが、どうしても本人の口から答えを聞いてみたいような気がした。少佐は、床の上ででもやるべきか、と考えた。下からスタートなさいまし、と伯爵の愛するジョン・ダンも云っている……彼があんまりその男の詩を持ち出すので、いまでは少佐もそらで覚えてしまった。
少佐が考えごとをしているあいだに、どうやらエーベルバッハ少佐は今日の夜八時までに仕事を終えないと破滅することに話が決まっていた。少佐は善処する、と云った。善処する代わりに得られるものは? 彼の唇、彼の愛。まあ、悪くはなかった。昔から男が本気を出すのは、そういうものをちらつかされたとき、と相場が決まっている。少佐も要するに、そういう凡庸な男のひとりなのだった。
「誓いますか?」
伯爵が立ち止まり、少し仰々しい、高慢な調子で云った。少佐は神妙に胸に手を当て、頭を下げて云った。
「誓います」
伯爵は満足そうにうなずき、少佐は笑いだした。今度の日曜に会う予定の彼の姉に、なにかちょっとした贈り物でもしようと思った。