3 七月二十五日の話

 

 そうしたある日の午後……正確には七月二十五日の午後だったが……ひとりの男がドゥブロヴニク湾へあらわれた。男は長身で、鍛えられた身体つきをしていた。麻の涼しげな白シャツと紺色のズボンを着て、左手には相当に年季の入ったトランクをぶら下げていた。このような陽気の中ではいささか暑苦しい黒髪を頭の後ろでひとつにしばっており、日差しから目を守るためにサングラスをしていた。
 この男のうしろに、影のようにつきしたがうひとりの男があった。暑苦しいお仕着せを着て、やや時代錯誤なりっぱな八の字ひげをもち、悲しくもときの流れによってうしなわれた頭髪を、長く伸ばした側面の毛をなであげることによってどうにかととのえている。この男は、前を歩く男の従僕だった。それは誰の目にもあきらかだった。というのも、彼はあきらかにそういう服装であったし、そういう態度であったし、そういう行動をとったからである。この従僕は軽々と大きなトランクを抱えて、前を歩く主人に決して後れをとらず、非常に厳格に一定の距離を保ってつきしたがっていた。従僕はときおりポケットから白いハンカチを出して額の汗を拭い、そのたびに、さも前を歩く主人の額の汗も拭ってさしあげたいと云わんばかりの顔で、おのが主人を見やるのであった。
 従僕とその主人とは規則正しい足取りでやってきて、港の船着き場で立ち止まった。海は青々として、大理石の港は白く、太陽は陽気に仕事をしており、正しく夏の海辺だった。主人はそういうものにいっさいかまわずあたりを見回した。そうして、一艘の小型のクルーザーに目を留めた。彼はそれに見覚えがあった。正確には、クルーザーの前でひまそうにしている、黒スーツにサングラスという港に調和しないかっこうをした男に見覚えがあった。そのあたりには、同じようなかっこうの男たちに守られたクルーザーやボートが、まだいくつもあった。
 黒髪男は従僕をそこへ静止させて、果敢にクルーザーへ近づいていった。クルーザーの前に立っていた男が気がついて、ぎょっとした顔をした。そうしてあわや逃げ去るかというところまでいったが、思いとどまったらしかった。スーツの男はかちこちになって、不器用にやってきた男に笑いかけた。
「やあ、こいつはどうも……お久しぶりで、大将」
 彼がおどおどとそう云うと、あたりにいたスーツたちが周りを取り囲むように近づいてきて、ぴんと背筋をのばし、「お久しぶりです、大将!」とやった。こんな美しいエメラルドグリーンの海を目の前にした港で、スーツの目障りな男たちがいっせいに声をそろえると、かなり不気味だった。
「少佐だ」
 男はいやそうに顔をしかめて訂正した。スーツの男たちは「少佐!」と訂正して叫びなおした。少佐に話しかけられた男は、へつらうような態度で曖昧な笑みを浮かべた。この男は以前に、この少佐によってちょっと痛めつけられたことがあったのだ。ボスの屋敷へなんとしても進入しようとしたこの少佐によって。少佐は真剣で、いまにも自分の頭をぶち抜きかねなかった……実に涼しい顔で。思い出しても身震いがする!
「こいつは、きみんとこのボスの持ち物かね?」
 少佐はクルーザーを、サングラス越しに検査でもするように眺めながら訊ねた。男はちょっと縮みあがって、へえ、さようで、と云った。
「相変わらずくだらんことに金をかけとるな」
 男はどう応えたものかわからなかった。それで、はあ、と曖昧に云った。
「ちょっとこいつを借りてもいいかね? それとも、今後すぐにでも使う用事があるかね?」
「いえ、まあ、その、借りていただくぶんには問題ないんでございますが……」
 男は助けを求めて周りにいた仲間たちに視線を向けた。一番ものわかりのよさそうなスーツが一歩進み出てきた。
「島へ移動なさるんで?」
「のつもりなんだが、場所を知らんのだ。誰か連れて行ってくれんかね?」
 男はちょっと考えこんだ。
「伯爵でしたら、今日はちょっと足を延ばして、何人かといっしょにヘルツェグ・ノヴィへ遊びに行ってるんですがね。夕方にはここへ戻ると思いますが」
 少佐は肩をすくめ、今日はせっせと飛行機で移動してきたのだから、このうえモンテネグロまで出張する気はない、と云った。ドゥブロヴニクと隣国モンテネグロの港町ヘルツェグ・ノヴィは、距離にして三十キロ程度しか離れていなかったが、国境での混雑も含めて結構な移動時間になるのは避けられない。
「おれはいま喉がかわいとるんだ。涼しい室内でビールが飲みたくてしようがないんだ」
 ものわかりのよさそうな男は、ものわかりよくうなずいた。そうして、自分が担当しているボートへ少佐を案内した。少佐は従僕を促した。それまで主人の命に従って直立不動を貫いていた従僕は、重たそうなトランクを持ち上げて主人のもとへ駆け寄った。
「おたくのボスは、このボートやらクルーザーやら一式を、みんなイタリアから引っ張ってきたのかね?」
 ものめずらしそうにボートを見回しながら少佐は云った。
「なかなか大変な労働でした」
 男はものわかりよくうなずいて云った。
「だろうな」
 少佐もまたものわかりよくうなずいた。
「気をつけてくださいよ。いまエンジンかけますから」
 少佐は席へ座り、従僕を後ろに座るように促した。従僕はいささか不安げな顔をして、おっかなびっくり腰を下ろした。少佐はそれを見届け、そうしてなにげなく目の前にあったダッシュボードを開けた。地図といっしょに手榴弾や縄、ライフルが入っていた。少佐はものわかりよくうなずいて、ダッシュボードを閉めた。
「念のための装備ってやつでしてね」
 男は云った。少佐はそうだろうとものわかりよく云った。たぶん、それであわれな海上保安担当の役人かなんか、しめあげたのだろう!

 

 白亜のホテルは島のど真ん中に神殿のごとくにそびえ立っており、なかなか盛大な感じを与えた。島を囲む海と、円柱を配した白亜の建物との対比は、正しく明晰で明確でギリシア的であった。そもそもドゥブロヴニクの街周辺は、海にしか興味のなかった古代ギリシアのひとたちが、その立地を見込んでせっせと植民活動をして、その礎を築いたところなのだ。その後ローマ帝国が本格的な要塞都市として街の建設に着手し、ラグシウムという都市を作り上げた。遠くギリシア・ローマの伝統を、このホテルは正しく体現しているわけだった。
 ホテルの前庭には人工の池と噴水が設置されていて、清らかな水を常時噴き上げていた。色とりどりの花が夢のように咲き誇っていた。大きく開かれた玄関の前には門番が立っていて、少佐とその従僕とをじろりとひとにらみしてよこしたが、その後ろにくっついてきたスーツ姿の男を見てにらみをきかすのをやめ、また無表情に戻ってはるか前方を見やった。
 エントランスは広かった。ぴかぴかに磨かれた滑って転びそうな床の先にレセプションのカウンターがある。左右にはバーとレストランがしつらえられてある。いずれもオープンテラスの席つきで、海を眺めながらゆったり酒を飲んだり食事をしたりできるのだ。
 少佐は従僕をしたがえ、カウンターへ突進していった。カウンターの中にはうるわしい金髪の美青年がひとり立っていて、少佐ににこやかに、かなり含みのある、軽薄そうな笑みを向けてきた。少佐は含むところへ気づかないふりをするのにちょっと苦労した。
「こちらの方を、伯爵のお部屋へご案内してさしあげろ」
 スーツの暑苦しい男が云って、いかにもものわかりよくせよとばかりにちょっとすごんでみせた。美青年はしかしびくともしなかった。相変わらず陶然と微笑んで、少佐を上から下までねっとりと見つめ、そのまま目を逸らさずにベルを鳴らしてボーイを呼んだ。やってきたボーイはどうやら普通の男らしかった……がっしりした若い男で、彼はきびきびと少佐のトランクを引き受け、続いて従僕のものを引き受けようとしたが、彼は譲らなかった。ボーイはすぐにあきらめて、最上階へ案内すべく、エレベーターへ向かっていった。少佐と従僕はついていった。スーツ姿のボロボロンテの手下も従った。四人はエレベーターへ乗りこむと、誰からともなくため息をついた。
「あの受付坊やは、今回の主催の男の愛人なんだそうで」
 手下がげんなりしたように云った。
「どうしても受付するんだってんできかなかったらしいですよ。ろくすっぽ働いたこともないらしいですが。思うんですがねえ、あいつぁ少し、足りないですね」
 手下は自分のおつむを指先で示した。
「あの目はなんとかならないもんなんですか?」
 ボーイが半ば怒ったような声で云った。彼は今回の主催の使用人のひとりであったが、性的嗜好はごくノーマルだった。彼はこのホテルで目下とりおこなわれている狂態に関し、常識的な男として、もはや我慢の限界を感じていた。
「そいつは難しいだろう。あの坊やは、男と見るやあの目をしちまうという反射神経があるのに違いない」
 少佐がものわかりよく云った。従僕は悲しげな顔で黙っていた。男たちはふたたびため息をついた。エレベーターが最上階について、ぽーんという軽やかな音を鳴らした。男たちはぞろぞろ出てきて、敷物がふかふかしすぎて物音もたてない廊下を歩き、洗練された木目のドアの前で立ち止まった。ボーイがカードキーを取り出し、しばし迷ってから少佐へ渡した。少佐はためらいなく部屋を開けた……中はかなりきれいだった! 下着が散乱しているとか、ガウンが脱ぎ散らかされているとかいうことなしに!
 実際、部屋はよく手入れされていた。伯爵という手のかかる人間が住んでいることを考えれば、これは驚くべきことだった。左手に靴棚が置かれた短い廊下を抜けると、ソファとテーブル、テレビ、書き物机が置かれたリビングだった。正面の壁一面が窓で、広いテラスにも出られるようになっていた。ボーイはきびきびと歩いていって荷物を置いた。少佐は彼に礼を云ってチップを渡した。従僕がさっそく縄張りを巡回するようにうろつきだした。ボロボロンテの手下は物珍しそうに部屋の中を見回していた。
「きみたち港にいた連中は、いったいどこで生活してるのかね?」
 少佐は興味を持ってたずねた。
「労働者部屋ですよ」
 手下はにやりと笑った。
「ホテルの地下に、労働者諸君が寝泊まりする場所があるもんでしてね。われわれは宿泊者諸兄のために、島とドゥブロヴニク湾を往復してるわけですが、その宿泊者諸兄が全員島へ戻ると仕事じまいなんで、休むことが許されるわけですなあ。ビールかワインの一杯と、まかない料理があてがわれてね……」
 手下はにやにやと陰気に笑い、ボーイといっしょに出て行った。少佐はマルクス主義によってもとうとうくつがえされなかった世の労働格差というものが、いずこにも及んでいることについてしばし考えを巡らし、それから部屋の検品に取りかかった。
 広いリビングの左手に寝室へ通じるドアがあった。少佐はそこへ入っていった。鏡台と長大なベッド、小さなソファとテーブルのセット、などが配置されており、こちらもまた大きく窓が取られ、美しいアドリア海を見渡せるようになっていた。少佐はバスルームに通じるドアとクローゼットへのドアとを確認して、まずはいつもの盗聴器並びに隠しカメラ一式についての警戒儀式を行った。これは習慣であって、信頼の問題ではない。
 執事のコンラート・ヒンケルが近づいてきた。
「ご主人さま、お荷物はすべておさめるべきところへおさめましてございます。許可をいただけましたら、わたくしはこれからあの受付へ行って、使用人用の部屋を一室借りて参りたいと存じます。状況によっては、しばらく時間がかかるかもしれません」
 少佐はまじまじと執事を見た。彼はきわめて沈着だった。彼は微動だにしていなかった。こんなところへ同行するように命じられ、こんな得体の知れない建物へ放りこまれてなお、この驚嘆すべき執事のヒンケルは、おのが職務を全うすることに全力を捧げていた。
「この部屋の手入れはどうだ? おまえの感想は?」
 少佐はにやにや笑いながら訊ねた。少佐は先ほど執事が、もうなにか難しい顔をして洗面台を磨いていたのを見ていた。執事は案の定眉間へひとつしわを刻んだ。少佐は促した。
「僭越ながら申し上げますと、非常に表面的かと存じます」
 執事は苦しげに云った。少佐はうなずいた。
「このような大がかりな宿泊施設になりますと、やむを得ないことでございますが。しかし、このわたくしが参りましたからには、そのような勤務態度をこの部屋へ適応することは、断固許すわけに参りません。わたくしはその点これから交渉するつもりでおります。この部屋はいまを限りにわたくしの責任によって管理できるよう、交渉して参ります」
 執事はこれから敵陣へ撃って出ようという勇将のような、戦闘的な猛々しい顔つきをしていた。少佐はうなずいて、彼の軍事作戦を決行することを許可した。
「お部屋でくつろがれるのでしたら、寝室のテーブルの上にお着替えを出してございます。バーへ行かれるのにお召し替えが必要でしたら、クローゼットの一番右へひとそろいかけておきましたので、そちらをお使いくださいませ。お靴はその下に置いてございます」
 執事はいつでも完璧だった! 完璧な、神のごとき執事はこのような神託を残して部屋を出ていった。少佐はしばし考えこみ、それから微笑して、せっかくの執事のまごころを無視して着替えもせずにベッドに転がった。こんな大きなベッドでひとり寝していたのでは、伯爵もさぞさびしかったろうと思われた。少佐はにやにや笑った。しばらくしてから、彼は起き上がって、シャワーを浴びた。それからおのれの猛烈なのどの渇きのことを思い出して、部屋を出て一階へ降りていった。
 あたりに執事の姿はなかった。少佐はしかしあまり気にせずに、いさましくバーへ進軍していった。バーの中には数人先客がいた。皆伯爵さまのお友だちで、あちこちのテーブルでグループを作って、あるいはひとりで、なにか飲みながら話したり本を読んだりしていた。伯爵さまのお友だちは、皆が皆伯爵さまといっしょにお出かけできるほど若いのでも、行動力があるのでもない……たいていの連中は年を取りつつあり、そのことを自覚しており、伯爵といっしょになってなにかするよりも離れて見守っているほうがいいのだった。バーに引っかかっている連中は、入ってきた少佐を見たが、すぐに見なかったふりをした。少佐と彼らの関係はおしなべて微妙であって、少佐は相手が誰でもぜんぜん気にしないでいる態度を貫いていたし、向こうは向こうで少佐にどう接したらいいのか永久にわからないので触らぬほうがよいという感じだった。
 カウンターの中で五十がらみのバーテンがひまそうにグラスを磨いていた。少佐はカウンターへ座った。そうしてもみ手をしながら、さあおれの乾ききった喉へビールを与えてくれ、と云った。バーテンは瞬時おどろいた。毎晩とんでもない値段のブランデーだのシャンパンだのといった連中とばかりつきあっていたので、ビールを注文するような客が来ようとは思わなかったのだ。バーテンはうれしかった。彼は高級酒よりはだんぜん安酒とビールを愛する人間だった。彼はよろこび、はつらつとして客の注文にしたがった。

 

 伯爵さまは夕方になって、取り巻きのお友だちとともに島へ帰港した。彼は今日は、ドゥブロヴニクの隣町、モンテネグロの最西端にあるヘルツェグ・ノヴィあたりへ出張して、ビーチを冷やかしたり、教会を見て回ったり、カフェでくつろいだりするつもりだった。観光シーズンで、町はにぎわっていた。ビーチにはごろごろしているひとたちがたくさんいた。歩き回っている途中でそれを見ると、伯爵さまはふいにここにいるのがいやになった。バカンスシーズンになると一斉に町へ押し寄せ、地元住民の安静をおびやかすひとたち。伯爵さまは自分がそういったいち観光客になることに、なにか非常に深い疑問を感じてしまったのだった。そこで、彼は早々に町を出て、このあたりの沿岸に浮かぶ小さな島々を見て回ることにしたのだった。
 島のほとんどはごく小さく、無人島だった。いくつかの島にはひとが住んでいないにもかかわらず修道院があった。荒れ果てた無人島にも、十二、三世紀のころに建てられた小さな、素朴な修道院が残っていることに伯爵は感動した。修道院の中は通常立ち入り禁止のところもあったが、お友だちの口添えがあったので伯爵さまご一行は特別に内覧を許されていた。中には感動的な、いかにも木訥な壁画があった。聖人や天使やキリストやマリアの描写は丁寧で、素朴で敬虔だった。たぶん地元の画家か、このあたりでちょっとは名のしれた職人がこさえたのだろう。伯爵さまは壁画と対面し、悠久のときの流れと、中世人の信仰の強さと、そうしたものがもたらす無上の幸福や美についてうっとりと考え、満足して、ほこりっぽい、なにか冷え冷えとした建物をあとにするのだった。
 伯爵さまはうっとりしたままホテルへ戻った。受付坊やの美青年は、伯爵へ格別ねちっこい視線をひとつくれてよこした。伯爵はしかし、もうそれに慣れていた。この美青年のもののみならず、伯爵はこの手の視線にはめったに動じることがなかった。で、彼は軽く受け流して微笑を返し、今日はなにかおもしろいことはなかったの、といつものように訊ねた。美しい金髪青年は、美しさを無遠慮な武器にできる人間だけが持ちうるような、不遜で高慢な感じを隠そうともせずに、バーにお客さまが見えてるみたいですよ、と云った。それからやや挑発的な目つきをして、すねてるんだから、というようにそっぽを向いた。この青年の頭の中では、伯爵はもうとっくに自分を欲してもいいはずなのだった。彼はそのことを、自分が権力者の愛人だからだというふうに解釈していた。触らぬ神にたたりなし! しかしそれもまた、青年をなにか非常に満足させる側面を持っていた。伯爵さまは笑って、この尊大な青年に礼を云って投げキスをひとつすると、バーに入っていった。
「客って、いったい誰なんだい?」
 伯爵をいつも取り巻いている、これまたうるわしい青年のひとりが受付坊やへ訊いた。
「知らないよ……黒髪のけっこうハンサムさ」
 受付坊やは好奇心を隠さずに云った。それから受付坊やを含めた数人の美しい青年たちは、自分たちが今夜いったいどう過ごすかというようなことについて議論をはじめた。彼らは彼らで、よろしく好きにやっているのだった。
 伯爵さまがバーへなぐりこむと、カウンターで少佐がすっかりくつろいでいた。彼はバーテンといちじるしい親愛の情を交換したかに見えた。少佐は機嫌よく笑って、バーテンのおもしろおかしい話でも聞いているらしかった。彼は巨大なビールのジョッキを目の前に置いていた。
 伯爵さまは後ろからそっと歩み寄った。そろそろと少佐の真後ろへ進んで、それから急に両手を出して少佐の目元を覆った。
「お客さま、夕方からそのように巨大なジョッキでビールを飲むとは、少したしなみがないのじゃございませんか?」
 云いながら伯爵はくすくす笑った。少佐はふん、と鼻を鳴らした。
「夕方からじゃない、昼からだ」
 伯爵さまはゆっくり手をおろした。そうして少佐の顎に手をかけて上を向かせた。
「酔っぱらってはないね!」
 伯爵さまはとっくりと少佐の顔を眺めてから、高慢ちきに云いはなった。
「ビールはアルコール飲料じゃないからな。酔うわけがないんだ。これは純粋な飲料だ」
 少佐は微笑した。
「暑さと喉の乾きにはこいつが一番きくんだ」
「ばかなこと云ってるよ、このドイツ人は」
 伯爵さまはそう云って、少佐の首ったまにすがりついた。バーテンはあわてて腰を屈めて、カウンターの下にある氷の入った容器をがらがらやった。
「来てくれたんだねえ、きみは!」
 伯爵さまはうれしさをつとめて隠さずに云った。
「そんならそうと、せめて昨日のうちか、今日の朝にでも連絡をくれればよかったんだよ。そうしたら、こんなとこで半日飲んだくれなくてすんだのに。わたしといっしょに無人島を探索できたんだよ! 無人島の中にある修道院とね」
「モンテネグロに出張したんじゃなかったのかね?」
「したことはしたよ。だけど、あんまり観光客ばかり多くて、いやんなっちゃった。それに結局、あの町は浜辺でごろごろする以外に特にこれといったものがないんだもの」
 少佐はそうかと云った。
「そういえばきみは、よくここへ来れたねえ! どんな手を使ったのさ?」
 少佐はボロボロンテの手下のひとりと遭遇し、ボートで運搬されてきたことを語った。伯爵は笑って、あとでボロボロンテさんにお礼を云わなくっちゃ、と云った。それから少佐の腕をとって、いっしょに飲むためにカクテルを注文した。

 

 彼らは食事のためにいったん着替える必要があった。部屋へ行ってみると、執事がドアの前で待っていた。伯爵さまは目を見開いた!
「コンラート!」
 伯爵さまは執事に駆け寄っていって飛びついた。
「どうしたの! いったいきみは、こんなところで油を売っていていいの? きみのご主人がきみを拉致したの? それともきみの職場がきみを放り出したの?」
「そのいずれにも該当しないかと存じます、伯爵さま」
 執事は寛大な微笑を浮かべて云った。それから、しゃっちょこばって伯爵さまへ挨拶した。伯爵さまはいつものように、執事を抱きしめ、髪の毛にとぼしくなった頭頂部へ頬ずりをして、親愛の情を表現した。
「きみが来てくれてうれしいよ、わたしは。だって、きみがいるってことは、わたしが好きなだけきみに用事を云いつけることができるってことだもの」
「そのようにしていただきますことは、わたくしにとりましても光栄でございます」
 執事は伯爵さまの腕の中で赤くなっていたが、かろうじてしゃきっとして威厳を保っていた。少佐はにやにや笑ったが、すぐに主人の立場を思い出して、執事にいったい作戦の首尾はどうだったかと訊ねた。
「はい、上々でございます。まず、わたくしめはこの階に自分の部屋をひとつ確保いたしました」
 少佐は眉をつり上げた。
「なに? この階にか? まさかうちのとなりじゃあるまいな?」
「いえ、めっそうもございません。客室ではございません。物置がございまして、交渉の結果改装する許可を得ました」
 少佐と伯爵は顔を見合わせた。
「それはひとつ見てみなくちゃならないと思うな!」
 伯爵さまが云った。少佐はうなずいて、執事に案内を命じた。
 執事は廊下をつっきって、従業員以外立ち入り禁止と書いてあるドアを開けた。廊下と階段があり、従業員用エレベーターと、ドアがいくつか並んでいた。トイレマークのあるドア、リネン室とやら、物置……執事は右端のドアを開けた。中は物置だった……少なくとも、数時間前までは。いまは天井からぶら下がったランプに照らされた細長い小さな部屋に、簡易ベッドがひとつと、小さなテーブルがひとつ、それに、更衣室にあるような細長いロッカーがひとつ置かれていた。部屋の右隅にバケツの水をくんだりするような洗面台がぽつんとあり、その上に小さな窓が開いていた。テーブルの横に執事のトランクが置いてあった。
「これがおまえの穴ぐらか?」
 少佐が疑り深い声で云った。
「僭越ながら申し上げますが、この建物にはいささか空間的な無駄が多いように感じられます」
 執事は残念そうに云った。
「おかげで、このような部屋をひとつ手に入れたのでございますが」
「お風呂はどうするの?」
 伯爵さまが心配そうに云った。
「三階に、使用人用のシャワー室がございます。階段を使うか、従業員用エレベーターで行き来すれば、皆さまの目に入ることもございません。お気遣いおそれいります」
「ここは殺風景すぎるよ」
 伯爵さまが怒ったように云った。
「これは部屋じゃないよ! 壁に絵のひとつもかかってないし、花瓶のひとつもないなんて」
「わたくしは満足でございますが」
 執事はやや恐縮して云った。
「まあいい。装飾の問題はあとあと解決するとして、とりあえずおまえが寝床を確保したことはわかった」
 執事はふたたび「恐れ入ります」と云った。
「きみに用があるときはどうするの? 受付へ電話して、わたしの使用人を呼んでくれと云うの?」
 執事は実に痛ましいといわんばかりの顔になった。
「その件に関しまして、わたくしはいささか残念なお知らせを申し上げなくてはなりません」
 執事はポケットから四角くて薄いものをふたつ取り出した。
「これはレストランの厨房で従業員が使用しているバイブレーターなるものだそうでございます」
 執事は同じような大きさの、黒くて四角い板のような機械をふたりへ示しながら云った。
「ご主人さまか伯爵さまがこちらの機械についている、この赤いボタンを押しますと」
 執事は云いながら片方の板の真ん中についた赤いぽっちを押した。するともう片方の板っきれが震えだした。執事は微笑した。
「このように、もう一方の機械が震える仕組みになっております。わたくしはこちらの震えるほうを常に携帯いたしますので、ご用の際には、このように赤いボタンを押してくださいませ。すぐに参ります。このような方法しか取れず、まことに申し訳ございません。しかし、受付に立っております男が、まるで使いものにならないのでございまして。そのほかは悪くないようでございますが、それだけが、たいへんに遺憾でございます」
 少佐と伯爵は顔を見合わせた。
「あまり好ましいやりかたとは思えないよ」
 伯爵さまが云った。
「きみをレストランの注文かなにかみたいに機械で呼び出すなんて……」
「はい、その点はいささか過剰に文明的で非人道的でございまして、わたくしといたしましてもたいへん遺憾なのでございますが、これよりほかにいい手がないのでございます。あの受付の軽薄な男をどうにかするよう抗議しようかとも思いましたが、あまりことを荒立ててはと……」
「それが正解だな」
 少佐は笑いながら云った。
「おまえの基準は、当節ありえないほどに厳格だからな。あまりあちこち首をつっこむと、煙たがられて追い出されかねん」
 執事はぐっと顎を突き出し、瞬時挑むような顔になった。
「それは存じております。しかし、おことばではございますが、わたくしは少なくともご主人さまへの同行を許された身として、ご主人さまと伯爵さまがここへお泊まりのあいだは、わたくしの基準というものを曲げるわけにまいりません。及ばずながら、最善をつくす所存でございます」
 いったい誰が、このおそるべきコンラート・ヒンケルの基準というものをくつがえせるものか? 少佐は肩をすくめて、好きにしろと云った。それから少佐は夕食の着替えのことを思い出して、伯爵さまに急ぐように云った……彼の着替えは手間がかかる。執事は伯爵さまのお着替えを手伝うべく、ふたりのあとをしずしずとついていった。

 

 主催の食事前のスピーチは退屈だった。彼は極度のスピーチ魔だったのだ! それが彼の唯一の目立った欠点だった。みんな連日これをやられていささかうんざりしていた。長々としたやつが終わるとやっと食事になった。伯爵さまと少佐の席では、執事のヒンケルがレストランの従業員にかわって給仕をした。彼の給仕はふるっていた! 彼はずば抜けて手慣れていた。彼の料理を運ぶタイミングはほかのテーブルとぜんぜん違った。主に伯爵さまが食べ終え、その余韻が消え会話が切り替わるタイミングを見計らって次の料理が出された。執事は伯爵さまのグラスへ注ぐワインの量も心得ていたし、主人が飲むものとその量も心得ていた。執事は暑苦しいお仕着せを着て、それだけでも抜群に目立っていたのに、給仕のあいだはぜんぜん存在感を感じさせなかった。伯爵さまがときおり給仕のあいまに「そうだろう、コンラート?」と云うと、まるでこれまでの会話を全部聞いていたかのような返事をした。
「いい使用人だ。おれならあれに年間二十万ユーロは惜しくない」
 とこれを見ていたあるお友だちが云った。
「二十万ユーロで彼が動くだろうか?」
 同じテーブルについていた別のお友だちがいぶかしげに云った。
「動かんだろうね」
 と最初のお友だちが云った。
「三十万だって、百万だって動くまい。ああいう旧家の使用人というものは、金のために働いているんじゃないからね」
「まったくだ、いい執事だ。いったいどうしつけたのか知りたいよ」
 周りにいたお友だちがみんないっせいにうなずいた。

 

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