オーマ・シャルロッテの真珠
1 オーマの話
「おい執事、うちのあの、三十年だか四十年だか前の、一族郎党集まったときの写真はどこにある?」
コンラート・ヒンケルは図書室の棚の埃を丁寧に払っているところだった。彼はすぐに顔を上げて、主人の顔を見やると、ほとんど考える間もなく即答した。
「はい、あれはアルバムにはさみまして、ちょうどこのお部屋の棚に、ほかの写真などと一緒にしまってございますが。すぐにご入用でございますか?」
少佐は首を振った。
「いや、いますぐというわけじゃあないが、あいつがこないだ自分の一族の写真を見せたからには、今度はおれのとこのを見せろとうるさいんだ。おれは別に見せて欲しいと頼んだつもりはないんだが」
執事はものわかりよくうなずいた。
「さようでございますか。そのような伯爵さまのご要望でしたら、適当な写真をいくつか見つくろってコピーをご用意いたしましょうか? なにしろ非常に古いものもございますので、持ち歩きは少々危険かと存じます」
少佐はしばし考えていたが、うなずいた。
「そうしてくれ。それから、うちのご先祖の肖像画が一覧になったのはあったかね」
「はい、ございます。あなたさまがまだお生まれになる前でございますが、あなたさまの大叔父に当たります方が自費出版なさいましたものがございます。その前にも何度かそのような試みがありましたが、これが一番新しくて詳しゅうございます。家系図もついておりますので、参照が容易になっております」
「そうか。じゃそいつも引っ張りだしておいてくれ」
「ここにございますよ」
執事は微笑して、本棚のひとつから、がっしりした分厚い革張りの本を取り出した。
「ご所望の写真の入ったアルバムもこちらに」
執事は図書室をなれた様子で行き来して、また別の棚から革の大きなアルバムを取り出した。少佐が近づいてきて、興味深げにそれらを見やった。
「おれが仕事にかまけて家系図だの一族の歴史だのいうのに見向きもしないんで、おやじはずいぶん腹を立てとるだろうな。おれに云わせりゃあそんなものは、老後の趣味で十分だ」
執事は答える代わりに曖昧に微笑した。そうして念のため手袋をはめてから、アルバムを開いた。
それは大判の写真を入れておく特別なアルバムだった。この百年ほどの、まだ写真といえば白黒だったころからのものが各ページに一枚ずつ丁寧に貼られている。それぞれに、それぞれの味のある家族写真や集合写真が収まっている。一家のもの、子どもたちだけのもの、おそらくきょうだいどうしのもの……単に物珍しいという気持ちからページを繰っていたらしい主人の手が、ある写真のところで止まった。
「あなたさまのおばあさまでございますね」
少佐の祖母、オーマ・シャルロッテが着飾って、白黒で立っていた。三十代だろうか。背が高く、痩せぎすで、もうすっかり腹の据わった女主人の顔をしている。きびしく、射るような目をしており、口元には微笑の片鱗すらない。美しい流線型の眉と、すっと通った鼻筋が印象的ではあるが、お世辞にも美人だなどとは云えない、身体と同じでなにかぎすぎすした、絞りこんだような顔立ちである。
少佐はしばらく黙ってその写真を見ていた。執事はじっと主人の次の行動を待った。
「このばあさんの耳飾りと首飾りは、どこにあるんだったかね」
少佐はオーマ・シャルロッテの写真を指差して云った。彼女は実家に代々伝わるという非常に大ぶりな、涙型の素晴らしい真珠を使った耳飾りと、そろいの二連になったこれまたすばらしい真珠の首飾りをつけていた。二連の真珠の輪の下に、繊細な金細工にはめこまれたエメラルドがぶら下がり、その下へさらにこれまた大きな真珠があしらわれている。
「はい、本物のほうは、当家のもっとも高価な宝飾品と同じく貸し金庫へ預けてございます」
「おやじの名義のやつか?」
少佐は顎をさすりながら訊ねた。
「いえ、エーベルバッハ家の金庫でございます」
「ということは、おれが開けられるわけか。おやじに頼まんでも」
「はい、もちろんでございます。ご興味がおありになりますので?」
少佐は意味深な微笑をひとつくれてよこして、さあ、どうだかな、と云った。
「まがいのほうでしたら、まだ大奥さまのお部屋に置いてございますよ」
執事は主人の微笑になにかを読みとったらしく、すぐにそう云った。主人は眉をつり上げて反応をしめした。
「そうなのか?」
「はい、大奥さまはよくあの真珠をお召しになりましたが、重要な席でもないかぎりは、まがいもののほうをお使いでございました」
「それは聞いとる。一緒に預けてあるかと思っとった」
「いえ、そこまでは。まがいでございますから。ご覧になりますか?」
主人がうなずいた。執事は先だって図書室を出、二階へ上がっていった。足取りからは、彼がこの広い屋敷じゅうをくまなく知り尽くしていることが容易にわかった。少佐は子どものころ、よくこの男へ自分の屋敷のことについて質問を浴びせかけたのを思い出した。まだ幼い少年が一度足を踏み入れた部屋をすべて覚えておくには、この屋敷は広すぎ、部屋がありすぎ、廊下が長すぎた。執事見習いヒンケルは、クラウス少年のつたない部屋の内装の説明や、置物の外観の描写からすぐさま目当ての部屋をつきとめ、丁寧に説明しながらいっしょに向かったものだ。
「ようございますか、ぼっちゃま、この絵を目印になさいませ」
とヒンケルはたとえば廊下の壁にかかった風景画や静物画を示した。
「この絵から数えまして三つ先のドアでございます。これが一、これが二、これが三つ目……さあ着きました」
執事がドアを開けると……そのドアは特にほかのドアとの目立った違いがなく、目印がないにもかかわらず……その先はきっと目的の部屋なのだった。クラウス少年はいつもこの執事の瞠目すべき業に感心して、彼をたのもしそうに見上げるのだった。
「わたくしがこのお屋敷へ奉公に上がったとき、一番最初に苦労したのがこのお部屋を覚えることでございました。ヒンケルはもうおとなでございましたが、部屋のひとつひとつをちゃんと覚えるのに、まあ二年はかかりましたでしょうか。よく迷子になったものでございます。ぼっちゃまがわからないのも無理はございませんよ」
彼はそう云って、少年をなぐさめてくれた。
「ヒンケルも部屋がどこだかわからないときがあったの?」
クラウス少年はびっくりして、この頼りになる従僕を見上げた。
「ございましたとも。そのことでわたくしはよく間違いをやらかして、執事や、あなたさまのおばあさまに、よくよくしかられたものでございます。あなたさまのおばあさまのおしかりは、それはそれはきつうございましたが、おかげでわたくしは賢くなりました」
ヒンケルは、「あなたさまのおばあさま」のことを語るときにはいつも、クラウス少年にわからない不思議な笑みをうかべていた。クラウス少年はその「おばあさま」についてはよく知らなかった。彼女は少年が生まれたときにはもうこの世のひとでなかった。うわさでは、きびしくておっかなくて近寄り難い存在だったらしいのに、ヒンケルのその笑みはなにか非常に柔らかいものを含んでいた。それがクラウス少年には不思議だった。
いまはもう使われていないオーマ・シャルロッテの部屋は、南側の日当たりのいい一角にあった。彼女は晩年下半身の神経を病んで、真夏でも両脚から下が氷のように冷えきっていると感じ、寒気にふるえていたという。だから、この特別日当たりのいい部屋の暖炉には、そのころ絶えず火が入っていたということだ。部屋は膨大な衣装をしまっておく衣装部屋と、彼女が憩い、安らぐことのできる小さな寝室兼居間とからなっていた。暖炉の上にはマイセンの置き時計と、家族や親族の写真が並び、書き物机の上にはいまもインク壷と吸い取り紙が置いたままになっている。彼女は緑色を好んだ。壁紙もソファやクッションに張られた布も、薄いエメラルドグリーンが基調になっていて、ここは冗談に「緑の間」などと呼ばれていたのだった。
執事はいまだに大奥さまが部屋を使っているとでもいうように敬意をこめたしぐさで部屋へ入ってゆくと、そっと衣装部屋へ続くドアを押し開けた。少しして、濃い青の宝石箱をふたつ持ってきた。
「こちらでございます」
少佐は箱を受け取った。小さな箱のほうに耳飾りが、大きい方には首飾りがそれぞれ入っていた。まがいといっても一応ほんものの真珠で、原寸大の芯に真珠がひと巻き巻きついたものだから、それなりに迫力はある。エメラルドのほうは、ぐっと価値の劣る色合いの石を使っていて、金細工はメッキで型抜きされたものだった。
少佐はしばらくそれを眺めていじくりまわしていた。執事はじっと待った。そのうちに少佐はふと微笑して、飾りを箱へ戻すと、執事へ返してよこした。
「写真と本を頼む」
彼はそう云って、部屋を出ていった。執事は箱をもとへ戻したあとも、しばらく部屋へとどまって、じっとなにか考えこむような顔をしていた。
その夜、執事は久方ぶりに大奥さまの夢を見た。正確には、執事見習いヒンケルの夢を見た。彼は大奥さま付の侍女コンスタンツェとふたりで、大奥さまのおともをしていた。コンスタンツェは、大奥さまの生まれたときから彼女についていた筋金入りだった。もうかなり歳をとっていたので、侍女というより、具合のよい部屋を与えられて、大奥さまの話し相手になり、軽い世話をするような、半分引退した暮らしをしていた。
三人は馬車に乗っていた。馬車をたくみにあやつっているのは、これまたひどく歳とった馬丁のヨーナタンだった。とすると、やはりこれは夢に違いない。ヨーナタンは、ヒンケルが屋敷へ来たときにはもう恩給をもらって退職し、馬舎のそばに小さな家を建ててもらって女房とふたりで暮らしていたのだ。
大奥さまはどこか大切な集まりへでも出かけようというのだろう。あの真珠の飾りをつけて着飾っていた。それは彼女の胸元へ、耳周りへ、ずっしりとした身体を横たえ、誇らしげに輝いていた。大奥さまは真の貴婦人たる最後の人種だった。途方もない衣装の数々と宝飾品の数々を持ち、それらをもっておのれを飾りたてることで、家の財力と権威とを誇っていた人種の最後のひとりだった。彼女の真珠の耳飾りと首飾りは有名だった。このひとそろいのアクセサリーは、彼女が結婚に際し生家から持ってきたもののひとつで、来歴をたどれば十六世紀にまでさかのぼる。いまではもう見ることも採ることもできない大粒の天然の真珠と、非常に深い緑色をしたエメラルドが使われてい、両手にずっしりと重く、もはや貴重すぎて盗難にもあわなかろうと云われていた。シャルロッテ大奥さまの妹、ホルテンゼさまは、姉を訪ねて遊びに来た折など、
「あれが姉さんのものになって家からなくなったときは、ほんとに悲しかったわ! わたしだって、いつかはあれをつけることを夢見ていたのよ。でも母の選択は正しかったわ。あれはやっぱり、姉さんのものだったのよ。あのエメラルドが、姉さんの緑の目には、よく似合ってた……わたしじゃ、きっと持て余したでしょう」
と語ったものだ。大奥さまは、青みがかった緑の、ちょっと忘れられない色の目をしていた。
「嫁がひとり来るというのは大変なことですよ」
大奥さまはいつもの気むずかしそうな、きびしい顔つきで思案するように目を細めた。彼女の青みがかった緑の目はそうして細めるとき、鷹のように鋭く強い光を帯びた。
「家というものは、女でほとんど決まってしまうものです。女主人というものは、使用人たちをいかにうまく統率してやりくりしていけるかという、実に難しい仕事を任されるものよ。使用人たちになめられてはいけないけれど、以前と違って、いまは使用人になろうという者も少なくなっていますからね。あまりきびしくしすぎては続くものではないし、そのところをうまくやれるような心得のある者でないと。頭のいい、よくよく気のつく細やかな、でも決然としたところのある女でなくては……はじめのうちは、相当な血を流すことを覚悟しなくてはいけないものですよ。とくに女の使用人とのあいだにはねえ!」
コンスタンツェが深々とうなずき、すっかり皺の寄った顔を振って、ため息をついた。
「新しい奥さまも楽じゃない、奥さまへついてくる侍女も、楽じゃございませんでしょうね。女どうしのなわばりあらそいというものが、いったいどんなものだか、あんたにゃわからないだろうねえ、ヒンケル」
「わからなくてはいけないのよ、ヒンケル」
大奥さまがふいにまっすぐに、あの印象的な目をきらめかせて執事を見つめた。
「執事というものは、およそ考え得るかぎりあらゆるものごとを理解できなくてはいけません。特に人間というものについては、なまなかな理解では歯が立ちませんよ。執事が使用人を理解して活用できないでは、その家はおしまいです。よくよく上手に彼らを束ねていかなくては。ヨーナタンの手綱さばきをごらんなさい。彼が馬たちをどれだけ理解して、具合のいいようにあやつっていることか」
ヒンケルは窓から顔を出し、老いたヨーナタンを見やった。ヨーナタンは車を引く二頭の馬たちへかけ声をかけながら、手綱を引いていた。彼は馬の走りをほめ、よく云うことをきくといって顔をほころばせ、もう少しだからがんばるようにとはげまし、いかに馬たちを愛しく思っているかを語り聞かせていた。馬たちは、彼のことばに耳をとがらしており、うれしそうにいななき、彼が引いたり戻したりする手綱の微妙な力加減で、すぐさま主人の意図をくみとって、歩調をゆるめたりまた早めたりした。馬たちは、このヨーナタンのためならすり切れるまで酷使されても文句は云わぬと云いたげだった。
「理解と情がなくてはだめなのよ、ヒンケル」
大奥さまが云った。ヒンケルは顔を引っこめ、大奥さまを見た。
「なにごとにもね。それがあれば、たとえちょっとくらい間が抜けていてもなんでも、どうにかなるものです。今度の嫁が、そういうひとだといいけれど。でもきっとそうだろうとわたくしは思います。エーベルバッハ家の男たちは、代々女にたぶらかされるたぐいのばかではないようだから。わたくしがこの重たい耳飾りと首飾りとから、解放される日も近いのかもしれないわね」
「シャルロッテさま、そんなことを……まだ早うございますよ」
コンスタンツェが泣きそうな顔で云った。
「いいのよ、コンスタンツェ」
大奥さまはうっとうしげに手を振った。
「これは、わたくしのような老骨にはもう重すぎます。わたくしはなるべく早く、これを譲り渡したいと思うのよ。またそうでなくてはいけないの。わたくしはもう使用人たちを統率することも、主人の横で肩をいからしてそびえているのにも、疲れてしまいました。この仕事は長続きのするものではないわ……なんにでも引きどきというのがありますよ」
馬車が止まった。ヨーナタンが「つきましてございます」とうやうやしく云うのが聞こえた。
「コンスタンツェはわたくしと一緒に来てちょうだい」
大奥さまは云った。
「わたくしはいかがいたしましょうか?」
ヒンケルはうやうやしく訊ねた。
「おまえはいけません」
大奥さまはきびしく首を振った。
「おまえは屋敷へ戻り、仕事に戻りなさい。おまえは、新しい女主人とあの家を守るのよ。わたくしがうるさく云いつけてきたことを忘れてはいけませんよ。立派につとめを果たしなさい。いいですか、いつも最善を尽くすのですよ。うぬぼれてはいけません。自分にも他人にも、注意を怠らず、気配りを忘れてはいけません。さあ、おまえはここで降りるのです。これを持って……」
大奥さまは耳飾りと首飾りをはずし、それをヒンケルへ押しつけてよこした。ふたりは目が合った。大奥さまの目が、真剣な光をたたえて彼を見つめていた。
「大奥さま……」
「ヨーナタン、馬車を出しなさい。もう時間がありません」
ヒンケルは転げ落ちるように馬車から降りた。正確には、走り出した馬車からほとんど突き落とされるような形だった。
「大奥さま!」
ヒンケルは無慈悲に遠ざかってゆく馬車に向かって叫んだ。
「お戻りください! お願いでございます、いったいわたくしにどうしろと……」
ずっしりと重い真珠が、彼の手にのしかかっていた。ヒンケルはその重みに途方に暮れていた。大奥さま、ああ……馬車が…………
…………執事は目覚めた。彼は思わず腕を持ち上げて両手を見やった。彼の手に真珠はなかった。しかし彼の両手は、その重みを覚えていた。彼はその重さを知っていた。知りすぎるほどに知っていた。
エーベルバッハ少佐は夜も更けてから、久々に一族の肖像画が押しこまれている部屋へ入り、順繰りに見て回った。部屋の壁一面に、一族の肖像画が順番に並べられている。男は右に、女は左に。エーベルバッハ家の者は、代々肖像画をこしらえてもらっていた。すでに亡きクラウス少年の祖父母からはじまり、曽祖父、高祖父……と続いた。女のほうも、祖母、曾祖母、高祖母……とこれまたきりもかぎりもなく続いていた。
「グロースファーター、ウル・グロースファーター、ウル・ウル・グロースファーター、ウル・ウル・ウル…………」
少佐は肖像画を見ながら順番に口ずさんだ。そうして微笑した。このウル・ウル・ウル……の不思議な旋律が、小さいころからなぜか好きだった。執事見習いヒンケルを引きずってここへやってきては、飽きずに「ウル・ウル」やったものである。クラウス少年はそんなとき、ウルを数えきれなくなるほど云ったので、まるでウルが自分の耳にいつまでも残って消えないかのような気がした。クラウス少年は延々と果てない不思議な感覚に陥り、ときどきめまいを感じた。そうなると執事見習いのヒンケルが、あわててこれを受けとめた。
「ぼっちゃま、大丈夫でございますか?」
クラウスぼっちゃまは身体へ回されたヒンケルの手に安心して、こくんとうなずいて立ち上がった。この果てしない絵の群れが、皆自分の祖先だとは、ちょっと変な気持ちがした。そういうものにかこまれている自分が、クラウス少年はひどく不思議だった。
「今日はもう、お部屋へ戻りましょう。おやつの時間も近づいてまいりましたよ。今日はぼっちゃまの好きなものが出るといいですが」
クラウス少年は手を引かれて、部屋を出ようとした。そうして部屋の入口近くに飾られていたオーマの肖像画にふと目をとめた。それは年月を経ていないのでもっとも新しく、まだ絵の具も生々しい画だった。オーマの深い印象的な青緑の目が、真っ先に目に飛びこんできた。それは小さいながらも、画面の中でふたつの宝石のように光っていた。ほかにも血色のよい肌やバラ色の唇や、耳と首のまわりで白光りしている真珠のアクセサリーが、まだぬらぬらと生きているような輝きを放っていた。オーマは、中年の婦人だった。といっても、まだ幼いクラウス少年には、それが祖母だと云われれば十分に歳をとっていると見えたのだが。
「あなたさまのおばあちゃまでございますよ」
執事見習いのヒンケルが、律儀に立ち止まって云った。
「もういらっしゃらないのが残念でございます」
見上げたヒンケルの顔は、笑っているようであり、しかしなにか胸が苦しくなるような表情を浮かべていた。
「どうして死んじゃったの?」
クラウス少年はまだその意味もよくわからないで、ヒンケルへ訊ねた。
「ご病気でした。お歳を召して、身体中がくたびれてしまい、亡くなってしまったのでございますよ。惜しい方でございました。大奥さまには、もっとわれわれ使用人を手厳しくしつけていただきとうございましたし、ぼっちゃまの大きくなるのを見ていていただきとうございましたが」
クラウス少年はよくわからなかった。ただ、ヒンケルが残念がっているのはわかった。
「あなたさまも、大きくなったらこのような方をお嫁さんになされば、きっとよろしゅうございます」
クラウス少年は疑り深い顔でオーマの肖像画をふたたび見た。クラウス少年は、お嫁さんのことについてはまだよくわからなかった。ただ、こんなひとでは歳をとりすぎている、と思った。
「ぼく、こんなお年寄りをお嫁さんにしなくちゃならないの?」
ヒンケルは吹き出した。それから、笑いながら申し訳ございません、と云った。
「ぼっちゃまは、もっと若くて、ぼっちゃまにお似合いの美しい方をお嫁さんになさいますよ、きっと。このヒンケルが、命にかけて保証いたします。さあ、オーマにさよならを云って、もう行きましょう。少し身体を動かしたほうがよろしゅうございます」
クラウス少年は、ヒンケルへ手を引かれて部屋を出た。オーマのようなお嫁さん、というヒンケルのなにげないひとことはしかし、小さなクラウス少年の心に、あの強烈な青緑の目とともに、しばらくのあいだ、引っかかったままであった。少年はまるで自分の結婚相手がもう決められてしまっているみたいに感じた。彼はしばしばオーマ・シャルロッテの痩せていてけわしい、お世辞にも優しいとか柔らかいとか云いかねる顔を見るために、肖像画の部屋へ行ったり、昔のアルバムを見せてもらったりした。そうして、きまっておなかでも痛いような顔で、それと大差ないような顔のオーマを見るのだった。オーマは、たいてい同じ真珠の飾りをつけていた。ひどく大きくて、つやつやしたアクセサリーは、古い集合写真の中でもすぐに見わけがついた。こんなようなのをしている女性はいなかった。このなにやら威圧的なほどの真珠のために、もとより背の高いオーマはまた一段と周囲を圧倒するような気配を帯びていたのだった。妹のオーマ・ホルテンゼと並んでいる写真など、クラウス少年はこれが姉妹だというのがどうしたって信じられなかった。オーマ・ホルテンゼはぽちゃぽちゃしていて明るく、声が大きくて、目は澄んだ青で、ときたまクラウス少年の顔を見に来て少年の父親をたじろがせるほどに元気で健在だった。少年は子ども心に、なにかこの自分のオーマ・シャルロッテが、ひどくかわいそうな、孤独なひとのような気がしていた。同時になにか力強いものを感じてもいた。クラウス少年はいつの間にか子どもなりに、この近寄りがたい雰囲気のオーマの奥に潜んでいるものを嗅ぎつけていたのだった。
「ぼくのオーマ」
と彼は口に出してみた。それは、ぼくのおかあさん、と云うのとぜんぜん違った。第一見た目からしてぜんぜん違っていた。少年のおかあさんは、美しい、優しそうな顔立ちのひとだった。でもオーマは! なにかが決定的に違っていた。でも、クラウス少年はしだいに、この「ぼくのオーマ」に不思議な愛着を持つようになっていった。年を経てごくたまに彼女の写真を見る機会があると、この鉄の意志の塊のような、燃え立つようなオーマの青緑の目が、なにか自分の目の中で燃えていはしまいかと考えることがあった。
エーベルバッハ少佐はオーマの肖像画の前に立った。彼は肖像画を見上げ、微笑した。オーマ・シャルロッテとエーベルバッハ少佐とは、その色こそ違えどまことに同じような目をしていた。