町の海に面した側は、だらだらと眠たくなるような海岸線が、雲の多いぼんやりした空を背負って続いている。港の周囲にひろがる町を過ぎると、森が広がっていて、このあたりがまだ未踏の処女地だったころの名残をとどめているようである。その森を南東の方角へ進んでいくと、森はしだいにひらけて、小高い丘になる。丘からは海が一望でき、北東に目を向ければポーランド領の小さな島が遠くに見える。
 この森や丘を含めたあたり一帯は、かつてはヘルツベルク家という一族の所有であった。いまではかつての多くの大領主たちと同じように没落して、過ぎ去った栄華をしのばせるものといえば、町からすこしはなれた、森を背負ってでんとかまえている大きな屋敷だけである。そのお屋敷に、当代のあるじが二、三の使用人を置いて、さびしく暮らしていた。
 このヘルツベルク家の現あるじは、五十を過ぎたなかなか整った顔立ちの男で、二度結婚して、二度とも不幸な結果に終わっていた。町のひとびとの話では、別れた女房というのはふたりとも都会の気どった、かなり高飛車な女で、しばらくのあいだは領主館の女主人ということにすこぶる満足しているけれども、しだいにその「領主」なるものの内情をさとり、気晴らしの場所にとぼしい田舎暮らしにうんざりしはじめ、しまいには出ていってしまうのだということだった。
「その女房どもはよ、嫁に来たあたりにゃあ判で押したように同じようなこと云っただ。こんな海の近くの、静かな田舎に暮らすのが夢だったのよ……ってな。んで、まあいいとこ五年もたちゃあ、こんな田舎、気が狂っちゃうとかなんとかまた似たようなこと云ってな、出て行くのよ……」
 というのは、屋敷へ出入りしている八百屋の話である。
 エーベルバッハ少佐は、自身もまた旧領主であるところの身分として、この話を実に重く受けとめた。そうして、いまどきの旧領主や旧貴族というものはもはや特権階級ではなく豊かでもなんでもないこと、また、そのことを潔く認め、自分に見合った相手を選ばなければ立ちゆかないと云って、周囲のさかんな同意を得た。
「ヘルツベルクの野郎ってのは、いまだに家柄とか昔の栄誉にしがみついてやがるんだ。それしか自慢することがねえからよ」
 と町の若い漁師がばかにしたように云って、みんなまたさかんに同意した。エーベルバッハ少佐はというと、彼はどういう意見にもめったに心の底から同意するということがなかった。
 少佐はえっちらおっちら丘を登って、頂上へやってきた。片手には、細君がよこした昼食の入ったバスケットを下げていた。もう片方の手には双眼鏡が握られ、新聞がわきへはさまっていた。振りかえって町と海を見下ろすと、風がばたばたと吹きつけてきた。さすがにここまでは潮の香りはこないらしかった。眼下に、ブナやナラの濃い緑色をした森が広がり、その先にレンガ色を中心としたうるわしい港町が、そしてさらに先に、船をいくつも浮かべた海が横たわっていた。水平線のうえの空は綿のような雲をいっぱいに浮かべて、そのかげからにぶい黄色の光をはなっていた。こうして高いところから見下ろすと、海はすぐ近いように見えるのに、実際はずいぶんと離れているというのは不思議だった。はるか沖のほうに、船がのんびりと進んでゆくのが見えた。
 少佐は望遠鏡を目にあてがって、しばらく眺めた。それから微笑して、遠慮なく地べたに座りこんでバスケットを開けた。中にはサンドイッチとお茶の入った水筒、大きなハンカチ、それに細君の育てたバラが二本、飾りとして入れてあった。少佐はハンカチを地面へ広げてバラを飾り、サンドイッチの包みと水筒をのせた。それから両手をこすりあわせ、いよいよ食事にとりかかった。細君はこの日、少佐の好きなニシンの酢漬けとピクルスのたっぷりはさまったサンドイッチをこしらえていた。ボンではこうはいかない! 少佐は夢中になって食べた。風がからかうように少佐の黒髪をもてあそんで過ぎていった。日差しはうららかに降りそそいでいた。スズメがあたりをうろついていたので、少佐はパンくずを遠くへ放り出して知らん顔をしていた。スズメらはびくびくしながらパンくずへ近づいてきて、ぱぱっとつついてあわてて逃げ出し、しばらくするとまた戻ってきて同じことをした。羽虫が一、二匹、少佐にぶつかってあわてふためいてから、また飛んでいった。
 食事を終えると、少佐は細君のバラを胸ポケットに差した。これは細君に対する、食事への満足と感謝を示す合図で、細君は少佐が帰宅するとその胸元を確認し、バラが飾られているのを見て顔をほころばせる。あの逆らいがたいえくぼが出現し、目が輝くのを見るのは、昔から少佐にとってよろこびのひとつだった。あの細君がまだひとさまのものでなく、エーベルバッハ家のいち女中であったころには、その笑みはとくに母親のいないクラウス少年に向けて、慈悲ぶかく辛抱づよく向けられたものだった。当時からもう、お屋敷の若い女中は絶滅危惧種に指定されていた。クラウス少年のところでも、彼女が唯一の若い女性だった。クラウス少年の母親についてエーベルバッハ家にやってきた女中がいたが、彼女は自分のあるじが死んでしまってしばらくすると、もとの奉公先へ連れ戻された。そちらではたくさんの子どもを抱えていて、ひと手が足りなかったからである。
 この女中がもとの場所へ戻らなければ……そしてあるじの残した子どもがいたからには、その可能性のほうがずっと高かったのだが……ヘルマン老人の細君が奉公へ来ることはなかっただろう。クラウス少年はこの若い女中が好きだった。家の中で、少年を女らしく甘やかしてくれたのはこの女中だけだった。少年にはときどき、彼女は父親や、執事や、執事見習いのヒンケルや、ほかの男の使用人たちとはなにか別の世界から来たように思われることがあった。当時はまだほっそりしていた彼女の、魅力的な目の輝きとえくぼ、少年をしかるときのきびしく寄せられた眉……けれども、クラウス少年は彼女がどんなにおっかない顔をしていても、その隙をついて笑わせ、降参させる方法を知っていた。また彼女のほうでも、少年を責め罰することに徹しきれない甘さを、いつでもかなり残していた。
 ふたりは歳の離れた友だちのように、手をつないで庭を駆けまわった。彼女はその気になれば、かなり早く走ったり、するすると木に登ったりすることができた。少年が拾ってきた蛇のぬけがらや虫の死骸や、ポケットにつっこまれたごちゃごちゃと汚らしい戦利品にたいしても、顔をしかめたり金切り声をあげたりすることがなかった。彼女はいい友だちだった。そのくせ、ほかの使用人たちにない、近づきやすい、やわらかく包みこむ雰囲気をもちあわせていた。彼女にたいする子どもじみた愛着は、それから三十年以上もたったいまでも、まだ少佐の中で元気に活動をつづけていた。また、彼女の少佐にたいする愛情も、いまもって衰えをみせないようだった。
 少佐は腕時計を確認し、双眼鏡を手にとって海へ向けた。ちいさな漁船が一艘、ゆらゆらと右側からやってくるのが見えた。しばらくすると、左からも同じような漁船がやってきて、すれ違った。右から来たのは左へ、左から来たのはそのままポーランド領のほうへ進んで見えなくなった。少佐はそのようすをじっと観察しながら、ときおり右手で空中へ字を書きつけるような動作をした。それから双眼鏡を外して考えこんだ。
 しばらくすると、少佐は微笑してごろりと寝転がり、幸福な昼寝に突入した。風が気持ちよくそよいでいた。鳶が円を描いて上空を舞っていた。
 力強く勇ましい足音が近づいてきたので、少佐は目を開けて身体を起こした。ヘルマン老人が、少しくたびれかけた、けれどもまだまだ頑強な身体をゆすって、丘をのぼってくるのが見えた。白犬がときに先導するように、あるいは老人のうしろに隠れて、楽しそうに走っていた。少佐は微笑した。老人は小柄だが骨のしっかりしたいかにもしぶとそうな体格をしていて、杖をついてはいたが、その気になればそんなものは放り出して、ひと息に三百メートルも泳いでしまえるのを、少佐は知っていた。わき腹と胸に、ほとんど致命傷といえそうな大きな刃物による傷あとがあって、それを見たことのある人間は、どうあっても畏怖の念を抱かざるを得なくなることも知っていた。老人はその傷がついたいきさつについても、請われれば例の調子でおもしろおかしく話して聞かせた。多くの人間は、話半分に聞いた。しかし実際にこの老人を親しく知っている者は、そのうちのどの部分がほんとうで、どこらへんが作り話なのかについて、かなり正しく判断することができた。
「やっこさんがた、今日はやっただなあ、少佐」
 老人は顔をしわだらけにして、うれしそうに笑いかけてきた。そうして少佐に紙切れをさしだした。少佐はそれに目を走らせ、満足げに微笑して、ライターで燃やした。
「こん調子なら、あんたの田舎暮らしももうしばらくの辛抱だだよ。もっとも、あんたがこいつをいやがってればの話だがよ」
「おれは考えとるんだが」
 少佐はまじめな顔で云った。
「あんたの家に、漁師見習いをひとり置く気はないかね? 多少歳はくっとるが、あんたが改心して漁師になったのとそう変わらん歳のはずだ」
 老人は声をあげて笑った。
「そうなりゃ、おりゃあうれしいだよ。おれにゃ、もう漁師の息子がひとりおるだが、別にそれがふたりになったからって、どうってこたねえ。だけんど、たぶん……その見習いは、もって三ヶ月が限度だろうよ。そのころになるってえと、もうわけもなく退屈だって気になってきやがって、なんか変わったこたあねえかってうずうずし出すだな。おりゃあそう思うだ」
 少佐は微笑した。ふたりは肩を並べて丘をくだった。白犬は鞠のように転がりながら、運動へのよろこびに満ちてふたりの先を走っていった。
「そういやあ、さっき港でちょっとした事件があっただ」
 老人は杖先で足もとの草を払いながら云った。
「事件ちゅうほどでもねえが。さっき入ってきた船に、えれえ女がひとり乗ってただよ。つまり、どえれえ美人ちゅうこったが。おりゃあ都合七十三年生きてきただが、そんでも、あんな女見たなあはじめてだって云えっかもしんねえ。そんだけどえれえ美貌だっただ。ことにあの脚ときたらよう! おりゃあ、あと二十年若かったらまともに見れなかったかしんねえ」
 少佐は眉をつり上げて興味を示した。老人の話では、そのすさまじい美女というのは、歳のころ二十四、五かそこらに見え、金髪碧眼の、古典的で優美な顔立ちをしていた。意志の強そうな眉や、すばらしい稜線の鼻や、熟れたような唇や、すっきりしたやわらかい顎、しなやかそうな長い手足、盛り上がり、くびれてまた盛り上がる身体の線は決して横暴でなくつつましやかで、身につけているものも洗練されていた。彼女はやや時代がかったつばの大きな帽子をかぶり、膝丈のすっきりしたシルエットのドレスをきていた。そしてそこから見える脚が、とにかくすばらしかった!
 彼女は従僕か助手のような男をひとり従えていた。小柄で樽のような体型をした、ひげづらの男で、大きなトランクを抱えて彼女のあとにしたがっていた。このふたりづれがタラップを降りて上陸すると、ヘルツベルクが待ちかねていたように飛び出してきて、出迎えた。そうして自分の使用人に荷物を引き受けさせ、彼女に親しげな笑みを向けてあれこれと熱心に話しかけながら、迎えの車へ案内して、いっしょに屋敷へ向かった。
「たぶん、あの美人もヘルツベルクと同じような種類の人間かもしれねえ。親戚じゃあねえと思うが、似たような階級出身の人間だと思うだ。つうことは、今後あの美人がおれらの目にとまるような機会はほとんどねえ、ちゅうこっちゃ! 残念だがよ! ヘルツベルクの旦那は、おれたち町の人間とは交際したがらねえだから」
 老人の細君もその美女の到着を知っていて、夕食の席ではそのことがもっとも長く議論された。三人は細君お手製の魚の入ったスープと畑でとれた野菜のオーブン焼き、パンとチーズを食べていた。細君はたしかに料理人であった。少佐はこういう料理を自分の家にいるときには決して味わえなかった。料理人のマンツは、下賤の者が食べるような魚など決して食卓へあげようとしなかったし、まして田舎くさい魚と野菜のごった煮料理など、自分の名誉にかけてこしらえなかった。だが少佐は細君のごった煮スープが大好物だった。一年も食べないでいると、もうたまらなくなつかしいような気がしてくるのだった。
「女たちの意見はまっぷたつよ」
 細君は男たちのためにパンを割き、料理を回しながら、いかにも話を楽しむように目をきらめかせて云った。
「ひとつには、あれは生まれつき優雅になるように教育された女だという意見。もうひとつは、生まれてしばらくしてからそれを身につけたのだという意見。彼女のアクセサリーはすばらしかったらしいわねえ! 要するに、それを先祖代々受け継いできた女なのか、男からもらってきたような女なのか、という論争なのね。だけど、あれはどう見てもヘルツベルクの第三の嫁候補だという意見では一致してるのよ。陸から来ればいいのに、わざわざ見せびらかすように海からあがってくるなんていやらしいと云ってるひともいるわ……」
 細君はこの意見の対立をあきらかに楽しんでいた。そして彼女自身は、賢明にも判断を差し控えていた。
「おれの考えじゃあ、あの女は生まれつきものに囲まれて育ったほうだと思うだ。だけんどもよ、これで女どもはしばらくほかのネタを漁らねえですむんでねえか」
 ヘルマン老人は地元のアルコールの高い、気長に寝かせた黒々としたビールを飲みながら満足そうに云った。
「健全で無害な話題だだな! その女は美人で、ヘルツベルクの旦那とかかわってて、しかもよそもんだ! 町の誰にも害がおよぶ心配がねえだ……どこの亭主がどこの女房と浮気してるだの、どこの家のガキがどこのガキとくっついたの、そういうのに比べりゃあ、いい餌だで、まったく」
「ほんとうね」
 細君はちょっとまじめな顔になって同意した。
「最近はあまりみんなが面白がるような話題がなくて、こんな状態がもう一週間も続いたら、誰かが話題づくりのためだけにどこかの亭主をけしかけたりするんじゃないかって、わたしは思ってたわ! ぼっちゃまは、はじめのころはそりゃあもうえらい話題をさらったもんだけど、いまではすっかり当たり前のひとになってしまったし。今日来たというその女性には悪いけど、しばらくみんなを楽しませてくれそうよ」
「その女がヘルツベルクって名字になるかどうかは知ったこっちゃねえだが、あの旦那もええ加減身をかためたほうがええんでねえかとは思うだな。あの旦那は本来が、女なんぞなしに過ごしたほうが気が楽だなんつうタイプじゃねえこたあ確かだ。連れなんぞいらんと思うような人間にしたって、ひとりきりでこの世を過ごすちゅうのは、晩年になればなるほどこたえてくるもんだ。それに、家族をもつちゅうのは別に悪いもんじゃねえだ。世間じゃ悪いようにばかり云うが。おりゃあそう思うだがなあ! おりゃあ、自分の子どもらがみんなおれの真似して四十年も引っぱらねえで、とっとと結婚しちまいやがったんでうれしいだよ。もちろん、いろんな考えがあるのはわかっとるだが」
 この実に家庭的な男が、いったいどういうわけでそこへ帰結したのか? 以前にはひどい放浪癖の持ち主で、何度も我が身を危険にさらして飽きたらず、東西の極度に政治的な闘争の中で暗躍したこともあり、数々の浮き名を流しもしたらしいこの男が。少佐にはよくわからなかった。少佐にとって、このヘルマン老人はいつまでも魅力的ななぞであった。これほど剛胆で、これほど機知に富み、これほど危険というものの似合う男が、こんな田舎の漁師としての一生に深く満足して、起伏のすくない毎日をよろこんでいるのはなぜだろう? 自分は耐えられるだろうか、と少佐は考えた。少佐は想像した……ボンのあの城において、嫁と子どもと使用人にかこまれ、老いてはたぶん息子夫婦と孫たちにかこまれて過ごし、やれ子どもの進学だの結婚だの、飼っている犬が子どもを生んだのといったことが人生の大がかりなできごとで、妻がしだいにそっけなく高慢にかつ肥大してゆくのを見届け、それにともなってみずからもなにか大きな平凡な流れの中へ埋没して鈍化してゆくのにまかせ……
 あるいはそれが平穏であるということなのかもしれなかった。あるいはそれが、この地上における最大限に合理的な生き方であるのかもしれなかった。しかし少佐はそういう男ではなかった。そういうところへ沈むのを、みずからにゆるすことのできる性質を持たなかった。なんといっても、少佐は危険な刺激というものを愛していた。そしてそういう人間の性として、どこへ行ってもその種を見つけてしまうのだ。あるいは危険や刺激のほうが少佐を愛していて、どこへでもやってくるのだろうか?
 いずれにしても、この町にもこれでなにがしかの小さな嵐か、落雷の予感がほのめきはじめたのは事実だ。美人というのはいつでもどこでも一種の嵐か落雷を引き起こしてやむことがない。少佐はあごをさすって、じっと考えこんだ。しかし、幸か不幸か、それは自分ではない! 雷は誰か別の人物のところに落ちるはずだ。美人という名の雷に打たれるのは何度経験してもいいものにはちがいないけれど……たとえ丸焼けになろうとも。

 

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