朝のピアノ
鳥の鳴き声が聞こえていた。寒い、静かな朝だった。少佐は目を覚まし、真っ先に、自分の横に黄金の巻き毛が波打っているのを見た。自分のベッドに……それこそ生まれたときから慣れ親しんできたベッドの中に……自分以外の人間がいるというのはいつまでもひどく妙な気がした。
吸いこむ空気は冷たく冷えきっていたが、布団の中は暖かかった。彼は枕元の時計を見、もう十分に起きてもよろしい時間だということを確かめたが、この暖かさから抜け出すことが惜しまれた。執事のヒンケルが、主人の起床と食事の時間を気にしながら立ち回っていることを知っていたが、それでも彼はまだ起きあがる気にならなかった。
巻き毛はぴくりとも動かなかった。伯爵はまだ眠っていた。少佐に背を向けて、身体を少し丸めて眠っていた。彼は長々と眠るタイプだった。それも、いっぺん寝たら容易に目を覚まさないタイプだった。無理に起こせば不機嫌になって、それは一日中続いた。自然に任せておけば極上の気分で起きあがってくることを考えると、どうするべきなのかわかろうというものだ。少佐は巻き毛に鼻先をうずめ、匂いをかいで、布団のぬくもりの中で少しうとうとした。それから遠慮がちに巻き毛をかき分けて、あらわれた首やうなじに朝の挨拶をした。それから耳に、肩に、順序よく挨拶した。伯爵が鼻を鳴らすのが聞こえたが、まだ目は覚まさなかった。少佐はそれで、頬杖をついて、寝顔を上から眺めた。くるりとしたまつげが、閉じられたまぶたをふちどっていた。額や頬のところどころに、巻き毛が渦を巻いていた。額や頬骨の丸みを、それに薄く張られた皮膚の感触を探るのが少佐は好きだった。で、彼はそうした。なめらかな感触が彼を虜にした。頬をなで、巻き毛へ指を滑らせていると、甘ったるい、感傷的な、そしてやや色めいた感じの中で、いろいろなことが思い出された。さて、いったい何度、こういう朝を迎えてきたのだろう? よくわからなかった。わかる必要もなかった。
ふいに伯爵がぐるりと身体をひねった。巻き毛がうねり、彼の動きにあわせて揺れた。伯爵はぱっちりと目を見開いた。そうして少佐に微笑を投げ、朝の挨拶を送った。彼はくすくす笑っていた。上機嫌だった。少佐はしばしそれを眺め、ゆるんだ上機嫌の唇に、ちょこんとキスした。それからその唇で、最前指でなぞった頬骨や額の丸みを確かめた。伯爵さまの機嫌はさらに上向いた。彼はいかなるときにも、肉体的に愛されることを欲した、なんとなれば、彼はその美しさによって生きてきたからだ。相手が自分の美しさに夢中であればあるほど、彼の魅力はいや増した。そしてさらなる深みへ引きずりこんだ。少佐は自分がもうどうあっても抜けられないところまで引きずってこられたのを感じていた。こんな朝っぱらから、抵抗しがたい、魂が引きずりこまれるような美しい、柔らかな微笑を見た日には、そしてこんな朝っぱらから、身体が芯から溶け出すような愛の挨拶を送られた日には特に、そんなことを感じた。
伯爵は散々くすくす笑いをやってからふいに起きあがった。それから部屋の寒さに驚いて、あわててまた布団をかぶって転がった。少佐は笑いながら、彼に着るものを差し出してやった……丸く大きく開いた襟ぐりに美しいレースのついた、黒いウールの長袖の肌着。リブ編みなので持ち主が着ないときはすっかり恥じ入って小さくなっている。伯爵は礼を云って、布団の中でもぞもぞやってそれを着た。少佐は次に下のほうに履く下着を差し出した。黒の、すばらしいレースのストリングパンツ。伯爵は起きあがってそれを履いた。それから、ふたたび果敢にベッドの中から出ていった。立ち上がり、窓に向かって歩いていくほんの数歩の動きを、少佐は楽しく見守った。彼の歩き方はすばらしかった。彼に比べれば、ほとんどの人間は歩いているとは云いかねた。優雅に交互の足に重心が移ってゆく、その動きのなめらかさ。彼の腰から下は、なにをする場合にも非常に魅惑あふれる動きをした。
伯爵が重たいカーテンを引いた。鈍い冬の日差しが、窓からざっと入りこんできた。伯爵は両手でカーテンを握ったまま、しばらく窓の外を眺めた。豪奢な巻き毛が日の光を受けてけぶるようにきらめきながら、堂々と黒い肌着に覆われた背中を流れていた。片方の脚が、もう片方の脚にからみつくように少し後ろに出されていた。ちょんと後ろに曲げられた足の指先。すねているような、誘っているような、甘えているような、その指先。少佐は煙草に火をつけて、それをとっくりと眺めた。きっちりと肌着に覆われた上半身と、わずかな面積を下着に覆われたきりあわれにもむき出しの下半身。伯爵の脚を少佐は愛した。伸びやかで、しなやかな脚。昨日、太股の裏に挨拶を送るのを、うっかり忘れたような気がする…………伯爵はしばらく空を眺め、あたりを眺めて、それからあわててまたベッドの中へ戻ってきた。寒くなったのだ。伯爵は少佐に抱きつき、冷たくなった脚を少佐の脚に甘えるように絡みつけてきた。少佐は自分の脚でもんでやった。伯爵は上機嫌に笑って、全身で少佐の身体に絡んできた。腕や、首や、あちこちを密着させて。ふたりはしばらくごそごそと、あっちへひっくり返ったり、こっちへ転がったりした。伯爵は子どもみたいに笑い声をあげてはしゃいだ。少佐は肌着や下着の隙間に指をつっこんで、伯爵の肌をからかったりした。
しばらくのち、いいかげんに起きないと、執事が主は死んでしまったのだと思いこむかもしれない、ということに気づき、少佐は起きあがって、バスローブを羽織って部屋を出ていった。伯爵も起きあがって、おそらく執事を呼びつけるために、呼び鈴のひもを引いただろう。ベッドの上でひとくさり世話を焼いてもらわないと、坊やは朝の風呂にも入れないのだ。少佐は微笑し、顔を洗い、時間をかけて髭を剃った。クリスマス休暇の前には彼の顔に貼りついたようになっていた、くすんだ、疲れたような感じはすっかり消えていた。男ぶりだって上がっているかもしれなかった。毎日熱心にすてきだの男らしい顔だのささやかれては、そうならないほうがどうかしていた。
廊下から、伯爵のけたたましい笑い声が響いてきた。たぶん、執事をからかったのだろう。たしなめるような執事の声がそれに続いた。伯爵がさらに続いて、甘えるようになにか云って、また笑った。少佐は微笑した。
着替えをし、食堂へ降りていった。テーブルの上には、各種の新聞が用意されていた。中央におかれた花瓶に、バラを中心とした膨大な花が生けられていた。少佐だけのときはこうはいかない。それを一瞥して新聞を読みはじめると、すぐにコーヒーが運ばれてきた。朝食はまだ出なかった。いつの間にかそういうことに決まったのだ。食事の提供は、伯爵さまがお風呂からお上がりになってからにすること。執事がやや赤い顔をして戻ってきた……少佐と目が合うと、どことなく決まり悪そうに挨拶をした。
少佐がほとんど新聞を読み終わりそうになるころになって、ようやく伯爵が姿を見せた。彼は濃い紫色の、美しいガウンを着ていた。髪は丁寧にブローされてつやつやしていた。彼が動くたびに、そこらにいい香りが漂った。
使用人たちが動き回って料理を給仕した。料理人のマンツがうやうやしくやってきて、伯爵さまの目の前で小さなカップにホットチョコレートを仕上げて注いだ。スパイスが効いて、オレンジピールが浮かんでいるやつだ。伯爵はここへくると毎朝の食事の前と寝る前に必ずそれを飲んだ。アインシュペンナーみたいに生クリームがたっぷり浮かんでいて、たいへんに甘いのだ……そんなものを朝っぱらから腹に入れるやつの気が知れないが、習慣づいてしまったものはどうにもしようがない。
朝食には、普段は並ばないクロワッサンや、デニッシュ生地のパンが並んだ。料理人マンツは、若かりしころウィーンのマイスターがいる菓子屋とパン屋で本格的な修行を積んでいたため、伯爵さまが来ると腕が振るえるのでうれしいのだ。伯爵さまがいろいろな種類を楽しめるように、料理人マンツは小さめのパンをたくさん焼いて並べる。伯爵さまはその日の気分でいろいろと味見をして楽しむ。
朝食のあいだに雪が降りはじめた。この冬は妙に雪が多かった。ほとんど毎日のように、音も立てずに雪が降ってくるのだった。雪かき責任者である庭師は、忙しいもんで連日ぶつくさ云っていたが、ついに昨日、腹立ちのあまりどこかからブルドーザーみたいな除雪機を持ち出して、目障りな雪どもを迫害し虐殺し、屋敷じゅうを徹底的にならしてしまった。庭師はこの上なく満足し、また、たしかにあたりは見晴らしがよく、歩きやすくなった。しかし少佐はそれによってどことなく趣が損なわれたように感じた。伯爵もそう感じると云った。で、夕べ、ふたりは雪がまた積もるように願かけをしたのだった。みんなが寝静まったあとの、暗く静まり返った、ドアがいやな音を立てる屋根裏で。伯爵はオカルトが大好物だった父君の影響で、古今東西の変てこな魔術をたくさん知っていた。ろうそくを円形に並べ、その真ん中に立って、彼は年季の入った大魔法使いみたいにふるまった…………
伯爵は食後のお茶をすすりながら、物憂げに窓の外を眺めている。大きな柱時計がこちこち音を立てて仕事をしている。朝食が済んで食器類が片づけられると、食堂の中はいつもおそろしく静かになった。食堂だけでなく、この城は基本的にどこもかしこもしんとしていた。冬の、雪の日にはことにそうだった。
「新年早々こんなふうに雪がどさどさ降るのは毎年なの?」
伯爵が云った。暦は、執事の手によって二日前にうやうやしく新しいものに取りかえられたばかりだった。少佐は首を振り、こんなことはめったにないと云った。伯爵はまた外を見やった。
今年は、少佐の父親はクリスマスに戻ってこなかった。クリスマスも間近というときに、少し体調を崩したのだ。ただの風邪だったが、なかなかしつこいやつで、咳がいつまでたっても止まなかった。で、彼は帰省をあきらめたのだ。少佐は久々に、どこへも行かずに我が家でクリスマス休暇を過ごすことができた……地元のクリスマスマーケットへ出かけ、屋敷の修繕兼飾りつけをし、当日はミサへ出かけた。父親が行かないということは、少佐自身が行かなければならないということを意味していたからだ。地元の名士が特別の理由もなくクリスマスのミサに顔を出さないなどということは、考えられないことだった。
マーケットでは、少佐は細君と練り歩く部下Aとすれ違った。細君は相変わらず美しく、少佐におっとりと挨拶をしてきた。少佐は、もしかすると多少度を超えて親しげに彼女と会話してしまったかもしれなかった。途中から、部下Aの目の色が変わったからだ。それから、同じく細君と子どもたちと一緒にそぞろ歩きをしていた部下Bともすれ違った。Bはにやにやしながら、部下のひとりが彼女らしき女性と一緒に、もっと向こうのリースを専門に売っている店の軒先でいちゃついていた、と報告した。少佐はよかろう、と答えた。ボンにいない連中、すなわち部下Zのような未婚の連中は、実家へ帰っているか、どこかへ旅行に行ったはずだった。たぶん、Zは両親や姉と一緒に、似たようなマーケットを練り歩いただろう。そして、彼女はいないのか、身体は大丈夫なのか、ほかの皆に迷惑をかけずに仕事ができているのか、というようなことを、しつこく訊かれたろう。
地元に金を落とす義務を果たすと、少佐は今度は伯爵を連れて、ケルンのマーケットへ行ったのだった。ふたりは白い息を吐きながら店をひとつずつ冷やかし、大きな陶器でグリューヴァインを飲み、ソーセージをかじりながら店のおやじのうんちくにつきあったりした。伯爵はあれこれいたずらした。陰気で意地の悪い店主のいる店から商品をくすねたし、生意気な顔つきをして集団でのさばっている学生どもの財布をこっそり抜き取って、会場の隅に置かれていたクリスマスツリーの枝に飾りよろしくぶら下げもした。
少佐は伯爵が伸び上がって、高いところの枝に財布を順番につるすのを見ていた。そのとき、彼はふとおごそかな充足を感じたのだった。暗がりに明るく照らされて浮かび上がるマーケットの中で、金ぴかのガラス玉や電球で飾りつけられて輝くもみの木の下で、少佐は自分の連れが楽しげにいたずらするのを見ていたのだ。あたりを行き交うひとびとは店をのぞくことやその場の雰囲気に夢中になっていて、少しはずれにあるもみの木の影で誰かがいたずらしていることなどまったく気づいていなかった。少佐だけがそれを見ていた。伯爵はひとつ財布を枝にひっかけるたび、少佐を振り返ってしたり顔で笑ってみせた。彼の目は輝いていた。ひとびとの声が渦のように聞こえていた。暖められたワインとスパイスの香り、店の軒先にぶら下がる電球があたりへ投げる橙の明かり、足下の、いくつもの靴底に踏みしめられて固まった雪、雪のみずみずしい匂い、冷たい、澄んだ空気。そのとき、世界は手のうちにあった。確かに存在していた。実感をともなって躍動していた。少佐はそれをとっくりと感じた…………
そのときの充足が、まだ自分の中で尾を引いているように少佐には思われた。彼はカップに唇を当てたまま外を見つめる伯爵を見やった。彼のまつ毛がまばたきのたびにはためくのを、少佐は新聞を手にぼんやりと見ていた。ここに、おやじがいたかもしれなかったのだ、と少佐はふと考えた。もしも情けなくも風邪なんぞに負けなかったならば、たぶんクリスマスの数日前にはここへやってきて、この城で、まだ自分が十分にここの主であることを示しただろう。規則正しい、厳格な生活、どちらかといえば質素な食事、静寂と規律に覆われた空気を、父はスイスからここへ持ちこんだろう。それは必然的に少佐が暮らす空気と衝突した。いずれもごわごわして、柔らかくはなかったから。すり寄ることも、なれ合うことも、まったく不可能だった。もしもそうなっていたとしたら…………
「なにを笑ってるの?」
少佐は我に返った。伯爵が微笑を浮かべて彼を見ていた。少佐は首を振り、なんでもないと云った。伯爵はふうん、と鼻を鳴らし、カップを置いて、立ち上がった。ピアノでも弾きに行くのかもしれなかった。少佐の母親がよく弾いてたという、古いピアノを。少佐も小さいころやらされたことがあるが、まったくもって向いていなかった。父は息子に、いろいろなことをさせた。息子の方向性を見極めようとしている、ということは、なんとなくわかった。そうして自分と息子が、大変な似たものどうしであるということがわかったとき……そのとき、父はなにを思ったか? 軍人であることは、父の誇りだった。けれどもそれをまた息子の誇りとすることに対して、なにを思っただろう?
果たして、ピアノの音が物憂げに響いてきた。少佐は記憶の底で、この音を、この独特のこもったような響きを、確かに知っていた。母のピアノを、理屈で考えれば覚えているわけはなかったが、それでも確かに知っていた。それは重苦しく、甘ったるく漂う響きだった。少佐は微笑し、新聞をテーブルへ投げ、椅子の背もたれに頭を乗せて目を閉じた。ピアノのもの悲しい旋律を聞きながら、彼は意識が記憶と現在とのあいだでたゆたう感覚を味わった。
しばらくのち、執事のヒンケルが静かに食堂へ入ってきて……そうして、微笑を浮かべてふたたび静かにドアを閉めた。
ヒンケルさんは遠慮深い。