翌日の明け方、というよりまだ夜中といっていい時間に、少佐はAからの報告で目覚めた。枕元の時計は午前三時すぎを指していた。
「こんな時間に申し訳ありません、少佐」
 Aもおそらく部下のひとりからの報告で起きたのだろう。しっかりしてはいるが、まだどことなく眠気を引きずった声をしていた。美しい細君も目が覚めてしまって、Aの隣で心配そうな顔をして、夫を見守っているに違いなかった。
「よけいな気遣いはいらん。なにがあった」
 少佐はあえて冷たく云った。
「Dからたったいま報告がありました。エステンが借りていたドイツ銀行内の貸し金庫が破られて、中に入っていた資料が盗まれたそうです」
 Aの声は冷静そのものだった。
「カーンのチームのしわざです。あいつらはみごとにやってのけましたよ! 警備員を買収したらしいんです。巡回していた別の警備員が異変に気づいて通報しましたが、もう逃げ去ったあとのことで、あまり意味はなかったようですね……」
 少佐は一気に目が覚めた。実にすてきな目覚めだ! 彼は額に手を当て、ひゅうっと口笛を吹いた。
「カーンのやつ、いよいよとち狂ってきおったな。そんなことをしてただですむと思っとるのか? ……いや、そうだな、向こうさまは天下のBNDだ。お手柄だがいささかやりすぎだ、と注意されて終わりだろう。やつのやりかたは理にかなっとる。洗練のかけらもないが」
「ええ、少佐。われわれはまんまと出し抜かれたんです。申し訳ありません」
「おまえが謝ってどうする、ばか者。それより、このあとが問題だ。カーンのやつのことはよく知っとるが、あいつはすぐに資料を提出することはせんだろう。しばらく状況を楽しんで、たぶんおれに取引のひとつも持ちかけてくるんだろうな。くそいまいましいが。いまいるやつのほかに、これに割ける人員はいるか?」
「ええ、少佐、Bが現地にいます」
 少佐は予想外のことばにぴくりと眉をつり上げた。
「B? あいつは暇なのか? ミュンヘンにおるはずだろう」
 Bはほかの任務に忙殺されていて、エステンの件には関わっていないはずだった。
「昨夜遅くに片がついたんです。遅かったので報告しませんでしたが、国内最終便になんとか間に合うような時間に。本人は奇跡と云ってましたよ。Bはその足でバウツェンに向かいました。エステンの件を聞いて、どうも気になるって。カーン一味には、あいつもいろいろと恨みつらみがありますからね。あなたには云うなと云われましたが……実はDからの連絡のあと、Bからも連絡があったんです。あいつはいま、銀行から逃げたカーンの部下を追跡しています。あいつの追跡なら、まず信頼していいでしょう。DとEを貸してくれといわれたので、その通りにしましたがよろしかったでしょうか?」
 少佐はそれを聞いて、半ば本気で腹を立てていた。BはAのことをお母さんだのなんだのとよくからかうが、そのBのおせっかい焼きだって、Aといい勝負だった。
「よろしかったかだと? 追跡云々なんぞどうでもいい。あいつは少なくとも次の件に首をつっこむ前に、おれに報告して指示を仰いだ上で報告書を作らなけりゃならんはずだぞ。規定破りもいいとこだ。あのばかめ、ボンに帰ってきても、しばらくものを食わせるな。いいダイエットになる」
 Aは笑って、そうかもしれませんね、と云った。
「状況はわかった。首をつっこんじまったもんは仕方がない、Bからの報告を待つとするか。朝までに次の報告がなければ、なんらか手を打たねばならん。いずれにしても、電話をくれ。それからおまえの奥方に、夜中に迷惑をかけてすまなかったと伝えてくれ……」
 少佐は受話器を置いた。彼はもう眠らなかった。六時前に、また電話がかかってきた。
「おはようございます、少佐」
 Aはいついかなるときにも挨拶を忘れることのできない男であった。
「Bからの報告です。彼らはバウツェンから、ベルリンへ向かって走行中とのことです。おそらくは、このまま市内にあるカーンの自宅へ直行すると思われます」
「わかった。次にBから連絡があって、もしその通りなら、あとはほかの連中に任せてきさまはとっとと帰ってこいと伝えてくれ。おれが規定違反に怒り心頭だったとな」
「承知しました」
 きまじめにそう答えるAの声はしかし、半ば笑っていた。
 午前八時半前、Aからふたたび報告があった。Bの読み通り、資料はベルリンのカーンの自宅へ運ばれたとのことだった。Bからの伝言。少佐、心から謝りますから、どうかおれのめしを抜かないでください。
 少佐はしばらくひとりでくつくつ笑っていた。

 

「おれのせいじゃないですよ、少佐、やーな予感がしたんです」
 それが、少佐に報告の電話を入れてきたBの第一声だった。
「なんとなく胸がもやもやして、それから無性に腹が減ってきたんですよ。少佐も知ってるでしょ? おれのこの天賦の第六感!」
「おまえの第六感は、どうも胃袋あたりにあるらしいな、いつも思うんだが」
 少佐がそう云うと、Bはひとがよさそうに朗らかな笑い声を上げた。
「おかげで、昨日の夜からカリーブルストを五つも食っちまいましたよ! また女房にしかられるんだ、どうせシャツのシミとかなんかでばれるんですよ。うちの女房の勘のよさときたら、あいつがエージェントになるといいや! で、報告なんですが、少佐」
「続けろ」
 少佐は受話器を耳に当て、ベッドに転がりながら、もう半ばにやついていた。鷹揚でのんきなBの声は、必死のときでさえも、どこか周囲を笑わせるものを持っていた。
「Aが報告したこと以上につけ加えるものなんかほとんどないですけどね。おれは空港で車を手配して、ぎりぎりで銀行から滑り出した黒塗りのBMWを見るのに間に合ったんです。こいつは怪しいと思ったんで、とりあえずあとをつけました。車には男が三人乗ってましたが、助手席に乗ってたやつにどうも見覚えがあったんでね。やつらが給油したり小便したりしてるあいだに、おれはAに連絡したりDに連絡したり、Eが来るのを待ったり、この忙しかったこと! この際だから云わせてもらいますけどね、みんなおれの胃袋と膀胱が特大なことに感謝するべきなんだ! カリーブルストの五つくらい大目に見てもらわなきゃやってられませんよ! でもやつらは慎重でしたよ。途中で三度も車を変えました。最終的にベンツのタクシー車両に格上げ。そいつがくそったれのカーンの家にすべりこんでいくのを見届けたのが午前八時十一分。運転手役以外のふたりの男が家に入っていきました。タクシーはすぐにどっかに行きましたが、そっちはEの担当です。無害だとは思いますがね。おれは念のためしばらく家の様子を見張ってたんですが、八時三十五分に、カーンは愛用のベンツで出勤しました。車には、ちゃっかり部下たちも乗ってましたよ」
「資料を持って出たと思うかね?」
 少佐は報告を遮って訊ねた。
「確かなことは云えません。できたら確認したかったんですが、あいつの家には奥さんと犬がいるし、近づけばお隣さんから丸見えだし、気づかれずに覗くのが難しいんですよ。だから正確に云えば見てはいないんですが、まず間違いないですね。BND本部より安全な保管場所がありますか? セキュリティばっちり、入館管理きっちり。やつはきっと持っていったと思いますよ。一応自宅の監視にDを置いてきましたけど。遅くとも明日か明後日には、きっと少佐のとこに得意げな電話がいきますよ。あいつらにゃあ、情ってもんがないんだ。腹が立つなあ!」
 電話の向こうから、まったくだとか、ほんとにとかいう別の部下たちの声が聞こえてきた。
「で、見るとこまで見たんで、おれはDにあとを頼んでAに連絡しました。そしたら少佐がおかんむりだって聞いたんで、あわてて帰ってきたんですよ。おれからの報告は以上です、少佐。ほかになにか、おれにできることはありますか?」
 なんとまあ、Bはまだ働く気があるのだ!
「ない。とにかく今日は家に帰って、嫁さんに殴られて寝ろ。わかったな。しかし毎度毎度、おまえはおれがいないとすぐに規定違反をするな。こうも繰り返されると、おれにはもう、かけることばがない。今度から、きさまには誰か見張りをつけなけりゃならん。このばか者め」
 Bは少佐の声を、スピーカー機能で部屋中に拡散しているに違いなかった。受話器の向こうで、少佐のことばにあわせてどっと笑い声が起きた。承知いたしました少佐! とやたらと威勢のいい声で返事をして、Bは電話を切った。少佐は思わず声を出して笑ってしまった。

 

 部下からの報告ラッシュで、少佐はこの日のエステン氏とのうるわしき朝の習慣をすっぽかしてしまっていた。報告の嵐がひとまず落ちついたので、少佐はエステン氏の部屋に丁寧に詫びの電話を入れた。エステン氏は、銀行からとうに連絡が入っているだろうに、そのことはちっとも云わなかった。そのかわりに、ご一緒にお茶でもいかがですかな、と云った。
 ふたりはホテルのラウンジにあるバーで顔を合わせた。少佐は自分の知り得たことを報告し、エステン氏に心からわびた。
「こんなご迷惑をおかけするつもりはありませんでした」
 エステン氏は微笑し、首を横に振った。
「いいんです、少佐。あなたのせいではない。他人の邪魔が趣味という連中は、いつの時代にもいるものです。楽しい趣味かどうかは知りませんが。わたしの考えが甘かったんだ。第一、わたしは自分の持っている資料が、後日そんなに尊ばれるものとは思ってもいませんでしたからね。そんな話を聞かされたときには、なんだかうんざりしたものです。また、わたしのなにかが必要とされるようになろうとはね……」
 エステン氏は丸眼鏡を持ち上げ、椅子に深くもたれてため息をついた。
「まだ資料を取り返せる見こみはあります」
 少佐は云った。
「カーンの性格からいって、数日のあいだ、資料を自分の手元に置いておくはずです。もったいぶるのが大好きなもんでね。そのあとで、おれになんらかの取引を持ちかけてくるに違いない。あいつは、自分を顕示しなけりゃ気の済まない男ですからな。おれとしては、取引に応じてでもなんでも、とにかく資料はすべてあなたにお返しするつもりです」
 エステン氏は少し身体を起こして、真剣な表情で少佐を見返してきた。
「おれはあなたがそういう気になるまで、あの資料はそっとしておくべきだと思う。そのつもりなら、燃えてなくなったってかまうこたあない」
 少佐は微笑した。
「それはあなたが決めることだ。おれは正直に云って、あなたの寛大さに感服しとるんです。おれなら、資料をよこせと云われたとたんにぶち切れて全部燃やしたでしょうから」
 エステン氏は、長いことなにも云わなかった。沈黙して、じっと膝の上に置いた自分の手を眺めていた。やがて、彼はため息をつき、小さくうなずいた。
「感謝します」
 彼は目の前に置かれたままで、すっかり冷たくなったカップから飲み物を飲んだ。
 そのとき、伯爵がふらふらとバーに入ってきた。薄手の黒のニットに、ウールのガウンを羽織っていた。彼はふたりの座るテーブルへやってきて、曖昧な微笑を浮かべたまま、ふたりを見下ろした。
「あなたを探してここまで来ちゃったんですよ」
 伯爵は甘えるようにエステン氏に云った。
「今日着る服のことで相談しようと思ったのに」
「おやおや、それはすまなかったね。少佐と少し話をしていたよ」
 エステン氏が優しく諭すように云った。
「ずいぶん仲良くなりましたね?」
 伯爵はからかうようにふたりを交互に見やった。エステン氏は笑って、立ち上がった。テーブルをあとにする前に、伯爵は少佐に向かって、ちらりと気がかりな視線を投げた。

 

 部屋のドアを開けたとき、足下に封筒が落ちているのに気がついた。少佐はかがみこんで拾い上げた。白い厚手の封筒の表には、よく見知った非常に美しい字で少佐の名前が記されており、裏返すと時代がかった赤い封蝋がしてあった。その印章にも、少佐は見覚えがありすぎるほどあった。
 窓辺にしつらえられたソファに腰を下ろし、備えつけのペーパーナイフで封を開けると、伽羅の繊細な香りがかすかに広がった。少佐は微笑を浮かべ、その香りを余さず嗅ぎとろうとするかのように、大きく息を吸いこんだ。それは伯爵が夜になると寝室に必ず炊きこめる香りだった。寝室へ入っていくと、その非常に官能的な香りは、かすかにむせかえるような、染み入るような煙の刺激とともに鼻から入ってきて、少佐の五感に甘えるように訴えかけた。部屋じゅうに渦巻いているほのかな木の香り、そして伯爵が用いている龍涎香を使った香水の香り、薄暗い蝋燭の明かり、壁やベッドの天蓋からぶら下がる薄手のカーテンに映りこんで揺らめく、妖しげな影。香りにつられて、少佐は思い出した。伯爵は自身もまた男でありながら、誰よりも少佐を男であるという誇りに満ちた気持ちにさせた。あるいはそれは、男であるから可能なのか? そうかもしれなかった。少佐は天井を見上げ、しばらく封筒の開いた口に鼻先をあてがって、香りを嗅ぎ続けた。
 それから中の紙を引っぱりだした。厚手のクリームがかった高級紙は、パーティーの招待状だった。伯爵を囲む夕べ。主催、フランク・ゲルプマン。本日夜八時より。会場はベルリン郊外のゲルプマン邸。正装でお越しのこと。
 少佐は二度、招待状を読み返した。フランク・ゲルプマンなる男に心当たりはなかった。どの道伯爵のお友だちには違いない。伯爵は欧州いたるところにお友だちがいて、その都市を訪れると律儀に顔を出すのだ。そうするとすぐに伯爵のためのパーティーが開かれる。お友だち連中は皆、伯爵に会いたがっているからだ。
 伯爵の意図はわからなかった。少佐になにかを見せようというのか、それともただそばにいてほしいだけなのか? 決め手はなかった。少佐はしばらくぼんやりと天井を見上げたまま考え続けた。

 

 Aから朗報が入った。カーン夫人がテレビ通販で収納棚を購入しており、それが本日の夕方に配達されることになっているというのだった。カーン夫人は買い物魔で、ブランド品を買い占めるというより、安物を買い漁って身の回りをいっぱいにしてしまうタイプだった。カーンを知っている同業の連中は、皆このことを知っていた。しかしカーン本人はぜんぜん知らなかった。彼は善良だがあまり賢くない女を選んで結婚した。そしてそのことで安心しきっていた。結婚生活というものの中には、ある種男を鈍らせ、堕落させるものがひそんでいるのではあるまいか? 強引で切れもののスパイも、こと家庭においては気のつかない平凡な亭主だった。彼ら夫婦には子どもがなかった。そしてカーンは、少佐のように仕事でしょっちゅうあちこちを飛び回っていた。
 少佐はそれに飛びついた。DとEはすぐさま運送会社の配達員となるべく準備を開始した。応援として、下っ端のZがその見てくれのためだけに選ばれて派遣されることになった。Zはしょうことなしにバウツェンに飛び、作戦に加わった。
 午後五時半すぎ、DとEが配達員としてカーン宅への侵入に成功した。彼らは二階の部屋のひとつにものを運ぶよう夫人から指示を受け、夫人といっしょに階段を上がっていった。最後の一段を上り、夫人が部屋のドアを開けて場所の指示をし終えたとたん、玄関のチャイムが鳴らされた。夫人は対応するためにややいらだたしげに下へ降りていった。化粧品の訪問販売員に化けたZが、うるわしいスーツを着こなし、かすかに香水の香りをただよわせてにこやかに玄関前に控えていた。
 少佐はZの女受けする容姿を、実に正しく評価していた。見目麗しい男の化粧品販売員。カーン夫人は、そのいささか思わせぶりな取り合わせに一瞬驚き、Zの純朴そうなにこやかな笑みに引きこまれ、家具の組み立てなんて十分十五分はかかるでしょう、彼らに任せておくあいだ、少しこちらなど眺めてみるのはいかがですか、なるなめらかな誘い文句に誘われて、Zが居座ることを許してしまう。二階の様子を気にしながらも、目の前の麗しい、鍛えられた男らしい身体つきをしていながら、なにやら女性的なものを思わせる男がやたらと気になって仕方がない。いくつくらいかしら? 二十五とか六かしら? それとも七か八? あなたどうしてこんなお仕事してるの? ぼくには姉が三人もいるもんですから(Zはあきらかに伯爵を手本にしていた)、化粧品や女性の持ち物のことには詳しいんです……こういう業界に入ってくる男はまだ珍しいですから、採用されやすいんですよ……こちらのファンデーションなどいかがですか? 粒子が非常に細かいので、肌をぴったり覆って、赤ん坊の肌みたいになめらかにしてくれますよ…………あら、ほんとう…………
 この間、配達員のふたりは死にものぐるいの働きを見せていた。実際のところほとんど組み立てがすんでいた家具をとっとと設置して、怪しい場所をくまなく確認するのだ。確認が終わると、彼らは一階へ降りていった。終わりました、奥さん、まいどありがとうございました……配達員が出ていってしばらくすると、Zもそれとなくサンプルを置いて家をあとにした。G先輩の化粧品と、名称覚え書きが効きました、移動中に丸暗記ですよ、とはZの弁である。
 カーンはやはり、フィルムを家に置いておくようなまぬけではなかった。わかっていても、できるなら確認せずにはおかないのがエーベルバッハ少佐だった。これで万事休すだ、と少佐はベッドに転がって考えた。BND本部に侵入して、資料を盗み出すような芸当を披露できる部下はさすがにいない。そもそもそんなことができるスパイなどいるまい。自称(そしてたぶん実際に)世界一の怪盗エロイカあたりは別にして。でも彼は、セキュリティ対策万全の、のっぺりとして無粋な灰色のビルなど大嫌いだ。彼は彼のために仕事をする。そこにはなにものによってもおびやかされない誇りと自負がある。そして男の仕事というものは本来、そうでなければならない。
 エーベルバッハ少佐は、しぶとくしつこい不屈の精神に関しては定評があったが、どうにもならないとわかったときのあきらめのよさにかけても定評があった。少佐はひとまずカーンから資料を取り返すことをあきらめた。彼の異常性顕示欲は、必ずや少佐に連絡をして資料の交換を持ちかけずにおかないだろう。奪還の機会があるとすれば、やつが資料を持ってやってきたそのときをおいてほかにない。あるいは、条件次第では取引に応じるほうがいいだろう。この場合、エステン氏の小さな反抗の欲求が、少佐の名誉よりも重んじられるべきである。ほんとうの名誉とは、必要とあらば手放すこともできるものでなければならないのだ。

 

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