南の島にて

 

伯爵さまと南の島
 
 海は澄んだ青や緑に輝き、やや湾曲した三角形の島は美しく、水上ヴィラはかわいらしくて、伯爵はとても気に入っていた。彼は毎日上機嫌で、たくさんのお友だちと一緒に浜辺に転がったり、チーム分けをしてビーチボール大会をしたり、クルーザーで海上をぐるぐる回ったり、夜になれば音楽にあわせて踊ったりした。入り江や島の周囲には、どこかから連れてこられたイルカが泳ぎ回っていて、飛び上がったり、海面からちょこんと顔を出したりした。三日もたったころには、みんな少しは色が黒くなり、あるいは赤くなり、やせたり太ったりするのもいた。
 太平洋にぽつんとあるこの島は、小一時間も歩けば一周できてしまう小さなものだった。長いこと無人島で、天然のジャングルだったのを、さる男が島ごと買い取り、きれいなリゾートアイランドにして、伯爵の誕生日パーティーのために提供した。ほんとうは数年前にこうなる予定だったのだが、そのときの伯爵は、あんまり誰かと騒ぎたい気分ではなかった。後日パーティーをすっぽかしたお詫びを入れると、気のいい、優しいそのお友だちは、またそのうちに君の役に立てばいいんだよ、と云った。
 で、今年ようやくその島でのパーティーが開かれることになった。誕生日の一ヶ月も前から、島は準備で大わらわだった。あちこちから法外な報酬と引き替えに容姿端麗な青少年がかき集められ、教育され、すべてのヴィラは清掃され美しく飾られた。生活用品が運びこまれ、何十人もの人間のバカ騒ぎに耐えうる環境が整備された。やってくる連中はみんな贅沢で目も舌も肥えており、年齢はばらばらで、生活スタイルもバラバラだった。年寄り連中の中には夜の早いのもいたし、若いのの中には明け方が就寝時間というのも多かった。プライバシーは保たれねばならず、全員が全員快適な環境におさまるようにするのは、並大抵のことではなかった。島を提供した男は、伯爵の誕生日パーティーの主催者たる名誉とともに、そうした気苦労もしょいこまねばならなかった。
 四日目の今日は、誕生日パーティー本番だった。夜の九時からはじまるパーティーは、午前零時に最高潮に達するはずだ。その瞬間になにが起こるのか、伯爵はいまから楽しみだった。毎年変わる主催者は、手を変え品を変え伯爵を楽しませてくれた。今年はどんな誕生日を迎えるのか? 特別大きな水上ヴィラにこもって着替えをしながら伯爵は考えた。鏡に映った顔は、かすかに微笑んでいた。
 波の音が絶えずしているかわいらしいヴィラでは、くつろいで休むことができた。木でできた家は城住まいの伯爵には新鮮で、素足で歩き回れる木板の上を、伯爵ははじめ飽きずに歩き回った。白い壁と涼しげな麻のカーテンが部屋を区切っており、リビング、寝室、バスルームは広々していて、どの部屋の窓からも海が見えた。リビングから続く広いサンデッキにはプールがあって、直接海へ入って行けるように階段もついていた。海を見ながらプールに入るのは、男が女装するよりひどい倒錯なんじゃないかしらん? と伯爵はそれを見てしばし考えてしまった。
 この島では、自称十七になる近隣島出身の少年が、つきっきりで伯爵の面倒をみていた。ペペと呼ばれているその少年は、もともと本職がホテル勤務とかで、部屋の掃除や礼儀作法はしっかりしていた。でも伯爵の見立てでは、彼は十五かそこらにしかなっていないはずで、十二、三のころから働かされてきたに違いなかった。浅黒い肌の、大きな輝くような目をしていて、伯爵の白い肌と美しさとに気後れして、いつまでもおずおずした態度が抜けなかった。伯爵がお礼を云ったり、愛情表現に抱きしめたりすると、彼ははにかんで、どうしたらいいかわからないように、白い大きな歯を見せてそっと笑うのだ。伯爵は彼が気に入っていた。だからなんでも云いつけ、なんでもやらせた。宝石箱の中からアクセサリーまで取ってこさせた。それで、ペペ少年はすっかり感激して、伯爵のために懸命に働いた。毎日伯爵が目覚めると、リビングのテーブルやソファの周りには鮮やかな南国の花が散りばめられ、温かい紅茶が用意されていた。寝る前に戻ってくると、今度はベッドに花が撒いてあって、ろうそくがともされ、香木が焚かれているのだった。
 伯爵は毎夜のお祭り騒ぎにもかかわらず、たいへんくつろいでいた。潮騒の絶えることのない寝室で、海に囲まれてゆっくりと眠り、潮騒とともに目覚め、のんびり部屋で過ごしたり、誰かをからかったりしていた。ボーナム君命名「伯爵親衛隊」の面々は、非常に厳格な紳士協定を結んでおり、それを堅く守っていた。協定によると、伯爵のプライベートをみだりに侵すことは許されなかったし、伯爵の意に反して過度に接近することも許されなかった。伯爵の意志は最大限尊重されるべきであり、彼が許したぶんだけ、おのおの伯爵を愛することができた。そして、彼らはそれで満足していた。
 ペペ少年が小さな足音を立ててやってきて、うやうやしく入り口のドアをノックし、伯爵にパーティーの準備ができたことを伝えた。伯爵は襟のラインに沿って宝石が散りばめられ、ごく細い絹糸で丹念に織られたレースのついた美しいブラウスを着て、念入りにアクセサリーを選び、ペペ少年に手伝ってもらって、髪に赤いプルメリアの花を飾った。ペペ少年は、準備の整った伯爵を眺めて思わず瞬きした。
「君はもう帰って休まなくちゃいけないよ、ペペ。今日はきっと夜明けまでどんちゃん騒ぎだろうからね。明日の朝は遅いと思うよ。だから、君も明日は寝坊したってちっともかまわない」
 ペペは曖昧に微笑んで、相変わらず気後れしたように遠慮がちに、伯爵がお友だち全員の胸元に飾るために集めさせておいた、プルメリアがつめこまれた袋を差し出してきた。伯爵はそれを持って、ペペ少年にキスし、ヴィラを出た。
 風が吹いていて、涼しい夜だった。時刻は午後九時近かった。サンダル履きの足が心地よく、伯爵は微笑んで、袋をぶんぶん振って、きれいに舗装された、島の中央に設けられたレストランまでの道を歩いていった。このところ、サンダルが履けるというのは貴重なことだった。というのも、某少佐にとって足なるものは、やたらとひけらかすものではなかったからである。脚を出すより、足を出しているほうがいけない。目のやり場に困ってしまう、と彼は云った。だから、公共の場でサンダルを履くと顔をしかめられるのだ。この厳格な男にとっては、足というのは非常にみだらな部位らしい。
 鬼監督がいないので、伯爵は今日は久々に白い編みこみのサンダルを履いた。鬼監督は、今年も仕事だった。今年こそ行けんからな、と彼は云った。週末までは、どうあっても抜けられん。
 伯爵は信じていたし、信じていなかった。毎年彼は忙しい。どうあっても抜けられない。でも記憶によると、たしか去年も一昨年も、彼はやってきたのだ。今年は、今年こそほんとだ、と云ったので、ほんとうかもしれない。伯爵はあまり考えないことにしていた。そして彼が来たあかつきには、大げさな感謝感激の嵐を起こすつもりでいた。それでいいのだ。
 道の途中で、今年の主催者であるお友だちが待っていた。伯爵は彼に微笑みを投げ、手を握って礼を云い、頬にキスして、差し出された腕に手をかけた。男は感激して、伯爵の美しさをほめちぎり、来てくれたことに改めて感謝を述べてから、花嫁を連れてバージンロードを歩く父親のように、おごそかに、ゆっくりと歩きだした。彼はたしか、今年で六十八かそこらになるはずだった。ロシアのひどく貧しい村の出で、六歳で家も家族もなくし、スリをすることからはじめて、魑魅魍魎の中をくぐって身を立ててきた男は、でっぷり太って鷹揚そうな外見とは裏腹に、いまだにその淡い青色の目に油断のない、鋭い光を宿していた。でも彼は優しい男だった。生きるために鋭く辛辣であることと、ことのほか慈悲深く優しい人格とは、非常にしばしば仲良く同居しているものである。波瀾万丈の人生を送ってきた人間は、その人生同様規格外の優しさや寛大さをそなえているものなのだ。
 彼の優しさは、いまではほとんど全部伯爵に向けられているのではないか? 伯爵はそう思うことがある。伯爵は彼が何年か前にプレゼントしてくれた、アムールトラの毛皮のコートをいまだに大切にしている。トラを密猟するために、おそらく男は途方もない金額を方々に支払ったに違いなく、また満足のいく毛皮を持つトラを無傷で捕まえるためには、何年もかかったに違いなかった。ゆえに、それは金額などつけられるしろものではなかった。差し出されたコートを見たとき、伯爵はあんまり感激して、しばらく息をするのも忘れていた。インドの貴公子にもらったホワイトタイガーの毛皮とともに、それは伯爵のもっとも大切な毛皮コレクションのひとつになった。
 曲がりくねった道をゆっくり歩きながら、伯爵は押し黙って神妙にしていた。自分が途方もなくひとびとに愛されていることについて、伯爵はときどき怖くなるような気がすることがあった。自分のために毎年いったいどれだけのお金が動くのか、伯爵はよくわからなかったし、誰もそんなことを話題にはしなかった。でもとにかく、それはとんでもない金額であり、ひとりの人間が一生のうちに捧げられてよい限度を超えていることは明らかだった。なぜ自分がそんな幸福に恵まれているのか、伯爵は正直にいって、まったくわからなかった。
「なにを考えているんだい?」
 となりの男がそっと訊ねてきた。伯爵はその気遣うような声音に微笑んで、彼に頬をすり寄せた。
「人生の前半があんまり幸福だと、後半はひどいことになるって、あると思いますか?」
 男はまじまじと伯爵を見つめ返してきた。
「自分のことを云っているのかね? 君自身のことを?」
 伯爵が曖昧に微笑むと、男は笑った。
「君に関して云えば、伯爵、答えはノーだ。なぜなら、君は落ちぶれるには聡明すぎるからだよ。そしてうらぶれるには無邪気すぎる。聡明さと無邪気さをバランスよく持ち合わせている人間は多くない。君は、その見本だ。それもすばらしく美しい見本だ。わたしは、君のようなひとに出会えただけで、生きてきた甲斐があったと思うのだ。みんなそうさ。われわれは君から受けた計り知れない恩恵の一部を、不器用に返しているにすぎないんだ。われわれには、金銭的手段しかないからねえ! 君はなにも心配しなくていいんだよ」
 そうして、彼は母親のようなまなざしを向けてきた。ドストエフスキーが、ロシアの農奴が持つ不思議に母性的な一面について書いていた文章を、伯爵はふと思い出した。そうして微笑した。
 漆黒の空に星が青白く輝き、ふたりはそれを見上げて、微笑みあった。

 

 伯爵が島の中央に作られた大きなガゼボふうのレストランにたどりつくと、みんなもうテーブルについていて、すっかり用意ができていた。伯爵のお誕生日席は、きれいな白布と花でことのほか美しく飾られていた。伯爵は感激して、ひとりひとりにプルメリアの花を配って歩いた。主催者の心のこもった挨拶からはじまり、盛大な料理がふるまわれ、希少なワインの栓がどんどん抜かれていった。みんな平等に伯爵と接することができるように、伯爵のお誕生日席をのぞいて、ときどき席替えのゲームが行われた。大人たちは年甲斐もなくはしゃぎ、どこかから連れてこられたバンドが演奏する、南国気分たっぷりの音楽にあわせて踊った。
 真夜中の零時になった瞬間、上空に軍用機が飛んできて、鮮やかな誕生日おめでとうの文字を空中に描いて飛び去っていった。次々に花火が上がり、大きな焚き火が焚かれ、バンドが演奏するハッピーバースデーの曲とともに、伯爵の目の前にハート型をした大きな誕生日ケーキが運ばれてきた。大道芸人たちがわらわらとあらわれて、芸を披露した。伯爵はいっぺんに忙しくなった。出し物を見なければいけなかったし、ケーキも食べたかったし、同時にひとりひとりから豪勢な贈り物をわんさか受け取って、それに応えてやらなくてはならなかった。ひときわ際だっていたのは、ため息が出るほど美しい十四世紀の福音書写本と、新しく発見された油田で、今年の主催者は、伯爵に島を丸ごと贈った。伯爵はみんなにお礼を云った。
 パーティーは終わりを知らないかのようにいつまでも続いた。夜中の二時を回ったころ、給仕のひとりが足早にやってきて、伯爵に来客を告げた。彼はバラの花を一輪持っていて、伯爵に差し出してきた。伯爵は微笑み、礼を云ってから、バラの花に目をやった。花のつけ根のところに太めのリボンが結んであり、先端に、よく見知ったイノシシの紋章が入っていた。伯爵は悲鳴を上げ、手にしていたグラスを放り出して駆けだした。テーブルについていた連中は顔を見合わせた。
「もうパーティーはお開きだ」
 と、テーブルの隅のほうで葉巻をふかしていた男が訳知り顔で云った。それでみんな喜んだらいいのか、悲しんだらいいのかわからなくなった。

 

少佐登場
 
 伯爵は椰子の木のあいだに伸びる白い小道を走り抜け、桟橋へ急いだが、そのあたりにひと影は見あたらなかった。
「クラウス、クラウス!」
 彼は走るのをやめてあたりを見回しながら、桟橋を歩いていった。中ほどまで行ったところで、「ここだ、ここ」と応える声が浜辺のほうから聞こえてきた。伯爵は桟橋から飛び降りて、浅瀬を歩いて砂浜へ向かった。
 少佐は自分の横にスーツケースを置いて、浜辺の白い砂の上に座りこんでいた。静かで平和な浜辺に、のっそりとした黒い影がぽつんとあるのがなんだかおかしかった。伯爵は足早に近づいた。仕事からそのまま来たのではないか? 彼はスーツを着たままだった。ジャケットを脱ぎ、シャツの腕をまくりあげて、手先で熱心になにかやっていた。
「クラウス!」
 伯爵は少佐の横へ転がりこむようにして座った。少佐は彼を見て微笑し、すぐにあぐらをかいた太股の上に視線を戻した。伯爵もそこに目をやった。少佐は拾い集めてきたらしい流木をいくつか抱えていて、並べて長さを比べていた。
「なにしてるの?」
 伯爵は舞い上がるような気分をわざと無視して、なんでもないように訊ねた。
「どの木が具合がいいかと思ってな。ちょっと調べとる」
「なんのために?」
 伯爵は少佐の横顔を見た。相変わらず鋭さを隠さないつくりをしていた。尖った高い鼻の先、薄い唇、意志の強さを感じさせる顎、それから鷹のような鋭い目。でも伯爵には、彼がリラックスしているのがわかった。目も口元も、かすかにゆるんでいた。全身の緊張を解いて、ぼうっとしている少佐を見るのが伯爵は好きだった。彼は今年の誕生日会場を祝福したい気持ちになっていた。海に囲まれた孤島に来れば、さしものエーベルバッハ少佐も気を抜いていられるらしかった。
 少佐が振り向いて、唇を持ち上げて笑った。
「椅子を作ってやろうと思っとるからだ。流木を組んだやつを。おまえのクマ公に」
 伯爵の顔が輝いた。
「ほんとう? 彼、きっと喜ぶよ。ここにはウィスパー用の椅子がないんだもの。あるんだけど、ただの子ども椅子なんだ。問題はないんだけど、彼のサイズには、ちょっと合ってなくて」
 少佐は流木を自分のスーツケースの脇へ置くと、なにかを取り上げて伯爵の手に渡した。
「やる」
 伯爵は自分の両手に押しつけられたものをじっくり観察した。流木と貝殻で作ったモビールだった。太い流木の片端に、白やしま模様やピンクのきれいな貝殻が、釣り糸でくくられ、つり下げられていた。もう片方の端にはさらに流木がくくりつけられて、そこからまた二本の貝殻の列が伸びていた。伯爵は感激して大きく息を吸いこんだ。
「これ、もしかしていま作ったの?」
 彼はモビールを見つめたまま訊ねた。ライターの音がして、少佐が煙草に火をつけたのがわかった。
「材料は豊富だったぞ。海水で洗っといたが、あとでちゃんと消毒したほうがいいか知れん」
 伯爵はうっとりと小さな愛らしい貝殻を眺め、指で触れ、モビールを持ち上げて、貝殻をくるくる回した。
「暇なときに窓辺にでもぶら下げりゃあ、ちったあ夏らしくなるだろう」
 潮騒は静かに規則正しく、ふたりのあいだを流れていた。真夜中の浜辺は落ち着いて秩序立った確かな感じがあって、伯爵はふつふつとこみ上げてくるうれしさを、いつものように大げさに表現するのがためらわれた。彼は息を吐き出し、少佐にもたれかかった。
「ありがとう! すごくうれしいよ! 誰もこういうものはくれないんだ。さっきものすごくたくさんのプレゼントをもらったけど、こういうのは誰も。花の首飾りとか、きれいな貝殻とか石とか、そういうものは、みんな思いついてくれないみたいなんだ。美しい美術品や宝飾品を山ほど並べていても、そういうものがひとつもない部屋なんて、なんだか悲しいと思わない? わたし、自分の城に帰ったらこれを寝室の窓に飾るんだ。そうして、毎朝目覚めるたびに見るよ。そうしたら、この島のこと思い出すよ。君が来てくれたこともね。そうだ! 来てくれてありがとう」
 伯爵は首を伸ばして、少佐の頬にキスした。恥じらいがちな乙女のように静かに。少佐は肩をすくめて、伯爵の頬にかかった巻き毛をからかうように指先ではねのけた。
「島暮らしは楽しいかね?」
 少佐は伯爵の頭をぽんぽんとたたいた。伯爵はこくんとうなずいた。
「毎日泳いでるんだ。ダイビングもしたよ。それから、イルカと友だちになった。とってもかわいいんだ。皮膚がつるつるしてて、目は笑ってる。あとで君に紹介してあげるよ」
「そりゃどうも」
 少佐は云い、小さく笑って、短くなった煙草を捨てた。
「バラ、ありがとう」
 奇妙なもどかしさを感じながら、伯爵はそっと云った。
「イノシシマークつきリボンは、特注品?」
「親戚の結婚式んときの残りだ、執事の話じゃ。なにに使ったのか知らんが。大方結婚祝いでも巻いたんだろうな。おまえの家にはないのか?」
「知らない。あるのかな? あるんだろうね、きっと」
 少佐は前方の海を見つめ、それから気持ちよさそうに寝転がった。少佐はそういう男だった。久々に再会した場合でも、長ったらしい愛の挨拶もなく、熱烈なまなざしも抱擁もなく、うやうやしいキスもなかった。少佐のそういうところは、伯爵をなにか物足りない、もどかしい気持ちにさせた。でもたぶん、そのもどかしさすら愛していると云えるのではないか? 彼はふいに、自分が食傷気味だったことを自覚した。毎日甘ったるいことばや過剰な優しさや崇拝にどっぷり漬かって、身体じゅうべたべたになってしまっているという気がした。少佐はそういうのではなかった。彼は伯爵をそんな気にさせなかった。でも、その実彼は誰よりも愛情深い男であった。伯爵は自分の装飾過剰な衣装と、どう考えても行きすぎたお祝い騒ぎが、なんとなく恥ずかしいような気がしてきた。それで、彼は膝を抱えて小さくなり、サンダル履きの足をもぞもぞさせた。
「……夜の海はいいもんだ」
 少佐は目をつぶって云った。パーティーはもうお開きになったのか、島はしんと静かで、風が冷たく心地よかった。波の音が静かに、規則正しく寄せては返していた。伯爵はふと、海の真ん中にこうしていることは、この男の懐にいるのに似ている、と思った。
「……君がいなくなって、部下のみんなはひいひい云ってやしない?」
 少佐が微笑んだのがわかった。
「かもな」
「わたし、みんなにお詫びをして回らなくちゃあ。手みやげを持って、頭を下げて歩くんだよ。みなさま、申し訳ございません、そんなつもりはございませんが、わたくしが独り占めしているみたいで、気はとがめております、はい」
「どっかの愛人のせりふみたいだぞ」
 少佐はからかうように云った。
「だって君ときたら、方々から引っ張りだこじゃないか。自覚がないの? 浮気者」
 伯爵は少佐の胸の上めがけて倒れこんだ。それから泣きまねした。それから、黙って一緒に星が瞬く怖いくらいに広い空を見ていた。

 

少佐とペペ少年
 
 少佐はいつものように、目を覚ました瞬間に時計を確認した。サイドボードのデジタル時計は、午前九時半すぎであることを告げていた。少佐はひとつ息を吐いて目を閉じ、体調をざっと確かめた。長いフライトや時差にも関わらず、頭痛やだるさはなかった。短かったが充実した睡眠だったようだ。
 彼は隣でまだすやすややっている伯爵を起こさないように注意して、そっとベッドから抜け出した。いつ見ても伯爵の艶めいた巻き毛は圧巻だった。ことにこうして起きがけに眺めると、うねうねと巻きながら艶を放っている髪は、なにか不思議な生き物のように思われてならなかった。少佐は微笑し、シャツを羽織って、煙草を一本くわえた。顔を上げた拍子に、大きなベッドのとなりにちょこんと置かれたぬいぐるみ用のベッドに目がいった。ウィスパーは目を覚ましていて、頭にかぶったナイトキャップを脱ぎたそうにしていた。少佐は微笑して、手伝ってやった。パジャマを脱がせ、ベッドから抱き上げて、ベッド下の収納を開けた。彼はおしゃれなベアなので、自分のベッドと衣装用のスーツケースと一緒に旅行をする。宿泊先に着くと、ベッドが組み立てられ、収納スペースには衣類がしまわれるのだ。少佐はそれを見るといつも笑ってしまう。
 彼の衣装は、夏の島仕様だった。セーラーカラーのついたシャツや水平帽、しましまのつなぎになった水着、サングラスなどがきれいに並んでいた。ベッドにつけられたフックには、麦わら帽子とトイカメラがかかっていた。背板部分には浮き輪と釣り竿が立てかけられていた。その横に、たぶん昨日か一昨日あたりに浜辺から取ってきたと思われる貝殻が、青色のバケツに入って置かれていた。
 少佐は少し考え、錨マークがプリントされたTシャツと、水色と白のしましまの半ズボンを提案してみた。ウィスパーは同意を示し、喜んでそれを着た。少佐は彼を抱っこしたまま、静かに寝室を出ていった。
 リビングの大きな窓のブラインドはまだ閉まったままだった。少佐はそいつを開け、目の前にあらわれた迫力満点の太陽と海に目を細め、反射的に挑むような一瞥を投げた。朝っぱらから盛大に勝負していやがる、と少佐は思った。
 部屋の隅に小さな冷蔵庫が備えつけてあって、ミネラルウォーター、炭酸水、アルコール類の瓶などがからからと並んでいた。水を取り出してソファに座ると、煙草に火をつけ、ソファに沈みこんだ。テレビはあったが、見る気が起きなかった。新聞はあるだろうか? たぶんあるのだろうが、どうやって手に入れるのかわからない。使用人はいるのか? いないわけがない。でないと伯爵さまは生活できない。食事は? たぶん誰かがどこかで作っているのだろうが、少佐は伯爵のお友だち連中とは、できれば顔を合わせたくなかった。でも涙が出るほど美味だった機内食が昨日最後の食事だったので、腹が減っていた。生活システムをなにも訊かずに寝てしまうとは、自分もずいぶんのんきだと少佐は思った。
 かちゃりと小さな音がして、玄関のドアが開いた。少佐は意識を緊張させる気にもならず、首だけ動かしてそちらを見やった。十五歳くらいの浅黒い肌の少年が、びっくりしたような顔をして固まっていた。これでもかとばかりに見開かれた目に、少佐は笑いをこらえることができなかった。突然笑いだした男に、少年は警戒するような顔をして、さらに貝のように固くなった。少しのあいだ笑ってから、少年に話しかけようとして、さて何語を使えばいいのかという問題が頭をかすめた。少佐は煙草をもみ消して、少年に向かって手招きした。少年ははじめためらっていたが、おずおずとやってきた。
「Deutsch?」
 少佐はダメ元で訊いてみた。少年はさっぱりわからないという顔をした。
「English?」
 少年は首を縦に振ったものの、なんとなくおぼつかない顔をしていた。妙に愛らしいので、少佐は少年をからかいたくなったが、我慢した。
「Francaise?」
 少年の顔が輝き、ウイ、ムッシュウ、という威勢のいい返事が返ってきた。たぶん、このあたりの島からつれてこられた少年なのだろう。かつてこのへんはフランス領だったのだから。
「君があの手のかかるやつの世話をしとるのかね? 若すぎないか? 名前は? おれはエーベルバッハというもんだが。少佐だ」
 少年には、ドイツの名前の発音は困難を極めるらしかった。chに非常な難儀をしたあげく、なんとか本人なりに納得のいく発音になるまで、少佐は何度も云いなおしてやらねばならなかった。
「失礼しました、エーベルバッハ少佐(少年はまだつっかえつっかえだったが、なんとか云いきった)。ぼくはペペといいます。十七歳です(彼は堂々と云ったが、どう見てもそうは思えなかった)。伯爵のお世話をさせていただいています。ご用があれば、なんでもお申しつけください。はい、お風呂は入れます。お食事は、ご希望があればこちらまでお持ちします……伯爵は、いつも島の真ん中にあるレストランまで行きます。みなさんそこでお食事しますから。はい、雇われのコックが働いています。新聞ももちろんあります。無料です……」
 よく訓練された受け答えだったが、なんとなく取ってつけたような感じが否めなかった。彼は用向きを聞くあいだ、緊張してぴんとつっ立っていた。自然とそうなってしまうらしかった。どう見ても義務教育の範囲を出ていない少年が、このように朝早くから働いているというのは、なにやらあわれなものがあった。用向きのために出ていこうとしたペペ少年に、少佐は多めのチップを渡した。ペペ少年はどうしたらいいかわからない様子で、しばらく手のひらの紙幣を見つめていたが、少佐が早くしまうように云うと、はにかんだように笑って、ぴょこんと頭を下げて出ていった。
 ドアが閉まると、少佐は立ち上がり、テーブルの上にあったモビールを取り上げて、寝室の窓辺にそっとつるした。それからウィスパーの椅子を作るために、彼を抱えてサンデッキへ出ていった。

 

少佐と伯爵さまのお友だち
 
 目が覚めて最初に見たものは、窓辺にぶら下がって揺れるモビールだった。伯爵は思わず子どものようにうれしくなって微笑んだ。窓を開けて風を入れたら、景気よくくるくるやるに違いない。少佐がぶら下げてくれたのだ!
 伯爵は彼のプレゼントをしばらく満足した気持ちで見ていた。少佐は毎年、なんと心のこもったプレゼントをくれることだろう! たぶん少佐はこのモビールを作るために、ずいぶんな時間を浜辺で費やしたはずだった。ひょっとすると、軍用機が飛んできたり、花火があがったりしたときも、少佐はそこにいたかもしれないのだ。そしてそんなことは、ひとことも云わなかった。どんな裏技を使って仕事を抜けてきたのかも、どれほど長時間のフライトに耐えたのかも、どうやって島へ渡ってきたのかも、ひとことも云わなかったのだ!
 伯爵は微笑んで、幸福な気持ちの中に沈みこんだ。そうしてさらにそのあとのことを思い起こした。浜辺から起きあがって、砂を洗い落とし、一緒にバスタブにつかって少し騒いだあと、ふたりは満ち足りて大きなベッドに横になった。そうしてふいにお互いなにやら厳粛な気持ちになって、つつましく触れあったあと、眠ったのだ。単に触れるだけでひどく満足して。少佐といるとき、伯爵はとても少ないもので満足した。そして本当の幸福とはそういうものだった。伯爵はそれを知っていた。そしてそうしたことを知っていることに、とても満足していた。
 時計は十時半を指していた。まだ起きるには早いような気もしたが、うれしくて寝ていられなかった。それで、布団を跳ね上げて起き出した。少佐はもう起きていて、いなかった。相棒のウィスパーのベッドも空だった。リビングから紅茶の香りがただよってきていた。
 リビングへ行くと、ペペが忙しく立ち回っていた。
「おはようございます、伯爵。紅茶はいまできるところです。お風呂はすぐに入られますか?」
「おはよう、ペペ。お風呂は入るよ。紅茶飲んだら! それで、君は黒髪ののっぽの男を見なかった? もしかしたらこの部屋で! 彼がどこへ行ったか知らない?」
 ペペは訳知り顔で微笑した。
「はい、少佐は浜辺へ行きました。昨日の続きをやるそうです」
 伯爵は紅茶のカップを口へ運んでいた手を止めた。
「君たちは、もう知り合いになったの?」
 ペペはそれには答えず、またはにかんだように笑って、楽しそうな足取りでバスルームへ飛んでいった。

 

 少佐は気持ちよさそうな麻のシャツ姿で浜辺に座りこんでいた。伯爵が近づくと、振り返って彼を上から下まで眺め……伯爵は白い袖なしのカットソーとハーフパンツというシンプルな格好だった……サンダルに目を留めて、やや気むずかしそうに顔をしかめた。でもビーチでビーチサンダルを履かない人間があるだろうか? 少佐はすぐにそのことに気がついたように、しかめっ面を取り消した。
「やっと起きたか。おれは腹が減って死にそうだ」
「おはよう、ダーリン」
 伯爵はかがみこんで、少佐の頬にキスした。それから、目の前で進行している仕事を興味深く見つめた。少佐は流木を組み合わせて、浜辺に寝そべるためのデッキチェアにしようとしていた。形はもうほとんどできあがっていた。うまい具合に湾曲した二本と、背もたれの支えにする太い木が二本、それに脚にするための短いものが四本、ボンドと麻紐でうまいこと組まれていた。身体を預ける部分には柔らかいタオルを貼って、端を木に巻きつけて安全ピンで留めてあった。木のあちこちに、飾りにボンドで貝殻がくっつけられていた。ウィスパーは麦わら帽子をかぶって、できたばかりのデッキチェアに座ってご機嫌だった。
「やあ、ウィスパー! 君、すごくいい椅子をもらったねえ! これでわたしと一緒にサンデッキでも浜辺でも寝っ転がっていられるよ。君、帰るまでにこんがり日焼けしたベアになるんじゃない? あんまり焼きすぎちゃあいけないよ。皮がむけて痛いからね!」
 少佐は仕上げとばかりに、デッキチェアの横に小さい板を取りつけた。伯爵は拍手をした。
「すてきだ! 飲み物置き場もあるデッキチェアなんて、完璧だよ! ここのレストランで出るトロピカルジュースがとてもおいしいんだ。バナナとかマンゴーとかパッションフルーツとか、とにかくいろんな果物でできてるんだよ。わたしたち、毎日飲んでいるんだ。今日はまだだけど! 君、お腹がすいているんだったら、レストランへ行かない? 朝ご飯を食べなくちゃ。それとも、みんなと顔を合わせるのはいや? この時間だったら、だいたい年寄り連中が、新聞を手にごろごろやってるとこだけど」
 少佐は気乗りがしないようだったが、それでも伯爵をひとりで行かせるようなこともしなかった。伯爵はウィスパーを抱き上げた。ふたりは連れだって、島の中心めがけて歩きだした。
「君はみんなのことが好きじゃないかもしれないけど」
 伯爵は歩きながら云った。
「わたしのお友だちはみんな、君に興味津々だよ」
 少佐は顔をしかめた。
「おれはまったく興味がない」
「でも、知り合いも何人かいる。それも、職務上大事な知り合いだ」
「それはそうだ。だがこんなとこで会うのは心外だし、別にプライベートでも仲良くやりたいとは思っとらん」
「君は意図せずして、自分の意図とは反対の結果を招こうとしているよ。よくあることだけど。もしも君が、みんなにそれなりに愛想よくして、適当に輪に加わるような男だったら、誰も君のことなんか相手にしなかったろうな。でも、君は誰に対しても興味を示さない。何年たっても! だから、みんな君に興味を持たざるを得ない」
 伯爵はくすくす笑いだした。
「思うに、君はそうやってずっと、既存のコネクションを自分にいいように利用することを避けてきたんだろうな。君の血筋や、お父さんの人脈や、そのほかいろいろ。だから君は万年少佐なんだよ。でなきゃ、いまごろとっくにずうっと偉くなって、椅子に座って煙草ふかして終わる一日を送れるようになっていたかもしれないのに」
 少佐はあきれたように伯爵を見やった。
「おまえはおれに、一日中運動ゼロ座りっぱなしのせいで腹の突き出した部長だの、ミスターLだのみたくなってほしいのかね? ふたりとも、あれで昔はすらっとしとったんだから恐れ入る」
 伯爵は大笑いした。
「君のお腹が出てきたら、ぽっこりお腹を好きになるように努力してあげる。いまだって、別に嫌いじゃないよ。ボロボロンテさんのお腹が引っこまないのは、わたしがときどきそこでくつろいでるせいじゃないかって思ってるんだ」
「ありうる話だ」
 少佐は顔をしかめた。

 

 エーベルバッハ少佐は、グローリア伯爵ならびに怪盗エロイカと個人的親睦を深めていることと、その取り巻き連中と知り合いになることはまったく別問題だと考えていた。これで伯爵の家族親族であるとかいうなら話はまた別だが、ぜんぜん関係のない、単なる彼の信奉者と関係をこさえるつもりなどさらさらなかった。どちらかというと、少佐はそういう連中が嫌いだった。利用しがいのある人間の宝庫だということは、確かに間違いなかった。石油利権の頂点にいる男、株式相場を牛耳っている男、あらゆる武器の密輸に通じている男、腕の立つ殺し屋や情報屋、彼らを味方につけることさえできれば、エーベルバッハ少佐の日々汗水たらしての情報活動はぐっと楽になり、部下どもの危険は減り、部長の機嫌はよくなり、予算は大幅に黒字に転じるだろう。それでも、少佐はそうするつもりはなかった。伯爵がいみじくも云ったように、少佐は降ってきたような幸運を決して自分の取り分とは認めない、見ようによってはばかばかしいプライドの持ち主だった。伯爵の人脈と人間関係は伯爵のものであり、それを横からかすめ取るようなやり方は、少佐のもっとも不服とするところだ。
 レストランへ入っていくと、伯爵はあたりのテーブルに散らばっていたみんなににこやかに挨拶し、昨夜のパーティーやプレゼントのお礼を云った。若いのはまだ寝ているのか、朝の早い年寄り連中が多く、二、三人でカードゲームをやったり、話しこんでいたり、ひとりで優雅に新聞を読んだりしていた。自分の従僕を連れてきているらしい男もいて、がみがみとなにか云いつけて、走らせていた。
 伯爵は自分の席と決めているらしい東側の隅の席に少佐を連れていった。少佐は自分が控えめだがしっかりと観察されていることを意識した。伯爵の話では、お友だちの少佐に対する意見はくっきり二派に分かれており、あんな男とつきあうなんて正気の沙汰じゃないと嘆く者たちと、彼はなかなかいい男だと認めている者たちとのあいだで、いつも云いあらそいになるのだということだった。
 席に着くと、すぐに給仕の男が飛んできた。どこの国の男なのか、ちょっとすぐには判断しかねた。おそらく三十代だろうが、赤銅色に焼けた肌はもとの色を判別するのが困難で、濃い茶色の髪と目はありふれていた。彼は伯爵にうやうやしくメニューを差しだし、少佐にも同じようにしたが、この見慣れない男にやや警戒した態度を示した。
「パンケーキが食べたいな」
 と伯爵は云った。
「それにジュース。卵とベーコンを添えてね。君は?」
 少佐は卵とベーコンには賛成だが、パンケーキは勘弁してもらいたいと云い、丸パンをもらうことにした。ジュースにも興味がなかったので、コーヒーを頼んだ。
「ここは禁煙かね?」
 少佐が訊くと、給仕の男はうっすらと笑って否定し、きびきびと引き下がった。
「あの男は、二十カ国語くらいできそうだな。どの国でも生きていけるやつだろう、たぶん。どのテーブルの会話にも、耳をひくひくさせとった。まともな仕事のやつじゃない」
 給仕の背中を見ながら、少佐は云った。
「わたしは直接聞いたんだけど、十二、三はこなせるって。正規なものとブロークンなものを別と考えると、その倍近くになるって云ってた。職業がなんなのかは訊かなかったけど、たぶん、云われた仕事はなんでもこなすだろうね。いざとなれば、給仕にだってなるわけさ。金払いがよければね」
 少佐は鼻を鳴らして、広々と開けた空を眺めた。
 食事が運ばれてきてしばらくすると、ふたりの座るテーブルに、すっとひとりの男が近づいてきた。
「やあ、ミーチェク」
 彼は伯爵を敬愛し崇拝するチェコ出身の殺し屋で、うっとりと夢を見ているような顔立ちの、長身金髪の美青年だった。ぱっと見には、ひどくなよなよした文学青年かなにかに見えるが、腕は確かだと評判だった。彼はどんなものでもひとを殺せた。特になにもなくても殺せた。そして、とてつもなく敬虔な信徒だった。少佐は彼を知っていた。また、彼のほうでも少佐を知っていた。が、まだ互いに知り合いではなかった。
 ミーチェクは伯爵の前にひざまずき、その手にうやうやしく口づけた。
「おはようございます、伯爵。ご気分はいかがですか? 今日も、あなたはまったくまぶしいほどおきれいです……」
 彼は完璧な英語を話した。伯爵は微笑し、お礼を云った。ミーチェクはなおしばらく、伯爵をうっとりと見つめてひとり無上の幸福に浸っていたが、やがて幾分腹立たしげに振り返って、立ち上がった。
「あなたにお話があります、エーベルバッハ少佐」
 その態度は先ほどまで伯爵に向けられていたものとは正反対で、冷たくよそよそしく、刺々しかった。少佐は相手の敵意のほどを感じ取って、眉をつり上げた。なかなかいい気分だった。
「君たち、知り合いだったっけ?」
 伯爵がからかうように云った。ミーチェクがすぐに振り返って、弁明するように口を開いた。
「いいえ、伯爵、正式には、お互いにまだ知り合いではありません。ですが、それは問題ではないのです。わたしはいわば使者の役目なのですから」
 伯爵は肩をすくめた。
「それなら、ともかくその椅子に座りたまえよ。それで、君の伝言を伝えるといいよ」
 この島に集まってきた連中は、相互に実に不思議な関係を築いていた。普段は利害の対立する者も多く、異なる組織や国家に肩入れしている者どうしではあったが、それを越えた裏社会というくくりの中では、皆仲間だという意識を共有しているのだった。彼らのあいだでは、仕事上の秘密というものは作るだけ無駄だった。どうせいずれは知られてしまうことになるのだし、それがどういう形で誰に利益をもたらすものか、想像のつかないところもあった。彼らは開けっぴろげだった。どんな後ろ暗い話も、皆のいるところで堂々となされ、皆それを聞き、そして同時に、誰もそれを気にしていなかった。少佐は伯爵の取り巻き連中とは距離を置いていたが、彼らからは実質的に身内と見なされていた。というのも、少佐本人は気づいていなかったが、情報部少佐としてのエーベルバッハ少佐は、彼らと同じ言語を話し、同じ雰囲気を持ち、同じ常識を共有しているからだった。彼らは皆、結局のところ同じ世界に属する人間だった。
「ありがとうございます、伯爵」
 ミーチェクはうやうやしく伯爵に一礼して、隙のない物腰で空いていた椅子に腰を下ろした。それから、少佐に静かな敵意に満ちた顔を向けてきた。
「単刀直入に云います。そのほうが、お互いのためにいいでしょう。あなたはローラント・ヘッセルという男を知って、というより、探していますか?」
 少佐は眉をつり上げた。
「知っとるし、探しとるよ。その男については、東西ドイツの統一からこっち、ずっと捜索が続いとるが、まだ見つかったという報告は受けとらん。もっとも、探すほうも最近じゃそう熱心とは云えんがね。ほかにも仕事は多いもんで」
 ミーチェクは片眉をぴくりと動かした。
「そうですか。ではひと違いではありませんね。その男ですが、身柄を引き渡すとしたら、どの程度の価値があるのか知りたいのです。正確には、知りたいのはわたしではありません。わたしはある男の依頼によって、ヘッセルを殺すことになっていました。でも、実行の直前になって、その男がどういう人間であったかが判明し、彼がかつてなにをし、なぜ素性を隠して生きてきたのかもわかりました。わたしの依頼人は、もしもそのほうが得だと判断できれば、ドイツへ身柄を引き渡すつもりがあるのです。そうでなければ、わたしは依頼通り彼を殺します。はじめに云っておきますが、わたしや依頼人を出し抜こうとしても無駄です。彼の身柄は確保してありますから」
 少佐はうっすらと微笑した。ミーチェクという青年は、相変わらず敵意に満ちた、しかし表面上はそうと知れない表情を浮かべて少佐を見守っている。伯爵はというと、ふたりの話に割って入るつもりもないのか、優雅にデザートのフルーツをつついている。少佐は考えこみ、顎をさすった。彼は休暇中のクラウスではなく、すっかりエーベルバッハ少佐になっていた。
「魅力的な取引きといえるかどうかは、この場合、おたくの依頼人の憎悪のほどにかかっとるのと違うかね? 確かに、やつは統一のどさくさに紛れて国庫から金をちょろまかして逃げやがった。それもなかなかたいそうな金額だったらしいしな。もちろん国にとっちゃ犯罪人だが、誰も個人的な被害は被っとらん……まあ、いま仮におれがそいつの身柄を引き受けて、連れ帰ったとしよう。そうすると……特になにも起きんだろうな。法に則って裁かれ、ぶちこまれておしまいだ。当時血眼になってやつを追っかけ回した連中なら万歳くらいはするか知らんが、それがおたくの依頼人が望む屈辱をヘッセルのやつに与えるもんかどうかは知らんよ」
 ミーチェクは表情を変えなかった。少佐はにやりと笑った。
「ヘッセルのやつは、いったいどうやって殺人依頼が出るほどの恨みを買ったのかね? わかるような気がする。現役時代を知っとる連中に云わせると、やつは根っからの女好きだったそうだ。なかなかの男前で、女なしでいられんタイプ。その線でヘッセルを追いつめようと奮闘しとったのがいた。一昨年死んだがね。おおかた、そんなもんだろう。手を出しちゃいかんのに出したか、調子に乗ってやりすぎたか。いずれにしても、はっきり云うが、おれの知ったこっちゃない。ヘッセルは正直もう過去の男だし、そういうごたごたは、本人同士でけりをつけてくれ。どこも個人の名誉だのプライドだのその報復だのを肩代わりするほど暇じゃない」
 沈黙が流れた。さっきまでざわついていたあたりのテーブルの連中も、いまは静まり返っていた。少佐は煙草に火をつけた。ミーチェクが、短く、しかし安心したように、息を吐き出した。それが合図になったかのように、周りの連中はまたおしゃべりや、カードゲームを再開した。
「それを聞いて満足です。正直なところ、依頼人は怒りのあまり少々見境がなくなっているのです。普段ならばこんな質問をするために誰かを派遣するような男ではありませんが、いまはヘッセルをもっとも痛めつける方法を探し出すためなら、なんでもするでしょう。わたしだって、彼が長いつきあいのある依頼人でなければこんな役目を引き受けたりしませんでした。せっかくの伯爵の誕生日だというのに! でもわたしの仕事はこれで終わりです。帰ってやつを殺すとしましょう。依頼通り、もっとも痛ましく残酷な方法で」
 ミーチェクはほんの一瞬、唇を奇妙にゆがめた。それが彼にとっての会心の笑みだということを、少佐はあとで伯爵から聞いた。
「おもしろくもない話を持ち出してしまって、申し訳ありませんでした、伯爵」
 ミーチェクは立ち上がり、ふたたびひざまずいて、伯爵の手にうやうやしく口づけた。
「どうかお許しください! そして残念ですが、わたしはこれでおいとまします。またお目にかかれるでしょうか? わたしでお役に立てることがあったら、いつでも声をかけてくだされば、すぐに駆けつけます。あなたの哀れな子羊のことを、どうかお忘れになりませんように」
 伯爵は告解僧さながらに微笑し、ゆっくりとうなずいた。
「もちろんだよ。またね、ミーチェク」
 ミーチェクは名残惜しそうに伯爵の手に頬ずりをし、もう一度音を立てて口づけると、やおら立ち上がって、振り返りもせずに足早に立ち去った。
「ありゃいかれとる」
 少佐は新聞を広げて、そう云った。
「迷える子羊の一匹さ」
 伯爵は微笑し、運ばれてきた食後の紅茶をおいしそうに飲んだ。少佐ははん、と云った。

 

少佐とボロボロンテ
 
 伯爵は食後しばらくすると、今年の主催者に今夜の予定を聞いてくる、と云ってレストランを出ていった。伯爵はあれでなかなかまめなので、忙しいのだ。少なくともお友だちの好意を無視して自分勝手に振る舞うことは、どうしてもできない性分らしい。
 少佐はぶらぶら寄り道しながらヴィラに戻った。途中、桟橋に小型のボートが停泊しているのが見えたので、少佐は近づいていった。殺し屋のミーチェクが、早くも島をあとにしようとしているところだった。ふたりは冷たく静かな敵意に満ちた……少佐にとっては半ばからかいに満ちた……視線を交わした。
「あなたに見送っていただく筋合いはありませんが」
 ミーチェクはおそろしく古びた皮のスーツケースといっしょにボートにひらりと飛び乗ると、振り返って云った。
「別に君を見送りにきたわけじゃあない。おれは自分の散歩をしとるんだ」
 少佐は大変機嫌がよかった。ミーチェクはばかにしたように鼻を鳴らし、きびすを返して、ふいにもう一度振り返った。
「わたしは、あなたが嫌いです」
 ミーチェクは静かに云った。整った青白い顔には、世間話をするときのような気楽さがあらわれていないでもなかった。少佐は肩をすくめた。
「もちろん、伯爵がお選びになった男として払うべき敬意は払います。当然でしょう。わたしはそこまで礼儀知らずではありません。ですがあなたは、伯爵のような方に払ってしかるべき敬意や崇拝を、まったく払っていません。あの方は、誰からであれ、最大の敬意と尊敬をもってうやうやしく扱われるべきです。それが恋人からであればなおさらのことです。あなたの伯爵に対する振る舞いには、正直我慢なりません。でも、わたしはそれをとやかく云える立場にありません。わたしはあの方のなんでもありません。なにかになれるなどと考えることじたい、おそれ多いことです。ですが、わたしにはたったひとつだけ、伯爵のお役に立てる技能があります。もしもあの方があなたを見限ったあかつきには」
 ミーチェクはまた例の、唇を奇妙にゆがめるとっておきの笑みを浮かべた。
「わたしはすぐにあなたを殺す許可をいただくつもりでいます」
 ミーチェクはそれだけ云うと、すぐに首を回して、ボートを操縦している男に出してくれるように云った。男はおとなしく従い、ボートは大きなエンジン音を立てて遠ざかっていった。
「相当いかれとるな」
 少佐はひとりごとを云った。これまでに、殺し屋に殺してやると何度も云われてきているので、少佐はすっかり慣れていた。そのうちの誰かにいずれ殺されるかもしれないが、少なくとも少佐はいまはまだ生きてぴんぴんしていた。そしてそれで満足だった。
「ミーチェクのやつ、妬いてるのさ。気にしないでくれ」
 後ろからふいに声をかけられ、少佐は振り返った。伯爵の大好きなボロボロンテが、ゆったり葉巻をふかしながら桟橋を歩いてやってくるところだった。彼はアロハシャツを着ていた。いつもイタリア製の高級スーツで決めている彼しか見たことがなかったので、ラフな格好をしているとなんとなくおかしな感じがした。
「あいつはしょっちゅう殺す殺す云ってるし、実際よく殺すんだが、道理は守るやつだし、そんなに悪い男じゃねえんだ。ネジがちょっと締まりすぎて飛んでるとこもあるがよ。妙に青いとこもあるしな。純粋ったらいいのか。伯爵は、あいつの聖なるマリアさまなのさ」
 少佐は気にしていないと云うかわりに、肩をすくめた。ボロボロンテは横にやってきて、サングラスごしに親しげに少佐の顔をのぞきこんできた。
「元気そうじゃねえか。うれしいぜ。噂じゃ忙しいらしいが。ゆっくりしていけるのかい? だめなのかい? そうか、伯爵ががっかりするだろうな」
 少佐は曖昧に微笑するにとどめた。ボロボロンテはたいてい、少佐がなにも云わなくても勝手にしゃべっているのだった。
「そりゃあそうと、ミーチェクのやつがあんたに話しかけたんで、ほかの連中もあんたと話せるんじゃないかと思って狙ってるぜ。気をつけたほうがいい。じじいどもがやりたいのは、“自分が誰よりも一番伯爵をよく知っているんだゲーム”だからな、わかるだろ?」
 少佐にはよくわかった。伯爵が何年前に、どこそこで、なにをした話は知っているかね? あの話は? こっちの話は知らないだろう、わたしは彼とは長いつきあいで、なんでも話し合う仲なんだ……勝ち誇ったような笑み、満たされた虚栄心……少佐はふきだしそうになるのをなんとかこらえた。少佐はそういう「知っているゲーム」には興味がなかった。それに伯爵は、謎が多いほうが魅力的なタイプだ。
「ご忠告どうも」
 少佐は云って、桟橋をあとにした。数歩歩いてから、ふと思いついて少佐はそっと振り返り、ボロボロンテの腹を見た……実に愛らしくぽっこりしていた!

 

少佐と太陽の勝負
 
 少佐はぶらぶらとヴィラに戻った。なにをしたいわけでもなかったが、ふと思いついて、新聞を手にサンデッキへ出ていった。クマのウィスパーのためにこさえたデッキチェアは、テディベアサイズにも関わらず、広いサンデッキの中でかなりの存在感を発揮していた。当然だ。エーベルバッハ少佐お手製なのだから。少佐は誇らしい気持ちになり、目の前にどこまでも広がるエメラルドグリーンの海を眺め、人間用のデッキチェアに転がった。ふたつ並んだチェアの真ん中に置かれたパラソルの隙間から、日差しが少佐を挑発するようにちらちらと現れたり消えたりしていた。やったろうじゃねえか、と少佐は思い、潔く、男らしくパラソルをすぼめてたたんだ。すると太陽は命知らずにも挑発に乗ってきた男に「ちょこざいな」とでも云いたげに、少佐に向かって強烈な光線を照射してきた。来るなら来い、と少佐は云い、自分の男らしい決断に満足してにやついた。
 少佐は日差しの総攻撃がなんらこたえていないことを示すために、新聞を広げ、涼しい顔で読みだした。しばらくすると汗が出てきた。なんの、と少佐は思った。この程度のことで根を上げていたのでは、エーベルバッハ少佐の沽券に関わる。
 ふいにからからと窓が開く音がした。
「パラソルをささないのですか?」
 ペペ少年だった。彼はバケツと雑巾、ほうきとちりとりを手に、掃除にかかろうとやってきたところらしかった。少佐は振り返って、微笑した。
「おれはいま太陽と勝負しとるのだ。神聖な男どうしの戦いだぞ」
 ペペ少年はよくわからないという顔をしたが、すぐにそれを引っこめ、
「せめて飲み物くらいそばに置いてはいかがですか? それとも、ルールで禁じられているのですか?」
 と理解力のあるところを見せた。
「いや、それは取り決めになかった。ビールがあれば、たぶんいい勝負ができるはずだ」
 ペペ少年は部屋へ駆け戻って、よく冷えたビールの瓶とグラスを持ってきた。このあたりのどこかの島のビールらしく、瓶には南の島のイラストシールが貼ってあった。
「この勝負はどうなると思うかね?」
 少佐は機嫌がよかった。
「太陽と戦って勝てるひとがいるとは思えませんが」
 ペペ少年は、少佐の機嫌を損ねないだろうかと気遣うように、遠慮がちに云った。
「確かにそうだ。まあ要するに、これはお遊びなんだ。お互いに」
「やりすぎに気をつけてください」
 少佐よりはるかに大人の配慮を示して、ペペ少年は掃除のためにヴィラの中に引っこんでいった。少佐はグラスを持ち上げて笑った。

 

「なにかご用はありませんか、エーベルバッハ少佐」
 ペペ少年が、掃除を終えてふたたびサンデッキに顔を出した。少佐は新聞から顔を引きはがした。彼は、なんと勤勉に働くことだろう! ペペ少年は、軽く汗をかいていた。額と、唇の上や鼻の頭に、小さな汗の粒がのっかっていた。彼は、身体つきはすらっとしていたが、浅黒い頬はまだやや丸みを帯びていて、全体に幼い感じが抜け切れていなかった。少佐は、この少年は絶対に十五より上ではないと感じた。そして彼の職務態度は、一、二年の見習いで身につくようなものではなかった。
「自分の飲みたいものを持ってこい」
 少佐は命令した。
「それで、このおれの隣の椅子に転がるんだ」
 ペペ少年は、明らかに動揺していた。目を白黒させ、云われた通りにしていいものかどうか迷っていた。
「おまえはもう一日分働いた」
 少佐はややいらいらしながら云った。
「おれが殺し屋に殺してやると云われたり、太陽と戦ったりしとるあいだに」
「殺し屋に殺すと云われたのですか?」
 ペペ少年の顔が不安げに、しかし興味深げに一瞬輝いた。
「ああ、そうだ。ついさっき、ここに帰ってくる前に。いいから早くなにか持ってこい。そうしたら、その話をしてやる」
 ペペ少年は冷蔵庫へ飛んでいった。そして、ココナッツウォーターのボトルを持って帰ってきた。
「ここに転がるんだ」
 少佐は自分の横のデッキチェアを指した。ペペ少年は、おそるおそる云われたとおりにした。見つかってしかられるのを怖がっているように慎重に。でもしまいには、彼はデッキチェアの寝心地に顔を輝かせた。
「一度、こいつにごろんと転がってみたいなと思ってたんです」
 少年はうれしそうに云った。
「ぼくたちは、夏のあいだそういうお客さんを山ほど見るんです。でも、ぼくたち自身はぜったいにそういうことをする機会に恵まれないんです」
 少佐はパラソルを広げ、ペペ少年だけに影ができるようにした。
「まだ勝負は終わらないのですか?」
 ペペ少年が、ややあきれたように訊ねてきた。
「まだだ。いまいいところなんだ。君は傘の下で涼んでいるといい」
「でも、ぼくの肌のほうが、あなたの肌より太陽に強いと思います」
 彼は少佐の白い肌と、自分の浅黒い肌を見比べてこだわりなく、おもしろがるように云った。
「ホテルの白人のお客さんが、真っ赤に日焼けして痛い思いをしているのを見ると、ぼくたちはあとで笑うんです。ぼくたち、皮はむけても焼けただれたりはしないもの」
 少佐もペペ少年の肌と自分の肌を見比べた。
「まったくだ。太陽光線に関しては、われわれの肌は無抵抗で、貧弱そのものだからな」
「だから、少佐、あなたがパラソルの下にいるべきだと思います」
 彼はそう云って、パラソルを少し押し戻し、ふたりに平等に影が行き渡るようにした。それから彼らはお互いに顔を見合わせて、笑った。
「少佐、ひとつ質問をしてもいいですか? あなたはどの軍の少佐ですか? 陸軍? 海軍? 空軍ですか?」
 ペペ少年はすっかり気分がほぐれて、勤労少年からごく普通の少年に戻っていた。少佐はくつろいでいて、というよりややだらけていたので、それが少年の気分にも影響しているらしかった。だいたい、南の国は労働に向いていない、と少佐は考えた。暑くて日差しがかんかんで、こんな陽気な場所では、誰もせこせこ働くことなどほんとうは考えたくないに違いないのだ。
「陸軍少佐だ。それがどうかしたかね?」
 少佐はビールを飲み干した。ぬるくなったそれは、甘ったるかった。
「ぼくの二番目の兄が、フランスの陸軍大佐の家にお世話になっているんです」
 少佐はペペ少年を見やり、先を促した。
「ぼくは五人きょうだいなんです。兄がふたり、姉がひとり、ぼく、それに妹がいます。一番上の兄と姉はもう結婚していて、二番目の兄は、大佐の好意でフランスの高校へ進学して、いまは大学に通わせてもらっているんです。彼はすごく頭がよかったんです。本人も、ぼくたちもちゃんとした学校へ進学してほしかったけど、うちにそんなお金はなかったんです。父は一生懸命働いていたし、兄も働いていたけど、それでも無理でした。それであきらめかけていたときに、大佐が夏のバカンスに、父の働いているホテルにやって来たんです。それでたまたま父が世話係をつとめることになりました。大佐はいいひとで、ぼくの兄の話を聞いて、本人にも会って、兄のことが気に入ったみたいでした。もし自分の養子になる気があるのなら、フランスへ連れていって学校へ通わせると云ってくれたんです。兄はそうしました。それ以来、ぼくはお客さんが軍人と聞くと、なんとなく親しみが持てるような気がするんです」
「その大佐は、いくつぐらいの方だね? 年輩じゃないかと思うが」
 少佐は興味を持って訊ねた。
「はい、島へ来たときには、もう間もなく引退するところでした。恰幅がよくて、背も高くて、とても立派な方なんです。みんなに尊敬されているって、兄はよく自慢します」
 養子というのはいい手だ、と少佐は考えた。少佐の父親も、ひょっとすると暇を持て余して養子のひとりくらいもらいかねなかった。軍人には、少なくとも少佐の父親のまわりには、不思議とそういう話が多かった。もしかすると、軍人、とりわけ将校クラスの軍人は、男を一人前の男に教育することにとりつかれているのではないか? 少佐はそう思われてならないことがあった。現に少佐の父親は、いまもって教育者たる父親の役目を手放そうとしていなかった。少佐がいくら成人をとっくにすぎた年齢になっていても、一人前以上に仕事をこなしていようとも、嫁をもらうまで、そして嫁をもらったら子どもが生まれるまで、子どもが生まれたらその子どもが一人前になるまで、たぶん少佐の父親は父親であり続けるだろう。少佐はそんな気がしていた。そして嫁をもらう自信は、いまの少佐にはなかった。とすれば、あの父親には、養子でもあてがうといいのではないか? そうすれば、彼は生き生きと父親であり続けるだろう。
 少佐がそう考えているあいだ、ペペ少年はもの思わしげな顔つきで海を眺めていた。少佐はふと、この少年はどうなのだろうと思った。彼には、なにかやりたいことのひとつもないのだろうか?
「兄は、ぼくたちの自慢なんです」
 ペペ少年は視線を落として、自分の足先を見つめた。
「お母さんも、兄のことをいつも自慢しています。兄のことは! だけど……」
 ペペ少年の顔を一瞬、蔭がよぎった。それから彼はふいに少佐をまっすぐに見つめてきた。
「少佐、質問をしてもいいですか? フランスとか、ヨーロッパの国は、このへんの島ととても違いますか? ぼくが知りたいのは……ぼくは、兄がフランスへ行って変わったとは思いません。兄は、帰ってくるたびに立派になって帰ってきます。ぼくたちのことを気にかけて、たくさん珍しいものを買ってきてくれます。ぼくは兄が好きだし、ぼくたちみんな兄を尊敬しています。でも、お父さんは……父は、兄がフランスへ行って、変わってしまったといいます。実は、ついこのあいだ、兄が家に帰ってきたんです。そのとき、父と兄は大喧嘩をしました。父は兄に、もう金輪際この家に来るなと云いました。ここはもうおまえの家じゃないって。兄は怒って、悲しんでいました。母は泣きながら家を出ていって、次の日まで帰ってきませんでした。母はずっと悲しんでいるんです。実は、父はまだ働ける歳ですが、もう何年も働いていません」
 少佐はデッキチェアの上で、そっと身体を起こした。少年は話しはじめると、止まらなかった。誰か信頼してもよい相手に話したがっていたことは明らかだった。
「兄がフランスへ行ってしばらくしてからでした。父の勤務態度が悪くなったのは。父は、働けるようになってからずっと、島のホテルで働いてきました。評判は悪くなかったです。一番上の兄が就職先を探していたとき、そのホテルのマネージャーが声をかけて採用してくれたくらいです。ぼくも、いまはそこに勤めているんです。ぼくと兄はいまもまだ働いていますが、父はずっと前にクビになりました。昼間からお酒を飲むようになって、出勤するのを忘れたりしたからです。いまでは、昼間から酔っぱらって、怒ったり、部屋に閉じこもったりしているんです。母とは毎日喧嘩です。一番上の兄とも毎日のように喧嘩しています。ふたりは大佐のお金のせいだと云ってます。二番目の兄が養子になるとき、大佐はすごくたくさんのお金をうちにくれたんだそうです。そのせいで、父は働かなくなったんだって。父はというと、よかれと思って息子をフランスへやったら、おれをばかにするようになりやがった、と云って、兄を恨んでいるんです。でも父は間違ってます。兄は、父のことをそんなふうに思ってなんかいません。大佐は確かにとても立派なひとだけど、ほんとうの父親じゃありません。そうでしょう?」
 もちろんだ、と少佐は云った。その大佐は立派な人物なのだろうし、ペペ少年の兄は、確かに彼を敬愛し、それを自慢に思っているだろう。でも、だからといって実父への尊敬が失われるわけではない。彼の中に、なによりも深い印象を残しているのは、たぶん大佐ではなく、実父のほうだ。自分の妻と、五人の子どもを養う父親。その印象は立派な大佐のように強烈ではないかもしれないが、生涯居座り、じわじわと効力を持ち続けるのだ。ペペ少年の父親は、単に息子を奪われたと感じたのではない。自分の権利と尊厳とを、もぎ取られてしまったように感じたのだ。それが失われれば、たちどころにくずおれてしまうものが。
「父は、また昔のように戻ってくれるでしょうか?」
 ペペ少年は云った。
「前と同じく働くって意味じゃなくて、前みたいにほかのひとから信頼されるようなひとに、戻れるでしょうか?」
 少佐は深く息を吐き出した。難しい問題だった。
「わからん。君のお父さんのことは、君のお父さん自身がどうにかするしかないからだ。たぶん、君にできることは……君の一番上の兄さんにもだが……君のお父さんに、父親としての敬意を払うのを忘れないことくらいだな。それくらいしかない。君のお父さんがつまずいとるのは、結局のところ、そこだからだ。わかるかね? わからんかもしれんな。おれも完璧にわかるとは云いがたい。まだ父親になったことがないんでね」
 ペペ少年は、長いこと考えこんでいた。彼には、まだわからないかもしれなかった。でももしかしたら、父親の問題の端っこくらいは、つかんでいるかもしれない。たぶんそうだろう、と少佐は思った。彼は幸運なことに、まだ尊敬すべき父親の姿を見失ってはいないのだから。
「ところで、最初の質問に戻るがね」
 少佐は努めて明るく云った。
「ヨーロッパは、全体に、このあたりよりうんと寒い。太陽もこんなに攻撃的じゃないし、海なんぞわざわざ見にいかなけりゃ見ることもできないところがほとんどだ。気候が違うから人間のものの考え方も多少違うかわからんが、基本的に、人間なんぞどこへ行っても変わらんよ。どこの国の息子にとっても、父親なんぞ頭の痛いもんだ。どこの国の父親も頑固だし、ひねくれとるし、敬われないとすぐに拗ねる。云っていいことを云わずに、云わなくていいことばかり云う。どこの国の息子も苦労しとる。わかるかね?」
 ペペ少年は少し考えて、苦笑した。
「わかると思います」
 少佐も微笑を返した。
「クラウス、クラウス! いないの? わたしが帰ったよ!」
 騒々しくドアが開く音がし、続いて場を華やかにせざるを得ない声が響いてきた。サンデッキのふたりの息子は顔を見合わせ、苦笑した。あれもまた、ちょっと毛色は違うが息子なのだ!
 ペペ少年は律儀に伯爵の用向きを聞くために立ち上がって、ヴィラの中へ戻っていった。少佐はふたたび新聞を開いた。先のふたりのやりとりは、伯爵には秘密なのだ。少佐はこっそりにやついた。父親に悩まされたことのない気楽な息子には、この手の苦悩はわかるまい!
 サンデッキに通じるドアが開いて、伯爵がしゃべり散らしながら入ってきた。
「まだ新聞にかじりついているの? 君って、ほんとうにやることのない男だな! せっかくの南の島だよ、もっと楽しめばいいのに! ねえペペ、そう思うだろう?」
 ええ、まあ、伯爵、とペペ少年は控えめに返事をした。少佐はまたにやついた。

 

浜辺のカニ
 
「ところで、君はいつ帰らなくっちゃいけない?」
 ふたりは島をとりかこむ浜辺を、のんびりと散策していた。太陽はふたりの頭上にぎらぎらと輝き、澄んだ真っ青な海はそれを受けてまぶしく光っていた。赤い小さなカニがときどき大急ぎで砂の上を横切り、伯爵はそれを見つけるたびにうれしそうに微笑んだ。
「できれば明日の朝早くに」
 少佐が云うと、伯爵は大きな目で彼をじっと見つめたあと、子どもみたいにしょんぼりうなだれた。少佐は苦笑を浮かべるのを止められなかった。
「云いたかないが、これで最大の譲歩だ」
「わかってるよ。わたしは、お礼を云わなくちゃいけないね」
 伯爵は少佐の肩にこつんとぶつかって、そのままもたれかかった。
「君は、いつもNATOだとかドイツだとかロシアだとかに追い回されてるんだ。それで、ヨーロッパ大陸じゅうをかけずり回ってるんだ。その駆け足の合間を縫って、ひと息ついたと思ったら、また駆け足に戻るんだ」
 伯爵は頭を起こし、大股で少佐の先に立って歩きだした。
「わたしには、政治のことなんてぜんぜんわからない」
 伯爵の美しい金髪が、潮風に乗ってゆらゆらとそよいだ。
「君の仕事のことだって……わたしには、まともな社会の仕組みなんてきっと一生わからないんだ。こんなふうに、南の島をまるごとひとつ使って誕生日パーティーなんかするようなわたしにはね」
 伯爵は物思いにふけるようにぼんやり遠くを見ながら歩いていたが、ふいに振り返った。
「でも、君はやっぱりわたしといて、こんなところにいてさえ、とても馴染んでいるよ。不思議だけど、そうなんだ」
 少佐は、おれもそう思うとは云わなかった。彼はただまぶしげに目を細めて、伯爵のあとを追って歩いただけだった。そしてそれでいいのだった。しばらくして、少佐はふと思いついて、足下でちょこまかやっていたカニを捕まえた。伯爵がなにごとかと少佐のところへやってきた。
「君、カニをつかめるの?」
 器用に甲羅をつかんでいる少佐を見て、伯爵はびっくりして目を丸くしていた。
「おまえはつかめんのか?」
 少佐は伯爵の鼻先にカニをつきだした。カニははさみを持ち上げて怒っていた。伯爵は思わず数歩後ずさり、首を振った。
「たぶんこいつは丸ごと食えるだろうな」
 少佐はカニを見て笑った。
「こんなにかわいいのを食べるなんて、残酷だよ!」
「バカを云え。おまえの胃の中におさまったベーコンだの、クローゼットにずらっとぶら下がっとる毛皮だののほうが、よっぽど残酷だ」
 伯爵はむっとした顔をした。少佐は笑い出したくなった。
「どうやってつかむの?」
 伯爵はカニにまだ興味があるらしかった。少佐は甲羅を示してつかむ場所を教え、ぴょこぴょこ歩いているやつをどうやって手中に収めるのか教えた。それから伯爵の指に小さなカニを押しつけた。伯爵はおそるおそる、壊れものをつかむように、そっとカニの甲羅をつまんだ。カニは相変わらずはさみを振りあげて威嚇し、怒っていた。
「カニを触っちゃった」
 ひどく感動しているらしい伯爵に、少佐はとうとう笑いをこらえることができなくなった。
「よく思うんだが、おまえ、ほんとにだいぶずれとるな」
 伯爵はしゃがみこんで、砂浜の上にそっとカニを戻した。
「バイバイ」
 あわてて走っていくカニをしばらく見送ってから、伯爵は立ち上がった。
「だって、わたしのこれまでの人生では、誰もカニの捕り方なんて教えてくれなかったよ。すごく感動しちゃった。あんなに小さいのに、ちゃんと生きてるんだ。君といると新鮮だよ」
 それは少佐も同じだった。ふたりの育てられ方は、同じ貴族出身であることを思えば不思議なほどとことん違っていた。性格も考え方もとことん違っていた。でも、あんまり違った方向をつきつめていくと、結局同じ場所に出るものだ。自分たちのあいだには、妙な共通意識がある、と少佐は思う。自分たちはなにかもっと根元的なものを、もっととりとめなく云いようのない空気のようなものを、それもお互いの生まれだとか居場所だとか価値観だとかを全部ひっくるめた上でのものを、共有している。そのために、どこまで食い違っても、どれほど離れていっても、結局は、同じところへ戻ってきてしまう。何度でも。ほんとうは、ふたりとも限りなく似たところにいるのだ。
 今度、彼に魚の捕まえ方を教えよう、と少佐は思った。魚、トンボ、カエル、セミ、ヘビ、いろんなものの捕まえ方と、つかみ方。それは昔、少佐が少佐の父親から習ったものだった。あの夏の不思議な興奮と、自分がひと周り大きくなったような、静かな感動。たぶん、伯爵に伝わるはずだ。ペペ少年がいっしょにいると、もっといいかもしれない。早急に、夏休みを取得する計画を立てなくては。少佐はひとり考えをめぐらした。

 

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