夜の訪問
静かに風が吹いている、気持ちのいい夕べだった。日没時間を回っていたが、空はまだうっすらと光の名残を保っていた。少佐は補修箇所点検がてらに庭をぶらついて、最後は東屋のベンチに腰を下ろし、まだほのかにあたりに漂っていた光が、ゆっくりと闇の中に飲みこまれ消えてゆくのを見守った。
彼は気分がよかった。急ぎで解決すべき仕事はなにもなかった。部下の連中はおおむね健康で、雁首そろえて雑務に精を出していた。皆が皆パソコンに向かって、自然少し前のめりになりつつ真剣にかちゃかちゃやっているところは、たしかに雁とか鴨とかあのへんの連中が、首をつきだしてばさばさやるのに似ていた。少佐はそんなことを考えながら、しばらく彼らを眺め渡すくらいに余裕があった。
今日の午後は、そういえば部下のひとりが、具合の悪い祖母を見舞うために故郷へ帰省したい、と休暇を願い出てきた。彼の祖母は今年で九十三になる。本人はまだ死ぬ気がないので、死なないとは思うんですが、と部下は苦笑して云った。戦前のひとらしく、頑丈で気丈で、ちょっとやそっと死に神が顔を出したくらいではびくともしなさそうだ、ということだった。少し具合がよくなると仕事にかかろうとするので、医者としょっちゅうやりあっているそうだ。たぶん、また持ちなおすだろう。
少佐は東屋を出て、ゆっくりと庭を横切り、歩いて戻った。戻る故郷があるのはいいことだ、と少佐はその部下のことを思い出しながらひとり笑った。そしてそこを出ている、ということは。少佐は学生時代と軍に入ってからの数年間をのぞき、ほとんどこのボンの中で完結していた。若さにまかせて戻らないと決めたこともあるが、無駄なことだった。古びた城は彼を必要としていた。そしてたぶん、少佐自身も城を必要としていた。広くて寒くていやに堅牢にできている、この時代錯誤のしろものは、自分に似合いだと少佐はいつからか思うようになっていた。あちこち飛び回る身分になってから、その思いはいっそう強くなった。どこへ行っていても、どんな任務であっても、それを成し遂げてここへ帰ってきた瞬間に、その件は終わったことになるような気がした。脱皮するように身体から滑り落ち、あとかたもなくなってしまうような気がした。
庭に通じている応接間のフランス窓をくぐり、廊下を歩いていると、執事のヒンケルが階段を下りて来るのに出くわした。彼はいつも一番しまいまで働いている。厳密に云えば、彼の休みは主人が就寝してから起床する前のほんの数時間である。否、彼は二十四時間仕事をしている。寝ているあいだにも、なにかあれば飛び起きて駆けつけることができるのだから。そういう人生はどうだろう? 少佐には想像ができなかった。ただ、ヒンケルにとってもこの城は自宅だった。長年住みこみで、よそに家もなく、家族もなく、ここを出ればどこへ行くあてもない。歳をとって引退したら、彼にはどこか日当たりのいい、見晴らしのいい部屋を用意しなければならない。いまの彼の部屋は、きっと新しい執事のものになるだろうから。それとも、新しい執事などいらなくて、彼はずっとそこへ住み続けるだろうか?
「お風呂の用意ができております。寝室はいつでもお休みになれます。ほかにご用はございますか? もしなければ、そろそろ下がらせていただきますが」
いつもの執事のせりふだった。少佐は首を振って、とっとと休むように指示した。そうして執事と入れ替わりに階段を上がっていった。一段上るごとに、階段沿いの壁に居並ぶご先祖たちが彼を見下ろしてくる。少佐はそういう連中が、自分の中にいくらか、なんらかの形で入りこんでいる、というのを知っている。昔、執事と指さして云ったものである。これはひいおじいさん、これはひいひいおじいさん、これはひいひいひい……
ひい、ひい、ひい……という響きに魅せられたのは、ハンス・カストルプ少年ばかりではないのだ。それは未知の、しかしどこか既知の響きである。身体のどこかに眠っているものの、遠い昔からの響きである。
少佐はことのほかゆっくり入浴し、満足して出てきた。執事が用意したパジャマを着て、満ち足りた気持ちで廊下を歩き、寝室のドアを開けた。就寝までにはまだ時間があった。少佐はベッドのそばにしつらえてあるカウチソファに転がって、やたらに長い中国の『紅桜夢』と取っ組み合った。しょうことなしにこういうものを読まされるのはつらい。『金瓶梅』はまだよかった、エロ本まがいだったから、と少佐は考えた……おれは小説は苦手なんだ…………
ようやく活字の並びから話の中に入りかけたとき、窓辺で小さな音がしたように思った。少佐は用心深く身体を起こした。手近の銃を確かめ、握ってから、また横になり、開いた本で銃を隠した。
開いていた窓から、カーテンをはためかせて風が吹きこんできた。同時に、なにかが部屋に音もなく転がりこんできた。少佐は神経をとがらせ、目をそちらに走らせた。
「こんばんは、少佐! 窓から君の部屋に入りこむの、すっかり慣れちゃった。わたしにこんなことさせるのは君だけだよ。手ぶらじゃないよ、シャンパンを持ってきた。あと、なにか箱に入った食べ物。なんだろう? わたしにもわからないんだ。あったのを持ってきただけだから。ああ、でも君、もう食べないだろうね。これでわたしの嫌いな食べ物だったら、いやだなあ。グラスない? できれば瓶からシャンパンを飲みたくはないからさ。とりあえず、その本と銃を下ろしたまえよ。紅桜夢? 君、中国文学なんか読んでるの? 仕事で中国にでも行くわけ? どの女の子が好みか訊いてもいい? 美少女ばっかり十も二十も出てくるからね。このソファに座るよ、いいだろう?」
しゃべり散らしながら、まるで何べんも遊びに来たことがあるかのように慣れた調子で、少佐の横のソファにやってきて腰を下ろし、小さなテーブルにシャンパンのボトルと白い紙箱を置いて、長い脚を投げ出し、かぶっていたつばの広い帽子を脱いでため息をつくところまで、少佐は黙って見守った。帽子の中にしまっていたらしい輝くような金髪が流れ出し、伯爵の顔や肩の周りを伝って広がった。同時に、いつもの香水の香りがあふれだし、部屋中を満たした。少佐は思わずまぶしげにまばたきした。
不法侵入そのもののくせにあんまり堂々としているので、少佐はふと彼がここへ来た回数を思い出して数えてしまった。片手におさまるほどしかなかったが、彼には一、二度で十分なのだ。一度侵入に成功してしまえば、そこはもう勝手を心得た、自分のものに等しいのだ。彼はそういう男だ。どこへ行っても、誰といても、まるで十数年来の仲ででもあるかのように、具合のいい場所を見つけ、そこへ自然に居ついてしまうことができる。
「いい夜だねえ! 風があって、静かでさ。城はいいよね。どこも静まり返ってるし、隠れる場所もたくさんあるし」
伯爵は金髪をさっとかき回し、ほぐして整えた。左右の薬指と左のひと差し指に指輪をしていた。ダイヤモンドとルビーが繊細な金細工に包まれている。いまは巻き毛に隠れてしまったが、耳にも似たようなのがぶら下がっていた。細かな花模様が丁寧に刺繍された、モスグリーンの薄いブラウス、襟元には長いタイをリボンにして巻いており、下には白いパンツをはいている。深くカットされた柔らかそうな革靴は、指のつけ根が見えそうだ。靴というより、女性もののパンプスのようだ。少佐は黙って、素早く、彼を観察した。相変わらず、男にも女にももったいないような、美しい容姿をしていた。
少佐は起きあがり、云われた通り銃と本を下ろして、テーブルの上に置いた。それから立ち上がって、ガウンを羽織り、グラスをひとつ持ってきた。
「ありがとう。君は飲まないの? まあそうだよね。時間も遅いし、就寝時刻も近づいてる。だけど、まだちょっとくらいはいいだろう? わたしがどうしてここに来たか知ってる? 知りたい? 知りたくないだろうね! でもしゃべるからね。別に聞かなくていいけど。こんなんだから君に嫌われちゃうんだって知ってるんだけど、まあ、どうにもしようがないよ。これがわたしだから。自分勝手なんだ、わたしって。君の静かな生活を邪魔した? そうだろうね! 許さなくていいけど、一応云っておくよ、許してよね」
少佐はまだ黙っていた。伯爵がシャンパンの栓を開け、自分でグラスに注ぐのを後目に、煙草を取り出し、火をつけて、灰皿を取り寄せ、ひと息吸いこんだ。なにをするにしても美しい手だった。薬指の宝石が、からかうように光った。少佐は、もどかしいような、いらだたしいような、うずくような、奇妙な感覚が生じるのを感じていた。少佐はもう決して、表だって伯爵を拒まなかった。そういう無駄な努力はとうにやめてしまっていた。そしてまわりも伯爵も、それをそれぞれに都合よく解釈していた。少佐はそれで、安全に守られていた。本人よりもむしろ周囲が、少佐らしさを守るために、必死に努力している……少佐はずっと前からそんな気がしていた。流れるように、徹底的に遂行される任務は任務遂行のためというより、もはや「エーベルバッハ少佐の仕事」なるもののためと化していはしまいか。少佐は自分の部下がときどき、誰かに向かって「そんなやり方じゃ少佐に殴り殺される」とか「そんなこと云ったら怒鳴られるんだ、うちじゃあ」などと、やや自慢げに云っているのを知っている。でも別に、そうとは限らない。ものごとはそつなく、スマートにいくのがいいとは限らない。エーベルバッハ少佐本人は、もうちょっと泥臭い人間のつもりだ。そして伯爵に関して云えば、エーベルバッハ少佐は相当に鈍くさい。伯爵はとっくに、その気もなしに、少佐の奥深いところへぐいぐい入りこんできている。そしてもう抜けない。彼がいると、拒めないような、拒みたいような、居ついて欲しいような、出ていってもらいたいような、妙な感情が生じて、エーベルバッハ少佐は困惑するばかりだ。それがほんとうのところだ。それで、おれは他人が思うような人間だろうかね? 少佐は云いたい気もし、云ってはいけない気もしていた。
「君、最近作戦を変えたね? あらゆる努力をやめて、黙って従う作戦に出たんだ。人間、軽蔑の度合いが深くなると相手に無感覚になるって云うけど、もしそうなったんだとしたら、すてきだなあ。だって、わたしそこまで誰かに嫌われたことなんてないもの。なんでも経験しておくべきだよ、人間は、幅広い感情をね。関係ないけど、わたしもうすぐ誕生日なんだ。あと一時間もないよ」
少佐は「ほー」と云った。それが第一声だった。抑揚のない、感情の読みとれない第一声。少佐はどうしたらいいかわかりかねていた。この男に関しては、つくづく対応に困っていた。そして困っている自分を自分で面白がってもいた。
「いくつになるかは教えないよ。わたしは歳を取らないんだ(あーあーそうかい、と少佐は思った)。それで、わたしがなんでこんなところにいるかっていうと、誕生日パーティーから逃げてきたんだよ」
少佐は眉をつり上げ、空になった伯爵のグラスにシャンパンをつぎ足した。
「ありがとう。それで、長くなるけど聞いてくれる? ああ、わかったよ、勝手にしゃべってればいいんだね。ところで箱開けてもいい? なにが入ってると思う? チーズにクラッカー、キャビアとレモンとサーモンと生ハム、サラダにサンドイッチ。デザートにイチジク。まあいいか。君食べる? いらない? そう。じゃ、失礼してと……それで、今年のパーティーは……ああ、毎年パーティーなんだけどね、誕生日には。バカ騒ぎが前後あわせて一週間くらい続くんだよ。お友だちがわらわら来てさ。君、世界に散らばる暗黒集団を根絶やしにしたいと思うなら、わたしの誕生日パーティーに網を張るといいよ。いろんなのが引っかかるから。で、今年は会場が南洋の島だったんだ」
少佐は煙草を吸い、目を細めた。たぶん、とんでもなく金のかかったパーティーに違いない。その中で、伯爵はさぞきんきらしていることだろう。
「まるまる島ごとね。あるお友だちがね、わたしのために三年かけて、買い取った島をプライベートリゾートに作り替えてくれていたんだって。今年の会場はそこになる予定だったんだけどね」
わかっていたつもりだったが、少佐は目眩がしてきた。
「わたしだって見たかったんだよ。青い海と空、かわいいカニや魚たち、潮の香り、星降る夜、気持ちのいいヴィラのテラスに転がって、シャンパン飲むんだ。みんなして海で泳いで、競争したりしてね。だけど」
伯爵はふいにグラスをテーブルに置き、ソファに転がった。長い脚が肘置きの上で交差した。
「だけどね……そういうのはずいぶん騒々しいからね……」
伯爵はしばらくじっと天井を見つめていたが、ふと目を閉じた。長いまつげがはためいて、ゆっくりと青い目を覆い隠した。
沈黙が流れた。少佐は彼が疲れている、と感じた。いつも彼を覆っているまばゆいばかりの輝きが、いまはなにかに吸い取られ、長いこと風雨にさらされたあとのように、くたびれて色あせている。なにかあったのかもしれない。他人に嫌気がさすようななにかが。たぶん、その容姿のせいで。
彼はいつも誰かに取り巻かれているという感じがしていた。城にいれば部下たちに、そしてどこかへ出かければ、現地の知り合いや、新しく知り合った連中に。少佐はそういう場面を数多く見てきたわけではないが、想像はついた。伯爵は実際、注目され、ちやほやされるのが好きだ。でもそういう顔だけでは、ひとは生きられまい。そういう人間に限って、誰も寄せつけない秘密の場所を、いくつも抱えているものだ。
「ここに来たのはねえ」
伯爵が目を閉じたまま云った。
「君には、気を遣わないでいいからさ。なんだかいやになっちゃった。ひとに好意を持たれていることとか、愛されていることとか、みんなのドリアン坊やでいることとかさ」
伯爵は静かに云った。抑揚に、感情はうかがえなかった。
「だってどこに行っても、わたしって誰かを夢中にさせちゃうんだもんな。そんなつもりなくても。それって、なかなか後味の悪いことだよ。人間ってみんな自分の勝手な感情で生きているからさ、それはそれでいいんだけど。わたしも同じことしているんだろうし。たとえば君なんかにもさ。好意を持つのは勝手だからね。でも、難しいのは、人間が複数いて、その心の開き具合が同じになることって滅多にないってことなんだよね。相手の戸締まりと自分の戸締まりが同じだとはかぎらないからさ、それでもう、わけがわからなくなっちゃう。わたしはなんにもしてないはずなのに、なんだか悪いことしたような気がしたりさ。誠実でいようとするほど、なんでか知らないけど傷ついた気になるんだよね、こういうことは。なんだか疲れちゃった。こういうとき、ひとりにもなりたくない場合に難しいのは、どの男のところへ逃げようかってことなんだよ。セクシュアリティが同じじゃだめなんだ、同じこと繰り返しちゃうから。でも女は論外だし。ほんとはボーナム君が一番いいんだけど、誕生日には休暇に出しちゃうんだ。それで、手持ちの札がなくなってね。君がいた、と気がついたときには神さまに感謝したよ、ほんとにさ!」
少佐はなにか云いたい気がした。彼がここにないことを期待して逃れてきたものは、結局、ここにもあるのだから。君には気を遣わないでいいから、と伯爵は云った。少佐にはその意味が痛いほどわかっていた。エーベルバッハ少佐は、グローリア伯爵にのぼせ上がったりしないし、崇めたりもしないし、マスコットかなにかみたいにかわいがったりもしない。それは伯爵の中で、そして少佐と伯爵を取り巻く大勢の連中の中で、絶対に揺るぎない事実だった。それこそ少佐よりもその周囲が、守ろうとして必死になっているものだ。その盾があるからこそ、ふたりはこんなどこへも転がらない関係であり続けている。
少佐はふと時計に目をやった。十二時になるところだった。もう時間だ。彼は静かに立ち上がった。
「十二時だ、おれは寝る。くだらんことに悩んどらんと、とっとと帰れ。窓を閉める」
伯爵が目を開けて、ソファに乗せていた首を曲げてこちらへ向けた。それから、ゆっくりとほころぶように微笑んだ。
「そう云って欲しかったんだ。君が云うと、ほんとにくだらないことのような気がする。不思議なんだけど、君が云うと、そう信じられる気がするんだよ」
少佐は眉をしかめた。伯爵は起きあがり、帽子を手に取った。
「信じるもなにも、真実くだらんじゃないか」
だから少佐はだめ押しでそう云った。伯爵は転がるように笑った。
「そうだね。なんだか元気が出てきた。ここへ来て、まだ一時間もたたないのにね! 君は不本意かもしれないけど、わたし、ときどき思うんだよ、君ってどんな男よりも、わたしを理解しているんじゃないかって。君には下心がないから。それで、わたしはここへ来て、また出ていくんだ。君にいやな顔されながらさ」
少佐はまた眉をしかめた。
「じゃあ、わたし帰る。邪魔したね。云い忘れたけど、パジャマ姿の君ってセクシー。おやすみ、少佐。ハッピーバースデーわたし!」
帽子をかぶり、投げキスをひとつ投げて、伯爵は窓の外に消えた。見るともなしに見送って、少佐はしばらくぼんやりと窓辺にたたずんでいた。
ふいに、少佐は微笑した。これでいいのだという気がした。彼の愛する、無神経で理解のない男で、いたかった。