エロースのための四つの物語

 

ヒュプノス
 
 バッハは、作業のBGMとしてはあまりふさわしくないだろうか。わたしのデッサン用の鉛筆を、クラウスは熱心に削ってくれている。芯をなるべく長めに出してね、先端はできるだけ細く尖らせて。見本を一本見せてちょっと説明しただけで、彼はこつを飲みこんでしまったみたいだった。四ダースぶんの鉛筆をがらっと銀のトレイに並べて、足のあいだにゴミ箱を置き、カッターナイフを器用に動かす。鉛筆なんざガキのころうんざりするほど削らされたさ、そう云いながら慣れた手つきでナイフを動かす彼はさながら、鉛筆削り国家試験の資格保持者の貫禄だった。黙々と、正確に。彼そのものだ。一心不乱で、ぶれなくて。わたしは先ほど忠実なる執事のコンラート君が持ってきてくれた紅茶を淹れながら、ふいに泣きそうになってあわてて彼から視線をそらす。彼のひたむきさは、ときどきわたしに毒だ。
「クラウス、お茶が入ったけど飲む?」
 手は止めずに、彼は「ん」と短く云う。わたしはポットからふたつのカップにお茶を注ぐ。アンティークの、マイセンのバラのティーポット、カップとソーサーのセット。いつだか、つきあいだして割と間もないころに、これに似たものを彼がわたしにくれたことがある。物置にあるやついらんか、と云って。でもそれは物置にあったにしては手入れが行き届いていて、おそらくは百年かそこら前のものなのに、見事なつやを放っていた。うちにあっても使わんから、やる。彼はそう云って、緩衝材に無造作にくるんで紙袋に入れたのをずい、と差し出してよこした。ああ、こういうひとなんだな、とそのときわたしは思った。いろいろ経験して、器用に振る舞うすべを身につけているけど、ほんとはあんまり器用じゃない。ぶっきらぼうで、恥ずかしがり屋の典型だ。そしてちょっと短気。男としてはよくいるタイプだけれど、そのときわたしはこんな素晴らしい男は世界中探したってただひとりしかいないと思った。それ以来そのティーセットはわたしの大のお気に入りになった。こうやって似たものを見ただけで唇が持ち上がる程度には。恋ってほんと、目も耳も口も頭もだめにしてしまう。クラウスに会ってからわたしの全身はもう全部再起不能なほど病んでいるにひとしい。別に病んでいたってかまわないけど。
 エーベルバッハ家はまともな家柄にしては珍しく、まともな人間を輩出することに長けていたようで、お得意の軍人のほかにも商業で成功しているのがいたり、科学者になって著書を残したのがいたりするらしい。このドイツ南部にあるエーベルバッハ家の別荘は、そういうすぐれたご先祖さまが残してくれたもののひとつだそうだ。典型的なゴシック様式の建物で、尖塔アーチが多用された豪奢で重厚なつくりをしている。その中でもこの応接間はわたしのお気に入りの場所のひとつだ。アンカサス唐草模様の優雅な壁紙、大きなランプ、ティーテーブルのまわりにぐるりと並んだすわり心地のいいソファ。コンラートが用意してくれた、ヒマラヤから山越え谷越えやってきた紅茶は、春摘みのダージリンみたいに爽やかで、どこか雪解けを思わせる澄みわたったみずみずしい香りがした。カップに鼻を近づけて香りを嗅ぎ、ひと口飲んで、鉛筆削り職人と化しているクラウスを見る。
「ねえ、お茶が冷めるよ」
 彼はまた「ん」と云い、なおざりにカップを取り上げ、ごくりとやる。ヒマラヤの茶葉の繊細な香りとか、そんなことなんてまるでおかまいなし。また鉛筆削りに戻ってしまう。わたしは彼にお願いなんてしないほうがよかっただろうかと思う。だって、手持ち無沙汰にしているのがなんだかかわいそうだったのだ。半年ものあいだ、シュミット某として諜報活動に従事していたエーベルバッハ少佐は、これといった制限なしの特別休暇を許可されているらしい。もちろん、なにかあれば呼び出しがかかるわけだけれど、なにもなければ心身ともに回復するまで休んでいていい、ということらしい。それでこうしてわたしを呼びつけ、別荘までやって来たというわけだ。忠実な執事のコンラートは、身の回りのお世話をすべくご主人さまについて来たけれど(と彼は云ったけど、でもこれ、半分以上わたしのせいだ。わたしは誰か世話をしてくれるひとがいないと、日常生活もまともに送れない。ふたりぶんの風呂や掃除や食事の世話を全部クラウスがするなんて、ちょっとどうかしている)、どこでどう働いているのか、呼べばちゃんと来るくせに、こっちが呼ばない限りほとんど姿を見せない。わたしたちの邪魔をしないように気をつけているみたいだ。
 クラウスは休暇がきらいだけれど、でもこの休暇が必要であることは、彼にもわかっている。赤の他人になりすまし、まったく別の人間として生きてきた、その男の影を完全に払拭するには、少し時間が必要なのだ。でもクラウスは、心には時間が必要なのに、頭と身体が黙っていられない男だ。なにかすることがないと、仕事らしきものがないと、なんとなく落ちつかない男。ただぼうっとして時間を過ごすことが苦手な男。あるいは、なにかを振り払うのにも仕事をするに限る男、とも云う。いまだって、たかが鉛筆削りなのに、まるで任務みたいに一心に削り続けている。とりあえず箱ごと持ってきた鉛筆全部を提出させられて、彼はそれをみんな削りつくそうとしている。そうするのが責務みたいに。わたし、そんなにたくさんの鉛筆はいらないんだけどな。本職が画家なわけではないし、デッサンだってそんなにしょっちゅうするわけじゃない。ほんの二、三本でよかったんだよ、ねえクラウス。そう云いたいのを、わたしはこらえている。彼には、なにかやることが必要だ。なにか、無心になってできることが。そういうことをしながら、彼はいつもの彼に戻っていくのだから。
「……ねえ」
 お茶を二杯飲んで、わたしは彼に話しかける。彼が飲んだお茶はまだ一杯だけ。トレイの鉛筆は削られ削られ、残すところ一本だけになっている。クラウスは「んー?」と少しぼうっとした答えを返す。手を止め、くわえていた煙草を指ではさみ、見もせずに器用に灰皿に灰を落とす。そしてまたナイフを動かす。わたしはなにも云わずに、彼が最後の一本を手に取り、削るのを見ていた。
「できたぞ、ほれ」
 トレイにずらりと並んだ、きれいに整えられた鉛筆を満足気に見やってから、クラウスはそれをわたしの方へ押しやった。
「ありがとう、すごく助かったよ。ミスター鉛筆削りと呼んでいい?」
 わたしはなんとなくトレイに鼻先を近づけて匂いを嗅いだ。あの削られたばかりの木の匂いがする。
「茶、もうないか」
 彼はさすがに集中しすぎたのかちょっと首を回し、半分目を閉じてソファにもたれかかった。
「まだあるよ」
 マイセンのカップに、澄んだ黄味がかった色をしたお茶を注ぐ。クラウスはぼんやりした顔でそれを口へ運ぶ。
「……さっきおまえ、なにか云いかけとらんかったか?」
 彼の目は、どこを見るでもなくぼうっと宙を見ている。
「ただ君を呼んでみただけだよ」
 クラウスは横目でわたしを見、唇を持ち上げてちょっと微笑した。そうして、自分の膝をぽんぽんと叩いた。わたしは彼の指示に従って立ち上がり、その太ももの上に横向きにおしりを乗っけて、彼の肩に頬を押しつけた。煙草の匂いがする。彼はわたしの巻き毛を梳き、まとめてかき上げ、あらわれた首筋やうなじをしばらく見ていた。わたしは目を閉じた。そこに口づけて欲しかったし、彼がそうすることはわかっていたので。果たして、彼の唇はわたしの首へやって来た。わたしは彼の耳に口づけた。頸動脈に沿ってゆく彼の唇の動きを、わたしは半ばうっとりした心地で感じていた。鼻先が押し当てられ、彼がわたしの香りを嗅ぐために、深く息を吸いこんだのがわかった。なあおまえの香水は、二十四時間効き目が持続するのか。そう訊かれたことがある。違うよ。わたしは笑って答えた。たしかにこれ、香水の香りでもあるけどね、わたしがいつもいい香りでいられる理由は秘密だよ。……美しさの秘訣を、そうやすやすと教えてしまったらつまらない。
 クラウスはそのまま目を閉じて、動かなくなった。わたしは彼の肩に手を回して、肩から腕にかけてをゆっくりと撫でる。あやすみたいに。
「眠ってもいいんだよ」
 わたしはささやき声で云う。
「君の任務は完了したからね」
 からかいをこめて云うと、彼は目を開き、首を動かしてわたしを見た。わたしは彼に微笑を向ける。
「鉛筆削りの仕事はおしまい。休暇を取りたまえ、エーベルバッハ少佐」
 彼が鼻を鳴らして笑う。
「昼寝には微妙な時間だ」
「ちゃんところあいで起こしてあげるよ」
 わたしは云い、身体を起こして、肘置きのところにクッションを積み上げ、そこに上半身をあずけて横たわった。そうして彼を見、首を傾けた。彼はやってきた。わたしの胸に。もたれかかり、ため息をつき、目を閉じる。わたしは彼を抱きしめる。
「……おやすみ、クラウス坊や」
 クラウス坊やはうなずいた。わたしは彼の頭を撫で、髪を梳いた。眠りと忘却はきょうだいだ。眠って、忘れ、振り払い、取り戻す。君自身を。君の魂は休息を要している。
 
 眠れ安らかに、安らかに眠れ
 疲れ果てた身体を休めよ
 眠れ安らかに、安らかに眠れ……
 
 寝息をたてはじめた彼を抱きしめ、わたしは目を閉じ、歓喜に浸る。身体の奥底から沸き上がってくる喜び。彼はわたしのものなのだという実感。こんなとき、わたしは心からそう感じることができる。彼がわたしに頼り、わたしを欲するとき。クラウスがクラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハであるために、どうしてもわたしが必要なのだと思えるとき。
 クラウスは無心に眠っている。わたしに預けられた彼の体温と重みが、えも云われぬ安堵と充足をもたらしてくれる。歓喜は恍惚となり押し寄せる。心地よいオルガスムスのように。彼はわたしのもの。……わたしのもの。
 バッハは流れ続けている。

 

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