コンラート・ヒンケルの赤面

 

 主人はたとえ休暇だろうとなんだろうと、朝六時半に目覚めるという習慣を崩さない。来客中だろうと、それはかわらなかった。いつもの時間に朝食をおとりになるのにあわせて給仕をしながら、彼はそれとなく伯爵さまの朝食時間について訊ねた。
「やつにとってはやつの起きた時間が朝なんだ」
 という答えで、執事はすべてを察した。つまり、なんらの規律も習慣も規則も、あの伯爵さまにはないのだった!
「朝起きたら、一番最初にやるのが風呂に入ることだ。長いぞ。実に長い。最低小一時間はかかる。そのまま風呂の中で飯を食えないか考えとるようなやつなんだ。ちんたら食うからな、飯を食い終わるとだいたいおれの昼飯の時間だ。こっちの食い終わりの方が早いこともある。だから、アフタヌーンティーだかなんだか、茶と一緒にもりもり食うはめになるんだ。ああ、そうだ、午後のお茶たらいうやつに、食いものがごっそりないとだめらしい。それもまたちんたら食うんだ、夕飯の時間近くまで……なにがいつの飯なんだかわかりゃせん。要するにな、あいつはだらしがないんだ。決まりだのけじめだのいう概念がない」
 執事はさようでございますか、と云った。決まりと秩序と規律の権化みたいな主人が、よくそんな方と一緒にやっていられるものだ……だが、さもありなん。人間とはそういうものだ。
 伯爵さまが起きていらしたのは十時を過ぎてからだった。昔ながらの呼び鈴が鳴らされ、執事は伯爵さまの部屋へ飛んでいった。カーテンが閉じられていて薄暗い部屋の中で、伯爵さまはベッドに優雅にうつぶせになり、組んだ腕の上に顎をのせて、まだ半分まどろみの中にいるような、ぼんやりした微笑を浮かべていた。けだるく、どこか媚態めいていて、美しい。執事は……不覚にも……自分がどぎまぎしているのを感じた。暗がりのせいだ。たぶんそうだ。
「おはよう、コンラート」
 伯爵さまの声は少しかすれていた。執事はもっとどぎまぎした。
「ねえ、一瞬、自分の部屋にいると思って、自分の使用人の名前を叫ぶところだったよ。よかった、この紐に気がついて。カーテンを開けてくれる?」
 執事は云う通りにした。日差しがさっと部屋中を覆い、伯爵さまの見事としか云いようのないブロンドを、ただ美しいとしか形容できない顔を、そして白い美しい肌を、照らし出し浮かび上がらせた。伯爵さまは一瞬眉をしかめ、それから鼻に抜けるようなため息をもらした。
「いま何時?」
「十時八分でございます、伯爵さま」
「ふうん! いいタイムだ。他人の家にしてはね。よく眠れた方かな? ウィスパー! おはよう、いい子ちゃん! 執事のおじさんに挨拶して……グーテン・モルゲン! いい加減ふたりともベッドから出て、ドイツの朝にご挨拶だ。ねえ! いい天気だね。ドイツっていつもどんよりぼんやりしてるイメージなのに、わたしが来るとだいたい晴れなんだ。きっとわたしたちが日ごろいい子にしてるからだよ……ねえコンラート、お風呂に入りたいんだけど。そういうことできる? タオルある? できたらすごくふわっとしたの」
「かしこまりました。すぐご用意いたします。おめざの一杯はご入り用ですか?」
 伯爵の顔が輝いた。
「もちろん! なんて気の利く男なんだ。君に、ベストオブバトラーの称号をあげよう。軽めの、香りのいいのがいいな。それを飲んだらお風呂。断固としてお風呂! 朝食はそのあとでね。もう昼食になっちゃうかな? クラウスは? とっくに目覚めて、世界を一周ぐらいしてしまった?」
「クラウス」という固有名詞が飛び出してきた……昨日までは、少佐とか君のご主人とか云っていたのに……ので、執事は理解した。腹の探り合いはもうおしまい。これでお互いに、あらゆることを納得済みという正常な関係でいられる。執事は安堵し、そして猛烈な勢いで世界一周を成し遂げた主人を想像し……あり得ないことではなかったので……こみ上げてくる笑いを抑えるのに苦労した。
「ご主人さまは……さようでございますね、退屈していらっしゃいます。まだ休暇がはじまったばかりでございますのに。困ったものでございます。趣味らしい趣味をお持ちでないのでございます。先代は切手の収集やら釣りやら、それが一般に面白味があるか否かは別といたしましても、まだそういった文化的たしなみというものがいくらかございました。ところがご主人さまは……」
 こういうことを誰かに打ち明けるのは楽しいことだった。執事は自分の気持が弾んでいるのを感じた。伯爵さまは悲しげに首を振った。
「無理だね、コンラート。あの男にそういう文化的なものを求めるなんて不可能だ。彼はファウスト的人種だよ。がむしゃらで、猪突猛進つきすすむときだけ、生きる情熱を感じられるタイプ。じっとしてたら、自分の炎で燃え尽きて死んでしまう感じ。それがすてきなんだけど。彼みたいな男には、リフレッシュも休暇も地獄と同じ。でも大丈夫だよ、今回は、わたしが退屈させないからね。自信があるんだ。そういうことについては……つまりうんとやかましくするとか、秩序を乱すとかいうことについて天才的才能があってね……あ、ごめん、丸裸なの忘れていた(突如布団をはねのけて起きあがった伯爵さまの下半身から、執事は間一髪目をそらすことに成功した。なんて刺激的な方なんだ!)。だって、寝るときになにか着るなんておかしいよ。そう思わない? そんな窮屈なことしたくない。ガウンをとって……あのシフォンとレースの。寒くないよね? ありがとう。そうだ! 君に挨拶しなくちゃね。ここに来て」
 執事は請われるままに、ベッドの横に歩み寄った。かがむように身振りで指示され、執事はその通りにした。伯爵さまはあろうことか執事の首に腕を回し、頬と額にキスしてきた……やわらかい巻き毛が鼻先や顎をくすぐり、湿った柔らかい唇の感触と、甘ったるいいい香りが執事の思考を瞬時奪い去った。
「今日もドリアン坊やをよろしくね、コンラート」
 執事はついに、頭から煙を出して赤面した。

 

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