夜霧

 

 霧が濃かった。朝晩の霧で有名なこの街も、こんな自分の鼻先も見えない真夜中に出歩くような酔狂な観光客には恵まれないらしかった。そうしてそれがかえって、なにやら後ろ暗いことをする人間どもには都合がよかった。
 街を横切るかたちで、だらだらと川が続いていた。川幅はせまく、その上にゆるいアーチを描く石橋が等間隔でかかっている。昼間ならば、橋の上からかなり遠くまで見渡すこともできるのだが、いまは濃い灰一色の霧の中に、外灯のかすかな明かりだけがおぼろに浮かんでいた。目と鼻の先へ近づくまでなにひとつ見えず、石畳の硬く冷たい感触と、濃い霧が身体を包む感覚だけが確かにあった。おかげで少佐は自分の靴先も見えなかった。こんな夜は、闇討ちにはぴったりだ。少佐は微笑した。この濃霧がなにもかも包んで隠してくれるだろう。そう思うと、妙に安堵した。なにか守られているような心地がしてきた。最前まで、こんな日に待ち合わせを指定してきた男の鼻をつかんで引きずり回してやりたい気がしていたが、真の闇の中でじっと待つときの高揚感は嫌いではないのだった。
 川にかかる橋の前で、少佐は足を止めた。外灯の下でなにかがかすかに動いている。近づいてみると、浮浪者がひとり、ぼろきれにくるまって、外灯に寄りかかって寝ていた。酒くさく、大きないびきをかいていた。片方の靴底がめくれかけていた。こんな浮浪者を、ここへ来るまでのあいだに何人も見た。皆こんな霧の中で、かまわず眠っていた。橋の下で、ものかげで、細い路地の屋根の下で。そういう光景を、みんなとっくに、少佐自身も、見慣れてしまっているのだった。
 少佐は腕時計を確認した。午前二時五十六分。相手はまず時間通りにはやってこないだろうが、だからといって軍隊生活で培われた厳格な時間に対する身体感覚がゆるむわけでもなかった。時間を身体で覚えること……軍人になるにあたってまず最初に叩きこまれることのひとつだ。時間といういささか気分と感覚に左右されがちなものを、時計の針のように正確に身体に刻みこむこと。おかげでみんな常に時間ぴったりに行動する、融通のきかない人間になってしまう。その昔、ある女が少佐に……そのころはまだ少佐でなかった……云った。「あんた、少しは気をきかして遅く来るとかいうことができないの? 女っていろいろ手間がかかるのよ、そうきちきちやられちゃたまんないわ……」
 あれはいい女だった。特別に美人だというのではないが、わざとらしくなくて、さばさばしていて気のいい女だった。金髪だった。たぶん脱色したのだが……あのころは、普通の女とつきあうのが怖かった。少佐は情報部員見習いの新米もいいところで、自分がいずれ殺されるとか、自分でない自分になる必要性とかいうことにばかり気が向いていた。いやな、気の滅入るような毎日だった。この世に女というものがいることに、あれほど感謝した日々はなかった。うわべのつきあいでもよかった。だいたい、なにがうわべでなにがうわべでないかというのは、難しい問題だった……。
 肌寒かった。霧が鼻先や頬を常に湿らせているような気がしてならなかった。トレンチコートも湿って重たくなっているように感じられた。湿気は大嫌いだった。有無をいわさず侵入してくるような、どこからともなく忍びこんでくるような、そしてこちらの気分をぐったりと重たくさせてしまうような感じがたまらなかった。少佐はコートの襟を立てて鼻先まで顔をうずめ、目を細めて、川にかかる橋や、その向こう岸を眺めた。時計は午前三時四分を指していた。
 やっぱり遅刻してきやがる。少佐は鼻を鳴らした。約束を守るとか時間を守るとかいう基本的な常識が、いったいあの男にはないのか? 少佐は顔をしかめた。法外な時間だなんて云わないでよ、ねえ、こっちにだっていろいろと都合があるんだよ、わたしだって暇じゃないんだ……そのお忙しいおひとは、なんたらいう絵画を頂戴するために、地元の金持ちの家に転がりこんで下準備をしている最中だということだった。ふたりは偶然顔を合わせた。少佐はある男を追って、部下とともにこの街に乗りこんでいた。具合の悪いことに、その男は伯爵が転がりこんでいる家に出入りしていて、伯爵とも顔見知りになっていた。これを知った伯爵は大喜びで引っ掻きまわしにかかってきた。Bが伯爵を見て、「またぞろいつものごたごただあ。はじまりやがったなあ」とのんきに云ったのを、少佐は云いあて妙だと思いながら聞いていた。
 ようやっと橋の向こうから、黒い影が小さな外灯に照らされてゆらゆらと見えてきた。外灯の下を通るごとに、その影はゆらめいて、すべるように、なめるように近づいてくるのだった。もやのような濃い黒のかたまりが、茫々と揺れている。なにか得体のしれないものが、うごめいているようにも見える。
 少佐はその影から目を離さなかった。じっとそのゆらめきを見つめているうちに、少佐はふいに昔のことを思い出した。なつかしいものにめぐりあったような気がしはじめた。彼は久しぶりに、黒いぼやぼやのお化けを見たのだ。それは城の薄暗い廊下の曲がり角の隅に、長いこと使われていない客間のドアのうしろに、地下室や物置のかげに、決まってひそんでいるやつであった。こちらがドアを開けたり近づいたりするとあわてて逃げてゆくのだが、その影の端が不気味に、そしてなにかあわれな感じにうごめくのを、クラウス少年はよく見た。それは警官の警棒で追い払われる乞食の動きに似ていた。そのものがなしい背中に似ていた。
 クラウス少年は執事見習いのヒンケルに訊ねた。執事見習いのヒンケルは上司である執事に訊ねた。老齢の執事は、それは名前はわからないがうんとうんと昔、この城ができたころから住みついているやつで、別段悪さはしないから放っておいてかまわない、ただし、決してつかまえようとしたり、正体を見届けようとしたりしてはならない、勇敢な若さま(その執事はクラウス少年をこう呼んだ。決してぼっちゃまとは云わなかった)だからとて、果敢に挑んでよいものとよくないものとがある、と云った。クラウス少年は執事の云いつけを守った。怖いからでなく、あわれだったからである。そのうごめく影のような化け物は、とてつもない醜い顔をしているかもしれず、満足に食事もしないで痩せ細り、ひからびた皮膚をしているかもしれず、垢にまみれているかもしれず、すねたような、陰湿な目つきをしているかもしれなかった。場所を追われ、決して安心できず、いつも自分に迫りくるものにおびえている……そういう人種を、クラウス少年は少年ながらに知っていた。自分がそういう者の側にいないこと、あまつさえ、それをおびやかす側にいるのだというかすかな自覚が、少年をなにか憂鬱な、いわく云いがたい気分にさせた。せめて自分の家の中にいるそういう者の平穏は、保証してやるべきだと思った。それで、わざとドアを開けてうしろへ影を作ったり、明かりを持たないで廊下を歩いたりした。そうして、少しばかりいいことをしたような気がしていた。けれどもしばらくすると、もうそんなことも気にかけなくなって、成長とともにしだいにそのお化けの存在に無頓着になっていった。
 あの影、もう長いこと気にかけていなかった、あの城じゅうに根城を構える影ども、あいつらはいったい、自分がいないあいだ、自分が気にかけていなかったこの何十年のあいだ、どこでどう息をしていたのか、安らかにいられたのか? ふいにそういう思いにとらわれた。わからなかった。あの影ども、一時期まるで自分の親しい友かなにかのようにすら思えた、あちこちにひそんでいるあの影ども、何百年も見られず、触れられず、話しかけられもせず、ひっそりと隠れ住んできたあの影ども……いま、目の前に立ち現われた、このしだいに大きくなりながら近づいてくる影は、その親玉かなにかではあるまいか? このゆらゆらした動き、どこかものがなしいこの動き……自分がいつからその影にかまわなくなってしまったのか、少佐は覚えていなかった。ただ、折にふれて自分をちくりと刺すなにか罪悪感に似た意識の、そしてそれを放置してきたことのつけがいま回ってきているような、妙な気持ちがしていた。いったい自分はあれからなにを友として、なにを信じて、どこへ向かおうとしていたのだったか?
 影はゆらゆらと近づいてくる。それが目の前にやってきて、姿形をあらわす瞬間を、少佐はふとおそれた。けれども見たくない気持ちと裏腹に、それはどんどん近づいてきて、しだいにはっきりした形をとりはじめた。つばの大きな帽子と、丈の長いコートと、サングラスに覆われた顔が見えてきた。スパイ映画の密偵のような格好だった。それも無粋な男の密偵でなくて、粋な女スパイを髣髴とさせる。少佐は一気に現実に引きもどされた気がした。息ぐるしい感傷は、ふたたび胸のうちの奥深くへしまいこまれた。なにを気取ってやがんだ、馬鹿野郎が。少佐はひっそりと微笑した。こういうスパイは、さまざまな変装と色気と大胆不敵さで、さぞスクリーンには映えるだろうが、実際そんな目立つスパイなど部下に持つのは御免被りたかった。また、自分がそんなことをするのも御免被りたかった。
 華麗なるスパイもどきが、優雅な足取りで目の前へやってきて止まった。ご自慢の金の巻き毛は帽子にでもしまいこんだのか、どこかへ隠れていて見えなかった。サングラスに手をかけて挨拶がわりに微笑し、ふいにあたりをはばかるようにちらちらと周囲を見回して、外灯に寄りかかって熟睡している乞食に目を留めた。そしてしばらくそれを見やっていた。少佐はなぜかそのままにしておくのが忍びないような気がした。乞食のためであったか、それともスパイもどきのためであったかはわからなかった。それで、相手をうながして川にそって歩き出した。
 しばらくふたりとも無言で歩いた。ときおりぱしゃぱしゃと水の跳ねる音がしていた。
「で、手に入れたのか」
 少佐が手を差し出すと、手のひらの上に小さな手帳が置かれた。少佐は外灯の下で立ち止まり、検分した。
「大変だったんだよ。いつも胸ポケットに入れて手放さないしさ、寝るときは寝るときで枕の下に銃と一緒に押しこむんだからね! これは高くつくよ……」
 少佐は微笑し、手帳を閉じた。その手帳には、各国情報機関が喉から手が出るほど欲しがりそうな情報がいろいろと書きこまれているはずだった。暗号化されたそれを解く必要はあったが、それはその道の専門家に任せればよかった。
「よし、三十分後にまたここに来い」
「なんでさ?」
「写しをとって返すんだ」
「また枕の下に戻すの? きみそんなことひとことも……」
「いいからとっととどっか行け」
「いやだ」
「行け」
「ついてく」
 少佐は振り返った。相手の顔はサングラスでよく見えないが、むくれているらしかった。
「きみ、ひとをこき使うのもいい加減にしたまえよ」
「かわりに警備会社の内部情報流してやったじゃねえか。ずいぶんと手間割いたんだぞ、あれで」
「そんなことはきみに頼らないだってできるけど、寝てる男の枕の下からものを取ってくるなんて芸当、わたしじゃなきゃできないだろう? だいたい、ジェイムズくんを人質にとって実行を強請するなんて不愉快はなはだしいよ」
「馬鹿野郎、そりゃおまえが云うことをきかんからだ。あのゴミ虫を預かってる身になれよ。部屋にゴミ溜めを作るわ、あたりをネズミがうろつき出すわ、散々手焼かせやがって……」
「うちの大切なジェイムズくんをゴミ虫とはなんだ」
「ゴミはゴミじゃねえか、薄汚い乞食野郎が」
「うん、それは確かにそうなんだけど」
 少佐はもう返事に窮してしまった。気まずい沈黙が訪れそうになったとき、タイミングを見計らっていたように、ものかげからゆらゆらと小さな影があらわれて、近づいてきた。
「少佐……」
 Aだった。すっかり及び腰で、おっかなびっくりやってくる。
「あのう、少佐、お取りこみ中すみません……それ、よろしければぼくがお預かりして届けますが……」
 少佐はじろりとAをにらむと、無言で手帳を差し出した。Aの顔はかなり憔悴していた。伯爵に振り回されたおかげで、ここ何日もろくに眠れていないのだった。こいつ、近いうちにまた円形脱毛症にかかるな……少佐はこの生真面目な部下をいくぶんあわれに思った。伯爵のような法外な人間とのらくら渡りあうような神経は、いくつになってもできないらしかった。
 Aはびくびくしながら手帳を受け取り、横にいる伯爵をちらりと見てため息をついた。そうしてふたたびこそこそと闇の中へ消えていった。
 少佐は伯爵に向き直った。苦笑いをしていた。忠義者のAが出てきたので、お互いにすっかり気をそがれていた。といって、仲良くなにかを話しだすというあいだがらでもなかった。無言でいるのも気まずかった。
「……それで、わたしは三十分もここで待たなきゃいけないの?」
 伯爵が投げやりな調子で云って、帽子の角度を直した。
「三十分もかからん、十五分くらいだ、たぶん」
「あ、そう。じゃ、手帳はまたもとの場所へ返してあげるから、きみ、わたしと散歩につきあってよ。十五分もこんなとこにじっとしてたんじゃ、風邪を引きかねないよ。きみは平気かもしれないけどさ。それでチャラにしてあげてもいい」
「そんなもんでチャラになるもんかね……」
 伯爵がサングラスを取り、少佐に顔を寄せ、まともに見つめてきた。
「知らないの? きみはそれだけ魅力的なんだよ……」
 そうして、からからと楽しそうに笑った。

 

 彼らは別になにを云うのでもなく、なにを見るのでもなく……実際なにも見えなかった……濃い霧の中を歩いた。奇妙な逍遥だった。あたりは相変わらず霧と闇の中に閉ざされて、夜明けはまだ遠かった。霧の充溢する中を、ただふたりだけが縫い歩いていた。未知の世界をさまようように、あるいは闇夜を笑い返すかのように、ゆるゆると歩いていた。伯爵の肩がすぐ隣に感じられた。いつも変わらない香水の香りが霧の中へ混じって漂っていた。息をするたびに、少佐の中へ入りこんでくるようだった。
「きみと霧の夜を満喫したんだってわたしは自慢するよ……」
 伯爵がうっとりと云った。
「誰に」
 少佐は答えを期待しないで訊いた。
「方方にさ」
 伯爵が笑った気配がした。
「そうか。おれのファンによろしく云っといてくれ」
 伯爵が今度は声を上げて笑った。
「そうするよ」
「おれのファンてのは大勢かね?」
「そうだねえ、少なくはないね。安心した? 色男」
「女のファンならいくらか喜ぶがね……」
「残念だったねえ、男ばっかりだ」
 実のある会話はなにもなかった。どこまでも冗談のようでもあり、ほんとうのようでもあった。お互いにほんとうのことを云う必要を感じないのかもしれなかった。あるいは避けているのかもしれないと少佐は思った。でもそれはたぶん自分が期待しているような理由からではないだろうとも思った。
 ふたりは橋の上をあっちの岸へ渡ったりこっちへ戻ったりして、じぐざくに進んだ。どの橋の下にも必ずといっていいほど浮浪者がいた。誰しも眠っていた。頭から布のようなものをかぶって眠っていた。あの中へまぎれこんで、ひと知れず消えてしまいたいような気もした。自分の過去や現在の地位を全部うっちゃってしまって、新しくやり直したいような気がした。エーベルバッハ少佐でない誰か。こんなに堅苦しくなくて、部下に命令したり上部から命令されたり、怒鳴り散らしたりもしなくて、時間に正確でなく、昼間から平気でそのへんで飲んだくれて、生活を立てる気持ちも器量もないような、そういう人間になってみたいような気もした。なにかそういう衝動が、伯爵といるときにはいっそう強くなるようだった。自分の奥深くから、自分を招く声を少佐は確かに聞いた。なにかが崩れ落ちるような、あやうい声を。
 ふたりはもとの場所へ戻った。律儀なAはもう来ていた。そうして相変わらずおっかなびっくりに伯爵に手帳を差し出した。受けとるさいに指先が触れあうかなにかしたのに違いない、Aはびくっと一瞬身体を震わした。伯爵がうれしそうに微笑したのが見えた。
「ぼくやっぱり、あのひとは苦手です……」
 伯爵の姿が見えなくなると、Aはぐったりしたように云った。
「別になにをするってんでもないんですが。嫌いってわけではないけど疲れます……」
「修行が足りんぞ、A」
 そのことばはそのまま自分にそっくり跳ね返ってきそうだった。少佐は唇を持ち上げ、歩き出した。Aがあわててついてきた。
「精進します」
 Aらしい答えだった。少佐は笑った。声を上げて笑った。Aがきょとんとしているのを……否、半ばぎょっとしているのを、少佐は感じた。それがまた、笑いをあおった。彼はしばらくのあいだ、途方に暮れているAを従えて、笑い続けた。
 夜明けはもう近かった。霧がますます濃く、街全体を覆いはじめていた。

 

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