クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐とドリアン・レッド・グローリア伯爵の会話
「ねえ、コンラートって、執事の中の執事だね。執事の鑑、執事の誉れ! 彼に栄光あれ! 彼、来客用に世界中のありとあらゆるものを取りそろえてくれたみたいなんだ。云えばなんでも出てくる。紅茶だって、君が飲むとは思えないのにあの品ぞろえだし、このグラスにこのワイン、君には絶対に必要ないものだよね。アイスクリームもあるって云ってた。なんて用意周到で労を惜しまない男なんだろう。北極の氷を食べてみたいって云ったら、彼なら持ってきてくれる気がするよ」
スパークリングワインなどというものが、家にあるとは知らなかった。伯爵が脚の長いボヘミアングラスで飲んでいるさくらんぼ色の液体を、さっき彼の唇から受け取ったのだが……突然の行動だったので防ぎようがなかった、服や髪がお湯と泡で濡れてしまった……少佐は舌に慣れないその味に驚いたのだった。
「彼のことが好きになってしまいそうだよ。さっきたまらずキスしてしまったけどよかった? 彼、純情なんだ、顔を赤くしてた。女っ気がないよね。妻帯者じゃないだろう? でも男が好きってわけじゃない……ねえ、彼、わたしのこと好きになってくれたみたいなんだ。どうしてかな? 信じられる? ときどき、すごく優しい目をする。わたしに。泣きたくなるような。無意識だと思うんだけど……君、心当たりある? 初恋のひとにでも似てるのかな? まあ、似せやすいタイプではあるよ。想像の中でね。金髪碧眼に生涯一度も心を奪われなかったなんて男がいたら、勲章ものだ」
少佐は、残念ながら執事の過去の恋愛についてはなにも知らないと云った。風呂場へ持ちこんだ椅子に座って、灰皿を広げた両太股のあいだに置き、新聞を広げた。それが、彼のリラックスして話を聞くためのスタイルだった。あるいは、リラックスして話をするための。
「すごく気になってきた。絶対聞き出してみせるよ。自信がある、任せてよ。でも、これって予想外の幸運じゃない? まあ、つまり、わたしの心配は取り越し苦労だったってこと。するんじゃなかった! 心配ってろくなことがないね。だっていつも、絶対その通りになんてなりゃしない。でも、万が一のことがあったときに君の葛藤を見ているのはつらいからね……やっぱり、人生ってこういうことなんだ、つまり、わたしはわたしのままでいてなんら問題ないんだってこと。わたしが幸福なら、世界も幸福なんだ」
まあ、それはほんとうだ。伯爵が幸せいっぱいにけらけらやっているのを見ているだけで、自分まで幸福なのではないかという気がしてくる。そしてそういう状況を作り出すために、あらゆることをしてもいいような気持ちになってくる。伯爵に熱を上げていて、彼のためなら破産したって投獄されたってかまわないと考えているあまたの男たちも、きっとみんなそういう動機で動いている。そういう男たちと、自分のあいだにはいかなる差も存在しない。少佐はそう思っている。ただ、伯爵が相手にどういう愛情を捧げているかという違いがあるだけ。
少佐はいつもみたいにべらべらやっている伯爵を見た。ゆるやかなカーブを描く美しい金髪は、いまは真っ白なタオルに覆われていて、いつもは巻き毛の中に隠された耳があらわになっている。ついさっきまで、金細工とサファイアのピアスがその柔らかな耳たぶを飾っていたのだった。首には、それとおそろいのネックレス、指にも指輪がはまっていた。軽薄そうな見た目と、とどまることをしらないおしゃべり。そういうものに惹かれて、彼にのめりこむタイプの人間も多い。でも伯爵はぜったいに、万人受けはしないタイプだ。特に保守的な連中の目には、とんでもなく煙たい存在に移るだろう。執事はそういうタイプだ。そして少佐もそういうタイプだ。でも、少佐は知っている。このべらべらとけばけばの向こうに、いかなる繊細さが潜んでいるのか。もちろん彼はいつだって自分を欺くことはしないけれど、でもその姿勢を貫くために、彼が堪え忍んでいるもの、そこへたどりつくまでに彼が越えてきたもの……少佐はため息をついた。それがわかるようになるまでに、こちらはそれなりの月日を要したのだったが、あの執事ときたら!
「あいつ、おまえにあまり気を遣うなと云っとったぞ」
伯爵はめんくらった顔をした。
「えっ、ほんと? ……わお」
伯爵は短く口笛を吹いた。そうして少し身を乗り出して、浴槽の縁に肘をつき、手のひらに顎を乗せて、うっとりしたような顔をした。
「……やっぱり彼のこと好きになったよ。大好きになった。朝の挨拶を抱きしめてキスにしてもいい?」
少佐はあきれたような顔で伯爵を見やった。
「やめとけ。おまえの知り合い連中と違って美形のアップには慣れとらん。心臓が破裂する」
伯爵は笑い転げた。
「アイアイ少佐(と云って彼は敬礼した)。でも少しずつ慣らすって手もあるんだよ。もしもさ、もしもだよ、わたしと彼が十年選手レベルのつきあいになるとしたら、顔を見合わせるたびにいちいちどぎまぎされてたら困るよ……まあ、そういう男っているけど。学生時代の友だちでね、いまだにわたしを見ると、顔を赤らめてもじもじするのがいる。ちょっと熱っぽい視線なんて送ったら、もう事件だよ。かわいいよね」
少佐はなにか云うのを差し控えた。伯爵はそういう男なのだ。どぎつい茶目っ気があって、すれすれで、そうして軽快だ。
「でも、君予想してた? 彼がわたしを嫌いはしないだろうってこと」
頭にインド人よろしく巻いていたタオルを取り払い、シャワーコックを手にとってトリートメントを洗い流しながら、伯爵は云った。少佐は顎に手を当てた。
「……まあ、そんなこったろうと思った」
「どうして? 答えられるなら答えて。君の理性を越えたひらめきなら、それはそれでいいんだけど」
「どっちかと云やそのひらめきの方だ。なにがどうして、なんて話じゃない」
そういう気がしただけだった。なんとなく、あの執事なら伯爵に会わせておいてもいいかというような、そういう漠然とした予感がしただけだった。伯爵のことだから、自分の世話をしてくれる年上の男を好きにならないわけがないだろうし、世話焼きな執事のことだから、さんざん手のかかる伯爵に、職業的なやりがいを感じてもおかしくはないはずだった。そういうふうに理由をつけようと思えばつけられるのだけれど、結局のところ、ただの根拠という根拠のない思いつきだった。でもなぜか、ほんとうにそうしてもいいような気がした……そしてそれは、間違いではなかったのだ。
「まあ、ありがたいことではあるよね。理解者、同胞、仲間、人間にどうしたって必要な存在だ。だって、それがないと人間って孤独で発狂してしまう。この、コミュニケーションの容易じゃない世界ではね。でも、それは与えられるんだよ、必ずね。そう願えば、与えられる。天使のようなひとってどこにでもいるものだけど、きっと、あのコンラートがわたしたちの天使なんだ。すだれ頭で、慇懃で、温厚で魅力的な天使。わたしたちの箱庭を守ってくれる。すばらしい忠誠心でね。考えてみて。君とわたしがこうしていること、世界中の人間が誰ひとり、ふたりのほかに誰ひとり知らないって状況のこと。秘密を持つことは甘くて官能的? Ja! ただし、それは恋の最初のうちだけだ。秘密は、たとえどんなものでも、いずれ絶対に重荷になる。その重さでだめになってしまう関係なんてうんざりするほどあるんだ、古今東西、神が人間を作りたもうたその日から! 罪と救済。人生は、そのアラベスクかもしれないと思ったことは? ない? 君も幸せな人間だね! 人間がなにより求めているのは許しと承認なんだよ、クラウス。わかる? だから、わたしたちはそこに救いを見るわけなんだけど……この場合は、あの愛すべきコンラートの中に。ああ! やっぱりだめだ。君が止めてもわたしは彼にキスするよ。ぎゅっとやって、両頬と額にするんだ。彼が同性も恋愛対象に含め得る人種だったらもうちょっと濃厚なのをしてもいいけど、でもだめだろうなあ! 彼、どうして結婚してないんだと思う? 君がしないから? それなら、彼のためだけに君と結婚してもいいよ、わたしが」
少佐は眉をつり上げ、身体を洗っている伯爵の頭めがけて丸めた新聞紙をたたきつけた。軽く置いただけなのに、伯爵は痛いと大騒ぎした。少佐は無視した……でも、伯爵の云うことは大部分、ほんとうにそうだった。結婚のことはさておくにしても。