10
伯爵の部屋の前に立つのははじめてだった。最上階の角部屋のスイートルームで、左隣の部屋にはエステン氏がいるはずだった。少佐は一瞬、そのエステン氏の部屋へ視線を投げたが、すぐにもとへ戻して、伯爵の部屋のドアを見つめた。ドアは閉じていた。しかし、少佐がベルを鳴らし、懇願すれば、開かれる可能性のあるドアだった。ほんとうなら、このドアは少佐のためにはいつも開いている。それを閉じ、鍵をかけるように仕向けたのは少佐自身だった。
彼はドアの横についている小さなボタンを押した。ブーッという鈍い音が部屋に響くのが聞こえた。一拍おいて、次は三度続けて鳴らす。それがふたりのあいだのベルの鳴らし方だった。はじめは少佐がふざけてやったのだが、いつの間にかそれが独自の地位を確立し、独自の意味を持つに至った。これを聞くと、伯爵はばたばたと大急ぎで部屋を横切ってやってきて、勢いよく扉を開け、少佐に抱きついてくる。万が一のときのために、なんらかの異変があるときには、三度のベルのあとにもう一度ベルを鳴らすこと、という取り決めまでしてあった。そうしなければ、少佐が安心できなかった。
伯爵は出てこなかった。少佐はもう一度同じやり方をくり返した。それでも反応はなかった。少佐はそっとドアノブを回してみた。ドアはすんなりと開いた。
少佐は中へ入る前に、ためらった。部屋の先にあるだろう空気、伯爵がもたらし満たし、広げる空気は、ときおり少佐を圧倒し、畏怖に近いものを感じさせた。少佐は幾度もためらいがちにそれに飲みこまれてきた。それはやんわりと優しく少佐を包み、誘い出し、連れ去り、運んでいった。笑い、ざわめきながら少佐の背中を押し、伯爵のもとへ押しやって、舞い上がり、いつまでもくすくす笑いを続けている。そういう霊気のようなものを、少佐はよく感じた。それは空間に飛び火した伯爵の遊び心みたいなものだった。あるいは、愛に使者が……クピドのような使者がいるとしたら、それなのかもしれなかった。
少佐の逡巡はほんの数秒だった。彼は覚悟を決めた。ぐっと力をこめてドアを大きく開くと、目前に優雅な居間が姿を表した。たっぷりと日差しを取りこんでいる大きな窓、美しいひだを描く真っ白なレースのカーテンと、深紅の重々しいカーテン、その下に広がっているソファとテーブルのセット、書き物机、くり返しの花壷モチーフで飾られた、象牙色の美しい壁紙。部屋の中には、ほのかにバラの香りがただよっていた。白と紅色のバラが大きな花瓶に生けられて、優美な脚の台に置かれ、続きの部屋へ通じるドアの左右にしつらえてあった。少佐は花瓶のところへ歩いていって、鼻先を近づけ、それから紅色のバラを一本引き抜いた。指先でくるくると回してもてあそび、腹を決めて、目の前の、おそらく寝室に通じるドアに手をかけた。
部屋の中央に、天蓋つきの大きなベッドがあった。天蓋からぶら下がるカーテンは左右に開いていて、伯爵がベッドの真ん中に目を閉じて横たわっているのが見えた。白いサテンのガウンを着ていた。巻き毛が枕からはみ出し、純白のシーツの上に広がっていた。バラの花びらがベッドのあちこちに散っていた。伯爵がむしって、散らかしたものらしかった。ベッドの下に、無惨に花を奪われた茎と葉がいくつか転がっていた。枕元では、伯爵の相棒のテディベアが、心配そうに友だちを見守っていた。
少佐はベッドの先のフランス窓に目を転じた。バルコニーに通じる窓は少し開いていて、カーテンが頼りない冬の日差しを浴びながらかすかに揺れていた。部屋の中は寒かった。少佐は顔をしかめ、窓を閉めにかかった。
「いいんだ、そのままに……」
伯爵の声がした。少佐は振り返った。伯爵は目を開け、首を回して、どこかぼんやりした目で少佐を見ていた。
「すきま風がくる」
少佐はドイツ人らしいことを云った。
「凍え死にたいのか?」
伯爵は微笑し、もうなにも云わなかった。少佐は窓を閉めた。そうして、窓にもたれかかって立った。少佐はふたたび、幾分持て余したバラの花をくるくるやった。伯爵がそれに目を留め、微笑を浮かべた。少佐は枕元へ行って、差し出された彼の美しい手にそれを握らせた。伯爵の顔はやや青白かったが、少佐がバラを差し出すと、頬にかすかな赤みが戻った。伯爵はバラに鼻先を近づけ、微笑み、胸に抱いた。
「具合が悪いのか」
少佐は口調を和らげて云った。
「うん……」
伯爵は目を閉じた。沈黙が流れた。
「寒いよ」
伯爵がつぶやいた。少佐はクローゼットのところまで歩いて行って、中から暖かそうなウールのガウンを取り出し、持ってきた。少佐がベッドへ近づくと、伯爵が物憂そうに首を曲げ、少佐を見上げた。
「ほれ」
少佐は云った。伯爵は首を振ったが、少佐はかまわず彼にガウンを押しつけた。伯爵はうらめしそうに、力なく少佐を見つめた。少佐は居間から椅子を引っ張ってきて、枕元に設置し、腰を下ろした。伯爵はおとなしくガウンにくるまって、丸くなっていた。手にはバラを握ったままだった。
「……なんだってあんなことしたんだ」
少佐は静かに云った。伯爵は顔色を変えず、身体も動かさなかった。
「……違うな、理由なら、おれはたぶんとっくにわかっとるんだ」
伯爵が少佐を見上げた。少佐は肩をすくめた。
「ひとが見たら、たぶんほとんどのやつは、おまえらは大ばかだ、と云うだろうな……資料は、どこにある?」
伯爵はかすかに微笑し、すぐに表情を引き締めて、枕元のサイドボードを目で示した。少佐は立ち上がり、引き出しの一番上を開けた。紐でくくられファイルされたプリントの束と、それをコピーしたらしいファイルがふたつ出てきた。少佐は専門家らしく見聞した……コピーされたファイルのうち、ひとつは本物だったが、もうひとつは偽物だった。表紙だけが本物で、あとはすべて適当な資料を印刷してきたものだった。
「こんなこったろうと思ったよ」
少佐はからかうように云った。
「カーンの欠点はありすぎるほどあるが、そのうちのひとつが用意周到でいようとしすぎることだ。これがまた、やたらと細を穿って考えるもんだから、ちっとも的を射たものにならんのさ。んなことしたって労力の無駄なだけなのに」
伯爵は微笑した。そうして、なおもその棚を目で指し示した。少佐は伯爵を見返し、意味がわかったので、二段目の引き出しを開けた。大きな茶封筒が入っていた。少佐はいやな予感がして、触れようとした手を一瞬引っこめ、もう一度伯爵を見た。伯爵はじっと少佐を見つめていた。バラを握った手に力が入り、ただでさえ白いのがいっそう白くなった。
少佐は決心して、封筒をつかんで手に取った。裏に蓋を閉めるための留め具と紐がついていて、その紐はいやに厳重に幾度も交差して巻かれていた。こういうのが、カーンの神経質なところだ! それをほどきながら、少佐はできればこの中に入っているものを見たくないという訴えが、自分のうちから噴き出し全身を覆っていくのを感じていた。中身がなにかは知らなかった。しかし、本能的にその輪郭を感じ取り、知っていた。それが自分に非常に大きな打撃を加えることは、ほぼ間違いなかった。ところがそれは避けようのないもので、せいぜい衝撃の瞬間を遅らせることくらいしかできないのだ。奇妙な焦燥感が這い上がってきた。少佐はいやに複雑にふたつの留め具にからまった紐をほどきながら、焦っていらいらし、ほとんど口から罵声が飛び出しそうになっていた。伯爵は黙って少佐の手元を見ていた。少佐はその伯爵の冷静さにもまたいらいらした。
ようやく紐がほどけた。面倒なことしやがって、カーンのやつぶち殺してやる。少佐は心の中で悪態をつき、封筒を開こうとして、急に慎重になった。どこか糊づけでもされていないかと探るように、蓋を指でなぞり、開いてもなおしばらく手を止めてじっと考えこむような顔をした。それからようやく逆さにして中身を取り出した。数枚の写真とネガが転がり落ちてきた。
心臓が凍りついた。血の気が引いていくのがわかった。写真は少佐の予想通り、伯爵に関するものだった。が、予想よりもやや露骨な、趣味の悪いものだった。それは明らかにことの最中を隠し撮りしたものだった。写真は長いあいだ頻繁に出し入れされ、眺められたに違いない。やや退色し、角は少し折れ曲がって、一面に指紋がべたべたとくっついていた。
「……わたしは中を見てないんだ。その権利がないと思ってね」
伯爵は静かに云った。
「どちらもきみに預けるよ」
少佐の体内で、一瞬滞り、押しとどめられていた血流が解放され、ほとばしった。少佐は反射的に伯爵をにらみつけていた。伯爵は平然とそれを受け止めた。そうして、あきらめたように微笑した。少佐はそれでさらにかちんときた。
「中身は見てないと云ったな」
押し殺したような声で少佐は云った。
「教えてやろうか?」
伯爵はなにも云わなかった。ただじっと、少佐を見返していた。いまやその大きな目には、幾分かの哀れみに似たものが混じっているように感じられた。これが少佐に最後の、決定的な一撃を食らわした。一瞬間、全身が燃え上がるような気がしたのを最後に、なにかのスイッチを押されたように、少佐の頭から怒りがすっと消えていった。怒りだけでなく、ほかのあらゆる感情も、深みに吸いこまれるように消え去っていった。
彼はドアの方へ向かって足を踏み出した。
「どこへ行くの?」
伯爵が云った。鋭い声ではあったが、あわてたようすはなかった。少佐はゆっくりと振り返った。
「カーンのとこだ。BND本部。おまえが入れたなら、おれにも入れるはずだ……もっとも、おれの場合はおまえのような腕も、セキュリティ破りに特化した部下も持たないが、大丈夫だろう。顔で入れてもらえるはずだ。あのビルの受付嬢は、うちの受付嬢には及ばんが、なかなか愛想のいい美人だ」
伯爵はベッドの上で身を起こした。
「知っているよ。金髪碧眼の若き美女だ。きみの好みそうな子だった。わたしは昨日、彼女の代わりを務めていたからね」
少佐は表情のない目で伯爵を見下ろした。
「ほー、そうなのか? それで、このくそいまいましいブツをどうやって取り返した? 知っとるかね? カーンのやつも、金髪美女には目がないんだ」
伯爵は表情を変えなかった。
「それは知らなかったな。次からは考慮させてもらうよ」
「ああ、ぜひそうしてくれ。それに、具合のいいことに写真はおまえのもんだったんだ」
伯爵はじっと少佐を見つめたまま、眉ひとつ動かさなかった。
「そうだと思ったよ。きみの反応でね。そういうものを持っていて、かつ、金額次第で売りそうな男なら、まだひとりふたり、いるかもしれないな……たいがい回収したと思ったけれどね」
いまやふたりは、ほとんど憎しみを抱えた人間どうしがにらみあっているようなありさまだった。鋭利な、重苦しい沈黙が、しばしあたりを支配した。
先に反応を示したのは少佐だった。
「……面白いか?」
彼は鼻を鳴らして笑った。
「おれがおまえのことでいちいちてんてこまいしとるのが面白いかね? 面白いだろうな。おれだってそう思うことがある。ずいぶん滑稽なもんだろうなと。誰も、好き好んでばかにはなりたくない。そう見られたくもない。でもそうなっちまう。おれの上でやたらめったらな銃撃戦が起きて、戦車が三百台も通り過ぎて、戦闘機が右から左から攻撃してきて、更地になっちまったみたいな気分だ。更地だと云っとるのに、その上をさらに連隊が行進していくんだ。おまえにわかるか? むちゃくちゃだ。こんな戦場があるか。おれはたいがいのことにゃ耐えられるが、こんなやつは……おかげであのカーンのくそばか野郎は、嬉しそうに掘り出し物を拾ってきておれをおちょくりよるし、散々だ、ちくしょう。散々だ。おまえってやつは、おれを……おれを……」
少佐は肩で息をしていた。自分がいったいなにを云おうとしているのか、あまりにも激しく、混沌としたものが次から次にこみあげてきて、もはやよくわからなかった。少佐は愛情と憎悪と無秩序の極みに、自分が投げ出されていると思った。ボロ布のような自分が、右から左からあおられて、虚空でみじめにくるくる回っている。情けなく、滑稽に。
伯爵は相変わらず表情を変えなかった。その顔は、氷のようになめらかで、冷たく見えた。
「……だけど、それでわたしにどうしろというの?」
伯爵は静かに云った。
「わたしに謝れとでも? わたしがきみの前にあらわれて、きみにちょっかい出して、うかつにも本気にさせてすまなかったと云えばいいの? あるいは、うかつにも本気になったきみに、さらにうかつにもわたしまで本気になって悪かったと云えばすむとでも? 全部わたしの責任だと云いたいの? きみだけが苦しんでいるとでも思ってるの? わたしだっていやなんだよ、いつもいつも疑われて、きみは疑うたびに結局は自分を恥じて。そうして、きみはわたしに背を向けるんだ。背を向けて、扉を閉めてしまう。わたしはきみを知りたいのに、理解しあいたいのに、きみに触れたいのに、そしてわたしに触れてほしいのに、この二年のほとんどのあいだ、わたしが見ていたのはきみの背中と、開かないドアだけ。わたしがどんなに寂しかったかわかる? わたしって、そんなに信用できないのかな! きみがなにに苦しんでるのかわからないほど、わたしバカじゃないつもりだけど! わたしが同じものに苦しんだことがないなんて、きみは本気で思ってるの? ここんとこずっと、この自問自答のくり返しだよ。わたしはきみの苦しみに、一番痛いところに、触れるに値しない存在なんだろうか? わたしたち、このまま愛し合えないまま終わるんだろうか、って。そして、その可能性を考えると、わたしはもう怖くなって、動けなくなってしまうんだ……」
伯爵はひと息に云うと、両手で髪をかきあげ、それから膝を抱えて震えだした。いつの間にか伯爵の手からこぼれ落ちていたバラの花が、床に落ちた。その拍子に花びらが何枚か取れて、その周りに散らばった。少佐はそれを、ひどく冷静に見ていた。
「…………わたしたち、これっきり先へ行けないの?」
伯爵がか細い声で云った。彼はベッドの上で、自分の身体を抱きしめてうつむき、震えていた。
少佐は呆けたように、ふらふらと椅子の前に戻ってきた。視線は虚空をとらえたまま、手探りで椅子をさぐりあて、そしてよろめくようにして座りこんだ。それから煙草を取り出して、口にくわえて火をつけた。紫煙が細く長く立ちのぼった。しばらくしてから、少佐はまた別の煙草を引っこ抜いて、くわえようとし、最初の一本がまだ健在だったのに気がついて、そいつをのろのろと投げ捨てた。それから新しいのをくわえて、火をつけた。
少佐は頭を抱えた。目の前がぐるぐると回っているようだった。気分が悪かった。なにかが自分のうちで、形にならない訴えを起こしていた。少佐はめまいがし、背中を丸め太股に両肘を乗せて目を閉じた。
形にならない新たな訴えは、はるか遠くにいて、必死で助けを呼んでいた。そこは戦場だった。火薬と、血の匂いのする戦場だった。砲弾が雨あられと飛び交う、激烈な戦いのさなかだった。それは身をかばいながら、進む先をなんとか手探りで確かめようとするのだが、すぐに四方から銃弾が飛んできて、行く手を阻まれる。少佐は黙っていられなかった。思わず飛び出していった。なんとかそのもとへたどりつき、引き寄せ、腕の中へおさめると……それが振り返って少佐を見た。
それは少佐自身、幼いころのクラウス少年だった。彼は少佐を見ると、まるで父親でも捜し当てたかのように、安堵の笑みをもらした。安心して大きな腕の中におさまり、息を吐いて、少佐に体重を預けて目を閉じた。少佐が困惑しながらもほっとした次の瞬間、腕の中のクラウス少年がぼうっと光りだした。そしてしだいにまぶしくなり、目もくらむほどの黄金に輝きだした。少佐は思わず自分の腕で目を覆い、顔を背けた……しばらくして、おそるおそる目を開けると、少佐の目の前に立っていたのは、あの黄金の、美しい女神ヴィクトリアだった。女神は少佐に向かって、幼いころの夢と同じに、優しく微笑み、うなずいた。
…………少佐はゆっくりと目を開き、頭を抱えていた腕をおろして、顔を上げた。それから伯爵を見やった。彼はまだ震えて丸くなっていた。小刻みに震える彼の、痛々しい様子を見て、少佐はようやく我に返った気がした。
彼は椅子に座りなおした。ため息をつき、丸めた手の親指で、額を掻き、煙草を取り出し、火をつけた。ゆっくりとひと息吐き出し、さらに吸った。それから少佐は、椅子から立ち上がり、伯爵の横にひざまずいた。伯爵は震えて泣いていた。
「……悪かった」
少佐は云った。
「許してくれ」
それは静かな、小さな声で放たれた。薄暗い、ひっそりした聖堂の中で、心から捧げられる祈りの響きに似ていた。伯爵の身体がぴくりと動き、彼はゆっくりと顔を上げた。青白い、涙の筋の浮かぶ顔にかすかなとまどいと、疑いの表情が浮かんだ。彼はすぐにうつむいた。まつ毛がせわしなくはためいた。
「ドリアン、」
少佐は伯爵を呼んだ。名前を呼び、その名前が示すものを呼んだ。伯爵の身体が震えた。少佐は彼に手を伸ばした。その手も震えていた。震える身体と、震える手が触れ合った。少佐は伯爵を抱きしめた。柔らかな巻き毛が頬に触れた。
「許してくれ」
少佐は目を閉じた。伯爵の身体がひときわ大きく震え、小さな嗚咽が聞こえてきた。
「悪かった……」
少佐は云った。かなり長いこと、ふたりはそのままじっとしていた。小刻みな震えはやがて静かに引いていった。少佐は顔を上げた。伯爵も顔を上げた。伯爵のせっかくの美しい顔は、涙でぐしょぐしょに濡れていた。少佐は胸が痛む思いがした。なぜこうなるのだろう? それだけはするまいと思っている相手に限って、こんなふうにしてしまうのはいったいなぜなのか? しかし少佐はもうその答えを知っていた。少佐は涙で濡れた、幾分不安げな伯爵の顔に向かって微笑した。
伯爵が腕を回してきた。少佐は痛いくらい抱きしめられるのを感じた。少佐は抱きしめ返した。優しく背中をなで、落ちつかせるように、頭をぽんぽんと叩いた。それから立ち上がって、ベッドに腰を下ろした。伯爵の顔を両手でつつみこむようにして、親指で涙を拭い、それから額に自分の額をこつんとぶつけた。
「おまえの勝ちだ。おまえはおれを征服した。隅から隅まで。戦争は終わった。というわけでおれは武装解除する。そうするとどうなるかは知らんが。まだ試したことがないんでね」
伯爵が息を漏らして笑った。
「わたしが勝ったの? きみじゃなくて?」
「わからんよ。だいたい、こういう場合勝ち負けってなんだ?」
「わたしだって知らないよ、きみが持ちだしたんだよ……」
「あー、わかった、悪かった、いつもそうしちまうんだ。勝ち負けとか、白黒とか」
ふたりは笑い出した。伯爵がおどけて、少佐の耳を引っぱった。少佐は耳をぴくぴく動かした。
「武器を捨てた気分はどう、エーベルバッハ少佐」
少佐は笑った。そして伯爵の額にキスした。
「まだわからん。見晴らしはいいようだがね」
伯爵も笑った。そうして抱きついてきて、甘えるように頬をすり寄せてきた。ふたりは抱きしめあった。
もう十分だった。なにもかもが過ぎ去っていた。抵抗や不安や怯え、疑い、失うことをおそれ、さらけ出すことをおそれていた、ぎしぎしと軋むような耐えがたい時間は、もう終わったのだ。あの和解とともにやってくる温かい、不思議な感慨が、ふたりを包みこんでいた。誰しもの内側に眠っている影と秘密とは、いまはつつましく身を引いていた。否、それがあることはもはや秘密でもなんでもなかった。あることにはあったが、そのこと自体はもう問題ではなかった。
「わたし、やっときみに触れた」
伯爵がうっとりと云った。
「きみはやっと、わたしを受け入れてくれた。わたしに、触れることを許してくれたんだ……」
その陶然とした声を耳元で聴きながら、少佐も柄になく似たような気分であることを認めた。
「ドアを叩いていたのはわたし。油断すると、きみが背を向けてしまうから。すぐに、離れていってしまうから。わたしには、誰よりもきみが必要だったのに。すごく寂しかったんだよ。でも、ようやく終わったんだ」
ふたりは沈黙し、見つめあい、抱きしめ合った。もうなにもする必要がなかった。少佐は目を閉じ、自分が溶けだしていくような感覚を味わった。うるわしい勝利の中に。自分が敗れ、そして勝ち取ったものの中に。
どんづまりまできていたわけではなかったのだ、と少佐は知った。まだ、はじまりのところにすらいなかったのだ。いま、少佐は、はじまりであり、終わりであるところの場所に立って、伯爵を抱きしめていた。羞恥も痛みも、いまは消えていた。彼らはなにか、お互いの存在を超えたところで交じり合っているように感じられた。そしてそれでも別々の人間で、別々の人生を歩いていて、お互いにつまびらかでない過去をしょっているのだ! 不思議だった。あまりにも不思議で、わけがわからなかった。ふたりがふたつであり、ひとつであるとは、なんとわけがわからないことなのだろう! お互いがお互いに、自分をすっかり開示し、明け渡すことは、なんとおかしな状態を作り出すものか。少佐は自分が完全に伯爵のものであり、伯爵が完全に自分のものであるのを、ふたつの領域がすっかり重なりあい、わかちがたく、もつれあってどこまでも駆けていくのを、感じ、見送っていた。劇的な、神がかった、神秘的な瞬間。ふたつの心があることの秘密、秘密があり、秘密がないことの秘密、愛しあうことの秘密。すべてのことが、だしぬけに少佐の前に開かれ、明らかになったのだ。
「……簡単なことじゃないか」
少佐は云った。
「実に簡単な。おれはいままで、なにをしとったんだろうかね」
「戦っていたんだよ」
伯爵がいたわりをこめて云った。
「更地になるまで戦い尽くさないと、わからないこともある。武器の捨て方、身の守り方。それから、愛し方と、愛され方。武器を捨てて、服を脱ぐのは楽じゃない。誰かの前に、裸で現れるのは。すごく難しいよ。いつも終わってみれば、拍子抜けするようなことなんだけれど」
「おまえ、ほかの男ともこういう経験をしたのかね」
少佐はふと気がついて訊ねた。伯爵が微笑んだ。
「うまくいったことはあんまり多くない。でもきみとはうまくいった。うれしいよ。傷だらけになった甲斐があった」
ふたりは見つめあい、目を閉じ、口づけた。
少佐の頭の中で、四頭馬車の女神は天を駆け、黄金の女神が力強く空へ羽ばたいていった。