※ちょっといろいろあってまだ書いてない、少佐と伯爵がくっつく話と、さらにそのあとの初おせっくすの話があって、これはそのあとの話です。そういう位置なんだなあとなんとなく思って読んでいただけるとうれしいです。

 

指輪と少佐と泥棒と

 

指輪物語
 
 伯爵には、ここ半月近く会っていなかった。そのあいだに、少佐はようやくお近づきになった伯爵の身体のことを何度も考え、彼のいろいろな表情を思い浮かべ、身体のどこかにまだわだかまっている彼の体温のようなものを思い起こしては、あいつはいったいどこでどうしているのだろうと考えた。まだこの段階では、毎日だって会いたいとか、日がな一日抱きしめあっていたいとか、情熱的な人種ならそういうふうに思うものだし、特に情熱的な人種ではなくとも、少なくとも半月も会わないとなっては黙っていられなかった。もちろん、伯爵は毎日律儀に電話をよこした。午後十一時三十分から四十分のあいだのどこかで。ハイ、からはじまって、おやすみ、バイ、で終わる会話。そうして少佐は眠りにつく。それが、新しい習慣になりつつあった。そしてその習慣に対して、少佐はなにか優しい気持ちを抱きはじめていた。眠りにつく前に聞く彼のことば。その美しい響きや楽しげなきらめきを、少佐は楽しんだ。そしてできれば、彼に触れられるといいのだが、と思うのだった。あの猫みたいにしなやかで、均整のとれた美しい身体。あれをまた、隅から隅まで探求してみたいものだ。でも焦ってはならなかった。あの身体について、少佐はなんだかもうあれが自分のものみたいな気がしていた。いつ、どこにいても、身体のどこかに彼の身体の、あの温もりと気配がまつわりついていて、こちらを抱擁し、優しく口づけている。そんな気がしていた。そして伯爵はそれをわかっていて、こちらがその感覚になじむのを待っている。彼はずいぶん気を遣っている。エーベルバッハ少佐が、はじめてのことに戸惑わないように。毛嫌いしていた伯爵との新しい関係に過度に動揺したり羞恥を感じたりしないように。もしくは、そういったあらゆる感情を消化する期間を、たっぷり設けている。だからたぶん、伯爵はとても慎重に、次の逢瀬の時期を計っているのだろう。計算され尽くした、絶妙なタイミングでふたりはまた会うことになるだろう。おそらくエーベルバッハ少佐は枯渇寸前、なりふりかまわず彼を求め、そのため、少佐の気恥ずかしさや動揺は、気づかれないままどこかへ行ってしまう。そんなことにまで気を回す伯爵が、少佐は微笑ましかった。少佐のよく知る憎たらしいほど自由な伯爵と、その彼が持つ繊細さの落差を感じるとき、少佐は、彼のその両方を、どうあっても守りぬきたいと思うのだった。この地上のあらゆるものから、彼のその美しさを。
 ボンの街はクリスマスに向けて加速していた。その日までまだひと月以上あるというのに、どこの店もプレゼントの押し売り、街中がライトアップされてきらめき、道行くひとびとの目を楽しませている。仕事帰りに車を走らせながら、少佐はふと、彼をここへ立たせたらどうなるだろうと思った。こういうきらびやかな雰囲気、けれどもどこか幻想的で、それゆえにはかなさを感じる雰囲気の中に、彼をそっと配置してみる。それは驚くほどしっくりきた。少佐はため息をついた。伯爵はいつも全力で、全身全霊で幸福で、でも、だからこそ、たぶんすぐに燃え尽きてしまう。あの美しさが、崩れないうちに。
 彼はこの日、商店街に用があった。今週末は、がたのきている地下室のドアを修理する予定を立てていた。もはや骨董品となった感のあるエーベルバッハ家の城は、どれだけ手をかけてもそれでしまいということがない。次から次に修繕を要する箇所が見つかる。主人が医者みたいにあちこち手をかけていじくり回すので、城の方でもそれに甘えてきているらしく、これまでがたのきたことのないようなところまで、なにかの拍子に具合を悪くして、少佐に訴えかけるのだった。
 長いつきあいのある金物屋で必要な蝶番やなにかを揃え、それでもまだ夕食の時間には早かったので、少佐はあてもなく車を走らせた。伯爵と出会ってからというもの、彼の存在が消えたとたん、少佐はなぜか暇になることが多かった。まるで、彼がいないと人生になにごとも起こらないかのようで、少佐はなんとなく妙な気持ちになる。自分のあらゆるものが、伯爵からもたらされているような気がする。解決すべき難問も、葛藤も、喜びも、安らぎも。自分の中のありとあらゆるものが、彼によってもたらされ、彼によって、増長される。それは悪くない考えだった。少佐の中に眠っているものを目覚めさせるのは、実際、いつも伯爵だった。
 信号に引っかかり、なんとなく通り沿いの店の飾り窓を眺めはじめた少佐の目が、ある店のところで止まった。そこは古くからやっている宝石店であり、少佐の母親もたびたび世話になっていたという話だ。父親も、その店のことは信頼していて、若いころはずいぶん世話になったようなことを執事がいつだか云っていた。あの親父にもそういう時期があったのか、と少佐はなんとなく不思議に思ったものだった。
 男にとってもまた、宝石というのはなんとなく特別な感じがするものだ。少佐がはじめて誰かに宝石を買ったのは、大方の男と同様大学のころだった。これまでのアルバイト代すべてを握りしめ、意を決して宝石店へ飛びこみ、値札と財布の中身のあいだを何時間もさまよい、ネックレスを買った。クリスマス前のことだ。結果として、ネックレスは受け取ってもらえたが、心の方は受け取ってもらえなかった。よくあるやつだ。その年のクラウス青年のクリスマスは、似たような不幸を抱えた男たちとのやけ酒というお定まりのコースとなった。女なんぞくたばっちまえ、と男たちはあいことばのように叫んだ。クラウス青年も心からそう思った。でもその数ヶ月後には、はやくも世の中に女性がいること、それも美しい女性がいることを、心から神に感謝していた。そのころは、将来自分が美しい男がいることを感謝するはめになるとは、夢にも思っていなかった。それも楚々とした清らかな美人というより、どぎつい魅力をまき散らすタイプの。たぶん、人生は人間をもてあそぶためにあるのだろう。思いもよらぬ出来事や感情を次々に生み出して、人間どもを困惑させるためにあるのだろう。
 宝石店の飾り窓を眺めながら、少佐は微笑んでいた。そこに展示されている、まばゆいばかりにきらめくネックレスやブレスレットに対し、少佐はいかなる思い入れもなかったが、伯爵はそういうものをふんだんに持っており、いつもそれで美しく自分を飾っていた。そして少佐との夜のためには、ただ少佐の目を楽しませるためだけに、そういうものを肌の上に総動員して、微笑するのだった。彼は宝石がよく似合った。どんな派手で高慢ちきに見える宝石も、伯爵がその肌の上にそれを乗せると、とたんにおとなしくなり、彼の美しさを増すために輝くのだった。伯爵は、この地上のいかなる輝きよりも、美しさよりも、さらに美しかった。彼はまぎれもなく、あらゆる美しさの頂点に君臨していた。そのあいだを恍惚としてさまよい、飛び回り、駆けめぐる。あるいは彼は美の園の、奥深くに隠された玉座にゆったりと腰を下ろしている。あらゆる美しいもので着飾って。そこは楽園であって、かぐわしい香りに満たされ、彼はそこで、なに不自由なく気ままに暮らしているのだ。この世のあらゆる美しいものは彼の配下にあり、正確に云えば彼のものであり、彼の足元にひれ伏している。王の中の王、美しい男神。きらめきの中にある、あの引きこまれてしまう魔力。
 少佐は微笑した。伯爵の美しさを増すために彼が持っている宝飾品の数々、それは伯爵が自分で手に入れたものだったり、あるいはどこかのいけない仕事をしている金持ちから贈られたものだったりしたが……伯爵はそういうものを、あまり区別していなかった。ひとからもらったものだろうと自分で手に入れたものだろうと、自分の手元にあるものは自分のものだと思っているらしかった……そういう山のような宝飾品の中に、エーベルバッハ少佐の意志が紛れこむのは、おかしなことだろうか? ある指輪はとある金持ちの意志、伯爵をそれによって、どんなふうに飾りたいかという意志であり、あるブレスレットはまた別の男の、伯爵をどのように見せたいかという意思の表れであった。あるいは、伯爵お気に入りのアンティークのネックレスは、伯爵自身による伯爵のための意志であった。そういうものの中に、エーベルバッハ少佐の意志が入りこんでゆかないのは、それこそおかしな話ではなかろうか。なぜなら、エーベルバッハ少佐こそが、あらゆるもので飾りたてられた伯爵を、今後もっともよく楽しむ人間になるに違いないからだ。
 少佐は、自分が酔っているのだと気づいた。伯爵のあの魅力に、その中にある魔法にとらえられ、酔っ払って、まだ朦朧としたところから抜け切れていない。幸福な宿酔の状態。陶酔は、忘我とほとんど同義語である。少佐は伯爵の放つ爛熟した香りに酔いしれて、まだうまく自分自身に戻れずにいる。その微妙なずれが、少佐を普段なら足を向けることのない宝石店へ、導いたのかもしれなかった。ともかく、それはここ十年ほどのエーベルバッハ少佐にとっては、実に考えがたいことだった。次の交差点でUターンして、店の前に車を停めた。ドアを開け、ふらふらと宝石店へ入っていった。
 店はまばゆい光に満たされていた。店の照明じたいは抑制されたものだったが、ガラス張りのショーケースに飾られた宝飾品の数々が、中にしこまれた蛍光灯の明かりを受けてあふれんばかりに輝いている。少佐はやや硬い表情で、手前の棚から順に見ていった。若い女の店員が寄ってきた。少佐は、その女では話にならないことくらい知っていた。案の定、女は少佐の懐具合がうまくつかめず、かつ少佐が求めているものを見抜けず、少佐はなにをすすめられても渋面を崩さなかった。次に、中年の男があらわれた。これは先の女よりは数段話のわかる店員だった。少佐は自分が上物にしか興味がないことをほのめかし、またそれを身につける相手もそういったものしか似合わない身分の人間であることを匂わせた。男は納得ずくの顔で応じ、少佐はいくらか気が緩んで、この店の世話になっていた自分の両親のことを話した。男は少し驚いた顔をし、店の奥へ消えていった。そうしていよいよ、支配人が登場した。少佐の父親とはいまだにクリスマスカードをやりとりするあいだがらである支配人は、すぐに客が誰なのかに気がつき、少佐に店員の不行き届きを詫びた。少佐はもちろん、売り場などではなく店の奥へ連れて行かれ、どっしりしたマホガニーのテーブルにおさまった。
「ご来店の前に電話をくだされば。どうもご無礼をいたしまして」
 支配人はまだ謝り足りないというふうに云った。
「いや、ふいに思いついたもので」
 少佐は苦笑し、支配人の太い指にはまっている、これ見よがしのダイヤの指輪を興味深く眺めた。ダイヤモンド……ダイヤは女の友だちとかなんとか、昔マリリンモンローが映画で云っとったな……ありゃ、ほんとだろうか? お求めの品はプレゼントかなにかでございますか? 少佐はそうだと云った。支配人は少佐の両親の思い出話にしばし花を咲かせた……少佐は興味深く聞いた。誰かが自分の両親のことを詳しく知っているというのは変な気分だ。親父は、だいぶおふくろに入れあげとったらしいからな。誕生日と、クリスマスに毎年、高価な贈り物をしていたらしい。いったいいくらこの店に貢いだのだろう? 少佐は微笑ましい気持ちだった。そういう男の心情というものは、少佐にもよくわかった。いまは、ことによくわかる気がした。
 支配人が少佐に相手のことを訊いてきた。少佐は、宝石にかけては目が肥えているので、できればお眼鏡に叶うものがほしいのだが、と云った。同時に、中途半端な品を買うくらいなら、なにも買わないつもりだとほのめかした。支配人はしばらく考えこむような顔をし、一度扉の奥へ消えたが、すぐにいくつか箱を持って戻ってきた。ダイヤが散りばめられたリング、色とりどりの宝石を連ねたネックレス、ブローチ、イヤリング。でも、どれもいまいちぴんと来なかった。少佐は渋い顔をし、腕を組んで、あれこれ文句をつけることはしなかったが、不満気な唸り声をあげた。支配人は汗をかきかき懸命にその相手をしていたが、突然口を閉じ、そして笑い出した。少佐はいぶかしむような顔で彼を見た。
「いやいや、申し訳ございません。ちょうど、お父上もこの席でそのような態度をされておりましたことを思い出しまして……そっくりでございますよ。宝石のことはなにもわかっていないと云いながら、その実ほんとうにいいものに当たるまで納得されない。鑑定眼があるというより、本質的にいいものを見抜くのでございますね。いやはや、急に笑い出したりなどいたしまして、失礼をいたしました。少々、お待ちくださいまし。今度のはきっとお気に召すかと存じますよ」
 すると、あの支配人はいままでおれを試しとったのだな。少佐は閉じたドアに向かって顔をしかめた。これでほんとうに審美眼もなにもないような男だったら、家柄と金のあるのをいいことに、適当な品をすさまじい値段で買わされたのに違いない。うまい商売をしているものだ!
 しばらくして、支配人が小さな箱を手に戻ってきた。
「お待たせいたしました。さあ、当店には、これ以上の品はございません。自信を持ってそうお伝えできます。わたくしも光栄でございます。昔行商人をしていた父の縁で、普通なら手に入らないような品を時々流してもらえるのですが、これはそういうものでございます。お母さまも、そうしたものがよくお似合いになる方でございました。この品も、まず、十年か二十年に一度、見られるかどうかという品でございますよ」
 支配人の口調が、にわかに親しみのこもったものに変わっていた。ほんとうに自信のある品、それこそ、紹介できる客が来たことを名誉に思うような品であるのに違いなかった。小さな箱の中に収まっていたのは指輪だった。目の覚めるような淡いブルーの宝石が、ダイヤに囲まれてリングの中央に鎮座していた。支配人は、この石はパライバトルマリンといって大変希少価値の高いものであり、というのも近年ほとんど採掘されておらずなかなか市場に出回らないためであり……とひとしきり講義してくれたが少佐は別にそんなことはどうでもよかった。少佐の頭の中は、これを指にはめた伯爵を想像することに持てる能力をすべて費やしていた。あのほっそりした美しい手、あれこれとおいたをしてのけるあの美しい手に、このブルーの宝石が輝いているとしたらどうだろう? それが彼の指の上におさまり、なにかの拍子にちらりとあたりにきらめきを投げ、彼が頬に手をやったとしたらそこで輝き……実にぴったりだ。少佐は考えた。これは、実に伯爵にぴったりだ。これこそ、彼の手にふさわしい。どこか、彼の美しい瞳を思わせるこの淡い青。
 少佐は購入したい旨を伝えた。即断に近かった。支配人は表情を変えず、さようでございますか、と云って、礼を述べた。契約成立。少佐はお相手の指輪のサイズを伝えた。伯爵の指のサイズについては、少佐は全部知っていた。本人が宝石箱を前に、例の調子でぺらぺらしゃべったからだ。わたしは指が細いんだよ。みんなわたしに指輪をくれるから、指輪のサイズは相手に訊かれる前にさりげなく云うことにしてる。だって、気を遣わせたら悪いだろう? 失敗して惨めな思いをしてほしくもないしさ。これが薬指のサイズ、これは中指。あんまりしないけど、親指がこれ。小指はこれ、これがひと差し指。まあ君は例外的に、わたしの指のサイズなんて関係ないよね。そういうのを気にする顔じゃない。
 顔じゃない、とは恐れ入るが、考えてみればそのときから、少佐はそれに反発したい気持ちがあったのだと思う。伯爵が少佐をまるで美的感性のない、ロマンもへったくれもない男だと思っているなら、それは大きな間違いだった。その点については、主として寝具の上において少しばかり軌道修正したつもりだが、まだ十分とは云えなかった。少佐の中に、自分だって表へ出さないだけで、ひと並みの感情や気持ちがあるのだということを、どうしても伯爵に示したいという欲求があった。そして、これまためったに表さないだけで、どちらかといえば遊び心もあり恋愛作法をそれなりに心得てもいて、愛情深い方であると自負していることも、ことばではない形で伝えたかった。たぶん、半分近くは見栄やプライドのため、そして残りはそういうものを、彼と楽しむため。そういう気持ちがあるのに、こちらがただの野暮な唐変木だと思われていてはたまらない。
 少佐は店を出た。彼は、実にいい気分だった。いろいろな空想が頭をかけ巡った。たとえば、この箱を渡すときのこと。おれだってなあ、それなりに審美眼たらいうやつを、鍛えて来とるんだぞ、と、たぶんエーベルバッハ少佐は四角い箱を渡すときに云うだろう。でも伯爵は、そりゃあ、情報部としてはね、と、まことにかわいくないことを云うに違いない。とてもかわいらしい理由で。たぶん、伯爵は箱を開ける前に、このエーベルバッハ少佐のひとことのためにちょっと機嫌が悪くなるだろう。指輪のことで云々するのは、それをなだめてからになるはずだ。どうやってなだめるべきか? フランス男なら、ぼくがいままでつきあってきた女の中で、君が一番きれいだとかなんとか云うにちがいない。でもエーベルバッハ少佐はドイツ人であって、ドイツ人はフランス人ではない。あんな浮ついた、反吐が出そうな愛の告白なんてものよりもっと……しかし、それはいったいどういうものだろう? そういうことを考えながら、少佐は車に乗りこみ、愛車を優しく転がしはじめた。

 

ぶちこわされた気分
 
「なんだ、執事、云いたいことがあるなら早く云え。朝は忙しいんだ」
 とはいえ、少佐の口調はことばの割に柔らかかった。だいたいいつもそうだ。少佐のことばと彼のほんとうの機嫌のあいだには、ときにかなり大きな開きがある。ことに、少佐が美しい気分のど真ん中にいるような場合には。彼はエーベルバッハ家の伝統に従い、麗しい気分に見合った語彙とその表現方法を、あまり習得してこなかったのだ。少佐の頭は、この日八割方、今日の昼には出来上がっているはずのあの指輪のことに集約されており、それが少佐を、なんとも云えず麗しい気分で満たしていた。
 執事は朝刊を手に持ち、しかしいつものように少佐に差し出そうとはせずに、さながら局部を覆い隠すように両手をそのあたりで組んでいる。少佐は椅子に座り、コーヒーを飲み、皿やフォークをかちゃかちゃやりだした。執事はへどもどして、はあ、と云った。それからため息をつき、首を振って、意を決したようにきっと顔つきを厳しくした。
「だから、なんだ」
 少佐は執事に顔を向けた。
「ご主人さま」
「なんだ」
「本日の朝刊でございますが」
「ああ」
「お読みにならぬほうがよろしいかと存じます」
「はあ?」
 少佐は食事の手を止めた。
「朝刊、夕刊、テレビラジオインターネットニュースのたぐい、全般でございますが、今日明日、ことによると今後一週間程度は、ご覧にならないほうがよろしいかと……」
「……ヒンケル君」
 少佐は押し殺した声で云った。
「はい」
 執事は全身を固くした。
「君は自分がなにを云っているのかわかっとるのかね?」
「はい、理解しているつもりでございます」
 少佐と執事はしばし見つめ合った。
「よっぽどおれにとって面白くない記事が載っていると、そういうことかね」
「さようでございます。ご主人さまの精神の安定のためにも、できれば本日だけでも、ニュースというニュースには背を向けていただければと思うのでございますが」
 少佐はほー、と云った。
「ドイツがフランスに合併されるのか?」
「いいえ、そのようなことは」
「NATOが財政破綻したか?」
「いえ、そのようなご想像は仮に想像といえども……」
「じゃあなんだ、親父がスイスで惨殺されたか、隠し子でも発覚したか」
「そういった場合には、真夜中でもご主人さまを叩き起こしまして、真っ先にお耳に入れるかと存じます」
 少佐は降参し、両手を挙げた。
「ネタが尽きたぞ。いいからとっとと朝刊よこせ」
 執事はしかしながら、と云った。少佐は新聞をひったくった。そうして、執事を追い払うように手を振った。少佐はちょっとばかり気分を害していた。執事は素晴らしい男だが、過保護すぎるきらいがある。クラウス坊ちゃまを赤子のときから育ててきたのだから無理もないと云えば無理もないが、クラウス坊ちゃまはもう坊ちゃまではないのだ。長年にわたる軍隊生活と情報部勤務で鍛えられてきてもいる。多少のことで精神的ダメージを受けるはずが…………
 一面記事の見出しを見た瞬間、少佐はありとあらゆる思考を奪われ、硬直した。
「ですから……朝刊はご覧にならないほうがよろしかったかと……」
 執事がぶつぶつ云っているが、少佐にはなにも聞こえなかった。
 
ドイツ絵画の至宝、盗まれる!
怪盗“エロイカ”ボンの資産家宅へ侵入……

 

諸悪の根源あるいは救世主
 
 少佐にとってその日もっとも腹立たしかったのは、エロイカの件でもなんでもなく、部下どもが皆気を遣ってびくびくし、その件についていっさい触れてこなかったことであったかもしれない。朝一番にまくしたててきそうな部長ですら、今日は自室にこもって顔を見せなかった。とばっちりを食らいたくないのだろう。おかげで、情報部は丸一日まるで通夜のような雰囲気だった。誰もが、エーベルバッハ少佐のたてる物音にいちいちびくっとし、少佐のことばのひとつひとつにわざわざ怒りを探し求め、見いだしては納得したようにため息をついたり、遠慮がちに同情をこめて見つめてきたりする。少佐はうんざりしていた。誰も彼も、エーベルバッハ少佐を腫れ物扱いしており、エーベルバッハ少佐とエロイカとの確執について、少佐を被害者とみなし同情的になっていた。少佐は、そういったすべてのことに対してわけもなく腹を立てていた。せめて部下の誰かが、「伯爵も、なにもボンまで来て盗みをはたらくことないと思いませんか?」のひとことでも云えば、少佐だって、たぶんもう少し違った態度をとっていたはずだった。たぶん、部下が皆もう少し、少佐の味方でなければ。少佐の機嫌を読み、少佐に同情的でなければ。
 確かに、エーベルバッハ少佐は被害者だった。伯爵のしたことは、少佐に対する明らかな嫌がらせ、しかも、からかいをたっぷりこめた嫌がらせだった。どちらかといえば、それは少佐をおちょくっており、当然生じる動揺や驚きは予測され、前もってじっくりと味わわれていた。少佐はそのことにも腹を立てていた。ひとをばかにしやがって。あいつはなんだってこう、いつもいつもおれが腹を立てるようなことをあえてするんだ。理由はもちろん、わかっている。伯爵はそういうことが好きなのだ。相手を困らせ、たじろがせ、それを見て笑っている。驚いた? ねえ、怒った? 子どもみたいなやつだ。あいつはそういうやつだ。行動原理が子どもと同じ。ただ、やることの規模が子どもの範囲を超えているだけ。そしてそのぶん、信じられないほど振り回され、迷惑なだけ。
 少佐はその日、終業時間と同時に席を立ち、部下どもにこういうひまなときは用事がないなら早く帰るように云いつけると、部屋をあとにした。少佐がドアを閉めた瞬間に、部下どもはいっせいに話をはじめたに違いなかった。「今日の少佐は荒れてたなあ」「一日中不機嫌だったな」「部長も出てこなかったしな」「おれ、今日一日で胃が縮んじゃったよ……」
 勝手にやっとれ、と少佐は思った。部下どもの中では、エーベルバッハ少佐はいまだにエロイカこと伯爵を毛嫌いしているのであって、そして、そうでなければ困るのだ。この点、少佐は実に苦しい立場に置かれていた。彼はもちろん、心の底から伯爵を愛していた。たとえなにをされても、彼のせいでどんな事態に巻きこまれようと、どんな気分になろうとも。実のところ、そのすべてが少佐にとって必要なことなのだった。彼は退屈や変化のない世界に耐えられない。頭は理性的だが、気質でいけばどちらかというと闘争的な、血の気の多い人間だ。問題にぶち当たるのが好きだ。それを解決するのが好きだ。逆境ときくと涎が出る。そういう男に、伯爵は実に、似合いの男ではなかったか? いつでも事態をひっかき回してくれる。存分に攪乱し、余計なことをし、舌を出して走り去る。それに毎度腹を立て、そしてまたそのために、彼に惹かれたのではなかったか? それならば、なぜ怒る必要がある。伯爵は実に伯爵らしいことをしているだけではないか。これは、伯爵の茶目っ気であり、遊びだ。実にかわいらしいことではないか。そりゃあ、もちろん、そうだ。でも。
 ……でも、少しは考えてほしいものだ。こっちの立場というものも。どこかで偶然に出会ってしまうのは仕方がない。でも、向こうが狙ってこちらにやってくるのはまずい。それも、エーベルバッハ少佐を狙ってやってくるというのは。こちらの縄張りに突然入りこんでくるのは。いずれ伯爵に、ボンの町を案内してやってもいいとは思っている。だいたいのところはもう知っているかもしれないが、それでもかつてのクラウス少年が、どんなところでなにを思い、暮らしていたのか、そういうことを、教えてゆくのもよかった。でもそれは、いまではない。こんな関係になって間もないときに、よりによって至近距離に土足でやってくるとは。おまけに盗みまで働いた。普段取り立てて大きな事件のない、穏やかなボンの新聞は案の定、大騒ぎだ。これがどういうことかわかっているのだろうか? エーベルバッハ少佐に、どんなとばっちりがくるのかわかっているのか? なにより、故郷の秩序を乱されるのはいやな気分だ。今回被害にあった家とは、まったく知らぬあいだがらでもない。エーベルバッハ家は、中身がともなっているかどうかは別として、いわゆる指折りの名家というやつだ。金持ち連中とのつきあいも、少佐自身はほとんどしてこなかったが、父親はなるべくそういうものを尊重し、なかなかに気を配っていた。エーベルバッハ少佐とエロイカとの因縁など、ばれるところにはすぐにばれてしまうに違いない。そのとき、いったいどう釈明したらいいのか? まったく面倒なことをしてくれた。そういうしち面倒くさい側面を、伯爵は気がついてもいないに違いない。あの社会性ゼロの男と違って、エーベルバッハ少佐はいろいろと…………
 ふいに、少佐は愕然として動きを止めた。ちょうど駐車場まで歩いてきて、愛車のドアに手をかけたところだった。おい、こら、とエーベルバッハ少佐はエーベルバッハ少佐に云った。結局、おまえが怒っているのはそれなのか? そんなことなのか? 自分が考えていることの意味がわかっているのか? 少佐はドアを開け、車に乗りこんだ。シートベルトを締め、ぐったりとため息をついた。目を閉じて、もやもやしたものを整理しようとした。最初に、伯爵がこう云うのが聞こえてきた。まあ、しょうがないよ、だって、ほら、わたしと違って君にはいろいろ責任とか立場ってものがあるし、そういうのは、大事にしないといけないからね。君もつらいね。秘密を持つのって、大変なことだよ。
 少佐は、無性に腹が立った。彼は怒っていたが、正確には、胸が痛んでいるのだった。伯爵はそうだ。いつもそうだ。行動がガキと一緒のくせに、肝心なところは、普通なら当然怒ってしかるべきところでは、飛び抜けて我慢強く大人だった。伯爵は、この問題について絶対にがみがみ云ったりしないだろう。彼は、エーベルバッハ少佐がひと前では伯爵を毛嫌いし、その実彼を求めているという、二重人格を演じることをあっさり許すだろう。こうなると、少佐は置いてゆかれ、ひとりで立ちつくすしかない。少佐は腹が立ってしかたがない。なぜ平気なのか、なぜ笑っていられるのか? 侮辱され不当に扱われている場面で。たとえ本気で怒っていても、彼はいつもどこか楽しむことを忘れない。その余裕が少佐にはむなしく、ひどく悲しかった。わたしが怒ると思った? 怒らないよ、だって君が大好きだから。
 腹立たしかったし、情けなく、みじめな気分だった。結局のところ、許しがたいことをしているのはいつも伯爵ではなく、自分自身なのだった。少佐が体裁を取り繕うのに懸命になっているときにも、伯爵は伯爵であり、相変わらずの調子だった。そしてエーベルバッハ少佐はそれに腹を立てているわけだ。こっちのことも少しは考えてくれ、などとぬかしている。あきれた話だ。そしてもっと腹の立つことに、たとえば少佐がこの話を伯爵にしたとして、その結果がどうなるか、少佐には先の先まで想像できる気がした。まあ、仕方ないね、君とわたしはいろいろと違うからね……それでおしまい。大騒ぎする必要のない女なんかにしつこく腹を立てるくせに、こういう大事なことには目をつぶる。いくらエーベルバッハ少佐が伯爵を愛し、伯爵がエーベルバッハ少佐を愛しているとしても、思っていいこととよくないことくらい、あるだろうに。
 少佐は、ここ数年来なかったことだが、気落ちしていた。そしてそれはどうあってもこういう問題で向こうに勝てないと思っているためだ、ということに気がついて、また腹を立てた。勝ち負けの概念を持ちだしている場合なのか? おまえはどうしてそうなんだ。まったく、どうしようもないやつだ。
 陰鬱な気持ちで車を走らせた。ボンの街はもうすっかり暗くなっていて、いまは通りに煌々とした明かりを投げかけているあれこれの店も、店じまいの時間への期待で、どこかそわそわしていた。通りを歩くひとたちも、足早に家へ帰ろうとしている。あと二時間もすれば、店の明かりも消えて、あたりはすっかり暗くなり、ひと通りもほとんど途絶えてしまう。そして、夜になる。夜。彼が目を覚まし活動する夜。あの無限に思われる深み。研ぎ澄まされ、けれども静かな穏やかさに満ちた空気。
 少佐は例の店へ立ち寄り、箱を受け取った。指輪はほんとうに美しかった。たぶんこれを指にはめた伯爵も、これ以上ないほど美しいに違いない。盛大な見送りを受けて店を出た。少佐は小さな箱をコートのポケットに押しこんだ。ほんとうは、こんな日にはもっと、天にも昇る心地でいてもいいはずなのに。今朝まではたしかにそうだったのだ。少佐の算段では、今日中に伯爵にいつか会えないかという話をして、約束を取り決め、それを幸福な気持ちで待つ、という未来があるはずだったのだ。それが、まったくなんだってこんな気分でいなければならないのだろう? なんだってこんなふうに、自分で自分を撃ち殺したいと思っていなくてはならないのか。きっかけを作ったのは、たしかに伯爵だ。だが、これは伯爵の問題ではなかった。
 
 家に向かって車を転がしていた少佐は、ふいに大急ぎで車を止めた。店じまいをしようとしている本屋の前に、金の巻き毛を見たからだった。彼である気がする。でもできたら、ひと違いだといいのだが。少佐は路肩に車を停め、窓を開けて、少し身を乗り出すようにして本屋の前にいる人物を眺めた。金髪巻き毛はこちらに背を向けていたが、鮮やかな青のコートを着ているのがわかった。店の前に並べられている本の山、その中をかきまわし、気になったものを手に取り、また戻し、ときどき首をかしげている。その首のかしげ方で、少佐は確信を持った。あのちょっと甘えるような、とぼけたような独特の仕草。少佐は腹を立てて硬くなっていた胸の内がふとほどけてゆくのを感じた。身体から余計な力が抜けていくようだった。彼は我知らず微笑して、伯爵を眺めていた。おかしな話だ。伯爵のために腹を立て、脳味噌を酷使して、そしてまた彼のためにそれがほぐされている、というのは。もちろん、少佐は相変わらず腹を立てていた。主として、自分自身に。でも、いまそれを維持するのは困難に見えた。少佐の胸の中は、怒りを持続するには温まりすぎていた。
 彼はドアを開け、車を降りた。その音で伯爵が振り返り、こちらを見た。伯爵は驚かなかった。ただ、ゆっくりと微笑んでみせた。手にしていた本を戻し、身体の向きを変えた。少佐は、どういう態度でいたらいいかわからなかった。彼を知っている。彼の身体を知っている。彼を特別に思っている。そういう気持ちが、自分の中で発露を求めていたが、あいにくと、少佐はそれを伯爵のように素直には、表へ出せなかった。それに、まだしつこく腹を立てている自分自身のこともあった。
 結局少佐は、そういった葛藤を押し隠すように渋い顔をしてしまった。伯爵は相変わらず微笑んでおり、美しかった。彼の青いコートは、襟と袖口のところに黒のファーがたっぷりついており、暖かそうだった。その中になにを着ているのか気になった。そして、その首や手首や足首、それに指に、いったいどんな美しいものをつけているか。伯爵は手袋をしていたので、あの美しい指先を見ることはかなわなかった。少佐はそれを見たかった。一本一本に口づけたい気持ちだった。彼に腕を回して、身体の線を確かめたかった。その体温や香りに満たされていたい気持ちだった。
「ハロー」
 伯爵は首を傾け、少しよそ行きで、かわいらしく云った。少佐はハロー、と応えた。
「君、怒ってる? わたしのこと、記事になってた?」
 少佐はああ、と云った。どちらに対してのああ、なのかは、少佐にもよくわからなかった。伯爵は笑った。ころころと気持ちのいい声をたてて笑った。少佐は伯爵の方へ一歩足を踏み出した。伯爵は一歩後ずさった。
「怒ったときの君って最高にセクシーだけど、やっぱり怖いよ。ねえ、わたしを逮捕する? してみたい? 実を云うとね、警察に捕まるのは好きなんだよ。取り調べって楽しいよ。されたことある? 君に捕まるのは、警察の何倍も楽しそう。でも、君から逃げるのも同じくらい楽しそうだ」
 伯爵はまた転がるように笑って、目を細め、それから、身を翻し、こう云った。
「追いかけっこしよう。君の故郷だから分が悪いだろうか? 騎士道精神を発揮して、ハンデをつけようか、ダーリン? って云ってくれる? まさかまさか。その必要はございません。わたくしこう見えまして逃走のプロでございます」
 そうして、足早に歩きだし、通りの角を曲がった。少佐は、あわてて追いかけた。

 

追いかけっこ
 
 揺れては消える金の巻き毛が妙に憎たらしかった。ボンの街なら、少佐は絶対に伯爵より詳しいはずなのに、どうしても、彼に追いつけない。彼は幻想のように、ある通りの角から顔をのぞかせたと思うと、それを曲がったときにはまた別の通りで笑い声を上げる。そっちじゃないよ。わたしはここ。そうして、楽しそうにくつくつ笑う。また身を翻し、通りの向こうに消える。少佐は腹が立った。あの野郎、おれをおちょくっとるな……いつもいつも、あいつはそうだ。それがどうしようもなく憎たらしかった。でも、これ以上ないほど、愛おしかった。
 ぐるぐるとあちこちの道を経巡って、広場に出た。街灯がどことなく虚しくあたりを照らしていた。ひと通りはなかった。少佐は時計を見た。午後八時二十三分。伯爵は、彼の数メートル先を、のんびり歩いている。全力で追いかければ、追いつけた。少佐はそうして、とっちめてやろうかと思った。でも、それができなかった。彼に追いつき、追い越してしまうことがどうしてもできなかった。少佐は彼を追いかける形で歩いた。ふたつの影が、ゆらゆらと頼りなく揺れた。少しずつ距離を縮めながら、少佐は伯爵に呼びかけた。
「……なあ」
「なんだい」
 伯爵はのんびり答えた。
「おまえ、ずいぶんこのあたりの地理に詳しいな」
 伯爵は微笑んで振り返った。目が、楽しそうにきらめいている。
「わたしはプロだよ」
 彼は笑みを深め、身体ごと振り向いて後ろ向きに歩いた。
「仕事をする街の道路事情は、事前に全部頭に入れておくんだ。信号の位置、行き止まりの道、工事中の道路、一方通行、利用できそうな塀や街路樹や、具合のいい屋根のある家、ビルの高さ、もちろん、警察の巡回路なんてのもね。たぶん、いまのわたしは君よりこの街に詳しいよ。だからね、君は絶対にわたしに追いつけない」
 少佐は目を瞬いた。
「降参する?」
 伯爵はくすくす笑った。
「するか、阿呆」
 伯爵は声を立てて笑った。
「その調子その調子。わたしもまだ、このゲーム、やめたくない。楽しいもの。君に追いかけられるの、大好きだよ。君にせまられてるときみたいに、ぞくぞくする」
 少佐は盛大なしかめっ面をした。伯爵は笑い転げた。
 広場を抜け、またこみいった路地での追いかけっこがはじまった。少佐はしだいに方向感覚を失っていた……というより、そういうものに対する注意力を放棄して、ただ目の前に現れては消える金の巻き毛を追いかけることに専念していたかった。いったいいつから、この巻き毛を追い続けていたのだろう? それに触れてみたいとはじめて思ったのはいつだろう? 憎たらしいあの顔に、態度に、思わず吸いこまれそうになったのはいつのことだったか? 彼の美しさに、あの容姿に、ほとんど絶望的なほどのなにかを感じたのはいつだった? 彼を愛していると気づいたのは? そしてそれを、到底表には表せないと思い、しくしくと痛むような気持ちを感じたのは、そしてそれをすら、押しこめることに決めたのは? でも彼はいつも、そういうすべてをいつの間にか、優しく引き出し、すくい上げ、撫で回して、少佐に戻した。それが心地よかった。たぶん、少佐は知らず知らずのうちにそれに甘えていた。きれいな巻き毛。美しい彼。少佐はそれに、なにか力を得ていた。くすぐられかき乱されそして、それによって力を得ていた。誰よりも彼を必要としていた。誰よりも、彼が目の前に現れることを待ち望んでいた。そうでなければ、自分の中のなにかが、ほんとうに息絶えてしまいそうだったから。彼を見るたびに、自分の奥深くに潜んでいた力が目覚め、解放されるのを感じていた。そうして、エーベルバッハ少佐は勢いよく動き出すことができたのだった。自分を、導くもの、引き出すもの、その手をとって、はるかな高みへ向かうもの、その光。すべてを与えるもの。
 少佐は足早に、ほとんど必死になって彼を追いかけていた。伯爵は相変わらずどこかのんきだった。ふいに立ち止まり、街路樹を感心したように眺めたり、店じまいをしてしまった服屋の飾り窓を眺めたり、楽しそうにくるりと回り、スキップし、建物と建物のあいだから顔を出して少佐に微笑みかけ、手を振り、投げキスをし。少佐は、この日つらつらと考えていたあらゆるものを手放していた。そうして、無心に彼を追っていた。消えるな、あの角の先にいろ、向こうでもいい、とにかく、目の届くところにいてくれ、そして。
 ……気がつくと、少佐は小さな公園に立っていた。伯爵は敷地の隅に悠々とそびえている大木の、かなり高い枝の上に座って、足をぶらぶらさせている。
「この木、すごいよね」
 伯爵は幹に寄りかかり、甘えるように表皮に頬をすり寄せた。
「なんでこんなところにぽつんとあるんだろう。すごく気になってたんだけど」
 少佐はため息をついた。
「昔、このあたり一帯を所有してた家がちょうどこのへんにあってな」
 伯爵は好奇心たっぷりの顔で少佐を見下ろした。
「この木はそこの家の庭にずっと前からあったんだとさ。よくある戦後の混乱による没落ってやつで、昔気質のじいさんが死んだとき、親族一同寄ってたかって土地を売っぱらって金に換えちまおうとしたんだが、こいつだけは心残りだったのか、あるいは誰が見てもご立派だったんでぶった切るのを躊躇したんだか、そのへんは知らんが、とにかくなんか交渉して、こうすることで解決したんだと」
 伯爵は自分の座る木を興味深げに見つめた。
「ふうん、ねえ、よかったね、君」
 そうして励ますように木の幹を叩いた。
「ちなみに何代前だかまで遡るとうちと親戚になるらしいんだが、その一家がここからいなくなったのはおれが生まれる前の話だし、顔も知らんしどこにいるかも知らん」
 伯爵は少しぼんやりした顔で少佐を見た。
「ねえ……いまさらなこと訊くけど」
「なんだ」
「君の家って、すごいの? 元をたどるとハプスブルク家にたどり着くんだっけ? その、いわゆる、血みどろの血なまぐさいあたりまでたどれば」
 少佐は両手をあげた。
「すごいがどういう意味のすごいか知らんが、知らんよ。血統を証明できるからってなんだ? 犬の品評会じゃあるまいし。それよりなあ、おい」
 少佐は彼を見上げ、呼びかけた。
「んなとこにおらんと、降りてこい」
「いやだよ」
 伯爵は云った。
「まだゲームは終わっていないもの。君、降参?」
「ばか云え。なんでもいいが、おまえコートがだめになるぞ。どうせくそ高いんだろうが、そいつ」
 伯爵は大笑いした。
「君がそんなこと気にするなんて! でもありがとう。たぶん車一台ぶんくらいの値段だと思う。だけど、いいんだよ。これ、もう五年くらい前ので、気に入っていたけど、あんまり何年も着続けると怒られるんだ。なにしろ毎年毎年新しいのをもらうからね。今年もコートだけで八着くらい。不平等だよね、世の中って。あくせくしたって、コートの一枚もろくに買えないひともいるのに」
 云いながら、伯爵は邪気のない顔でコートを見、ファーの部分を撫でた。
「まったくだ。おまえは少し贅沢すぎる」
 伯爵は微笑し、ちょっと肩をすくめた。少佐はため息をつき、ふと思い出して、ポケットの中をさぐり、あの小さな箱を握りしめた。その贅沢人間に、新たな贅沢品を与えようとしているのは誰か? 結局のところ、誰しも採用する方法は同じなのだ。彼を美しく飾り、喜ばせたいと思うこと。
「なあ、おまえ、いいから降りてこい」
 少佐は云った。伯爵はふたたび、いやだよ、と云った。
「だって、君怒ってるらしいし。なんで怒るんだ? 君に謝らなきゃいけないようなことしたとは思えないんだけどな。そりゃあ、ちょっとこのあたりの秩序を乱したかもしれないけど、でもそんなこと君に直接関係ないはずだし。あるいは法と秩序に則ってわたしに説教する気があるなら、君、大幅減点だよ」
 伯爵は足をぶらぶらさせて云った。
「おまえが押し入った家の親父とうちの親父は、知り合いなんだ」
 どうでもいいことを云っていると知りつつも、少佐は云った。
「へえ、あのでっぷりしたのと、君のパパが知り合いなの? 並べて見てみたいな。きっと動きのキレが全然違うだろうね、ダンスさせたら面白そうだな……それで?」
 伯爵は楽しそうだった。少佐は早くも手詰まりなのを感じていた。
「たぶん、そのうち風の噂で、おれとおまえが知らぬ仲じゃないのが向こうにばれるだろうよ」
「血なまぐさい予感がするね。君、詰め寄られたりしてね。それから?」
 敗北は決定的になり、少佐は、彼の云い方にいらいらしてきた。
「それから? それから……あのなあ、おれはときどきおまえを殺してやりたくなる」
 伯爵は笑い転げた。
「ブラボー! 悲劇の定番中の定番だ。恋による身の破滅。美しく遊び心たっぷりの恋人、それにいちいち振り回される主人公の愛憎、葛藤に次ぐ葛藤、もう絶望的だ! 悪天候の夜の殺害、美しくくずおれる恋人、それを見下ろす男の、凝固した顔。幕が降り、観客は割れんばかりの拍手。ブラボー! 新たな名作の誕生だ! 結局、人間が求めているものって、予定調和とか定番なんだよね。意外性なんて、ちょっぴりでいいんだよ。君がわたしを絞め殺す前に、このシナリオで一本書こうか。わたしが首尾よく死んだら、君はわたしの原稿を出版社に送って……もちろん、自分の告白文も添えるんだよ。そうして、君は永遠に雲隠れするか、あるいは自らも命を絶つ。劇的な要素を増したければ後者をどうぞ」
 伯爵はまたけらけら笑ったが、今度の笑いの中には、どことなく愉快でないものが混じっているように感じられた。からかわれている。なにもかも、ばかにされているように感じる。彼の言動のすべてが、こちらを笑いものにしているように感じられる。自分の真剣な気持ち、彼を想う、あの葛藤でさえも。せっかくいくらか上向きになっていた少佐の機嫌は、すっかり降下してしまった。
「いい加減に黙れ」
 少佐は不機嫌に云い放った。伯爵は笑い声を引っこめたが、まだ面白そうににやついていた。
「ほんとに君、ずいぶん機嫌が悪いね」
 伯爵は巻き毛を指先に絡めてくるくるやった。とても魅力的な仕草だったが、少佐はいまは、それにもいらいらした。
「おまえがふざけとるからだ」
 伯爵は肩をすくめた。それから、ちょっと腰を浮かして座り直し、顎を持ち上げて少佐を見下ろした。
「わたしは真面目だよ? いつだって真剣だよ、君に関することなら。わたしは別に、君に殺されても構わないと思ってる。君が逆上して、愛憎半ばする気持ちから、わたしを野生動物みたいに撃ち殺したり、家畜みたいにひねり殺したり、まあ、そういうのもありだよ。やるかどうかは知らないけど。そうだ、大事なことだからいまのうちに云っておくよ。わたしが一旦口にしたことは、わたし自身が現実になっても構わないって思っていることだし、もしわたしがほんとうに望めば、現実になる。たとえば、わたしが君に殺されたいと思ったとする。そしたら、たぶん君はわたしを殺すだろうね。そうなっちゃうんだ、どうしてか知らないけど。違うな、知っているんだけど、知らないふりをしてる。怖がられちゃうからね。人生がほんとはどんなに自分の思いのままに転がるのかってこと、知ったらみんな幸せになれると思うのに、実際には歓迎するどころか怖がるんだよ。おかしな話だと思わない? 世の中、幸せになりたい人間であふれかえってるのに。それなのに、ほんとに幸せになれるよって云うとみんな怖がって、拒絶しようとする。それで散々痛い目見たから、もう誰にもその秘密、教えてあげない。君にもだよ」
 伯爵はまた、子どもみたいに足をぶらぶらさせた。風が吹いてきて、伯爵の座っている枝が少し揺れた。伯爵は笑って、それに身を任せてしばし遊んだ。少佐は、なんとなく気味が悪くなってきた。胸のあたりが圧迫されたように苦しかった。彼は、いったいなんなのだろう? なにを考えているのだろう? まるでわからなかった。でも、ほんとうに自分がわかりたいと思っているのかどうか、疑問だった。自分はほんとうに伯爵のなにかに、なりたいのだろうか? ただ好きだと思っているだけではなくて? 愛している、と知っていることと、ほんとうに愛することとのあいだには、とても大きな違いがある。愛している、と思っているだけなら、誰にでもできる。でもそれを体現し、あらわにし、相手とともにそれを全うしようとするなら、それは全身全霊の、自分の全生命をかけたものになるはずだった。少佐はまだ、愛情のそういう側面について、割合素直に考えていた。あるいは少々、ロマン的な、理想主義的なやり方で。そしてだからこそ、少佐は自分に腹を立てているのだった。腹を決めてそれにぶちあたる覚悟があるのか? その思いを、貫き通す覚悟はあるのか? こんな立場の自分と、あの伯爵とのあいだにあるものを、そして彼そのものを、守り通すつもりがほんとうにあるのか?
 風が止み、枝の揺れが止まった。伯爵はふうん、と鼻に抜けるようなため息をもらして、木の幹に寄りかかった。
「でも、いまは君の怒りの話だったよね。君がどうして怒ってるのか、ほんとうは知ってるよ。君がひょっとして気づいていないかもしれない理由まで知ってる。たぶん気づいていると思うけど。だから余計に腹が立つんだよね、君は。わかるんだ。昔から、そういうことすごく敏感なんだ。すぐぴんときちゃって。気味悪がられたものだよ。特に母親に。なんだっけ? わたしってすぐ脱線してしまう。そうそう、君が怒っている理由、わかるよ。でも、悪いけどそれ、君の問題だ。わたしの問題じゃない」
 沈黙が流れた。少佐は、返すことばがなかった。確かにそうだ、これは自分の問題だが、しかし、こいつはあんまりなのではないか? 憤慨してくれるならかまわない。それなら、まだ向こうにも憤慨するだけの気持ちがあることがわかる。受け止めてくれるなら、それはそれでいい。でも、このはねのけようはどうだ! 少佐はしばらくして、ようやく口を開いた。
「……おまえは男の扱いが下手だ」
 少佐は半ばぼうっとしてつぶやいた。
「どんな怒り狂った女だって、そこまでおれをつっぱねやしなかった」
 伯爵は意地悪く笑った。
「へえ、そう? じゃ、君いいのに当たってきたんだよ、当たりばかり引いてきたんだ。感謝しないと。いまどき珍しいよ。だって、そう云う以外になんて云うのさ。励ましてほしい? 傷をなめてほしい? 涙流して、ああ、クラウス、もういいのよ、とか云ってほしい? ごめんだろ? 全部、君が望んでることだよ。わたしは君が望んでいるからここにいるし、君が望んでいるから、君の周囲をかき回すんだ。退屈が大嫌いなエーベルバッハ少佐へ愛をこめて。君は困難や葛藤の中にいるとき、一番生き生きしてる。なにかと戦うときにはぞくぞくするくらい楽しそう。だから君は、わたしと出会ったんだ。まあ、こんな方向に転がるとはわたしも思ってなかったけど。だから、君には余計なお荷物を背負わせちゃったのかもしれないね。難しいよね、立場がある人間は。わたしみたいに、素直に愛してるよなんて叫べないだろうし。ひと目もあるしね。だけど、それはわたしの問題じゃない。君の葛藤であり、君が答えを出すべきものだよ。冷たいこと云うようだけど。だって、ほんとに君が望んでることなんだよ? 次から次に、問題が起きて、なにかが露呈して、君はそれに立ち向かって……そうじゃなきゃ、君って生きていられない。ねえ、君、わたしを愛してる?」
 ふいに問いかけられ、少佐はとっさに返事ができなかった。伯爵はそれを見て、優しく微笑した。
「わかってるよ、軽々しく答えられる質問じゃないことはね。君は厳格だ。とっても厳格だ。愛について、自分の責任について。厳格でそして、燃えるように激しい。わたしが愛するのは君のその炎であり、わたしが鎮めるのも君のその炎。わたしの云っていることわかる? 君のその峻烈な炎の中に、愛の持つ穏やかさが調和し共存できるようになること……わたしは君と一緒にその時間を体験するつもりがあるけど、でもそうするには、君は君の厳しさを少しゆるめて、扉を開いてわたしに手を伸ばしてくれなくちゃ。勝手に怒って、勝手に解決しようとする男なんて大嫌いだよ。わたしはいつもここにいる、でも君が締め出そうとするんだからね。求めてるなら、素直にそう云えばいいのに。それ意外のことなんて、別にどうだっていいじゃないか。そんな論理的に、なにもかもぴったりひとつの理想どおりにおさまるなんて無理だよ。全部具合よくおさまれば、そりゃあ気分がいいだろうけど、でも、そうじゃなくてもひとは愛せるよ。というか、だからこそ、人間は人間を愛するんだ」
 少佐はしばし、目をつぶった。そうして、伯爵の云ったことが自分の中で響いている、その振動を、そしてそれを受けて自分の中に押し広がってゆくものをとらえた。この生ぬるい、ゆったりしたもの。わけもなく美しく愛おしいもの。それから顎に手を当てて考えこんだ。クラウス君、君は頭でっかちになっとるぞ。情報部に来てからってもの、それがひどくなってやしないかね。まあ、よく云や理性的な男だがね…………
 少佐は顎から手を外し、微笑した。そうして云った。
「……なあ、もう降りてきてくれ。頼む」
 伯爵は、少佐の変化を感じ取ったらしかった。彼は見とれるほど美しく微笑した。
「うん、いま降りるよ」
 そうして伯爵は、まったく考えなしに枝から飛び降りた。ぎょっとしたのは少佐の方だった。かなりの高さだったからだ。でも伯爵は、猫みたいに見事に着地して、少佐に抱きつき、頬にキスした。
「わたしだよ、クラウス、愛してるよ。キスしてあげよう」
 伯爵は少佐の唇に、何度もくり返しキスした。少佐は苦笑してそれに応じた。一番最後のやつは、ほんの少しばかり、ほかより長かった。
「おまえ顔が冷たいぞ」
「君だって冷たいよ。誰のせいだ。君だよ」
 少佐は笑いだした。
「ああ、わかったわかった、みんなおれが悪いんだ。で? 伯爵さまはどこにご滞在なんだ」
 ふたりは歩きだした。
「知り合いのところ。というか、借りてくれたアパート」
 少佐はげんなりした声を出した。
「おまえのお友だちは世界中に散らばっとるのか?」
「そうでもないよ。ただ、わたしのためにすごく張り切ってくれるだけ。ねえ! そういうの、君、いや?」
 少佐は複雑な顔で伯爵を見た。
「別に禁止はせんよ」
 伯爵はまだ続きを期待するような顔をしている。
「いまさらだしな」
 伯爵の顔はまだ変わらない。少佐は頭を掻き、ため息をついた。
「ああー、わかった、わかった正直に云う。いやとは云わんが、面白くはない」
 伯爵の顔が輝いた。
「ねえ、わたし、そういうのやめようか?」
 少佐はまた複雑な顔をした。
「ところがなあ」
「うん」
 伯爵はいまにも舌なめずりしそうな顔になった。
「ところがだ。それもなんだか面白くないんだ」
 伯爵は、笑いだした。笑いながら、少佐の腕を取り、彼にもたれかかって、げらげら笑った。
「そうそう、その調子だよ。でも安心していいんだよ、わたしは、じゃあどうしろっていうのさ、なんて野暮なこと云わないからね。人間って、鈍くさい生き物だよね。ごちゃごちゃしてて、矛盾していてさ、とってもじゃないけど、スマートなんて云えやしない。スマートにやろうとすると、逆に失敗しちゃうんだよね。恋愛なんてほんとにそう。君は泥くさい方だけど、変なところですぱんと割り切ろうとするんだもの……そういうのは嫌いだよ。そのたびに、わたしはあっち向いて逃げるからね。わかった?」
 少佐はよくわかったと云った。伯爵は微笑んで、少佐にキスした。少佐はやれやれ、と思った。こりゃあ、大変だ。十年近く凍結していた恋愛回路なるものの元栓をもう一度ひねって、流れをよくする必要があった。そしてそのためには、エーベルバッハ少佐はエーベルバッハ少佐の気分を、押しとどめ包み隠すことなくいつも掴まえていなければならなかった。矛盾だらけでちっとも整然としないものを。そして、その矛盾や葛藤や雑多さを、表現し、共有し、楽しまねばならなかった。そういうことが、もうはじまっているわけだ。
 ふたりは投げ出され忘れ去られていた少佐の車まで戻らねばならなかった。少佐は道を知っていたが、わざと伯爵に任せた。伯爵がその気になれば人間ナビになれるらしいことは、新しい発見だった。よくわからない機能が満載のその頭の中を、もっと詳しく知らなければならない。少佐は考え、微笑した。それはたぶんとんでもなく大変で、そして楽しいことに違いなかった。
「……なあ」
 少佐はコートのポケットに手をつっこんでしばらくもぞもぞやっていたが、意を決して伯爵に声をかけた。
「うん」
 少佐は例の箱を取り出し、伯爵に放り投げた。
「なに?」
「やる」
「わたしに? 君が?」
 少佐はなにも云わずに歩き続けた。数歩行ったところで、伯爵のものすごい悲鳴が聞こえた。少佐は驚いて振り返った。
 伯爵はすごい顔をしていた。目を見開き、両手で口を覆って、固まっている。指輪は? なんとまあ、箱と一緒に地面に転がっている。少佐は、取り落とされてしまった自分のプレゼントを見て、一瞬怒りを覚えたが、しかし、これはどうしたって自分のせいだということに気がついた。こういうとき、真心のある男なら、当然こういった反応を予測し、自分で箱を持ち、蓋を開けて見せねばならなかったのだ。おれもさびついたなあ、と少佐は思った。でもそれは、伯爵が男だからだ、というせいにした。男と女で扱いが違うのは当然だ……当然なのか? そのへんも、彼に訊かねばならない。少佐は笑いをこらえることができなかった。苦笑しながら戻ってきて、箱と指輪を拾った。それから、呆然としている伯爵の魂を拾いに行った。彼の頬を叩き、箱と指輪を差し出した。伯爵は、目だけ動かして少佐を見た。呼吸が荒かった。少佐は、正直なところ驚いた。こんなもの、もう腐るほどプレゼントされているだろうに。
「なんだ、いらんので放り投げたのか?」
 少佐は意地悪く云った。伯爵はぶんぶん首を振った。
「じゃあなんだ、気に入らんかったのか」
 伯爵はぶんぶん首を振った。
「そうか、いらんか。じゃあ店に戻してくるか」
 少佐は指輪を箱に収め、蓋を閉じ、伯爵に背を向けた。伯爵がまた悲鳴を上げた。
「だから、違うって云って……云ってないか、示したじゃないか!」
 少佐は振り返った。
「返してよ。わたしのだよ!」
 顔が怒っていた。少佐は、笑い出してしまった。伯爵は少佐の手から箱をひったくり、おそるおそる蓋を開けた。そうして、うっとりしてため息をついた。箱の中を恍惚とした表情で見つめる彼が、なんとも云えず美しかった。少佐は、自分もため息をつきたくなるのをなんとか抑えた。これじゃあ、寄ってたかってあちこちからいろいろなものをプレゼントされるわけだった。
「ねえ」
 伯爵は指輪から目を離さずに云った。
「わたしは、宝石なら見ただけでだいたいの値段を当てられるんだ。これだけ深い色のパライバトルマリンといったら、めったにないよ。これ、どこで買ったの? この店、紹介してくれない? ブランドじゃないな。でも……だから、と云った方がいいかな……いい仕事してる。くっついてるダイヤも上等なやつだ。金額のこと、口にするのはよそうね。ただ、価値もわからないで宝石だからってだけで騒ぐような人間じゃないよって云いたかっただけで……」
 伯爵は今度は、泣きだした。少佐は慌てた。これは予想外だった。完全に予想外だった。もうちょっと、からっとした反応を期待していたので。
「なんだ、おい、なにも泣くこたあないだろう。生まれてはじめて男からプレゼントもらった女でもあるまいに」
「だって君からははじめてだよ」
 伯爵は涙声で云った。
「ってことは、人生ではじめてってことじゃないか。わけが違うよ、ほかの男からもらうのとじゃ……そういうの、わかってくれないと困っちゃうな! そりゃ、もちろん、値段のつけようがないようなのをくれる男だっているよ。それもまた、愛だよね。でもそれと君のとじゃあ、なにもかもが違うんだ。輝きも、重みも、美しさも……わかる?」
 少佐は半ばぼうっとして、わかると云った。実のところ、ちょっと感動していた。伯爵は少しのあいだぐずぐずやった。少佐は手のひらと指で、伯爵の頬を伝う涙を拭いてやった。伯爵が少佐に抱きついた。伯爵が動くので、ふたりはそのままぐるぐるした。そうして、止まった。
「これ、つけてくれる?」
 伯爵がうるんだ、きらきらした目で指輪を見つめ、それから少佐を見つめて、云った。伯爵が黒の長い手袋を外すと、美しい手があらわになった。その瞬間に少佐は少し、みだらな気分になった。薬指と中指に先客がいたが、伯爵はぞんざいにそれを外して、コートのポケットにねじこんだ。そうして、うっとりする仕草で、少佐に手を差し出した。少佐はうやうやしくそれを取った。そうして、薬指にとんでもない値段がした指輪をはめこんだ。案の定、それは伯爵の指にぴったりだった。大きさも、デザインも。伯爵はため息をつき、うっとりと自分の指を眺めた。しばらくして、伯爵は静かに礼を云った。少佐は肩をすくめた。それから、なにも云わずに歩きだした。ぴったりくっついているふたつの影が、いくつもの街灯の明かりの下を、ゆっくりと、舐めるように通り過ぎた。打ち捨てられた少佐の車までは、まだかなりの距離があった。

 

あとがき

 

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