追いかけっこ
Facies, vultus, sonus.
容貌と表情と声。
―― キケロー
「伯爵さま、こちらにいらしたのでございますか」
執事のヒンケルが遠慮がちにドアを開けたとき、伯爵さまはソファに座って背もたれに肘を乗せ、その上に頭を乗せて、気だるげに身体を投げ出していた。彼の目はうっとりと一枚の絵に注がれていたが、かけられた声を受けてそこを離れ、執事の上に止まった。美しい青い目はどこか夢を見ているようにぼんやりしていた。
「どうしたの」
伯爵さまはからかうように優しく微笑した。金の巻き毛が、窓から差しこむ光を受けて、向こうが見えそうなほど透き通ってけぶっていた。
「おじゃまをいたしましたでしょうか。お茶の時間が近づいておりますのにお姿が見えませんので……」
「ほんと? もうそんな時間なの?」
伯爵さまは驚いて眉をつり上げた。執事はうやうやしく近づいていって、時間を告げた。伯爵さまはちょっと身を乗り出し、執事の胸ポケットから懐中時計を取り出して、時計の針を調べた。
「ほんとだ。もう四時になるところだね。そういえば、お腹が空いたよ!」
執事は微笑した。伯爵さまは、この城を訪ねてくるとよくこうして美術品を眺めて時間を忘れていた。というより主人が仕事に出ているあいだはたいがいこの展示室にこもって、皿や絵や置物を手に取り、じっくり鑑賞したり、模写したり、来歴を調べたりしていた。ことにあの紫を着る男はお気に入りだった……わたしの知る限り、世界で二番目にいい男だと思うな、と伯爵さまはいつだか云ったことがあった。彼を見つめているとどきどきするものね、と。執事は、一番目の男が誰なのか、訊かないでもわかった。それで、こみあげてくる笑みを抑えなくてはならなかった。また、執事はあるときには絵を前にして、伯爵さまにこのご先祖から連なる一族の歴史を説明したりもした。伯爵さまはそれは熱心に執事の話に聞き入った。話の途中で、伯爵さまが執事の肩に頭をもたせてきたので、えらくどぎまぎしたものだった……
伯爵さまは西側の、夕日が一番よく当たる部屋を所望したので、執事はそこへカートを運んでいって、お茶を出した。料理人のマンツは今日もはりきってお菓子をこしらえていた。ビスケットにクリームをはさんだ焼き菓子、小さなかわいらしいクッキー数種類と、同じく小さな生菓子が二種類。マンツは菓子作りに自信があるのにも関わらず、長年才能を発揮できずに来たので、楽しくてしようがないのだ。伯爵さまはお茶のあいだ、イギリスのミステリー小説を読んでリラックスしていた。
「主人公がね、引退した元スパイなんだよ。奥さんと片田舎に住んで、恩給をもらって庭いじりと読書に精を出す悠々自適の生活をしているんだけど、身近でひとたび事件が起きると、スパイの虫が騒ぎだしてついつい首をつっこんじゃうんだ。容疑者の屋敷に潜入捜査なんかしたりしてさ。クラウスはひと目見るなりありえんとか云って放り投げたけど、軽くて読みやすいし、結構おもしろいよ」
で、執事のヒンケルは衰えがちな英語の脳を鍛えるために、伯爵さまからその第一作目をお借りすることになった。その名も「おじいちゃんは元スパイ」……執事はなんとなく複雑な気持ちになった。
それから伯爵さまは使用人をみんな呼び集めて、来るべきご主人さまの誕生日のお祝いについて、あれこれ相談した。ご主人さまは本年も、誕生日のあたりで強制的に休暇を取得させられていた。そうでもしないと休日消化ができないからだ。「少佐の誕生日休暇」と部下たちは命名しており、それにならってみんな子どもの誕生日だの妻の誕生日だの結婚記念日だのにあわせて、いくらか長い休暇をとることができた。本日はその誕生日休暇前の最後の出勤日で、なにごともなければ、ご主人さまは遅くとも六時過ぎには情報部をおん出されるはずだった。
休暇といっても二週間程度なので、ご主人さまはどこへも行きたがらなかった。あちこち飛び回る仕事だし、城の修理をする予定もあったし、基本的に自分の城が好きだったのだ。それで伯爵さまは、今年のお誕生日は自分が盛大にお祝いしてやろうとはりきっていた。
ご主人さまは七時ごろに帰ってきた。伯爵さまはそれを聞くと大慌てで着替えを終え、どこかへ隠れてしまった。執事は笑いをこらえながらいつも通り玄関まで出迎えた。
「お帰りなさいませ」
ん、と云って、主人は手に持っていた大きな花束を執事に押しつけてきた。
「もらいもんだ。適当にしてくれ」
「かしこまりました」
「それからこいつはたぶん菓子類だろうから、晩飯のあとにでもあいつに食わせりゃあいいだろ」
彼は今度はもう片方の手に持っていた、リボンがかかった紙箱を押しつけてよこした。うなずくと、主人は足早に自室へ向かった。いつも盛大に出迎えるのがいないことに少し首を傾げていたが、口に出すようなことはなかった。食堂へ戻る途中で、執事は伯爵さまが少佐をおどかして面白がる声と、主人のぶつぶつ云う声を聞いた。
「……それで? Gくんが君にその花をくれたの?」
優雅なしぐさでワインを口に流しこんでから、伯爵さまが云った。
「あいつはおれにものをよこすのが趣味なんだろ。誕生日の前祝いだとさ」
主人は関心がなさそうにナイフを動かした。
「きれいな花束じゃない。趣味がいいよ。前祝いってことは、後祝いもあるのかな」
「ある。なにをよこすかわかったもんじゃない。いらんと云っとるのに毎年毎年」
「愛されてるんだよ、君」
執事は使用人たちが皿を片づけたり、空になったグラスをまた満たしたりするのを、少し離れて注意深く確認していた。近ごろの使用人たちは、執事の時代とはなにもかもが違っている。気をつけて見ていないと、せっかくの美しい晩餐を台無しにするようなことをしかねない。今日は主人は休暇に入るので特別にリラックスしていたし、伯爵さまは美しいゆったりした白のブラウスを着て、心地よい会話で夕食の場を盛り立てていた。伯爵さまはいつもそうだ。のべつしゃべり散らしているように見えて、その場にふさわしい雰囲気と話題をちゃんとつかまえている。
「おれはあまりうれしくない」
「そんな冷たいこと云わないでさ」
まだ若い使用人が、伯爵さまの空になったグラスにもう一度ワインを注ごうとしたので、執事はあわてて止めに入った。メインの料理はもうほとんど片づいていたし、伯爵さまは普段、どんなに多くても食事中にグラスで三杯以上飲むということはなかった。デザートワインを飲むこともあったし、食事のあとにおふたりでまたちょっと飲むこともあったから、飲み過ぎては雰囲気が台無しになる。執事がものすごい顔でにらんだので、若い使用人は顔を伏せた。
料理人のマンツがうやうやしくフルーツを盛り合わせた皿を持ってきた。それから、あまり気乗りがしないといった顔つきで先ほど主人が持ち帰ってきた箱の中身を伯爵さまへ見せた。
「焼き菓子なんですがね、伯爵さま」
伯爵さまは首を伸ばしてちょっと傾け、マンツの手のなかの箱をのぞきこんだ。
「わたし、君の作ったののほうがいいな。そのうち、たぶんおやつに食べてもいいけど……まさかと思うけど、これもGくんがくれたの?」
「いや、それは一階の受付のお姉ちゃんだ。ほかのやつはたいがい部下どもに置いてきたんだが、帰り際に渡されたんで処分できんかった」
「あは! あのきれいな金髪の子ね……脱色の……」
主人は、つんとしてしまった伯爵さまの金髪を見て微笑した。
伯爵さまは少佐の城に滞在するあいだ、来客用の日当たりのよい、広くて上等な一室をあてがわれていた。その部屋には衣装部屋と浴室とが続いていて、衣装部屋には巨大なクローゼットが壁一面に並び、反対側の壁には大きな金縁の鏡がかけてあった。かつては衣装持ちの貴婦人用の部屋だったに違いないが、いまでは伯爵さまのお召し物であふれていた。猫足のタンスの中には下着がぎっしり入っていたし、クローゼットを開ければ、ぶら下がった洋服のほかに、靴箱、帽子箱などが積み上げられている。どこになにがあるのか正確に知っているのは、おそらく執事のヒンケルと少佐だけだった。持ち主である伯爵さまは、整理整頓はあまり得意でなかったのだ。伯爵がいないあいだも、衣類のほとんどはそこに置いておかれたので、少佐は好きなときにこの部屋にやってきて、あれこれ取り出して眺めることができた。タンスの上には宝石箱や伯爵の香水の瓶までそのまま置かれていた。いつだかうっかり伯爵が瓶の中身をこぼしてしまったために、部屋じゅういつもどこか彼の香水の香りがした。
この続きの浴室を、少佐は私財をなげうって(と彼は云っていた)改装した。大きく窓をとり、広い浴槽を新調し、大きな鏡と洗面台を新しく取りつけ、床と天井のタイルを伯爵の好きな深い青地の、小さな花柄模様のモザイクに替えた。古道具屋から仕入れた、小物入れのついたタオルがたっぷりおさまるクローゼット、バスローブ姿でひと休みできるソファと小さなテーブル、浴槽の上の天井にはカーテンレールをつけて、特注の防水加工をした薄布をぶら下げた。照明器具にも気を配った。カーテンに影がよく映るように、明るさと配置を研究したのだ。
「ああ、君って、なんてばかなんだろう! こんなことに労力とお金をかけるなんて」
伯爵はこの新しい浴室を見た瞬間に、少佐の意図を理解したのだ。それで、感極まってそう叫んだのだった。
それ以来、この浴室と衣装部屋は、ふたりの実にいい遊び場になった。夜な夜な、そこでいろいろな遊びが行われた。伯爵はあるときは豪奢な日本の着物を、あるときはインドのこの上なく美しいサリーをまとって、またさまざまな下着や宝石を身につけて、少佐の目を楽しませた。ありとあらゆる衣装がそろっていたので、少佐は日ごとに違った伯爵を楽しむことができた。ふたりはその日の伯爵の格好に合わせて、あるいは気分にあわせて、長々と遊んだ。好色で卑猥な遊びを。この場合、時間をたっぷりとかけることに価値があった。そのために興奮はじらされ引き延ばされながら増幅し、これ以上抑えがきかなくなるところまで、ぎりぎりまではぐらかされ延期される。その結果、あとに続く快楽は非常に強いものになる。そして少佐は、欲望を抑制されることそれ自体に興奮するたちの人間らしかった。昔から「いまはだめ」だの「あとで」だのを云われると、先延ばしになった行為に対する期待と欲求が膨大に膨らむのを少佐は薄々感じていた。そして長いこと我慢を強いられたあとでは自分がよりその中へ没頭してゆくような気がしていたのだが、伯爵のように「高度に文化的な」、すなわちあの手この手で戯れ、官能をくすぐってまさぐって楽しむタイプの人間に触発された結果、抑制と興奮の関係は少佐の中で意識的なものになった。彼はそれを伯爵と一緒に研究した。伯爵は嬉々として彼をじらし、彼好みのやり方や間合いなどを発見していった。そのたびに少佐も一から自分の反応を発見した。そして想像もしていなかったような、強い快楽を得るに至った。少佐は自分がときどき別の生き物にでもなったような気がした。羽化して、新しい羽で飛び回るような、そんな心地がした。伯爵はそれを「君は本来そういう人間なのかもね」と云った。
「抑制の効いた人間の中には、ほんとうは誰より官能的で、没入してしまうタイプの人間が少なからずいると思うんだ。これは危険な傾向だから、そうと気がつく頭のいい人間は、これを抑えにかかるんだろうね。そして、没頭する対象をなにかほかの、社会的で健全なものにすり替える。学問とか、仕事とか、あるいはただ健全なまっとうな人間であることなんかにさ。君って、ほんとはずいぶん感度の高い人間なんだと思うな。人間がほんとに人間的に性行為ってものを心から楽しむには、かなり教育された、感度の高い感性を必要とするからね……そりゃあ誰だって、ある程度は教育すれば成熟するものだろうけど、どこまで感応するかはやっぱり持って生まれたもののような気がする。こういうことって、生理的なものも大きいしね」
それで少佐は大いに自信を得た。女性相手にあれこれしていたときに自分なりに持っていた矜恃とは……それももうずいぶん前のことのように思えたが……なにかが違っていた。誰かに誇る必要のない、隠された、自分のうちだけにある自信。そしてそのためにかえって、わかる人間にはわかってしまうたぐいの自信。少佐は自分がまるで生まれ変わって、思い通りに、どこまでもなめらかに、進んでゆくような気がした。水を切って、勢いよく。あの手この手でおだてられて、もてはやされたので、もう取り返しのつかないうぬぼれ野郎になってしまった……少佐はそう思った。そしてそれでよかったのだ。知らなかったものを知ってゆくようで、その実見失っていたものを取り返すような心地がしていた。ほんとうの意味で自分のための相手と、ほんとうの意味で誠実に、地道に築いてゆく関係がいったいなにを生むのかを、少佐は知った。季節はあたかも春だった。雪解けはいまだった。冬の長いドイツに、ようやく春が巡ってきた。
ふたりの場合、遊戯のはじまりがどこからなのか、見極めることは難しかった。それは蝋燭の明かりに照らされた晩餐の席の、伯爵の耳からぶら下がってきらめく宝石からかもしれないし、昼のあいだのささいな会話からかもしれないし、もしかすると、目覚めの瞬間からもうはじまっているのかもしれない。伯爵の無邪気な、そのくせ熟れたような寝顔の中から、そして彼が目を開き、少佐に微笑するその瞬間から。ともかくも、少佐の中でその気持ちがはっきり定まり、明確になるのは、風呂に入るときからだった。小さいころから使い慣れた浴室へ向かうために立ち上がり、廊下を歩いているころには、すでに少佐の頭の中は来るべき時間に向けて進みはじめている。風呂につかりながら、彼は自分の手や腕をまじまじと眺めることがある。腕力はあるがそこまで器用なほうとは思わない。また格別魅力的なつくりをしているとも思わない。普通の男の手だ。少し大きいかしれない。この手がどうして彼のあの白い、しなやかな身体になじむのか、少佐にはわからない。わからなくてもいいのだ……少佐は微笑し、両手で顔をぬぐって、ふと耳の周りに洗い残しがなかったか確かめる。少佐は自分でも耳が大きいほうだと思う。伯爵はそれをからかうのが好きだ。「ダンボちゃん」と彼は云う。そうして少佐の両耳を引っぱる。それからくすくす笑う。そこを猫みたいに丁寧に舐めて、少佐の興奮を引き出すこともある。ダンボちゃん! こんな歳になってから、そんなあだ名がつくとは思わなかった。少佐は手や足や耳や、そういう末端の部分が大きい。伯爵は逆に、身体の割に手も足も耳もさほど大きくない。頭も小さい。「わたし例外のビッグサイズだから」と彼は云う。
「うちのご先祖はみんなあんまり大きくなかったみたいだから。こんなに大きく立派になったのは、ドリアン坊やだけだよ。きっと、身長に対して末端の細胞が追いつかなかったんだな! でも指はとてもきれいだと思わない?」
そうだ、彼の指は手も足も細長くて美しい。彼がご先祖の例に漏れない身長であってくれたらよかったかもしれない。そうしたら、彼にハイヒールを履かせて、連れ歩けたかもしれない……。
風呂から上がると、ひと息ついて煙草を吸い、水を飲んで、ソファにだらりとしてリラックスする。目を閉じる。身体がほてっている。そいつを少しさまして、時計を見る。それから伯爵の寝室へ向かう。
寝室は空だったが、伯爵の好む伽羅の香りがたちこめていた。鼻腔をくすぐり、なぜだかそういう欲求も刺激する香り。少佐は衣装部屋を通り抜けて浴室へ向かう。ドアの前まで来ると、水が跳ね回るような音がしている。少佐はノックして、それからゆっくりとドアを開く。浴室の中は、抑えられた、白みがかった橙の明かりで満たされている。伯爵の愛するバラにイランイランのまつわりつくような香りが混じって、湿気のこもった室内を満たしている。特注のなめらかなシャワーカーテンの生地に、伯爵の影がはっきりと写っている。ゆらゆら揺れながら、彼は身体を洗っているようだった。少佐は浴槽の横に置かれたソファに腰を下ろして、黒い影が織りなす景色を楽しむ。長い脚が持ち上げられて、手がその上をすべってゆく。水が流れ落ちる軽く耳に残る音が響く。指の先まで丁寧に泡でこすられ、脚が入れ替わって、同じ作業を繰り返す。ほどなく伯爵の影は立ち上がった。シャワーからお湯が流れ出した。彼が頭に巻いていたタオルを取り払い、髪の毛をじっくり洗い流すのを、少佐は見ていた。伯爵が手で巻き毛をなでつけたり持ち上げたりするたびに、巻き毛は生きているようにゆらゆらと揺れて落ちる。少佐は満足して立ち上がり、寝室へ戻って、天蓋からぶら下がったカーテンをかきわけて、ベッドの上に横になる。深く息をして目を閉じる。伯爵の影の映像が、ささやかに心地よく刺激してくるのを、少佐は感じる。
……名前を呼ばれて、少佐は目を開けた。起き上がり、じらすようにゆっくり部屋を横切って、衣装部屋のドアを開ける。明かりは落とされて、小さなランプと蝋燭だけがぼんやりと部屋を照らしている。伯爵がソファの上で、白くて長いバスローブにくるまって座っている。このソファも、少佐が新しく作らせたのだった。ゆったりしていて大きく、肌のどこにも堅い部分が当たらないように、よく計算されている。ソファのまわりを囲むように四つのランプが置かれ、伯爵は明かりの中で微笑んでいた。今日は赤い地に金糸でロータスの花模様が織りこまれた布が、ソファ全体をくるんでいた。白いバスローブがまぶしく見える。美しい脚が組まれて、ぞんざいに投げ出されている。少佐は彼のところへ行って、背もたれに手を置いて見下ろす。手入れされてふわふわになった金髪からいい香りがしている。そこへ口づけると伯爵は立ち上がって、ハイヒールの足を踏んで鏡の前へ歩いていく。少佐は鏡の横に立って、照明のスイッチに手をかける。伯爵が少佐に鏡ごしに目まぜして微笑する。バスローブが床へ落ちる。少佐は鏡のまわりに取りつけられた照明のスイッチを入れる。
鏡の中に、黒いレースのガウンを身にまとって、そろいの下着をつけた伯爵があらわれる。彼は首をちょっとかしげて、満足そうに唇をゆがめて鏡の中の自分を見やっている。少佐は鏡の中の彼の横に立ち、じっくり見つめる。鏡の中の像にいたずらするようにその上で指を動かすと、本物のほうがまるでほんとうにそうされたようにちょっと身をよじる。それから鏡のとなりの少佐にキスするように唇をとがらせる。少佐は鏡から目を離さずに、毛皮を着てみるように云った。伯爵はクローゼットにあるのを全部取り出してぶちまけ、一枚ずつ着てみせる。伯爵には、ボリュームのある毛皮のコートがよく似合った。巻き毛を頭の上でまとめさせ、セーブルのコートに身を包ませると、完璧に見えた。長い首が強調されて美しい。後ろを向かせたり前を向かせたりしてあれこれ確かめてから、「それでいい」と少佐は云った。満足して、鏡の中の伯爵をとっくりと見つめた。こうやってちょっと遊ぶあいだは、実物を絶対に見ないことに決めていた。平面の彼を存分に堪能したら、振り返って、はじめて実物を拝む。鏡で見たのと同じ格好をした伯爵がそこに立っていて、誇らしげに腰に手を当てて、うっとりした顔つきで少佐を見つめ返している。少佐は満足げにため息を吐き出した。とても美しかった。少佐は伯爵をソファへ座らせ、脚を組ませたり、寝そべらせたりして、なおしばらく楽しんだ。
「わたしを見るときの君の目が好き」
ソファに仰向けになって脚を投げ出し、首だけ少佐のほうへ向けて伯爵は云った。
「君が視線でわたしの身体をたどっていくと、まるで君の手が同じことをしてるみたいに……」
そこでことばを切って、伯爵は目を細めて微笑した。
「君はまだわたしに触れてもいないのに」
少佐は唇を持ち上げて応えた。
「君の目は危険だよ」
伯爵はうっとりしたように云った。
「とてもね」
その危険きわまりない目をふさいでしまうことを、伯爵は思いついた。彼はあろうことか黒いタイツを、ソファに座らせた少佐の目に巻きつけて縛った。少佐は一応抵抗したが、本気でするつもりはなかった。嬉々として思いつきを実行する伯爵を見るのが好きだった。
「かわいそうなクラウス」
同情たっぷりの声がそうささやき、伯爵が目の前にやってくる気配がした。それから、両手で頬を包まれた。
「キスしてあげる」
大きな音を立てて唇が押しつけられた。
「目が見えない気分はどう?」
伯爵はそのまま少佐の膝の上にまたがってきた。伯爵の匂いをすぐ近くに感じた。見えないだけに、とても敏感に感じた。
「まだ特にこれといった感想はない」
少佐は云った。
「わたしが見えなくて悲しい?」
芝居がかった声だった。伯爵が楽しんでいるのがわかった。そういうとき、少佐はいつも興奮した。
「泣くほど悲しい」
少佐は云った。
「まだ毛皮は着てるか?」
少佐がぎこちなく手を前に出すと、伯爵が毛皮に覆われた自分の腕を押し当ててきた。つかもうとしたが、意地悪く振り払われた。少佐はもう一度伯爵をつかもうとしたが、伯爵は膝の上からいなくなってしまった。少佐は反射的に顔を上げた。伯爵がくすくす笑うのが感じられた。
「立って、ダーリン」
伯爵が手を取って、立ち上がらせた。それから、少佐は何歩か手を引かれたまま歩いた。伯爵の香りが近かった。なにも見えない中で、少佐は奇妙に興奮しはじめている自分を感じた。
「追いかけっこしよう」
立ち止まると、伯爵が楽しそうに云った。
「どうやって。おれは見えんぞ」
伯爵はくすくす笑った。
「頑張って。君には長年培ってきたスパイの勘と、ダンボちゃんの耳があるだろう。それで、わたしを追いかけて」
断りようのない、甘ったるい調子の誘いだった。伯爵は少佐の耳をつまみ上げ、ふうっと息を吹きかけた。少佐は思わず少し身体をふるわせ、それをごまかすように毒づいた。
「なんつうルールだ。しかも問答無用でおれが鬼なのか」
「でもわたしにだって、ハイヒールっていうハンディがあるんだよ。わたしをつかまえたら、君の勝ちにしてあげよう」
伯爵はまたくすくす笑って、少佐のまわりをぐるぐる回りはじめた。
追いかけっこはしかし、文句なく楽しかった。少佐は伯爵の声や動きの気配を頼りに動き回って、はじめのうちこそソファやタンスにぶつかったのだが、そのうちにものの配置がつかめてきた。伯爵は声を上げて逃げ回ったり、ふいに押し黙って動かなくなったりし、そうすると少佐は神経をとがらせて伯爵の気配を探った。たぶん、それは狩りに似ていた。少佐は獲物を追っていた。ひっとらえて、食いつくすための獲物を追っていた。美しい美しい獣を追って、少佐は没頭した。手が届きそうになるたびに逃げられる、もどかしい遊び。少佐をからかって意地悪するときの伯爵はほんとうに楽しそうだ。伯爵は歌いながら歩いたり、少佐の名前を連呼して、部屋中を行き来した。とうとうつかまえたと思ったが、伯爵は毛皮を脱いで抜け出した。その次にはひらひらと動き回るガウンをつかまえたが、これも払い落とされてしまった。
「もう脱げるもんはないはずだ」
少佐はよろこんで云った。伯爵は笑って、
「ベビードールがまだあるよ。それにストッキングくらいなら破って逃げるかもしれないよ」
と負けじと云い返してきた。
「そいつはだめだ」
少佐はあわてて云った。
「それは禁止する。景観が台無しになっちまう」
伯爵は笑い転げ、それからまた逃げ回った。ハイヒールは脱げ、毛皮も繊細なレースのガウンも、何度も踏まれ蹴られてソファやタンスの下へ追いやられた。ようやく少佐が伯爵をつかまえたときには、ふたりとも興奮して動き回ったせいで息が乱れ、軽く汗をかいていた。少佐は伯爵を羽交い締めにし、首に鼻先を押しつけて、蒸れたような、立ち上る匂いを嗅いだ。そしてそこに、単なる運動による興奮とはまた違った、ある高揚の匂いを嗅ぎとった。かすかな、甘く鼻に残る香りを。少佐は自分の高ぶった血が、また別の勢いを得て流れはじめるのを感じた。追いかけっこのあいだ忘れていた興奮が、ふたたび駆け寄ってきて彼を支配した。忘れ去っていたぶん、力を増して。伯爵がかすかに身体をふるわせた。自分の変化が彼にも伝わったことがわかった。少佐はゆっくりと、伯爵の脚に手を伸ばした。太股をさすり、腰まで手をすべらせると、伯爵は今度はもっとはっきりと、身をよじって応えた。
「ダーリン」
伯爵が囁いた。
「目隠しを取ってくれ」
少佐は云った。
「おれの勝ちだろ」
伯爵が微笑む気配がした。
ゆっくりと、視界を覆っていた黒が取り除かれた。ふたりはちょうど鏡の真ん前にいた。鏡を見やると、少佐はベビードール姿の伯爵を羽交い締めにして、ところどころほつれている金の巻き毛の中に半分鼻先をつっこんでいた。伯爵はどこかうっとりした顔で、鏡の中の少佐を見ていた。
「もう見てもいいよ」
伯爵が少佐にもたれかかってきて、陶然とした声で云った。
「わたしを見て……」
少佐は伯爵の髪留めをはずし、その美しい顔に降りかかってきた巻き毛をかきあげ、微笑した。
「……わたしを見ていて」
この日伯爵は何度もこのことばをつぶやいた。
「君に見てもらうためなら、なんでもする。なんでもするよ……」
伯爵は熱に浮かされて、うわごとのように云った。彼は美しかった。見せるために、見てもらうために、美しくあった。少佐はそれを知っていた。もし誰もその美しさに気を取られなければ、それを見てもらえなければ、彼は悲しんで、閉じてしまうだろう。どんな美しいものも、長いこと放っておかれれば汚れて鑑賞に堪えなくなってしまうように。美しいものを持つのは手がかかる。金もかかる。ふさわしい労苦を受け持つ覚悟のある者だけが、それを手に入れることができる。少佐は手間を惜しまない。この美しいものを鑑賞し、維持する手間を。
翌朝、主人の手からぼろぼろになったセーブルの毛皮とレースのガウンを「捨てといてくれ」のひとこととともに渡された執事は、その金額を思ってため息をついた。