禍津日

 

 真っ赤に塗りたくられた重たいドアに、黒いシミの連続のようなものが見える。近づいてよく見てみると、文字だった。
 
われをくぐりて 汝らは入る なげきの町に
 われをくぐりて 汝らは入る 永劫の苦患に
 われをくぐりて 汝らは入る ほろびの民に
正義 高きにいますわが創造主を動かす
 われを造りしは 聖なる力
 いと高き知恵 また第一の愛
永遠のほか われよりさきに
 造られしもの無し われは永遠と共に立つ
 一切の望みは捨てよ 汝ら われをくぐる者
 
 ダンテの神曲、地獄篇第三歌の冒頭。地獄の門の上に記されたことばだ。そうそう何度もお目にかかる文章ではないが、見るたびに背筋になにか冷たく、いやなものが走る。これを、このドアのところへ書きつけたのはいったいどんなやつなのだろう。文字は美しい。無教養な人間が書いたものではない。粗雑な人間が書いたものでもない。黒い線の連なりの中に、洗練と、文化的な空気がある。ある種の芳香すら感じられるような気がする。優雅で、繊細だ。でも、この文章をここに書きつけた、その行為の中には、皮肉と、ある種の諦念をこめた思想のようなものがほの見える。少佐はそれについて考えるのをやめ、観音開きのドアに手をかけた。
 真っ赤なドアを開けると、音楽が、耳を突き抜け身体の内側へ響いてくる。絶え間なく繰り返されるリズム、波のように途切れることなく、しかし少しずつ盛り上がり、爆発し、引いてゆく、それは限りなくオルガスムスに似ている。フロアで踊り狂う人間たち、けばけばしい色の光線。人間の、果てしない快楽と享楽。
 少佐は眉をしかめた。こういう場所はもちろん、好きではなかった。この種の騒々しさは嫌いであったし、おまけにここはゲイのためのクラブだった。ゲイ云々をのぞいても、踊ることや、音楽に陶酔すること、そういう行為そのものに、少佐はたとえば、自分のなにかが犯されるような気持ちになることがある。その享楽に、その楽しみに、じわじわとせまられ、入りこまれてしまう感覚に対するおそれ。自分が侵食され、とりこまれ、変質してしまう。享楽的な雰囲気や楽しみをことさらに避けて通ろうとしてきたのは、このおそれによるものだった。そういうものによって、自分は骨抜きにされるかもしれない、という。だからこういうものは自分とは異質なものであり、絶対に交わらないものだ。少佐はそう信じてきたし、いまも信じている。
 ゆっくりと視線を動かし、明るいとは云えない空間の、すさまじいひと混みの中から目的の人物を探す。楽な仕事ではなかった。そこそこの身長があり、訓練された視力を持っていることを神に感謝すべきだろうと、探していた男を見つけたとき、少佐は思った。
 男はバーカウンターの前に陣取って、カウンターに頬杖をついた男に話しかけていた。中年太りの波が押し寄せはじめている身体をラフな格好でつつんだ男は、着ているものがスーツであれば平凡なビジネスマンとして地下鉄のひと混みの中に紛れ、見つけるのが困難なタイプに違いなかった。暗い茶色の髪と同じ色をした小さな口髭、黒い目、顔にもこれといって特徴がなく、背が特別高いでもなく、低いでもない。男はときどきまるで警戒するかのようにあたりを見回しながら、カウンターに座る男……おそらく二十代だろうと思われた。色白で脱色した金髪、かなり整った顔立ちをしていた……に熱をこめて話しかけている。こんな空間に長居するのは癪にさわるが、男のお楽しみを、早々に邪魔しては悪いだろう。少佐は残酷な慈悲深さでそう考え、フロア全体をよく見渡せるように、中二階に設けられたテーブルにつき、注文を聞きにやって来た妙にくねくねした男にかなり大きな声で飲み物を頼むと、煙草に火をつけ、あたりを見回した。
 快楽的な弛緩した音楽の中で、男たちは踊っている。汗をまき散らし、荒い息をして、あるいは余裕たっぷりにあやしく身体の一部をくねらせて。世界ではじめてレコードをミックスした音楽に乗って踊り狂ったのは、ゲイの男たちだった。異性交を是とし正とする社会から阻害され差別され続ける居場所のない男たちが、夜になるとぞろぞろとクラブに集まってきて、音楽の中で踊り、セックスする。解放。肉体の解放、あるいは、あらゆる社会性の呪縛からの解放。己の求める快楽の追求。いま少佐の耳に流れこんでくる音楽、大音量で、一定のリズムで、腹の底へ響いてきて、身体を揺さぶり続けるこの音楽は徹底して肉体的で官能的であった。それが訴えかけるのは脳ではなく、肉体に対して、もっとあからさまに云えば、性的な気分や感性に対してだった。少佐はいやな気持ちがした。自分の内面が急に警戒的になり、ささくれ立ってくるのがわかった。自分の中の、なにかが揺さぶられはじめていると感じていた。
 少佐が追う男は、相変わらずカウンターの前に立って、金髪の青年にしつこく話し続けている。青年は少々うんざりしているようにみえる。美しい顔立ちに嘲りと冷たさをにじませて、熱っぽい中年の男を黙って見つめている。そこには、美しいもののみが持つことを許された驕慢さがはっきりとあらわれていた。男の敗北は必至であった。
 少佐は任務のためにこの男を追って、わざわざイギリスくんだりまでやって来たのだった。男がゲイで、美青年に目がないというのは有名な話で、それを知ったBが、イギリスの美青年っていったら伯爵じゃないですか、ちょっと利用すればすぐ引っかかって、簡単に捕まえられそうですけどね、とのんびりと云ったのが先週のことだ。でも、タイプじゃないか、別にきれいでもない、中年のおっさんだもんな……AがあわてたようにBの話を止めようと手を振り回しながら口を開きかけたが、それよりも少佐が話しはじめる方が早かった。B君、君はわざわざわれわれの任務にあの伯爵を引っぱりこみたいのかね? Bの軽口はいつものことで、もうすっかり慣れっこになっていたし、それが彼の持ち味でもあって、気分を害することはなかったが、少佐はわざと冷たい口調で云った。Bは石のように硬くなり、口を閉じた。Aはその横でため息をついていた。
 幸い、伯爵を使わなければならないような事態にはならなくて済みそうだった。少佐と部下たちは、首尾よく男を、気づかれないように追いこんできた。証拠を固め、男の行動範囲をすべて手中に収め、フィナーレとして、少佐はこの騒々しいクラブの中で、週末の慰めとして男が興奮し楽しんでいるそのさなかに、そっと男の肩に手をかけ、彼を外へ連れ出し、車に乗せる。それですべて終わり。伯爵の出てくる幕はない。美術品にもそれが眠っている土地にも一切絡んでこない硬派な任務に、伯爵の存在は、まったく無用のものだった。ただ、イギリスの、ロンドンという街が絡んできただけ。そしておまけに、ゲイカルチャーの一部が絡んできただけのことだ。
 少佐は煙草を吸い終え、灰皿に押しつけた。男に口説かれている美青年が、つまらなそうに立ち上がり、フロアの奥へ歩き出した。男はあとを追いかけた。少佐も、ふたりを見失わないために目を凝らした。
 美青年は、フロアを迂回し、店の奥を目指していた。店の一番奥、DJブースの横に、おそらく関係者以外立入禁止のドアがひとつあった。美青年はそのドアを目指していた。少佐は立ち上がり、階段を降りてあとを追った。
 少佐がそのドアの近くに来たとき、男と美青年は口論になっていた。ドアの左右にはまだ若い男がふたり、門番をするように立っていたが、この光景をどこかばかにしたように、にやつきながら眺めていた。
「しつこいな、いい加減にしてよ」
「いや、おれは普段こんなにしつこい人間じゃないんだ。でも、君はちょっと、その、特別で」
 美青年はぞっとするほど冷たく微笑した。しかしその冷たさは、超越的であり美しかった。少佐はふいに、伯爵のこちらをからかうときの微笑を思い出した。あの相手をからかう微笑も、ぞっとするほど美しいのだ。
 美青年は無慈悲にドアを開け、中へ入ろうとした。男は青年の腕を掴んで食い下がったが、番兵をしていたふたりの男に両側から腕を掴まれた。
「ここから先はちょっと、遠慮してもらいたいんだけどな、おじさん」
 番兵の片方が相変わらずにやつきながら云った。彼は、室内だというのにパーカーのフードをかぶっていた。
「この先は、特別室なんでね」
 男は、おそらくこんなひとだかりの中で必要以上の騒ぎを起こすことを恐れたのだろう、おとなしくなり、腹立たしそうにふたりの若者たちに掴まれた腕をふりはらった。そのとき、ふいにドアの前にいたすべての男たちの視線が、一斉にドアの奥に向けられた。中で、誰かがなにか云ったのに違いなかった。美青年が不満げに口をとがらせ、中に向かって声を上げた。それから、男に向かっていやいや顎をしゃくり、男を中へ引き入れた。番兵ふたりは、相変わらずすべてをばかにしたような顔を見合わせ、にやにや笑って、ドアを閉めた。
 ……さあ、どうしたもんだろう。少佐はまったくあわてていなかったが、ことさらに難しい顔をして、顎に手を当てて考えた。あの中へ入れるだろうか? ちょっと、やってみるのも悪くない。目新しいことが起こったために、少佐の頭はめまぐるしく回転し、フロアに充溢する音楽や雰囲気についての嫌悪感は、もはや彼の意識にものぼってこなかった。少佐はなにくわぬ顔でドアに近づいた。ドアの左右の壁に持たれてぼつぼつ会話をはじめていた番兵ふたりが、少佐を上から下までじろじろと眺めた。
「なんだよ、おじさん」
 フードをかぶった男が口を開いた。あまりお行儀のよろしくない若者だ。少佐は、いまこのドアの向こうに知り合いが入っていったので、できれば中へ入れて欲しいのだが、と云った。番兵たちは視線を交わし合った。フード男が、少佐ににやりと笑いかけた。
「そりゃあ、だめだよ、おじさん」
 少佐は理由を訊ねた。ふたりはけたけた笑った。
「ここに書いてあるだろ。関係者以外立入禁止。おれたち、十代のころからもう何年もこのあたりにいるけどさ、おじさんの顔を見たのは今日がはじめてだもんな」
「だろうな。おれもおまえらを見たのは今日がはじめてだ」
 ふたりはまたけたけた笑い、その受け答えが気に入ったのか、あるいは少佐が意図的にとぼけた雰囲気を打ち出していたためか、少し打ち解けた雰囲気を見せた。行儀は悪いが、根はそんなに悪くなさそうだった。少佐は煙草を取り出してくわえた。番兵たちがそれに目を留めたので、少佐はふたりにもわけてやった。
「知り合いって、さっき入ってったおっさんのこと?」
 これまで口を利かなかったもうひとりの男が、少佐の煙草を珍しそうに眺めながら云った。赤みがかったブロンドで、大きな目の、どこかチワワを思わせる顔立ちをしていた。少佐はチワワに向かってうなずいた。
「そういう関係?」
「いや、違う」
 少佐は、激しく否定したかったが、あくまで穏やかに云った。
「おれ、あんたみたいなひと好きだよ。顔が好き。よく口説かれない?」
 チワワは云い、好色な笑みを浮かべた。少佐は小さく首を振った。
「いい煙草吸ってんなあ、おじさん」
 フード男がふいに驚いたような大声で云った。
「高給取り?」
 少佐は笑い出したくなった。そのことばが、あまりにも素朴な感じを帯びていたからだった。
「煙草にゃあこだわりがあるんだ。給料の問題じゃない」
「でも、おれたちこだわりがあったってこんなの買えないや。伯爵に頼んだらくれるかな」
 少佐の片眉がぴくりと動いた。
「あー、そうかもな。でもあのひと、煙草やんないからな! 薬もなしだし。ナゾなひとだよな」
「……変なこと訊くが」
 少佐はあくまでなにげないふうを装って云った。
「その伯爵ってのは、金髪巻き毛の、どえらい派手な美形の伯爵のことか? 伯爵の知り合いといえばそれしかいないんだが」
 男たちは目を見開いて顔を見合わせた。そうして、あわててだらしなく壁に寄りかかっていた姿勢を改め、少佐をふたたび上から下まで眺めた。
「おじさん、伯爵の知り合いなの?」
 フードが探るように訊ねた。
「まあ、そうだ。知り合いにもいろいろあるがな、かなり知り合いだ」
 少佐はとっさに、「かなり」の部分にかなりのアクセントをこめて云った。ふたりはまた顔を見合わせた。
「なんだよ! なんだよ、おじさん、はやく云ってよ! 冗談きついよ」
 フードがぴしゃりと額を叩き、チワワは笑い出した。少佐は目を瞬いた。
「待てよ、一応、伯爵に確認してこなくちゃ。変なのがいっぱいいるだろ、ほら、いつだかの赤毛のやつとかさ。ああいうストーカーみたいなの」
 チワワが笑いながらも、目にずるそうな光を浮かべて云った。少佐はまた眉をつり上げた。伯爵に確認? なにを? なぜ? まさかこのドアの先にいるのは伯爵なのか? 少佐の心臓がふいに一瞬跳ね上がり、それから縮まった感じがした。
「あーあー、だよな。おれが行ってくるよ。おじさん、名前。通名でも愛称でもなんでもいいけどさ」
 フード男がフードを外して云った。頭髪は短く刈りこまれており、左側面に、二匹の龍が絡まるタトゥーが入れてあった。
「少佐だ。そう云えばわかる。ほかのやつらに聞こえないようにこっそり聞けよ。たぶん飛び上がる」
 少佐は意図的に、笑って云った。フード男はドアの向こうに消えた。チワワはあからさまに好色な目つきで、少佐の全身を見回した。少佐はいやな感じがした。自分が先ほどとっさに伯爵との関係をそういうものだとほのめかしたことも、大きなシミのように少佐の中に広がっていた。なによりいやなのは、それに奇妙な心地よさを感じたことだ。音楽のうねるようなリズムがふたたびこちらをとらえようとするかのように全身にまつわりついてきた。チワワの大きな目が、そこにこめられた意味が、意図が、少佐の全身を舐めまわしていた。男にあからさまに欲情されることには慣れていない。それは怖気をふるうようなものだった。異常なことだった。あくまでノーマルで、正常な性欲を持った男としては。伯爵に対しても、そうだった。正真正銘のゲイで男が大好きときていて、本来男の持ち物ではない妙に絡みつくような色気と、香りを持っている。それはたまらなく気持ちの悪いものだった。そういうものに反射的に嫌悪感を示すのは、それが、ひどくあやういものだからだ。あまりにもありえないものであり、なおかつ、ひどく危険なものだからだ。度を越した拒絶は、おそれだ。それに自分が侵食されてしまう、犯されてしまう、あるいは、汚されてしまうというおそれだ。それによって、自分の土台が揺らいでしまうかもしれないことへの、途方もない不安だ。だから、考えてはならなかった。拒絶に次ぐ拒絶でもって、否定し尽くさねばならぬものだった。意識することで、そこに捕らえられ、引きこまれてはならない。一瞬たりとも、気を許してはならない。そういうものなのだ。そうしなければ、揺さぶられてしまうから。ああ、しゃぶるように眺め回すのはやめてくれ、この絡みつくような音楽を止めろ。空気を入れ替えてくれ。
「奥へどうぞ、少佐どの」
 フードを脱いだ男が、ドアを開け、それにもたれて少佐を見ていた。少佐は礼を云って、ドアをくぐった。少佐の後ろで、ドアがばたんと閉まった。閉まる直前まで、チワワの好色な目は、少佐を眺め続けていた。

 

 フロアの爆音は、ドアに抑えられてほとんどリズムだけになった。少佐は赤みを帯びた光に照らされた、目の前の細長く短い廊下を、ためらいを感じながら見つめていた。左右の壁には、豪奢な額縁に入った絵がかかっている。聖書の一場面、あるいは神話の一場面。その昔、女の裸を堂々と描くには、神話に頼るしかなかった。少年愛や同性愛的なテーマに対しても、神話は格好の題材を提供してくれていた。ギリシアの好色で両刀使いの男神たち。それに愛された美しい少年たち。赤みがかったライトが、それらの絵を幻想的に、また鮮烈に、浮かび上がらせている。少佐は、思わず背後のドアを振り返った。それはぴったりと閉じており、開きそうもなく見えた。開いたにしろその先には、あのいやらしい目つきのチワワが待っていた。少佐は退路を絶たれてしまったように感じた。
 ざわついた気持ちのまま、足を踏み出した。任務だ。任務であるぞエーベルバッハ少佐。目的は伯爵ではない。それは偶然の産物だ。おまえの目的は、あの男だ。あいつを捕まえ、引きずり出す。それだけを考えろ。伯爵のことなど問題外だ。会えて嬉しいよ少佐、と云われても、愛しているよ少佐、と云われても、気にするな。意識するな。なぜなら、あいつの愛は、おまえの考えるような愛ではない。あいつの「愛している」は、あの一対一の、絶対的な愛を指すのではないのだ。あいつは、おまえだけに心を傾けているわけではないんだぞ、クラウス。それが証拠に、あいつはおれがあいつの領域へ踏みこむととたんに身を翻してしまう。あいつの世界の端を、ちょっとのぞいてみてもいいかという気になって、歩み寄ろうとすると、決まってかわされるか、ぴしゃりとやられる。いまだって、きっと抑えてはいるがどこか迷惑そうな調子で迎えられるだろう。なんでこんなところにまでやって来るんだ、と云わんばかりに、たぶん好意的な冷たさで。好きだ愛していると云いながら、その実こちらが振り返る、あるいは一定の距離以上に近づくのは迷惑なのだ。そういう愛だ。好意はあるが、本気ではない。女が、あなたのことは好きよ、というあれと同じだ。
 廊下の突き当たりにあるドアは、クラブの入り口のドアに似ていた。真っ赤に塗りたくられてはおらず、木目を残した状態だったが。少佐はクラブの入り口で見た、あのダンテのことばを思い出した。われをくぐりて 汝らは入る 永劫の苦患に、われをくぐりて 汝らは入る ほろびの民に……一切の望みは捨てよ 汝ら われをくぐる者。
 この先にあるものは、不毛だ。この先にあるものは、破滅だ。この先にあるものは、一切の終わりである。ここから先は、伯爵の、彼の世界だ。彼は確かに美しい。そして、彼には確かに底なしの幸福と、愛とがある。しかし、それを受け入れ……そういう意味で、受け入れ認めることは、あらゆるものからの終わりを、離脱を意味する。これまで自分がいると思ってきた場所、これまで自分が属すると思ってきた世界、社会、意識においても、あらゆるものから、少佐は離れ、そして二度とふたたび戻ることはできないだろう。正常さの中へ、誰はばかることのない、日向の、生ぬるい世界へは。それは死である。その死をくぐり煉獄の業火をくぐりぬけたとき、浄化があるのか? それを信じることは、まだできない。自分はまだ、おそれている。とてつもなく、おそれている。
 少佐は唇を噛み、ためらってから、思い切ってドアを開けた。
 四角い、あまり広くない部屋だった。ロココ調の装飾過多な調度品が部屋の中を満たしている。フロアの音楽が、廊下にいたときよりも大きな、しかし耳障りではない音で、流れていた。部屋の隅に設置されたスピーカーから、流れてきているらしかった。部屋の中央に設えられたソファの上に伯爵が脚を組んで座っていた。その両脇には先ほどバーカウンターにいた美青年と、また別の美しい青年が、伯爵にもたれるようにして座っている。その向かいのソファに、少佐が追いかけてきた男がいた。男は入ってきた少佐を見、驚愕に目を見開き、とっさに逃げ場を求めるように立ち上がった。伯爵の横の美青年ふたりは、ちょうどドアの前で番兵をしていた男たちみたいに、どこかあざけるような、面白がる顔つきで、男と少佐を交互に見ていた。
「やあ、少佐」
 伯爵がにっこり笑いかけてきた。彼は手にカクテルが入ったグラスを持っていた。
「会えて嬉しいよ。事情がよく飲みこめないけど、わたしのお客と君が知り合いだってことかな。といっても、彼はついさっきお客になったばっかりなんだけど」
「お客なんかじゃないんだってば」
 男に迫られていた美青年が唇を尖らせた。伯爵はそれをなだめるように、青年に微笑みかけ、それから、同じ笑みを少佐にも向けた。
「君、もしかして、このひとを遠路はるばる追いかけてきたの? 週末の夜なのにご苦労さま。詳しい事情は訊かないでおくよ。どうせ教えてくれないだろうし。わたしがいまなにを感じてるかわかる? 義務の板挟みってやつなんだよ、わかるかな。この素敵な男性をお客に招いた以上、おもてなしをするのが筋なんだけど、一方で、この子がこのひとのことをすっかり嫌っているみたいだし、おまけに君まで出てきちゃって! 痛し痒し。まあ、しょうがないね。君、汝の欲することをなしたまえ。この意味、わかる?」
 少佐はもちろんよくわかった。とっとと用事を済ませて出て行ってくれ、と云っているのだ。美青年たちの花咲くロココの庭に、エーベルバッハ少佐のような無粋でおっかない男は、不要だった。少佐は美しく微笑む伯爵から視線を剥がし、怯えたような顔で立ち尽くしている男に声をかけ、腕を掴まえ、その場で部下に電話を入れた。Gを連れてきていなくてよかった。もしいたら、伯爵の存在を嗅ぎつけて、盛大にわめいただろう。
 伯爵が立ち上がって、先に廊下を歩き、あのフロアへ通じるドアを、美しい指輪に飾られた手で押した。それはなんなく、あっけないほどするりと開いた。フロアの爆音とライトが、ふたたび少佐の身体にまつわりついてきた。番兵の男ふたりが、顔をのぞかせた。
「君の部下は来ているの? 誰がいる? Z君だったらちょっと挨拶してもいいけど……でも、今日はやめておこうね。お互いにとって、予想外の出来事だった。そういうことだよね」
 そういうことだ、と少佐は云った。BとEが、フロアのひと混みをかきわけてやってくるのが見えた。伯爵はそっとドアの陰に隠れた。少佐はそれを横目で見、部下に男を引き渡した。番兵ふたりが、感心したような顔つきでその一部始終を見ていた。廊下の奥では、美青年ふたりも同じような顔つきでこちらを見ていた。
「おっどろいたなあ、おっさん、ケーサツのヒトだったんだあ!」
 チワワが小声で云った。
「気をつけないとだめだよ、ロッド。警察は近ごろ、人員の見た目にも気を遣ってるみたいだからね。いい男だからって、ふらふらついていったら危ないよ」
 伯爵は笑いながら云い、少佐に片目をつぶってみせた。フードとチワワ、それに、廊下の後ろにいた美青年たちも、げらげら笑い出した。
「邪魔したな」
 少佐はあくまで無関心を装って、云った。伯爵は微笑した。少佐は彼の、引きこまれそうになる笑みから目をひっぺがし、フロアの中へ出て行った。一刻も早く、この空間から逃れるために。
「彼はね、ちょっとした知り合いなんだよ。もちろんそっちの関係なんかじゃないんだ。へえ、ほんと? 彼がそう云ったの? そう云わないと、君たちに入れてもらえないと思ったんだね、かわいそうに! なによりもわたしたちみたいなのが嫌いな男なのに! さあ、もう忘れよう。みんなおいで。奥で飲み直そうね、それとも、フロアに戻ろうか……」
 少佐はなぜか、腹の底が煮えたぎるような気持ちがしていた。伯爵の両側に陣取って、彼に擦り寄るような格好になっていた美しい青年たち、その媚態の気色の悪さ、番兵をしていたふたりの若者、特にチワワみたいな顔の男の、あのねっとりとした目つき、相変わらずの、性感帯への直撃を狙ってくるかのような音楽、フロアに満ち満ちた男ども、カップル社会の異端児ども、そのうごめき、呼吸、汗の湿り気、匂い、どうしようもなく漂う疎外感と暗さ。本質的に社会から閉めだされ、こんな地下の密閉された空間に集ってくる者たち。こんなところで、こんな音楽の中で、夜ごとに快楽に沈みゆく男たち。おれにはわからない、いや、わかる。おれにもわかる、いまなら。おれは転がり落ちた。ユダヤ教からキリスト教に改宗したコンベルソたちのように、あるいは共産主義から転向した者たちのように、転んだ。転んだのだ。
 それはうっかり転倒するというようなものではなかった。なにかの拍子に、魔が差したのでもなかった。主義を変えることは、自分が固く信じてきたものを改めることは、きわめて自覚的な、ぎりぎりの線上に成立していた。均衡は破られた。ドアは開かれ、閉じられた。
 少佐はあの真っ赤なドアをくぐり、外へ出た。満月の青白い光が、あたりを照らしていた。どこかほっとした。額に汗が浮いていた。少佐はそれを乱暴に拭った。なにかうしろめたい思いで、閉じたドアをふたたび振り返った。あの、ダンテのことばが目に入った。こんな騒々しい場所に似つかわしくない、洗練された筆跡。少佐はそれを、なにげなく指でなぞった。
 ……ああ。少佐はふいに、笑い出したくなった。これを書いたのは、あいつだったのか。この美しい、繊細な字、優雅で、すばらしい香りがして、でもどこかにぴんと張りつめたもののある、この字。こんな悩ましく印象的な字を書ける人間はそうそういない。一度見たら、たぶん忘れられないだろう。少佐はその字を、筆の運びにそってなぞった。なぞりながら、口に出して、そのことばを読み上げていた。
 
われをくぐりて 汝らは入る なげきの町に
 われをくぐりて 汝らは入る 永劫の苦患に
 われをくぐりて 汝らは入る ほろびの民に
正義 高きにいますわが創造主を動かす
 われを造りしは 聖なる力
 いと高き知恵 また第一の愛
永遠のほか われよりさきに
 造られしもの無し われは永遠と共に立つ
 一切の望みは捨てよ 汝ら われをくぐる者

 

地獄の門に掲げられた銘文 寿岳文章訳、ダンテ『神曲 地獄篇』より

 

あとがき

 

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