5 七月二十七日の話
朝食の席で、またぞろ彼らは本日いったいどのように過ごすかという議論を戦わした。伯爵さまの意見では、あの殺風景なコンラート・ヒンケルの穴ぐらへ、早急に文化的な香りを導入しなければならぬとのことだった。少佐は別段反対はしなかったが、一応執事へ意見を聞くために、デザートの給仕にやってきたところを捕まえた。
「そういうわけだ、おまえの意見はどうだ」
執事は伯爵さまの前へフルーツの載った皿を置き、食後の紅茶を煎れてから、さようでございますね、と云った。
「わたくしといたしましては、以前にも申し上げましたようにあの部屋に満足しておりますが……」
「あんなもので満足するなんて、きみの文化的教養を疑うよ」
伯爵さまはあくまで文明的文化的最低限度の生活へこだわる姿勢を見せた。
「きみは今日はわたしたちといっしょに街へ繰り出して、買い物をしなければならないんだ」
執事はかすかに困ったような顔で少佐の前へコーヒーカップを置いた。
「お望みとあらば、いたしかたがございません」
執事は云った。
「街とやらへお供いたします」
それで、伯爵さまは食事がすんで部屋へ引き上げるとすぐに、執事を例の暗黒物質によって呼びつけた。
「さあ、きみはその重苦しいお仕着せを脱いで、わたしたち一味に加わるために着替えるんだよ」
伯爵さまは嬉々として、クローゼットへ隠しこんでいたヒンケル用の服を出してきた。
「どれにしようかな。このシャツはちょっと地味だな……今日も暑くなりそうだから、丈の長いズボンはやめよう」
執事は檻の中へ捕まった動物のようなあわれな目でおのが主人を見やった。主人はしかし、あきらめろというように首を振るばかりだった。執事はため息をついた。彼は見ていて気の毒になるくらい気落ちしていた。
「よし、決まり! さあ、コンラート、奥の化粧室へ行って、これに着替えておいで! それから忘れずにわたしの着替えを手伝うんだよ、いいね」
執事は消沈した声でかしこまりました、と云って、ドアの奥へ消えた。見ているほうでかわいそうになってくるようだった。あわれなコンラート・ヒンケルは五分あまりもしてから出てきた。彼は夏の紳士になっていた。七分丈の紺ズボンに、腕の折り返しが柄になった白シャツを着て、パナマ帽をかぶっていた。足下はしっかりとしたサンダルだった。
「テーマは堅苦しくないコンラート・ヒンケルさ」
伯爵は笑いながら云った。執事は着慣れたお仕着せを剥奪されてしまったので、おのれが無力化してしまったという気がしていた。そしてどうしたらいいかわからないで、戸惑いながらつっ立っていた。伯爵さまは微笑んで、執事へ近づいていって背中へ手を回し、くるくるとダンスを踊りだした。
「きみはとってもすてきな紳士になったよ。自信を持つんだよ! なんだかきみに恋することもできそうだねえ。どこかのレストランかカフェでわたしを待っていて、声をかけてほしいな……失礼ですが、お隣はあいておりますか、って云ってね。そうして、わたしがきみを見て、微笑んでうなずくと、きみはわたしの隣へ移動してきて、わたしに飲み物をおごってくれて、楽しい会話をしてくれるんだ。わたしがなにか食べたいと云うと、きみはさっと手をあげて店員を呼ぶのさ……」
伯爵さまはうっとりと云った。こいつはもしや目新しい、スマートな年上のおやじに飢えているのだろうかと少佐は考えた。なんだかありそうなことだった。そして執事を仮想の年上の恋人にして連れ歩くというのもいかにも彼のやりそうなことだった。少佐はなんだか空恐ろしい気がして、気づかれないよう小さくぶるぶると頭をふった。それから自分も着替えに行った。
三人男はドゥブロヴニク旧市街へ繰り出した。
街をびっしりと城壁に囲まれたこの城塞都市は、白い大理石でできた城壁とオレンジの屋根と、青い海と空の対比の見事さが、やはりなにかひどくギリシア的なものを思わせる。「アドリア海の真珠」なる優美な名称は、冴え冴えとした海に浮かぶこの白い大理石の街並みによるのだが、はっきりとした日差しと明晰な色の対比は、古代ギリシア人たちが日々暮らしていた環境とそう遠くないにちがいない。古くギリシアの植民活動からはじまり、ローマ帝国を経て、ダルマツィア地方は以後ビザンツ帝国、ハンガリー、ベネツィア、ハプスブルク帝国、オスマン帝国に順繰りに支配されそれぞれの文化を吸収してゆくことになるが、このドゥブロヴニクという都市だけは、海上貿易の豊富な利益を盾に、無法者のナポレオンによって陥落させられるまで終始一貫して独立自治を守り続けた。
城壁に囲まれたドゥブロヴニク旧市街は、目抜き通りであるプラツァ通りを中心に、細い路地が張り巡らされている。街の背後にそびえるスルジ山に向かって、ランタンのいくつもぶら下がった裏路地は一部なだらかな傾斜を描き、なにか不思議な場所へ迷いこむような心地がする。街の中は教会と土産物屋、飲食店などが櫛比し、シーズンには観光客でごったがえしている。
三人男たちはボロボロンテの手下が操るボートによってドゥブロヴニクへのりつけると、さっそくに旧市街を歩き回った。伯爵さまはクロアチア刺繍の壁かけやクッションカバー、ベッドリネン、カーテン、履き心地のよいスリッパ、民芸品のルームランプや燭台のような雑貨品、絨毯、花瓶、花などをわき目もふらず次々に買いこんだ。そして次から次にそれを自分に従うふたりの男におっつけてよこした。少佐と執事はふたりして伯爵さまの下男かなにかのようだった。コンラート・ヒンケルがせっかくおしゃれな外出着に身を包んでいるというのに、これではお仕着せを着ているのとかわりなかった。実際、ヒンケルはパナマ帽がじゃまだったし、慣れた靴でないので足もとがなにかおぼつかなかった。彼は黙々と荷物を担いで伯爵さまのあとへ従いながら、もう二度とお仕着せ以外の服を着まいと岩のように固く決心していた。どうせなにを着ても自分は使用人なのだから!
執事がこのようにひそかに腹を立てているあいだに、伯爵さまは天地創造の神のようにおのれのなしたことの結果にとっくりと満足され、七日目の休息を所望なさった。少佐も執事も両手に大きな袋をいくつもぶら下げていて、暑いので汗をかいていた。そしてふたりともむっつりと黙りこんでものも云わなかった。
「いや、休憩の前に一度港へ引き返そう。それからゆっくりと休憩をしようよ」
伯爵さまは無慈悲に云いはなち、ふたりの従僕をげっそりさせながら、ドゥブロヴニク湾へ引き返していった。従僕どもは顔を見合わせ、お互いの荷物を見やって、あきらかに相手のほうが軽そうだという感情を互いに持った。そうして互いに不満を抱きあった。彼らは普段の主従関係を浅ましくも忘れはてたかのようだった。実際彼らはいま、対等なのだ。お仕着せを着ないコンラート・ヒンケルと、普段着のエーベルバッハ少佐。
港へ戻ると、伯爵さまは相変わらず暑苦しい黒スーツ姿のボロボロンテの手下を呼びつけて、これらの荷物をボートへ積み、ホテルへ持って帰っておくようにと申しつけた。ボロボロンテの手下は「へい、かしこまりました」と涼しい顔で云ったが、内心では荷物の量を見てすでにやる気をなくしていた。彼はいやなことはとっととすませるたちだったので、素早く荷物を運び入れにかかった。
伯爵さまは満足され、うなずいて、彼に背を向けると、少佐の腕をとって歩き出した。少佐はようやく荷物持ちから昇格したわけだ……二、三歩行ってから、伯爵さまはふと思いついたように立ち止まって、後ろをついてくるコンラート・ヒンケルの腕にも手をかけて、三人一列になってにこにこと歩き出した。すると、コンラート・ヒンケルもまた、荷物持ちから昇格したのに違いない! ヒンケルははじめての経験にどぎまぎしながら歩いていった。
荷物を運んでいたボロボロンテの手下は、引きずられていく執事のヒンケルをあわれそうに見やった……かわいそうに! あんないつもと違う格好では、自分で自分をどうしたらいいかわからなくなるに決まっている! 少なくとも、この手下は仕事着である黒スーツ姿をたもっていられるだけ、はるかにましであった。
伯爵さまは男ふたりをずるずると引きずって、繁盛している海っぱたのカフェへ入った。海側へ張り出したテラス席から、エメラルドグリーンのアドリア海を眺め渡せた。三人男はそこへ落ち着いた。ヒンケルは主人たちと同席して、すっかり恐縮していた。伯爵さまはこれを見て、笑いながら少佐を見やった。そうして少佐へなにかささやいた。少佐は肩をすくめてこれを受け止めると、ヒンケルへ向かってメニューを差し出してきた。
「おまえから決めるんだ」
少佐は云った。ヒンケルはぎょっとして、めっそうもございません、と云い、メニューをつき返したが、つき返された。
「ただいまから、年功序列が主従関係より優先されることとする」
少佐はにやにや笑いながら云った。伯爵は少佐の肩によっかかって、くすくす笑いをしていた。
「平服のおまえじゃあ、執事扱いをするわけにもいかんだろうからな。第一、そんなことはやりにくい」
「きみはいまから、わたしたちの年上の友人コンラート・ヒンケルになるのさ」
伯爵さまはうっとりとほほえんで年長の友人ヒンケルを見やった。
「年長の友人なんだから、きみはそれらしくしていなくちゃあいけないよ。年長者の威厳と寛大さを見せなくちゃねえ。だからまずは、きみから先になにを頼むか決めたまえよ」
「はあ……」
ヒンケルは困惑の体で、ふたりをかわるがわる見やった。
「ぜひともそうしなければなりませんでしょうか?」
「ぜひともそうしなくちゃいけない」
伯爵さまはうなずいて云った。ヒンケルはしょうことなしにメニューを見やった。
「よろしければわたくし、コーヒーを一杯いただきとうございます」
「きみはおなかがすかないの?」
伯爵さまがからかうような声で云った。
「はあ、まあ小腹がすいているといえばすいているような……」
「じれったいねえ」
伯爵さまはヒンケルの手からメニューをひったくった。そうしてしばらく見やってから、メニューから顔を上げ、まじまじとヒンケルを見つめた。
「いま、わたしはとても大変なことに気がついたんだ」
伯爵さまはそれから少佐を見やった。
「コンラートはわたしの食べ物の好みについて一切合切を知ってるけど、わたしはコンラートの食べ物の好みについて、いっさい知らないんだ。これはいったいどうしたわけなの? きみならコンラートの好みについて知ってるだろうね?」
伯爵さまは呆然として少佐へメニューを渡した。少佐は難しい顔をした。そうしてじっと考えこんだ。
「……知らんな、おれも」
ヒンケルが勝ち誇ったような顔になった。
「そら、ごらんなさい」
彼はうれしそうな顔で、メニューを取り返した。それからウェイターを呼びつけ、
「こちらの方に、砂糖なしのアイスティーと、オレンジとチョコレートとくるみのクレープを、こちらの方にはサーディンのサンドイッチとコーヒーを、わたくしはスモークハムのサンドイッチとコーヒーをお願いします。それから、あとでガス入りの水を」
ウェイターはにこやかにほほえんで、かしこまりました、と云って下がっていった。少佐と伯爵は顔を見合わせた。
「わたくしをからかいますと、こうでございますよ」
ヒンケルが得意満面で云った。
「わたくしを手玉に取ろうなど、むだでございます。第一経験というものがまるで違いますのでございますから」
「恐れ入りましてございます」
少佐と伯爵が降伏して、頭を下げた。
三人男は楽しく食べかつ飲んだあと、伯爵さまの案内で、最後の買いものとやらにつきあうことになった。伯爵さまは旧市街を自分の庭かなにかのようにするすると歩いていって、ランタンの並ぶ路地裏にある小さなアパートの前にたどりつくと、外階段を登っていった。ふたりの男はそれについていった。階段のつきあたりにごく短く細い廊下があって、左右にドアがひとつずつ並んでいた。どちらにも看板や表札のようなものはかかっていなかった。
伯爵さまは左のドアをためらいもなくノックした。しばらくして、ごく細くドアが開けられた。誰かが客の様子を探っているらしかった。それからドアが三人の前に大きく開かれた。ドアの前に、派手な赤いチョッキを着た、黒っぽい髪を持つ小太りの中年男が立っていた。
「お久しぶりです、伯爵。わざわざご連絡をいただいて、ありがとうございました。待ちかねていましたよ」
伯爵は慣れた調子で男と挨拶を交わし、うしろのふたりをうながして中へ入っていった。
部屋の中は外観とはうってかわって、重厚な調度品で満たされていた。金のはりめぐらされた天井から黄金のシャンデリアがぶら下がっており、深紅の果てしなく毛足の長い絨毯に覆われた床の上に、豪奢な刺繍のほどこされた布張りのソファと猫足のテーブルが置かれ、部屋の奥にどっしりした執務用の机と椅子、書類棚が置かれていた。その先に、さらに奥へ続くドアがあった。
伯爵は中年男に示されてソファへ腰を下ろした。少佐と執事も従った。中年男はいったん奥のドアの向こうへ消えてから、お茶のセットを乗せたお盆を手に戻ってきた。そうして三人へお茶を給仕した。
「彼は画商なんだ。看板を出して商売なんかはしてないけどね」
男は少佐と執事のふたりへ名刺を差し出してよこした。上質な象牙色のカードに赤銅色で「ペルコヴィチ&ルジチカ商会 トミスラフ・ルジチカ」と書いてあった。
「ルジチカと申します。伯爵には長年ごひいきにしていただいております」
男は丁寧に新参者のふたりへ挨拶してよこした。
「本日は、なにか寝室へかけておくような絵を、というご希望でございましたね?」
「そうなんだ」
伯爵はおいしそうにお茶を飲み、いかにも慣れたように話を進めた。
「一日の仕事に疲れきった男を想像してほしいんだ。あわただしい、神経をすり減らすような仕事に熱心に取り組んで、身も心もつかれはててようやく寝室へたどり着いたひとりの男をだよ。そういう男の寝室へかけておくにふさわしい一枚を探しているんだ。主張のない、ゆったりした絵で、それでもその一枚があることでなにか部屋全体が落ちついてあたたかい感じになるような絵をねえ。部屋の大きさは、そうだな、この部屋の入り口から、ここまでくらいだったかな?」
伯爵は手で部屋の大きさを示すと、執事へぱちんと目配せしてよこした。
トミスラフ・ルジチカ氏は考えこんだ。
「下級労働者ではございますまいね? あなたさまのご注文でございますから」
「違うよ。その男が従事するのは、工場の作業みたいな仕事じゃあなくて、もっと知的なものさ」
ルジチカ氏はなおも考え、それからふいに立ち上がって、玄関ドアをあけて出て行った。そして五分ほどで戻ってきた。
「こちらなどいかがでございましょう? クロアチアへいらしたのですから、せっかくならナイーブアートなどお買い求めになってみては?」
彼は一枚の絵を抱えていた。薄くつもった雪の中を、四人の少年たちが駆け回っている絵だった。田舎の村らしく、少年たちは森を抜けて、村の入り口へ出てきたところらしかった。ぽつぽつと立ち並ぶ屋根の先に、教会の尖塔が見える。少年たちの足もとに雑種の犬が一匹くっついていて、身体をくねらせ、楽しげに走っていた。少年たちは思い思いの格好をしていた。いろんな色の毛糸の帽子をかぶり、手袋をしたり襟巻きを巻いたり、お下がりなのかぶかぶかのコートを着ていたり、古びた頑丈そうな革靴を履いていたり長靴だったりした。一番年長らしい少年が三人をせかすように振り向いている。あとの三人はお互いの顔を見ながら楽しげに走っている。
「伯爵はご存じと思いますが、ナイーブアートといいますのは、農民が冬のあいだに作る民芸品の一種とでも申しましょうか。農村の祭りや収穫や、彼らの日々接している風景を描きます。クロアチアも内陸部の山沿いは冬の寒さが厳しいものですから、このような雪の光景も見られます。身近な材料で作られはじめたものですから、このようにキャンバスのかわりにガラスを使って、その上へ油絵の具で描いてゆくのがほとんどです。画家としての教育を受けた者が描いているわけではありませんので、描写には少なからずあやふやな点が多いのですが、眺めていますと、誰しも胸に秘めている憧憬というようなものへ、素直に染みこんでゆくような感じを持っていると思います」
ルジチカ氏はもう一度絵をまじまじと眺め、微笑して続けた。
「最近ではアーティスト意識のようなものを持って、やたらに凝ったものを描いているのもおりますが、わたし個人としてはそれはもう違うと思いますね。この絵を描いたのは共同経営者の親戚筋の男ですが、もともと絵に関心のあった人間で、独学ですが確かな腕がありますし、なにより、よい目とよい心根とを持っているのがわかります」
にぶい日差しの中で、少年たちは駆けっこに夢中になっているようだった。それぞれの顔が判別できるほどには細かくなく、けれどもそのおおまかな個性くらいはわかるような筆はこびで描かれた、四人の少年たち……年齢はたぶん十二、三かそこらだろう……は笑い声をあげ、ときどき足をもつれさせながら、吠えながらついてくる犬とともに走っているのだ。彼らの走る雪のつもった景色は執事に、故郷アイフェル地方の田舎村を思い起こさせた。少年コンラートも、きょうだいや仲良しの少年たちとともに、こうやって雨の日も雪の日も走り回り、転がり回ったものだった。近くの森が彼らの遊び場で、そこでたっぷりと遊んでは、教会の鐘の鳴るのを合図にこうやって大急ぎで村へ帰ったのだ。彼らの仲間の中にも、いつも決まって犬が加わっていた。誰かの飼っているのだったり、親に内緒でこっそりえさをやっている野良犬だったりした。
「最近の子どもたちがこんなふうに外を駆け回って遊ぶものかどうか知りませんが、わたしの子ども時代はそうでしたね。思い出しますよ」
ルジチカ氏がなつかしむような顔をした。
「そうなの? コンラート」
伯爵さまが訊ねた。執事ははい、とうなずいた。故郷の小さな村で毎日繰り広げた数々の遊びのことが、次々に思い出された。彼らはさんざん遊び回り、自然を相手に傍若無人なふるまいに及んだあとには、いつもまるで自分たちが天下を取ったような気持ちで帰路についたのだった……
「これをもらうよ」
伯爵さまはしばらく執事を優しく見守っていたが、ルジチカ氏へ向き直ってそう云った。執事の主人たるエーベルバッハ少佐は、これを見ながら執事の故郷へ執事を追跡していったときのことを思い出していた。あの自分と同じ名前を持つ、なかなか見どころのある少年についても。
その日のうちに、コンラート・ヒンケルの穴ぐらは、少佐と伯爵の手によって、絨毯とベッドリネン一式とクッションと花瓶と花、ルームランプ、カーテン、それに例の絵などで飾られた。彼の部屋は一挙に、簡潔ながらあたたかく人間らしい文化的な香りを放つようになって、もう穴ぐらなどとは呼べないものになった。執事のヒンケルは感動でものも云えなかった。彼はこんなにしてもらういわれはないと思った。彼は感動のあまりなにもできないで、ただ呆然とつっ立っておのれの部屋を眺め回しているばかりだった。ひとり感激している執事へ、今日はもう休むように云い置いて、少佐と伯爵は部屋を出た。彼らはこれからまた街へ引き返して、レストランで食事をするのだ。
ひとりになったヒンケルは、テーブルへ歩み寄り、テーブルの上に置かれた花瓶と、そこへ生けられた名も知らぬ白と赤紫の花を見つめた。赤紫の花は、ろうそくのやわらかい明かりに照らされて絹糸のようなめしべをのばし、自分の存在を主張していた。花は温かく、あたりの空気を包みこむように花瓶の中で咲いていた。自分以外の生きものが、自分の部屋でこうして生きている。ヒンケルは不思議だった。彼は花の香りをかいだ。かすかに甘い、からかうような香りが鼻先へ残った。ヒンケルは微笑した。彼は胸がいっぱいになり、自分の穴ぐらをまじまじと眺めた。彼は満足だった。彼は世界一幸福な使用人だった。いつものように聖書を読んでから、これまでの数かぎりない気苦労と幸せとを思い返しつつ、ヒンケルは眠りについた。
「……いいですか、ヒンケル、おまえはまだ経験が浅く、わからないことも多いというのはわかっています。わたくしは完璧にしろなどと云っているのではありませんよ。最善を尽くせと云っているのです」
執事見習いの少年コンラート・ヒンケルは、この日手ひどい失敗をやらかした。彼は執事からことづかった用件……午後三時に来客あり……をご主人さまへ伝え忘れ、彼の主人にとんだ恥をかかせてしまった。そうして主人と執事から大目玉をくらったあと、案の定シャルロッテ大奥さまからもお小言を頂戴するはめになっていた。ヒンケルはお屋敷へつとめだしてまだ日が浅かった。右も左もわからぬという時期はなんとか過ぎたが、このあまりにも部屋の多い、あまりにも旧式な、あまりにも一般の家と勝手の違う屋敷の中では、ヒンケルは迷ってしまったような気がすることがよくあった。彼はときどき……否、非常に頻繁に、おそろしく心細い気持ちがした。そうしてそう思う自分を恥じ、なんとか気を奮い立たせて、早く一人前になろうと仕事に励むのであったが、道は果てしなく遠そうだった。ヒンケルはほぼ毎日なにか小言を食らうようなことをやらかした。彼は、なにひとつろくにこなせない、判断力のない青二才だった。
「申し訳ございません、大奥さま。わたくしがもっと、注意深くあれば……」
ヒンケルは自分の失敗と叱責とで、もう疲れ切っていた。彼は確かに猛省していたが、恥と屈辱とで半ばふてくされていたのも事実だった。つい先日まで、誰もが知り合いの小さな村で、親しいひとたちにかこまれて生きてきたヒンケル少年は、自分で望んだこととはいえ、突然職場という大人の世界へ放りこまれて、親からも云われたことのないようなことをやいやい云われ、腹立たしいやら、やるせないやらで、もう爆発寸前なのだった。彼はいけないと思いながら、ついついむくれたようになる自分の顔を自分でどうにもできなかった。口のききかたも、いけないと思いながらもぶっきらぼうな、とげとげしいものになってしまっていた。
大奥さまは、ヒンケルのことばを受けて彼をぎろりとにらみつけた。大奥さまのにらみはおそろしかった。心の奥底まで射抜かれるような、きつくきびしい視線が、逃げ場のないところへ自分を追いこむような心地がするのだった。ヒンケルはしかし、今日はそれにも疲れと、いらだちを感じた。たしかに自分が悪かったのだ、だけど、こんな新人の自分を、こんなふうにいつまでも責め続けないだって……彼はふてくされてうつむいた。
「ヒンケル、おまえのその反省のしかたは、悪いけれどとんと見当違いね」
ヒンケルは思いがけないことを云われて、はっと伏せていた顔を上げ、大奥さまを見つめた。大奥さまはソファへ腰を下ろしていた。彼女は痩せぎすで、背が高かった。それが、なにかそびえたつような不思議な威圧感をもって存在していた。はっきり云って、大奥さまはあまりにきびしく、あまりに威圧的で、ヒンケルは苦手だった。だが大奥さまがため息をついて、かすかな苦笑を浮かべたとき、ヒンケルはおや、と思った。彼ははじめて、おそろしいものでないなにかを、大奥さまの鋭い青緑の目の中に見出したのである。
「おまえの上司や主人が、おまえになんと云ったか、それは知りません」
大奥さまの声は、なにかこれまでにない柔らかみを帯びていた。
「たぶんおまえは、もっと注意深く確実に仕事をこなすよう努力しろと云われたのでしょう? それはね、いつまでもそんな子どもっぽいみじめな顔でふてくされていないで、そのためにどんな手を打てるか、頭を使い工夫なさいという意味ですよ。おまえはいまきっと、悔しいでしょう。情けないでしょう。腹も立っているでしょう。自分の評価を落としていると、おそれてもいるでしょう。不慣れな中で、毎日張りつめて右往左往しているはずです。だけどね、ヒンケル、そんなことは、わたくしたちは皆承知の上なのよ。一人前になるには、どうしたってそういう目に遭わないではすまないものなの。そういう状況から、頭を使い、這い上がってくることのできる人間だけが、一人前になれるのですよ」
大奥さまは微笑を深め、ソファにぐっともたれた。
「だけど履き違えてはいけませんよ。たいていの人間は、なにか失敗すると今度こそ完璧になどと考えるけど、それは不遜な、間違った考えです。完璧な人間などいません。わたくしたちはそんなことを使用人に求めはしません。不完全なことを自覚して、いかにやっていくかということを考えるように求めているだけ。自分をよく研究して、どうしたらよりよくできるだろうかと、いろいろ実験してみるのです。結果はすぐには出ません。でもわたくしたちは、一度おまえを雇ったからには、おまえが泥棒ででもないかぎり、おいそれと見限って追い出すようなことはしません。だから、やれるだけのことをやってごらんなさい。難しいことがあれば、執事に相談して、助言を仰ぎなさい。助けを求めることは決して恥でも敗北でもありません。むしろそうすることで、執事はおまえが理解できるようになるし、おまえをどう扱えばいいか学ぶでしょう。周りに働きかけて自分のやりやすいように環境を整備していくのも大切なこつのひとつなのよ。いずれおまえもそういうことがわかってきて、こんな失敗を二度としないようになるはずです。さあ、もう今日は仕事をやめて、街へ行って、このお金で気の晴れることをなさい。そして今日の失敗のことをよく考えて、それからお忘れなさい! いいわね?」
大奥さまはヒンケルの手に、紙幣を何枚か握らせた。ヒンケルはもう、どうしたらいいかまるでわからなくなった。彼は思いがけないことばと、思いがけない優しさと、思いがけない小遣いと、思いがけない休みをいっぺんに与えられて、困惑した。彼にはこんな気遣いははじめてだった。こんな思いやりははじめてだった。こんな優しさといたわりは、彼には経験がなかった。それはなにか規律のある、厳格な、しかし深いいたわりだった。ヒンケルはこのような大きな期待と信頼を受けたことはなかった。このように自分を受け止められたことがなかった。彼ははじめて、ひとりの人間として扱われるのがどういうことかを、それをどう受け止めるべきなのかを知った。彼はトビトのように、目から黒い膜がはがれ落ちたように感じた。見えていなかったものが、急に鮮明に見えはじめた気がした。なんだ、そういうことだったのか! 彼は身体中のこわばりがとれたように感じた。こっぴどく扱われてたわけじゃないんだな。なあんだ! 彼は気持ちが晴れ、自分が途方もない愛情に包まれているように感じた。
ヒンケルはまごころをこめて大奥さまを見やった。彼女の柔らかさと優しさは、もう消えていた。彼女はいつものきびしい顔に戻っていて、わかっているというふうに、あるいは行きなさいというようにうなずいた。ヒンケルはぺこんと頭を下げて、急いで部屋を出ていった。自分の部屋へ駆けこみ、それから大奥さまの云いつけに従って、街へ出た。
その翌日から、ふてくされたり泣きそうな顔でうじうじやっているヒンケルは、もうどこにも見あたらなくなった。彼は自分が一歩一人前の男に近づいたと感じた。彼は相変わらず毎日なにかしら小言を云われ、ひどい失敗もした。でももう、そんなことはなんでもなかった。彼は信頼されている使用人であり、成長を待望されている執事見習いだった。彼はなにをなすべきかを知る人間に生まれ変わったのだ。…………
……執事のヒンケルは目を覚ました。まだ午前三時すぎだった。彼のまぶたの裏に、大奥さまの顔がちらついていた。執事は目を閉じて、その顔をしばらく思い浮かべた。苦しい修業時代だった! しかしあれがあるからこそ、いまのこの天下無敵の鬼執事ヒンケルがあるのだ。
彼はベッドへ転がったまま、窓からぼんやり差しこむ月明かりの中で、おのが穴ぐらを見つめた。波の音がかすかに、絶え間なくしていた。彼は幸福だった。ボンにいようといまいと、いかなる事態が出来しようと、思いやりある主人に恵まれたエーベルバッハ家使用人コンラート・ヒンケルであるかぎり、幸福であった。