彼の城
その城はいつも大きく、威圧的に見えた。市街地を抜け、並木道を走り、開けた牧草地と畑に出ると、左手にふいにそれが見えてくる。天に向かってそそり立つ尖塔と、どっしりした城壁がものものしい。城の周囲を回りこむようにめぐらされている道をなおしばらく走ると、正門へ。それを抜けてさらに少し走って、ようやく建物に到着だ。門番をしている使用人がさっとやって来て、重たい門を開く。開くのは左側だけだ。片側だけ開けば車の一台くらいは楽に通れるし、それにひとりでこの門を両側とも開くのは、とても無理だから。門番はさらに、車と中に押しこまれている人間を確認し、不審な点がなければ、小さく微笑して見送る。
玄関の前に車を停めると同時に扉が開いて、使用人が階段を降りてくる。彼は車のドアの開閉を手伝い、運転手をしていたBから鍵を受け取る。あとでこの城の運転手が、車を適当な場所へ動かせるように。
玄関をくぐって広いエントランスホールに入ると、今度は例の執事が待ち構えていて、親しげに話しかけてくる。
「わざわざご足労いただきまして。主人が書斎でお待ちでございます」
そうしているうちに、玄関の扉を閉めた使用人が、ふたりぶんのコートを受け取って、コートかけにうやうやしくかける。
「こちらこそ、少佐がお休みの日に訪ねてしまって申し訳ありません。用が済んだらすぐ帰りますよ」
Aは苦笑を浮かべながら、しかし、自分のコートはできれば自分で持っていたいのだが、と思う。ポケットに家の鍵やなにかが入っているし、自分のものを他人の家で、自分の手の届かぬところに置いておくのは、なにか落ちつかない心地がした。この城は広すぎて、ちょっと歩けばすぐそこに、というわけにはいかなかった。それがどうも不安に思われる。Bは、そういうことをあまり気にしないたちらしいけれど。
執事を先頭に、広いエントランスを横切り、書斎に案内される。ひとつの家が、そのうちに持っている空間、生活の密度のようなもの、ひとつの家族の体温や匂い、それがこの城ではひどく広くて、茫漠としている。Aは自分の家を思い浮かべる。自分の趣味のもの、妻の趣味のもの、犬のもの、結婚生活のうちに、いつの間にかたまってゆくものが、きっちりと整理されているとはいえ、そこかしこから顔をのぞかせ存在を主張する、その感じが、我が家の雰囲気を、愛着の感じを与える、あの家。この城は確かに、どこもかしこも清潔であり、到底真似できないほどに美しく飾られている。しかし、感じられるのは、ただ広い空間と、使用人たちのかすかな気配だけであった。
執事が書斎のドアを遠慮がちに叩いた。
「ご主人さま、失礼いたします。部下の方々がお見えになりました」
彼はドアを開き、ふたりを先に部屋の中へ通した。広い書斎は、暖炉が赤々と燃えていて、暖かかった。壁に並んだ、天井まで届く本棚の列、掲げられた絵画、椅子と机とソファ、ランプ、胸像に花瓶、そうしたものが、計算されたあるべき場所に配置されている。少佐は机の上の書類に向けてた目をドアに注いで、眉をつり上げた。「ん」と短く返事をし、AとBにソファにかけるよう目で示した。
「コーヒーをお持ちいたしてもよろしいでしょうか」
執事が云った。少佐はBを見て微笑した。
「それから、こいつになにか食わしてやれ。腹に食い物がつまっとらんと、頭の働かんやつだ」
Bの目が輝いた。
「よくご存じで。サンドイッチかなんか、あったらありがたいなあ。実はもう一時間も前から、なにか口に入れたくてしょうがなかったんですよ」
「おい、B」
Aは一応たしなめたが、これがいつものBのやりかただった。彼がしょっちゅう腹を空かしているのはほんとうだが、同時に、その場の雰囲気のために、自分の底なしの胃袋を大いに活用してもいた。
「だそうだ。こいつに台所の残飯を全部くれてやれ」
Bは笑い、執事も微笑して頭を下げ、ドアを閉めた。
「少佐のお宅の残飯っていうと、いい食い物が出ますね、きっと。たまんないなあ」
Bが揉み手をしながら云った。
「おまえ、だんだん伯爵んとこのドケチ虫化してきたんじゃないか?」
Aは顔をしかめて云った。Bはぎょっとしたような顔をした。少佐はほんの一瞬微笑してから、椅子に深くもたれて座り直した。Aは慌てて立ち上がり、彼に一枚の紙を差し出した。
「さきほど、Yから届いた通信の内容です」
少佐は「ん」と云いながら受け取り、目を通した。部屋の中を、しばし暖炉の火が爆ぜる音が支配した。静かだった。なんの物音もせず、誰の声も聞こえない。この城の使用人たちは、かすかな気配以外の存在感をまったく示さぬように訓練されているらしかった。めったなことでは、靴音ひとつすらたてることがないようだ。静かに、影のように歩き、いるべきところに必ず居合わせる。主人や客のためにドアを開いたり、ものを運んだり、云いつけられた用事を済ませるために。彼らはほんとうに、どこからともなくやってくる。皆基本的には無表情で、淡々と仕事をこなす。人間だが、人間らしくない。彼らは使用人であって、黙々と定めに従って働くこと、見聞きしたものについて思考せず黙していることが、任務のようである。Aはそのことにいつも、息がつまるような心地がする。彼はひとを平気で使うことができない。不干渉や過度の、徹底された役割分担は苦手だ。情報部でも中堅になってきたころ……それは少佐が少佐になったころのことであったが……Aはそれで徹底的に少佐にしごかれた。部下Aは、より徹底した判断を下すために、より徹底した人間にならねばならなかった。しかしAにはそれが難しかった。Aは、己のうちから人間としての雑味を抜き去ることに意義を見出せなかった。それを消すより、抱えて苦悩する道を選ぶほうが数億倍もましだった。そしてAは、少佐に宣戦布告をし、長期にわたる冷戦状態を闘いぬいた。根負けしたのは少佐のほうだった。「おれの負けだ」と少佐は云った。
「おまえはおまえの好きにしろ。くそったれめ」
そのときの少佐のにやついた顔を、Aはまだはっきりと覚えている。その瞬間に、彼は理解したのだった。これが少佐の意図であったのだと。少佐が求めていたのは、ひとつの調和だったのだ。自分の資質と、求められているものの調和。その妥協点を探し出すこと。だから、少佐は徹底してこちらを潰しにかかったのだった。Aは合格したことを知った。そしてそれ以来、彼は二度と少佐のやり方を疑わなかった。不満を抱くこともなかった。
「しかし正直、おまえがあんなに強情なやつだとは思わんかった」とのちに少佐は云った。
「軟弱な人間ほど、芯だけがいやに硬かったりするんですよ。お気をつけくださいね、少佐」
あのとき、少佐は呆けたような顔をしていた。彼にそう云った自分が、ある種の媚態にも似た微笑を浮かべていることを、Aは知っていた。彼は大昔に戻った気がしていた。臆病で、疎外感を感じていた昔のころに。おもねりは、弱いものの武器だ。媚態も同じである。それは弱者の手段だ。女も弱いから。薄暗いバーの奥で、Aは久々に自分の気分が華やいでいることを感じていた。もの悲しい熱っぽさであった。そのかすかに流れている、しかし否定のしようがない虚しさで、楽しんでいたのだ。ぎりぎりの線を。その一線の境目がどこにあるのかを、Aはよく知っていた。知りたくなかったが、もう随分前に知ってしまっていた。そしてそれが、この関係においてだけは、絶対に安全な、手の届かぬ高みにあることも、知っていた。
ドアがノックされた。使用人がコーヒーと軽食の乗ったカートを設置した。Bは礼を云って、さっそくサンドイッチにかぶりつきはじめた。使用人はポットからコーヒーをついで、三人に給仕し、一礼して、いなくなった。
「こいつもまだまだだな。この程度のことも予測できんかったとは」
少佐は用紙を机の上に投げ出し、微笑した。怒っているふうではなかった。Yの通信には、ある人物を追跡中想定外のことが起きたこと、その内容、そして、少佐の指示を乞う、という一文でしめくくられていた。
「指示を出しますか? 少佐」
Aは訊ねた。Bはにやついて、少佐を見守っている。少佐はしばらく考えこむような顔をしていたが、やがて身を起こし、
「Yへの指示はこうだ」
と口を開いた。Bが「おお?」という声を上げた。面白がっているふうだった。
「エーベルバッハ少佐より部下Yへ。きさまでなんとかしろ、ばか者」
Bは口笛を吹き、拍手し、サンドイッチを二、三切れ口へ放りこんだ。
「取り逃したらアラスカ行きだ、とつけ加えてやってもいい。少し脅かしてやれ」
少佐は腕を組み、微笑んでいた。彼もまた楽しんでいた。彼は部下をしごくのが好きだった。谷底へつき落とすようなやり方を、彼は好んだ。そしてそこから這い上がってくることのできる人間を、絶対に見捨てなかった。マルキ・ド・サド少佐、と一部の部下たちは呼んでいた。しかし、誰もそのことで少佐を恨んではいなかった。
「A、帰ったら伝言頼んだ」
Bはサンドイッチを頬張ったまま云った。コーヒーを飲み、すっかりくつろいでいる。Bはそういう男だった。彼はどこにいても、どんなときでも、くつろいで、彼自身であることを忘れない。抜けているように見えて、お調子者で、憎めない。どこかの王室に招かれても、彼はきっとそのままだろう。でもBはその実、誰よりも早く与えられた仕事をこなしてしまう。いつの間にやっているのか、どうやっているのか、誰も知らない。AはかつてBが、うらやましかった。そうなれるとは思っていなかったしその必要も感じていなかったが、かつては、少佐の試験に合格するまでは、もっとずっと強い感情で、うらやんでいた。
「なんでぼくがやるんだ」
Aはわざと少しむくれた調子で云った。
「そういうのはおまえの仕事だからさ、お母さん」
「ちぇ、調子いいよなあ、おまえって……それに食べ過ぎだぞ、もう帰ろう。いつまでも長居してちゃ悪いよ」
「暖炉のせいかなあ、眠くなってきちゃったよ」
Bはどこまでもすっとぼけたことを云う。ちらりと少佐を見ると、Yからの通信文を読みながら微笑していた。かつて、Yの報告能力は、ちょっと騒ぎになるほどひどかった。彼は先天的に、文章を構成する才能が欠落しているらしかった。少佐はそれを徹底してどつきまわしたが、しかし、許してもいた。あの支離滅裂さがなかなかくせになってな、と、あるとき云ったことがあった。……AはBを促し、立ち上がった。
「B」
部屋を出ようとすると、少佐が呼び止めた。
「なんですか、少佐」
少佐は通信文から顔を上げた。
「いま午後三時四十六分だ。情報部に戻りゃあ、四時半近いだろ。ちっとばっか早いが、寝に帰っていいぞ」
Bの顔がふたたび輝いた。
「今日のおれは機嫌がいいんだ」
ドアを閉める直前、少佐が椅子をくるりと回しながらそう云って微笑むのを、Aは見た。
「じゃあおれ、今日はガキを迎えに行こうかな」
Bは傍にいる人間のほうがうれしくなってくるほどうきうきした調子で云った。
「頑張ってるのか、サッカー」
「まあね。将来はプロの選手になれるかもな。なかなか才能あるんだぜ」
「云ってろよ」
執事がどこからともなくあらわれ、「お帰りでございますか」と訊ねてきた。
「どうもお邪魔しました」
「サンドイッチうまかったですよ。ごちそうさまです」
玄関までたどりつくと、ふたりぶんのコートを抱えた使用人がきっちりと立っていた。ふたりが乗ってきた車も、ちゃんと玄関前に横づけされていた。コートを着せられ、車のドアを開けてもらい、閉めてもらい、Bがアクセルを踏むころには、Aは思わずため息をついていた。
「……少佐の家ってさ」
「おう」とBは口笛の合間に云った。
「やっぱり疲れるな」
「そうかあ? 最高じゃないか。なんでもかんでも、やってもらってさ」
「それが疲れるんだよ。なんとなく気を遣っちゃってさ。ああいうとこで平気でひとを使いながら暮らせるひとって、やっぱりすごいよ」
「まあ、環境の差だろうな」
Bは鼻の下をこすった。
「あと性格も多少。おまえは、まあ、無理かもな」
「うん、無理だね……無理だよ」
Aはなんとはなしに、後ろを振り返った。広大な敷地の中にどんと構える、揺るぎないあの城は、やっぱり威圧的で、落ちつかなくて、あまり得意ではなかった。しかしこうして遠くから見ていると、やはり趣があって魅力的なのだった。
「おまえも早上がりしちゃえよ、A」
Bがふいに云った。
「はあ? さっきYへの伝言押しつけたのおまえだろ」
「そんなもん一、二分だろ? とっとと片づけてさ、おまえも帰れよ」
Aは「ははあ」と云った。自分だけ早上がりは気がひけるので、巻きこむつもりなのだ。
「なんでこう、ぼくのまわりって勝手なやつばっかりなんだ」
怒ったように云うと、Bは笑いながら車の速度を上げた。ラジオをつけ、流れてくる音楽に合わせて軽く頭を振りはじめる。城は背後にどんどん遠ざかっていった。