カーンからの電話がきたのは、パーティーの翌朝、エステン氏との朝の行事を終えて部屋に戻った直後だった。
「おはよう、エーベルバッハ少佐」
 耳障りな高い声でカーンは云った。少佐はその声で、彼のそびえ立つ高慢な鼻を思い起こした。それから彼の、神経質に頭や顎をかきむしるしぐさを思い出した。カーンのやることはいつも傲慢で荒っぽかったが、その実驚くほど神経質な男だ。それが露呈するたび、少佐はなぜか彼をあわれに思うのだった。カーンのような男は、いつまでたっても自分自身になることができないだろう。
「元気かね? 先ほどボンへ電話したのだが、いまはベルリンのグランドホテルにいると聞いてね……いいところに泊まってるじゃないか! さすがはNATO将校さまだ」
「なんならきみも転職したらどうかね?」
 少佐は云い、煙草に火をつけた。カーンはわざとらしく、そしていささか神経質そうに笑った。
「ぜひそうしたいもんだ。さて、折り入ってきみに話があるのだが……きみがいま日々よろしくやっているあのお年寄りの持ち物についてだがね」
「BNDも動いていたとは知らんかったよ。なぜ早く云ってくれなかったんだ。そうしたらきみに任せて、おれはほかの仕事ができたのに」
 カーンはむっとしたようだった。彼は一瞬ことばにつまった。が、すぐにこんなことで目くじらを立てては品位に関わるとばかり、声を和らげて、
「われわれはいい加減、少し協力というものを学んだほうがいいかもしれないな、ええ?」
 とひとがよさそうに云った。
「おれもそう思う」
 少佐はベッドに転がった。必然的に、天井が見えた。
「話を聞かせてくれ」
 カーンは少佐に会話の主導権を握られそうになって、またむっとしたようだった。そのため、なおしばらく無関係な冗談をいくつかばらまくことになった。
「で、本題だが」
 ようやくカーンがそう云ったときには、少佐はもうあくびをしていた。
「彼の資料がわれわれの手元にあることは、もう知っているだろうね?」
「もちろんだ。きみたちがうらやましいよ。おれが同じことをやったら、上からこっぴどくしかられた上に、最悪軍法会議にかけられたろうからな……おれもBNDに転職するべきか迷っとる」
 カーンはこれを皮肉として受けたようだが、その意味はおそらく半分ほどしか伝わっていないに違いなかった。
「きみの転職の相談は後日聞くとしよう。さて、どうしたものかな? この資料をわたしが提出してもいいんだが、わたしはきみの面子を心配しているんだ……」
 黙れくそばか野郎。少佐は心の中で毒づいた。
「きみが毎日いかにその老人に対して誠意を見せ、努力を続けているかは、わたしもよくわかっているつもりなんだ。であるからして、わたしは長年のライバルであるきみに敬意を表する意味もこめて、チャンスを与えたい」
「ほー、そうかね、そりゃご親切に」
 少佐のこの返事は、あきらかに彼の気に入らなかった。彼はおそらく、少佐が怒り狂ったり、いまいましそうに条件を云え、とか云うことを期待していた。が、カーンはまたうまく取り繕った。
「あまりうれしくなさそうだな?」
「いいや、おれは感情表現が下手なんだ。そのせいでいつも失敗する。心理学の先生によると、極度の恥ずかしがり屋なんだとさ。男には割とよくいるタイプらしいがね」
「そうか、それは知らなかったよ。それで、わたしの提案を聞いてみる気はあるかね?」
「もちろんだ、続けてくれ」
 少佐は短くなった煙草を灰皿に押しつけた。そしてすぐにまた新しいのに手を出した。
「わたしの提案はこうだ……」
 カーンはここでもったいぶった。受話器を通して、彼が葉巻……カーンは生意気に葉巻を吸う……に火をつけたのが聞こえた。
「わたしはいま、手元にきみが欲しがっている資料を持っている。これはもちろん、わたしにしてもこのまま自分のところに置いておきたいものだ。これを提出することは、政府に貢献することになるからね。それから、わたしはここに、例の資料とはまた別に、ある写真を持っている……」
 少佐は反射的に受話器に目をやった。まだ少佐自身には認識できない危険を本能が先に察知したときのように、全身の神経がかすかにざわめきだした。
「こちらのほうは、わたしにはあまり意味がないんだが。でもきみには、大きな意味があるだろうな。わたしはこれを手に入れてしまったので、胸を痛めているんだよ。できればわたしはきみを傷つけたりはしたくないからね。われわれは友人どうしだ、そうだろう?」
「もちろんそうだな」
 少佐は云い、ことさらのんびり灰皿に灰を落とした。
「内容は電話では云えない。会って直接見てもらうこととしよう。きみに提案したいことというのはこうなんだ。まず、われわれはふたりきりで、どこかで落ち合おう。なんなら、きみのホテルまで出向いてもいい。あるいは、別の場所でもいいが。わたしは例の資料と、いま手元にある写真とを持参する。ネガつきでね。きみはもちろん手ぶらでいいんだ。わたしはきみに写真を見せる。その上で、きみに選んでもらいたいんだよ。どちらかひとつをね……両方をきみに差し出すほど、わたしはおひとよしではないんだ」
 少佐の頭はめまぐるしく回転していた。写真? いったいなんの写真なのか? それは資料と同等の取引材料になるほど価値のあるものなのか? どちらかを選べだと? そうきたか、このくそったれめ。
 少佐はほんの数秒考えた。が、考えてもどうにもしようのないものであることはわかっていた。こうなっては、できるだけ自分に有利なものを、自分で引き出してくるしかない。
「わかった。話はよくわかった。おれには、なにも決める権利がないらしいな」
「そうでもないさ。たとえば、会合場所や時間などは、わたしはきみの都合に合わせるよ」
 自分の持ち物に、カーンはよほど自信を持っているらしい。カーンという男はそういうやつだった。ものごとがはっきりしないうちは滅法焦ってことをしかけてくるくせに、自分が勝てそうな兆しが見えてくると、すぐに寛大になり、気前よくなるのだった。彼はそれで何度も泣きを見てきた。が、それが自分の失敗の原因だとは、いまだ思い至らぬらしかった。
「そんなら、面倒だがグランドホテルまで来てくれんかね? 日時については、おれにも特に希望はないが……明日の午後ではどうかね? 三時に、ホテルのラウンジで。ここのコーヒーはばかに高いが高いだけのことはあるんだ。飲んだことは? ならぜひおれに紹介させてくれ……」
 カーンは承知し、電話を切った。少佐はしばらくぼんやり煙草をふかし、それから部下Aへ電話を入れた。
「おれだ。ついにカーンから連絡があったぞ。明日の午後三時にご面会だ」
 少佐には、Aが真剣な表情をこしらえるのが、受話器の向こうからでもわかるようだった。
「やつは資料を渡してもいいと云ったのですか?」
 Aは慎重だった。
「正確には、そうは云っとらん。ただ、選択肢の中に入っとるそうだ」
 少佐はカーンからの提案をくり返した。Aはひどく考えこんでしまったらしかった。受話器の向こうから、沈黙が押し寄せてきた。少佐は沈黙のうちに、Aがなにを考えているのか手に取るようにわかった。Aがそうであるように、少佐もAの考える道筋が、黙っていても見えるのだった。写真の持つ意味、それが示すかもしれないもの、それが少佐に与えるかもしれない動揺…………Aは長年の習慣から、自分の考えを追いかける前に、まず少佐の感情や考えをたどることを優先させるようになっていた。そして彼はほぼ正確に、暗闇を手探りでかき分け、少佐のいまいるところまでやってくることができた。少佐はそのあいだ、ただ待つなり、ほかのことに気を取られているなりすればよかった。結果的に、Aはごくまじめにこう訊ねただけだった。
「カーンがいったいなんの写真を手に入れたのか、さぐれるだけさぐってみましょうか?」
 少佐はにやりと笑った。
「まあ、おまえとしてはそれを訊かんわけにはいかんだろうな。まあ、そうだな、当たれるなら当たってみてくれ。たぶんわからんと思うがね。DとEは暇かね? 明日こっちへよこしてくれないか? ただし、ホテルの前で待機しているだけにしろ。中には入るな。一応、向こうの提案ではわれわれふたりきりで、ということになっとるからな。向こうが守るとは思えんが、だからといってこっちが破る理由にはならん」
「わかりました。それでは…………少佐、Bがさっきからやたらと存在を主張してくるんですが、どうしたらいいですか?」
 派手なアフロヘアを左右に振って、肉づきのいい顔に満面の笑みをたたえるBのアピール方法を思い起こして、少佐は笑いをこらえるのに苦労した。
「知らんよ。好きにさせればいいだろう」
 少佐は冷たく云いはなった。
「ではカウント外で好きにさせます」
 Aも辛辣だった。カウント外ってなんだよ、というBの不満げな声が少佐の耳にも届いた。次の連絡を約束して、少佐は受話器を置いた。

 

 ソファに移動し、しばらく座って考えこんでから、少佐はふいに部屋を出た。
 あいにくのどんよりした曇り空だったが、パリ広場やブランデンブルク門は相変わらず観光客に囲まれ、にぎやかだった。金を持たないバックパッカーたち、いくらか余裕のありそうな中年や老年夫婦、家族連れ、どこの国でも似たり寄ったりの、若さの勢いをまき散らす騒がしい学生ども。そして歴史ある門の周囲は、そういった観光客たちの財布の紐をゆるめさせる努力に余念がない。おかげで、どこの観光地も似たようなものになってしまう。広場に軒を広げる出店、どこかから集まってくる大道芸人たち、土産物屋、博物館や美術館、近代的なホテル、しゃれたレストラン。五、六人の若い学生集団がいて、ふざけあいながら記念撮影に熱中していた。女子学生の甲高い声があたりに響き、男子学生がそれをからかって、笑い声はさらに大きくなった。彼らはさまざまなポーズを取っていた……年輩のひとが見たら、眉をしかめただろう。
 女神ヴィクトリアはこうした騒ぎのさなか、相変わらず威厳をたたえて、門の上から馬車で走りださんとしていた。彼女は今日も静かな、深い青銅色をまとっていた。鉛色の空の下で、ひとり杖を掲げて。彼女を取り囲む世界がどうであれ、あくまで名誉を守り通すように。誰ひとり、彼女の気持ちを理解することはできない。彼女に同情を寄せ、手をさしのべる者はない。そうされたところで、誇り高い女神は拒絶したろう。曇天の下で、彼女は耐え抜いているようだった。広場の喧噪、俗な観光客、それを相手取った商売。
 少佐はもうひとりの女神に会うために、六月十七日通りの遊歩道を直進した。この日は少し風があった。少佐の肩まで伸びた髪は、風にあおられて遠慮がちに舞い上がった。床屋に行かなけりゃならん。少佐は考えた。彼はやたらめったらな床屋へ行くわけにいかなかった。家柄を持つものの宿命で、彼には代々の行きつけの床屋というものがあった。そこの店主は、自分の店の看板を誇りにしており、いまだに紹介のない新規の客は断じて受け入れなかった。そして、自分の客が自分以外の散髪屋に身を任せたことを知ると、まるで不義でも働かれたかのように感じ、その偉大な職業的誇りに傷がつくのだった。おかげで、毎日ボンにいるわけではない少佐の髪は、伸び放題に伸びるのだ。伯爵が切らないでくれなどと云うものだから、昨今ではますます遠慮なく伸びてしまっている。
 少佐は葉の枯れ落ちた裸の木々に沿って歩き、戦勝記念塔にたどりつくと、塔の上の女神に挨拶を送った。女神は濁った空を背負って、黄金に輝いていた。憂いを帯びた顔を、まっすぐに前へ向けて。今日もやはり、彼女は飛び立たない。舞い降りたきり、動かないでいる。わたしはここにいる、と彼女は語りかけているように思われる。あらゆる戦いに倦み疲れた者たちに向かって。勝利はここにある。常に、この場所にある。彼女は過去の勝利をたたえているのではない。いま戦っている者、いま戦いを挑みつつある者、これから戦う者のために、ここにいるのではないか? 地上においてやむことのない、あらゆる種類の戦いのために。
 ふいに、誰かがイタリア語で歌い出した。若い男だった。大声ではなかったが、実に通りのいいテノールだったので、ロータリーの雑踏の中でもよく聞こえた。歌っているのはラブソングらしく、彼女への思いのたけをぶつけたものらしかった。男の横には目下その歌を捧げられている若い女性がいて、口元を手で覆ってうつむき、笑っていた。少佐は苦笑した。塔の周囲でレリーフを見たり、ぶらぶらしていた観光客たちも、歌に気がついて笑ったりしていた。カップルは初々しかった。あんなふうに、若さにまかせてできる恋愛というのは、あやういけれども貴重なものだ。女神の下で愛を叫べば、それはもしかすると偉大な愛の勝利の雄叫びに変わるかもしれない。女神の御心にかなうほど誇り高くあれば。
 少佐はその場をあとにした。

 

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