愛からの分離と、ふたたびの融合
あるいは寂しさを終わらせる方法について
※もしもふたりができちゃってるのを執事が知ってたらって妄想をいましていて、そういう設定なんだなって思って読んでください。
溶けそうに熱い目が本当は好きだったはずだ。こちらの身体をその熱で包んで、心地よい高揚感と、特別な気分の中へ運んでくれる。求められ大切にされる、それを態度で示される。そういう扱いの中にいつもいた。うやうやしく頭を下げられ、口づけられ、これ以上触れてもいいかどうか、こんな態度でいいかどうか、機嫌を損ねてはいないか、退屈してはいないか、そういうことを、いつも気にかけてもらう。そしてその見返りに、ひとときの夢を与える。否、お互いに夢見る。熱狂的で官能的な時間。そういうのは、好きだったはずだ。
高級車で優しく送り届けてもらう。車のドアを開け、そして閉めたら夢の終わりだ。ささやかな怪盗ライフを維持するための外交上のつきあいはいくつもある。皆伯爵さまに夢中。自分こそはその特別だと一瞬でも信じていたいがために、どれだけ多くの時間と労力を払う男がいることだろう。伯爵さまは生まれてこのかたなにもしたことがないお姫さまよろしく、相手になにもかも任せ、なにもかもやってもらう。そうしたこともひとつの愛だ。ひとつの気遣いだ。そしてその時間には、伯爵も相手に心から気持ちを傾けている。感謝と感動でもって。でも愛をこめて時間をともにすることが、たとえば、身体を許すこと、あるいはたったひとつの意味においての愛を、相手に与えることにつながるわけではない。不条理かもしれない。たぶんそうだ。そういう意味でいけば、愛は不条理だ。すべてを許すのはただひとりだと決めてかかれば、愛ほど差別的で閉鎖的で、自己欺瞞的なものはほかにない。でもそれは社会通念の問題だ。そして人間の心理の問題だ。伯爵はそれで昔悩んだが、いまはもう悩むことをやめてしまった。
あなたを愛している、という、崇拝している、という熱のこもった目。でも夢が終わればそれを捧げてくれた男は別の、もっと理解ある人間のところへ戻り、あれは夢だった、と笑いながら日常へ戻る。伯爵はいつも彼の心の片隅にいるだろう。でも、それは偶然目にすることができた美しい雲や空の色や光のようなもの、次の瞬間には消えていて、その印象だけが身体の奥に残っている。そういう儚いたわむれを、伯爵は自分の義務だと思っている。ノブレス・オブリージュの美貌版。美しい者の義務。それは与えられ、この世界のある領域を、満たさねばならぬ。それが熱望されるところへ出向き、そこへ輝きを投げねばならぬ。嫌ではない。楽しんでやっている。でも、いつだってほんとうに欲しいのは熱のこもった目ではなく、あの少し冷たい灰色がかった緑の目の方。熱しすぎた世界を冷やすもの。肉体もその美しさも越えて、こちらの奥の奥を見通す透徹した目。その奥まったところにあるものだけを見通す目。
ドイツ時間に合わせた時計が十一時半近くを指している。伯爵はゆったりした服に着替え、炭酸水の入った瓶とグラスを持って二階へ上がり、寝室の窓を開けて広いバルコニーへ出た。椅子と小さなテーブルがしつらえてある。庭を眺めることのできるこの場所で、ぼんやりしているのが好きだった。少し風が吹いている。夜は深い闇。伯爵はグラスに入れた水を飲みながらあたりを眺めた。とても苦しい気持ちなのはなぜだろう。夜のせいではない。胸苦しい感じがしていて、心の底がざわざわと落ちつかない。寂寞の感じに似ている。とてもひとりぼっちだと感じるとき。その耐えがたい寂しさ。子どものころ、よく感じたあれだ。しばらく考えて微笑した。君はたっぷり愛を注がれたから、かえって愛に飢えているんだよ、ドリアン坊や。優しくされて甘やかされて、君を崇拝している、心から愛しているんだなんて百回云われても、そういう浮ついた愛は、結局君をちょっといい気分にしたあと、飢渇させるだけなんだ。なぜって、それには深度が足りないからだ。熱に浮かれた愛もすばらしい、でもそれは、生身の愛、崇拝も熱望も消え去った、静かな深い愛の前には、裸足で逃げ出すしかないよね……ドリアン坊やはベッドまで引き返していって、友だちのテディベアのウィスパーを持って戻ってきた。それから、電話をかけた。
「ハイ、おやすみの時間だよ。夜の定期便、DJはD.R.G伯爵でお届けします。子守歌でも歌おうか? それともクラシックにする?」
「どっちもいらん」
ああ、彼のぶっきらぼうさが、先ほどまで熱に浮かされていた伯爵にはたまらなく愛おしかった。
「やっぱりね。いまとっても君を愛していると思った」
「なんだ、藪から棒に」
声が少しあきれた調子になった。伯爵はふいに泣き出したいような気持ちになった。彼は、クラウスは、伯爵さまが愛していると云ったり、情感たっぷりに微笑みかけたり、そんなことでいちいち気分が上下したりしない。彼は伯爵さまを崇拝していない。彼にとって、伯爵さまは偶像ではない。いかなるイコンでもない。いかなる象徴でもない。
「なんでもないよ。わたしが唐突なのはいつものことじゃないか」
少佐が息をもらして笑った。伯爵は自分の身体の奥が、疼いているのを感じた。
「ねえ、モーセの十戒に偶像崇拝の禁止が入っているのはどうしてかわかる?」
知らん、と少佐は云った。彼は、伯爵の唐突な話題の飛躍や脈絡のなさによく慣れているので、どんなふうに方向転換してもついてきてくれる。
「実体をそこなうからさ。本質を見失うからだよ。本質がわからなくなってしまったものは、存在しないのと同じだ。消えてしまうんだ、まったく別のものになって、そのひとの前から。内面の本質を、その真実を、神へとつながるその場所を、見失ってはいけないから、神は特に偶像崇拝を禁止した。なにかを崇拝することそのものが、厳禁なんだよね。崇拝と愛は違う。どちらも心から、自分の心を捧げるけれど、片方はなにも見えていない。意識的に閉じるんだ、その目を、その感性を。そしてもう片方は、なにもかもを、見ようとする。意識的に。全力で。理解しようと、耳と目を全開にして。君の話をしているんだよ、こんなこと本人に云うべきじゃないのかもしれないけど。君と、その他大勢の話だ。君以外のやつはみんな腐敗した獣に見える、君だけが生きた精神に見える、真っ暗な夜でも輝いて見える。わたしはその光を信頼して暗闇に乗り出している、いつもいつも。君はぜんぜんロマンティックじゃない。君はぜんぜんわたしを丁寧に扱ってはくれない、わたしの崇拝者たちが、君のわたしへの態度を見たらきっと火を噴いて怒るよ、君を殺しにかかるかもしれない。でも、そっちが死んでしまえ! 甘ったるい態度なんて地獄に堕ちちゃえ。君はいつもそっけないけど、でも真摯だよ。ことばを並べ立てることはしないけど、でも情熱的だ。君の内側に、その目の中に炎があって、丸裸のわたしはそれに焼かれてる。わたしが焼死体で発見されたら、警察に自首してよね。この男を殺したのはわたしです! そして君も自分の身体に火をつけるといいよ」
思考がほてっているのだ。熱に浮かされて。偶像崇拝者による熱っぽい時間のせいで。それが滞留して、現実に戻れない。だから、ほしいのは彼の愛。彼の静かな愛。ぶっきらぼうでわかりやすいなんてお世辞にも云えない、甘やかされることに慣れた身にはとてもものたりない、でも、それはとても深い。彼の鋭い目が見通す深度。見定めて、本質を突き、えぐりとる。脇目もふらず。ごまかしや騙しには、目もくれず。彼の生き方、そういう愛。見てくれ勝負で世渡りしている怪盗にも、彼はその目を注いでくれた。そして、同じように貫いた。きんきらの派手な見た目を通り過ぎて、その奥を、あの静かな炎で照らした。その目にのぞきこまれるとき、それがこちらへ注がれるとき、身体を駆け抜けるざわざわした感覚は、かくれんぼが終わるときの歓喜、そして絶頂。覆われているものすべてを取り去って、隠されていたものを見つけだされることの喜び。
少佐が小さくため息をついた。
「おまえ、今日はとっとと寝ろ」
まだ少し、あきれたような声だった。
「なんでさ。夜はこれからだよ」
「いいから強がっとらんで寝ろ。ぬいぐるみの熊でもなんでも抱きこんで。わかったな、坊主」
……ああ。ドリアン坊やはテーブルに突っ伏した。
「……ねえ、クラウス」
「なんだ。もう時間だ。おれは寝るぞ」
「ねえ」
「だからなんだ。早く云え」
「……ドリアン坊やは泣きそうだ。限界だよ。君のせいだ。わたしを乱すなにもかも、君のせい。君の前ではわたしのなにもかもが意味を失う。そして一切合財捨てた、丸裸なわたしだけが残るんだ。そのわたしが泣きそうなんだよ。今夜のわたしはしゃべりすぎ? そうだよね、だってすごく寂しいんだ」
伯爵は鼻をぐずぐずさせた。しばらくして、電話の向こうから長いため息が聞こえてきた。
「云っとくがおれは忙しい」
伯爵はそっか、と云った。彼は辛口なのだ。いつだって。こんなに熱っぽく告白しても、いますぐおいで、なんて、ぜったいに云わない。そしてだから、伯爵は彼が好きだ。彼のこだわり。彼のプライド。彼が身にまとって、脱ぐことの容易でないもの。伯爵はそれが好きなのだ。彼が彼であるために身につけているもの。そして、それを脱がせるのが自分だなんて、うぬぼれていられるもの。
「……まあでも執事は暇だな。暇をもてあましとる。おれがここ数日ろくに帰らんかったからな。使用人に怠け癖をつけさすとろくなことがない。あいつをからかうのは許可する」
伯爵は笑った。泣きながら笑った。電話に向かって愛してるよを三十回は云った。そしてそれがこの日の、少佐にとってのメリーさんのひつじになってしまった。少佐はぶつくさ云い、でも伯爵が愛してるよを飽きるまで云ってから呼びかけてみたら、返事がなかった。眠っていたのだ。
明日はボンに行く。どうしたって行く。たとえ悪天候で飛行機が飛ばなくても。心はもう彼のところ。そしていつも、彼のところなのだ。そこにとどまって、包んでもらっている。伯爵の一番奥深くにある、ほんとうの部分は。その部分だけは、ほかの誰のもとへも行かない。
伯爵はウィスパーを抱きしめてベッドに潜りこんだ。彼の執事に、ウィスパーをきれいにしてもらおう。紫を着る男をじっくり見よう。それを抱きしめて昼寝する。彼が仕事のあいだには、エーベルバッハ家のコレクションを眺めてすごそう。きっとすごく楽しい。
そういう空想をしながら、伯爵もまた、眠りについた。真実の愛から離れたあの寂しさは、もうどこにもない。
伯爵と執事のコンラート・ヒンケルさんは仲良くなれると思います。
次回の拍手お礼では、もしもシリーズということでそれを書こうと思ってます。