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「忙しいのに恋をするなんてもってのほか。ほんとにそうだ。ジョン・ダンはいいことを云ったよ。わたしの理解者は彼だけ。仕事が恋人の男は、人間の恋人を作るべきじゃない。二股はよくないよ。だって、どっちにも同じだけ心を注ぐなんてこと普通できやしないもの。ミュッセが小説に書いているけどね。ふたりの女に、まったく同じだけ心を傾けている男の話。短編だからすぐに読めるよ。フランス語でいいなら今度貸してあげるけど、でも読む暇がないだろうね」
 少佐はまあ、ないだろうなと云った。伯爵さまはむくれていた。ところどころに棘のあることばは、彼の心理を雄弁に語っている。このあとしばらく会えそうにない、などと云うべきではなかったのか? でもどうして云わずにすませられるだろう? それこそ、「恋人」たる立場の人間の義務ではないか。
 伯爵さまは柔らかいソファに腰を下ろし、甘口のシェリーが入った小さなグラスを、つかんだ左手の指先で叩いている。薬指には指輪がはまっている。少佐がいつだか、まだ無謀にも伯爵の「お友だち」連中に張り合おうとする気持ちを持っていたころに買い与えたもののひとつだ。そのころは、まだそういう形で伯爵の中へ入ってゆき、なにがしかの場所を占めようとしていた。攻め入り、占領し略奪するように。まるでそうしなければ、別の勢力によって分割され、自分の取り分がなくなってしまうとでも思っているみたいに。いまとなっては笑い話だが、でも伯爵の左手の薬指にはいまもって、そのうちのどれかが必ず鎮座している。もっと価値のある、もっと美しい指輪は腐るほど持っているはずなのに、そういったものはよその指を飾るにとどまっている。
 伯爵はガウン代わりにすばらしく豪奢な日本の着物を羽織っていた。少佐はそれを興味深く眺めながら、この短い休暇が終わったら、しばらく日の光もまともに拝めないほど忙しくなるだろうと云った。当然のことだが、伯爵さまはむくれた。少佐は彼をなだめる必要に迫られていたが、困ったことにむくれている伯爵さまが嫌いではなかった。
「これだからどこかの組織に雇われてる人間って嫌いなんだ。ひとに使われて、給料もらうなんてやってられないよ。勝手な都合で忙しくなったり暇になったり。会社や組織なんて、雇われ人ひとりひとりに付随する生活や人生のことなんかおかまいなしなんだからね」
 伯爵さまはつんつんした態度で云った。少佐は笑いだしたかった。
「おまえみたいなのが例外なんだ。普通の人間は、そういう規則だとか不都合だとかの中でどうにかやっとるんだぞ」
 少佐はベッドの中に収まったまま、二本目の煙草に火をつけた。
「その態度がいやなんだ。われわれは人間だよ。権力だとか社会だとかに対して、自分の意見や感情を主張し尊重する権利がある。子どもっぽい考え方だとか、浮き世離れしてるとか、ひとは云うけど」
 伯爵さまはシェリーの入ったグラスを振り回した。不機嫌のために、眼尻と眉が少しきつい線を描いており、唇は不満げにつき出されている。でもそれはどこか甘ったるく媚びるようでもある。少佐は自分の自尊心や優越感が、実にみごとにくすぐられているのを感じる。
「会えないって、どれくらい長く?」
 伯爵さまがふいに訊ねてきた。少佐は少し考え、たぶん二、三ヶ月、と云った。伯爵さまは眉をつり上げ、ふうん、と意地悪く、しかしどこか艶かしく鼻を鳴らした。
「誰かいい男をつかまえて、情熱的に愛し合うのに最適な期間かもね。それ以上になるとちょっと嫌気が差してきちゃったりするから」
 少佐は、そうするつもりはなかったのだが、反射的に鼻で笑った。それが伯爵さまをますます不機嫌にしてしまったらしかった。
「君ってひどい男だね! わたしをなんだと思ってるんだ。君さえいなけりゃって思うこと、ほんと、いやになるくらいよくあることなんだよ。いちいち並べ立てないだけで」
 今度は少佐が眉をつり上げる番だった。
「だから、やりゃあいいじゃねえかっていっつも云ってんだろうが。おれは湯水のように金を使える身分でもなきゃ、ちょいと指動かしゃあ手下がぞろぞろ動きまわるなんてご身分でもねえんだ。おまえのきんきら生活が、貞操やら誠実やらで維持できるなんて誰も思っとらんぞ」
 伯爵さまは大きな目で少佐を睨んだ。目が怒っていた。シェリーのグラスを飲み干し、肘置きの周辺にいくつも置かれたクッションにもたれかかるようにしてソファに下半身を投げ出し、そっぽを向いた。くるくるの金髪が揺れた。
 少佐は煙草を灰皿に押しつけ、唇を歪めたまま、向こうを向いた伯爵を黙って眺めた。やりすぎただろうか? そうは思わなかった。少佐には、伯爵さまの機嫌を取り戻せる自信があったし、どうしてもだめな場合でも、今回は奥の手があった。少佐は余裕のある気持ちで、怒ってしまった伯爵を見た。少佐はお怒りの伯爵さまを見るのが好きだ。なぜなら、とても美しいからだ。そして、お怒りの伯爵さまをなだめるのは、とても楽しく、少々みだらだから。少佐は鼻先で巻き毛をかき分け、その香りを嗅ぎながら、あの白鳥を思わせる長く優雅な首に、口づけたかった。美しい着物の隙間から手をすべりこませて、肌の上を好き勝手にまさぐってみたかった。すっかり機嫌を損ねてしまった伯爵さまのそれをふたたび引っ張りあげて、甘ったるく、みだらな気分の中へ連れ出すこと、それがいまエーベルバッハ少佐に課せられた任務であって、伯爵さまも待ち望んでいることに違いない。事実、着物のあいだからこぼれた白い脚、その先についている足のつま先は、少佐を誘い出すように、わずかに上下に動いた。
 少佐はベッドから起き上がった。ソファへ歩いてゆき、身体をかがめて伯爵さまの顔を眺めた。伯爵さまはますますそっぽを向いた。
「なあ、おい」
 少佐は彼の巻き毛に触れた。その手は邪険に振り払われ、伯爵さまは、なにか汚いものに触れたかのように巻き毛を直した。少佐は微笑した。
「怒ってんのか」
 伯爵さまは身じろぎひとつしなかった。
「怒ったのか?」
 伯爵さまの脚が、わずかに、こすり合わさるように動いた。少佐はソファに腰を下ろした。伯爵さまは振り向き、少佐を睨んだ。少佐は眉をつり上げて、両手を挙げた。伯爵さまはまたそっぽを向いた。
「なあ、こっち向け」
 少佐は云った。伯爵さまは動かない。
「頼む」
 また少し、伯爵さまの脚が動いた。
「悪かった」
 伯爵さまは振り向いた。そうして片目を糸のように細めた、疑り深い目を少佐に向けてきた。少佐は努めて柔らかく微笑した。
「悪かった」
 少佐はもう一度云った。伯爵さまは、やや尊大に「むー」とうなった。少し悩ましげな調子で。少佐は念のためもう一度、彼の耳元に謝罪のことばを囁いた。伯爵さまは身体をくねらせ、少佐から距離をとった。
「謝ったって、なんの解決にもならないんだからね」
 伯爵さまはむくれた顔で云った。少佐はわかっていると云った。
「わたしは傷ついているんだよ」
 少佐は謝った。
「君は傲慢だよ。きっとすっかり忘れちゃったんだな、わたしの美しさとか、わたしの価値とか。悲しいことに、男って大概そうだ。手に入れたらもうおしまい。どんな見事な花も、日常の、つまらないものに見えはじめるんだ。恋愛なんてするものじゃないね。特に、君みたいな男とは」
 少佐は黙っていた。むくれた顔で棘々しく話す伯爵さまの、美しく動く口もとや目を見つめていた。
「君、ちゃんとわかってる?」
 伯爵さまがふいに、刺のある目つきでまともに少佐を見つめてきた。少佐は、よくわかっていると云った。
「傷ついたよ」
 少佐は身体ごと伯爵さまに近づき、耳元で、わかっていると云った。伯爵さまがまた身体をくねらせて逃げるようなそぶりを見せたので、着物の上から腕を回して引き止めた。伯爵さまはその腕を叩いたが、真剣に逃げ出そうとはしていないようだった。少佐は気をよくし、伯爵さまの耳や首に口づけた。伯爵さまは首を振り、顔を背け、やめるように云ったが、少佐はやめなかった。彼にのしかかり、下敷きにし、顎や喉仏や鎖骨や、そのあたり一帯に執拗に口づけた。伯爵は囁くような、ほとんど呼気だけの声で、Noを云いつづけていた。それがなにに対する否定であるのか、少佐にはわからなかったし、たぶん伯爵にもわかっていなかった。着物と肌のあいだに手を差し入れ、下へと滑らせ、もう半ば反応を示していたものに手をかけ、優しくさするように手を動かした。伯爵さまは満足げに鼻を鳴らした。

 

「写真?」
「写真」
 たっぷりのお湯に浸かっている心地よさに目を閉じて、少佐は伯爵に応えた。浴槽は広かった。伯爵は少佐の身体の上に半ば乗っかるようにして、頭は完全に少佐の肩に乗せていた。
「わたしの写真が欲しいの?」
「正確には、やたらめったら美人の女の写真が欲しい」
「どういうこと?」
 伯爵が少し身じろいだ。お湯がちゃぷちゃぷと音を立てた。少佐は目を開けた。
「女対策」
 伯爵さまは興味をもったらしかった。少佐の肩に乗せていた頭を起こし、首を傾けて少佐を見た。
「ちょっとな、別人になりすます必要があって……女にせまられたとき、なかなか有効な対処法なんだ」
「美人の女の写真が?」
「ああ。非の打ち所のない美女の写真を差し出して、おれはこの女に心を奪われている、と云やあ、たいがいの女は瞬時、黙っちまう。そのすきに、おれは話題を変えるなり、逃げるなりできるわけだ。同性愛者説を押し通す手もあるんだが、そっちはあらゆる面で、あとあと都合がわるいんだ」
 伯爵さまは顔を輝かせた。
「君の永遠の女になるわけだね? そういう理由なら喜んで。はりきって美しい女になるよ。物憂い、儚い美女がいい。自信にあふれた魅力は、女の反感を買いやすいからね。思いきりよく化けてあげるよ。少し時代錯誤な感じにしようか? 髪をアップにしてまとめて……服は地味な色で。かえって顔の美しさが際立つようにね。どんな化粧をしたらいいかな? なるべくおとなしく? 口紅はどんな色にしたらいいだろう? アイシャドウは……」
 少佐は笑いながら、伯爵さまの話を遮った。
「あまり化けなくていい」
 伯爵さまは目をしばたいた。
「あまり作らんでいい」
 少佐は身体を起こし、目をぱちくりさせている伯爵を残して湯船から出た。身体を拭いていると、伯爵さまが飛びついてきた。少佐は思わずよろけた。
「ねえ、ねえねえ、ねえ!」
 伯爵さまの顔は喜びに輝いており、目を見張るほど美しかった。
「君のこと、嘘でも傲慢な男だなんて云って悪かったよ。もう二度と云わないからね。愛してるよ……」
 少佐は顔中に、すさまじいキスの嵐を受けた。しまいのほうでうんざりしてしまうほどすさまじいものだったが、でも、それほど悪い気はしなかった。伯爵さまの機嫌はいまや天を突き抜けて、極上の境地に達していた。そしてそれはたぶん、この先しばらく会えないことを補って余りあるものに違いなかった。

 

 実際、伯爵さまの写真は、実によく役に立った。それは少佐ににじり寄ってくる女たちにも役立ったし、少佐自身にとっても、まことに役に立つものだった。

 

なんか結局いろいろ全部なんだったんだおまえらみたいな話に(笑)
たまにはこんなノリのものを。

 

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