故郷
恋するものらよ、たがいに寄り添って充ち足りているものたちよ、
きみたちにわたしは問おう、わたしらの存在を。きみたちはしかと手をとりかわす、
それで証明(あかし)はついたのか。
――リルケ『ドゥイノの悲歌』手塚富雄訳
ブリュッセルは大好きだ。何度来てもいい。今回は、出だしからすばらしい旅だった。イギリスは晴れていたし、ユーロスターでは隣席に投資顧問会社を経営しているという教養ある、五十代半ばの落ち着いた男が座っていて、音楽の話で意気投合し、絵画については静かに、しかし情熱的に意見を戦わせ、しまいには笑いあって、シャンパンで乾杯した。男は知性ある美しい伯爵どのと知り合いになれたことを心から光栄に思うと云い、妻と行くつもりでこっそり手に入れていたロイヤルオペラハウスのチケットの話を持ち出し、少し恥じらいながら、観劇に招待した。それは偶然にも伯爵がぼんやりしていて買い逃したもので、誰かをつついて招待してもらおうかなと思っていたところだったので、彼は大いに喜び、その申し出を受けた。お互いに幸福で、すっかり満足していた。いい気持ちでブリュッセルに着き、連絡先を交換してその男と別れた。約束の時間まで、まだ間があった。伯爵はスーツケースをがらがら云わせながら駅を出、近くのカフェに飛びこんだ。窓際の席でコーヒーを飲みながらぼんやり外を見……こういう時間が、伯爵は好きだった……会議を終えてようやくほっとしているに違いないクラウス坊やになにかご褒美をあげたほうがいいかな、などと考えながら、とても幸福な気持ちでしばらくぼうっとしていた。わざわざユーロスターに乗り、ブリュッセルまでやって来たのは、そのためだった。例の少佐のため。詳しいことは聞いていないけれど、この数週間彼はNATO本部にほぼ缶詰状態で、おとといようやくその難儀だったらしい勤めから解放されたのだった。そして規定によりそのまま短い休暇と相成った。押しかけない手はなかった。
伯爵の顔がほころんだ。彼はまだ、あの少佐とこんな成り行きになったことを、一種の奇跡とみなすほかないように思っていた。あの少佐がこちらの呼びかけに応じてくれることがあろうとは、思っていなかった。誰より伯爵自身が、自分の愛情は見返りを得られるものではないと信じていた。それでよかったのだ。ただ、あの男の窒息してしまいそうな、重苦しい世界に香りと輝きと愛とを、少しでも送りこみたかった。たとえ反応がなくとも、彼は少佐のとても深い、おそらく本人も忘れてしまった場所に眠っている、ある情熱に訴えかけていた。その部分では、お互いに通じるものがあるはずだった。伯爵はそれを信じていた。そして、奇跡は起きた。でも奇跡ではない。奇跡は普遍のものだ。愛が、ほんとうはこの世界においても普遍であるのと同じように。ありえないことが成就した幸福が、隅から隅まで彼を満たしていた。伯爵はいつも幸福であることを疑わないが、あの少佐が関わってくるとその幸福の感じは勢いを増し、浮足立つようなものから燃え上がる炎のようなものとなって、伯爵の中で揺らめいた。
ふいに、伯爵は視線を感じて窓から目を離し、店内を見回した。少し離れたテーブルに、身なりのいい、三十代後半かと思われる男が座っていて、こちらに遠慮がちに、しかしはっきりと、ある熱意を持った視線を送っていた。いやな雰囲気ではなかった。明るい鳶色の瞳と、繊細さを感じさせる細い鼻と薄い唇が印象的だった。伯爵は微笑した。ユーロスターの紳士は同性愛者ではなかったが、こちらは完全にそっちの道のひとらしかった。ブリュッセルは割合に同性愛者に寛容な街だ。サン・ジャック地区は有名なゲイエリアだし、行政としてもゲイフレンドリーを売りにしようとしている。伯爵はとてもいい気分だったので、このベルギー紳士がこちらの微笑を受けて自分の横にやって来て座り、親しみをこめて挨拶し、偶然を装って手に触れてきても放っておいた。喜びと幸福の感情の中には、いつだって官能がある。だから伯爵の中にはいつだって、出口を求め、燃え広がろうとする官能がある。美しいものやすがすがしい空気、夜の静けさ、雨のつつましさ、すべてものが、その官能に訴えかけてきて、優しく恍惚の中へ誘い出してくれる。伯爵はそれに少し身をまかせたい気分だった。ベルギー紳士を誘惑はしなかったが、それに近いぎりぎりのところまでいった。ベルギー紳士は紳士的だった。伯爵の身体にまつわりついた官能のざわめきを感じ取り、店員に手を上げて勘定を頼んだ。彼は伯爵のコーヒー代をまとめて支払い、スーツケースを受け持つことを申し出た。伯爵はありがたくそうしてもらい、彼について歩いた。ベルギー紳士は親から受け継いだ不動産会社をやっている、いろいろ楽じゃない、と云った。伯爵は自分はイギリスの有産階級で、ぶらぶらしているだけ、と云った。ベルギー紳士は伯爵を改めて上から下まで眺め、納得したような顔をした。なぜブリュッセルへ? 恋人に会いに。仕事の鬼の、冷たい男。ベルギー紳士は笑った。
映画館の前を通った。面白そうな映画をやっていた。フランス映画で、たぶん中年の浮気もの。ふたりは中に入った。上映直前だった。明かりが落ちると、伯爵はベルギー紳士の肩に頭を乗せて楽な姿勢をとった。ベルギー紳士はそれを当然のように受け止めた。身体に腕が回された。卑猥な感じではなく、あくまでも親密に、優しく。伯爵は彼の手がわき腹から腰にかけて、また腕や背中をさするのにまかせた。彼は自分の官能が、この一瞬のたわむれに小さく燃え上がり、喜びで満たされるのを感じた。彼に、キスしてもよかった。してもいいだろうか? 伯爵は考えた……この場合、キスのひとつくらい、してあげるのが礼儀ってものじゃないだろうか。そうして、伯爵は飛び上がりそうなほど驚いた。考えている! この自分が! キスをしようか、しまいか、なんて! ドリアン坊や、君、いったいどうしちゃったんだ? 伯爵はうろたえていた。なにを迷っているんだ? そうして、注意深く意識の階段を降りていった。狭くて細い、薄暗い階段を。降りきったところ、つきあたりに、少佐がいた。伯爵は心の底から驚愕した。そんな頭を働かせたことは、絶えてなかったからだ。
伯爵はこの、瞠目すべき自分の新しい反応についてしみじみ考えた。胸の中がひどくざわついていた。自分の思考と混乱の原因は、ただこの点にあった……こんなことしたら、彼、どう思うだろう? 伯爵にはわからなかった。伯爵はこれまで、いつも自分の気分に正直に従ってきた。官能的なときには官能的に振る舞い、楽しいときには楽しく振る舞うのは当然のことで、どの男も、伯爵のそういう気分を受け入れ、喜び、楽しんだ。伯爵はそれで幸福だった。相手もそれで幸福だった。でも伯爵はいま、なにかが自分を抑制しようとしているのを感じた。自分がなにかに怯え、不安がっているのを感じた。これまでとはまるで別の反応が自分の中に生じつつあり、自分が、まったく未知の領域へ、足を踏み入れようとしているのを感じた。
ベルギー紳士は伯爵の手を握りしめ、指の腹でやさしくさすっていた。伯爵の心の声は、間違いなく紳士にキスすべし、と云っていた。頬にキスし、ふたりでちょっと情熱的になって、いい気分でさよならする。でもなにかが、伯爵をおしとどめていた。釘のようなものが飛び出していて、衣服に引っかかってとれないようなもどかしい感じがした。その引っかかりの先に、少佐の姿があった。彼の愛に対し、どう振る舞うのが適切なのかわからない。彼の愛が、自分になにを要求してきているのかわからない。それがすべての鍵だった。彼は、これまで伯爵が過ごしてきた世界には属していなかった。これまでの相手とは全然違っていた。彼は元来、男を愛するようにはできていなかったし、官能の世界に向かって大きく、無差別に開かれてもいなかった。彼の愛情はもっと局所的であり、道徳的であり、厳格だった。伯爵が少佐だけに夢中だというのとはまるで別の意味で、少佐は伯爵を、伯爵だけを、自分にとってのなにかにしようとしていた。そのほかのあらゆるものを、意図的に封じているように見えた。伯爵は、その厳格さに戸惑っているのだ、ということに気がついた。
なにが許され、なにが許されないのか。たとえばベルギー紳士とのこういうちょっとしたことが、官能の気分と雰囲気とに少しのあいだ身をまかせることが、白なのか黒なのかわからない。伯爵には、官能のふたを閉じるという発想はなかった。それはいつでも溢れだし、自由に流れているもので、自分自身の血であり、肉であった。伯爵の全身は、あらゆるものから喜びと官能とを嗅ぎとり、それに身を任せるように作られていた。そして男どうしの関係というものは、ある一面では、そういうものだった。自由で、享楽的で、あけすけで、伸びやかだ。伯爵は自分がその伸び伸びした奔放なエロスの中から誕生したことを知っている。自分の精神はそこに帰結するものであることを知っている。父は抑圧と葛藤の末にそこに救いと故郷を見出した。そして伯爵は、その象徴であり開放的な愛と自由の寵児であった。いまもそうだ。伯爵は自分が、愛情と官能の世界に君臨する者であることを知っている。この世のすべてを楽しみ、ひとを楽しませ、あらゆるものを味わい、美と繊細さの中へ陶酔する、そういう人間であることを知っている。だから、彼は自分の愛の中に突如入りこんできた少佐の頑なな意志のようなものに、喜びで燃え上がりながら当惑している。これと決めた人間のほか、誰にも、なにも許さない。些細な性的ほのめかしでさえも。そういう愛のあり方は、熱烈であるが、同時に恐怖でもあるように思われた。愛という無形の流転するものを無理に固定化しようとこころみることのように思われた。それはこの自分にとって、牢獄ではないか?
結局、伯爵はベルギー紳士にキスしなかった。どうしても思いきれなかったのだ。いつも血のように自分の中に自然なものとして流れている官能に、どんな形であれ背いたのは、これがはじめてのことだった。
ブリュッセルの街は暮れかけていた。伯爵は空の美しい変化を眺めながら少佐を待った。久々の再会だった。少佐はサングラスをかけ、黒のかっちりしたコートを着ていた。彼には、威圧的なくらい禁欲的でシンプルな服がよく似合った。それが、少佐という男が放つ鋭さを際立たせ、彼の雰囲気を、そこから放たれる匂いと色を、鮮明にした。その姿を遠目に見かけたとたん、伯爵の中でなにかが爆発した。伯爵はスーツケースを放置して、男に駆け寄り、飛びついた。さっきの戸惑いも不安も、いまはもうどうでもいいことだった。自分の中のありったけのものが、生命のすべてが、この男に向かって燃えていた。
「クラウス、クラウス、ねえ、わたしだよ! 何週間ぶりだろう? 顔を覚えてる? 君のは覚えているけど、よく見せて! ちょっと疲れている? 仕事は大変だった? わたしははちきれそうに元気だけど。だって、ブリュッセルは大好きだし、晴れているし、寒いけどコートが着られるし。愛してるよ。あとでキスしてあげるよ。いまはしないけど。してもいいけど、君、嫌がるかと思ってさ。聞いて、さっき、ユーロスターの中で、隣に座ってたすてきな紳士が、ロイヤルオペラハウスに招待してくれた。あ、そっちのひとじゃないから安心して。純粋に知性で勝ち取った勝利だからね。ほんとだよ? プッチーニだよ、すごく見たかったんだ。だけど、チケットを取るのを忘れちゃって。ヴェネツィアにいたせいなんだけど。このピアスはそのとき買った。今日のアクセサリーは全部自前だよ。もらいものじゃない。自慢じゃないけど。ネックレスはアンティーク。十八世紀のもの。アンクレットがね……ああ、そうか、ブーツはいているから見せられないや。あとで見せるよ。忘れなかったら! このあいだ……」
「わかったわかった」
少佐は吹き出しながら云った。
「わかったから、向こう向くひまぐらいよこせ。ホテルはあっち。ここでしゃべり倒して夜明かしする気か、ん?」
伯爵は少佐を見つめ、微笑んで口を閉じた。この「ん?」が、伯爵はたまらなく好きだった。低い、喉の奥から生じ、呼気とともに鼻腔をゆるやかに通り抜けてやってくるこの「ん?」は、深い、落ち着いた響きを持っていて、静かな森の、もやのかかった空気の中から響いてくるようにも感じられ、動じず、男性的だった。責任と自覚、なにかを引き受けることへの覚悟、そういうものを体得してきた男が、それゆえに示すことのできる慈愛に似たもの。語尾が少しだけ長くのばされて、幾分気だるく、ちょっと抜けているようにも感じられ、プライベートな、親密な空気を感じさせもする。こちらのなにかを優しく引き出すようでもあり、快楽を誘い出すあの動きにも似ている。
いつもそうするのだが、彼は「ん?」と云ったあと、唇の端だけで小さく微笑し、伯爵の頭をぽんぽんと二度軽く叩いた。伯爵は、それでもうすっかり、心から満足した。彼の空気に包まれ、彼のうちにいるのを感じた。
ホテルは、少し遠いが南駅から歩いても行けた。一度ホテルへ行って邪魔なスーツケースを放り出し、食事のためにまた外に出た。伯爵はずっとしゃべり続けた。なんでもかんでも報告しないと気がすまない子どもみたいに、会わないあいだにあったことを……そりゃあいろいろとあったので……順序もへったくれもなく思いついたまましゃべった。ときどき話の速度にドイツ語単語への変換が追いつかないことがあって、そうすると伯爵はちょっと止まり、英語で単語を云った。すると少佐はドイツ語の単語を返した。それがもうすでに頭の中にある単語であるときは、伯爵は納得した顔をし、そうでなければ、少佐に手のひらを指しだした。すると少佐はそこに、ひとさし指でつづりを書いた。ひとつずつ、アルファベットを云いながら。その少しくすぐったい感触を、伯爵はとても愛していた。自分の愛する男に教え導いてもらうのはすばらしいことだった。その男の秩序の中に入りこんでいくことは、たとえようもないよろこびがあった。伯爵は、猛烈な勢いでドイツ語が好きになっていた。その、深い霧の中にいるような、鋭い子音がばらまかれちりばめられた響きを。母音の豊かなイタリア語やフランス語のようなラテン系の言語とはまるで違う、北方の思索的で内省的で、うちにこもったその響きを。伯爵は自分がその深みの中で恍惚として漂っているのを感じ、彼に抱かれているように感じた。伯爵は、自分は母音的だと感じていた。感性と感覚と官能とは、母音の豊かな、波のような音のひろがりの中にあった。一方、少佐はといえば、子音の鋭さであった。空気を切り裂き、母音の通り道を開く、その力であった。伯爵はその力のことを思うたび、身体のそこかしこが疼き、自分の感覚のすべてが、それを求めて嘆息するのを感じた。
ときどき話を聞いてるかどうか確認するために、伯爵は少佐の顔を、首を伸ばし少し身体を傾けてのぞきこんだ。返ってくるのはたいていそっけない一瞥か、短い「ん」だけだったが……この「ん」は切りつめられいささか無愛想に感じられるが、悪くはない……五回に一回くらいは、巻き毛に指がやってきてくすぐられる反応があった。伯爵はそれでまた、大いに満足した。たくさんの男たちに、過大なほどの愛のことばや仕草でちやほやされ、甘やかされてきた伯爵は、自分がこんなささいなことでひどく満ち足りているのが不思議でもあり、おかしくもあった。少佐はそれらしいことをなにひとつ云ったりやったりしないのに、その実ささいな仕草から、ほんのちょっとしたことばの切れ端から、百億の愛撫を並べたものよりもずっと深いものがほの見える。彼の愛には重さがある。ずっしりした実感がある。浮ついていなくて、堅実で、責任を持って受け止め、守りきろうとする、器用で華やかではないけれども美しい愛。堅実な結婚生活を望む女というものは、こういう愛を普遍に得るものなのだろうか? まっとうな世界の倫理的で常識的な愛が、もしもこういうものだとしたなら。伯爵はふいに、それに対する嫉妬じみた、すねた感情を覚えた。男の誠実な愛は、いつだって女のものだ。女は弱く、したたかで、男のある本能に訴えかける強烈な力を持っている。男に帰巣本能を植えつけ、飼い慣らすのは女。男と男は火花散る火遊び。肉の享楽。どこかただの、友情の延長のようでもある。
きっと彼だからだ、と思う。こんなふうに、誠実で美しい愛を捧げてくれるのは。少佐は、男の男に対する愛し方を知らない。たぶんそれは永遠に、彼にとって開かれない領域であるのかもしれない。だから、少佐は男が女に対してするように、誠実さと堅実さをともなうものを、向けてくるのかもしれない。そして伯爵はそれをとても新鮮に、そして真摯に、受け止めている。戸惑いを覚えながら。そして少佐もまた、自分と同じように戸惑い、模索しているのを感じる。伯爵が女ではなく、あらゆる面で自分と対等であることを鑑み、そういうものへの愛し方をいったいどうするべきなのか、女に対してするような既存のやり方ではなにがやりすぎで、なにが足らないのか、そういうことを、探っているのを感じる。彼に、云わなくちゃ、と伯爵は思う。お互いに違う世界に生きてきたから、なにもかもはじめてで、だからこそ、そのふたつの世界のために、それがどれほど違うのか、云わなくちゃ。わかりあえないとしても。わかりあえないことで、できあがるものだってあるはずだ。
部屋のドアがふたりの後ろで閉まった。伯爵は少佐が動き出すより先に急いで彼の首に腕を回して、頬にキスした。少佐はこちらを振り向き、いつもの、ほんとうにかすかな微笑をもらした。伯爵はその微笑で、あらゆる彼の考えを読みとるすべを、すでに心得ていた。鼻先が触れ合っていた。伯爵はわざとばかみたいにゆっくり、少佐の目を見つめながら目を閉じた。閉じる直前まで、あの緑がかった灰色の目もこちらを見つめていた。静かに、深く。彼の手が、巻き毛をゆっくりくしけずった。くちづけは丁寧だった。近づいて離れ、ついばんで食みあう、つつき出す動きにも似ている愛撫に、伯爵は自分の引っかかりが誘い出されていると感じた。ふいに、少佐はもうなにもかもわかっているのではないかという気がした。動揺も、混乱も、度し難い自分の性質も。ほんとうは、こんなことになる前から、彼はそれをすっかりわかっていて、覚悟していたような気がした。どれだけの葛藤があるか。どれだけのへだたりがそこにあるか。伯爵はもっと軽い気持ちで、なんとかなるという思いだけで、この関係をはじめたのだったが。伯爵は泣き出した。彼の真摯さ、誠実さに、自分の愛では、その性質では、とても応じきれないような気がしていた。唇が離れ、少佐の手が頬を拭い、そのまま巻き毛の中にすべりこんでいった。「どうした、ん?」と彼は耳元で低く、つぶやいた。また「ん?」だった。伯爵は反射的に身体をふるわせた。オルガスムスのときの、あの感じが一瞬、身体の上を通り過ぎていった。
伯爵は今度は……今度こそ……真摯に話しはじめた。ソファに並んで座り、窓からブリュッセルの夜景を、ぼんやり見つめながら。少佐は微笑を絶やさずに聞いていた。年少の者を扱うときの、経験と年月とに裏打ちされた自信を持つ男の微笑だった。それはなにもかもを許容しようとしていた。伯爵は、彼の愛の前では、彼の愛の領域の前では、自分はまったくもって、ずぶの素人みたいだと思った。伯爵の愛は、いつも真剣だったが、瞬間的な燃え上がりで、演技と誇張と享楽的な雰囲気に満ちていた。少佐のそれは辛抱強く正直で、控えめさの中に確信があり、響くような重たさだった。彼はその違いを、その違いの前に少しだけ、自分を見失いそうになる瞬間があるのを、なにかがぐらつく感じを覚えるのを、あるいはもしかすると、戸惑い、恥じ入っているのかもしれないことを、ことばを選びながら話した。少佐はずっと微笑したままだった。緑がかった灰色の目を、おもしろそうにずっと細めていた。伯爵は何度も話を止め、「わたしの云いたいことがわかる?」と云った。自分の話がわかってもらえない、ということについて、彼は昔から少し神経質になりがちだった。少佐はそのたびにうなずいた。うなずいて、続きを促すようにまばたきし、小さく首を傾けた。
論点は、と少佐は伯爵の話が終わると云った。このたったふたつに集約され得る。ひとつ……少佐は右手の指で左手の人差し指を立てた。グローリア伯爵はそもそも、己の官能を監視し、抑制することができるか。ふたつ……少佐は今度は中指を立てた。それが不可能である場合、エーベルバッハ少佐はそれを容認できるか。そうして、幾分挑みかかるように、あるいはからかうように伯爵を見た。
「どっちも不可能だったら?」
伯爵は絶望的な気持ちで云った。
「Ende」
少佐は云った。伯爵は両手で耳の上の髪を掴み、目を見開いた。少佐は吹き出した。
「冗談だ」
「ずいぶんきついね」
伯爵は恨みがましい口調で云った。少佐は笑った。
「だが悩むに値するとは思わん」
少佐はまだ面白そうに笑っていた。
「おまえは自分の愛の大きさがわからんのかとかなんとかしょっちゅう云っとるが、おんなじセリフを返せるぞ。おれの愛のでかさがわからんのか? 七つの海かけあわせたよりでかいぞ。イエスも御仏もびっくりする」
伯爵は笑えなかった。真剣な、青ざめた顔で少佐を見つめた。
「……わたしは真剣なんだよ、クラウス」
「そりゃそうだろう。おれだって真面目だ」
少佐は肩をすくめた。
「だったらそんな答えってないだろう? わたしがなにを云いたいかわからない? わたしは放っておくと、気ままに自由にしてる、わたしだけが! 一方で君は、自分を縛りつけておく。わたし以外の誰かに、うっかり心を開かないように」
「なんて誠実な男だと思うだろ。もう少し喜べ」
「喜べないよ! 不公平だ」
少佐は肩をすくめた。彼はまだどこか、この対話を楽しんでいるように見えた。伯爵は自分が、まるで子どもみたいにあしらわれていて、自分の云っていることがたわごとで、まともに扱われていないような気がしはじめていた。そういうのはうんざりだった、大嫌いだった。伯爵は昔、いつもそれで苦しんだ。ほとんどの人間は、こちらの云うことをまともに取り上げようとしなかった。誰も、伯爵が気がつくようには気がついていなかった。伯爵が感じ入るようには感じ入っていなかった。みんな、目も耳も塞がれているみたいだった。世界はこんなに美しくて、感動的で、不思議なものなのに、喜びは世界中にあふれているのに、誰も彼もそれを本気にせず、不幸で、傷ついていて、傷つけあっていた。少佐もそうなのだろうか? だとしたら、もうおしまいだ!
伯爵は悲しかった。子どものときのように悲しくて、涙が出てきた。無理解と差異とに絶望していたころの、あのときの耐え難い寂しさと孤独が、ふたたび蘇ってきた……時間は不思議なものだ。意識のある領域、傷ついた心の領域では、それは永遠に流れてゆかないかに見える。滞留し、滞っていて、ささいなきっかけですべての痛みが噴き出してくる。伯爵は、ひとりぼっちだった。彼を愛しているけれど、どんなに誰かを愛しても、結局のところはひとりぼっちなのだ、という気持ちがしていた。少佐の腕が頬に伸びてきた。伯爵はふりはらった。何度か格闘があった。とうとう、少佐は本気で彼を押さえつけ、ほとんど羽交い絞めにした。
「泣くな、こっち向け……わかった、わかったおれが悪かった。暴れるな。戻って来い。話は聞こえとるしわかっとる。悪かった、ないがしろにしてるわけじゃない」
伯爵は少佐の胸に頬を押し当てられ、抱きしめられた。心臓の定期的な鼓動が響いてきた。少佐がこちらを連れ戻そうとしているのがわかった。シー、という、あの、気を静める不思議な深い響きが、耳に響いてきた。伯爵は彼の腕の中で嗚咽を漏らし、目をつぶって、じっと胸をえぐるような慟哭の、耐え難い痛みに耐えていた。背中をゆっくりとさすられているうちに、彼の体温を感じているうちに、それはしだいに落ち着いてきた。伯爵は取り乱したのを詫びた。少佐は彼のまつ毛に散らばった涙に唇を寄せ、もう一度、詫びた。もう十分だった。伯爵は落ち着いており、胸の中に甘い、痛みが過ぎたあとの優しい気分の広がりがあった。どこか夢見心地だった。伯爵はうっとりとして、少佐の腕の中で話しはじめた。
「わたしは官能の生き物なんだ。官能と、愛と、自由の中で広がる生き物。わたしのハートは間違いなく君のものだけど、でも、わたしは君のやり方で誠実であることはできない。世間一般のやり方で、君に身も心も捧げるってことはできない。できるけど、違うんだ。やれるけど、ぜんぜん違うものになる。わかる? わたしにとっての最大の誠意は、いつも君のところへ戻ること。飛び回るけど、でも帰ってくるよって、誓うこと。それしかできない。たぶん、君たちの世界ではそれを誠実なんて呼ばない。移り気で、ふしだらで、堕落しきってるって云うんだ。でも、自由を否定されたらわたしは死んじゃう。官能に身を任せることを禁止されたら……だって、それがわたしのすべてなんだ。自由であること、あらゆるものに開かれた心を持つこと、感じること、全身で! わたしの全生命で。それがわたしだし、それが使命なんだ。そうしろって命じる声がするんだ。いつもいつも。世界を賛美し、讃えよ! すべてのものの中にある官能的な響き、わたしの身体はその触媒。圧倒されて、その中に迷いこんで、ふらふらになって……エクスタシーはもともと神との合一のことだけど、わたしはそれがなんなのかわかる気がする。知ってるんだ。それがどこにあって、どんなものなのか。それに耳をふさいでるわけに行かないんだよ。それは不断にわたしに呼びかけてくるんだ。いろんなところから、いろんな声と、メロディでね。わたしは罪の一切を否定する、道徳的な一切の規範を否定する。なぜなら、それは足かせにすぎない、人間の創りだした屁理屈にすぎないってこと、知っているからだ。だから、わたしはそれに従うわけに行かない。わたしの内なる声が云うことに、従わないわけにはいかないよ。わたしがいまここにいるのは、楽しんで、幸福であるためだ。ほんとうはみんなそうなる権利を持ってるのに、誰もそれに耳をかそうとしない。誰も幸福への声を聞かない。呼びかけに応えない。挙句に、自分が幸せじゃないからって、それを体現してるひとのこと、逆恨みするしさ。うんざりだ。みんな大嫌いだ。誰も彼も、不感症のニブチンの豚なんだ。自分で自分を縛っておいて、それを断ち切ろうとすると怒り出す。自分がなにに縛られているかろくろく考えたこともない! 人生の最初にして最も悲しかったことは、自分はたいていのひととほんとには、親しくなれないんだってわかったこと。ほんとに悲しくてさ。毎日夜になると泣いてた。だからいまも泣いてしまったんだけど」
少佐は、ん、と云った。伯爵は彼の頬に、頬を寄せて甘えた。
「……おれが云いたかったのはな」
少佐が云った。
「おれをおまえみたいな精密機器と一緒くたに考えんでもいいんだってことだ。おれはもっと大雑把で粗雑にできとる。わかるだろうが、ん?」
伯爵は微笑んで、うなずいた。
「君は不感症だ。わたしに云わせれば、とんでもない不感症」
「そうだ、不感症だ。いちニブチンの代表として、普通の人間ってのがどういうもんか教えてやろう。おれは現実と自分とのあいだで、葛藤なんぞせんかった。なんでって、おまえが感じることの百億分の一も感じないからだ。わからんのさ。これはこういうもんで、それはそういうもんだと云われりゃあ、そういうもんだと思う。それで、別に悩みもしない。おまえが大嫌いなニブチンの人間ってのは、そういうもんだ。考えもしない、感じてもいない、見えてもいない。この世界はそういう人間で回っとる。それこそ、おれみたいな情緒もへったくれもないやつが回しとるんだ。大昔からな。目が覚めていて自覚的な、そういう鋭敏なやつだけが痛い思いをするんだろうよ、いつでも」
伯爵は熱のこもった、真剣な目で少佐を見つめた。少佐は微笑した。
「だから、この上おれのことまで気にせんでもいい。だいたいの人間は、おまえほど自分の感情も、意識も自覚しない。自分と真面目に関わらんように生きてるようなもんだ。おれもそうだ。だからおまえが骨を折ってるのはわかっとる……自分で片づけるべきところを、おまえにやらせてるのもわかっとる」
「ねえ、ちょっと待って、それは違うよ。訂正していい?」
少佐は力強くNein! と云った。
「訂正じゃなくて弁護だ、おまえがやろうとしてるのは。違うか?」
伯爵は確信が持てなかったので、黙った。
「話戻すぞ、なんだった? ああ、そうだ、だからなあ、おまえ、好きにやってりゃいいんだ。感じないってことは、適応能力が高いってことでもあってな。たぶんそのうち、おまえのやり方に慣れるだろ。それで、まあいいか、になるだろうよ、おれは。というか、んなこたあはじめっからわかっとったことで……な? おれの愛情は局所集中型だが深いんだぞ。我ながら惚れ惚れする」
伯爵は笑い出した。笑いながら、少佐の頬にキスした。
「OK、よくわかった。でも、最低限の約束ごとを決めよう。君のためっていうより、わたしが混乱しちゃうのを防ぐため。わたしはこれまでも相変わらず、みんなの伯爵さまだけど、でも……そうだな、こうは考えてたんだ、ほかの誰かと、セックスはしない」
「そりゃものすごい譲歩だな」
少佐はおどけた。伯爵は彼の顔を叩いた。
「こういうのは許してくれる? たとえば、誰かがわたしにとっても熱い視線を投げてきたとき、そしてそれでわたしにちょっと火がついちゃったとき……火がつくのはとめられない、これは無理だ。わたしはそういうのに敏感なんだ。しょっちゅう感じまくってる。あれやこれやがわたしを刺激する。わたしはすぐ、官能的な気持ちになっちゃう。変態だって、云うなら云っていいよ。でも、そういうときにさ、落とし所を探るためにキスするようなこと、これは認めてくれる? キスすることで、これ以上はなしって、すごく明確に伝えられることもある」
少佐は両手を上げた。
「あーあ、いやだな! わたしって堕落してる。君の禁欲と潔癖さを、ちょっとわけて欲しいくらい。もらっても、三日後……ううん、三時間後にはつきかえしちゃうと思うけど。性に合わないからって……そうだ、あれは性に合わないことだったんだ」
伯爵は自分がベルギー紳士へのキスを我慢したことを思い出した。
「もやもやしたなあ! 君のこと考えて、耐えられたけど、じゃなきゃ絶対耐えられない。ねえ、だから、欲求不満もいいとこなんだ。いま」
伯爵は意図的に声のトーンを落とした。自分の中の疼きに自覚的になったとたん、伯爵は自分が蘇るのを感じた。突如自分の血という血が沸き立ち、自分が力強く、確固たるものに感じられた。自分の色と形、味と香り、そのすべてが、開花しはじめているのを感じた。彼は少佐の首に腕を回し、熱っぽい目で彼の目を見つめた。そうして、草陰で獲物を待つみたいにじっと、自分の熱が彼の中に響いてくるのを待った。彼に、応えられる自信があった。この領域でなら、彼をすっかり満足させ、応じられる自信があった。そして、ふたりでより高いところへ、到達できる自信があった。
「とっても、とっても爆発しそう。我慢するんじゃなかった。ここに来て、わたしを連れ帰ってくれる? わたしの王国へ。あらゆる喜びに満ちた場所へ。すべてがきらめいて、美しく香ってる。わたしはそこで、はじめてほんとうのわたしになる……君もよく知ってるよね?」
伯爵は唇と鼻先で黒髪をかきわけ、彼の額にくちづけた。ゆっくりと立ち上がり、少佐が立ち上がるのを待った。自分の身体が燃えているように、伯爵は、少佐の目が燃えているのを認めた。
少佐は彼の中を時間をかけてじっくり探った。あらゆる反応は細かく観察され彼の灰緑の両目に注ぎこまれ、伯爵は緊張と弛緩の波のあいだを何度も心地よく行き来した。伯爵はそのたゆたいの中で、自分がこれまでとまるで別のやり方で、静かに、深く、そしてとても情熱的に愛されているのを、さきほどのことばでのやりとりよりも明確に、はっきりと感じた。少佐は彼に、なににもなる必要はないと云った。ただ、これまでと同じように、真実自分であることを、貫けばいいのだと云った。伯爵は、怖いほど幸福だと云った。少佐は、それでいいのだと云った。そのことばが、伯爵の中に染みわたってゆき、彼に力を与えた。もう完全に、自分を取り戻したと感じた。自信と誇りと、幸福と愛を。それは、自分自身のためだけでなく、他人に与えるためにも、いつもこの身体のうちになければならないものだった。
頂点に達し、その余韻の中で泣き、そこへ浸りきって戻ってくると、自分も世界も、いつものように喜びと輝きにあふれていた。なにもかもが自分の中にあって、なんだってできることに疑いを持たなかった。すべての幸いはここにあり、愛は彼とともにあった。そして少佐は、どこか満足した顔で、少しまぶしげな目で、そういう伯爵を見ていた。伯爵は彼の愛と自分の愛のあいだにあるものを、ひとつ超えたと思った。彼はもう揺るがなかった。少佐が云うところの局所的で奥深いその泉の中にいつも片足を浸しており、そこから生まれ、そこへ戻る。そのことを確信していた。伯爵は、自由だった。前よりももっと軽やかで自由だった。彼は、故郷を持ったのだ。帰るべき場所を。いつまでも自分を待ち続ける空間を。
伯爵は笑いが止まらなかった。元気になり、軽い空腹を感じた。それを云うと、少佐は微笑し、冷蔵庫を開けてみるように云った。
「もらいもんの甘ったるいやつが入っとる」
伯爵は喜んで冷蔵庫の前に飛んでいった。ピエール・マルコリーニのチョコレートとケーキ。本場ベルギーでだって、並ばないと買えないやつだ。
「これ、誰が君にくれたのさ?」
「本部の事務の女」
少佐はたばこをくわえたまま投げやりに云った。伯爵は信じたが、信じなかった。そうして、鳥のように軽やかで幸福な気持ちを感じた。
「ねえ、クラウス、愛してるよ、君だけだ。わたしのすべては君のものだよ。いつでも、どこにいても」
少佐は微笑し、それから、伯爵が冷蔵庫から引っぱってきたチョコレートの甘い香りに眉をしかめた。