6 七月二十七日の夜と誕生日当日の話
執事を部屋へ置き去りにしたあと、ふたりは夕食のために着替えた。旧市街の海を眺め渡せるレストランを予約してあった。伯爵さまはすばらしい青のドレスを着て、髪をまとめて折りたたんで、髪留めでとめた。そうして首と耳に、グローリア家伝来の真珠の首飾りと耳飾りをぶらさげた。これはあんまりすばらしいので、グローリア家の女性たちは代々、ひと前ではまがいをつけていたのだった。伯爵はそんなことはしなかった。彼は自分にはまがいものなど似合わないのがわかっていたからだ。
伯爵がそういう服を着て、肩から手編みの途方もないレースのショールを羽織って珊瑚のバッグを持つと、少佐のありきたりな男性式正装はすっかりできあがっていて、なお煙草を一本吸うだけの時間が余ったのだった。
ふたりがボートへ乗りこもうとやってくると、ボロボロンテの手下たちはいつものことながら、一瞬絶世の美女がきたかと思って鼻の下をのばした。それからいつもの伯爵の女装だということに気がつくと、決まりの悪そうな顔をして遠慮がちに目を背けた。少佐はうやうやしく伯爵さまをクルーザーの中へ引き入れて、それから自分でエンジンをかけて、島を離れていった。
「きみは帰りには酔っぱらい運転になるよ!」
伯爵さまは云った。
「わたしが保証してあげる!」
伯爵さまはけたけた笑った。
「なんとでも云うがいいさ。いざとなったら、おれを捕まえに来た警官か役人かなんか、こいつでしめあげりゃいい。そのあとで、ひとりずつアドリア海のど真ん中へ投げこむんだ。ざまあみやがれ」
少佐は床下収納のドアを開けて、物騒な銃だの縄だの照明弾だのいうのをずらっと船内に並べた。伯爵さまは手をたたいてよろこんだ。
「すてき! あなたって男らしいのねえ」
そうしてうっとりした顔で、この勇敢で物騒な操縦士を見つめた。
エーベルバッハ少佐はかような美女を連れて、レストランやホテルや劇場のような、欧州の社会通念が男女ペアを推奨する場所へ乗りこんでゆくとき、ひそかな満足を禁じ得なかった。女装姿の伯爵を見ると、レストランではたいてい、通りからもっともよく見える席へふたりを案内しようとしてたいへんなものだった。美しい、金持ちそうな伯爵は店にとって、まさにおのれの店のステータスの証明になるからである。そうしてふたりはもっともゆきとどいたサービスを受けるのだ。いったいこういったとき人間に否応なしに生じる、見苦しい優越の感情から逃れられる幸運な御仁があろうか? そんな人間は、いたところでたいしたやつではないだろうと少佐は思った。
美女はレストランのテラス席の一角で、夜の帳の降りてきたアドリア海を背景に、アドリア海の真珠よりもなお美しくたたずんでいた。ふたりをへだてるテーブルには光沢のある純白のクロスがかけられ、赤いバラと色ガラスの容器に入ったろうそくが飾られ、シャンパンの泡が光る細長いグラスがあった。バラとろうそくの隣には、木でできたぽてっとした柄とリボンのついた呼び鈴があった。これは揺らすとリンという涼しい音がした。この音を聞きつけるや否や、矢のように給仕が飛んでくるのだ。もっとも、ひとびとはこの鈴をあまり揺らさないで、もっぱら目配せで給仕を呼んだ。給仕のほうでもそれが可能なように気をつけていたからである。
伯爵はたぶんこんな、いわゆるロマンティックな食事の場面など飽きるほど経験してきているに違いないのだが、それでも満足そうであった。そして少佐はそれで満足であった。
「やっぱり使用人ってものは、こういうふうに呼び鈴で呼ぶんでなくちゃ話にならないと思わなくて?」
伯爵さまはいまは女性らしい話し方をした。少佐は伯爵が見つめる先を、つまりバラの一輪挿しとろうそくの隣に置かれた呼び鈴を見やった。少佐は同意を示し、鳴らないように気をつけながら呼び鈴を手に取った。
「あんな黒い機械で呼び出されるなんて、コンラートがかわいそうだわ」
「あいつはそのことで、たぶん少なからず威厳を傷つけられたろうからな。あいつはもう寝とるんだろうか? 八時を過ぎたが」
少佐は腕時計を見て云った。
「寝ているかもしれないわ。そして明日の朝ははりきって四時前から起き出して、仕事にかかるかもしれないわ」
前菜が運ばれ、グラスにクロアチア産白ワインが満たされた。タコやムール貝がどっさりついたサラダで、これはその昔任務で赴いた海っぺりの街で、魚介食いで名を馳せた少佐を喜ばした。彼は牡蠣をいちどきに四ダースたいらげることもできた。そして実に気前よく代金を払ったので、地元のひとびとに熱狂を持って迎えられたのだった。
少佐はよりによってクリスマスの時期に執事を故郷の田舎村まで追っかけていった話をした。執事のためにあの一枚の絵を買ってからというもの、少佐の中でその思い出がしきりに渦巻いて、外へ出たがっていた。クリスマスを前にして、執事がたった一日の休暇を願い出たことからはじまる、なかなかに愉快な冒険譚は、この期に及んで少佐の胸ひとつにたたんでおくには、あまりにもうるわしすぎた。少佐はなつかしく思い出しながら、変装して駅から執事を尾行した話や、執事の実家へ行こうとタクシーに乗ったら隣の村で降ろされたとか、村の少年クラウスがなかなか機転のきくやつだったとか、村の聖人ヤーコプ神父と四人の少年たちが守り通した秘密のことを、誰にも話さないという誓文まで読んだのにもかかわらず、話した。これはゆゆしきことだった。秘密の神聖さと重大さを最大限尊重しなければならない職業に就いているエーベルバッハ少佐にとっては、かなりの問題行為だった。けれども少佐はこれが問題にあたるとは思わなかった。少佐の目の前で、優しく微笑しながら話を聞いている伯爵は、少佐と執事のヒンケルの中へ割りこんでくることのできる、おそらく最初で最後のひとだった。
少佐は話を終えてから、昨日の服にはじまり今日のあまたの買い物まで、伯爵が執事に示した桁違いの気遣いについて改めて礼を云った。
「どうして? 当然のことじゃない」
と伯爵は微笑した。
「父はいつでもわたしに優しかったけど、唯一厳しく云ってきかせたことはなんだったと思う?」
伯爵は茶目っ気たっぷりに首をかしげた。少佐はなんだと問い返した。
「自分の配下にある者を人間らしくいたわること。わたしはきっと、そういう連中に途方もない迷惑をかけるのだから、ねぎらうことを忘れないようにって」
少佐は考え、それからゆっくりと微笑した。
食事が終わりに近づいて、あとはデザートだけになった。給仕がろうそくのたくさんつっ立った、大きなハート型のフルーツケーキを運んできた。宝石のように色とりどりのフルーツと生クリームの乗ったケーキの上に、誕生日おめでとうのプレートが乗っていた。伯爵は目を白黒させた。彼はなんにも知らなかったのだ! 当然だ。これはエーベルバッハ少佐が独自にしたことなのだから。少佐は隙を見て、レストランへ電話をかけていたのだった。そうして、誕生日のお祝いをなにかしてくれるように、密かに頼んでおいたのだ。また別の給仕が赤いリボンのついた大きな花束を持ってきて、伯爵へうやうやしく手渡した。あたりの席のひとたちはにやにやしながら、あるいはごく表面的な周囲との同調の表情を浮かべながら、これを見、美しい令嬢が古典的な手法でもってろうそくを吹き消すと、いっせいに拍手をした。
この使い古された手にも、伯爵は何べんもあっているに違いなかったけれども、それでもやはり彼は素直に感動して、しばらくはものも云えないでいた。それから少佐をじっと見つめ、一度目を伏せて、もう一度見た。少佐は眉をつり上げた。彼は別にお祝いのスピーチをするのでも、プレゼントを仰々しく手渡すのでもなくて、ただ椅子の背もたれに片腕を置いて、満足そうに、からかうように、伯爵を見ていた。彼らが男女ペアになってレストランへ乗りこんできた瞬間から、彼らが一種の演技を貫き通していたことは間違いなかった。この誕生日のサプライズというやつにも、やはりなにがなしわざとらしい、あまり少佐らしくない演技性というものがあった。伯爵は少佐が自分をこのような典型的な状況の中へ押しこめてからかい、けれどもそのからかいに乗じて少なからぬ誠意を見せているのを感じた。伯爵は礼を云った。少佐は唇の端をつりあげて返してよこした。それでいいのだった。
伯爵は育ちのいい女性がなにかしてもらうとそうするように、周囲へ純粋な感謝と愛想を振りまいた。それからケーキを切りわけてもらい、満足そうに食べた。ケーキは大きかったので、残りは持ち帰ることにした。それから長いことうっとりと少佐と話しこんで、席を立つころにはすでに日付が変わるところだった。
少佐は酔っぱらい運転で島へ帰った。警官だの海上警備隊だのは出てこなかったので、ふたりとも少しがっかりした。少佐はお役人を海へ投げこむかわりに、銃だの縄だのを次々に海へ投げこんだ。伯爵さまは履いていた美しいお靴を海へ放り投げた。そうしてけたけた笑った。
伯爵さまはお靴がないので、当然ながら上陸しても歩けなかった。執事のヒンケルを呼んでスリッパを持ってきてもらうわけにもいかなかった。伯爵さまはそこで、少佐と向かい合って少佐の両足の上に自分の両足を乗っけた。そうして少佐に歩いてもらった。少佐はたいへんな苦労をして、両足にふたりぶんの体重を受け、一歩一歩巨人かなにかみたいにのしのし歩いた。
ホテルのロビーやバーには何人かのお友だちがいて、変な格好で歩いてくるふたりを見て、思わず笑ったり吹き出したりした。伯爵は少佐へとりすがってのべつ頬ずりしたり、立て続けに頬にキスしたりしていた。自分を見るお友だちの視線を感じると、伯爵は盛大に手を振って、ひょいと少佐から飛び降り、素足でケーキの箱を振り回して彼らのもとへやってきた。そうして、箱ごとお友だちへあげてしまうと、両手を盛大に広げて投げキスをし、大きな声でおやすみを云って、エレベーターホールへ引き返していった。それでまた少佐にとりすがり、ついには少佐に尻を抱えられて、やってきたエレベーターに引きずりこまれていなくなった。
「なんでも若いうちさ。ふざけるのも、よろこびも悲しみも!」
お友だちのひとりがそう云って、読んでいた新聞へ視線を戻した。
「愛でさえもかい?」
別のお友だちがからかうように云った。
「……いや、そいつは年齢に関係なかったな」
新聞を読みはじめていたお友だちは顔を上げ、しばらく考えてから云った。
「なあに、なにさ?」
伯爵は風呂へ入りすっかり身ぎれいになって、ガウン姿でベッドへ横になっていたが、同じく風呂から出てきた少佐がぐいぐい起こすので起きあがった。酔いはもうさめていた。でもまだなにかうっとりした気分の残滓は彼の中に残っていた。伯爵は少佐へよっかかった。少佐は紙袋を手にしていた。眉をつりあげて、咳払いをひとつし、少佐は腕時計を確認して、正しくとうの昔に日付が更新され、ただいまは二十八日であるのを確認した。そうしてこれは誕生日のプレゼントである、と伯爵さまへうやうやしく紙袋の中身を取り出してよこした。伯爵は目を輝かした。
紫紺の布張りに金細工のふちどりと脚がつけてある宝石箱が出てきた。布も金細工もだいぶくたびれていた。相当に古いものであるのは間違いなかった。
「いつだかおまえに云った気がするが、うちのシャルロッテばあさんの仰々しい真珠の話」
伯爵は覚えていた。
「聞いたよ。耳がちぎれそうな大きな真珠の耳飾りだろう?」
少佐は微笑した。
「それだ。正確に云うと、そいつは耳と首の飾りのセットで、代々ばあさんの家に伝わる逸品だった。ばあさんは、死ぬ前に遺言で、こいつをおれの母親に残した。なぜそうしたのかは知らん。自分の娘がいなかったからかもしれんし、だからといって親戚にもやりたくない理由でもあったのか、それとも単に嫁を気に入っていたのか……シャルロッテばあさんが死んだとき、おれの母親の腹の中には正しくおれがいて」
少佐は複雑な顔をした。
「まだ男か女かもはっきりしなかった。ばあさんはこいつが女である可能性に賭けたのかもしれんし、男だとしても、嫁がさらに女児を生んでくれる可能性に賭けていたのかもしれん。わからんが、とにかくこいつはばあさんから母親の手にわたって、その後はおやじの所有になった。ということは、おやじが再婚せんのだから、これはいずれおれの所有になるわけだ。実際あのくそおやじはおれが嫁をもらう夢をいまもって見ていて」
少佐は肩をすくめた。
「その嫁に一族伝来の宝石類のいっさいを与えようと思っとるらしい。そいつはおやじの勝手だが、おれにはおれの勝手がある。長話は以上だ。とりあえず、こいつを持っといてくれ」
少佐は宝石箱を開けた。箱の中には、実にみごとな大きさの涙型の真珠の耳飾りと、二連になった真珠にエメラルドとこれまた大粒の真珠とがあしらわれた首飾りがおさまっていた。伯爵さまは息をのんだ。こういう逸品は、もう古い家の金庫からしか出てきようがない。年代を経て深みを増した真珠、腕の確かな職人が手作業で作り上げた台座や金細工、現在採れるものとは輝きの違うエメラルド。
伯爵さまはなにか恐れ多い気がした。彼はふつうどんな宝石の前にもひるまなかった。どんなに華美で豪奢なものであっても、必ずやそれを手なずけ自分の前に屈服させてしまう自分の力というものを、伯爵は素直に信じて疑っていなかった。けれどもこれは、この真珠は、彼がこれまで数々捧げられたアクセサリーとはわけが違う。これは身につける人間を選ぶものだ。正規の審判と手続きとを経て、正式な資格を身につけた者だけが身につけることを許されるたぐいのものだ。伯爵はそれを知っていた。彼もまた自分のそういうものを持ちそれを身につけてきた人間だったからだ。今日レストランで身につけていた真珠のように……あれは軽い気持ちで、アドリア海の真珠へ敬意を表して一族の宝石箱の中から持ち出してきたのだったが……だがそういう軽い気持ちで扱えるのは、伯爵がグローリア家の人間であって、正式にその資格を有しているからだった。一族の宝石箱は、彼の前には頭を垂れ、静かにふたを開いて中を蹂躙されるままにまかせた。血という資格を持つ者の前には、一族の肌を彩ってきたこれらの宝飾品は非常に従順だ。けれども、そうでない者の前には、命取りにすらなり得る。こうした宝飾品は自分の意志を持っていて、身につける者を調査し見極め合否の判決を下すのだ。おそろしいほど正確に。
伯爵は自分がなにかうろたえているのがわかった。彼はこういう問題について、周囲に思われているよりもずっと保守的な人間だった。彼は商品であるものとそうでないものとの区別を知っていた。無慈悲に横流しにしていいものとそうでないものの違いを知っていた。来歴を調べるまでもなく、見た瞬間にそれはわかる。一家の、一族の歴史を吸いこんできたものは重い。ときに五百年を超える果てしない年月の中で、さまざまの所有者の肌の上へ乗せられ、世のひとたちの嫉妬と賛美とを受け、うらやまれ、欲せられてきたものたちには独特の重みと意思のようなものとがある。伯爵は自分のために作られた宝飾品ならば喜んで受けた。けれども、このオーマ・シャルロッテの真珠の首飾りと耳飾りのように、所有するに際し資格を有するようなものは……しかもエーベルバッハ家の所有物とあっては、その厳しい判定に合格しその重みに耐える自信は、伯爵にはなかった。
伯爵は困ったように少佐を見、やや身を引いて、それから決然と首を振った。
「悪いけれど、これは……これは、わたしには一生縁がないか、少なくとも、わたしたちにはまだ早すぎるように思うよ、クラウス」
少佐は眉の片側をつり上げた。意外な答えだったのはあきらかだった。伯爵はやや硬直した少佐を安心させるように早口で続けた。
「誤解しないでほしいんだけど、いやだと云うんじゃないんだ、きみの気持ちはとてもうれしいよ、ただ……」
伯爵はどういったらいいものかしばらく考えた。そうして率直に云うほうを選んだ。
「こういうものは、いくらわたしだって、はいはいと云っておいそれと受け取れないよ。これを受け取ることが、なにを意味するのかきみならわかるだろう? これは単なるアクセサリーじゃない。一族の象徴なんだ。その家の歴史の重みそのものだ。こういう考えは、もしかすると古いのかもしれないよ。だけど、わたしはそういうふうに考えるわけにいかない。わたしもそういうものを背負った人間のひとりだからさ」
伯爵はおそるおそる少佐を見つめた。少佐はおなかでも痛いような難しい顔をしていた。
「……わからん」
少佐はつとめて押し殺したような声で云った。
「おれにはほかに、こいつの譲り渡し先が思い浮かばないが」
「譲り渡し先って……だってこれはまだきみのものになってないんだろう? いまはきみのお父さんのものなんじゃないの? だったら、いまこんなところできみが好きにするべきじゃないよ」
「じゃあおやじが死んだあとならいいのかね?」
「そういう問題でもないんだけど……」
「じゃどういう問題なんだ」
少佐はいらいらしてきたように頭をかきむしって云った。
「どういう状況になると、おまえははいはい云うのかね」
「どういう状況になったって、云えないよ、はいはいなんて」
伯爵もまたいらいらしたように返した。
「なんでだ? わからん。確かに時代がかってて大仰で古くさい品物だが、少なくともおまえがわんさか持ってるやつに引けを取るとは思わん。おやじだって、いまさらこれを誰かにやるようなあてもないだろうし、黙って金庫に眠らせておくよりはましだろうと思うんだが」
「だから……もう! じゃあ聞くけど、これ、きみのおばあさんのものだったんだろう? きみのおばあさんがきみのお母さんに残したわけだろう? で、いまはお父さんが所有者なわけだろう? そこへわたしが乱入していいの? きみなにか変な感じがしない?」
「特にしない」
少佐はきっぱりと云った。伯爵さまは頭を抱えた。
「ああ、もう、きみは! どうしたらきみに通じるのかなあ、この朴念仁!」
「なんとでも云え。おまえの云いぶんが、おれにはわからん。おれがこれをおまえにやったからってなんだ? おれが嫁に来いと云うとでも思っとるのか? いったいうちの人間じゃなきゃ、これを身につけてはいかんというきまりがあるのかね?」
「あるのと同じさ。きみはわからないんだ、きみはこういうものをつけたことがないからね! こういうものが、どんなに厳しく持ち主を選ぶか、きみにはわからないんだよ。これがなにを象徴しているのか、きみにはわからないのさ。他人の受けた勲章をつけていろと云われるようなもんだよ。決まりが悪いったらありゃしない!」
少佐はしかめっ面をして考えこんでしまった。勲章のたとえが効いたらしかった。確かにそいつは決まりが悪い! しかし…………
少佐が黙りこんだので、ふたりとも黙ってしまった。いったいなんだって、よりによって誕生日の当日にこんな雰囲気の中にいなければいけないのか? たまりかねて先に口を開いたのは伯爵だった。
「きみに悪いことをしているのはわかってるよ。きみの気持ちを無碍に扱うつもりはないんだけど……」
少佐はなおしばらく黙っていた。
「……やっぱりわからん。わかる気がしない」
少佐はふいにそう云った。
「おやじのものはどうせいつかはおれのものだ。それをいま好きにしてなにが悪い。どうせおやじは気がつかん。おれと同じで、こういうものへはなんの興味もない男だ。おれは別にこれをやったからっておまえになにも要求しない。いまおれにわかっとるのは、エーベルバッハ家は現行ほぼ確実におれの代で終わるだろうということだ。おまえのとこだって同じだろう。ひとり息子どうしの悲しい宿命だ。もしかするとうちは、そのあと親戚の誰かが跡を継ぐのかもしれんがね。いとこの中に、適当なのがいるかもしれん。そうなったら、こういうきらきらしたやつはみんなそいつのものになるんだ。正式にはたぶん、その奥方のものにだ。なぜだ? なんだっておれから、おれの手を離れたとたんにそんなやつのものにならなきゃならんのだ。こいつはおれのものだ。あの家と、あの家のものはおれのものだ。おれのものはおれの好きにする。ごたごた云うやつは許さん」
少佐は別に、なにか熱をこめて語ったのではなかった。彼は淡々と云ったのだった。でも伯爵はその淡々としたことばの裏にあるなにかに気圧されて、押し黙っていた。
「この耳飾りと首飾りは確かにばあさんのものだった。ばあさんに似合っとった。ばあさんには妹がいて、もしかするとその妹のものになったかもしれんし、ふたりとも同じように資格があったはずだが、これはばあさんのものになった。ばあさんのほうが似合うと、たぶんばあさんの母親が思ったんだろうさ。で、ばあさんのものになったのでこいつはうちに来た。ばあさんは今度はこれをおれの母親へ残した。自分の親戚でなしに。自分の妹でもなしにだ。たぶん、似合ったろうよ、母親には。で、いまここにあるこいつを、おれはおまえに似合うと思うからやろうとするんだが、いったいこれが、前例となにか矛盾するのかね? わからんな。ばあさんと母親は血がつながってたわけじゃない。義理の親子ではあったがね。ばあさんが、自分の実家からこいつを持ち出してきたときに、こいつはもう住み慣れた我が家を離れたんだ。家を離れたら、新しい家に落ち着くか、さすらうかのどっちかしかない。どっちにしたって、こいつはいつも自分に具合のいい持ち主を選んできたんだろうよ。おれはそう思う。で、今度はおれをそそのかして、いい加減金庫に眠ってないで表舞台に出て来ようとしとるんだと、おれは思う。おれなんざ、こういうものにかかるといいように使われるんだ。朴念仁だからな。なにしろ」
少佐はそう云って、にやりと伯爵へ笑ってよこした。伯爵はもうなにも云わなかった。ただ少しうるんだ目で少佐を見つめていた。伯爵もまた、自分がきっといいように使われているのだと思った。その考えは非常に気楽で、背負うものがなにもなくて、たいへんに具合がよかった。
少佐は改めて伯爵の目の前へ小箱をさしだした。そうしてそれを開いて、まずは耳へぶら下げるほうを取り出し、ややおずおずした微笑を浮かべる伯爵の耳へぶら下げた。真珠は彼の耳の下に、えもいわれぬ景色を見せておさまった。伯爵じしんがそのなじみ方へ驚くほどだった。それから少佐は首へぶら下げるほうを取り出して、伯爵の長い首へ腕を回してぶら下げた。冷たくしっとりとした真珠とエメラルドの粒が、伯爵の鎖骨の上で歓喜するように光り輝いた。
少佐は伯爵を引いて浴室の大きな鏡の前へ彼を連れていった。鏡に映る自分へ伯爵は見とれた。金の巻き毛と肌と長い首の上に、真珠はよくなじんで具合よくおさまっていた。大粒の耳飾りは、普通の人間なら負けてしまうかしれなかったが、伯爵の前にはこれは本来の引き立て役に戻って、懸命に彼を盛り立てているようだった。いまの時代には大仰に過ぎるかもしれない首飾りも、ちっともいやみな感じを与えないで、数十年来のつきあいをしてきたようにぴったりとおさまっていた。
伯爵はこれらの宝石とそれをつけている自分へ見とれて、うっとりとほほえみ、それから鏡へ近寄って、自分の耳や首を突き動かされるようにまさぐり、髪を持ち上げたり下ろしたりして、具合を確かめた。少佐は彼が自分の美しさへ非常な満足を覚えていることを、そしてそれが必然的にいつも彼にもたらす熱に浮かされたような気分のことを感じ取った。とっくりと満足して少佐を振り返ったときの彼はもう、ぞっとするような高慢な、満足げな微笑をたたえていた。なにものかを征服し終えた者の顔だった。
「おれの目に狂いはなかったろう」
少佐は満足して云った。
「無駄な抵抗をしやがって。おまえがこういう光りものから、逃れられるわけがないんだ」
少佐は鏡の前の伯爵へ近づいていって、後ろから抱きすくめた。伯爵の身体が待ちわびていたように震えた。
「きみが正しかったよ、クラウス」
伯爵さまの声はもうなにか、浮ついて我を忘れたような感じを帯びていた。
「きみの勝ちだ。わたしは自分がそっくり丸ごと、きみにとらわれてしまった気分だ……きみは危険だよ、いざとなればわたしを幽閉しておくことだってできるだろうねえ……ああ……」
伯爵のおしゃべりはそこで途切れた。少佐がしゃべり続けるのを許さなかったからである。
次の日はまる一日、みんなしてホテルのレストランで伯爵のためのパーティーに明け暮れた。みんな例年と寸分違わず陽気にやった。伯爵はしかし、どちらかというとそれどころでなかった。彼は昨夜から自分のものになった耳飾りと首飾りとをぶら下げて、王のように座していた。彼は当然のように横へ少佐を従えていた。少佐は従僕のようにまめまめしく伯爵の要求を聞いて、グラスを持ってきたり料理を運んだりした。伯爵は高慢な顔で少佐を顎で使うのだった。少佐はまるでコンラート・ヒンケルみたいだった。一夜にして、すっかり従僕になってしまったようだった。そしてふたりはこれを楽しんでいた。なんといっても誕生日の一日は、伯爵は世界の王であるべきだからである。
お友だちは口々に伯爵にぶら下がったアクセサリーをほめた。どこで手に入れたのかおそれながら訊いてくるお友だちに対しては、伯爵は意味深な微笑を向けるにとどめ、それからまたさらに意味ありげに少佐を見るのだった。
どんちゃん騒ぎは一日中続き、夜になってもまだ続いた。今年も実にいろんなものが伯爵へ送られた。伯爵はまたしこたまもの持ちになった。そして税金対策と所得隠しに明け暮れるジェイムズくんの苦労が増えるのだ! しかしそんなことは、伯爵の知ったことでなかった。
エーベルバッハ少佐は浮かれ騒ぐ男どもを見ながら、ひとりでほくそ笑んでいた。彼はときおり伯爵の首や耳で揺れる真珠を眺めて、また満足した。どう控えめに見積もっても、これらは抜群に伯爵に似合っていた。少佐は満足だった。こんな誕生日パーティーのどんちゃん騒ぎなど、なにものでもなかった。ここにいる全員が団結して総攻撃をしかけてきたとしても、エーベルバッハ少佐にはかなうまいと少佐は考えた。彼は実に、満足だった。
コンラート・ヒンケルはせわしなく給仕をしながらも、伯爵さまへぶら下がったアクセサリーを見て、なにが起きたかをすぐに悟った。ヒンケルはそれらに見覚えがあり過ぎるほどあった。彼は大奥さまへそれがうやうやしくつけられるのを見たこともあった。
あれは大奥さまの最晩年の日のことだった。かなり前から、大奥さまは神経の痛みのためにもう起きあがることもできなくなって、床にふせっていた。それがあの日、なにかの行事へ出席するために、大奥さまは従僕の手によって担がれて車椅子に乗せられた。非常に長い時間をかけてお召し替えがなされ、そうして最後に、もういない侍女コンスタンツェのかわりに身の回りの世話をしていた女中によって、うやうやしくあの耳飾りと首飾りがつけられた。その瞬間、大奥さまはぐっと背筋を反り返らせ、胸を張り、従僕ふたりを呼んで両腕を支えさせると、渾身の力でもって車椅子から立ち上がったのだ。あの瞬間を、執事は一生忘れないに違いない。日々全身の痛みと疼きに耐えていた大奥さまが示した、あれは最後の女主人としての威厳だった。彼女はその瞬間に、自分が背負いこんできたものの重さを、その権威と責任と義務との重さを、身をもって示したのだった。執事は……当時は執事見習いにすぎなかったが……あの日、あの瞬間、弱りきって息をするにもひと苦労だった大奥さまが、まるで別人のように誇らしげに立ち上がったあの瞬間、この家へ生涯忠節を尽くし、決して背くまいと心に決めたのだった。それはあまりにも偉大な犠牲だった。あまりにも気高い精神だった。その三日後に、大奥さまは息を引き取った。
ヒンケルは葬儀が終わり、すべてのことが片づいてから、ひとり隠れて声を上げて泣いた。涙がとめどなくあふれた。あの耳飾りと首飾りが、それが象徴するものが、大奥さまのほとんどなくなりかけていた体力を、根こそぎうばったのだった。それでも、彼女はそれを誇りに思っていた。自分が何者でありどんなものを背負っていたのかを、彼女はよく知っていたのだ。
それからしばらくして、新しく女主人の座におさまった奥さまは、大奥さまから譲られたその耳飾りと首飾りを自分へぶら下げてみようとして、やめたことがあった。
「これはまだ、わたしには重すぎると思うわ、ヒンケル」
彼女は真珠を持つ指先をかすかにふるわせながら云った。
「これはまだ、わたしにふさわしくないわ。お義母さまのお気持ちは、よくわかる気がするの。これにふさわしい人間になれと云ってくださっているのよ。だけど、まだだわ。これはまだわたしが身につけてはいけないものだわ……わたし、いつかこれを堂々とつけて、お義母さまのようになれるようにやってみるつもりだわ。いつか、そんな日が来るかしら……」
その日は来なかった。しかし、いま……そのとき彼女のおなかの中で日々育っていた赤ん坊が、少年になり、青年になり、それから……執事は思わず持ち場を離れて、ひとりホテルを出た。彼の脚はわれ知らず浜辺へ向かっていた。目の前に、アドリア海がなにも知らぬげに揺れていた。今日も海は青緑に輝き、穏やかだった。大奥さまの目は、ちょうどこんなふうに、すばらしく深い青緑をしていた。執事は泣いた。もう声を上げる歳ではなかった。この何十年のあいだに、彼はもうそんな方法を忘れてしまっていた。彼はただ、涙が頬を伝うのに任せた。
「おまえが泣こうがわめこうが、おまえがここで働くと決めたからには、一人前になってしっかり働いてもらわねば困りますよ」
シャルロッテ大奥さまは厳しいひとであった。使用人は誰でも一度と云わず何度も何度も泣かされた。しかしまた、大奥さまは使用人に並ならぬ気遣いを示しもした。褒美を惜しみなく与え、人間としてのやむを得ない事情にはなにかと都合をつけ、かばい、守った。使用人をひとり雇い入れるときには、その一族郎党をすべて面倒見るつもりで、彼女はいたのだった。それが義務だと、思っていたのだった。
大奥さま、シャルロッテ大奥さま……執事は頬をぬらし、彼女の目のような海へ、おのれの感情を投げ出した。彼は何十年もの歳月を忘れて、あの日、あの最後の輝きを放った大奥さまへ、声の限りに叫んでいた。ヒンケルはお宅へ雇い入れていただき、幸せでございました、これ以上に幸福な使用人はおりますまい、あなたさまの残したあの真珠の耳飾りと首飾りとは、いま、また次の方へ引き継がれました。あの若造だったヒンケルも歳をとりましてございます。あなたさまの期待通りの使用人になれましたかどうか……きっと遠からず、わたくしも大奥さまのおそばへ参りますでしょう、そのときには…………
海は穏やかに揺れ動いていた。