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三日目にもなると、エステン氏と少佐との朝食は、まるで長いあいだの習慣であったかのような雰囲気を醸しはじめていた。ふたりは相変わらず、伯爵のことも、少佐の目的のことも話題にせず、ドイツ経済のことや、国際情勢について意見を交換しあった。経済については、短い会話の中から、少佐は実にいろいろなことを学んだ。
「経済の未来については、わたしは楽観的なほうです」
エステン氏は微笑を浮かべて云った。
「なんでも使い方次第だ。よい方向へ導かれれば、すばらしい結果を生みます。その反対なら、その反対に。われわれの歴史というものはおしなべてそうでしょう。最悪の状況を通して、われわれは学んでいるのです。経済というものは、まだほとんど幼児ですよ。なんとか自分の足で立つことを覚えたが、ひとりではなにひとつできない。これから長い長い時間をかけて、人類はこれに関する経験を重ねて、賢くなっていくでしょう」
それはひとりの人間の一生についても同じだった。そして、人生のあらゆる個々の側面についても同じだった。少佐はうなずいて同意を示した。
ふたりは朝食を終えてもなおしばらく話し合い、それから立ち上がって、一緒に新聞を読むために、ロビーの二階に設けられた、日当たりのいいサロンに出向いた。エステン氏はその場にいた従業員からドイツ経済新聞、ハンデルスブラットを受け取り、少佐は、木曜日だったのでディー・ツァイトを読むことにした。サロンにはほかにも、くつろいだ格好の老人や、ビジネスマンらしきスーツを着た男などが散らばっていて、新聞を読んだり、考えごとをしながら手帳になにか書きこんだりしていた。まだ朝早いために一階のロビーも静かで、ときおり紙をめくる音や咳払いが起きるほかは、物音もほとんどなかった。
ふたりは窓の左右に置かれた椅子に並んで腰を下ろした。そしてなかなか面白い時間を過ごした。エステン氏がなにかの記事に不満を表明して短い唸り声を上げると、少佐は首を伸ばしてその記事を読み、内容についてのエステン氏の講義を受けた。また、少佐が昨今の危機的な欧州情勢とアジア勢の台頭について眉をしかめながら記事を読んでいると、エステン氏がのぞきこんできて、わけを尋ねた。彼らはお互いに、政治に関してはやや保守的な意見の持ち主だった。細かな違いはあれど、意見を交わすたびに、彼らは意気投合した。
「まあ、少佐、あなたはもうとっくにご存じでしょうが、わたしも旧家の出でしてな。生家はちょっとした古い家柄なのです。生家は兄が継ぎましたが、子どもに恵まれませんでした。兄はよかったと云ってますよ。子どもがいたとしても、土地家屋を抱えたままではとてもこの先やっていけないだろうと。幸い生家は歴史的な価値も多少あるもんですから、兄が亡くなったあとは、市に寄贈することを考えてます。滅びゆく民ですよ、われわれはね。あなたもそうでしょう。われわれは古い体制に属するものを守ってきた人間だし、またそれを守り通す義務もある。民衆の望みというのは、すべてを平等にし、あからさまにすることにあるらしいが……権利、平等……わたしたちは、なにを失ったのでしょうな。そして、なにを得たのでしょうな」
少佐は首を振った。失われ、滅びゆく者たち。消えてゆく家名。輝かしきかの「von Eberbach」も、たぶん消える。あと何十年か、あるいは、もしかすると何年かのうちに。そしてグローリアなる姓もまた、英国から消え去るだろう。
彼らはしばらくのち、どちらからともなく立ち上がって、静かに別れた。
午後遅く、少佐はAからの電話を受けた。
「なんだ、元気にやっとるのかね? そうか。おれか? おれは順調に八十近いじいさんと休暇を過ごしとる。朝早く起きて、飯を食って新聞を読む日々だ。すっかり年寄りの気分だ。この調子じゃあ、いますぐ隠退生活にぶちこまれてもよさそうだ。伯爵か? おとなしいもんだぞ。じいさんのひまつぶしにつきあっとるらしい……」
Aは笑って、伯爵の話題を流した。少佐は部下どもが自分と伯爵との関係をどこまで疑い、どこまで知っているのか、あえて気にしたことがなかった。部下たちのほうでも、そんな立ち入ったことを気にかけるようなそぶりは見せなかった。だが少なくともAは、なにかしら知っているに違いなかった。彼は忠実な部下であり、少佐自身よりも少佐のことを知っていた。彼は鋭く、そして思慮深かった。少佐は彼に自分を見抜かれることをなんとも思っていなかった。Aは少佐にとって、もはや自分の影のようなものだった。
「BNDがエステンの件に首をつっこんでいるようです」
Aは世間話の延長のような、なんでもない口ぶりで云った。
「カーンのやつが、あなたを出しぬこうと躍起になっているみたいですよ。彼は、エステンの機密資料の保管先を探っています。うまくいくのかどうか知りませんが、ずいぶん人員を割いているようなので、お気をつけください……って、むしろこれはエステンに伝えなければいけないことでしょうか」
Aはちょっと笑った。少佐も笑った。
「わかった。ほかになにか云うことはあるかね? そうか、まあおれがいないあいだ、せいぜい楽しくやってくれ。早く家に帰れよ」
少佐は受話器を置いた。ばかなやつめ、と少佐はBNDにいる、自称少佐の好敵手、カーンに向かって毒づいた。彼は少佐よりふたつ三つ年上の情報員で、少佐のように自分のチームを持って活動することを許されていた。えらく尊大な、そびえるような鼻を持ち、大柄で、態度もそれにふさわしく偉ぶったものだったが、黄土色の短い毛に覆われた頭や顎を、なにかというと神経質にかきむしった。少佐はそれを見るたびに、この男はなにか根本的に進む道を間違えているのではないだろうかという気がするのだった。確かに腕の立つ男だが、やり方が強引で、少佐を含め何人かの似たような地位にある人物に向かっては、競争心と敵意をむき出しにした。特に少佐には、なにか並ならぬ感情を抱いているらしく、ことあるごとに出し抜こうと必死になってかかってくるところがあった。つきあわされる部下がたまらないだろうと思うのだが、そういう男のところにはそれに見合った人種が集まるもので、上司に似て力ずくの、敵対心の強い扱いにくい連中がそれぞれの役割をこなしていた。
少佐はベッドに転がって、煙草を手にしばらくのあいだぼんやりと考えごとをしていた。エステン氏の件は、成功必須だが焦って完了させるほどの案件ではない。エステン氏が資料の提出を渋るのは、当然の権利だし抗議だ。少佐はたった数日のつきあいだが、彼のことがよくわかるような気がした。彼は古い人間だ。そして少佐もまた、古い考えの中にいる人間なのだ。
少佐はベッドから起き上がり、受話器を手に取った。
「おれだ。おまえか、Z。元気に明るく仕事をしとるかね? なんだその間の抜けた返事は。緊張が足りんぞ。Aにかわってくれ……ああ、おれだ。いま手が空いとるやつはいるか? カーンの動きを知りたい。逐一だ。あんな男にひっかき回されるのはごめんだからな。今回の場合はな、資料を手に入れるのに必要なのは、時間と、老人に対するいたわりの態度ってやつだ。荒っぽい仕事じゃない。まあ、あの男にゃわかるまいがね。ああ、そうだ、そうしてくれ。おれに仕事をおっつけた腹いせだ、DとEをこき使ってやる。報告はおまえから頼む。それから、ふたりに伝えてくれ。特にDにだ。小競り合いなんぞ起こしたらただじゃおかんとな。面倒なことにはしたくないんでね」
Aはきびきびと指示に応じ、電話を切った。受話器を置いたあとも、奮闘していることだろう。少佐がいないあだいだ、Aはチビ少佐と呼ばれ、まぎれもない少佐のかわりをつとめなければならないのだ。それだものだから、チビ少佐はときおり責任感のあまりつい地が出て、周囲に母親めいた小言を並べ立ててしまうことがある。そうすると、まだ若いZは神妙に聞こうとし、DやEは笑いだし、Gは小声であんたにくどくど云われる筋合いはないわよ、と毒づき、Bなどは、
「わかったよ、お母さん!」
とたまりかねて大声で叫ぶのだった。そうすると、Aははっとし、あわててチビ少佐の仮面をつけなおしにかかり…………
少佐は思い出してにやついた。少なくとも、いやにぎすぎすしたカーンとそのチームのあいだでは、こんなふざけたことなど起こりそうになかった。それとも、彼らは彼らなりに、なにか円滑なコミュニケーションなどというものをはかっているのだろうか?
少佐はベッドに転がって、天井を見た。一階の最初の部屋に比べれば、この部屋ははるかに快適だった。やや狭いが居心地のいい調度品に囲まれた寝室と居間にバスルーム、日差しをたっぷり取りこんでくれる窓、座り心地のいいソファや椅子、少佐はそういうものに囲まれていると、自分が仕事でここへ来ているのだということを、うっかり忘れそうになった。ひとつ上の部屋に伯爵がいるという事実も、なにやら少佐を仕事という概念から遠ざけているように思われてならなかった。こうして天井を見上げながら、伯爵はいったいいまなにをしているだろう、とぼんやり考えることがよくあった。あの愛らしい足をスリッパに包んで、歩きまわっているかもしれない。あるいは柔らかいガウンに身を包んで、ベッドに、もぐりこんでいるかもしれない。たくさんの服をがらっと並べて、あれこれ着たり脱いだりしているかもしれないし、宝石を山盛り取り出して、ひとつひとつつけては外しているかもしれない。おとなしく読書をする、音楽に身を任せる、絵を描く、思いつくままにことばをノートに綴っている可能性もある。そのノートの中に、一度くらいエーベルバッハ少佐の名前が登場するといいのだが! あるいは暗示的に「きみ」とだけでもかまわない…………
少佐は微笑し、煙草に火をつけた。