極道息子が姿を消してから一週間が過ぎた。母親のエルゼは、どこから見ても気が狂わんばかりになっており、父親は包帯で頭を巻かれた痛々しい姿で商売をしていた。そうして顔を合わせた人間全員に、あんな息子はこれきり帰らなければいいとわめきちらしていた。
「でもあのひとは、そろそろこたえはじめてるわ」
 朝食の席で細君は云った。
「間違いなくね。運の悪いことに、たったひとりの息子なんだもの……子どもがもうひとりふたりいたら、きっとそうでもなかったんでしょうけど。それで、ご主人はそんな自分にますますいらいらしてるわ。結果はというと、奥さんに当たり散らすのよ……わたしは昨日エルゼを見たけど、左頬が腫れてたわ。でも彼女は、誰にもなにも云わせないでしょう……そういうふうにふるまってたわ、痛々しいくらいに! あのひとは、男を献身的に愛さずにいられないのよ。一本気で、勇敢で……その称賛に値する態度が、あんな結果しか生まないのは、いったいどうしたわけなの? 彼女は息子を失うかもしれないってだけじゃなくて、いまではご主人の愛情まで失うかもしれないって思っているのよ。ご主人がいつ、おまえと結婚したのが間違いだった、と云い出すかと思って……」
 細君はそこで、朝食の席にはあまりにも重すぎる話題を振りまいてしまったことに気がついて、あわてて話を引っこめた。だが、誰もこの細君を責められなかった。町じゅうが、いまはなにか悲惨な、重苦しい空気に包まれていたのだ。多くの人間が、アルフォンスはもう帰らないかもしれないという考えにとりつかれはじめていた。何人かの娘たちは、若いカサノヴァのことを思って泣いていた。あたりまえにいたときにはたいして気にもかけなかった男が、いざいなくなってみると、なにか妙な空洞が生まれてしまったかのように感じられるのだった。
 少佐はもう、丘へのぼる習慣を守らないでもよかった。さらに云えば、別段ここでぐずぐずしているいわれはなかった。それにもかかわらず、少佐はまだぐずぐずと居残っていた。今日はもう十五日だった。少佐がここへきて、ひと月以上経とうとしていた。町では、なにかと役に立つ少佐を離したがらなかった。そして少佐も離れがたかった。
 少佐は細君のバスケットを下げて、丘へのぼった。もうこの習慣ともいいかげん今日でおさらばだろうと彼は思った。そう思うと、どこか悲しかった。少佐はボンへ帰りたくなかった。この港町ののんびりした景色が、ゆるやかな時間が、細君の庭が、料理が、耐えがたいほどの魅力をともなって少佐をひきつけていた。少佐はときどき考えることがあった……自分はもう引退して、こんな田舎へ引っ越すべきではないのか、と。すべての騒々しいことから身を引いて、毎日ただ生きるために、その日の糧を得るために働き、家に帰れば伴侶がいるのだという、そういうささやかな希望だけを頼りにして…………美しいバラの微笑みは、少佐のうえにももう投げかけられていた。それはもうずいぶん前に、少佐の前にあらわれていたのだった。けれども少佐は、その微笑みだけを大切にして生きるような境地へは、まだ達していなかった。おれの大冒険時代は終わったと、少佐はまだ云えそうもなかった。ヘルマン老人の伴侶はその名のとおりに、うるわしいバラのような女だった。エーベルバッハ少佐の伴侶は、たしかに誰よりもうるわしくバラのようではあったが、男だった。それが、ヘルマン老人と少佐とを、決定的に隔てていた。
 少佐は昼食をあとまわしにして、丘の上に寝転がった。風がやさしく少佐の身体をなでて通り過ぎた。にぶい灰色をした雲が、薄青い空にかかっていた。日差しは穏やかに降りそそいでいた。少佐は眠たくなった……目を閉じると、痛ましく顔を腫らしたアルフォンスや、その母親の顔が浮かんだ。それから怒り狂ったその夫。この危機を我知らず引き起こしたなぞの美女の、想像上の顔……それはどこか伯爵に似ていた……金髪碧眼の美女というと、伯爵のことを無意識に思い浮かべてしまうのだろう……その美女のことについては、いっかな情報が得られなかった。彼女はすっかりヘルツベルクの屋敷に引きこもっていた。ヘルマン老人でさえ、その美女についてはなにも知ることができないでいるのだった。そして少佐はそのなぞの美女に関して、これまでほとんど関心を抱いてこなかったことに気がついた。正直に云って、見知らぬ美女など相手にしている場合ではなかった。おそらくはそれよりはるかに美しくて、はるかに手がかかり、はるかにうるわしく偉大な魂をもったひとりの人間に、少佐の魂はとらわれてしまっていた。ヘルマン老人がかつてその細君に魂をさらわれてしまったように。少佐は自分も一度死んだことを知っていた。一度死に、そして力強くよみがえったのだ。男はみなそうではないのか? 自分の熱望し探し求めていたものを得た男であってみれば。
 ……鳶があの独特の笛のようにふるえる声で、高く鳴いた。
「お休みですの?」
 少佐ははっとして目を開けた。視界いっぱいに、美しい女が飛びこんできた。ゆるやかで豊かな金髪の巻き毛がほっそりした卵形の顔をふちどり、意志の強そうな眉と、優しげな青い目、優雅な鼻梁と唇とが、その顔をかたちづくっていた。古典的な優美な美しさだった。少佐はいつもそこに、本人の趣味同様、現代的なものを読みとるのがむつかしかった。美とは保守的なものだ、とその顔の持ち主はいつも云っていた。あるいは、普遍的なものであり、年代による着色を必要としない、と。
 少佐が微笑すると、美女も微笑を返した。彼女はかがみこんで、少佐の顔をのぞきこんでいたのだった。少佐が上半身を起こすと、彼女もかがめていた身体をのばした。彼女は白いレースの日傘を差していた。傘の影の中で、彼女は奥ゆかしく首をかしげて、いたずらっぽく微笑した。
「あなたは……」
 少佐は目を細めて云った。
「目下うわさの美女でしょうな、そうでしょう……」
 少佐は頭を掻いて、髪の毛にくっついていた草のくずをはらった。
「お昼寝のじゃまをしたかしら?」
 彼女は低い、穏やかで品のある声をしていた。
「いいや、ちっとも」
 少佐は力をこめて云った。美女は微笑した。そうして少佐の横の地面をちらりと見た。
「わたし……」
 少佐はみなまで云わせず大急ぎでバスケットを開け、大ぶりな薄紅色のハンカチを取り出して、自分の横へ広げた。
「まあ、よろしいんですの?」
 少佐は立ち上がり、うやうやしく手を差し出して、この美しい女性がハンカチのうえへ腰を下ろすのを手伝った。羽虫がばかにしたような羽音をたてて飛んできて、少佐にぶつかってまたどこかへ飛んでいった。
「あなたのことは町じゅうでうわさになってるが、こういう方だとは、正直云ってまったく想像していなかった」
 少佐は彼女の顔をのぞきこみ、率直に云った。ほんとうにまったく想像していなかった。こんなふうに、こんなかたちで、こんなところで会おうとは! 少佐はうれしかった。あまりにも思いがけないことだったために、怒りが出てくるひまがなかった。ほんとうはいかめしい顔で叱りつけて、ばかなことをするなと云って追い返さなければいけなかった。ほんとうは、おまえはいったい、おれがなんのために行き先を告げないでいるのかわかっているのかと、訴えなければいけなかったのだが。美女は微笑して、少し顔をそらした。
「まあ、そんなうわさになっているなんて……どういううわさだか、お聞かせいただけますか?」
「ただもう、絶世の美女だといううわさですよ」
 少佐は笑って答えた。
「もっとも、あなたはヘルツベルクの嫁にくることになっているとか、口に出して云えないようなところから出て来たんだろうとか……」
 美女は声を上げて笑った。
「ありそうなことですわね!」
「でもいまとなっては、そういううわさはすっかりなくなりましたがね」
「まあ、なぜかしら?」
 彼女は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
「あなたが美術品だかの鑑定に呼ばれたことが知れたからです。田舎というところがどんなものだか、あなたも知っとるでしょう。どんなことでも、しまいには知れ渡ることになっとるんです。あなたと話したという八百屋のせがれのことやなんかも」
 彼女は微笑んで、寛大に肩をすくめた。
「あのハンサムな若いかたね? いつだか、お父さまのかわりとかで、屋敷に見えたわ。わたし偶然見かけて、お話しましたの……お元気でいらっしゃるかしら、あのかたは。わたしがはじめて話した町のかたでしたわ。ヘルツベルクさんは、いいひとですけど、町の人間との交流は無意味と考えてるらしいんです。下品な連中だといって。わたしにはわかりませんわ、それにあなたは……」
「おれは町の人間じゃありません」
 少佐は云った。
「よそ者です」
 ふたりは彼女の日傘の影の下で、複雑な視線を交わした。それは初対面の人間どうしにしては、こころもち長すぎ、含むところが大きすぎるように見えなくもなかった。彼女が先に微笑んで視線をそらした。
「そうでしたの」
 彼女ははるか先の海へ視線を向けた。
「どうりで、少し雰囲気がちがうと思いました。それに漁師さんなら、こんな時間に丘のうえでお昼寝なんてこと、ないわね」
「おれはどうしようもない無精者でしてな」
 少佐はスカートの下からのびたすばらしい脚をまじまじと見つめてほほえんだ。たしかに、まったく、こんな脚があろうかという脚だった!
「都会から勝手にやってきて、こういう気分のいい田舎で、のらくらしとるんです。純情な田舎者に、世話をおっつけて」
 彼女は笑った。
「なんてこと、ひどいひとねえ。それで、あなた、ここらあたりには詳しいんですの?」
「まあ、だいたいは知っとりますが」
「それで、お時間がありますの?」
「まあ、割合にたっぷりとですな」
「それじゃあ、わたしの道案内を引き受けてくださいます?」
 ふたりはまた長すぎるほど時間をかけて視線を交わした。
「かまいませんよ、よろこんで。しかしですな、その前に、おれに昼飯を食わしてくれませんか」
 彼女はバスケットへ視線を向けた。
「かまいませんわ。その中に入ってますの?」
 少佐はバスケットから、細君のサンドイッチと水筒を取り出して見せた。今日のバラは、真紅のバラであった。少佐はそれも取り出して、彼女へ見せ、居候先の奥方がこしらえているのだと説明した。
「すてきなバラね……」
 彼女がうっとりした顔になったので、少佐はそれを彼女へ差し出すために、向きを変えてもちなおした。その拍子に、指先に痛みを感じた。見ると、枝の花に近いところに、取り忘れたとげがひとつ残っていた。指先からは、血がにじんでいた。
「たいへんだわ」
 彼女はあわてて白い絹のハンカチを取り出し、血のにじむ指先にあてがった。
「たいしたこたあない」
 少佐は云ったが、彼女の世話は受け入れた。血は少ししみ出した程度で、すぐにおさまった。それでも白いハンカチの一部が、血にそまったのは事実だった。
「こいつは洗ってお返ししなけりゃなりませんな」
 少佐は指先に過剰なほど丁寧に巻かれたハンカチを満足げに眺めて云った。
「正確には、洗わせて、じゃありません?」
 彼女はからかうような、意地悪な笑みを浮かべて云った。
「あなたがお世話になっているという、純情な田舎者に! なのにあなたときたら、自分でやるような云いかたをなさって。恥ずかしいと思いませんの?」
「そいつはまったくそのとおりです」
 少佐はまじめな顔で云った。それからふたりとも笑った。
「だいたい、あなた、アイロンがけなんてできますの? わたしはできないわ! したことがないもの」
「おれはやれと云われればできる」
 少佐は顎に手を当てて考えてから云った。
「おれは見かけほど不器用でもありませんからな」
 少佐はそれから、あらためて真紅のバラを二本、とげを慎重に確認して取り去ったうえで、うやうやしい態度で彼女に進呈した。彼女はうっとりとバラを眺めて香りを楽しんだ。少佐はいそいで細君の作ったサンドイッチを食べ、水筒のお茶を飲んだ。そしていつものように、パンくずを明後日の方向へ放り投げた。
「なぜそんなことをなさるんですか?」
 少佐の食事するのを楽しそうに眺めていた彼女は、不思議そうに云った。
「スズメが来て食うんです」
 あはあ、と彼女は云った。
 食事がすんだので、ふたりは立ち上がった。少佐は薄紅色のハンカチを丁寧に折りたたんでバスケットへしまった。いつもよりかなり丁寧に。
「で、どちらへ行かれるんですか?」
 少佐の問いかけに、彼女は肩をすくめて少女のように微笑んだ。
「実はわたし、迷子なんです」
 少佐は眉をつり上げた。
「わたしがヘルツベルクさんのお屋敷へお世話になっているのはご存じですわね?」
 少佐はうなずいた。
「わたし、あんまりお天気がいいので、ぶらぶらと森へ散歩に出ましたの。それで、足の赴くままに丘をのぼってここまで来ましたの。それから、どうやら迷子になったことに気がつきましたの。そのあとで、あなたがお昼寝をしているのに出くわしましたの」
 少佐はうなずいて、あはあ、と云った。
「実に理路整然としとりますな」
「わたしもそう思います。純粋な帰結ですわね」
 彼女はうなずいて、目を輝かせて微笑んだ。
「ですから、あなたがご親切にわたしをヘルツベルクさんのお屋敷へ送り届けてくださったら、わたしはとっても助かるんです」
「もちろんです。そりゃ、義務というもんです」
 少佐は云い、それにたいして返ってきた微笑についうっかり、いつもするように彼女の尻をぽんぽんとたたきそうになって、あわててそれをとりやめ、うやうやしく左肘を差し出した。彼女は優雅なしぐさで、そこへ右手をからませた。
 彼女は町のひとびとの生活や、その風景についていろいろと知りたがった。少佐はゆっくりと丘をくだりながら、彼女の質問に丁寧に答えた。ことに、朝というより夜中に活動を開始する漁師の生活や、魚が水揚げされるようすや、そうしたことがすべて過ぎ去ったあとの港の静かな、整然とした美しさについて語った。
「あなたはここでの生活が気に入っていらっしゃるのね」
 彼女がふいに云った。日傘の陰に隠れて、その顔はよく見えなかった。だがそのことばは少佐に思いがけない動揺をもたらした。少佐はとっさに打ち消そうとした。しかし、そうするにはあまりにもここでの生活になじんでいることに気がついて、とりやめてしまった……そうなのだ。自分はここが気に入っているのだ! この港での、ゆったりした毎日が。
 彼女が同情するような表情を浮かべて、少佐の顔をまともに見てきた。その目は少佐に、なにか罪悪感に似たものを引き起こした。これ以上この話を広げるべきではなかった。彼は例の魅力的な青い目を、穏やかな湖のようなその目を、なるたけ平然と見返した。それから安心させるように微笑した。彼女は顔をそらした。うつむいた顔は、どう見ても納得していなかった。それは仕方のないことだった。
「あなたのここでの生活についてはどうなんです?」
 少佐は気をとりなおして訊ねた。
「毎日なにをしていらっしゃるんですか」
 彼女も気分をふりはらうように微笑んだ。
「わたしは……毎日、あのお屋敷に代々伝わっている美術品や宝飾品などを見て、それがどういうものか調べていますの」
 話がそこにおよぶと、彼女の目が生き生きと輝きだした。
「古い、由緒あるお屋敷には、やはりまだまだそれ相当のものが眠っているものです。わたしはこういう機会を得て、とてもよろこんでいます」
 少佐は彼女の身体が、目にしてきたものへの興奮にざわめきたつのを感じた。それは少佐にとっても、いつもよろこびだった。共感のむつかしいよろこびではあったが、それでも彼女のよろこびは、いつでも少佐のよろこびだった。
「ヘルツベルクさんとはお知り合いだったんですか?」
 少佐はもっとも気になっていたことを訊ねた。彼女はいたずらっぽく笑って、なだめるように首を振った。
「いいえ、前からのお知り合いではありませんでした。わたしがヘルツベルクさんにお会いしたのは最近のことで、とあるかたのパーティーでしたけど、向こうから声をかけてきましたの。わたしが美術品に詳しいことを、あるかたから伺ったのですが、と云って。彼は率直でしたわ。自分は古い地主の家柄で、実を云うと屋敷の財政がかなり逼迫している、そこで家の美術品を手放したいのだが、公にはしたくないし、手近な人間に頼むのもいやだから、鑑定して処分してくれるひとを探している、とおっしゃったんです。打ち明け話をするあいだ、彼は苦しそうでしたわ……ほんとに困ってらっしゃるんだなとわたし、思いました。わたしは引き受けました……実を云えば、ヘルツベルク家の所有する絵の中に、前から欲しいと思っていたものがあったからなんですけど」
 彼女は微笑した。そのなぞめいた微笑ときたら! エーベルバッハ少佐でなかったら、めまいを起こしていただろう。
「わたしは実物を見ました。見て、たいへんに満足しました。そのほかにもいくつか、目の肥えた人間でも満足できそうなものがありました。状態もすばらしいですし、ヘルツベルクさんは、かなりの金額を手にできると思いますわ」
 ふたりは丘をくだって、ブナやナラの立ち並ぶ中を通っていった。木々のあいだから、日差しが静かに降り注いでいた。鳥の鳴き声と梢のたてる涼やかな音が混じった音楽が、聞こえていた。
「……わたし、ずいぶん考えたんですけど、あの屋敷の美術品をいくつか買い取ろうと思いますの。欲しかった絵も含めて」
 しばらくたってから、彼女がぽつりと云った。少佐は眉をつり上げた。
「あなたは、はじめからそのつもりだったんですか?」
 思わず問いつめるような口調になっていた。彼女は真剣な顔で少佐を見つめ、それから、首を振った。
「いいえ、はじめはそういうつもりじゃありませんでした。もっと別のことを考えてました……でも……わたし、ヘルツベルクさんのところにお世話になっているうちに、そうしなければいけないような気がしてきたんです。わたしには、さいわい金銭的な余裕もいくらかありますから。でも、そのお金で彼が立ち直れるかどうかは微妙だわ。ああいう古い家柄のひとたちが失ったものは、財産や特権だけではないんですもの。わたしはときどき、自分がイギリスに生まれてほんとうにさいわいだったと思うことがありますのよ」
 それはおそらくほんとうにちがいなかった。少佐とて、いまや貴族でもなんでもなかった。社会的には、かろうじてその名字だけが、古い称号をとどめているに過ぎなかった。住んでいる城はたしかに輝かしいあかしにはちがいない、しかし今日び、あんな城を所有して維持してゆくというのは並大抵のことでなかった。それ以外には、みずからの出自と誇りとを提示してくれるものはもはやどこにもないにもかかわらず。
 この問題は、ふたりのあいだで明確に共有することのできる、貴重な、痛ましい問題だった。彼らはこういう世の中で、自分たちがもはや見せ物以上の価値をもたないことを知っていた。多くの場合、彼らは盲目的な羨望か、かすかな哀れみをふくんだ好奇心の対象にすぎなかった。そしてそのくせ、ひとびとはむやみにそれを美化したり、実物以上の価値を与えてきたり、その逆の考えを押しつけてきたりするのだった。たしかに、なんの努力もなしに手に入れた称号ではあった……たまたまその家に生まれたというだけのことなのだから。しかし、それに適応しそれを背負って生きてゆくということは、ほかの多くの人生の問題と同じように、なまなかなことでなかった。
「おれはどっちかというと、あの男に同情していた」
 少佐は云った。
「あの男が、思ったより金がないという理由で二度も女に捨てられて、それを町の連中に笑われてるのを見ていた日にゃあ、やりきれん気持ちにもなる。たしかに、そういう女を選んだのがばかだった、それはたしかにそうだ。だが、それじゃあというんで名もない平民だが賢明で倹約家の女房を拾ったとして……いや、そもそもそういう女房を拾いに行く決断を、あの男に迫るのは酷じゃないかね? そこまでしたら、あの男のプライドは決定的に崩れちまう。意識するなと云うほうが無理な、でかい屋敷と長ったらしい家系と家名だけでも手一杯なのに、なにかっちゃあ気取ってやがるとささやかれ、そうかと思えばもう終わった人種だと云われ。やるせないってのは、こういうこった」
 彼女は真剣な、暗い顔をして聞いていた。少佐は自分がしゃべりすぎたこと、しかも、うっかり状況もわきまえず本音をもらしてしまったことにいまさら気がついたが、もうおそかった。暗い影を背負った翼は飛び立った。行きつくあてもなく、ふたりのあいだをうろうろとさまよい、ふたたび少佐の胸の暗い場所へと舞い戻ってくるためだけに。
「すいませんな、つい」
 少佐は云った。彼女はゆっくりと、首を振った。
「世の中は、あんまり冷たすぎます。われわれ貴族に、何百年というあいだ、多くの義務を背負わせ、社会的な重みとそれに見合う誇りを育ててきたというのに、そういったものをすべて急に根こそぎご破算にして、なにもかもなかったことにしろというのはあんまりです」
 彼女は物憂げに首を傾け、ため息をついた。
「いったい、どうしろというのでしょう? 世の中は、なるほど変わるものだけど、人間の感情や生き方はそんなにすぐに変えることができない。なにかを修正するには、それが育ってきたのと同じくらい長い教育が必要だわ。なのに、なにもかもあんまり性急で……」
「……たぶん」
 少佐は彼女の腕をしっかりつかまえて云った。
「われわれが板挟みになって打ちひしがれる最後の世代だ。それが確かに機能していた記憶は、いまはまだ手の届くところにある。もう二、三代先になれば、それはうんと遠い記憶になっちまって、そのうち汗かきながら本の中で勉強するものになるにちがいない」
 彼女はしばらく考えこみ、それから悲しげに微笑した。そうしてそれきり黙った。程なく、屋敷が見えてきた。財政の逼迫した、過去の栄光をほこっている、大げさな、なりばかり立派で金のかかる、迷惑千万な、それでもそこに住む人間にとって愛着をもたざるを得ない屋敷が。
 門の前で、彼らは別れることにした。屋敷へはそこからなお一キロほども歩かねばならなかったが、少佐は呼ばれもしないのに中へ入っていくのはためらわれた。
「バラをありがとうございました」
 彼女は微笑んで、手にしていたバラの香りをふたたび嗅いだ。
「お返しできるものがなくて残念だわ」
「ハンカチがありますよ」
 少佐はもったいぶってまだハンカチを巻いたままの指を振った。
「ではそれは、お返しにならないで受け取ってくださいますわね? きっと、あなたのお世話をするどなたかが洗って、しみぬきをしてアイロンをかけてくれるわ。女もののハンカチなんて、もっていたってしかたがないかもしれませんけど……」
「いや」
 少佐はおどけて云った。
「見るたびにあなたを思い出しますよ。いい思い出だ。なにしろ今日はおれの誕生日ですから」
 彼女はゆっくりと微笑した。目がいたずらっぽく輝き、美しい顔全体が輝きを放つように、少佐には見えた。すばらしい計画だろう? という自信たっぷりの声が、聞こえてくるようだった。
「そうでしたの。おめでとうございます。そんな記念すべき日にお会いできてよかったわ。送っていただいてありがとうございました」
 少佐は彼女が門の中へ入り、かなり遠くへ行くまで見守っていた。それからにやにや笑い、ハンカチを巻いた指を見てまたにやにや笑った。彼女がちらりと振り返ったので、少佐はそのハンカチを振ってやった。彼女がこたえてバラを振った。それから少佐はくるりときびすを返して、うるわしきローザの支配する家に戻るために歩き出した。もしかしたら、予定より帰宅が遅くなったので、ぼっちゃまときたら誕生日だというのに、家で待っている女をほったらかしてどこで遊んできたのかと、からかわれるかもしれなかった。少佐は、すみません、おかあさん、からはじまる一連のいいわけ文句を考えながら、またにやにやした。
 百メートルばかりお屋敷の門から遠ざかったときだった。少佐はふいに立ち止まり、ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。ゆっくりとひと息吸って吐き出し、にやりと笑って、振りかえった。
「慣れない真似はしないほうがいい。そんなにがさごそ足音をたてちゃあ、ゾウが追っかけてきたのかと思っちまう」
 かなりしばらくたって、八百屋の極道息子が、わきの茂みからしぶしぶ顔を出した。左頬の腫れはだいぶ引いていたが、治りかけて、今度はところどころいやな黄緑色になっていた。その人間の皮膚にあまり似つかわしくない色が、せっかくの美貌をいくらか損ねてしまっていた。
 アルフォンスは身体を出したはいいが、それ以上どうしたらいいかわからないで、ふてくされた顔でうつむいていた。やや伸びすぎになった赤みを帯びた金髪が、白い頬にふりかかっていた。唇をつきだした子どもっぽい顔つきは、女にとってはなかなか魅力的といえそうだった。これまで彼はそういう母性本能にあふれた女たちの腕の中で存分に甘やかされてきたのだろうが、少佐はそんなふうにするつもりはさらさらなかった。といって、父親のようにぶん殴ってやるつもりもなかったが。
「きみは、ひとのあとをつけるような無礼な真似をした云いわけをせにゃならんと思うが」
 少佐はこの甘ったれた小僧に助け船を出してやった。甘ったれ小僧はますます唇をとんがらかし、しばらくもぞもぞと身体を動かしていたが、そのうちにしょうことなしに覚悟を決めたのか、いやそうに顔を上げた。
「べつに、そんなつもりじゃなかったんです」
 不機嫌な声だった。
「ただ……」
 彼は顔をしかめ、口ごもった。そうしてまた唇をとんがらかした。少佐は黙っていた。もう手を貸すつもりはなかった。アルフォンスはなおしばらく、相手の反応を期待して黙っていたが、少佐がうんともすんとも云わないので、あきらめてため息をつき、口を開いた。
「あの女のひとが……あのひとが帰ってくるのが見えたから……その……あなたといっしょに」
 少佐はからかうように眉をつり上げた。相手の顔が赤くなった。
「べつに……ぼくはその……なんでもないんです、ただ……」
 彼は行きづまって、頭をかいた。それから少佐を盗み見て、おもしろがってはいるが、腹を立てたり気分を害したりしていない顔に出くわすと、ほっと息を吐いて、一気にまくしたてはじめた。
「ぼくはただ、あのひとをもう一度見たいと思っただけなんです……家に帰る前に。うちでなにがあったか、どうせうわさで知ってるでしょう……親父をぶん殴って出てきたけど、いつまでも家に帰らないわけにいかないし、世話になってる子に悪いし、それにこれ以上帰らなかったら母さんが死ぬほど心配するし。親父と顔あわせるのはいやだけど……あんな親父くたばればいいけど、一応父親だし。あいつはぼくが嫌いなんだ……殴りつけてやって、ちょっとすっきりしたけど」
「悪かったとは思わんのかね?」
 少佐はからかいをこめて訊いた。アルフォンスは愚問だというように肩をすくめた。
「まあいい。別にここで道徳問題を議論したってしょうがない。それで? なんだって彼女に声をかけなかったんだ。いまとなっちゃ、もう無理だぞ。屋敷に帰っちまったからな。あすこの家の玄関に立って、堂々と使用人を呼んで案内を請えるなら別だがね」
 青年の顔が真っ赤になった。彼は痛いところをずばり突かれて、瞬間的に怒りに燃えて吠えたてた。
「ええ、そうですよ、どうせぼくはただの八百屋のせがれなんだ。あんたやヘルツベルクの野郎なんかとちがって、貴族でもないし、金持ちでもないし、大きな屋敷になんか住んでない。だけど、ぼくはそれで満足してる。そんな人間になるなんてまっぴらだ。かっこつけて、上流ぶって、自分たちはほかのやつとはちがうって顔して……」
 その怒りが、少佐にもいくぶん向けられていることは確かだった。彼女と親しげに会話しながら、腕を組んでここまで歩いてきた、都会もので旧貴族のエーベルバッハ少佐。彼だって、「ぼっちゃま」と呼ばれうやまわれる人種なのだ。それもただ生まれという偶然から得た特権によって。
 少佐はため息をついた。
「……ひとつ訊くがね」
 云いながら吸い終わった煙草を投げ捨てた。
「おれやヘルツベルクはともかく、彼女がいつきみに、そういう態度を示したのかね?」
 アルフォンスは、この反撃をまったく予想していなかったのにちがいない。彼は一瞬、意味がつかめずぽかんとした。それからあからさまにうろたえ、顔を真っ赤にして、黙ってしまった。
「まあうわさなんぞ全面的に信じるわけにいかないもんだが、おれは少なくとも、彼女がきみをきみの生まれによってばかにしたという話は聞いたことがないんだが。それとも、そうだったのかね?」
 アルフォンスは動揺した目をさっと少佐へ向け、それからうつむいた。
「おれは彼女とさっき幸運にも話をする機会を得たんだが、彼女はこう云っとったぞ。あの八百屋の息子というひとは、自分がはじめて話をした町のひとで、あれ以来会ってないが元気でいるだろうか、ってな」
 これは決定的だった。アルフォンスは一瞬、いまにも泣き出しそうな顔になり、歯を食いしばった。激しい動揺をあらわすように、目が落ちつきなく左右へ行ったり来たりした。
 少佐はやりすぎたとは思わなかった。こういうときは、徹底して痛めつけられるにかぎる。自省することに慣れておらず、その習慣もなかっただろう男は、こうして徹底的に追いつめられなければどこかに逃げ道を見つけてしまって、そのうちにすべて忘れ去ってしまうかもしれなかった。
「おれはきみたちのやりとりなんぞ別に興味はないよ。ほかのやつらはどうか知らんが、うわさ話に興じる趣味もないしな。ただ、都会の人間だとか金持ちだとか貴族だとかで、みんなひとくくりにされちゃあやりきれんからな」
 少佐は話は終わったということを示すために、肩をすくめ、青年から視線をそらした。そうして彼に背を向けようとした。
「すみませんでした」
 追いすがるように、アルフォンスがつぶやいた。少佐が振り向くと、彼は相変わらず泣きそうな顔をして、おどおどと少佐を見つめていた。彼は明らかに、生まれてはじめて容赦なく追いつめられていた。そうして、なにかすがれるものを求めていた。寛大に許され、おまえはまちがっていたが、もういいと云われることを求めていた。
「おれに謝ってどうするんだ?」
 少佐はいらいらしたように云い、つきはなした。
「そんなことはきみの問題だ、おれには関係ない」
 そうして、青年に背を向けて歩き出した。少佐は振り返らなかった。かなりたってから、青年が駆けてくる足音が聞こえてきた。
「待ってください! 待って……」
 少佐はしぶしぶ立ち止まって、冷たい目つきで駆け寄ってきた男を見た。
「まだなにか用かね?」
 アルフォンスは息をはずませながら、眉根をよせ、弱りきったように云った。
「ぼく、彼女に謝るべきでしょうか?」
「……きみの母上には申し訳ないが、きみはばかだ」
 少佐はあきれたようにため息をついた。
「そんなことしてなんになる? きみは彼女がおまえの心の葛藤を知っていて、許してくれるとでも思っとるのかね? いったいきみは、女という女がみんな慈悲深く万能な聖母みたいな存在だと思っとるのか? さっきおれは訊かなかったか? いったい彼女が、きみになにかしたかね? それはきみの問題だと云ったろうが」
 アルフォンスは途方に暮れ、その顔には怒りに似たものすら浮かんでいた。プライドをへし折ってすがりついたというのに! 少佐はいらいらしてきた。こんな甘ったれを扱うことになったのは久しぶりだった。かなり昔、おぼっちゃんで、好き放題に甘やかされて育ってきた男をひょんなことから預かるはめになり、来る日も来る日も雨あられと攻撃を浴びせて以来だった。さいわいその男のプライドは、高いだけでなく何度でも不死鳥のようによみがえるタイプのものだった。彼は二年とすこし少佐のところにいて、見違えるような男になって巣立っていった……そしてそのかわりに、少佐の声は枯れかけたのだ!
「甘ったれるのもいい加減にしろ。自分の問題は自分で片づけるもんだ。他人を巻きこむんじゃない」
 少佐はこのときもしかすると、かつてのあの部下に怒鳴っていたのかもしれなかった。いまはすっかり陸軍将校づらをして、少佐を見ると顔を輝かせ、次には妙に恥ずかしそうなそぶりをみせ、それから両手を差し出してくるあの男……少佐はふと、気がゆるみそうになった。あの男のせいで、少佐はもしかしたらもう二度と、甘ったれに真剣に怒鳴ることができないかもしれなかった。いまいましいことだ! こんなにしまらないことはない! 少佐はもう相手にしないという態度をあからさまにして、その場をあとにすることにした。たぶんアルフォンスは、なおかなり長いこと、ふてくされて泣きっつらをしているにちがいなかった。少佐のところへ来たばかりのころあの部下が、そうしていたように。

 

「すみません、おかあさん、寄り道をしすぎてしまいました」
 豊満で美しい細君にバスケットを差し出しながら、少佐は道々考えていたいいわけを口にした。細君は寛大な態度で、しかし幾分いぶかるように、おもしろがるように、眉をつり上げた。
「まあぼっちゃま、どちらへいらしてたんです? それにあなたは、今日は胸にバラがないじゃないの! わたしの昼食が気にくわなかったのね?」
「ちがいます、おかあさん、どうか話をきいてください」
 少佐はうわさの美女に丘のうえで会った話をし、彼女を屋敷へ送り届けた話をした。アルフォンスのことはしかし、云わなかった。細君は目を輝かして興味しんしんでこの話を聞き、話が終わってからもしばらくひとりで反芻して楽しんだ。
「さあ、ハンカチをお出しなさい!」
 とっくりと話を楽しむと、細君は指を振っておどした。
「純情な田舎者が、洗濯をしてあげますから。ぼっちゃまの世話をしてさしあげるのは、この町にはわたししかいないんですからね! そしてそれから、あなたは手を洗って、誕生日のお祝いの席につくんですよ。揚げたジャガイモをいやというほど食べさせてあげるから覚悟なさい!」

 

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