隷属の日
「おれは仕事で二週間、従僕のふりをしたこともあるんだぞ」
と勢いこんで少佐が云ったのは、おそらく伯爵が執事のコンラート・ヒンケルのことを、少しばかりほめすぎたためだった。コンラートってすばらしい執事だね、ぬかりなくて、いつも完璧な配慮と思いやりに満ちていて、決して出しゃばりじゃなくて。その完璧な執事のコンラート・ヒンケルは、先ほど就寝の挨拶に来て、引き下がったところだった。ふたりは客間のひとつでくつろいでいた。明かりを落として、蝋燭の炎の中で穏やかに語り合っていた。客間ではあったが、いまではその部屋はほとんど伯爵さまの専用だった。もともと、屋敷の中ではもっとも豪奢な客間ではあった。一流の職人が、途方もない時間をかけて手織りしたカーテンがぶら下がる天蓋つきのベッドは、伯爵の要望によって、カーテンの内側に向こう側が透けて見えるほどの薄い黒布がもう一枚取りつけられた。その布には、飛び回る蝶と花の模様が刺繍してあった。夜になり、少佐が蝋燭の明かりだけに照らされたこの部屋に入ってくると、伯爵はたいていこの薄布だけを下ろしてベッドに寝そべっている。黒のベール越しに、伯爵の肌の上、服の上に、布に織りこまれた蝶や花が、蝋燭の影を受けてちらちらと優雅に飛び回っている、そのさまを見るのが少佐はたいへん好きだった。伯爵の上で踊る蝶の影は、彼の無垢な媚態そのものだった。
少佐は、もしかすると伯爵の先の発言にむっとしたのかもしれなかった。使用人の筆頭である執事が、来客の世話を親身になってするのは当然のことだった。それも主人の大切な客となれば、壊れものを扱うようになるのも当然だった。そして甘やかされるのが大好きな伯爵さまは、自分を甘やかしてくれる男がいるとなるととことん甘えた。「コンラート、寒いからあったかいチョコレートを一杯くれない?」「コンラート、あとで着替えを手伝ってね」「ねえコンラート、わたしの髪の毛をとかしてよ!」
「……君が従僕?」
伯爵は目を見開き、興味を示した。執事の話題は去った。少佐は少し機嫌を取り戻した。
「そうだ、何年前だったか、任務でなあ……」
少佐はグラスを傾けながらそのときの話をした。伯爵は、襟と袖口に白いレースのついた紺のガウンを身にまとっていた。光沢を放つガウンの生地のあいだから、組んだ美しい脚がのぞいていた。少佐の目はだいたい三分おきに、規則正しくそこへ注がれていた。それから、彼の指を飾る指輪や、耳元で悩ましくちらちらするイヤリングなどにも。
少佐は非常にくつろいで、のびやかな気持ちだった。伯爵が、従僕に扮したという彼の話に夢中になっているのが大変よかった。彼は子どもみたいに続きをねだった。それで? クラウス、それで? 君はどうしたの? それに、部屋の隅に据えられた小さなソファとテーブルでの小さな語らいは、彼にままごとのような子どもっぽい、無邪気な、それでいて秘密めいた気分をもたらし、一方でまたこちらもよくくつろいでいるらしい伯爵のゆったりした態度の中に、まぎれもないある香りがひそんでいることを、感じ取ってもいた。百合のような粘つく、あとを引く香り。ほんのわずかでももう鼻腔にまつわりついて消えない、あの香り。
「……君はその気になりさえすれば、従僕の役だって立派にこなしてみせるんだね」
伯爵は吐息を織りこむようにして、そう云った。彼の目は半ばうっとりしてきらめいていた。
「それにしたって、君と従僕だって! こんな思いもよらない組み合わせってなかったな!」
伯爵の目がいたずらっぽく光った。彼は面白いことを思いついたときのくせで、微笑しながら唇に左のひと指し指を持ってきて爪先を軽く噛むような仕草をした。柔らかい唇の中から、白い歯がちらりとのぞいて、光った。手首をゆったりと覆っていた銀鎖が、涼し気だがどこかもどかしい音を立てた。銀鎖についていた小粒の宝石が、一瞬間、誘うような光を投げた。
「そうか?」
少佐は微笑して、鷹揚に応えた。わざと隙を作るために。そして伯爵は、少佐の狙い通りにそこへ飛びこんできた。伯爵の目が急に細められ、品定めするような、照準を合わせるような、どこか冷酷さを帯びたものになった。
「君の従僕としての価値を試してみるゲームをしない?」
伯爵はひとことひとこと、高まるものを押さえるように、押し殺すような声で云った。少佐は椅子に深くもたれ、両手を広げた。
「どんなゲームだ」
伯爵は美しく、楽しげに、愛をこめて、冷たく、微笑した。こんなふうに笑うとき、彼はなんと美しいことだろう。眉根を寄せ、もだえながら、ああ、クラウス、わたしのクラウス、愛しているよ、と苦しげに云うときの彼と、ほとんど同じ凄みを持っている。
「簡単だよ。わたしたちの愛すべきコンラートはもう休んでしまった。でも、わたしにはまだ一日を終えるために必要なことのいくつかが残っている。君がそれを、わたしたちのコンラートがするように手伝ってくれればいいんだ」
彼はそう云うと、急に興味をなくしたように椅子に座り直し、そっけなく唇をつきだした。
「だけどもちろん、君は応じてなんか、くれないだろうね?」
そうして指先で、ご自慢の巻き毛をくるくるやりだした。
「君は、誰かに服従しそうなタイプには見えないからね」
「おれはおまえの要求に応じるだけなのか?」
少佐は湧き起こる楽しさをおさえて、あえて渋面を作った。
「そんな一方的なもんは、ゲームと云わんぞ」
伯爵は、世にも美しくぴくりと片方の眉を釣りあげた。ありったけ高慢に、不遜に、優美に。
「ああ、そうだね、それじゃあ」
彼の声には、軽蔑と紙一重のようなわざとらしい響きがあった。
「君が、わたしの就寝までわたしに仕えることができたら、君のお望みのものをあげよう」
少佐の目は反射的に、伯爵のすらりとした脚に吸い寄せられた。
「よし、云ったな?」
少佐は眉をつり上げ返した。
「約束は守ってあげるよ」
伯爵さまは冷ややかに微笑した。少佐はゆっくりと立ち上がり、長身を沈めるようにして、伯爵の前に跪いた。
「では、なんなりとご命令を、閣下」
伯爵さまが微笑したのが気配で知れた。さあ、きっと楽しい前戯になるだろう。
伯爵は、冗談抜きに、彼のために働く専門の人間がいなくては、一日たりとも生きてゆけない男だった。この美しい息子を甘やかすことに命をかけていたらしい父親のおかげで、彼はなにひとつ自分でする必要のない生活を送ってきたし、また、それ以外の生活様式を想定した教育を受けてもこなかった。彼はタオルを用意して待っていてくれる使用人や、浴槽に湯を張り脱ぎ散らかした服をたたんでくれる人間がいなければ、洗面することも、風呂に入ることもできず、水を汲むことも、お湯をわかすことも知らなかった。片づけや掃除などもってのほか、包丁には触ったこともなく、日用品を自分で購入したこともなかった。
この驚くべき生粋のお貴族さまに、少佐ははじめのころ、めまいを感じたものだった。なにごとも自分でできるようになれと厳しく命じられて育ってきたために、少佐は昔から、貴族という家柄の人間ではあったが、甘ったれた中産階級の連中よりはるかに自立していた。
「これはわたしがやることじゃないよ」
というのが、雑事に関する差し迫った問題が起きた場合の伯爵さまの口癖だった。
「わたしはこんなことしなくてもいいって、父が云っていたよ!」
このように一方が非協力的である場合、どうあってももう一方がやらなければならない。従僕のようにまめまめしく働きながら、ちくしょう、ふざけんじゃねえぞてめーは、と、少佐は何度腹を立て、口論を起こしたかわからない。ここまでなにもしない、できない馬鹿野郎ははじめてだ、と云えば、すました顔をして、だって、教わっていないもの、とあっけらかんと云い放つ。
「父は、そんなことしたらわたしの美しい魂が汚れてしまうとも云ったよ!」
「洗濯のどこが汚らわしい行為なんだ、馬鹿野郎」
「だって、汚いものに触るじゃないか」
伯爵さまは口にするのもおぞましいというように、美しく眉をひそめて、使用済みのシーツやタオル類を指差すのだった。
「じゃあそれを洗おうとしとるおれはなんなんだ」
「君は自立した一人前の男だから、なんでもできるんだ。軍人だし」
「こういうときだけ半人前の立場に甘んじるな、馬鹿者が!」
そうは云っても、どうにもならない問題だった。いまさら天国へ召された伯爵の父君を呼び出し、くどくどと説教をしてもはじまらなかった。たぶん、御尊父は、息子のお相手として、たとえふたりきりで楽しいひとときを過ごすためであるにしろ、家事をどちらかがやらなければならない状況をこしらえるような男を想定していなかったのだろう。ということは結局、それは少佐の甲斐性の問題だった! そしてそこまで考えると、少佐は自分の責任であるかのような気がしてくるのだった。なんという押しつけがましい、そして急所を直撃する理論であることだろう!
少佐はやむなく伯爵のために洗濯をし、あたりのほこりを払い、お茶を淹れ、食事を作ってやるようになった。少佐は自分がまるでコンラート・ヒンケルにでもなったような気がした。
そうして使用人に身を落とした少佐に、伯爵は賞賛とねぎらいを惜しまなかった。「君ってなんでもできるんだね! すばらしいな」「ありがとう、わたしのためにこんなことまでしてくれて」にっこり微笑んで、輝いた目でそう告げられると、情けないことにやる気が促進されてしまった。伯爵のために、先回りをしてあれこれ工面してやりたくなるのだった。彼のお気に入りを覚え、習性を覚え、彼のよろこびのために働くこと。彼の満足のために、彼を極上の気分にしておくために、あの微笑のために。少佐は相手のよろこびのために従属することのよろこびを知った。黙々と労働に耐え、その先に相手の麗しき気分に出会うことのよろこびを知った。少佐は文句を云いながら、その実嬉々として働いた。あのしなやかな身体が踊り、金髪がきらめいて楽しげに揺れているために。……伯爵はなにも知らないのだ。少佐はとっくに伯爵の、満ち足りた従僕であった。
伯爵の湯浴みを準備し、手伝うのが少佐は好きだった。お湯の温度に気をつけ、香りのよいバブルバスを選んで入れて泡立て、蝋燭を飾り、シャンプーやボディソープ、そのほかいろいろの美容用具をそろえ、着替えを用意し、タオルを運び、満を持して伯爵さまを呼びに行くと、彼は客間の鏡台に向かってアクセサリー類を外しているところだった。すばらしい金の巻き毛は、邪魔をしないように頭のてっぺんでまとめられていた。おかげで、彼の白鳥みたいに美しい、優雅な首がはっきりと見えた。うっとりするようなしぐさで耳についていたイヤリングを外し、首から細い鎖を外し、指から指輪を、腕から腕輪を外す、そのさまを、少佐は楽しく見つめていた。
「お風呂の準備が整ったの? クラウス」
伯爵さまは眉をつり上げ、唇を少々意地悪く持ち上げて云った。少佐はうやうやしく礼をした。伯爵さまは立ち上がった。少佐はドアを押さえて、伯爵さまが部屋を出るまで黙って控えていた。すれ違いざまに、伯爵さまが少佐になんとも云いようのない、美しい一瞥を投げた。からかうようでもあり、誘うようでもあり、面白がっているふうでもあった。少佐は微笑を返した。伯爵さまは視線をそらし、少佐がドアを閉め、ランプを持って歩き出すまで待った。
伯爵さまは非情にも、風呂場に着くと少佐の立ち入りを許さず、彼の鼻先でぴしゃりと扉を閉めてしまった。
「だけどもちろん」
わずかに衣擦れの音をさせながら、伯爵さまは高慢ちきに云った。
「君はそこに控えていなくちゃならないんだよ。だって、わたしがいつ呼ぶかわからないからね。アイスクリームが欲しくなったとか、喉が渇いたとか、そういうことがあるんだからね。コンラートは、そういうときいつもまるでそこにいたみたいに、さっと来てくれるんだよ」
少佐はドアに耳をくっつけ、伯爵さまがたてる衣擦れの音に耳をすましていた。しばらくして、それはやんだ。ということは、伯爵さまは丸裸になったのだ。少佐の唇が持ち上がった。
「クラウス、聞いてるの? 返事は?」
「はい、閣下。ここに控えております」
ドアの向こうから満足気なため息が漏れた。ほどなく、伯爵さまが浴槽に身体を沈めた気配がした。温かい湯に沈んで、思わずうっとりとほころぶ伯爵さまのあの顔が拝めないのは残念だ。目を閉じ、唇から大きく息を吐いて、しばしじっとするときのあの顔。少佐は煙草に火をつけ、目を閉じてその顔を思い浮かべた。そうして、ふと思いついて、口を開いた。
「湯加減はいかがでございますか、閣下」
「悪くないよ」
伯爵さまは相変わらず生意気な調子で云った。
「泡立ちも滑らかですてきだよ。それにとてもいい香りだ。気持ちがいいよ。どうもありがとう」
少佐は恐れ入りますと云った。伯爵のとりすましたような主人然とした声が、おかしくてしょうがなかった。
しばらくしてお呼びがかかった。少佐はうやうやしくドアをノックし、中へ入っていった。入ってすぐが脱衣所、タオルや着替えが、そなえつけの棚の上に並べられている。猫足のテーブルに置かれたランプが優しくともり、その横で香炉が龍涎香の香りをまとってゆるやかに逆巻く煙をあげていた。歴史あるエーベルバッハの城には、少佐の祖父の代まで電気もガスも通っていなかった。祖父は電気化に頑固に反対していた。もうそんな時代は終わりを告げているのに、祖父はガスストーブや電化製品といったものが、家人にも使用人たちにとっても毒にしかならぬと信じていた。祖父の考えでは、楽をすることはすなわち古式ゆかしき秩序からの逸脱であり堕落を意味したからである。この城が電化されたのは、祖母が体調を崩し神経をわずらって、真夏でも寒さに震えるようになってからで、それは、少佐が生まれるたった一、二年前のことだった。電化されてから比較的新しいために、この家の古い使用人たちは、いまだに電気という目に見えないしろものをかなり疑ってかかっているように思われる。執事のヒンケルは、なにかの拍子に停電したときなど、喜び踊らんばかりになり、電気などという怪しげな力にぬかづくことのない使用人の誇りを見せてくれようとばかりに、いつにも増してたくみに家事を指揮した。そのためだろうか、少佐自身もまた、ゆらゆらとはかなげな蝋燭の炎やランプの明かりになじみ深いものを感じた。自然の明かりのもとにいるほうが、すべてのものはより魅力的に見える。
伯爵さまは思った通り、床に置かれたかごの中に服を無造作に脱ぎ散らかしていた。使用人に扮している少佐は、義理堅くあとでたたまなければ、と思ったが、すぐにそんなものは明くる日執事にやらせればよいのだ、と思い直した。執事は伯爵さまのお召し物の世話を偏愛していた。服のあいだに鼻面をつっこんで、匂いをかいでいたとしても驚かない。脱いだ服、彼の身体を包んでいた服。少佐は微笑した。主人たるもの、それくらい執事にくれてやる慈悲深さを持たねばならない。
脱衣所を過ぎ、アーチをひとつくぐると風呂場だ。室内は湿ったバラの香りと、蝋燭のあかりに満たされている。壁際、入り口をくぐって真正面のところに、天蓋をもった円形の大きなバスタブがあり、カーテンが吊り下げられている。伯爵さまは薄いベールのような白いカーテンを下ろして、その中でくつろいでいた。大理石でできたふちの上に、蜜蝋でできた蝋燭が並んでいて、その明かりが、伯爵のゆらめく影をカーテンに映し出していた。
「お呼びでございますか、閣下」
少佐は少し離れたところで立ち止まって云った。伯爵さまが微笑したのがわかった。軽い水音をたてて、伯爵さまが湯船の中で膝を立て、脚を組み替えた。なめらかな足が魚の尾のように水しぶきを上げて瞬時跳ね上がり、水中に戻った。
「髪を洗うのを手伝って欲しいんだけど」
伯爵さまは云った。少佐はにやつくのを抑えられなかった。
「もちろんでございます」
少佐は歩いてゆき、うやうやしく一礼して、跪いてカーテンを引いた。蝋燭に照らされた伯爵さまの姿がくっきりとあらわれた。彼は微笑していた。やや上気した頬をして、湯けむりの中で、微笑していた。
少佐は大理石のふちに置かれた瓶を手にとって、中のどろどろした液体をすくい出し、浴槽の横に用意しておいた陶器のボウルの中でお湯と混ぜて、泡立てた。天然素材のこのシャンプーは、頭皮と髪には最高であるものの、実に泡立ちにくく、扱いにくかった。お湯の量に注意し、よく空気を含めるように時間をかけて撹拌すると、その労働をねぎらうかのようにしだいにきめ細やかな泡ができてくるのだった。大きな陶器のボウルで金の巻き毛を受け止め、柔らかい泡を丁寧にすりこみ、マッサージした。華やかな香りがあたりを満たした。
「いかがでございましょうか」
少佐は云った。伯爵さまは微笑し、とてもいい気持ちだよ、と云った。彼はうっとりした顔をしていた。
「君は、理髪師としてもやっていけるんじゃないの?」
少佐は、職にあぶれた暁には検討すると述べた。
ボウルの湯を何度も取り替え、くるくるの巻き毛から丁寧に泡を洗い落とすと、洗面器で一度ボウルを洗い、今度はさらにどろどろした液体を瓶から取り出して、オイルを数滴たらし、混ぜあわせて髪の毛にすりこむ作業がはじまった。どろどろの液体にまみれて粘土のようにまとまってゆく髪の毛を、少佐は大変楽しい気持ちで眺めた。液が垂れてこないよう注意深く髪の毛をまとめ、蒸しタオルで包むと、ひとまず洗髪の仕事は終わりだった。
「ありがとう」
伯爵さまは目を細めて、微笑した。
「ほかにご用は?」
少佐は訊ねた。
「わたしはもうすぐあがるけど」
伯爵さまは相変わらずどこかつんとした調子で云った。
「マッサージオイルを用意しておいて。今日はよく歩いたから、脚をほぐしておかなくちゃ」
脚のマッサージ! 従僕エーベルバッハは眉をつり上げた。
「かしこまりました」
少佐は小さく頭を下げた。伯爵さまはふたたびあの、なんとも云いようのない一瞥を投げて、気持ちよさそうに首まで風呂の中に沈んだ。
少佐は伯爵の髪に十五分も櫛を入れ続けた。この実に単純な労働を、少佐はこよなく愛していた。丁寧に乾かされ、オイルを塗られてつやつやと光るブロンドは、少佐の手の中で海原のように優しく波打ち、ほぐれて柔らかく手のひらから落ちていった。毛先は何度まっすぐに櫛を当てても、その歯が通り過ぎれば必ずくるくるに戻ってしまう。それが実に愛らしかった。少佐はこの巻き毛に顔を埋めたかった。柔らかくなめらかな感触を頬や鼻先で確かめ、その香りを嗅ぎながら呼吸したかった。でもそれは、いましてはいけないことだ……少佐はいま、伯爵さまの従僕なのだから。
櫛を当てられているあいだ、伯爵は鏡台の丸い大きな鏡に自分を映して、眉や目や皮膚の張りや口元が、いつもの通りか注意深く確認していた。ちょっとしたおできやなにかでも、伯爵にとっては死活問題だった。彼は自分の顔になにかしらの欠陥が見つかると、部屋に引きこもって、もうどうあっても外へは出なかった。ひとに顔を見せようともしなかった。そういうときは少佐ですら、面会を渋られた。この点については、伯爵は実に徹底していた。腹立たしく、いじらしいほど徹底していた。
「おれは商品とつきあってるんじゃないぞ」
と少佐は云ったことがある。
「おまえの顔がどれだけ値打ちもんの看板商品か知らんが」
「だって、わたしは顔が命なんだよ! 冗談抜きに!」
ドア越しに聞こえてきた悲痛な声に、少佐はため息をついた。
「まあ、そうだろうがなあ……そりゃそうだろうが、あのなあ……」
少佐はあれこれとことばを尽くして伯爵を説き伏せ、部屋に入れてもらった。伯爵さまはマスクをしていた! 少佐は笑いだしてしまった。またしばらくの時間をかけて説き伏せ、ようやく顔を拝んだとたん、少佐は大笑いしてしまった。伯爵さまが気にしていた吹き出物というのは、左頬の上の、ほんの小さな赤いぽっちにすぎなかったのだ。もっとも、それは確かに色の白い伯爵さまの肌の上で、奇妙な存在感を持っていた。でも、恥ずかしがるほどのことではなかった!
伯爵さまは鏡に見入って、いくぶん享楽的な、あるいはどこか陶酔したような目でおのれの顔をのぞきこんでいる。少佐はそれを見るのも好きだ。それは人間の愚かしさであり、しかし、生命の崇高さでもあった。容姿を認め、ほめたたえることと、伯爵自身をほめたたえることは、まったく同じことであった。彼の魂と肉体は、わかちがたく結びついていた。そしてそこにはいっさいの瑕瑾がなかった。非常に無垢で美しかった。
少佐は心ゆくまで楽しんでから櫛を置いた。金の巻き毛は、これ以上ないほどになめらかになった。葡萄の蔓のような豊かな巻き毛、とミルトンならば書くだろう。イヴは、ミルトンによれば確かに金髪巻き毛のこのうえなく無邪気で美しい女であった。伯爵さまもまた、このうえなく無邪気な美しい、男! であった。
「どうもありがとう」
伯爵さまはうっとりと自分の顔と巻き毛を眺めてから、そう云った。
「お気に召していただけましたら、おみ脚のマッサージにとりかかりたいと思うのでございますが」
少佐はうやうやしく云った。伯爵さまは微笑した。細められた目がなにかを期待しているように見えた。なにか……非常にみだらなものを。
「そうだったね。ぜひそうして」
ささやくような声でそう云われ、少佐は自分のうちにほんのかすかな予兆のようなものが、小さく逆巻き出すのを感じた。
伯爵さまは静かに立ち上がり、鏡台から離れてベッドの前方にしつらえられた長椅子へ腰を下ろした。少佐は伯爵さまの前にスツールを差し出し、そこへ美しい足を乗せてもらった。つつましく、まろみを帯びた足の甲やかかと。それが蝋燭の炎に照らされて、薄暗がりの中に白く浮かび上がっている。細く締まった美しい足首から続く、なだらかな丘のような甲を、その先にすらりと伸びる細長い指を、その葡萄の粒のような愛らしい先端を、土踏まずのなめらかなくぼみを、かかとの熟れたような丸みを、少佐は愛した。手で、頬で、唇で、少佐はその形を知っていた。その指先がどれほど愛撫に敏感であるかを、やわらかい土踏まずの皮膚がどれほど感応するかを、少佐はよく知っていた。ああ、かくも魅力的な足よ! 少佐はかの足の前にひざまずき、サファイアのような色をした遮光瓶を手に取り、イランイランの香りのするオイルを手のひらに受けた。足へオイルをすりこむ前に伯爵さまをちらと見やると、彼は肘置に幾重にもたてかけられたクッションにもたれかかり、少佐を見下ろして微笑していた。冷ややかに、艶めいて。
少佐はおそるおそるといったふうに伯爵さまの足に手をかけた。形を慈しむように撫で回し、手のひらで包みこみ、女のウェストのような足首からふくらはぎへ向かう、そのすばらしい曲線を両手でとらえ、楽しんだ。手のひらを何度も滑らせ、指の腹で触れた。目は閉じていた。より繊細に、皮膚の感触を味わいたかった。盲でいい、と少佐は思った。あまりにも偉大な、輝かしい、美しいものを目にしたら、人間は盲てしまうのに違いない。メデューサは、醜悪な怪物だったのではない。あまりにも美しすぎたのだ。そのために、彼女を見た者たちはみんな目がくらんで、盲て動けなくなってしまったのだ。
膝の硬いまろみに手が触れた。少佐は膝裏へ手を進めた。二本の筋の行き交う膝の裏を愛撫するのには、舌がもっとも効率がよかった。手では、その形にぴったりと吸いつくように触れることはかなわない。マッサージをほどこすにしても、バスローブをまとった姿では、膝までが限界だった。伯爵さまが吐息を漏らした。少佐は目を開き、彼を見上げた。
「君はわたしの脚が好きなの?」
伯爵さまは目を閉じ、うっとりしていた。少佐はおそれながら、と応えた。伯爵さまは目を閉じたまま微笑した。
「女を見るときにも、反射的に脚を見てしまうね? そうなんだろう? 白状したまえ」
恥ずかしながら、と少佐は云った。伯爵さまは目を開き、楽しそうに、そして嘲笑するように、少佐を見下ろした。
「唯美主義者! 君は救い難き唯美主義者だ。女の顔や胸を愛するのは正常な感覚だ。そのぶん子どもじみているけれど。正常なものは、みんな子どもじみている。だけど、脚をもっとも愛すると来た日には、ねえ! 造形の美しさに対する、なんと確固たる偏愛であることか!」
少佐はこのように面罵され、甘んじてそれを受け入れた。反論のしようがなかったからだ。
「反論しないね? 君は認めているんだな! 認め、そして溺れている。ああ、救い難き男だ! 君に服従を求めたわたしが間違っていたよ。なぜなら、君はとうに囚われているからだ。君は美しさの……わたしの美しさの、と云ってもいいね? その絶対的な奴隷であるからだ。君という男は…………どうしたいのか云って!」
伯爵はささやくような叫び声で云った。従僕ごっこはこのように唐突に終わりを告げた。少佐は自分が勝利したことを知った。おのれを力強いものに感じ、膂力に満ちた獣の肢体のようなおのれの身体を感じ、その隅々まで、誇りと喜びに満ちあふれているのを感じた。少佐はもう従僕のようなことばを使わなかった。彼は隷属していたが、あるじであった。彼は鋭く、断固として、そして請い願うように、かのうるわしき足への接吻を求めた。伯爵はよろこびに満ちて承諾した。靡くようにまぶたを伏せ、打ち震えるようにうなずいて、許可した。少佐は両手でかの足を包み、甲のもっとも高まったところへ、柔らかく唇を押し当てた。離し際に、小さく吸い上げるいたずらも忘れなかった。このくちづけによって彼は解き放たれ、盤石の構えで迎え撃つ将校のごとくにゆっくりと進軍を開始した。足の隅々まで口づけ、頬をすり寄せ、脚のなめらかな皮膚を感じ、味わい、匂いを嗅ぎ、鼻先でつついてからかった。濡れた舌がぬめる生き物のように動き回った。余念がなく、躊躇もなく、確かな動きで。
伯爵はクッションに上半身を預け、目を半ば閉じて、うっとりとこの愛撫を受け取っていた。指を口に含まれると小さく身体を震わせて反応を示した。唇からかすかなため息が漏れた。少佐はいたずら心を起こして、手のひらをふくらはぎから上へとすべらせた。膝をなで、ローブの裾のあたりでしばらく惑うように遊んでいたが、やがて隙をついて関門を突破し、バスローブを押し退けながら暗がりの中へ進入していった。頬や唇がそれに続いた。伯爵さまは寛大な御心で、微笑とともにこの不始末を許した。とはいえ、最後の関門はまだ開かれていなかった。それはふたつの太股のあいだに堅く閉ざされて、なんびとも立ち入ることまかりならぬ、という厳粛な、いかめしい守りに身を固めていた。
少佐は伯爵の太股の上に頬を乗せ、彼を見上げた。伯爵はなだめるような目つきで微笑し、少佐の髪を優しく撫ではじめた。少佐は満足してため息をもらした。
「おまえは試合放棄したとみなしていいのか?」
少佐はにやつきを抑えずに云った。
「なんの話?」
伯爵さまは魅力的に首を傾けた。いまや彼の口調も仕草も、ひとつひとつがけむるようになまめかしかった。
「ゲームの話だ。従僕ごっこをしとっただろ」
「ああ」
伯爵さまは奇妙に高い声で笑った。
「君が従僕のふりを続けられたら、ってやつね」
「おれはきわめてまじめに参加した。で、きわめてまじめな結果を残したぞ」
「そうだね……」
伯爵さまは微笑し、思案するように唇に左手の指を持っていった。
「これはわたしの負け?」
「自分から打ちきりにしたからおまえの負けだ。それがなきゃあ、おれはいまだって立派に使用人しとった」
伯爵さまはからからと笑った。
「わかったよ、ダーリン、わかった。君の望みのものをあげるよ……なんでも」
少佐は唇を持ち上げ、それをまたぞろ伯爵の魅力的な太股へ押しつけた。
「君は意志の男で、本心から誰かに隷属することなんて決してない人間だと思っていたけど」
純白のしとねは蝋燭の炎に照らされほの赤く浮かび上がっている。その中央に身を横たえ、目を閉じて、伯爵は云った。少佐は伯爵の美しい脚のあいだから顔を出して、声のする方向を見やった。伯爵は首を少し右へ傾け、陶然とした表情を浮かべていた。蝋燭の炎の中で、鼻や頬骨やまつげの陰影をくっきりと刻んだ美しい顔は、よころびにほころび、陶酔していた。
「わたしの認識不足だったよ。君は、ひれ伏すことのできるタイプの人間だったんだね! 誰かを崇め、ひざまずくタイプだったんだ。思いもよらなかった。君がそういう男だったなんて。君は騎士なんだ。君のご先祖が代々そうだったように。誰よりも気高いけれど、誰よりも真摯で誠実なんだ……気づかなかったよ。わたしは……わたし……」
伯爵さまは静かに涙を流した。少佐は身体を起こして、伯爵のとなりに横たわり、金髪に手を添えてあやすように撫でた。伯爵はしばらく黙って両目から涙を流していた。透明な滴が白くなめらかな頬を伝い、シーツの上に小さなしみをこしらえた。少佐は涙と、その通り道にキスし、伯爵の背中を撫で、背中を覆う巻き毛を撫でた。
「……だとしたら、君ってまったくことば足らずだよ! 前に、世界中の男に百ぺんずつ君は美しいって云われても、君がそう云ってくれなきゃ、わたしの美しさは存在しないのとおんなじだって云わなかった?」
少佐は確かに聞いていた。こんな関係になってすぐのことだ。少佐は、自分でも自分がことば足らずであることを知っていた。ことばによって相手を賛美し、敬い、熱烈な情熱を注ぐこと。そういうやり方は不得手だったのだ。心をこめた愛撫の中に、微笑の中に、それは自然にあらわれると少佐は信じたし、伯爵ももちろんそれは感じているに違いなかった。でもその深みを、伯爵はとらえそこねていたのだ。少佐もまた、あえてそれを明かすことをしなかった。膝を屈するほどに高められた親愛の情を打ち明けることは、なにがなし屈辱的なことであり、痛痒いような心地がしていたからだ。それは少佐の矜恃の問題だった。しかし、そのために伯爵が少佐に幾ばくかの距離を感じていたとすれば、それはゆゆしき問題だった。少佐は自責の念に駆られた。いまこそ、服従しなければならぬ、と少佐は考えた。おのれのプライドも見栄も打ち捨てて、彼に対する陶酔を明らかにしなければならぬ。
少佐は涙を流す伯爵を促してベッドの上に座らせた。そうして自らは床に降り、彼の前に恭順の態度でひざまずいた。少佐は伯爵を見上げた。伯爵はぱっちりと開いた目で少佐を見下ろしていた。涙は止まっていて、不思議がっている様子がうかがえた。その子どものように無邪気な顔が愛らしかった。巻き毛まで、無邪気に奔放に、彼の頬のまわりを取り囲んでいた。
少佐は彼のほっそりした手を取り、思いをこめて口づけた。頬をすり寄せ、じっとその体温を感じた。
すべてのものが静止したかのような時間が過ぎた。少佐はふたたび伯爵を見上げた。彼は優しく微笑していた。慈悲深いあの、すべてを知る者の微笑を浮かべていた。少佐は自分のことば足らずが、どちらかといえば不正実な隠蔽が、許されたのを知った。伯爵が腕を伸ばしてきて、胸に少佐を抱き寄せた。少佐は目を閉じた。
「わたしのクラウス」
彼は云った。
「君はわたしのものだよ。そうだね? わたしのすべてが君のものであるように」
少佐はうなずいた。心の服従は苦々しい敗北ではなかった。それはたとえようもなく甘美だった。少佐はおのれを差し出し、その対価を得た。彼は、ふたりのあいだにより深いものが、いままさに生まれたことを知った。