コンラート・ヒンケルとドリアン・レッド・グローリア伯爵、およびクラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐との雑談
執事は半日ほどのあいだに、伯爵さまに関するありったけの情報をかきあつめた。バラの花が大好き、甘いものが好き、食事は時間をかけて食べるのが好きで、好きなものを好きなときに食べるので、デザートだろうがなんだろうがいっぺんに食卓へ並べる方がよい。だいたいなんでも召し上がるが、お互いの料理の味が混ざるのはお気に召さない。食後はコーヒーではなく紅茶。食事の内容によって飲みたい茶葉が変わるので、聞いてからお出しすること。室内にいるときは相棒のテディ・ベア、ウィスパーさまをそばから離さないこと、そのウィスパーさまは衣装持ちでおしゃれで清潔好きで(その衣装ケースを忘れてきたというので、到着時にもめていたのだった。これはすぐにイギリスに電話が飛び、先ほど発送されたため、後日届くことになっている)、いいやつだがちょっとナイーブ、特に初対面の相手に打ち解けるまでにはしばらくかかる。夜は九時に寝て、おねぼう。ドイツ語を勉強中……という伯爵さまの中での設定だ。これも大事なことなので覚えておかねばならない。伯爵さまは風呂は朝晩最低二回は入り、いずれも相当の長湯である模様。お召し替えはしょっちゅう、服はすべて一点もので、取り扱いにはうるさい。利用しているのが腕のいい、信頼できるクリーニング屋でよかった。膨大な数の装飾品の取り扱いにも注意が必要だ。万が一にもなくなったりしないよう、執事は数と中身を控えておいた。いずれも市場に出せばとんでもない値段がしそうなものばかりだ。使用人たちは皆信頼できる人間だが、一応気をつけておく必要がある。
……執事はそこでふと、家の中に貴金属があるのだという意識から来る緊張感になつかしさを感じた。記憶がどこかへつながろうと、ぞろぞろとうごめきはじめている。あれは……肝を冷やしたことがあるのだ……ソファの上に無造作に置かれっぱなしになっていたエメラルドにぞっとした……あのころはもっと使用人が多く、女中もいて……そうだ、あれは奥さまがいらしたころのことだ。先代の奥さまは決して派手好きでも宝石とあれば目を輝かせる俗っぽい女でもなかった。でも女性らしく宝石類は好きで、品のよい、ご自身にふさわしいものを所持していた。でも奥さまは、ちょっと忘れっぽいところがおありだったのだ。帰宅して、お帽子やコートと一緒に宝石類も外し、ひょいとどこかへ置いてそのままにしてしまわれることがあった。執事は、奥さまが帰宅された折にはお部屋に下がられるまで、そのあとをついて回ったものだ。
「わたしのこと、信用できないのね、コンラート」
いたずらっぽくそう云って笑った、あの形のいい唇や、美しい緑の目は、いまでもついさっき見たばかりのように思い出せる。まあいいわ、だってわたしってときどきほんとうに忘れっぽいんだもの。そうやっていつもついて来てちょうだいね。そうしたら安心だわ。
そうだ。奥さまがいらっしゃらなくなってから、この家では気を遣うことがうんと減ってしまった……というより、気遣いの種類が変わってしまった。女性の存在を思わせるものがどんどん消えてゆき……殺風景に、どこまでも規則正しいものになっていった。この世の光や豊かさとは、本質的に女性性のうちにあるのではないだろうか。執事はいまもそう考えるのをやめることができない。感情を和ませ、明日へ向かう力をくれる柔らかさ、ぬくもり。質感や温度の微妙な変化。先代のご主人がもし再婚されていたとしたら……十分に可能な、むしろそうしないことが不自然なくらいの年齢だった、でも先代はそうしなかった……クラウス坊ちゃまはもう少し違った少年時代を過ごしていただろうか、それとも、やはり継母などいないほうがよかったのか。
執事は伯爵さまにお出しするバスタオルを吟味していた手を止め、苦笑した。まさかいまさらになって、こんなふうに奥さまのことを思い出すことがあるとは! それも、主人のご友人、男性の方から。でも、ほんとうに退屈しない方だ。よく笑い、よくしゃべる……まったく次から次にことばの出てくる方だ。頭の回転速度が尋常ではない。それを隠すために、わざとあんなふうにばかみたいにしゃべり続けているのではないか? もちろん、根が素直なこともあるだろうけれど。幸福そうに笑いながらのとどまることも行き先も知らないようなおしゃべり。主人が適当に聞き流しているように見えて、押さえるところは押さえているのがおもしろかった。一応ちゃんと聞いているのだろう。少々乱暴でぶっきらぼうだが根は優しい方だ。その中でも極めつけに柔らかい部分で、主人は伯爵さまを受け止めているように見受けられた。人間の他者に対する受け皿にはいろいろな種類があり階層があるものだが、主人があの伯爵さまに向けているのはその深奥であるような気がした。見ていればわかるのだ。口調もしぐさもいつもの主人だが、でもいつもよりちょっとばかり表情の変化が多彩で、ちょっとばかり口数が多くて、ちょっとばかり、相手の内面に深く踏みこんでいる。伯爵さまだって、主人に対してはかなり遠慮なく振る舞っているように見える。これは、たいしたことなのだ。少なくとも、執事の知る限り、とてもたいしたことなのだ。あの主人が、自分のうちへ誰かを招き入れるというのは、ドイツがフランス側へばたんとひっくり返っていいほどの事件なのだ。
内面の奥深くで閉じていて、ありきたりの人間には、ほとんど到達することのかなわない場所。誰にでもそういう場所がある。ある神秘をともなったものだけが、その扉を開くことができる。神秘的な、美しい作用。人生のよろこびの多くがそれに帰結する。そして悲しみもまた。そういう場所へ、誰かを招くということ。誰かが、その扉を開く、ということ。
あの美しく、どこか中性的な不思議な魅力を持った伯爵さまが、霧深い森の中を堂々と歩いていく。右も左も見えないほどなのに、彼はためらわない。なにかに導かれるように、まっすぐに歩いていく。深い湿った森の奥に、その扉がある。鍵がかかっており、荊や苔に覆われて、堅く堅く閉じている。でもその扉に、うるわしい金髪の君がそっと触れると、荊や苔は枯れ落ち、扉は音を立てて、内側へと開くのだ。そうして、伯爵さまはふたたび堂々とした足取りでその中へ入っていく。彼がもたらしたのは、あのまばゆい金髪のようなきらめき。その光。あるいは、あの無邪気さ、幸福そうな微笑、そしてもはやあらゆる秩序が意味をなさなくなる世界。
執事はちょっとばかり空想的な、どちらかといえば感傷的な人間だった。仕事の合間のそんな夢想で、彼は早くも涙しそうになった。まったく、あのご主人さまが! 意外な気もしたし、なんとなくそうあることが正しいような気もした。先代とその奥さまだって、性格的にはほとんど真反対と云ってよかったのだ。厳格で古風な先代には、社交的でおっとり型の奥さまがお似合いだった。そう考えれば、あのご主人にあの伯爵さまでも……執事はあえて性別という問題には目をつぶることにした。恋愛も結婚もあらゆる面で自由化が進み、法的にも相当なことまで認められている時代だ。そんなご時世に、いったいなにが問題になるというのだ。あのご主人さまが、という内なる動揺の声は、完全に消し去るべきだった。そしてあの伯爵さまに対し、ご主人さまが認めたお方として、第二の主人のように忠誠を尽くして取り扱わねばならない、という気持ちがすでに芽生えはじめていた。そして伯爵さまは執事にそういう感情を目覚めさせるものを、確かに備えているのだった。
教養のある方だ。あの伯爵さまの頭の中にはありとあらゆる詩人の詩、優れた戯曲、文学作品のたぐいが残らず入っているらしい。それに、芸術に対する深い愛情と造詣。そういうものに傾倒していく人間は、繊細で内向的なものだ。伯爵さまもある意味ではそうだろう。感じやすく、察しやすい。でも、そういうふうに見えない。どぎついほど派手で美しい見た目が、その内面を大きく裏切っている。どちらがほんとうだろう? たぶん、どちらもほんとうなのだろう。不思議な方だ……ほんとうに不思議な方だ。あの美しい顔の、夢を見ているようなブルーの目に見つめられると妙にどぎまぎしてしまう。まるで……否、否。これ以上考えるのはよそう。明日には、きっとあの目にも慣れるだろう。
伯爵さまは居間ではなく部屋にいるとのことだったので、風呂の用意ができたことを伝えるついでに、頼まれていたマッチを持っていくことにした。伯爵さまはテディ・ベアのウィスパーさまの服を、ネグリジェ風の寝間着に取り替えているところだった。そろそろ九時になる。ウィスパーさまのおやすみの時間だ。ベッドの横に置いてあるサイドボードの上に、ミツロウでできた素朴なろうそくと、三脚がついた青白磁の、怖いほどすばらしい香炉が置かれていた。
「ああ、ありがとう、コンラート。寝る前にろうそくの明かりの中で過ごすのがわたしのやり方なんだ。それに木香でリラックスするのもね。一日のスイッチをオフ。お風呂に入って……風呂の中でもろうそくを使っていい? そう、よかった。汚れたタオルやなんかはどうすればいいの? 放っておいていい? じゃあそうするよ。君のご主人が発狂して、どこかに片づけてくれるよね。わたしはものをしまったり整理したりするのがあんまり得意じゃないんだ。誰かがやってくれるから、やる習慣がついてないんだよ。君にすごく迷惑かけるだろうから、先に謝っておくからね。だらしないって君のご主人にいつも怒られる。でもさ、しょうがないよね。誰にでも向いてることと、そうじゃないことがあるんだ……うん、すっかりおねんねモードになったよ、ウィスパー。その寝間着、似合ってるよ。じゃあおやすみ。いい夢をね」
伯爵さまは寝間着とナイトキャップ姿になったテディ・ベアにキスし、ベッドの中に押しこんだ。
「なにかほかにご用はございませんでしょうか。なにもなければ、わたくしはそろそろ下がらせていただきますが」
伯爵さまは首を傾け、にっこり微笑んだ。
「大丈夫。わからなかったら君のご主人に訊くよ。今日はありがとう、コンラート……君を見てると、昔家にいた執事のこと思い出す。すごく厳しくて、でも温かいひとだったよ」
伯爵さまの顔に、かすかに蔭がよぎったように見えた。
「昔は、大人になったら執事みたく分別ある人間になるんだろうかって考えたものだった。大人になるって、なんだろうね。わたしはなんにも変わっていないけど、状況と、年齢だけが変わっていく。ウィスパーは相変わらず友だちだし、相変わらず雷はあんまり好きじゃない。風が強い夜にふいに寂しくなったり、怖い夢を見たり。そういうことの全部が、もう幻想だってわかっている。わたしはね、大人になることを拒否してるんだ。ものわかりがよくて、諦めることになれていて、常識的で、かちんこちん。そういうのって大嫌いだ」
ウィスパーをなでる手を止めて、伯爵さまは顔をこちらに向けた。そうして微笑した。
「君は打ち明け話に向いてるタイプだね。忠誠心があって誠実で、義理堅くて、決して自己主張しない。昔ながらの執事だ。うちの執事もそうだったよ」
執事は、さようでございますか、と云った。伯爵は笑みを深めた。
「下がっていいよ、わたしはお風呂に入るから。なにかあったら君のご主人にどうにかしてもらうよ……おやすみ、いい夢をね」
伯爵さまはベッドから立ち上がり、ゆっくり歩みよってきて、執事の頬にキスした。甘く少しスパイシーな、すばらしい香りがした。執事は全身がかっとなった……こんなことをされたのは人生でも数えるほどしかなかったし、それにそんな気遣いのことばをかけていただいたのも久しぶりだった。執事はなんとか平静さをよそおって、引き下がった。
伯爵さまがバスルームへ入られたのを確認して、執事は主人のところへ向かった。
「ご主人さま、もう用はございませんでしょうか。なければそろそろ下がらせていただきます」
ソファで煙草を吸っていた主人が、ぼんやりした顔を向けてきた。
「……顔が赤いぞ執事」
執事はとっさに頬を手で押さえた。主人は鼻を鳴らした。
「あいつ、おまえになにか云ったかやったかしたな? ありゃ年上に好かれるのが犯罪的に得意なんだ。おまえ気をつけないと、いまに貢がされるはめになるぞ。で、あれはどーした」
「お風呂へお入りになりました」
主人はまた鼻を鳴らし、ソファに沈みこんだ。執事は挨拶して、その場を立ち去ろうとした。
「……なあ、どう思う」
背中にかけられたことばに、執事はどう答えたものか迷った……当然、この質問が来ることをわきまえているべきだった。否、わきまえていたのだ。だからこそ、考えがまとまらなかった。この場合、ある程度の事情を察していることを伝えるのが賢明か、それとも……。
「わたくしは意見を申し述べる立場にはございませんが……」
執事は逃げた。主人は鼻を鳴らした。
「云っていい。許可する」
「はあ……さようでございますか……」
執事は考えこんだ。
「大変興味深い方でございます。すばらしく回転の速い頭をお持ちでいらっしゃいますが、あれではかえって不便でございましょう。男性にしては繊細すぎる気がいたします……苦労なさったと思います。でもそういう感じがいたしません。不思議な方でございます」
主人の灰色がかった緑の目が、こちらの奥底まで貫くような鋭さをたたえて見つめてきた。やがてそれはいつもの主人のものになり、彼の両手が降参の形に上がった。執事はおそれいります、と頭を下げた。
「……お似合いかと存じますよ」
執事は微笑し……主人が許可すると云ったのだから、いいのだ……からかうような口調で云った。主人が面食らった顔をした。
「伯爵さまはご主人さまにないものをすべてお持ちでございますし、ご主人さまは……」
「やかましい! そこまで云えとは云っとらん。とっとと寝ろ」
焦りと怒りの混じった声が飛んできた。執事は笑いをこらえて肩をすくめ、これはたいへんなご無礼をいたしました、と云いながら、歩いていってドアを開けた。
「……なんでわかった」
今度は落ち着いた声が追いかけてきた。執事は振り向いた。主人はどことなくばつの悪そうな顔をしていた。こんな顔を見るのは久しぶりのことだった……執事は、とてもうれしかった。
「いや、違うな。おまえはなんかしらわかっとると思っとった。なんでも目ざとく見つけるやつだ。おれが訊きたいのは……」
「たまたまでございますよ。わたくしはなんといっても長年ご主人さまにお仕えしておりますので、勘が発達しておりますから……ご主人さま」
執事は主人に向き直った。自分が差し出がましい真似をすべきかどうか迷っていたが、どうやら主人も態度を決めかねているようだ。こういうときは、こちらから助け船を出さねばならない。
「他の使用人については、わたくしに責任がございます。ご主人さまがお気になさることはございません。この城の中では、いかなるお気遣いも無用でございます。伯爵さまにもそうお伝えいただければうれしゅうございます。ずいぶん気を遣っておいでのことと思います」
主人は数度瞬きした。そうして、行けというようにひらひら手を振った。執事は一礼して、下がった。