【ちょっと説明】
わたしの勝手な設定で申し訳ないんですが、伯爵はその昔お父さんにプレゼントされたテディベアを大事に大事にしているという妄想があって、どこへでも連れて行き、一緒に寝る……わけです。名前はウィスパー。おいおい、ちゃんと書きます。とりあえずそうなんだなあ、って思って読んでいただけると嬉しいです。
コンラート・ヒンケルの驚愕
「今日はご主人さまの大切なお客さまがいらっしゃる日だ。粗相のないように。くれぐれも、お客さまに失礼のないように、誠心誠意おもてなしをするのが我々のつとめだ。ご主人さまも今日から休暇に入られる。いつも以上に気を抜かず、きっちり各自の仕事をこなすように」
使用人たちは顔を見合わせた。執事は放っておいて、先ほど空港へ向かった主人が帰宅する時刻を意識しながら、雑務を片づけはじめた。おもてなし用の紅茶のカップとポットはとっておきのマイセン、茶葉はロンネフェルトを用意した。先代もいまの主人も紅茶よりはコーヒーを飲む習慣だったので、茶葉を選ぶのには慎重にならざるを得なかった。執事自らがひとつひとつ香りをかぎ、試飲して選んだが、気に入ってもらえるだろうか? お茶菓子はのトルテは時間にあわせて店から届けさせる予定だ。お客さまは味にひどくやかましいということだった。主人がわざわざいい食器を、と指示するくらいだから、美的感性も鋭い方に違いない。教養があり、目も舌も肥えているのだろう。気を抜けない。直前にもう一度食器を磨いておこう。念のためだ。
客室へ行き、最終チェックをする。ベッドや花瓶に生けたバラ……いまでは誰も見向きもしないが、庭の一角にあるバラ園から摘んできたものだ。花がお好きだった先代の奥さまのために先代がこしらえたのだったが、奥さまが亡くなられてからも、庭師が頑固に手入れを続けている。何十年も、ただ咲いて、枯れるだけだった。城の中に飾ったとしても、それに目を留め、微笑むようなひとがいない。実に寂しいことだった。それがようやく日の目を見たような……それだけで、執事はうれしかった。部屋中を念入りに点検しながら、ちょっとした感傷に浸ってしまうのは仕方がないことだ。あの主人が、休暇に誰かを家に連れてくるなんて初めてのことなのだ。少なくとも、学生時代以来だ。学生のころは、よくご学友の方々が遊びに来たり、遊びに行ったりしていたものだ。それにフットボールのチームメイトの方々。主人は、あのころから人望が、あるところにはあったのだ。一年後輩に、主人を慕っていた方がいらした。よく家に来ていたものだ。あのころは、この家にも活気があった。それから主人は軍に入り、やがて情報部の所属になり、私的な交流は死に絶えたように途絶えた。この家はひどく静かになった。まるで先代の奥さまがお亡くなりになったときのように。ところがいま、ふいに……執事の顔がかすかにほころんだ。主人が、誰かと情の通ったつきあいをしているのだ。それが恋人なのか友人なのか、そんなことは詮索すべきことではない……前者だというかすかな予感があるが、執事はそれをつきつめて考えることはしない。差し出がましいまねをしては失礼だ。たとえ心の中でも。
帰宅予定の時刻が近づいていた。執事は少しそわそわと落ち着かない気持ちになりながら、使用人のひとりに再度食器を磨かせ、自ら応接室のソファの具合を確かめた。ちりひとつなく完璧な美しさ。テーブルの上に別の種類の、あまり香りの強くないバラを花を飾っておいたが、これでよかっただろうか? 台所へ戻ってお湯を沸かす準備やらあれこれの指示を出し、指示通り届けられた菓子を受け取り、中身を確認して勘定を済ませる。ほんとうに準備はいいか? やり残したことはないか? こういう気ぜわしい気遣いは久しぶりだ。そして執事はこれが好きなのだった……ほんとうは。
使用人のひとりが、主人の車が戻ってきたと告げた。執事は大股でエントランスへ急いだ。使用人をみんな呼び集めながら。そしてそれを廊下の左右に一列に並べて待機させ、自分もドアの前に控えた。使用人ふたりを、荷物運びと車のドアを開けさせるために外へ出した。完璧だ。ちょうど主人の車がやってきたところだ。階段の下に車が止まった。ひとりがさっと歩み寄って後部座席のドアを開け、ひとりは開いたトランクに近寄った。
主人はすぐに降りてきた。車の横に立って、後部席の方を見守っている。さてどんなお方が出てくるものか……執事は自分が緊張していることに気がついた。
はじめに、長く美しい二本の足が、ドアの隙間からあらわれた。女性のものではさそうだ。ブーツを履き、身体にぴったりした濃いブルーの、刺繍が施されたズボンを履いている。執事はかすかに、ほんのすこしだけ、がっかりした。密かな予想が外れたからだ……しかし、男性のものであるにしても、すばらしい足ではあった! それから聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「だってね君、ウィスパーは特別なんだよ。世界でただひとつのベア、わたしのためのベアなんだ。彼を洗う石鹸だって専用なんだからね。特別に作ってもらってるんだから。それに服だって! いちからデザインしてくれてるんだよ、代用がきかないってわかるだろう?」
ドアからつややかで見事な金の巻き毛があらわた。続いて、それについている美しい顔が。目の覚めるような淡いブルーの目は、正真正銘の白色人種のものなのに、どこかエキゾティックで異国ふうだ。均整の取れた、しなやかな身体。美しいレースで飾られたシルクモスリンのブラウスは、そんじょそこらの店で買えるしろものではなさそうだったし、ネックレスや腕輪ときたらすばらしかった! 腕に、バラの花がついた山高帽をかぶり、ストライプのシャツに黒のベストとズボンを身につけたかわいらしいテディベアを抱いている。執事はここまで観察してから、改めて驚愕した……とすると、主人が云っていたプライベートな客とはこの英国の伯爵だったのだ。なんということだ、てっきり……否、否。きっといろいろあって、このおふたりのあいだに友情が芽生えたのだ。そうに違いない。たとえ地球に人類が彼しかいなかったとしても、あの厳格な主人が友だちにしそうにないタイプではあるが、しかしなにがあるかわからないのが人生だ。ふたりのあいだに、なにかお互いを結びつけるものがあったのだ……。
「ああもう、やかましいやつだ。ぬいぐるみ抱いておねんねでもしてろ。おしゃぶりいるか? がらがらやろうか?」
「君にはわからないよ、わたしとウィスパーの信頼関係なんて……ねえウィスパー。ああ、ありがとう、荷物はそのトランクだけ。あとで別個にひと山配達されるけど。今日の夕方には届くかな。君すてきなネクタイしてるね。名前は? ウィスパーも挨拶して。ハロー! よろしくねってドイツ語で云える? 勉強しただろ? 忘れちゃった? いいよ、わたしが代わりに云うから」
トランクを引き受けた使用人および、胸に抱いたテディベアとやりとりしている伯爵さまに、主人はあきれたようにため息をつき、先に階段を上ってやってきた。執事はあわてて己の驚愕を脇へ追いやった。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
少佐はうむ、とうなった。
「そういうわけで、あれが客だ。あの通りやかましいがまともに相手にしなくていいぞ」
「……はあ、さようでございますか……」
少佐はそれだけ云うと車の方を振り返り、おいとっとと来い、こいつら待っとるんだ、と云った。イギリスの伯爵さまは相変わらずテディベアをしっかりと抱きしめ、にこにこしながら階段を上ってきた。でもそのたち振る舞いは雅致があり堂々としていて、謁見のためにやってきた王かなにかのようだった。そのように、堂々たる存在感を示すことが自然にできる人間というのがいる。誰かの上に立つことや、高い身分に見合った振る舞いを徹底して訓練されてきた人間。この方もやはりきちんとした貴族さまなのだ……執事は身体の奥が引き締まるのを感じた。
「いらっしゃいませ、伯爵さま。遠いところをようこそおいでくださいました」
執事は深々と頭を下げた。彼の後ろで左右に列になっていた使用人たちも頭を下げた。伯爵は肩をすくめた。
「わお、久しぶりに見たよ、このお出迎え。昔はうちもこうだったけど。肩が凝るったらなかったな! 懐かしいよ。君よりもうちょっと年上の、こわーい執事がいてね……しばらくよろしくね。ええと……」
「ヒンケルでございます」
執事は名乗った。
「ヒンケル? 親からもらった名前は?」
「コンラートでございます」
伯爵はその名前を何度か舌の上で転がした。
「コンラート……ヒンケル……うん、コンラートの方が君らしいね。響きが君と調和してるよ。ご両親は、君のことよくわかっていたんだな。よろしく、コンラート。執事なんて呼び方は無粋だよ。わたしは嫌いだ。君のご主人は気にしないみたいだけど。いまさらだけど、こちらドリアン・レッド・グローリア伯爵。何度か顔を合わせてるけど、君にちゃんと名乗ってなかった気がするんだ。彼はウィスパー。わたしの友だち。挨拶して、ウィスパー。わたしたちの世話をしてくれるおじさんだよ。ハロー!」
執事は生まれてはじめて、テディベアと握手をさせられた。彼は困惑し……しかしよく訓練され経験を積んだ執事だったので、すぐに気を取り直した。
「海を越えていらしたのですから、お疲れでございましょう。こちらでおくつろぎくださいませ。いまお茶をお持ちいたします」
伯爵の顔が輝いた。
「ありがとう! 喉が渇いてたんだ。機内の乾燥ってひどいよね! そうだ、ウィスパーが座れるような椅子はない? 子ども椅子が最適なんだけど。クッションかなにか敷いてくれるとうれしいな。彼、堅い椅子は嫌いなんだ」
執事はすぐに使用人のひとりに云いつけ、物置にしまいこまれているはずの子ども椅子を探しに行かせた。それから、それに見合う小さいクッションも。
「あ、そうそう、トランクの中にごちゃごちゃ服が入ってると思うんだけど、全部出して、かけるとか広げるとかしておいてくれるとうれしい。適宜ね。それから悪いんだけど、誰かトランクの中から別の靴を持ってきてよ。さっきの彼に出してもらおうと思ってて忘れちゃった。履きかえたいんだ。ブーツって大好きだけど、長いこと履いてるもんじゃないよね。待って、待って、いくつか……いや、ごめん、かなりあるんだ。レースアップかオペラシューズか……堅苦しいのはいやだな。どれがいいかな……黒ベロアのオペラシューズ。決めた。わからなかったら訊いて。といっても、わたしもわからないかもしれないけど。わたしが荷物をつめたわけじゃないから。あ、そうだ、それと、あとで服がひと山届くんだけど、置き場所あるかな?」
使用人たちが、伯爵の要求をかなえるために城じゅうのあちこちへ散らばっていった。執事は、これはたいへんなお客さまだ、と思った。主人が云った通りだ。ひとを使うことに慣れていて、なんでもかんでも申しつける……よく云えば素直でわかりやすく開けっぴろげ、悪く云えば……否、否。主人のお客さまのことを悪く云ってはならない。たぶん、心根がとても素直な方なのだろう。ちょっと甘ったれたような口調でわかる。テディ・ベアのこともあるし……そうだ、この伯爵さまは子どもみたいな方なのだ。執事は納得した。そして、彼はもうこの珍客の扱いの、肝心要の部分を心得たと感じた。全身にこびりついていた不安と緊張がうそのように氷解していくのを感じる。自らの威厳と誇りを取り戻したような気持ちになり、彼はてきぱきとお茶の用意に取りかかった。
しかしあのご主人さまが! なるほどねえ。執事はこみ上げてくる笑みを、何度も自分を叱責することで抑えこまねばならなかった。