エステン氏は老人らしく朝の早い人物であった。七時半にレストランへ行くと、彼はもう席についていて、ゆで卵の殻をむいているところだった。少佐は彼のとなりのテーブルにつこうとした。それを見とめたエステン氏は、にこやかに微笑んで少佐に挨拶を送り、自分の向かいに座るようすすめてきた。
「ホテルというのはすばらしい場所ですが、どうもベッドだけはなにやら落ちつかない感じがしますな」
 のんびりと殻をむきながら、エステン氏は云った。
「わたしらの世代は、貧乏をした時代が長かったもんだから、よすぎるものはかえってよくないのかもしれん」
「あなたの部屋がどうか存じませんが、おれの部屋では、ノミのベッドでないだけましだと思わなきゃならんでしょうな」
 エステン氏は手を止め、それから丸眼鏡を片手でちょっと持ち上げて、遠慮がちに微笑した。
「失礼だが、少佐、あなたはどの部屋に泊まっておられるので? まさか、格安の質の悪い部屋じゃありますまいな、使用人だって逃げ出したくなるようなあの? 昔から、あれはホテルの品位を汚すものだと思ってきましたが」
「そのまさかなんですよ」
 運ばれてきた朝食のベーコンを切り分けながら少佐は顔をしかめた。
「一応これで仕事なもんですから、宿泊費も経費というわけで。なんにしても雇われ人というのは、勝手なことはできんもんですからな」
 エステン氏は同情と不満をこめたため息をもらした。
「そいつはいけない。失礼だが、あなた方の経費をケチるようでは、NATOはおしまいですぞ。今度厳重に抗議しましょう。悪いことは云わない、宿泊費なんぞわたしがどうにでもしますから、もう少しましな部屋にお移りなさい」
 少佐は目の前の小柄な老人の、誠実そうなまなざしに一瞬引きつけられた。エステン氏はまぎれもなく、ひとに好意を持たれずにはおかない人物だった。彼が数十年の長きにわたって、財界でなにをし、なにを成したかを、知る者は少ない。彼は、戦後の事態の収拾と経済復興のためにあらゆることをした。役職に就かず、表へ出ることはいっさいなしに、ひとり山のような仕事を一心にこなした。彼に比べれば、財務省大臣などはただの置き人形にすぎなかった、というのが、当時を知る連中の見方だった。先を見通す能力に恵まれ、誰も考えつかないほど遠いところまで、早いうちに手を打っておこうとひとり奮闘していた。その恵まれた能力が悲劇を生んだのだ。彼の仕事は、周囲の人間にとって、しだいにわけのわからないものになっていった。理解しようにも、誰にも理解できなかった。というより、エステン氏は説明の努力を惜しまなかったが、誰も本気にできなかったのだ。なぜ後進国などにかまける必要があるのか? ほかの連中は、ただでさえ分断されてしまった国の中のことで手いっぱいだったのだ。
 エステン氏はしだいに疎んじられ、婉曲なやり方で引退に追いこまれていった。彼は最後まで周囲を説得しようと努力した。が、どうにもならなかった。エステン氏は静かに身を引いた。自分が関わっていた仕事のいっさいの情報を抱えて、故郷バウツェンに帰っていった。そしていまに至るまで、誰も彼を気にかけたことなどなかった。
 いま、NATOには、彼の持っているある資料がどうしても必要だった。それは彼が現役のころ、ある人物とのあいだに取り交わした密約を記したものだった。相手は要人ではあったがいわゆる途上国の人物で、当時は誰も気にもとめなかった。その国が新興国としてのし上がってきたいま、その密約は非常に重要な意味を帯びてきていた。資料の開示を求める正式な要求は、エステン氏によってきっぱりはねのけられた。かつての同僚も、閣僚級の人物も役には立たなかった。脅しもおもねりも効果がなかった。上層部は手を焼いて、すっかり途方に暮れてしまった。そして彼らは、困ったことがあるとひとまず各種情報機関に投げつける性質があった。話は回り回って部長のところへたどりつき、部長は話を少佐へ持ってきた。
「命じておいてなんだが、わしゃあまり気がすすまんな……彼のことは、個人的なつきあいはないまでも割とよく知っとるんじゃが……まあだからこの件を引き受けたんだが……ああいうのを天才と云うんだろうよ。正当な評価をされないのが天才の天才たるゆえんだろうから、ある程度仕方がないこととはいえ、わしゃ同情を隠せない。無用者扱いしておいて、いまさら価値がわかったからもう一度利用させてくれというのは、いささか恥知らずにすぎんだろうか?」
 というのが、部長のささやかな意見だった。
「そこのところを、よく理解しておいてくれんか。わしはそれがわからん連中にこの件を任せたくなかった。どうするかは任せるが、わしが云ったことを忘れんでくれ……」
 少佐はいま、小さな穏やかな老人と向かい合いながら、なぜはじめこの仕事を部下にやらせようとしたのだろうと考えて、おかしくなった。たぶん、彼らの腕を鍛えるために? そのつもりだった。だが結局、部長の云ったことに配慮をするなら、部下どもにはまだ無理だろう。彼らが辛酸を嘗めていない、とは云わない。そうではないが、これはそうしたものともまた微妙に性質が異なっている。エステン氏の横に、偶然にもグローリア伯爵という得体の知れない男がくっついていて幸いだった。かつての陰の大物エステン氏よりも部下どもをおびえさせるらしい、なにをするかわからない、予測不能のグローリア伯爵。少佐は自分がリラックスしはじめているのを感じた。伯爵との微妙な問題は置いておくとしても、このエステン氏となら、数日間、うまくやれそうだった。
「いや、ありがたい申し出だがそれはやめておきます。あなたはそういうつもりではないんでしょうが、そういう貸しを作ると、あとが面倒でしてな。おれはいっさいそういうものを作らん主義なんです」
 エステン氏は気を悪くした様子もなく、微笑んで、また丸眼鏡を持ち上げ、丸っこい、含蓄に富んだ鼻の上におさめると、ようやくむき終わったゆで卵を食べはじめた。
 朝食の席では、少佐の目的のこと、つまり資料のことや、おそらくまだ夢の中に違いない伯爵のことはいっさい話題にのぼらなかった。彼らは世間話をし、時事問題について意見を交換しあった。エステン氏は別れぎわ、実に親しげに、まるで息子か孫にでもするかのように少佐の腕を叩いて、レストランを出ていった。

 

 午前中は静かにすぎていった。少佐はホテル内のサロンへ出向いて、テーブルのひとつに陣取り、各種の新聞を読んですごした。それから、ぶらぶらとホテルを出て、真っ昼間のブランデンブルク門に、その上の女神に挨拶しに行った。
 いまにもひと雨やってきそうな曇天の下で、青銅色の女神は今日も勝利に向かって馬車を走らせていた。雨が降らないといいが、と少佐は思った……このような誇り高い女神が、雨にぐしょぐしょにやられてしまうという光景は、想像しただけでもあまり愉快なものではない。もっとも、女神のほうはそんなことなど気にしないのかもしれないが。
 パリ広場は今日も賑わっていた。いったい毎日毎日、どこからこんなに人間が湧いてくるのだろう? 世界中の観光客がやって来尽くしてしまうということは、いったい起きないのだろうか? 考えごとをする少佐の横を、女子学生の集団が通り過ぎていった。そうして門の前で記念撮影にとりかかった。少佐は彼女たちの横をふたたび通りすぎて、広場から門の外へ出ていこうとして、英語で呼び止められた。集合写真の撮影を頼まれたのだった。少佐は断る理由がなかったので引き受けた。それに若い女と触れ合うのもたまにはよろしい。中年の男の中には、しきりに若い女と接触したがるのがいるが、少佐はあれはいかがなものかと思うのだ。若い女性というものは、自分がもう若くない場合には折々の目の保養にするべきであって、それ以上の関係を取り結ぼうとするのは浅ましい。ひとは誰しも、自分に似合いのものを選ばなければならない……しかし、若い女性自体は悪くない、決して!
 少佐は群れのリーダーらしい赤い縮れ毛の、そばかすだらけの女子学生にカメラを返し、若々しい集団と別れた。すさまじいアメリカ英語であれこれ云いあっていた女子学生たちの会話を背中で聞きかじったところによると、少佐は「ちょっと近寄りがたいがハンサム」であるとの由。そーかね、と少佐は思った。悪い気はしなかった。
 ベルリンの街をあてもなくぶらつきながら、少佐は自身も休暇に来たかのように感じはじめていた。先日まで、彼はある任務に追いまくられていた。ボンを離れてあちこちを飛び回り、部下を怒鳴りつけ、走り回った。疲れきって帰還する少佐を、ボンの街はいつも静かに、やさしく迎え入れるのだった。その静けさとどこか沈んだような一抹のわびしさは、少佐を安らかな気持ちにした。ところがここは、大都市ベルリンの中心地だった。騒々しく、やや均衡を欠いた、なにか予測不能のもの。その中心地にいることの中には、倦怠と、それから興奮を呼び覚ますものも、確かにまぎれていないだろうか? 少佐は昨夜抱いた感想との差に驚いていた。昼と夜では、こんなにも人間の感情は違ってくるものなのか? 少佐は知らず微笑していた。こんなふうに陽気な気持ちになったのは、久々のことであるような気がした。
 少佐はぶらぶらと散歩を楽しんだ。そろそろ帰路につこうかと考えていたところで、雨が降ってきた。少佐はあわてて近くの店の軒下に逃げこんだ。
 そこは骨董品を扱う店であるらしかった。きれいに磨かれた飾り窓に自然目が止まった。ビロードの布の上に、ダイヤモンドのティアラが飾られていた。中央に大きな花びらがあり、それを取り囲むように、月桂樹の葉のモチーフが並んでいる。繊細な銀細工のふちどりの上に、これでもかとばかりにダイヤモンドがちりばめられていた。十八世紀の作、参考商品、売り物ではない。
 ……少佐は無意識に、この世にも豪勢なティアラをいただいた伯爵の姿を思い描こうとしていた。まばゆく輝き、全身から光を放っているかのような生き生きとした伯爵の姿を。しかし、浮かんでくる姿は昨夜の漆黒に包まれた伯爵、豪奢だが、秘密と重たさと憂いを秘めた、ベールで美しい顔を覆った伯爵だった。

 

 午後遅く、ホテルへ戻った。ちょっと一杯ひっかける気になって、少佐はバーへ入っていった。カウンターに陣取ると、落ちついた革張りの椅子が、少佐を受け止めた。コニャックを小さなグラスに一杯。少佐は煙草を取り出して火をつけた。
 カウンターの中では、年輩のバーテンダーが熱心にグラスを磨いていた。まだ客はあまり多くなく、彼はそれほど忙しくなさそうだった。彼の慣れた手つきは、どこか執事のヒンケルを思い起こさせた。手慣れた仕事は、ひとつの明るい芸となって、素朴に純粋にひとを楽しませる。執事の銀器を磨く手つきも実に年季が入っていて、見事だった。彼はたぶん、主人が何日家を空けていても、決してだらけることなく仕事をするだろう。
 少佐は目を細め、ぼんやりした。伯爵の昨夜の姿がちらついて離れなかった。彼はなぜ、なにも云わなかったのか? 怒った様子もなく、失望したような様子もなく、喜ぶようなそぶりもなく。少佐はなにか、伯爵からの合図がほしかった。あんな別れ方をしたが、自分がおしまいにする気はこれっぽっちもないことに、少佐は気がついていた。少佐は前へ進みたかった。なにかこの硬直した状態を立て直し、ふたたび出直すきっかけがほしかった。
 ふいに少佐の横に、すっと誰かがすべりこんできた。少佐はやや驚いて、あわててぼんやりを追い払った。猫のように音もなく気配もなくやってきて、伯爵はそこに座っていた。彼は金糸で刺繍が施された、袖なしの黒いチャイナドレスのような服を着て、毛皮のショールを羽織っていた。首からは真珠の長いネックレスがぶら下がり、髪の毛は、頭のやや右下でゆったりと大きなシニョンにまとめてあった。そして黒い花と羽飾りがついたノーズベールを頭からかぶっていた。
 伯爵はシャンパンを頼んだきり、しばらく口を利かなかった。少佐もまた黙りこくっていた。やがて、伯爵はゆっくりと首をひねって、黒いベールごしに少佐を見つめてきた。青い冴え冴えとした目は意志の強さを感じさせたが、まばたきのたびに、まつ毛がどこか不安げに揺れた。
 少佐は立ち上がり、伯爵の背中に手を添えて促した。伯爵はゆっくりと席を立って、ショールの具合を少し直し、彼に従った。
 ふたりはバーの隅のテーブルへ移った。壁に沿ってしつらえられたソファに、彼らは並んで座った。伯爵はシャンパンをひと口飲んだ。少佐は彼をじっと見つめていた。
「きみに会えてうれしいよ」
 伯爵はしばらくたってから、静かに首を少しだけ少佐のほうへ向けて、けれども目は伏せたまま、云った。少佐はうなずいた。
「エステンさんとの話し合いは、うまくいきそう?」
 少佐は微笑し、「何日かかければな」と云った。
「でもそいつは、おまえに関係のないことだ」
 少佐は静かに云った。
「そうだね」
 伯爵はそっとうなずいた。
「おれとエステンとの取引だ」
 少佐は云った。
「おまえは気にしないでよろしい」
 伯爵はかすかに微笑んだ。そうして立ち上がった。少佐も立ち上がり、バーを出て、エレベーター前まで彼を見送った。徐々に下ってくるエレベーターを待ちながら、少佐は横に立つ伯爵の香水の香りを、彼の身体を、それが確かにそこにあることを、感じていた。ものぐるおしい感情が、少佐を取り巻いていた。伯爵の顔半分にかぶせられた黒いベールは、なまめかしいけれども沈鬱な、胸をかきむしるような感じを与えていた。少佐はそれを剥ぎとってしまいたかった。ベールを剥ぎとり、思いきり口づけたいような気がした。少し首を伸ばせば、そのうなじに口づけることもできた。腰に手を回して引き寄せることもできた。が、できなかった。彼のまばたきを見つめ、息づかいを感じることが、少佐に許されたことのすべてだった。
 エレベーターが降りてきて、扉が開いた。伯爵は扉に手をかけ、中へ身体をすべりこませ、ゆっくりと振り返った。
「怒ってないか」
 少佐は訊ねた。伯爵は首を振った。
「あきれてもいないかね」
 伯爵は首を振った。
「……わかった。少し時間をくれ」
 伯爵はかすかにだが、うれしそうに微笑んだ。その微笑をなめるように、静かにドアが閉まった。

 

 部屋へ戻ると、客室係が清掃をしていた。荷物はどこかへ運ばれたのか、部屋の中は空になっていた。
「こいつはどういうことだね?」
 少佐は困惑し、怒りを覚えて客室係に詰め寄った。
「はい、あの、お部屋を移すようにとの指示がありましたので……。わたくしは指示を受けただけなんで、わけを聞かれても困ります。わたくしはなにも知りません……お部屋の代金はもういただいてるそうです……」
 客室係は目を白黒させて、しどろもどろに応じた。少佐はあっけにとられて、ベッドに座りこんでしまった。
「お部屋は十階の、角部屋でございます。今朝空きましたんで。最上階のひとつ下ではございますが、眺めは最高でございますし、お部屋もたいそう立派でございますよ……ここに比べたら、そりゃもう、格段に」
 客室係はなにか営業的なことのひとつも云わなければならないと思ったのか、そのようにぺらぺらとまくしたてた。少佐はまだあっけにとられていて、なにか考えるということができなかった。が、ふいに思いついて、客室係に訊ねた。
「その部屋のひとつ上に陣取っとるのは、もしかして、グローリアさんとやらじゃないか?」
 客室係は目をぱちくりさせた。
「あのかたとお知り合いなんですか? あのたいそう不思議なかたと? あのかたは、ホテルじゅうの話題をさらってますよ! どんなひとなのかってよく質問を受けるんですが、それが誰にもわからないんでしてねえ。エステンさまとは親しいお知り合いらしいんですが、エステンさまもなにも教えてくださいませんからね……まさかご本人には訊けないですし」
 少佐は答えなかった。少しして、彼が急に笑いだしたので、客室係は驚いて飛び上がった。なにか不気味なものを見るような目で少佐を見ていた客室係に、少佐はチップをはずんでやった。客室係は、当然のことだが、とたんに顔をほころばせて、「ありがとうございます、お客さま」と最大の敬意を見せて云った。

 

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