交錯

 

「ねえお願いだよジェイムズ君。どうしても必要な資金なんだ。それが用意できないとどうにもならないんだよ。一生のお願い。一生に一度のお願いだよ、ほんとだったら……」
 少佐が煙草の箱を手に部屋に戻ってきたとき、伯爵さまはいささか情けない声で電話をしている最中だった。
「わかってるよ、わたしの浪費癖はわたしだってよくわかっているけど、だってしょうがないじゃないか。それ以外の方法を知らないんだから。お金がどうやって手元に入ってくるのかなんて知らないし、流通通貨の単位だってよくわかってないのに。ソヴリン金貨っていまもある? ないの? あんなにいろんな作品に出てくるのに? 政府はなにをしてるんだろう! これじゃあ若者にとって文学が身近なものにならないのも無理ないね。もっともわたしもお金の細かい描写が出てきたらとばして読んでしまうけど。君はそういうところにしか興味ないんだからな! わかった、わかったよ、でもどうしても必要なんだ。ねえ、お願いだよ……ありがとう! きっと君なら許してくれると思ってた。ここにいないから抱きしめてあげられないけど、かわりにキスしてあげるからね……」
 少佐は伯爵が座っているソファの向かいに腰を下ろし、煙草の真新しい箱を開け、中から一本取り出して、口にくわえた。伯爵は電話口に向かって盛大な音を立ててキスしていたが、すぐにそれを放り投げて、万歳をした。
「鬼のジェイムズ君が陥落したよ! これでようやく仕事にかかれる。リーメンシュナイダーがわたしのコレクションに加わる日も近いんだ。どうしよう! そわそわしてしまうよ」
 リーメンシュナイダーは知っているし伯爵がそれをねらっていることも知っているが、宗教的ないっさいのものに興味がない少佐としては、マリアだのイエスだの使徒だのといった彫刻作品は、単なる装飾か置物以上に価値のあるものではなかった。少佐にはそれよりも、そわそわしてしまうと云いながらほんとうに尻のあたりをもぞもぞやっている伯爵さまや、彼の着ているシルクのブッファンスリーブのお召しものなんかのほうがよほど興味をひかれるが、それは云ってはいけないことだった。少なくとも、いま云うべきことではなかった。
「よかったな」
 少佐は投げやりに云った。伯爵は目を細め、首をすくめて、ちょっとはにかんだように微笑した。それはすぐに消えたが、少佐の心臓を貫いた。伯爵の顔に初々しさと恥じらいのこもった、清らかな、そして控えめな微笑をみとめることはまれだった。あの、真に愛するもののための微笑を。少佐は自分の気のない返答を後悔しはじめていた。
「あのドケチでも出資を認めることがあるとは驚きだ。というか、ドケチが仕事の資金管理までしているほうが驚きだ、というか。おれならあんなやつに頭下げるくらいならクビにしちまうだろうな。だいたい……」
 少佐は自分のひそかな動揺のために饒舌になっていた。ドケチ虫はそのための手頃な犠牲者ではあったが、伯爵は皆まで云わせず、たしなめるように微笑した。
「あのねえ、云っとくけど、ジェイムズ君のこと悪く云ったら君だって許さないよ」
 少佐は意外なことばに目をしばたいた。少佐の考え……というより、少佐と少佐の部下全員の共通認識では、あの守銭奴はどんなエージェントが束になってもかなわないほど、金という目的のために鍛えぬかれた機械であり、人間ではなかった。見上げた根性ではあるが、どちらかというと気持ち悪いしろもので、できれば深く関わりたくない人間の典型だった。
 伯爵は少佐の頭の中を見抜いたようにいたずらっぽく微笑した。
「ジェイムズ君はわたしの守護天使なんだ。信じられないだろうけどね。別に信じてもらわなくてもいいけど」
 少佐はほー、と云うのがやっとだった。こちらがよほど微妙な顔をしていたのか、伯爵はくすくす笑いだした。
「意味がわからないって思っただろう? でも、ひとがどう思おうと、わたしはジェイムズ君のこと大好きなんだ。どんなものとひきかえにだって手放すつもりなんかない。彼がいないと生きていけないからね」
「大本命じゃねえか」
 少佐はあきれたようにつぶやいた。伯爵は声を上げて笑いだした。
「君に云われて気がついたよ! そうなのかも。わたしの本命はジェイムズ君だったんだ! 近すぎて気がつかなかったよ! 灯台もと暗しってこのことだね……まあそれは冗談だけど。でも、彼がいないと生きてけないのはほんとなんだ。あの子がいなかったら、とっくの昔に破産して路頭に迷ってたよ」
 少佐はソファにゆったり座りなおし、煙草の煙をくゆらせた。話をうながすためだった。伯爵はちょっと唇を持ち上げ、同じようにソファに座りなおした。
「ジェイムズ君のこと知りたい?」
 伯爵はからかうように云った。少佐は肩をすくめた。
「わかった、わかったよ、意地悪な質問でした。君が知りたいことは決まってる。どこから話そう? 意外と壮大な話なんだよ。広げようと思えば十六世紀まで広げられるはずだけど、そのへんは省略しよう。早い話がね、うちの一族は代々とてつもない趣味狂いで浪費家ぞろいなんだ。うちのお歴々を並べていくと、それだけでろくでなしの項目を網羅した本が作れる。お金について、無作為に使う以外のことを知らないんだ。いつもあるもんだと思ってるし、ほっとけばそのへんから生えてくると思ってる。みんなそんなのばっかりだから、君も知ってのとおり、うちは貧乏だ。一族総出で財産を食いつぶしてきたのに加えて、終戦後の平等政策のおかげで、貴族さまも重税の義務を負った。さて、このたびグローリア伯爵家の当主の地位にあずかりましたわたくしドリアンも、例によって趣味人間で贅沢屋の浪費家で、かつお金のことはぜんぜん知らない。なにでできてるのかも、どうやってできるのかも、いつどうやって出入りしてるのかもさっぱりわからない。だから、誰かわかってる人間が必要なんだ」
「おまえの愛するジェイムズ君」
「そのとおり。ジェイムズ君の仕事を知ったら発狂するってボーナム君が云ってた。お金に関係する法律や手続きって、すごく複雑なんだって。父も云ってたよ、あの子だけは手放しちゃいけないよ、坊や、って。わたしのために、それこそ命がけでお金をひねくり出して、国民の義務を果たし、われらが日ごとの糧を今日与え給うてくださる」
「……まあ確かに、額に“伯爵命”と書いてあるのはわかる」
 伯爵は笑った。
「そうなんだ。彼、とってもわたしを愛してくれる。わたしのためなら身売りだってしかねない。したことあるしね。戻ってきたけど」
 伯爵はソファにごろりと転がり、腕を天に向かって突き上げ、しげしげと眺めた。
「ああ、罪深き我が身よ! 我が身のために、いくつの魂が地獄に堕ちるや? それは昔から感じてた。わたしはちょっと、特別なんだなって。はじめてヴェニスに死すを読んだとき……読んだ? 読んだよね。そんな顔しなくていいよ、君の感想を聞こうなんて思っていないから……わたしはちょうど、あのタージオ少年と似たり寄ったりな歳だった。わたしには、彼の扱われ方が手に取るようにわかったよ。わがことのように思った。姉たちを差し置いて彼だけがいい服を着ることを許されているのも、彼だけが朝寝坊を許されていることも……うちの場合は父の権限によってそれがなされていて、タージオ少年の場合は母の権限によってそうなっている、という違いはあったけど。とにかく、わたしも彼に負けず劣らず特別扱いされていた。わたしは家では一度だって、自分の要求が却下されたことはなかった。母はガミガミ云ったけど、父がなんとかしてくれた。両親が離婚したあとは、もっとやりたい放題だった。わたしはあらゆるものを買ってもらえたし、どこへでもつれていってもらえた。どんな経験もさせてもらえた。お金がないなんてことは、誰もひとことも云わなかった。実際わたしは父が死ぬ直前までうちが貧乏だなんて知らなかったし、いまだって知らないのとおんなじだ。だって、お金がないって理由でなにかを断念したこと、結局一度もないんだもの。ジェイムズ君はいつもなんとかしてくれるんだ。彼が裏でどんなことしてるのか、わたしは知らないし、たぶん、知りたくないと思ってると思う。知るのが怖いから。そしてわたしはいつもいいご身分。醜い? そうだよね。わたしもそう思う。つくづく思うよ、美しさは、あらゆる罪の中でもより抜きのものだ。本人にもたらすものも、他者に放たれるものも」
 伯爵の顔は鋭く、そして暗い光を帯びていた。彼の青い瞳、繊細な形をした鼻、理知的で情熱的な唇、美しい眉の上を、その暗い光が、あるいは影が、造形をなぞり刻みこむように覆っていた。それは先ほどの伯爵の微笑とはまるで違った形で、ふたたび少佐の心臓を貫いた。
 伯爵がふいに首を動かし、少佐を真正面から見据えた。その目の暗がりに少佐は瞬時、おののきに近いものを感じた。銃を構えた相手と対峙したときのように、刃物をつきつけられたときのように、死の恐怖を感じたときのように、なにか暗く深いものに一瞬のうちにとらわれ、そちら側へ引きずりこまれそうになる、あの引力を少佐は感じた。でもそれから逃げるわけにはいかなかった。少佐はいつもそうするように、むしろそれを自分のうちへ招き入れようと試みた。この場合には、ことさらそうしなければならないという気がした。来るなら来い、というあのすべてを引き受け、鼓舞することばによって、少佐はどんなときにも、あらゆるものを征することができるような気持ちになるのだった。自分がひどく単純なつくりをしていることは知っていたが、そのことを恥じてはいなかった。
 攻防、というほどのことはなかった。少佐が受け入れようとこころみたそれもまた、少佐の内側へ、入りこみたい願望を持っていたからである。それは侵入し、ゆっくりと舐めるように這い進み、そして少佐とひとつになった。少佐は微笑した。勝利というより、受け止めることの喜びだった。それをとっくりと味わってから、少佐は伯爵を見た……伯爵は小さく、なんとも云えない微笑を浮かべた。
「でも、わかってよね、わたしはそれがいやなわけでも、後悔してるわけでもない。わたしの容姿も、わたしのやりかたも、わたしがわたしであること全部、それゆえに経験することのすべて、わたしの魂の全部を、わたしは受け入れる……わたしにはそれだけが求められている、ってわかるから。わたし、たぶん、君の魂も地獄に落としてしまったと思うけど、でも変な話、後悔してないんだ。君に深入りしなきゃよかったなんて、一度も思ったことない。君に悪かったと思ったこともない。おんなじようにね、ジェイムズ君に、あんなに苦労かけて悪いと思ったこともないんだ。わたしの勝手やわがままや、数知れない悪癖や悪行のために、彼の両手は血にまみれて、魂の底の底まで悪魔に売り飛ばしてるのに……それでもわたしはそう思うことが、許されていないって感じがする。わかるかな? 同情することとか、それで自分を責めることは簡単なんだけど、そしてそれで責任とった気持ちになることも簡単なんだけど、そういうやりかたは、わたしには許されていない。わたしに許されてるのは、受け入れて、愛することだけだ……わかる? わかって」
 伯爵は怖いほど真剣な顔で少佐を見つめた。そうして少佐に向かって両腕を伸ばしてきた。少佐は立ち上がり、歩いていって、彼に向かって身体をかがめた。首の後ろに腕が回され、引き寄せられる。
「愛してるよ」
 少佐は伯爵の顔の横に顔を埋め、目を閉じ、うなずいた。
「……おまえのおれに対する愛と、ドケチに対する愛は同じだって気がしてきた」
 しばらくして、少佐はぼやいた。伯爵が笑った。
「どんな愛も同じ、という見方もできるね。そこで起こっていることもね。でも君は特別だ。わたしの人生にとって、そしてなにより、魂にとって。これは、すごく大事なことなんだ。わたしにはほかのなによりも大事だ。君にもそうであってほしいとは思わないけど。人生の目的はひとによって違うから」
 少佐はなにも云わなかった。確かに自分の人生が、伯爵と同じ目的で進行しているとは思えなかった。ふたりはまったく別の次元で、別のものを目的として動いていた。でも、その中で、逆らいがたくなにかがまじわっていた。
「ジェイムズ君のこと話すつもりだったんだけどな」
 伯爵はからかうように云った。
「結局、君の望み通りにしてしまった。君が興味あるのはわたしのことなんだ。わたしの容姿、わたしの服、わたしのおつむ。副次的な意味において、わたしに関係あるひとにも興味がわく……こともある。彼のことについては、また今度詳しくね。うんざりするほど詳しく、こと細かに話してあげるからね」
 少佐は泣けるほどありがたいと云った。伯爵さまは笑った。さわやかに、やさしい声音で、笑った。

 

あとがき

 

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