あてなしの旅
マイヤー夫妻
午後の広場はうだるように暑くてだるかった。おそらく昼寝どきなためとこの暑さのせいで、広場の人気はまばらだった。歳取った男のふたりづれが、地元の訛りをまるだしにして、今日はやけに暑いじゃねえか、夏はもう終わったんじゃあなかったのかよ、まったくテレビで異常気象がどうたらいうあれってなあ、ほんとだね、とぶつぶつ云いながら広場を横切っていった。彼らは杖をついてゆっくり歩いていた。その陰が、物憂くふたりのうしろに伸びて揺れていた。
広場の片隅に二匹の猫がいて、じゃれあったり追っかけっこをしたりして仲良く遊んでいたが、そのうちに喧嘩になった。茶色いぶちの猫が、なにかの拍子に機嫌を損ねたのか、白と黒のぶちの猫に牙を剥き、爪を出して追い払うような仕草を見せた。白と黒のぶち猫は、びっくりして後ろへ飛びのいた。茶色の猫は追っかけてきた。白黒猫は逃げまわった。しかし、しまいにはまたじゃれあいに戻った。
伯爵は微笑して猫から目をそらし、髪をかきあげた。巻き毛の中に熱がこもっていた。彼はそれを追い出すように少し髪を揺すった。広場の噴水のそばにはほかに誰もいなかった。彼は噴水のふちに腰を下ろして、あたりを眺めていた。人気に恵まれない広場は広くてわびしかった。待ちびと来ず、と彼は口ずさんだ。それから微笑した。そして、おろしたての自分の暗紫色のブラウスを眺めた。限りなく黒に近いので、光を通さないとほとんど真っ黒に見えた。袖の生地がシースルーでよかった。でなかったら、おそろしく暑かっただろう。それに、絶えず背中から流れてくる噴水の音は、いくらか涼を引き出してくれていた。
彼はそれから、子どもじみた仕草で退屈そうに脚をぶらぶらさせた。でも実際退屈しているかどうかはわからなかった。彼は気分がよかった。この少し前に、ひとくさり口論をやったにも関わらず。……帽子をかぶってくるのだった、と彼は思った。こんな夏がぶりかえしたみたいな日に、あのつばの広いガルボハットをかぶっていたら、もっとミステリアスに見えたかもしれない。忘れてきちゃうなんてばかだったなあ、と彼は考えた。ミステリアスに見えるということは、十分魅力のひとつであり得る。
待ちびとはまだ来なかった。彼は立ち上がって、噴水から離れ、ひまそうに広場の隅に陣取っていたアイスクリーム屋で、格別こってりしたやつをひとつ手に入れた。そいつを舐め舐め噴水へ戻り、また腰を下ろして、まとまりのない考えごとを再開した。……彼がどんな宿を選ぶかで。伯爵さまは考えた。ずいぶんと対応に違いがでてくるはずなんだ。
彼らは目的のない、命名「ぶらつき旅行」というやつをやっている最中だった。ふたりにとって、まともな旅行をするのはこれがはじめてだった。ただし、これをまともと称することができるかどうかは、ひとによりそうだった。まず、彼らには目的地がなかった。出発地点からして、そもそも違っていた。片方はロンドンからはじめて、片方はボンからはじめた。ふたりは地図上でだいたい真ん中にあたりそうな場所を決めて、そこへ集まることにした。日時だけを決めて、なにで来るかは各人の自由に任せる。目測によると、ベルギーのゲントあたりがだいたいのところらしかった。エーベルバッハ少佐は空路ならびに鉄道というきわめてまっとうな方法でゲントへ到着した。グローリア伯爵はもっとふるっていた。彼はユーロスターでのんびりブリュッセルへやってきて、荷物を下ろしやれやれと背伸びをしているあいだに、もう男をひとりつかまえていた。地元でホテルを経営している男だった。伯爵は彼にこれからなされる予定の奇妙な旅について説明した。幸いなことに、この男はユーモアを解する人間だった。そして、さしあたっていますぐにこなさなければならない仕事はなにもないので、よければ自家用車でゲントまでお送りしたい、と申し出てきた。それで伯爵は駐車場に停めてあった男の車まで同行し、ゲントへ向けて出発した。
伯爵が少佐の目の前で車から降り、運転席の男に親しみのこもった挨拶をし、男が彼の美しい手に口づけるのを見ても、少佐はなにも云わなかった。伯爵はその日、ガルボハットをかぶって白いブラウスを着ていた。波打つ帽子のつばの奥から秋波をひとつ送ると、少佐はあきれたような顔をした。そしてやはりなにも云わなかった。それで伯爵は、少佐を抱きしめ、両頬にキスした。伯爵は少佐の灰色がかった緑の目が、きわめてかすかではあるが、やはり不満を訴えているのを見た。伯爵は微笑した。それから彼らは、ゲントにおける宿探しにかかったのだ。幸いバカンスシーズンは終わっていた。宿では幾分ひまと部屋を持て余していた。出だしから野宿という法はないから、ふたりはすぐに気持ちのいいホテルを探すべく奮闘した。
「こんな計画性のない旅行ははじめてだ」
荷物を運びながら少佐はそれだけ云った。彼はごちゃごちゃ云わないが、たったのひとことで、千言ぶんくらいの効き目がある。伯爵は微笑した。彼はべらべらしゃべるが、それをやめてただ微笑するときには、万のことばを束ねたより威力がある。彼らはこうして、戦争ともたわむれともつかない気分のうちに、行き当たりばったりの毎日をはじめた。そして彼らはいまや、ベルギーを抜けてパリへ進軍していた。
ようやく伯爵さまの待ちびとが、規則正しい早足で帰ってきた。彼の歩き方ってすてき、と伯爵さまはそれを見ながら考えた。背筋から脚からぴんと張っていて、隙がなくて、いかにも軍人らしく見える。こんな男ははじめてだった。少なくとも、伯爵の親しい範囲にこんな男が出現したことはかつてなかった。それにあの無表情の顔。彼は禁欲的で、近寄りがたいというふうにもとれた。少佐は目つきが鋭かったし、鼻梁も鋭かったし、顔の造形全体が鋭利だった。口元はたいがい強めに結ばれてあった。彼には極限まで削ぎ落として切りつめたような気配が感じられた。弛緩していない。空想的でない。それは隙だらけで夢想家のグローリア伯爵あたりとは百八十度違っていた。
「中庭は好きか?」
少佐はやってきて、こってりしたアイスクリームに目を留め、ちょっと眉をしかめてから訊ねた。
「中庭? 好きだよ。小さい池がある?」
「ある。噴水つきだ」
少佐は云った。
「すてきだ」
伯爵はアイスクリームを舐めたが、もうその味に飽きていることに気づいた。
「ほかには? 中庭と、それから?」
伯爵は立ち上がった。少佐は首をちょっと傾け、顎に手を当てて探るような目つきを向けてきた。そうすると彼はとてもセクシーに見える。
「その中庭に面したバルコニー」
「ほかには?」
「簡易キッチンつき」
「それから?」
少佐は眉をつり上げた。
「でかいベッドがある」
伯爵はブラボー、と云い、アイスクリームを度外視して手を叩いた。おかげで、白いクリームが揺さぶられてぽたぽた地面に垂れ落ちた。
「つまり君は、存分に暴れることのできる宿を見つけたわけだね?」
少佐は眉をつり上げたまま、目をぐるぐる動かした。彼なりのおどけ方だった。伯爵は彼の腕をとり、歩きだした。伯爵は少佐が宿探しに赴く前、ひとくさりの口論の末、はっきりこう云ったのだ。……まあいいさ、じゃあごたごたした話は抜きにして、君が好きなだけ暴れてもいいベッドがあればそれでよしとしようよ。少佐はそのひとことで、いっぺんに口論から現実の世界へ立ち返ってしまった。彼は真剣な顔でおし黙った。それからくるりと向きを変えて、足早に行ってしまったのだった。
「ただしおまえ、衣装替えの必要があるぞ」
少佐は伯爵をちらりと見て云った。
「念のため云っとくが。それしか口実を思いつけんかったんだ。目下われわれはその宿へ泊まるべく、しかるべきひと組の男女にならにゃいかん」
伯爵は少佐をちらりと見返した。このきまじめな顔をくっつけた頭の中で、いったいどんな好色な妄想が繰り広げられたことか?
「そんならいいわ、しようがないわ」
伯爵は女声で云った。そうして目に留まったゴミ箱にアイスクリームを捨てた。
カーキ色のワンピースドレスは秋めいて見えた。アシンメトリーなカラーがついていて、ややかっきりしたシルエットのそれはどことなく禁欲的に見えた。膝丈の裾から先の脚は、肌色のストッキングに覆われている。そのため肌は光沢をまとって、美しく輝いていた。そしてその脚の先には、茶色のパンプス。伯爵は金の巻き毛を頭のてっぺんでまとめて、トルコ帽ふうの帽子の中へ押しこんだ。
伯爵はトイレから出て、パウダールームへ移った。彼の手つきは慣れていた。下地を塗って、粉をはたき、アイメイクをして眉を引く。アイシャドウは自然に見えるシアーカラーを。軽くアイラインを引いて、マスカラを塗る。リップ下地を塗って、目立たない桜色の口紅を塗りこむ。……清楚な感じのする女だ。どことなく潔癖で、恋人あるいは夫の隣に目立たないように控えている。男にはあまり慣れていない……伯爵は微笑した。さて、少佐どの好みの昼顔ができた。なんとはなしにはにかんでいて、ちょっと内気そうな。
パンプスをかつかつ云わせて、彼は少佐どののところへ戻った。少佐どのは階段脇にしつけられたベンチに腰を下ろして、伯爵のテディベアを抱えて待っていた。デパートの婦人服売場に少佐どの! なんという組み合わせだ。
「お待たせしたかしら?」
伯爵が微笑むと、少佐は上から下まで彼を眺め、満足そうに少し唇の端を持ち上げた。ご婦人は少佐の手からテディベアを取り上げて、しっかり抱いた。少佐は立ち上がって、この婦人にうやうやしく肘を差し出した。ご婦人は肘をとって、歩きだした。婦人服売場だというのに、ご婦人はなにひとつ買わずに通り過ぎた。彼女はぶら下がり服を着るようなご婦人ではなかったからである。
伯爵はパリなら左岸が好きだ。何ヶ月だっていたいくらいだ。それで、彼は左岸にアパルトマンをいくつか持っている。居心地のいい小ぢんまりした部屋を。正確には、彼はそれを買ってもらったり、譲ってもらったりしたのだ。彼には、首をちょっと傾けるだけでなんでもしてくれるお友だちがたくさんいる。パリだけでなく、あちこちにいる。だから、彼はヨーロッパにいる限り、別に苦労して宿を探し求める必要はないのだ。でも、彼は今回は自分のそういう人脈を利用したくなかった。彼は少佐とふたりきりでことを進めたかった。そうしてこの男のことを知りたかった。
モンパルナスにあるアパルトマンふうの小規模なホテルはとても気に入った。十九世紀にできた建物には広い中庭があって、マルメロの木が気持ちのいい音を立てて葉を揺らしている。人工の池が真ん中にしつらえてあり、絶えず愛らしい水音をたてている。部屋は五階。最上階だ。キングサイズのベッドをしつらえた立派な寝室と居間、簡易式のキッチンと小さな食堂、バスルームからなっている。
エーベルバッハ少佐は、公式に通用する変名と身分をいくつか持っている。彼はホテルの宿泊名簿にそのうちのひとつ、マイヤー氏の名前を使用した。そしてその人物は公的な記録では五年前に結婚していた。よって同伴の女性は、彼の奥方で間違いないはずだった。マイヤー夫妻。ヘア・マイヤーとフラウ・マイヤー。伯爵は部屋のソファに落ち着くと、頭の中でこの事実をとっくりと検討してみた。そして笑ってしまった。マイヤー氏がやってきて、なにがおかしいのか訊ねた。彼はソファの背もたれ越しに、夫人の首にキスした。
「わたしたち、結婚五年目らしく振る舞う必要があると思わない?」
マイヤー夫人はおもしろそうに云った。マイヤー氏は考えこんだ。
「結婚から五年たつと、夫婦はどうなると思う?」
マイヤー夫人は訊ねた。
「昨今の情勢からすると、離婚しとるかもしれん」
マイヤー氏はまじめな顔で答えた。夫人はまた笑ってしまった。
夫妻は午後をゆっくり部屋で過ごした。窓を開けていると、中庭から流れてくる風がとても心地よかった。ホテルは大通りから少し入ったところにあって、パリの喧噪が嘘のように静かだった。ときどき鳥が鳴いた。マイヤー夫人はちょっと昼寝をした。彼女がワンピースドレスを脱いでスリップ姿になったところを目撃したマイヤー氏は、にやついて、それからいつもの鉄仮面に戻った。寝室には気持ちのいい背の低い小さなテーブルセットがおいてあったが、その椅子の背もたれに、例のカーキ色のドレスと、ストッキングが二足ひっかけてあった。
マイヤー夫妻はマイヤー夫妻のまま夜の食事へ出かけた。ふたりはぜんぜん知らないレストランへ飛びこんでいって、たっぷりと時間をかけて食事した。それから夜の街をぶらついた。パリにはなんて多くの明かりがともされていることだろう。そしてなんと多くのひとが、あちこちの店で食事し、本や雑誌や新聞を読み、語りあい、ぶらつき、一日の終わりを楽しんでいることだろう。ある通りで、夫妻は手回しオルガンをぐるぐる回しながら歌っている男を見た。彼は陽気な、しかしどこかもの悲しいシャンソンをよく通るテノールで歌っていた。オルガンの脇にはかごが置いてあって、硬貨が入っていた。マイヤー氏は先例に倣って、硬貨をかごへ入れた。夫人は少しのあいだオルガンの前で立ち止まっていた。オルガン回しの男は夫人へぱちっとひとつ目まぜをした。マイヤー氏がほどなく、夫人を促して歩きだした。
夜になると、気温は一転して少し肌寒いくらいになった。マイヤー夫人は薄手のコートを着ていた。マイヤー氏はそのコートの上から、夫人の腰に手を回していた。ふたりは黙って歩いた。オルガン回しの声はかなり遠くへ行くまで聞こえ続けていた。離れれば離れるほど、それはうすら悲しくなってゆくようだった。
「気が滅入る」
とマイヤー氏はようやく歌が聞こえなくなってから云った。
「ああやって生計を立てているひとたちのことを考えたことがある?」
マイヤー夫人は夫に訊ねた。彼女は夫の肩に頭を乗っけた。
「だから気が滅入るんだ」
夫は云った。
「人間は、みんな生まれたときには王様と同じ」
マイヤー夫人は歌うように云った。
「でもそのあとの汚れ方で変わってしまう……なにで読んだんだったかな? それとも芝居のせりふだったっけ?」
夫妻はしばらく黙って歩いた。
「……みんな、わたしはその汚れ方が限りなく少ないほうだと云うけど」
夫人は夫の肩に頬をすり寄せた。
「そんなことがあると思う? たとえほんのちょっとだって、なにかで汚されてしまったらそれはもう全部汚れたのと同じことじゃなくて?」
「…………まあそうかもわからん」
マイヤー氏はしばらくたってから云った。
「だから、大事なのは掃除なんだ。ちょっとしたシミでも汚れでも、ほっとくと頑固になってなかなか取れんもんだ。おれなんざ全身ほこりまみれで、何年も掃除をさぼったかどによりたぶんもう取れんが……」
夫人が夫の腕を強く引いたので夫は夫人を見た。夫人の目は「もう黙って」と云っていた。それで夫は黙った。
通りがかりの広場の前で、年とった男が気だるそうにボンボンを売っていた。夫はひとつ夫人に買い与えた。それで、夫人は物憂そうな顔をとっぱらって笑顔を見せた。年とった男はにやにやしながらこれを見ていた。ことに夫人を長いこと見ていた。
鏡に映った自分の顔を、伯爵は飽きずに眺めていた。顔だけ切り取ってみたら、男だか女だかわからないようなのは結構いる、と伯爵は思っている。でも、いろんなほかの材料がそれを補っている。だから、それは極めて移ろいやすくあやうい側面を持ってもいる。
男でいるときに優しくしてくれる男と、女でいるときに優しくしてくれる男と。しかし根っこは同じだ。少佐どのに限って云えば、彼は女でいると気が大きくなる。彼の遺伝子には、先祖代々伝わってきた古きよき騎士道精神が染みついている。彼は女と見るや、たとえその中身が男であると頭でわかっていても、反射的にこの精神を発揮してしまう。そしてたぶん、彼はそのことを楽しんでいるのだ。男であることを感じることを。性意識は、少なからずこうした絶え間ない確認から成り立っている。
伯爵は爪を磨きはじめた。自分で見ても美しい手だ。そして形のいい爪だ。造形に関し、伯爵は実に恵まれていると感じる。高い審美眼を持ちながら、自分自身が醜いというのはひとつの不幸である。
ときどき、バスルームからシャワーの音がする。少佐どのの胸はたぶん、我知らずいろんな期待でぱんぱんになっている。伯爵にはそれがわかる。伯爵も我知らずある種の予感に疼いている。
彼は立ち上がり、バスローブを脱ぎ捨て裸になって、クローゼットのドアを開けた。ドアの背面は鏡張りになっていた。伯爵は下着のつまった箱を取り出し、あれこれ自分にあてがってみた。しばらく前、伯爵がなじみの下着デザイナーに女ものの下着をあれこれ注文すると、彼は……彼もパリ左岸に住んでいるのだったが……眉をつり上げてこう云った。
「あなたはまたずいぶん一度に欲しくなったものですね?」
彼はゲイだった。そうして彼自身もそうだったので、倒錯に理解があった。彼の作る下着はすばらしかった。美しいレース、絶妙な形、一度つけたら、もうほかには戻れない魔力があった。彼の顧客には、著名人や金持ちが大勢いた。そして伯爵は、並居る金払いのよい顧客たちを押しのけて、最優先で下着を提供してもらえるのだった。伯爵に下着を贈ることを、このデザイナーは一種の快楽に感じているのだ。
伯爵は注意深く、暗紫色の蝶をモチーフにした下着を選んだ。Tバックとガーター、そして総レースのナイティ。それから彼は肌色のストッキングを取り出して、ソファに腰を下ろし、時間をかけて履いた。ストッキングは脚につける化粧品みたいなものだ。どんな肌にしたいかで、注意深く色や光沢を選ばなくてはならない。少佐どのの好みは、ほとんどまとっているだけの締めつけのない、薄い生地の肌色と同じストッキングだ。それか、同じ素材の黒。ガーターのボタンを留めると、伯爵は立ち上がって、クローゼットの鏡まで歩いていき、ナイティの裾をじっくりたくしあげて一度確認した。下からたくしあげたとき、どんなふうにガーターとストッキングがあらわれるかは、非常に大切だった。どこの位置でストッキングをとめておくかも大切だった。太股のつけ根に近すぎてもいけないし、かといって下がりすぎていてもいけない。どこが好きかは微妙な好みがある。少佐どのは少し上寄りが好きだ……
それから伯爵は今度は靴箱をひっくり返して、ハイヒールをあれこれ探した。黒の細めのポインテッドトゥ。少佐どのの好みによるとヒールの高さは少なくとも九センチから。ハイヒールを履くと、女性の歩き方を習ったときのことを思い出す。先生は非常に手厳しい老年の女性だった。彼女はイギリス良家の少女たちの社交界デビューをほとんど一手に担っていた。伯爵の姉たちも彼女に世話になったのだ。あの先生にはよく泣かされたわねえ、と姉たちは云っていた。よろしいですか、首を伸ばして……つり上げられているように……視線はわたくしから五メートル先を見るように……骨盤を立てて……片膝を曲げて、足を引き寄せ、一歩前へ……体重は前へ出した足へ移動させます……後ろ足へ決して残さないように……骨盤ごとすべるような動きで……重心は脚の内側ですよ、決して脚と脚がだらしなく離れてはいけません…………あれは、実に厳しい授業だった。彼女からは、女性の身体の使い方と礼儀作法一式を学んだのだが、おかげで大いに役に立っている。
鏡でとっくりと自分を確認していると、バスルームのドアが開く音がした。彼はあわててバスローブを羽織り、靴のままベッドへ横になって目をつぶった。しばらくして、寝室のドアが開き、少佐がやってきた。彼は薄目を開けてちょっと見て、またすぐに閉じた。少佐はしばらくベッドの横に立っていた。それから彼の横へ静かに腰を下ろした。
「マイヤー夫人」
と少佐はささやいた。
「もうお休みになりましたか?」
夫人は片目を開けた。そしてすぐに閉じた。少佐の手が金の巻き毛をくすぐった。彼は長いことそうした。それから額を撫で、頬を撫で、バスローブのあいだへ手を差しこんで、ナイティ越しに夫人の身体の線を確かめながら覆いかぶさってきた。伯爵は彼の首に手を回した。
昼間中、少佐は考えのほとんどをうちに秘めている。訊ねない限り、彼は答えない。夜には、彼はもう少し雄弁である。たとえばいま伯爵またの名マイヤー夫人が、自分の下着はどうかと少佐またの名マイヤー氏に訊ねる。すると彼はしかるべく意見を述べる。すばらしい、とてもすばらしい……伯爵は目を閉じてうっとりする。喜びが彼を満たす。少佐はストッキングに覆われた彼の脚を長いこと愛撫する。靴を履いたまま、それから靴を脱がせて。ハイヒールを履いた足を、彼は愛する。そのときのなんとも云いがたい甲の高まりや、傾斜や、全体の形を。それから、靴を取り去った足のかかとや、甲の丸みや、指先や、足裏のカーブを。最後には、ストッキングも取り払われる。素足になったので、伯爵はそれを少佐の腰や背中にすべらせて彼を促す。彼はやってくる。静かに、幾分気遣うように、しかし確信をもって。
長いため息が漏れる。伯爵は甘えて彼にすり寄る。少佐は巻き毛の生え際に、髪の中に、優しく口づける。この日は途中から、伯爵はうつぶせになった。少佐はたぶん、彼の背中に挨拶するのを忘れたくなかったのだ。それにもしかすると、いつもより奥へ行きたかったのかもしれなかった。伯爵はすすり泣きのような声を上げた。少佐はなだめるように、彼の巻き毛の中へ頬をすり寄せた。じゃれあう猫。虎だろうか? 伯爵はふとそんなことを考えた。それからその考えを手放した。
「何泊するの?」
伯爵はうっとりと目を閉じたまま訊ねた。
「土曜から次の予約が入ってますだと」
伯爵は頭の中で数えた。今日は月曜日だった。マイヤー夫人の命は、いいとこ四日だ。なんとなく寂しいような気もした。少佐が煙草を吸い終えて、横へもぐりこんできた。彼は伯爵を引き寄せた。伯爵は少佐へまだどこか夢見心地の顔を向けた。
「マイヤー夫人はご不満がおありですか?」
彼は云った。夫人は微笑した。
「別にございませんわ……でも、ここを出る前までに、パリの思い出になにか欲しいわ」
「下着でも買うか?」
少佐は真顔で云った。伯爵は笑った。
「あなた、あたくしの下着を選ぶ権利があってよ」
マイヤー夫人は夫に目配せした。
「夫ですもの」
それからふたりは眠った。
ローマの雨
ローマは雨が降っていた。陰気な、鬱陶しい空だった。こんな日に出かけるという法はない。ふたりはホテルの部屋にこもった。伯爵は時間をつぶす方法がいくつもあった。まず読みたい本があった。聴きたい音楽もあった。書きたい手紙があった……彼はローマの一番のお友だち、マフィアのボスのボロボロンテさんへ絵はがきを送ることにした。ローマ人にローマの絵はがき。これはおもしろいことになりそうだった。彼は相棒のウィスパーといっしょにホテルの一階へ降りていって、はがきを選んだ。相棒の意見では、もっともローマらしいものを、かえってローマの人間は知らないということがありうる。そこで伯爵は、コロッセオのはがきを選んで、フロントに立っている、なんとなくしまりのない感じのする肥満したイタリア男に料金を払い、部屋へ引き返した。
少佐は新聞を読んでいた。そして、伯爵がコロッセオの絵はがきをマフィアのボス宛に送るという話を聞くと、あきれたように、皮肉げに、「はん」と云って、また新聞に顔を戻した。その云い方が、伯爵の気に障った。彼はむっとしたのだった。でも、黙々と新聞を読み続ける少佐の気をこちらへ向けて口論へ持ちこむのも面倒だった。それで、むっとしたまま部屋を横切って、ドアを開け、寝室へ移動した。そしてサイドボードの上ではがきを書いた。
「愛するボロボロンテさん。坊やがどこにいるかわかりますか? あなたのお膝元ですよ。でも、あなたの手にこのはがきが渡るころには、坊やはもうローマを発っているかもしれません。予定のわからない旅なのです。彼が一緒です。こう書けば、あなたにはおわかりですね? わたしたちは、一致団結して、過去の人脈に頼らず人生を切り開くことにしたんです。勇敢でしょう? 近いうちに、またきっとお会いできますね? 毎日運動を忘れずにね! 今度会うときに体重が減っていたら、坊やは手を叩いてキスしてあげます。それでは、また。お元気でね。D.R.G」
……彼が一緒です……わたしたちは、一致団結して……
こうした文章を書きつけるとき、伯爵はことさら怒りと、むなしさを感じた。このまま長い長い手紙を、ボロボロンテさんへ書き送ってしまいたかった。なんなら、電話をしたかった。迎えにきてくださいませんか? あなたに会いたいんです。あなたの家へ行きたいんです。そうして、坊やはあなたにご機嫌をとってもらいたいんです…………
でも彼はそうしなかった。かわりに、はがきを投函しにまた一階へ降りていった。外では相変わらず雨が降っていた。切手を買って貼りつけ、ホテルにそなえつけのポストへ入れた。実のところ、伯爵は自分で切手を買うという経験がほとんどなかった。はがきを自分で投函することも同じだった。このホテルでは、泊まり客についてあれこれ文句を云わないかわりに、すばらしく放任主義だった。設備は近代的でたいへん立派だった。また部屋も広かった。家具は豪勢だった。しかし、このホテルが提供するのはほとんどそれだけであった。食事は頼めば部屋の前に置いてくれたが、給仕は決してしてくれなかった。部屋の掃除やシーツの交換やゴミ捨てなどは、客が云ってこないかぎりやらないことにしてあった。そういうわけで、一ヶ月ものあいだ一度も頼まれないということもままあった。部屋つきの女中だの、ドアマンだの、エレベーターボーイだのといった連中は、このホテルにはいなかった。そういうホテルなので、伯爵さまがおん自らはがきを投函するなどということも起こってくる。そしてこれは彼には新鮮なことだったが、慣れないことでもあった。
ホテルのそばには日用品を扱う店があったし、食料品もあちこちに売っていた。客たちは、そうしたところから補給されない日用品を手に入れてくるのだ。伯爵さまの見立てでは、少佐は気取ったホテルよりこういう自由な宿泊施設の方を好む傾向にあるらしい。彼はホテルへ着いて早々に、伯爵を日用品店へ引っ張っていった。伯爵の手持ちの服に対してハンガーの数が足りなかったのだ。それに、備品のシャンプーは容器の中でかたまって、ほとんどなくなりかけていた。伯爵さまは日用品店へ入った経験もあまりおありでなかった。そこで、胸をときめかせて少佐に従った。
伯爵はいろいろなものが売られている現場を見ながら、どんな値段がついているのかについて研究した。値札の下がったものを買うというのは、新鮮な感じがした。少佐はてきぱきしていた。彼はまっすぐにハンガーが置いてある棚へ歩み寄って、婦人服用の、肩紐がかけられるようになっているハンガーや、スカート用のハンガーなどを拾い集め、次にシャンプーの検品に取りかかった。そのあいだに、伯爵さまは興味深いものを目にした。コンドームだ。売場の広さの割に、実にいろいろな種類があった。伯爵は眉をつり上げた。そこへ少佐がやってきた。彼は経験のない女性のように少佐を質問責めにした。
「ねえ、君、これはこんなところに普通に売っているものなの?」
「普遍的行為に必要な商品だぞ、普遍に流通してなけりゃ困るだろう」
「だけど、こんなとこに堂々と置いてるなんて……なんだかやりきれない気持ちになりゃあしない? われわれの人間的営みはことごとく商品化されて値段をつけられて搾取される運命にあるんだろうか?」
「おれに聞くな。それにそんな深遠な話にされちゃますますやりきれん」
伯爵は、商品を見ているうちにいろんなものが欲しくなった。なぜといって、実にいろいろと便利なものが売られているからだった。顔のシミをとるクリームだとか、やけどにすぐ効く塗り薬だとか、安眠を保証するハーブティーだとか、衣類のしわを防ぐスプレーだとか、実にいろいろなものが。ご自身で買い物をされない伯爵さまにはすべてが目新しかった。それで、欲しいものを全部両手に抱えてレジへ持って行こうとしたが、少佐に怖い顔でNein! と云われた。彼の「Nein!」ほど威圧的で恐ろしいものはちょっとほかになかった。伯爵はしょんぼりして商品を棚に戻した。相棒のウィスパーが、腕の中から出てきて彼をなぐさめた。
食料品店、日用品店、そんなところへ出かけていって、自分でものを探し回って、会計へ運んでいって、そういうことが、伯爵にはしだいに鬱陶しく感じられるようになった。はじめに感じていた目新しさはすっかり消えてなくなった。いつもと違うことを楽しむのではなくて、そのいやな面ばかり目についた。日増しに、すべてが退屈で、煩わしいものになっていった。彼は沈んだり、いらいらしたりした。ふたりのあいだは自然、ぎくしゃくしはじめた。
……どうしてこうなったのか? 伯爵は部屋へ戻る前に、通りに面したガラス窓からぼんやり外を眺めた。雨は調子よく降っていた。すべてのものがみじめに濡れていた。通りを行くひとびとの足もとは、特に男たちのズボンの裾は、じっとりと濡れていた。でも伯爵は濡れていなかった。彼はホテルのエントランスホールで、景気よく降っている外を傍観しているのだった。
彼はふいに、自分も雨の中へ参加しなければいけないような、自分も濡れてしまわなければいけないような気がした。外の世界と同じに。通りを行くひとびとや、車や、石畳の道路や、ゴミ箱や、犬猫と同じように。彼はその衝動に抵抗するすべを持たなかった。彼は一瞬、自分の部屋を見るように天井を見上げたが、すぐにホテルの入り口に視線を移した。そうして歩いていって、ドアを開けた。フロントにいた男があわててやってきて、彼に古びた黒い貸し傘を差しだした。伯爵は礼を云って、それを受け取り、外へ飛び出した。
雨足が強かった。彼の茶色い革靴はしたたかに濡れた。お気に入りのズボンの裾も濡れた。広げた傘は骨の一本が折れていて、みじめにひしゃげていた。彼はかまわずぐんぐん歩いた。どこへ行こうというのではなかった。ただ、通りをひたすら直進した。彼は逃げたかったのか? わからなかった。別にそんなつもりはなかった。自分は倦怠を感じているか? 旅に飽きているか? 少佐に倦み疲れているか? たとえば彼の無口に。たとえば彼の求め方に。たとえば彼の、自分を愛撫する手つきに、その熱に、その探り方に。彼といて、彼といる空気がかたちづくる空間に。
いまやなにかが、蓄積されついには溢れだしてしまったなにかが、伯爵を動かしていた。彼はひとりでいたかったのか? それとも、まぎれてしまいたかったのか? 雨の中へ溶けだしてしまいたかったのか。わからなかった。なにひとつ、彼には説明できなかった。急にボロボロンテさんへはがきを書こうと思ったことも、こうして雨の中へ飛び出してきてしまったことも。
…………どれくらい歩いたかわからなかった。雨足は徐々に弱まってきていた。それでも伯爵は歩き続けた。やがて雨がやんだ。それからまぶしい、痛いほどに強い夕暮れがやってきた。真っ赤な、どぎつい夕暮れだった。濁った雲の端々がバラ色に染まっていた。伯爵は疲れて、噴水のある広場のベンチに腰を下ろした。影が長く、物憂く足もとにまつわりついた。彼は傘をたたんで、柄をベンチへひっかけたが、すぐに滑って、傘はだらしなく足もとに転がった。伯爵はそののろまな倒れ方を見守ったが、助けてやろうとは思わなかった。
自分がどこにいるのか、彼にはよくわからなかった。ローマはよく知っていたが、路地裏の隅々まで知り抜いているわけではなかった。特に、美術館や博物館がない地域では。そしてここらあたりはそういう場所であった。ローマ市民の生活の場だった。ひとびとが食べ、眠り、起きて活動する場だった。洗濯をしたり料理をしたり、片づけをしたり部屋を飾ったり、家の修理をしたり模様替えをしたり、買ってきたものをしまったり、そうしたことをする場所だった。…………この旅は、失敗だったのかもしれないな、と彼は思った。そうして、そのことばの持つ重みにぎょっとした。
しだいに日が暮れてきた。伯爵はふいに猛烈に寂しくなった。坊や、君はいったいどうしたいの? と伯爵は自分に訊いてみた。君は、ひとりでいたいの? ひとりになりたいの? それとも、それはいやなの? 坊やはわからなかった。誰かと一緒にいたい気もしたし、ひとりでいたい気もした。誰かと一緒になりたい気がしたし、それを厭う気持ちも強かった。君は自家中毒だよ。伯爵は自分に云った。君は、おぼれかかっているよ。
やがて星が出てきた。星たちはとても美しく、静かに光っていた。伯爵はそれをじっと見ていた。涙が出てきた。彼は静かに泣いた。それから、笑いたくなって、悲しげに笑った。
やがて彼は立ち上がった。あてもなくやってきたので、またあてもなくぶらぶら歩いた。傘をステッキみたいについて歩いた。帰りたいのか帰りたくないのかもわからなかった。彼は小さく歌いながら歩いた。もうこのまま帰らなくてもいいかな、と思いながら細くくねった路地を曲がり、大通りへ出たとき、伯爵は通りの向こうからやってくるひとりの男を見た。男は、彼を見て、眉をつり上げ、両手を広げて顔のあたりまで持ち上げた。
……伯爵は気が抜けたような、放心したような空白におそわれた。それから、彼はくしゃっと顔をゆがめた。男はやってきて、伯爵の濡れて乾いた服について言及し、古びた傘について言及し、ひとつため息をついてから、黙って歩きだした。伯爵も無言で彼についていった。少佐は、なんにも云わなかった。訊きもしなかった。ふたりはおし黙ったまま、ホテルまでてくてく歩いて戻った。
少佐が先に部屋のドアを開け、顎をしゃくって伯爵に中へ入るように示したとき、そして、開いたドアの向こうにもう見慣れてしまった、手入れの行き届かない部屋を見たとき、伯爵は、ふいに笑ってしまった。少佐は彼が笑ったので少し安堵したらしかった。彼も微笑した。伯爵はそれを見て、笑いながら少佐に抱きついた。少佐ははじめ驚いたらしかった。でもすぐに気を取り直して、伯爵を苦労して風呂場へ運び、蛇口をひねって、伯爵の服を脱がせようとした。伯爵は抵抗した。ふたりは子どもみたいに取っ組み合って転がった。そして最後には、ふたりとも勢いよくバスタブの中へつっこんでいった。ずぶ濡れなった互いの姿を見て、ふたりは大笑いした。伯爵は歌いだした。少佐は彼の服を脱がせはじめた。大きな歌声が、バスルームを通り越して、部屋中に響きわたった。