恋が終わるとき ―ココシュカと芸術的ポルノ―

 

ミューズ
 
 絵は好きだけれど、モデルでいるのは大変だ。じっと動かずに何時間もだまっているなんて、並大抵のことじゃない。でも、まあ、彼はなかなかいい男だし、真剣に対象と向き合う画家の顔はとてもセクシーだ……そのとき画家は、人間存在を越えた、視力を越えたなにかを見ている。彼の目がとらえているのは、もはやわたしの姿形ではない。その奥にあるなにかだ。彼が見ているものはなんだろう……彼はわたしの中に、美しさを越えたなにかを、見ている。できあがった絵を見ればたぶんよくわかるだろうけれど。でも、モデルになるのは恐ろしいことでもある。画家の目は冷徹だし、冷酷だ。ほんとうの目のある画家の前には、なにも隠しておくことはできない。彼の筆の力で、すべてあらわにされてしまう。
 エルンストと出会ったのは、ベルリンのある美術商を通してだった。わたしだって、たまには正規のルートでまともな買い物もする。欲しいものが正規ルートで流れた場合には(でもそれが滅多にないから、結局失敬してしまうことになる)。買ったのはココシュカの絵だ。ドイツ表現主義に、わたしはとても惹かれる。狂おしいまでの内省、神秘、内面の追求、それが、とてつもない力をもって迫ってくる。ココシュカって、ざらついた陶器みたいだ。彼の絵を見ていると、わたしの心もざらざらして、落ちつかない気持ちになる。でも、それがとてもいい。
 わたしは気前のいい客だったから、美術商はわたしをたいそう気に入ったらしい。わたしは、彼のことをあまり好きになれなかったけれど。ヒラーというその男は、でっぷり太っていて、鼻がいちじるしく左右に広がっている。小さい灰色の目は鋭く抜け目なくて、陰険な執念深い性格をしていそう。わたしは人間は見た目だと思っている。ひとの内面は、見た目に出る。いくらいい服を着ても、丁寧に化粧をしても。世間一般に云う美的観念と照らしあわせてどうこうという話ではない。美しいとは決して云えなくても愛らしいひとはいる。ものすごく美しいが、醜いひともいる。
 件の美術商のような外見の人間と必要以上に関わりあうのは、普通なら敬遠してしまうのだけれど、わたしの救いがたい弱点、美術に絡むこととなれば話は変わってしまう。わたしは美術商が「ココシュカの直径子孫」のようだと絶賛するその売り出し前の画家になんとなく興味を惹かれ、美術商に連れられて、ベルリン郊外の彼のアトリエまで出かけていった。ヒラー氏は前途有望な若い画家を発掘し支援することに、ちょっとした生きがいを感じているという。美術学校生の展覧会へ出向いたりして、ぴんとくる人間を厳選し拾いあげてパトロンをしているそうだ。そういう支援は、学生にはとてもありがたいに違いない。芸術で身を立てるのは、よほどの運と才能に恵まれない限り、かなり厳しいことだから……でも。とわたしは考えてしまう。それだけを聞けば美談だけれど、ヒラー氏だって商売人だ。彼がやっていることは、あとあと自分が儲けるための投資なのだ。目をかけた人間のうちひとりでも当たりが出れば、十分すぎるほどの見返りが見こめる。
 アトリエはかなり凝っていた……アパートの一室でもむさくるしいあばら屋でもない。集落からすこし離れたところにある一軒家なのだけれど、現代的で、地中海のホテルみたいな白亜の壁の清潔な建物だった。なんだか場違いな感じだ。広々とした風呂やベッドルームは、アトリエというよりアバンチュール目的にふさわしいように見えた。美術商ヒラー氏にそう云うと、以前もの好きなフランス人が別荘として建てたのだが、左前になったのか売りに出したのを買い上げたのだということだった。
 エルンストは、全身がはにかんでいるように見える男だった。少し猫背気味で、うつむき気味。赤みのあるブラウンヘア、澄んだ大きな目と対照的な小さな口元、ほっそりしたおとがい。彼の目が、わたしは気に入った。濃いブラウンの瞳は晴れて風のない日の穏やかな湖みたいで、静かにきらめいている。でも、とても底が深い。その奥の方へ入ってゆけば、真っ黒になってしまいそうだ。わたしは彼に、なにかを感じた。なにか、ひどく不均衡なもの。あやういもの。静かにしているけれど、爆発を予感せずにいられない、どこかぞわぞわした感覚。
 彼はわたしにいくつかの絵を見せてくれた。肖像画と風景画。わたしは彼の絵も気に入ってしまった……珍しく! わたしが生きている画家を気に入ることがあるなんてほんとうにまれだ。でも、彼は本物だったのだ。彼の描く肖像画は、間違いなくココシュカの直系だった。その人物の心理造形を、冷静に冷徹に見つめ、描き出そうとしている。少し荒々しいタッチは彼の内面の情熱と少し攻撃的な一面を示しているように感じられた。画面は全体的に暗く、重く、沈みこんでいくようだ。ああ、彼の不均衡な感じの正体はこれだ、とわたしは思った。あらゆるものを敏感に感じてしまう繊細さと、そのために生じざるを得ないおそれと屈託、そして、若々しい自意識がもたらす攻撃性。そういったものが、彼の絵の中で不思議に混じりあっていた。君は目があるね、とわたしは云った。愚直に、一心不乱に、その対象を探る目。そこからほとばしる火花のようなものを、さぐろうと分け入る目。そして見つけたならとらえようと挑みかかる目。画家にとっては、それが生命線だ。彼の目は、それを通して真理を、霊的ななにかを、はっきりと描こうとしている。か細い光の中で、真実をつかもうとする。それは、遊びの域を遙かに越えている。そういう真摯なひとが、そういう真摯な仕事が、わたしは好きだ。
 君の絵が気に入ったよ、とわたしが云うと、エルンストはありがとうございます、と小さな声で云った。その声は細く、震えるようだった。彼の繊細で傷つきやすい魂を、わたしは感じた。それがわたしに、なにか忘れがたい印象を残した。そのあとわたしたちは、ヒラー氏も含めて食事に出たが、ヒラー氏はわたしが彼を気に入ったことにいたく気をよくしていた。
「どうかひいきにしてやってくださいよ」
 ヒラー氏は痰がからまりやすいたちらしく、ごろごろする声で云った。
「前途有望な青年を支援するのが、わたしの唯一の道楽でして」
 それから彼は声を上げて笑ったが、わざとらしい笑い方だった。偽善者君、目が笑っていないよ。わたしはそう云ってあげようかと思ったけれど、でも他人の商売だ。美しいものの周辺に群がる金の亡者がわたしは一番嫌いだけれど、わたしだってその輪の中にいるひとりなのかもしれない。わたしだって同類かもしれない……ただ、金に執着していなくて、汚くないだけ。所有欲という点では、彼らのことを悪く云えないどころか、もっとひどいかもしれないのだから。

 

 ここまでなら、よくある話だ。ここから先が、わたしならでは、独創的。早い話が、エルンストはわたしにひと目惚れしたらしい。一個の人間としても、描く対象としても……でも、画家の愛情って、あてにならないものだ。だって、それは描くという、描かねばならぬというあの感情と切り離せないものだからだ。一般的な愛とは、同じなのだけれど、厳密に同じ、というわけにはいかない。やはりちょっと違う。そして悲しいかなわたしは芸術家の魂を持ち合わせなかったから……持ち合わせていたら、いまだってキャンバスに向かって描いていた……そういう人種に、心からの愛を注ぐことは、ちょっと難しいのだ。確かに一種の愛は、あるのだけれど。
 エルンストはときどき、わたしにとても会いたくなる。わたしを描くことに、彼は熱中しているのだ。そしてわたしは、彼になら描いてもらってもいいと思う。お互いの利害は一致しているから、わたしは出かける。ドイツへ! でもエルンストがいるのはベルリン、悲しむべきことかな! わたしはボンまで行くことができないわけだ。ドイツは広い。ベルリンとボンだって、とても遠く感じられる。ドイツにいるよ、と電話くらいはするけれど、エーベルバッハ少佐はたいてい忙しい。わっと忙しくなって、わっと暇になる。そしてまた忙しくなる……組織の人間って、大変だ。
 今回は彼のアトリエに、二週間滞在した。そのあいだ、エルンストはわたしを毎日あちこちの角度から眺め回し、描き続けた。ときに着衣、そしてときに裸体。彼と寝るかどうか、というような問題は、ほとんど問題にもならなかった。なぜって、彼はわたしを崇拝していたから。彼はほんとうに、わたしの手の甲に口づけること、そして、わたしがときおり彼の頬を撫でたり、額に口づけたりすることで、満足した。それ以上を、彼は望まなかった。わたしは彼の見ている前で、風呂に入りさえしたけれど……というのも、わたしはわざと浴室のドアを開けっ放しにしておいたからで、エルンストは、やっぱりこらえきれずにやって来たのだ……そのとき彼がしたことと云えば、すぐさま紙と鉛筆をもってきて、わたしを熱心に描いたことくらい。でもそれが、彼の欲情、彼のオルガスムス。わたしもまたそれで満足だった。わたしは彼の精神の領域へ、創造のうるわしき源へ、わたしという人間が影響を与えているというそのことに、満足していた。彼がわたしの中に見ている、なにか気高いもの。それが現実の行為によって現実へ引きずりおろされるのを、エルンストは危惧していたかもしれない。たぶんそうだろう。わたしには、彼のそのおそれと、わたしへの尽きぬ賞賛の気持ちとの葛藤が、よくわかるような気がした。トルストイが唱えたような、絶対的な禁欲。なんて魅力的な考えだろう。禁欲的態度ほど、エロティックで、そしてわれわれのそういう感情を刺激するものはない。皮肉なことに。わたしはたぶん、彼の禁欲がかもし出すじれた、ぎりぎりの雰囲気を楽しんでいた。官能的な牝鹿のような気持ちで。そしてわたしを見つめるエルンストの真摯な、熱に浮かされたような目の中には、絶頂の間際にも見られないような激しい情熱があって、わたしはその熱に自分を貫かれているような気持ちになった。わたしたちは肉体的にはぜったいに交わらないけれど、でも、それを取り払ったところでは、一種の深い交感があったと思う。
 こういうのは、世間一般には浮気と云わない。既成事実がないから。でも、ほんとうにそうだろうか? わたしはときどきボンにいる唐変木に連絡をしながら、彼はこういうかたちの交流を、いったいどう思うだろうかと考えた。わたしは少佐に、説明すらした。わたしの高揚。そしてエルンストの高揚。たちのぼる濃厚なエロティシズム。だってそれが、彼の気に入らない行為だったら困るからだ。わたしはときどき楽しみを優先するあまりやりすぎるという自覚があるからだ。なのにあの唐変木ときたら、ただ単に、「ほー」と興味なさそうに云っただけだった。妬いてしまわない? と訊いてみたら……もちろん、そんなことをする男じゃないのはわかっていた……精神だか芸術だか知らんが、勝手にやっとれ、と云っていた。ああ、寛大な男だ。わたしのような人間には、こういう男でないとだめだ。でもその寛大さが、かえって浮気を抑制するというのは皮肉なことだ。まあ、わたしはもともとたいへん一途な人間だから、やれと云われても、できないのだけれど。あわれで面白味のない、一夫一夫主義だ。わたしは彼に夢中。あの唐変木以外、すべての男は枯れ木に見える。 
 わたしはときどき、絵を描くことがある。一時期、それを仕事にできないかと思ったことすらある。でも、過去に生み出された美しい絵画を数多く目の当たりにして、そして現代美術へのわたしの不感症を自覚するにあたって、考えは変わった。わたしはあくまで、過去を賛美し、そこへ拘泥するタイプの人間らしい。そういう人間は、評論家が関の山だ。
 エルンストのアトリエでも、わたしはデッサンを整理する彼のそばの椅子に腰を下ろして、彼のスケッチブックを失敬して描いた。唐変木の絵を。わたしの身体はエルンストの眼差しの熱に当てられてまだどことなくほてっていて、しかもそれが連日のことなものだから、ちょっとばかり、欲求不満かなにかをこじらせていたのだと思う。ぞくぞくするような、彼のまなざし。本当にあの目に射すくめられたら、普通は恐怖のあまり失神してしまうと思う。わたしは絶頂の中へ至るけれど。寄せられた眉、半開きの肉感的な口もと、彼の情熱、彼の愛。魂と魂が交わる瞬間。わたしがいまここにあったらと思うもの。エルンストがやって来て、興味深げにわたしの絵をのぞきこんだ。彼は長いこと黙っていた。
「……絵がお上手ですね、伯爵」
 エルンストは云った……奇妙に、のどにひっかかったみたいな声で。
「まさか! わたしはずぶの素人だよ。模写なら得意なんだけどね……ありのままを描いてみることなら、わたしもかなり上手にできるんだ。でも、わたしにはその先がない。致命的だよね。その欠点さえなければ、わたし自身が描いていたと思うけれど」
 わたしはいたずら心を起こして、エルンストをねっとりと舐めるように眺める。
「この彼、セクシーだろ? たまらないよ、実際……わたしはいま、彼に夢中なんだ」
 エルンストは真っ赤になった。彼がこっそり、ポルノグラフィまがいのわたしのラフを、描いていることは知っている。わたしは笑って、からかったことを詫びた。別に怒っているわけじゃない。それは彼の権利だ。わたしはその後も何枚か唐変木の絵を描いたので、そのスケッチブックはわたしの絵だらけになってしまった。仕方がないから、それはわたしがもらって帰ることにした。あとで唐変木に見せるつもりで。わたしの愛の大きさがわかろうというものだ。
 滞在予定が終わり、エルンストは山のようなデッサンを描き散らかした。帰り際、迎えの車を待ちながらいつものようにアトリエの椅子のひとつに腰を下ろし、のんびりクラウスの落書きをしていたら、エルンストが、わたしと会わないあいだにわたしのことを夢想しながら描いたという油絵を持ち出してきて、見せてくれた。一枚目は、わたしはベッドに裸で寝そべり、上半身を起こして片肘をついた状態で、夢を見るような、とろけそうな目つきで、こちらに微笑みかけている。腰から下はかろうじて真っ赤な布で覆われている。やれやれ、ありがたい。官能と、明瞭な媚態がそこにある。絵を眺める人間に、自分と寝たあとみたいな錯覚を起こさせるほどに、それは生々しく、そして親しみがこもっている。これを見た人間は、たぶん、画家とわたしがことに及んだと勘違いするに違いない。わたしはその絵を冗談半分で「情事の朝」と名づけた。エルンストはそれが気に入って、明るい、でも相変わらずはにかんだ笑みを見せた。これはエルンストくんのエロティックな空想が生み出した、わたしの姿を借りた誘惑者。でも、そればかりではない。わたしには、確かにこういう一面が眠っている……ほんとうに愛する者の前でしか示さないのだけれど、彼はその残り香を、しつこく嗅ぎ回し、探し当てたらしい。だから画家は怖いのだ。それからもう一枚は、先とは打って変わって、厳しい、張りつめた顔で宙を見つめるわたし。わたしの右手は、脇に置かれた小さなテーブルの上に乗っている。そのテーブルには、わたしの指先のほかに、口を開けた宝石箱が置かれている。中には、赤や青や緑の宝石、そして黄金の鎖や十字架、薔薇。ちょっとぞっとする。これはたぶん、仕事をするときのわたしの顔だから。これは、美を追求するわたしの顔、美しいものを、自分の手元に置かずにいられない、独占せずにはおかない、わたしの貪欲、そして情熱。彼は、こんなところも見ているのだ。探し出して、見つけて、そしてそれを描いた。わたしは彼を見た。エルンストはわたしを見て、顔を伏せた。
「ぼくは、あなたに夢中です」
 エルンストは云った。
「あなたは危険だ。あなたには、いくつの顔があるんだろう? ときどき、好色で気まぐれなギリシアの神々みたいだ。でも、なにかひどく厳粛な、おごそかなものがあなたを貫いている。静謐な、と云ったらいいのかな。それから、たゆまざる情熱がある。静寂が支配するいっときがある。そして、限りなく幸福なんだ。あなたには、すべてが、遊びに見えるんだろうか? あなたは神の手の中で、安心してまどろんでいられるんだろうか? こんな世界にいて……」
「君はすばらしいよ、エルンスト」
 わたしは彼に微笑を向けた。
「わたしをよくわかってる。わたしのことを理解してくれたひとは、これまで数えるほどしかいなかったけれど……君はきっと、成功するよ。偉大な画家になる」
 エルンストははにかんだ微笑を向けた。そしてそれは、こんな大胆な絵を描く人間とはとても思われないほど、朴訥で、控えめだった。わたしは立ち上がり、彼に口づけた。
「わたしを描いてくれるね? わたしの美しさが、滅びないうちに。わたしの中の美が、張りつめているうちに」
 エルンストはうっとりした顔で、うなずいた。わたしは彼のデッサンやラフをいくつか買い上げ……売り出し前の彼に、資金提供だ……アトリエをあとにした。その中には、ポルノグラフィまがいのわたしのラフもあった。

 

浮気心
 
 愛する男のためとはいえ、追われ、捧げてもらうことに慣れたわたしが、誰かのために動いてやるなんて、けなげなことだ。父が知ったら涙を流して、そんな男とは別れたまえと云うだろう。父は、わたしが指一本動かさなくとも生きていける、というのが理想だったのだ。わたしにはそうするだけの力がある、と彼は信じていた。わたしもそう思うし、そういう生活をしたこともあるけれど、わたしは父の理想より少しばかり欲張りで、活動的だ。生来の性質は、どうにもならない。
 わざわざボンまで来てやったわたしに、唐変木はくそ忙しいとかなんとかぶつぶつ云っていたけれど、食事くらいはつきあってもらわないと、わたしだって来た意味がない。でも彼はほんとうに忙しいらしく、というより、いつ事態が動くかわからないなにか非常に切迫した任務の最中で、ほんとうは自室を離れたくなかったらしい。一時間だけ、という条件つきで、わたしを馴染みの店の、薄暗い個室へひっぱりこんだ。まあ、彼は軍人だし、任務の鬼だし、それが彼だから、しょうがない。あんまり忙しそうにしていると、あの「仕事とわたしとどっちが大事なの」という身も蓋もない爆弾発言をするよ、と云ったら、飲んでいたビールを噴き出しそうになった。
「あほなことぬかすな」
 わたしはもちろん、そんな無粋な人間になるなんて、頼まれたってごめんだ。仕事に命をかける男の静かな情熱を感じ取り、そこへ心を寄せることができないような、そういう感性の鈍い人間になり下がってしまうくらいなら、死んだほうがましだ。なにしろ一時間しか時間がなかったら、わたしは楽しい話題もそこそこに、彼にわたしのスケッチブックを広げて見せた。少佐はそれをめくりながら、しだいに眉間に皺が寄り、首に青筋が浮きだした。
「なんだこりゃあ」
 彼はつとめて抑えた静かな声で云った。場所柄、遠慮したのだ。
「わたしの愛と欲求不満の産物。わたしの愛と、エロティックなエネルギーを感じない?」
「感じるか、阿呆! どうせ描くならもっとまともなのを描いたらいいだろうが」
 わたしは彼をいらいらさせるのがわかっていて、わざとのんびり首を傾けた。
「だって、わたしの頭の中はずっと君でいっぱいだったからね。若くていい男がいて、彼の熱のたっぷりこもった視線を毎日何時間もあびているのに、なにもないんだからね……」
「んじゃあその男とでも欲求不満の解消すりゃあよかったろうが」
「あ、それ云う? ひどいなあ。まあ、彼も彼で、こんなものしこしこ描いていたみたいだけど」
 わたしはエルンストが描いたわたしのラフを数枚……一枚目、わたしは頭を手前に置いて仰向けに寝転がり、少し弓なりに背中をそらせ、首をひねって顔をこちらに向けている。両手はだらりと頭の横に投げ出され、両足は大きく開かれている。いまにもその両足のあいだに、誰かのなにかがぶちこまれそう。わたしの顔は享楽的で、なにかみだらなものを期待しているふうだ。二枚目、わたしは目を閉じ、口を半開きにして、少し首を傾げて快楽に身をまかせている。ムンクのヴィーナスのポーズ。ただしそれより何倍もはしたない。三枚目、わたしは裸でソファに寝そべっている。焦点の合わない、うつろな目でこちらを見ている。事前か事後か? 判断が分かれるところだが、わたしは事後だとふんでいる。このけだるい顔は、一戦交えたあとだ……を少佐の前に差し出した。彼は面白いくらいうろたえた。目が白黒している。ああそうか、彼、ポルノグラフィに弱いんだっけ。
「ばか、そういうものを公共の場に持ち出すな! しまえ! とっととしまえ!」
「あげるよ」
 わたしは空になっていた少佐の細長いグラスの中に、そのラフを丸めて差しこんだ。
「若い子の空想の結果だけど、十分実用的だと思うよ」
「……おまえ、自分のこういうものを見て平気なのか?」
 信じられん、と彼はげっそりした顔でつぶやいた。
「ぜーんぜん。だって、これはエルンストの愛だからね。彼の頭の中で、わたしはどんなふうに寝乱れていたんだろうね、ねえ? でも、それでもあくまで現実にことには及ばない、あの厳格さ、潔癖さ、そして怯懦さ……素敵だな。彼となら、してあげてもいいかもしれないとまで思ったよ。彼がわたしを描いた絵を見たとき」
 少佐はテーブルに肘をつき、肩で息をしていた。わたしはもうちょっとからかいたかったので、つけ加えた。
「今度彼にモデルを頼まれたら、浮気しちゃうかもね」
 少佐はため息をついた。
「勝手にやっとれ……」
 わたしは大笑いした。店を出るとき、でも、少佐はあのエルンストの愛ある卑猥なラフを、内ポケットにしまうのを忘れなかった。

 

 少佐の任務は、まだ動きはないらしい。今日は動かないかもしれない、と云って、少佐は空港まで送ってくれた。ただし、空港の少し手前に、乗りつけるだけ。彼はそこから出ない。仮にもエーベルバッハ少佐が、わたしといるところなんか空港の監視カメラに映ったらまずいのだ。わたしは別れ際、彼にとびきりねちっこく、時間をかけてキスしてやった。そしてバイロンの「カタラス風」をまるまる全部暗唱して、彼をげっそりさせた(ふん!)。
 
(おお、この燃える眼に、くちづけを
 よろずたび重ねるとも、情炎は消えぬ
 わが唇は、うちつづく歓喜にひたり
 一つの接吻は、百年のよろこびをもつ
 そのときもなお、魂は満ちたることなく
 ただ接吻を続け、君を抱きつづける
 わが接吻を、君から引きはなすものはなく
 とこしえに、ああとこしえに、接吻はつづく
 黄金なす穂の、かずしれぬ殻粒よりも
 その接吻の数がこえることはあったとしても
 何ものもわれらを引きはなさず
 何ものも―何ものも―わたしをとどめ得ぬ)
 
「そのデッサン、使っていいんだよ、ほんとに」
 わたしは彼のスーツの内ポケットをたたきながら、ささやいた。
「眠れない夜なんかにね」
「とっとと行け。遅れるぞ」
 少佐は時計を見て云った。あーあ、こういうところが好きだ。
「そんなつれないことばっかり云ってると、ほんとに浮気するからね」
 わたしは云い、車のドアに手をかけた。
「おお、やれやれ」
 少佐は投げやりに云った。わたしは少しだけかちんときた……お遊びのレベルで。だから身体をひねり、彼にむくれた顔を向けた。
「ほんとにやるよ」
 わたしはつとめて怖い声で云った……ああ、そうしたら! この唐変木ときたら、鼻で笑ったんだ! わたしは今度はほんとうにかちんときた。この朴念仁、わたしができないと思って、高をくくってるな。ああ、腹立たしい。わたしは、すがられる方が好きなんだよ、というか、そういう扱いしか受けて来なかったというのに!
 わたしは思い切りよくドアを開け、ものすごい音を立ててドアを閉めた。で、大股に歩き出した。
「なあ。おい」
 数歩歩いたところで、少佐が云った。わたしは振り向かなかったし、立ち止まらなかった。
「そのなんたらつう画家の、きわどいやつはこんだけか?」
 わたしは答えなかった。ずんずん歩いて、遠ざかった。他にあったとしたって、誰が教えるものか……たぶん山ほどあるだろうさ。わたしは怒っているんだからね。ああ、そうだ、少佐との連絡用愛の電話も電源を切っておこう。そしてもう、そのまま忘れ去ってやる。なにが愛の電話だ。悪魔の電話め。ケルン・ボン空港なんて、金輪際来てやるものか。

 

プライド
 
 ほんとうのことを云えば、彼に対する怒りなんてものは、帰りの飛行機の二時間ちょっとで忘れてしまった。機内放送で、わたしの敬愛するミュージシャンの新譜を流してくれ(彼がかける音楽に浸るためだけに、わたしはよくロンドンのクラブへ行った、でもそれ以上のことはなにもなし、彼は女性が好きなのだ、おお!)、わたしはそれを指先でリズムをとりつつ聴きながら、すっかり機嫌を取り戻していた。そんなものだ、怒りって。でもわたしが怒っている、ということを、ただ唐変木に示したいがために、わたしは飛行機を降りて城へ帰っても、愛の電話の電源を落としっぱなしだった。怒りが回復しても、傷つけられたプライドというのはそうそう回復しないものだ。それに別れ際のあの様子だと、あと数日はこちらのことを気にかけるひまもないほど忙しいだろう。
 二日たって、わたしが慣れ親しんだロンドンの空気にふたたび身体をなじませたころ、ボロボロンテさんから電話が入った。
「チャオ! おれの霊感の源、おれの幸福の鳥よ、元気かい?」
 ボロボロンテさんって不思議なひとだ。彼はなぜかいつも、わたしが気落ちしているとき、ちょっと浮かない気分のとき、退屈なとき、そういうときをねらったかのように電話をかけてきて、わたしを元気づけてくれる。以前、不思議ですね、と云ったら、愛の力さ、と云って笑った。彼の愛は偉大だ。たゆたう波のようにゆるやかにわたしを包んで、そしてただ包んでくれる。その先のなにかを、求めるわけでもない。彼はわたしを心の底から愛しているから、わたしが意のままに生きているのをみるのが一番心安らぐと云う。わたしが恋をし、泥棒し、微笑み、幸福でいることが。それがひるがえって彼の、幸福だと云う。
「聞いてください、ボロボロンテさん」
 だからわたしも、自然彼に甘えてゆくわけで、そして彼はそれに、満足している。
「おお、どうした? ちょっと待ってな、いま新しい葉巻をくわえるからよ……」
 彼が満足げに、深く息を吐き出すのが聞こえた。
「で、どうしたんだい、おれの美の源泉よ」
「恋人と喧嘩しました」
 ボロボロンテさんは大笑いした。
「わたしはとても傷つけられたんですよ……プライドを」
 ボロボロンテさんはまだ笑っている。
「なあ、伯爵、プライドをきれいなまま保っていたいんだったら、恋なんかしちゃいけねえぜ」
 ああ、なんたる名言。だって、その通りだ。好きになったら終わり。もう自分のプライドが云々なんて、云っていられない。それをかなぐり捨てても、相手に振り返ってもらいたいという、あの狂おしい感情。恋をする人間は、みんな狂人とシェイクスピアが云った。彼はたぶん、人間を知りつくしていた。そしてボロボロンテさんは、人生の裏から表まで、知りつくしている。
「そのとおりですね、ボロボロンテさん。わたしはもうぼろぼろです」
「そうだろうなあ……ありゃあ、プライドを破壊するためにあるんだからな。だけど、まさか浮気じゃあねえだろうな? そんなら話は別だぜ。あんたを泣かせるやつはおれがハチの巣にしてやるからな」
「大丈夫、ただの痴話喧嘩です。銃は必要ありません。でも、わたしのプライドはめちゃくちゃ。世の中には、わたしのためならホワイトハウスにだって潜入してくれる男もいるし、わざわざ月に二度地球を半周して愛してると云いに来てくれる男だっているのに、どうしてよりによってあんな、わたしのことをないがしろにするようなのを好きになったんだろう? 自分に腹が立つんだか、相手に腹が立つんだか。どうやってわたしの怒りをわからせてやるべきか、毎日考えてるんですよ」
 ボロボロンテさんはまた大声で笑った。
「それが恋のうまくいかねえところでな。神さまのたくらみってやつさ……まあそれなら、ちょうどよかったかもな。ちょっとこっちに気分転換に来な。しばらく男のことは忘れて。新しいクルーザー買ったんだ、一番にあんたを乗せてやりてえのさ」
「クルーザー? あの島に行きますか? 行くなら、乗ってもいいな」
 イタリアンマフィアのボスであるボロボロンテさんは、地中海に小さな島をいくつか所有している。その中のひとつに、十分も歩けば一周してしまうような小さな島があるのだけれど、わたしはそこがとても好きだった。美しい入江に足を踏み入れ、ささくれだった岩場を抜けると、目の覚めるような緑が広がっていて、白やピンクの花が揺れている。青い海と空との、美しいコントラスト。ボロボロンテさんはその島をわたしにくれるつもりがあるらしいけれど、美術品と違って、島は定期的に税金がかかるから面倒でいやです、と云ったら、笑っていた。彼はわたしのそういう正直なところも好き、だそうだ。
 ボロボロンテさんは島へ寄ると約束してくれたので、わたしは行くことにした。唐変木のことは、どうせしばらく忙しいだろうし、気にしないことにした……わたしは気ままにしているのが好きだ。根が自堕落だから。思いつきと人生が与えてくるものに身を任せるのが好きだ。世界を信頼しているから。

 

 クルージングはすばらしかった。ボロボロンテさんはしばらく海の上を走る自分のクルーザーを満足そうに感じていたが、やがて進路を変更し、わたしを島に降ろしてくれた。静かな青い入江から、誰にも踏まれていない処女浜を踏みしめ、ごつごつした岩場を少し登って、その内部へ。足元には背丈の低い草が生い茂り、なんという花だろう、ひなぎくに似た、とてもかわいらしい花がそのあいだで揺れている。空は青く、雲ひとつない。潮風の香り、あたりを優しく通り抜ける風、夢のようだ。わたしは誰にも邪魔されずに、そこでひとりで半日過ごした。スケッチの道具一式と、ミネラルウォーター、それに『ダフニスとクロエー』の本をもって。わたしは寝っ転がって、本を開いた。この本は、こういうところで読むのにふさわしい。エーゲ海に浮かぶレスボス島の、山羊飼いの美しいダフニス少年と、羊飼いの少女クロエー。その牧歌的で美しい、決して破綻することのない恋の物語。悲劇も俗悪さも、その物語からは注意深く取り除かれ、ふたりの男女の、清らかな恋はすこやかに進行し、成就する。その昔、わたしはダフニスを夢見た。彼が男色家のグナトーンにおそわれるところを夢想した。彼の唇や、髪や、引き締まった肉体。それは文字の間隙から、強烈にエロティックに浮かび上がってきた。エーゲ海の、鮮明な色彩をともなって。わたしはしばらくダフニスに夢を見続けたが、あるとき家に出入りしていた客のひとりに、わたしはダフニスのそれより数段優れたものを持ち合わせているのだと、教えてもらった。「これはただのお話だ。けれども君のそのつややかで美しい巻き毛、溶けるような青い瞳、甘くうるわしい唇は、現実なのだ……」そのひとはいまどうしているだろう。中世史が専門の、大学教授だったが。わたしの周囲には、いつも芸術家と知識人ばかりだった。わたしは同年代の男の子たちと遊ぶより、大人の中にまじってちやほやされているのが好きだった。わたしはきわめて享楽的で、退廃的な雰囲気の中で育ったが、自尊心を媚態とすり替える愚だけは、なぜだか犯さずにすんだ。父はそれをわたしの気高い理性であると云った。そうかもしれない。でも父は、わたしを美化しすぎていた。彼の中で、わたしは完全だったのだ。美しさも知性も。
 日が暮れるまで、歩き回りながらとりとめもないことを考え、スケッチし、本を読んで過ごした。夕暮れの中をしずしずと迎えにやって来る純白のクルーザーもよかった。わたしは満ち足りて、ボロボロンテさんの腕の中に帰還した。
「すてきな午後でした、ボロボロンテさん」
 わたしは云った。わたしの興奮と陶酔とは、彼にも伝わったらしかった。彼の体温が少し上がった。
「あなたの愛は、偉大です。この地中海の海みたいに、澄み渡って、広大だ」
 ボロボロンテさんはうっとりと微笑んだ。

 

 クルーザーの処女航海成功を祝うパーティーが、ボロボロンテさんの別荘で開かれた。彼がいつも従えている美女たちが着飾ってお愛想をふりまき、得体の知れない男や女が出入りする。天下のジャン・マリア・ボロボロンテが夢中な男、ドリアン・レッド・グローリア伯爵は、パーティーのあいだ、動物園の珍獣を演じる。皆わたしに興味を持つ。わたしは客としての義務で、愛想よく応じる。こういうつきあいもときどき大切だ。何年も前からわたしにべた惚れの、チェコ出身のミーチェクという美青年の殺し屋が来ていて、酔いに乗じてわたしにうっとりした視線を向け、ありとあらゆる愛のことばをばらまいた。彼はとても魅力的だ。すらりとした長身、肩のあたりで切りそろえられた金髪、精悍な引き締まった顔つき、そして熱を帯びた、情熱的なぎらついた、危険な濃いブルーの瞳。ああ、その熱に一緒に身を任せることができたなら! でも、わたしの心はもういかなる熱っぽい愛のことばにも感応しない。わたしにはもう、愛のことばはいらない。必要なのは、あのきつい眼差しだけ。それからあの、ひとを皮肉ったような微笑だけ。わたしの一途さは、この浮気症で気の短い現代において、まさしく勲章ものだ。女王陛下に授けていただかなくては。
 宴のあとはいつもどことなく寂しい。そして儚い。客の去ったフロアで、わたしはようやく珍獣の役目から解放され、ため息をついた。ボロボロンテさんの美女たちも部屋に引き上げていた。ボロボロンテさんは、ソファにぐったりともたれかかるわたしに同情をこめた視線をくれ、ブランデーの瓶とグラスを持ってきて、わたしの隣に腰を下ろした。わたしは彼から受け取ったブランデーを、ひと息に飲み干した。
「……NATOの大将は元気なのかい」
 ボロボロンテさんは苦笑して、わたしに二杯目をついでくれた。わたしはそれを受け取るついでに、彼にもたれかかった。腕に頬を摺り寄せ、目を閉じた。子猫が母猫にそうするみたいに。ボロボロンテさん愛用の葉巻の香りがした。
「元気ですよ。たぶん。このあいだは元気でした」
「あんまりあの硬派な男をいじめちゃいけねえぜ」
 ボロボロンテさんは微笑しながら、グラスに入ったブランデーをゆっくり回し、香りを楽しんでいる。
「いじめる? いじめられているのはわたしです」
 わたしはわざと唇をとがらせた。
「あの唐変木の朴念仁!」
 ボロボロンテさんは声を上げて笑った。彼の笑いは陽気で、そして深い。
「なあ、伯爵」
 彼のサングラスの奥の、意外にやさしげな目が、わたしの目とぶつかった。
「わかってるだろうが、あの大将はおれやあんたとは違うのさ。おれたちは、オープンだ。よく云えば、自分に対して素直だ。悪く云えば、多少つつしみがない」
 わたしはボロボロンテさんの肩に手を乗せ、その上に顎を乗せて、彼に顔を向けた。
「おれはそのほうが人生楽しいと思うが、ああいうカタギの……いや、ありゃあもうカタギとは云わねえな。だがおれたちよりゃあ社会的に認められた仕事だぜ。治安を守る側だからな。それにもとを正せば軍人だろ。親も軍人なんだったか? 保守的もいいとこじゃねえか。そういう社会的感性がまともな男ってのは、あんたが想像するよりずっと、繊細で不器用なのさ。どんな手慣れたように見える男でも。おれにゃあわかるぜ。腹の中では、誰よりも想ってるし、考えてもいる。でも、それを出せねえんだな。素直には。出しようがねえんだ。プライドやら体裁やら羞恥心やらってのが、出しゃばってきちまってよ。男ってのは、そういう生き物だ。本来な。シャイで不器用でもどかしい。そのプライド面白半分にへし折ってやろうなんて真似はしなさんな。そりゃあ、死だ。男にとっては、死よりもつらい」
 静かな、少し重たい空気があたりを満たした。わたしはその重たさの中に、ボロボロンテさんやクラウスのもつ重さを、彼らが味わってきたものの重みを、そしてその内面を、感じ取れるような気がしていた。そしてわたしはそういうものを愛するのだ。人間的な、あくまで人間的な、葛藤や情念、栄光と挫折、美と醜、その精神、画家たちが、なんとかしてキャンバスに描こうとしたもの。美とは、人間ととなりあわせだ。その息吹と。その生命がもたらす匂いと。そしてその弱さと。わたしはそこに、どうしようもなく溺れる。
「ボロボロンテさん」
 わたしは感じ入って、彼の首に腕を回した。
「あなたは、愛の伝導師なんですね」
「ばか云っちゃいけねえ」
 ボロボロンテさんはまた豪快に笑った。
「おれは、あんたの幸福を願って云ってるんだぜ、おれの太陽よ」
「わかってます」
 わたしは彼の頬に口づけた。
「命あるかぎり、幸福でいますよ、わたしは」
 ボロボロンテさんは微笑し、ブランデーを飲んだ。

 

流出するポルノ
 
「ハロー! わたしにとってはまだモーニングだけど。どうしたんだい、ボーナム君。この時間、わたしがまだ夢の中なのは知ってるはずなのに……ああ、うん、わたしはとても楽しくやっているよ。心配いらないよ……エルンスト? 彼が電話をよこした? わたしあてに? なんだろう? 描き足りなかったのかな? あれだけいろいろ見せたのに、わたしが魅力的だから……ああ、もう、わかったよ、おしゃべりやめるよ。君まで少佐みたいなこと云わないでくれないか。これから少佐って呼ぶよ。いやだろう? わかった、彼に電話するよ」
 大柄でひとのいい、南米出身という使用人が持ってきてくれた電話で、わたしは幸福な朝の眠りをさまたげられてしまった。ボロボロンテさんのところに滞在して三日目の朝だった。
 コードレスの電話を見つめながら、わたしはふと、電源を切りっぱなしにしていた愛の電話のことを思い出した。わたしの島に夢中になっていてすっかり忘れていた……わたしの悪癖。ひとつのことに熱中すると、ほかを忘れてしまう。たとえ愛しいエーベルバッハ少佐でも。愛がないわけじゃないのに、それをケーキかなにかみたいに切り分けて与えるということができない。昔からずっと。わたしはその瞬間に、わたしのすべての愛をその対象に注ぎたい。それがわたしの誠意だ。でも今回は、クラウスをかれこれ一週間放っておいたことになる。唐変木少佐は、何度電話してきただろう? 彼はまだ忙しくしているだろうか? エルンストとの電話が片づいたら、ハロー、くらい云ってやろう。
 エルンストが連絡してきたのはたったいまらしい。わたしは彼のアトリエに電話をかけた。彼はすぐに出た。
「ああ! 伯爵! 伯爵!」
 彼の声は悲痛な様相を帯びていて、鋭く悲観的な響きがあった。
「ハイ、エルンスト。どうしたの? なにかあったのかい?」
 エルンストは、どうやら泣いているようだった。必死に訴えようとしている声の中に、ときおり嗚咽が混じっている。
「絵が、あなたの絵が……」
「絵? わたしの? どの絵のこと? 君とわたしのロマンポルノ? それとも……」
 わたしはわざとからかうように云った。エルンストはとうとう本格的に泣き出した。
「あなたの絵を取り上げられてしまったんです! ヒラーさんに……」
「え? どういうこと?」
 泣きじゃくるエルンストをなだめすかしながら聞き出したところによると、今朝早くヒラー氏がアトリエにやって来て、彼の創作の具合を確かめたいと云ったらしい。彼はときどきそいうことをするそうだ……出資者の義務として。エルンストは当然、わたしのあれこれは秘匿して、当たり障りのない(とは失礼だから云えないけれど)風景画を差し出した。でもヒラー氏は、わたしを描いたものはないのか、なんのためにここへ彼を泊めたのだ、と訊ねたそうだ。押しに弱いエルンストは運が悪かった。そのとき、わたしのあの「情事の朝」の絵は彼のアトリエにちょっと布をかけただけの状態で置かれていたのだ。わたしのいかがわしき微笑は、ヒラー氏に見つけられてしまった。彼はそれを気に入り(そんなばかな!)、これを買いあげたい、と云ったらしい。
「ぼくは抵抗しました、もちろん」
 エルンストの声は、かわいそうに震えていた。
「あの絵は、プライベートで描いたものです。あれはあなたのものです。ぼくとあなたのものです。ああ、でも、あのヒラーさん相手に押し切れるひとなんていませんよ。ほんとうに怖かったんだ、ごめんなさい伯爵、ごめんなさい……」
「いいんだよ、エルンスト」
 ヒラー氏の無粋な行動には腹立たしいものを感じたけれど、わたしはエルンストにまで怒るほど心の狭い人間じゃない。
「あの男、そっちの口だったのかな? わたしにひと目ぼれしていたと思う? でも、君の絵は取り返してあげるよ。君の云うとおり、あれは君とわたしの絵だからね。ごくごくプライベートな。あつかましい男だね、あのヒラーってやつは。彼があれをどうこうする前に、彼に連絡して、買い上げるなりなんなり、手を打たないと。ねえ本当に、気にしないでいいんだよ、必ず取り返すからね」
 エルンストをなだめて電話を切り、時計を見た。午前十時すぎ。いま電話をしても、ヒラーはまだ家についてもいないだろう。彼に電話をするのはもう少しあとにしようか。それにしたって、どうしてあの男が、わたしのポルノまがいの絵を気に入ったんだろう? なにかが引っかかる。アトリエにするには贅沢すぎるアトリエと、いささか気前のよすぎる金払い、わたしがエルンストを気に入ったときの喜びよう。この違和感はなんだろう? エルンストとのいかがわしくて楽しい時間にすっかり気を取られて鈍っていた猜疑心が戻ってきたみたいだ。ほんとうに、わたしの悪癖。ほかのなにも見えなくなるくらい、芸術の持つ神秘的で退廃的で官能的な側面に、一途に陶酔してしまう。それを崇拝しているから。「君はよくそんな性癖で泥棒なんかやっているね」といろんなひとが云う。わたしもそう思う。でも、幸いなことに生命の危機に瀕したことはこれまでに一度もないのだ。変な話だけれど。
 考えごとをしていると、ドアがノックされた。
「よう、伯爵。おねぼうなおれの天使よ、部下から電話が来たって? 緊急かい?」
 ボロボロンテさんが葉巻をふかしながら入ってきて、ベッドの上のわたしをまじまじと見つめ、今日もきれいだぜ、と云った。わたしは寝るときは裸という主義をつらぬいているから、いまは正真正銘の裸なわけだけれど、別にいい。接待してくれている彼に、サービスだ。
「大変です、ボロボロンテさん」
 わたしは笑いながら云った。
「わたしのポルノが流出しました。ドイツに取り返しに行かなくちゃなりません」
 ボロボロンテさんは表情を固くした。そしてそれだけでひとを殺せそうな押し殺した威圧的な声で、「なんだって?」と云った。わたしはまた笑って、ベッドから抜け出し、ボロボロンテさんに絡みついた。
「ああ、いいんです、あなたが怒らないでください、ボロボロンテさん。今日のスーツもすてきですね。あなたは白が似合います。深い魅力のあるあなたに、あえて純白。すてきだな。服を着たら、朝食を食べてもいいですか? ねぼすけのわたしのために、とっておいてくれているでしょう? 食べながらお話ししましょう」
 服を着て、食堂で朝食をとりながら、わたしはボロボロンテさんにエルンストからの電話の一部始終を説明した。黙って聞いていたボロボロンテさんは、わたしの説明が終わると深い溜息をついた。
「……まあ、しょうがねえな、あんたをどうしても描きたいって画家と、それがどうしても欲しいってやつは、わんさかいるだろうぜ」
 デザートの甘いオレンジにしゃぶりつきはじめたわたしを、ボロボロンテさんはほんの少し好色な、楽しそうな目で見つめている。
「でも、わたしが自分を描くことを許した画家って、これで三人目なんです」
 わたしは唇の端を伝っていくオレンジの果汁を舌で丁寧に舐めとった。
「ひとりには肖像画を描いてもらいました。成人した記念に。父の指名で……当時、父の恋人でした。彼も肖像画を描くかたわら、いかがわしいわたしを量産してましたっけ。二人目は、いまから四年くらい前だったかな。スペインに行ったときに知り合って、ちょっとだけ深い仲になって、バルセロナにある彼のアトリエに、なんだかんだで三ヶ月もいましたよ。画家の知り合いはたくさんいるけど、誰にでもモデルとして自分を差し出すわけじゃないし、描いてもらった絵は、ほとんどわたしが持っているか、相手が個人的に所有していて、表には出回ってないんです。だいたい、出回ったらまずいじゃありませんか。わたしですよ?」
 ボロボロンテさんは笑った。
「でも、なんだか引っかかるんですよね」
 ボロボロンテさんといると、わたしの饒舌はますます止まらなくなる。気を許したひとの前では、わたしはいつでも饒舌だ。自分を装う必要がないし、隠す必要もないからだ。
「わたしは自分の魅力が通じる相手とそうじゃない相手をひと目で見抜けるけど、あのヒラーって男はその口じゃなかったんですよ。間違いなく。外したことなんかないんだから確実です。まあ少佐っていう例外があったけど、彼はちょっと特別だから……それとも、誰かそういう絵を欲しがっている好色なお得意さんでもいて、そのひとに高額で売りつける気なのかな……それか」
 わたしの頭の中で、ふいになにかがちらりとひらいめいた。
「もしかして、売りつけるのはわたし?」
 ボロボロンテさんはサングラスの奥の、信じられないくらいつぶらでかわいらしい目をしばたかせた。
「……なあ、伯爵」
 ボロボロンテさんがふいに優しい声を出した。
「あんた、相手の素性をいままでなにも確かめずにいたのかい」
「ええ、だって、別に問題はなかったから。一応、ヒラーの購入と売却の履歴くらいは当たったけど、問題なさそうだったし。相手の商売道具が盗品だって、別にいいんですよ、贋作でさえなければ。蛇の道は蛇とか、云うでしょう? そういうのはお互いさま。ココシュカが手に入ったんですよ? わたしはそれでもう十分満足だったんです。それにエルンストは一途でかわいいし。わたしは自分の気に合うものがあれば、あるいは楽しめれば、たいていのことはなんでも許してしまうし、目をつぶってしまうんです。疑うことだってやめてしまいます」
「あきれた泥棒だねえ、あんたは」
 ボロボロンテさんは豪快に笑った。
「インターポールの罠なんかだったらどうするつもりだったんだ」
「ああ、それなら大丈夫ですよ」
 わたしはにっこり笑った。
「インターポールは、わたしを追いかけてはいるけど、つかまえてはいけないんです」
 ボロボロンテさんは口笛を吹いた。
「驚いたね。どんな手使ったんだ」
「内緒です……あ、そうか、でも考えてなかったけど、少佐のせいで、ロシアのこわーい熊男あたりに目をつけられてるんだった。そういう連中が、わたしのことを片づけようとしてる可能性ってありますよね? そうかあ、もうちょっと気をつけよう」
 ボロボロンテさんは窓がびりびりするほど大声で笑った。
「あんたにゃかなわねえな、伯爵」
 彼は心底愉快そうに短くなった葉巻を灰皿へ押しつけた。
「それでこれまで五体満足にきてるんだからな。きっと神さまがたいそう大事に守ってくださってるんだろうぜ」
「たぶんね。毎晩寝る前にお祈りして、感謝しています」
 わたしはオレンジを食べ終え、指先を舐めた。
「だけど、あんたがさっき云ったように、自分自身に自分のポルノなんか売りつけられちゃたまらねえぜ」
 ボロボロンテさんはわたしがテーブルに放り投げたナプキンを手に取り、きれいに畳んだ。
「ほんとですよね。わたしはナルシストじゃないし。よく誤解されるけど、自分の美しさに正当な評価を与えて、認めてるだけであって……そうだ、いまヒラーの家に電話してやろうかな? エルンストは動揺して伯爵さまに電話、伯爵さまは怒り心頭で、ヒラー氏に電話。美しい伯爵さまは怒っています! ヒラーさんが帰ったら、すぐに伝えなさい! ああ、このほうが真実味がある。電話お借りしていいですか?」
 すぐに彼の事務所にかけたが、誰も出なかった。わたしは留守電にメッセージを残しておいた……エルンストからたったいま電話があった、どういうことだ、話をしたい……わたしが電話で精一杯怒り心頭の演技をしているあいだ、ボロボロンテさんはゆったり葉巻をふかしながら、笑いをこらえていた。
「アカデミー賞ものだったぜ、伯爵。ドイツ野郎はどう出てくるだろうな?」
 わたしが受話器を置くと、ボロボロンテさんが云った。
「どうでしょうね? ドイツ人はさっぱりわかりません。わたしが云うんだから間違いないですよ、実体験があるんだから。でも今日は、あの愛しい島へ行かないでおとなしくしていたほうがいいかな? わたしの携帯へかけてくると思うけど、あの島、当然だけど圏外だし。ねえ、ボロボロンテさん、なにかちょっぴり刺激的なことってありませんか? 手近で。ちょっとそういうのにひたりたい気分なんですけど」
 ボロボロンテさんは少し考えこむ顔をした。
「しびれるほど刺激的なやつはあいにくなにもねえが、チェコのミーチェクがまだ街のホテルにいるはずだぜ。誰の依頼か知らねえが、取引のためにじっと待機してるらしいからな。予定が延びたんだとさ。とっとと殺っちまいてえとこ、退屈してるらしいぜ。からかってやるのも悪くねえかもな」
「そこそこな刺激ですね。たまには彼とデートでもしてあげようかな。あのぎらついた目、ちょっとアブノーマルな熱ってたまらない。ごちそうさま。そして着替えて出かけます」
「電話を入れてやった方がいいぜ。おれがかけてやろうか?」
「じゃあ、それからわたしに回してくれますか? 服の好みくらい訊いておかないと」
 ボロボロンテさんが、さっそく手下から電話を受け取り、ボタンを押しながら、わたしの送迎と護衛を別の手下に云いつけはじめた。彼ってとても過保護だと思う。父性豊かとも云えるかもしれない。それがわたしにたっぷりと注がれているわけだけれど……そして実はわたしはちょっと、マイホームパパのような中年以降の男性にも、弱かったりする。うんとかわいがってくれるから。

 

よみがえるチャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン
 
 ホテルの前で車を降り、ロビーへ入っていくと、すぐに長身金髪のミーチェクの姿が目に入った。彼はわたしを見ると涙を流さんばかりに喜び、わたしの手にうやうやしく口づけを与えてくれ(まったくこの態度をお手本として誰かに見せてやりたい)、少し休むか、それともすぐにどこかへ出かけるか、今日はどんな気分か、活動的かそれとも内省的か? 食事はどうするか? なにかして欲しいことはないか? そういうことを、うるんだ目に力をこめて、訊いてきた。
「今日はほんとうに幸せな日です、伯爵」
 ミーチェクは落ち着いた小さめな声で、感動的な調子で云った。みごとな英語で。仕事の都合で猛特訓したそうだ。たぶん、マイ・フェア・レディ並みにがんばったのだろう。
「あなたがぼくのために時間をさいてくださるとは夢にも思いませんでした」
 彼はわたしの「刺激的で活動的な気分」を尊重し、港町の雑踏の中へわたしを誘いながら、うっとりした声で云った。
「あなたはぼくよりももっとすばらしく、華やかな交友関係をいくつもお持ちだからです……いえいえ、否定なさらなくてけっこうです。わかっていますから。ぼくは薄暗い社会の人間だし……あなた? あなたもある一面ではそうですが、でもあなたは違います、あなたは輝くようにできているんです。華々しい光を浴びて……」
 ミーチェクって、ずっとこの調子だ。わたしに海とはどんな感じがするものか、その心地よさをわからせるために、プールを波立たせ続けてくれるみたいな感じだ。わたしは彼が立てる波の上を、ずっと気持ちよく泳いでいく。少し官能的な気持ちで。わたしをそういうふうに扱ってくれる男はたくさんいるが、ミーチェクはそれが下品でなくいやらしくもなく、適度な敬意と潔癖さを保っている。それがとても好ましい。
 わたしたちは港を海岸沿いに散歩しながら、出たり入ったりするクルーザーやボート、遠くに見える船を眺め、地中海のうるわしい景色について語り、それから、ミーチェクの故郷とその美術について語り合った。わたしは見目うるわしい青年を伴っての逍遙に、すっかり満足していた。
「なにかお困りのことはありませんか、伯爵」
 歩くのに少し疲れてカフェのオープンテラス席に腰を下ろし、通りを歩いてゆくひとをぼんやり眺めているとき……こういうときにこそ、わたしは外国へ来たのを強く感じる。観光名所にいるときではなくて。なぜなら、街並みや道を行くひとたちの雰囲気、そして雑踏の空気は、まぎれもなくわたしの皮膚になじみのないもの、なにかひりひりする感覚を、心を揺り動かすような感覚をもたらすものだからだ……ミーチェクは相変わらず甘くささやきかけるような声で云った。
「ぼくでお役に立てることでしたら、なんでもします。なにか狙っているものはありませんか? あなたの心をときめかせるものが? それか、あなたをひどい目にあわせたやつは? 片づけたい人間はいませんか?」
 わたしは苦笑して、ミーチェクの唇に指を押しつけて閉じさせた。
「まったく、君は変なところで実用一点主義になるね。わたしは君との時間を楽しんでいるんだよ。そういう話は、あるならとっくにしているよ。こんなふうに、デートまがいのことをして機嫌をとるようなことをしないでね」
「ああ、どうか怒らないでください、伯爵」
 ミーチェクは懇願するような、泣き出しそうな顔になった。
「そういうつもりではありませんでした。ただ、いまこの瞬間わたしがあなたといることに、確信が持てなくて理由を探してしまうものですから」
 わたしは微笑した。
「もうすこし、自分に自信を持つべきだよ。君はとても魅力的なんだから」
「これがあなたでなければ、堂々としていますよ」
 ミーチェクは目を見開いておどけた。
「あなたは特別です。すべてのものが、あなたの前ではかすんで見えます」
 わたしは笑いだした。
「じゃあ、君の不安を解消して、くつろげるようにしてあげようか。話すつもりのなかったことだけど……実はね」
 わたしは流出したポルノの問題を持ち出した。ミーチェクの夢見がちな顔が、みるみるうちに赤く染まった。
「ああ、ああ! あなたの絵が? なんてことだろう! どうなさるおつもりですか? ぼくが、そいつを始末しましょうか?」
「まだいいよ、なにもわからないんだから」
 わたしは怒りで顔を赤くしている彼に微笑みかけた。ミーチェクは大きく息を吐いて、怒りを鎮めようと努力した。
「待ってください」
 それからミーチェクは突然、制止するときのようにわたしの前に手のひらをもってきた。そうして愉快そうに笑った。
「きっとお役に立てます。調べてみます……なんという名前の画商ですか? ヒラー? ベルリンですね?」
 彼は携帯端末を取り出して、なにやら入力しはじめた。
「これは特別なデータベースです。伯爵の頼みでも、お教えすることはできません……」
「へえ、ほんとう? 君にキスしても?」
 ミーチェクは赤くなった。
「そういうからかいはいけません」
 わたしは声を上げて笑った。
「……ああ! 伯爵、これです。出てきました……くそっ、あ、失礼、いけないことばでした。でも暴言を吐きたくなる男です。なにをしている男だと思いますか?」
 わたしは左右に首を傾けた。
「まさか極悪の一級品のプロ犯罪者じゃないだろうね? 悪そうな顔つきだったけど、そこまでの男には見えなかった」
「ええ、そうです。都市部にいるチンケな犯罪者のひとりです。裏社会にマークされるような人間ではありません。あなたの足下にも及ばない男です」
「そう、よかった! 大物と格闘しなきゃならないとなったら、ことだったよ……じゃあね、わたしの予想は当たるよ。彼は、チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンなんだ」
 ミーチェクはきょとんとした顔をした。
「すみません、それはどなたですか?」
 わたしは笑いだしてしまった。
「初歩だよ、ワトスン君……ごめんごめん、でも君、たまには娯楽的な作品も読むべきだよ。まじめな君はとってもすてきだけど」
 ミーチェクはますますきょとんとした顔をした。

 

「ヒラー美術商会。現ヒラー氏は三代目ですが、経営状態は良好。ドイツの富裕層を数多く顧客にもっています」
 わたしたちはすぐに、たぶん内心とても心配しているに違いないボロボロンテさんのところへ戻って、彼にも話を聞いてもらうことにした。わたしたちはとても秘密めいたボロボロンテさんの書斎に集まり、情報を読み上げるミーチェクの静かで落ちついた声に耳を傾けた。
「しかし彼の羽振りがいいのは、商売がうまく行っているためではありませんね。彼の銀行口座には、不定期に複数の人物から、かなりの金額の振りこみがあります。皆社会的地位のある人間、金持ち、貴族などですね……あなたのように、伯爵」
 ミーチェクはわたしに微笑を向けて、また話を続けた。
「彼の犯罪はこういうものです。近づきになった客の中から、醜聞を過度に気にする必要がある社会的地位の高い、そこそこ見目のよい、それでいて少々軽薄な……あなたはここには含まれません、伯爵。そんなことはまったく想像もできないことです……人間を選び、肖像画を描かないかというようなことを云うかなにかして、自分がパトロンを勤めている、若くて美しい、情熱的な画家を紹介します。ありがちなことですが、モデルと画家という関係においては、それがより深い中に発展することがままあります。芸術全般の、宿命的な弱点ですね。美の周囲に漂う官能の空気に流されないのは用意なことではありません。そうなったら、あとは簡単です。なんでも脅しの材料になります。画家に卑猥な絵の一枚も描かせたら、いい値段で買い取ってくれるでしょう」
「ありそうなことだなあ。現に、エルンストの机の引き出しもわたしのポルノでいっぱいだからね」
 ミーチェクはなんとも云えない微妙な笑みを浮かべた。
「あまりおいたをなさってはいけません、伯爵」
「だって、しょうがないよ。エロティシズムに対する画家の想像力やインスピレーションやなんかを、止めることはできないんだから」
 ミーチェクは肩をすくめた。
「だけど、ちょっと心外だなあ。わたしは確かにイギリス上流階級の伯爵さまだけど、わたしを、それにエルンストの絵をそういう無粋な目的のために利用しようとするなんて、お門違いもいいところだ。わたしって、そんなに簡単に利用できそうな罪のないお坊ちゃんに見える?」
「見えますとも」
「見えるね」
 ミーチェクとボロボロンテさんは声をそろえて力強く云った。
「あなたは無原罪のマリアのように美しく清らかです、伯爵」
「ああ、ミーチェクは敬虔なカトリックだったね、忘れていたよ」
 彼は殺し屋のくせに、とても信心深いのだ。聖書をほとんど諳んじているし、仕事の前には必ずお祈りをするらしい。
「あんたはもとが貴族だからな。楽天的な性格だし、鷹揚でおぼこく見えるのさ」
「ぶりっこしてる、とも云えますよ」
 わたしはボロボロンテさんに向かってにっこり微笑んだ。ボロボロンテさんは笑い飛ばした。
「だけど、画家もぐるなのかい? 違うだろうね。あのでか鼻のヒラーなんかどうだっていいけど、エルンストはそんな子じゃない」
「画家にも二通りあるようですね。いつの間にか味をしめて、ヒラーと共謀している者、それから、まだなにも知らない無垢な画家。あなたを描いた……ぼくはその画家の頭をぶちぬいてやりたいところですが……エルンストという男は、ヒラーの庇護下に入ってまだ日が浅いんでしたね?」
「そう。はじめて会ったときは、ヒラーのやつは数カ月前に見つけたばかりの金の卵だと云ってたからね。たぶん、わたしが彼のはじめてのお客だったんだろうね……ああ、かわいそうなエルンスト!」
「おいおい、伯爵、あんたも十分かわいそうなんだぜ、忘れちゃいけねえ」
「ああ、そうでしたっけ……でも、踏みにじられたエルンストの繊細な心を思うと……あ、電話だ」
 わたしの携帯が振動しはじめた。
「ナイスタイミング! うわさのヒラーからだ。これから怒り狂い、羞恥に我を忘れるグローリア伯爵の熱演が見られますからね。一同注目!」
 わたしはふたりにウィンクし、電話に出た。
「もしもし? ヒラーさん? わたしから電話があったことは聞いておられますか? 聞いている? それなら云わせてもらいますが、あのですねえ、困るんですよ! あの絵があなたの手に渡ったら! だいたいあなたには関係のないことじゃありませんか! 返していただけませんか? あれは、その……わたしとエルンストの個人的な楽しみのために作られたものなんですよ! おわかりでしょう?」
 ヒラーは電話口で陰険な笑い声を立てた。
「いやいや、伯爵。なかなか素敵に描かれていると思いますよ。わたしもこれが気に入ってしまいましてね。愛のある作品だ。あなたへの。違いますか? それにとても官能的だ……ローランサンなら、なんてアムールなの! と叫んだでしょうよ、ルノワールのサマリー夫人を見たときみたいにね。どうでしょうか、これを野放しにしておくのはちょっと危険が大きすぎるような気がしましてね、わたしは善意で彼から買い上げたのですが……下手に売られたりしたらあなたの立場上よろしくないでしょう。違いますか?」
 ああ、なんて陳腐な恐喝のせりふなんだろう。それにひどくうろたえたふりをしているわたしもとても陳腐な芝居をしているけれど。わたしはほとんど半泣きの声を出して、それは困ります、お願いです、返してくださいよ、とまくしたてた。ヒラーはそれに気をよくし、猫なで声を出して取引にかかってきた。まあまあ、そう泣きそうな声をお出しにならなくてもいいじゃありませんか、ほんのちょっとしたことでいいんですよ、そうしたらわたしはこれをあなたにお返ししますからね……返すわけねーだろうが、ばかもの、とエーベルバッハ少佐なら云うだろう……ああ、少佐、わたしのクラウス、君への電話をすっかり忘れていた……あとでしなくては! でもこの件が、片づいたら。こんなことがばれたら、たいへんな不名誉だ……わたしは猫なで声のヒラーに、絵を返していただけるならなんでもします、と云った。ヒラーのにやついた顔が見えるようだ。いまいましい恐喝屋め。
 ヒラーは、わたしに五万ポンドの振りこみを命じてきた。振りこみ方法はあとで連絡する、振りこみが確認されたら、絵は間違いなく返却する、と云う。受け取り方法などはまた後日改めてご連絡いたしますから……あやしいなあ!
「それは返す前に複製を作る口でしょうか」
 電話が終わると、ミーチェクが考え深げな顔つきで云った。
「まあ、どっちみちそのネタで何度も脅してくるだろうよ。ばらしてもいいのか? ってな具合にな。おい、ミーチェク、おまえちょっとドイツまで行って、そいつ片づけて来いよ。ここへ連れて来てもいいぜ。そしたら、手下どもと一緒にかわいがってやれる。費用は払うぜ」
「ほんとうですか? それは正式な依頼ですね?」
「待った、待った、ふたりで話を進めないでよ」
 わたしはあわてて割って入った。
「まあ、たまにはたまにはか弱い、哀れで非力な上流階級男子を演じるのもいいけど。でもボロボロンテさんの手でハチの巣にしてもらうにしても、ミーチェクに整理整頓してもらうにしても、それには罪が軽すぎる気がする……ああ、わかってますよ、反論は認めます。確かに卑劣です。画家を利用するなんて言語道断だし……でも、ここはやっぱり自分で解決させてください。というわけで、せっかくボロボロンテさんに招待していただいたのに悪いけど、ドイツへマイポルノを取り返しに行きます。ドイツって、どうしてわたしをこうかき乱すんだろう。呪いかな? わたしの祖先が、ゲルマン民族を虐殺でもしたんだろうか?」
 ボロボロンテさんが大笑いしはじめた。
「あんたにゃあかなわねえよ、伯爵。他人にぜったいに怒りを見せねえんだな、あんたは。優雅な男だ。やっぱり、おれのミューズだぜ。靴底まで舐めてもいいと思う唯一の男だ。手下どもに、航空券と宿を手配させる。空港まで送るよ。ほかにもおれにできることがあったら云ってくれ」
「わたしだってもっとお役に立てますよ」
 ミーチェクがむくれたように云った。
「君はもう十分役に立ってくれたよ」
 わたしはにっこり微笑んだ。
「ふたりとも、ありがとう」

 

 ミーチェクは帰っていった。ボロボロンテさんがベルリン行きの最終便をとってくれたので、わたしは出かけるため風呂にはいることにした。どこかへ出かける前には、なんといっても身体をきれいにしないと。わたしはバスルームからボーナム君に電話をして、ことの次第を伝えた。ボーナム君は電話の向こうで青くなったらしかった……空気が青ざめたから。
「ああ、もう、あなたってひとは、どうしてそう変なところで軽率なんですか! いまお風呂に入っているでしょう? のんびり入ってる場合ですか? どうしてあなたはそう、危機意識というか、緊張感というか切迫感というか、そういうものが欠落してるんでしょう」
「ごめんごめん。わかったよ、次からはちゃんと気をつけるったら……だって、お風呂に入らないわけにいかないじゃないか。辱めを受けていても、されど日々は続くんだよ。それとわたしのポルノまがいを取り返すってこととは、立派に両立するよ。取り返すというか、盗むというかね。いまドイツにいるのは誰だっけ? ああ、そうか、じゃあ連絡して、ヒラーの周囲を探らせてくれない? 絵がどこにあるかわかったら連絡してほしい。わたし? これからドイツに行くよ。ボロボロンテさんが、航空券を手配してくれた。ホテルの名前と住所云おうか……」
 役に立つ部下っていいものだ。ボーナム君はさっそくきびきび動いてくれるだろう。わたしがドイツに着いて、ゆっくりベッドでひと休みしているあいだに、たぶん絵の場所が割れているだろう。わたしはジャスミンとイランイランの香りのする風呂にゆっくり浸かって、とびきり丁寧に身支度し、おしゃれした。人生には、儀式的なものが必要になることがある。たとえば、いやなことがあったらそれを紙に書いて燃やしてしまうとか、緊張で倒れそうになったときに心の中でとなえる呪文とか、夜、寝る前にろうそくに火をともすこととか。そういうものが、か弱きわれわれの精神を、想像以上に深いところで支えている。わたしの場合、仕事に向かうときにはじっくり時間をかけて自分を整える。髪の毛にくしを入れるとき、着る服を選び、袖を通すとき、身につけるアクセサリーを選ぶとき、そのひとつひとつの動作が準備であり、自分をより高めるための方法なのだ。セックスの前戯と同じ。それがなければ興奮も感動もない。あるいはたとえば、たぶん、デート前の女性の身支度と同じ。
 すっかりきれいになったわたしはボロボロンテさんの手下が運転するイタリア車で優しく空港へ運ばれた。ボロボロンテさんもついてきてくれた。
「幸運を祈るぜ、伯爵」
 ボロボロンテさんは、ドアを開けて出ていこうとするわたしに云った。
「ほんとなら、おれがぶっ殺してやりてえとこだ。でも、高潔なあんたのことだ。おれは陰ながら見守ってるぜ。あとで連絡をくれよな。来てくれてありがとうよ……それから」
 ボロボロンテさんは小さく咳払いをした。
「よけいなこと云っちまうが、あんまり気にしねえことだぜ。あんたは無垢なんだ。それは、こんなことじゃ損なわれやしねえんだ。あんたのその、心の純粋さは……あんたはほんとにきれいだぜ……」
 彼はちょっと頬を赤らめ、また咳払いをした。
「……ありがとう、パパ・ジャン」
 わたしは心をこめて云い、車から出かけていた身体を戻して、彼の首に抱きつき、両頬にキスした。

 

人生におけるスパイス
 
 電話はここ一週間ずっと、電源が入っていないか、電波の届かないところにあるらしい。 
「まーだ怒っとるのか、あいつは」
 ようやく激務から解放され、休暇をもぎとって帰宅した少佐は、電話を見つめて頭をかいた。
 とはいえまだ一週間程度だ。最長で、確か二十日近く不通だったことがある。そのときは、伯爵が電源を入れるのを忘れたままタクラマカン砂漠だかどこだかへ行ってしまい、電波が届かなかったという、そういうおちだった。伯爵は、夢中になるとそれ以外なにも見えなくなる。彼の感性にひっかかるなにかにぶち当たったら最後、たとえイギリスの女王陛下だろうと、彼を止めることはできない。もちろん、エーベルバッハ少佐なんてものは、裸足で逃げ出すしかない。たぶん、今回もそんなようなことだろう。タイミングも悪かった。伯爵がドイツでうら若き画家とひとつ屋根の下にいたとき(……ああ)、少佐は激務の真っ最中であり、それが片づいたと思ったら、今度は向こうで向こうの用事がはじまる。そんなものだ。
 そういうことに対して、別にどうこう云いたいわけではない。気ままな彼が、少佐は好きだ。思いつきのままに動ける彼を見ているのが好きだ。その衝動と歓喜の中へ、巻きこまれてゆくこと。そのとき、この硬直し楽しみやよろこびを忘れ去ったかに思われる身体にも、なにかひどくざわついたものがやって来る。それが心地よいのだ。それにどれだけ軽薄で脈絡のない行動をとっているように見えても、伯爵は芯のところでは真面目だし、ちゃんと考えている。あんなにちゃらちゃらした見た目のくせに、それを大幅に裏切っている。だから、たとえ世界中に彼に惚れぬいている男がごまんといたとしても、そして伯爵がその連中にどんなに愛想をふりまいて歩いているとしても、野放しにしていて問題はない。彼は自由な人間だが、戻ると決めた場所には必ず戻る誠意は持ち合わせている。そしてそれだけで十分と見なさなければならないだろう。伯爵のように放縦で、縛られないタイプの人間相手には。この場合には、信頼は少佐自身のなにがしかの美点や特性にあるのではなく、伯爵の、あの手の耽溺型の性癖を持った男にしてはいささか不釣り合いに純粋な、ほんとうに透徹した誠意の中にある。少佐はそれを信頼する。そして、その信頼がある日突然反故にされても別にかまわない。信頼とは、相手が決めごとを守ると信じることではない。守られなくても別にかまわない、と思えることだ。ある日突然、彼がこの手の中から消え去る。やってきたときと同じように、唐突に。だが、それでもかまわないではないか? 少佐は、自由な精神の流れる彼を愛する。それがいつも彼の中で、きらめき、踊り、沸き立っていること。愛すべきは、それなのだ。自分のもとで飼い慣らされた家畜ではなくて。
 ……いやいや。少佐は苦笑する。これは理性的な理解力の領域。では、感情面では? もちろん、複雑だ。でも少佐はその複雑な感情も楽しんでいる。それも伯爵が自分の中に引き起こすもののひとつだ。だから楽しめる。そういうものに乗じてありえないほどばかなことを云ったりやったりする。彼がいなければ、たぶん人生に起こり得なかったことだ。彼がこちらの人生にあらわれなければ、たぶん知らないままに終わっていたこと。そういうばかばかしい、けれども愛おしいこと。
 ああ、深みにはまっとるぞ。少佐は微笑した。昔、自分の部下だった女が云っていたことを思い出した。「恋って、理不尽だし、傷つくものでしょう? 昨日まで自分で自分を保って、理性的に生きていられた人間が、恋に落ちた瞬間から、まるで我を忘れて、相手のためにばかなことばっかりするようになって……プライドも尊厳も、恋の前じゃあ形無し……」だから、それに心底飲まれてしまえば、結果的に身を滅ぼすのだ。たとえばこれで、彼を愛するということへの誠意と自制を、失ってしまったとしよう。ただ彼を欲する、その感情と衝動だけで動くようになってしまったとしよう。そうしたら、その先に待っているものは破滅にほかならない。彼の美しい翼は萎れ、ふたりして、地獄へ堕ちるしかない。あの部下もそれで死んでしまったのだ。少なくとも、エーベルバッハ少佐はそう思っている。冷静な、優秀な部下だったのに。エーベルバッハ少佐にばかになっていた彼女の女の部分が、彼女の判断力を狂わせたのだ。胸をぶち抜かれた状態で帰還した彼女。ばかな女だと云ってやることしかできなかった。それまで、少佐は一度たりとも彼女を女扱いしたことはなかったが。そしてそれ以来彼は部下に女を置くのをやめた。Gみたいなのもいるが、あれは女じゃないし、もっと現実的だ。自己犠牲なんていう母性の尊い一面は、持ち合わせていない。母性……女性のあの愛に対するひたむきな、おぞましいほどの断固たる決意と情熱は、母たる性の情熱、あるいは執念としか思われない。本質的に、男が持ち合わせることが不可能なものだ。いくらGが女の格好で女ことばを使っても、少佐はその点、安心していられた。引き替え女は、なにをするかわからない。伯爵もなにをするかわらないが、そういうわけのわからなさではない。
 いやなことを思い出した。頭を伯爵のことに戻すべきだ。少佐はため息をつき、とりあえず伯爵がいま地球上のどこにいるのか、まかり間違って物質世界を脱していやしないか、それだけは確認しておこうと思った。死んでいないなら、電話が通じなかろうがなんだろうがひとまず、安心していられる。
 彼は携帯から、こういうときに大変便利な番号を呼び出した。
「……はい、わたしですが……なんのご用ですか?」
 声が固い。当然だ。急に自分のような男から電話がかかってきたら、どんな人間でも緊張して固くなってしまうだろう。それくらいのことはわかる。
「突然すまんな、ボーナム。ひとつ訊きたいんだが、伯爵はいまどこにおる?」
 短い沈黙があった。
「……ああ、ボロボロンテさんのところです。クルージングに招待されてまして、しばらく戻ってこないとのことです。真っ白い立派なクルーザーだったそうですよ。お気に入りの島へ行くことができて毎日ご機嫌だとか……」
「ほー。君は自分のボスの居場所について、おれにそんなにべらべらしゃべってもいいのかね? おれが居場所を聞き出したがっとるということは、十中八九ろくな用件じゃないことは想像つくはずだが」
「………………」
 ボーナムは優秀だが、弱点があるとすればひとがよすぎることと、嘘が下手なことだ。どこかの部下Aのようだ。
「……すみません、少佐、正直に云います……」
「よろしい」
 電話の向こうで盛大なため息が聞こえた。
「伯爵は、ドイツにいます」
「ドイツ?」
 またあの画家のところだろうか?
「はあ、すみません。でも、少佐にちょっかいを出しに行ったわけじゃありませんよ! 実は、まあ、あの、ベルリンの美術商から盗みを働くところで……というか、正確にはご自身を取り返されるところといいますか……なにを盗むかって? ああ、でもこれ以上はわたしの口からはとても!」
 だがボーナムはそれから三十秒とたたないうちに、ことの一部始終を暴露した。流出したポルノまがいの油絵! そしてそれをもとに恐喝行為を働く美術商の名前まで、少佐は全部聞き出した。少佐の額と首筋に、くっきりと青筋が浮かび上がった。彼は受話器ををたたきつけるようにして戻すと、部下をどなりつけるときの大声で叫んだ。
「あの変態のくそばか野郎が! 芸術だか美意識だか精神愛だかなんだか知らんが、下らん下ネタ満載のいかがわしい遊びに夢中になっとるからだ!」
 少佐は頭をかきむしり、部屋をうろつきまわってどうにかもっとも衝動的な、怒りの第一波をやりすごした。
「あの阿呆、自業自得だ……」
 少佐は両手で顔を押さえてため息をつくと、普段はあまり使わないPCの電源を入れた。ヒラー美術商会。営業時間平日午前九時から午後五時。電話番号は……住所はベルリンの…………少佐は時計を見た。午後九時半を回っている。今日ベルリンへ向かうのは無理か。
「おい、執事。明日おれは出かける。戻らんでも心配いらん。急用だ」
 はあ、と面食らったような顔をした執事を廊下に放置して、少佐は部屋へ引き返した。煙草に火をつけて一服すると、ようやく少し腹のあたりが落ち着いてきた。
「あの野郎……」
 確かに、奔放な彼が好きだ。振り回されたり、振り回されたふりをするのも、別に嫌いではない。だが、こういうのは正直、勘弁してほしい。
 少佐の貞操観念は、順社会的でたいへんまともだった。ドイツの伝統をこよなく愛する保守的で厳格な父に軍人式の教育を受け、自らもまた軍人となり、伯爵いわく「お堅い道まっしぐら」を突っ走ってきた。なるべくしてなったと云わざるを得ない。父ははじめから息子をそのように教育してきたし、息子はそれにほどよく順応した。今日び、貴族だろうと血筋が清らかだろうと、生活のためには一定の……否、先祖代々の土地と建物を維持するとなれば一定以上の収入が必要だった。別段、父親に人生を決められたのだとは思わない。結局、自分は父によく似ている。愚直で、誠実で潔癖だが不器用。こうと決めた生き方を、理想を、譲ることができない。とても、現実社会をなめらかに泳げるタイプではない。そして父親から受け継いだ貞操観念も、本人ばりに実に潔癖で誠実にできている。退廃的な、野放図なものには反射的に眉をしかめたくなり、性的倒錯や逸脱など理解不能だった。浮気は人生のスパイスだとかいうことばもあるけれど、そんなスパイシーな人生などいらない、と思ってしまう。
 ところが伯爵ときたら。見事にこちらをたらしこんでくれた上、彼の性的観念は、少佐からしたら危険もいいところだった。決して野放しなのではない。彼の自意識はそこまで自堕落ではないし、そこまで自分に対するプライドを捨ててはいない。ただ、彼はその割に、ぎりぎりのところで楽しむことを好みすぎる。たぶん、そういう環境で育ったためだろう。相手が自分に好意をもっているのを重々承知していて、それに乗じてからかってみたり甘えてみたり、性的なにおいをほのめかしてみたり引っこましてみたり。彼の媚態は、出し方と引き際を実によく心得ている。明らかな媚態なのに、それでいて下品ではない。相手に、利用されているという感じを与えない。ただいっときの楽しみ。伯爵はそれを演出しともに楽しむことを、愛している。心から。ぎりぎりまで自分を差し出し、相手とともに少々淫らな気分を楽しむ。そしてそれはただの遊び、罪悪感のかけらすら感じる必要のない、ただの遊戯なのだ。性的に成熟した人間から云わせればただのひまつぶしにすぎないだろう。そしてそれは事実で、けれども少佐はそういう遊びを、理解できない。それに伯爵特有の美的観念やら美意識やら、芸術的精神やらが関わってきた日には、もう諸手をあげて降参するしかない。それは差異だ。なにがあっても埋まらぬ溝だ。これまでのお互いの人生、そのバックグラウンドのすべてをかけて形成されてきた、その帰結だ。そしてだからこそ少佐は、それを認めねばならぬだろうと思う。伯爵のそういう遊びを。不道徳だとか堕落だとか、決めつけるのではなくて。本音を云えばほんとうに、勘弁してほしいのだけれど。どこの世界に、他人が描いた恋人のヌードを冷静に見ていられる男がいるだろう? いったいどこに、色気もその気もたっぷりな恋人の姿を、自分以外にさらしたいと思う男がいるだろう? たぶん伯爵の周囲にはいるのだ。むしろそういう連中だらけだったのだろう。絵画の女たちなんてことごとく裸だし、美しいものは、皆で愛でるものだ、というような、そういう考え、そして、その中にある精神性だかなんだかを、くそまじめに鑑賞し味わう、そういう文化が、あるところにはあるのだろう。理解不能だ! まったく……だがそれも、認めねばならないのだろう。伯爵に、悪気はないのだから。そして彼は結局、自分で収拾をつけるのだ。それだけの頭も行動力もあるから。ボーナムに電話していなければ、エーベルバッハ少佐は彼のポルノまがいが恐喝に利用されそうになったことなどまったく知らず、この休暇をのんきに気ままに過ごしていたことだろう。ああ、まったく!
「……そのうちフリカッセの肉みたくなっちまうぞ、おれの脳みそは」
 つぶやいてみるが、相手に届くはずもない。

 

怪盗、そして交錯
 
「ああ、ボーナム君? 連絡があった? 絵が見つかったって? 彼の画廊? 複製はなさそうなの? うん、うん、地下の倉庫に保管されてるんだね? セキュリティは厳重? ふうん、最新の防犯システム完備なのか。倉庫の扉はダイヤル式のアナログ? よかった、アナログこそわたしの出番だ。特に刺激的ではないけど。だって、金庫がないんだよ。わたしは金庫やぶりが大好きなんだ。ついでになにか目ぼしいものがあったら失敬してやるつもりだよ。あったらね。あまり期待はしてない。彼、現代美術の取り扱いが多いようだから。ココシュカはたまたま手に入ったらしいんだ。抽象化なんて、理解不能だよ。あとで見取り図を送ってよね。え? いま? そう、またまたバスルームより愛をこめて。ホテルは快適だよ。ゆっくりしたいけど、向こうが行動を起こす前に片をつけたいんだ。ややこしいことにしたくない。関わりたくないんだよ、恐喝なんて、おっかないものとは。とっとと絵を取り返して、イギリスに戻るよ。じゃあ資料はよろしく。なにか変わったことはあった?」
 それに答えるボーナム君の、一瞬の間が気になった。でもまあ、気にしないことにしよう。どうせそんなに重要なことじゃない。ジェイムズ君がなにかやらかしたとか、そんなところが関の山だ。
 ゆっくり風呂に入ってバスローブを羽織り、ぬかりなく炊いておいた沈香のたちこめる室内へ戻る。カーテンを引いて部屋を暗くし、ソファに深く沈んだ。目を閉じる。空調のかすかな音がするが、すぐに気にならなくなる。わたしはいま、暗く、深い闇をかきわけて、降りていく。自分の心の奥へ、そしてその先へ。そこで待っているのは、ただ深い、海のような、なにもない闇だ。すべてがひとつであり、すべてが完全であり、なにもかもを手放して、ただくつろいでいられる場所。なにもかも置き去りにする。記憶、感触、わたしの肉体。ヒラーに対して感じた怒り……そうだ、わたしは確かに怒りを感じた。ほんの一瞬。それにはなにか、羞恥に似たものが含まれていた。見ず知らずの他人に自分の肉体をさらすことも、媚態をさらすことも、わたしには別段なんの感情も引き起こさないことだと思っていたのに。さほど深いつきあいにならない他人がわたしをどう思うか、そんなことは、知りすぎるほど知っている。でも、わたしはそれで傷つくとは思わない。自己嫌悪も感じない。自分のことは自分が一番よく知っている。他人の意見は他人にまかせておく。でも、どうして、あのときなにか恥じらいに似たものを感じたのだろう? エルンストのため? 彼の芸術がないがしろにされたから? 彼とわたしの領域に、いらぬ輩が立ち入ったと感じたから? 違う。もっと奥の深い…………クラウス!
 わたしははじかれたように目を開け、身体を起こした。……クラウス。どうして、わたしの絵がヒラーの手に渡ったときからずっと、なにか気味の悪いものがわたしの頭の隅をいつも占領していたのか? どうしてそれに、苛まれるような感じがしていたのか? どうしてあの、罪悪感に近いものが自分の中によみがえってきたのか? 罪悪感だなんて、あんな精神を蝕むだけのものは、とっくに捨てたはずだったのに。
 ……ああ、君の、君のためだったんだ。君が、わたしの中にいるから。
 鼻の奥がつんとしてきた。自分の血が凍りついたように感じた。身体の芯が冷えきって、がたがたふるえそうだった。彼に会いたかった、彼の声を聞きたかった。でもだめだ。電話はできない、いま、こんなときにはとても。あの絵を取り返して、彼の前に差し出して、そうして、そうして彼の審判を、ただ待たなくては。
 ばかな話だけれど、自分がしたことがどういうことなのか、いまはじめてぴんときた。なんてやつなんだろう、わたしは。クラウスを通して、わたしはこれまでと、まるで別の世界に接しているんじゃないか。他人に裸体をさらすことや、刺激的なお遊び、そういうものが、野放しにされている世界とは、まったく違う世界。わたしはそこに、足を踏み入れることを自分で選択したんじゃなかったのか。
 ……最後に彼に会ったあの夜。それがとても遠く、青ざめて見えた。

 

 風のない、静かで深い夜。闇がすべてのものを覆い隠し、モーフュースが優しく、ひとびとのまぶたを叩いて回る。わたしの時間。昔から、夜の空気が、その雰囲気が好きだった。昼間の光はすべてをあからさまに照らす……少々下品に。でも夜は、すべてを深く包みこんで、どこか遠くへ運んでいってくれるような気がする。それが、元来夢見がちなわたしの肌に合っていた。昼間の現実は夢だ。わたしの真実は、内面の躍動にある。美しいものを目にしたときの、打たれたような感動、それを欲するときのエクスタシーにも似た高まり、それから、実際手に入れるときのスリル。誰がなんと云おうと、わたしは感情と感性で生きる。そしてそれが頂点に達する瞬間……それが、わたしの生業だ。
「伯爵、用意はいいですか?」
 電話の向こうでボーナム君がやや緊張した声で云った。
「いいよ、いつでも」
 ヒラー美術商会は、ベルリンの中心地からやや離れた、住宅街と商業地の境目に堂々と二階建ての店を構えていた。昼間は車や人間がひっきりなしに行き来する騒がしい通りもいまはしんとしていて、街灯の明かりと月光が灰色の道路を舐めているだけだ。
 隣は古いアパートで、ヒラー美術商会とのあいだには小さな庭がある。その庭に、実におあつらえむきな木が一本植えられている。わたしはアパートの屋上に陣取って、ヒラー美術商会の建物を望遠鏡で眺めた。窓のいくつかには、防犯カメラの作動を知らせる赤いチカチカした点滅が見える。あれが、ボーナム君がパソコンをちょっちょっといじると消えてしまうんだから、世の中便利になったのかあやしくなったのかわからない。
「では警備システムに侵入します」
 ボーナム君ってほんとうに頼りになるやつだ。電子だか電波だかが相手なら、たいがいのものはねじ伏せてしまう。もちろん、民間警備会社のシステムに侵入して一時的にダウンさせるなんてことはお手のものだ。イギリスにいてドイツの警備会社のシステムに入るんだから、世の中、わたしの想像を超えている。暗躍する怪盗の、優雅な時代はもう終わってしまった。わたしは所詮アナログだ……でも、それが一番腕が試される領域だ。
「OKです、伯爵。これでヒラー美術商会の警備システムを止められます……侵入したことがばれないためには、三十分が限度ですね」
「三十分だね。いま何時かな……おお、うるわしき午前二時……ジャストになったら止めてくれる? ああ、やれやれ。わたしが自分がモデルになった絵を盗みに入らなくちゃならないとはね! 笑ってくれていいんだよ、ボーナム君。おいたが過ぎるとこうなるってことだ、覚えておくといいよ……五、四、三、二……OK、行こう」
「はい…………止めました、伯爵。お気をつけて」
 電話を切り、念のため望遠鏡で建物を確認する。目障りだった赤い点滅が停止している。ボーナム君はうまくやってくれたらしい。アパートの屋根から庭の木へ、そして目指す美術商会へ。わたしは本質的に、子どものころからなにも変わっていない。昔から、木登りや鉄棒なんかが大好きだった。身体が軽くて柔らかく、器械体操だろうがなんだろうがなんでもできた。泥棒って、その延長だ。ただ場所が学校の校庭や公園から、街中になっただけ。
 午前二時二分。建物に到着。二階東側の一番端の窓の鍵を開け、中へ入る。目の前が階段。二階は事務所だから用はない。一階が広い画廊になっていて、絵を展示してあるのだが見るべきものはなにもなかった。ほんとうに残念だ。ヒラー氏とは、ココシュカ以外では仲良くやれそうにない。こんなことなら、ココシュカだってまともに買わないで盗んでやればよかった。画廊をつっきって地下へ行くための廊下へ通じるドアを開ける。細長い廊下の先に、地下倉庫へ降りてゆくための階段がある。それを降りて、いよいよわたしのお仕事、ダイヤルロックのドアだ。恐ろしく重たそうだ。きっと炎にもちょっとした衝撃にもびくともしないんだろう。でも人間には弱い。おお、せいぜい頑丈に作りたまえ。
 時計を見る。午前二時十分。あと二十分だ。問題ない。この手のドアなら手がかりがなにもなくても十分もあれば開けられる。わたしはお気に入りの聴診器を服の中から引っ張りだして、ドアにあてがった。目を閉じ、深呼吸をする。さて、君の具合のいいところはどこ? 友だちになって、教えてくれないかな。愛おしむようにドアを撫でて、ダイヤルへ指をかける。内部でディスクが転がる音とダイヤルをひねる指先に全神経を集中させる。左……いやいや、君は右からだね。そういう身体をしている。……あなたはこういう連中と、いわば身体と身体で交感することができるんですね。昔この道の師匠が、わたしが金庫や鍵を次々に開けていくのを見てそう云った。そうかもね、とわたしは答えた。だって、どこをどんなふうに触ればいいのかわかるんだよ。はじめはわからないけど、野良猫に優しくしてやっているうちに、友だちになるみたいな感覚。なんとなく指先がぴりぴりして、なにかに導かれるみたいに手が……そう云うと、彼は目を細めた。「あなたは、稀代の才能をおもちです」そしてそのことばがいつもわたしを支えている。
 指先をマイクロメーターみたいに動かしていると、かちりと小さな音がした。第一段階クリア。午前二時十二分。素直な子だ。君みたいな子が好きだよ。さて次は反対。それからもう一度逆方向へ。そして仕上げにもうひと回し。番号は1206。誰かの誕生日かなにかだろうか? まあわたしなら0515とでもしているところだ。しないけど。
 午前二時十八分。いいタイムだ。重たい扉をやっとこさ開いて、真四角のだだっ広い倉庫へ。壁際にいくつも絵がたてかけられて並んでいる。中央に覆いをかけられた長テーブルがいくつかあって、その上にも、絵が何点か置いてある。でも残念、どれもちっともわたしの好みじゃない。キュビズムもフォービズムも死滅してしまえ! あの運動が、わたしを、そしてたぶん多くの一般市民を絵画の世界からいちじるしく遠ざけてしまったのだ。もはやこの世界には、厳然たる美は存在しないのだろうか、昔のように? 誰が見ても心を打たれ、共感できるような美は。
 さて、わたしの目的のものはどこにあるだろう? 部屋の隅に、布で覆われたラックがある。あのへんが怪しい。覆いを取り払い、わたしは思わずうわあ、と叫びたくなった。
 あるわあるわ、いかがわしい絵の宝庫だ。とんでもないポーズを楽しげにとっている若いご婦人や(これはたぶんエゴン・シーレだってびっくりする)、ぎこちなく成熟した色気を放とうと、けなげに努めるご婦人……たぶん間違いないと思うけど、このひと、夫以外の男と関係を持ったことなんて一度もなさそうだ……、思春期の乙女から熟女まで、その数ざっと数えただけで二十人はくだらない。画風からして画家の数は六名。そのほとんどは、芸術のために描いているのではなくて、単に下卑た欲望と金のために描いていると云わざるを得ない。こちらに訴えかけてくる迫力も、力も、なにもない。二十人以上を六人で回す……生産的なのか非生産的なのか、効率的なのか非効率的なのかよくわからないけれど、こういうのはいったい美人局とは云わず、なんと云うのだろう? 少ないながら、男のもある。なかなかそそるのもあるけれど、だめだめ、いまはそういうことを考えている場合じゃなかった。きわどい絵はラックいっぱいに立てて置かれている。わたしは自分のを探した。一番下の段の右端にあった。ベッドの中から情感たっぷりに笑いかけるわたしはこんなところに押しこまれるにふさわしい、でも、エルンストの絵は、この中にあっては飛び抜けてほんものだった。少なくとも、この中には対象に対するアムールがある……ヒラーのやつがローランサンのことばをもち出すまでもなく。それにしてもああ、あわれなるかな我が身よ!
 わたしの当初の計画では、わたし以外の被害者の絵を全部もちだして、処分してやるつもりだった。でもこれじゃあ、ちょっとひとりでもちだすには数が多すぎる。仕方がない。連れて行くのは自分だけにして……なんだかおかしな文章で、変な気分だ……あとのものは、もっと効率的にこの場で処分しよう。
 わたしは一階の画廊へ戻り、そこにかけてあった絵をすべて倉庫へ持ってきて扉を閉め、かわりにヒラーの私腹を肥やしていた絵を画廊の真ん中へ積み上げた。天井にとりつけられていた火災報知機を開けて配線を切ってから、その積み上げられたゴミの山に火をつけた。紙や油絵具は火と相性がいい。小さいオレンジの炎はたちまち生き物のようにうねうねと動き出し、あっという間に大きくなって、床に積まれた絵を包みこんだ。午前二時二十七分。大急ぎで二階の窓から外へ出て、あのアパートの庭木を伝って、脱出完了。午前二時二十九分。
「ボーナム君、システムを元に戻してかまわないよ」
「OK、戻します……完了しました。伯爵ぅ、連絡がなくて心配しましたよ! どうかしたんですか? 大丈夫ですか? 絵は?」
「大丈夫だよ、ちょっと予想外のことがあってね……いや、見つかりそうになったとか、君の不備とかじゃないんだけど。絵はちゃんと回収してきたよ。まったくもう! なんでわたしがわたしを盗み返さなくちゃいけないんだろう。でもこれで懲りたよ。わたしはもう誰に頼まれたってヌードモデルなんかやらないよ!」
「普通は最初からやりませんよ」
 ボーナム君はちょっとげっそりした調子で云った。
 わたしはアパートの屋上で薄手のコートを羽織り、すっかり都会の若者になって、道路へ降りた。ヒラー美術商会には目もくれなかった。たぶん建物から煙が上がるころには誰か近所の人間が気がついて、通報なりなんなりするだろう。そしてそのころにはもう、あのいかがわしい絵の数々は判別不能なくらい焼けてしまっているに違いない。
「おい、泥棒」
 ふいに聞こえてきた声に、心臓が凍りついた……よく知っている声だったからだ。
「やっと仕事しに来たか。夜行性だとは思っとったが、もうちっと早い時間にすませられんかったのか?」
 建物の陰から、彼が出てきた。ああ、なぜだろう。とても懐かしい感じがするのは。一週間ばかり前に彼とボンで会ったのが、ずいぶん昔のことみたいだ。
「……クラウス」
 わたしはこちらに歩いてくる彼に向かって力なく笑った。
「おまえ、よりによって火つけやがったな、ドイツの建物に」
 彼が指差す建物を、わたしは見た。窓ガラスが炎になめられて、くれないに染まっていた。彼に視線を戻し、わたしはちょっと笑った。
「わたしを逮捕でもする?」
「そりゃ警察の仕事だ。おれにその権限はない」
 わたしたちは並んで、誰もいない通りを足早に歩き出した。わたしたちはしばらく、相手にどう話しかけたらいいのか戸惑っているかのように、沈黙したままだった。気まずい時間だった。クラウスはわたしが脇に抱えているものに気がついていたけれど、なにも云わなかった。
「……ねえ、君どうしてここに?」
「さあな」
「……ああ、ボーナム君か……」
 わたしは今朝方の電話での、彼の奇妙な間のことを思い返して納得した。クラウスは、彼に電話をかけたんだ。きっと。わたしの電話が、いつまでも通じないから。そしてきっと、一部始終聞いてしまったのだ。恐喝の道具にされそうになったわたしのいかがわしい絵のことまで。だって、そうでなきゃここにたどりつくわけがない。
「……ごめん」
「……なにがだ」
「なにもかも」
「なにを急にしおらしくなっとるんだ?」
 彼は煙草を取り出して、火をつけた。わたしは云いかけたけれど、やめた。そして代わりにこう云った。
「……明日、エルンストのところへ行くんだ」
 彼の吸う煙草の先が、暗がりの中でじんわりと赤く染まった。
「自分のせいだからさ、自分で最後まで始末をつけないとね」
 彼の口から、ほの白い煙が細くくねり出て、渦を巻いた。
「どこだ」
「……なに?」
「そのくそ画家のアトリエだかなんだか」
「ここから車で三十分くらいのところだよ。北東の方だったな」
 わたしたちは住宅地の狭苦しい道を抜け、広い交差点に出た。ドイツにいる部下の車が、はずれの方に待機していた。わたしはクラウスに乗るかどうか訊いてみたけれど、近場に宿があるから歩いて行くと云う。
「ねえ、彼のところに行って、片がついたら全部話すよ。正直なとこ、君になにされてもいいと思ってる。覚悟はしている……おやすみ。遅くまで待たせてごめん」
 わたしは車のドアを開けた。
「…………十時だ」
 わたしは振り返った。
「運転手してやる」
 クラウスは身を翻して、歩き出した……わたしはあやうくほんとうに、泣き出しそうだった。彼って、いつもこうだ。ボロボロンテさんの云ったことは、たぶん正しい。彼は全部、自分の胸のうちに押しこめてしまうのだ。なにもかも……いい思いも、悪い思いも。そしてわたしは、そんなことにはまるで無頓着で鈍感な、ばかなんだ。自分ばかり楽しいことに夢中になって、彼を顧みようともしない。
 きっと彼のとなりには、もっと常識的で、良識のある、頭の回る女らしい女がいるべきだった。

 

愁嘆場
 
「……悪趣味な建物だ。ドイツ国内に、こんな地中海ふうのちゃらちゃらしたリゾート式なんぞ持ちこみおって、景観を害するにもほどがある」
 これがこの日の少佐の第一声だった。伯爵はそれに弱々しい微笑で応じた。
「君も来る?」
 車から降りて、伯爵はおそるおそる訊ねた。少佐は運転席に座ったまま、煙草の箱を取り出して面倒くさそうに鼻を鳴らしただけだった。
「そうだよね」
 伯爵は歩き出した。
「……おまえ」
 声が追いかけてきたので、伯爵は立ち止まった。
「あの絵はどーした。もってこんかったらしいが」
「……それでいいんだよ」
 少佐はまた鼻を鳴らした。
 アトリエのチャイムを鳴らすと、エルンストが飛び出してきた。
「ああ、伯爵、伯爵! ニュースを見ましたか? ヒラーの画廊で火事が……」
「うん、今朝それで叩き起こされたんだ。なんてことだろうね……さあ、わたしを入れてくれないかな。お茶を一杯くれる? 濃い目のね。叩き起こされたせいでちょっと眠いんだ」
 エルンストはすぐに作りますと云って、台所へ飛びこんで行った。伯爵はアトリエやあちこちをうろつき、エルンストが来るのを待った。
「どうぞ、伯爵」
 彼がカップをもってアトリエに入ってきた。伯爵はそれを受け取り、いつものようにそのへんの椅子に腰を下ろした。
「……ほんとうにすみませんでした」
 エルンストが消え入りそうな声で云った。伯爵は苦笑せざるを得なかった。
「ほんとうにもういいんだよ。わたしはあの絵を取り返してやるつもりだったけど、でもきっとあの火事で焼けてしまっている。そんな気がするんだ。だって、聞いた話だと相当ひどい火事だったんだろう? あの絵がなくなったのは残念だけど、でもヒラーの手元にあるよりはましだよね、そうだろう? 天がわたしに味方してくれたんだ、いつもそうなんだよ。ピンチに陥ると、今回みたいに火事が起きたり盗難が発生したりしてね、わたしはいつも危機的状況を免れるんだ。そういう運があるんだよ、わたしには。だから君も、もう気にしないで」
 エルンストは潤んだ目を向けてきた。伯爵は彼に、うなずいてやった。
「せっかくドイツまで来たけれど、帰ろうと思うよ。することがなくなったからね……それと」
 伯爵は紅茶を飲み干し、立ち上がった。
「もう一枚あったわたしの絵、あれを、もらってもいいかな?」
 それはアトリエの隅に、立てかけてあった。真剣で張りつめ、ぎらついたまなざしをこちらに向ける男。エルンストがとらえた、エロイカとしてのドリアン・レッド・グローリア伯爵。
 伯爵はそれを受け取り、玄関のドアに手をかけた。
「……もう、ここには来ませんか? 伯爵」
 彼は振り返って、微笑した。
「どうかな? どうだろうね? どう思う? でもわたしがいなくても、君は成功するよ。予言する。それに描きたかったら、これからもわたしを描いていいよ。君の中には、わたしの全部が入っているはずだから。それをどうするかは、やっぱり君の自由だものね」
 エルンストは泣きだした。伯爵は彼の肩を叩き、ドアを開けた。

 

 車内待機は慣れているが、身体が凝る。任務ならいくらでも耐えられるが、そうでないとなると、じっとしているのは少々きつい。少佐はたまりかねて車の外へ出、車体に寄りかかって煙草を吸った。静かで心地のいい風が吹いていた。しかしこの建物は目障りだ! ドイツの景観を害するにもほどがある。こんなところに住んでいるやつの気が知れない。しかも情けなくも生粋のドイツ人らしいのだ。まったくどいつもこいつも!
 アトリエのドアが開いて、伯爵と、若い男が出てきた。少佐は携帯用の灰皿へ吸っていた煙草をつっこみ、歩いてくる伯爵と、その後ろをついてくる画家をぼんやり見守った。画家は繊細そうな、華奢な美青年だった……だが少し病的な雰囲気を感じる。おれの嫌いなタイプだ、と少佐は思った……だが、伯爵は、こういう男が好きなのだ。
「お願いですから、たまにはぼくの様子を見に来てください。もしかしたらもうここにはいないかもしれないけど……手紙を出します。だから、そのうちに……」
 画家は醜く追いすがっている。伯爵は少し沈んだような、悲しい微笑を浮かべている。彼の深く沈んだ目は、もうここへは来ないことを、この関係を終えたことを明白に告げているのだが、のぼせ上がった若い男はそれを受け入れられないらしい。……信じられない厚顔だ! この男には羞恥心のかけらもないのか? いったい誰のせいで、伯爵が昨夜のひと仕事をするはめになったのか? この男は、いったい自分がなにをしたのか理解しているのか? そしてなによりも腹立たしいのは、伯爵がそういうことを、一切合切許しているところだった。たぶん、その画家の才能のために。
 画家が、こちらに気づいて立ち止まった。ぽかんと口を開け、しばらくぼうっとしたような顔をしていたが、やがて唇を固く結んで、伯爵のあとに続いてこちらへやって来た。……だから、てめえは来るなこのくそ野郎。とは、頭の中で思うだけにしておいた。仮にも、伯爵が目をかけていた男だったから。
「ごめん、お待たせ」
 伯爵はそう云って、車に乗りこんだ。画家をこちらへ紹介する気もないらしかった。少佐はそれに少し、安堵した。
「じゃあ、ね、伯爵。また連絡しますから……」
「おい、邪魔だ、どけ。車出せんだろうが」
 窓ガラスにべったりくっついていた画家にそう云うと、画家は怒りを含んだ目を向けてきたが、なにも云わずに云う通りにした。その程度なのだ、要するに。
「……少佐って、あんたのことだろ」
 車へ乗りこもうとしたとき、画家が云った。少佐は顔を上げた。
「伯爵が電話でそう云ったのを聞いた……冗談だと思ったけど、あんた、ほんとに軍人っぽいね」
「……だったらどーした」
 画家の目に、挑発的な光が浮かんだ。
「別に。でもぼくは軍人は嫌いだ。軍人なんてみんなファシストだ。軍人がよってたかって芸術になにをしたかを考えると……」
 伯爵が車の窓を開けた。
「ちょっと、ふたりともなんの話をしてるんだ」
「……なんでもない。ガキを家に返してくる」
 少佐は車の中に向かってそう云うと、急に怯えたような顔になった画家の襟首を掴んでアトリエへ歩き出した。画家は抵抗し、暴れたが、屁でもなかった。伯爵が後ろから呼びかける声が聞こえたが無視した。画家の華奢な身体をアトリエの中へ押しこみ、ドアを閉めると、画家は震え上がって部屋の隅まで逃げていった。とっととしないと、怒る気も失せそうだった……ああ、なんだってこんな男の風上にも置けないようなやつに、よりによって伯爵を夢中にさせる絵の才能なんてものがあるんだろうか。
「阿呆、民間人を殺しゃあせんよ」
 そう云うと、相手は少し肩の力が抜けたようだった。
「だがそっちがその態度で来るんなら、おれだっててめえに云いたいことがある。山ほどある。まず、おれがてめえなら、ヒラーだかいう男と刺し違えてでも絵は渡さんね」
 画家の顔がさっと曇った。
「その上あいつに泣きつくなんざ、恥さらしもいいとこだ。てめえの芸術魂だかなんだか知らんが、そんなもんよりもろに被害にあっとるのはあいつだろうが? あいつがほんとにあの態度のまんま、なにも感じとらんと思っとんのか? てめえもどうせあいつが金か色じかけかで、どうにかしてくれるとでも思ったんだろうが? 精神性だのなんだのほざいとるやつなんざ、どいつもこいつもその程度だ。自分で自分のケツも拭えねえようならやめちまえ、くそばか野郎。挙句に自分のことを棚上げしてひとを罵ることだけは得意ときとる。こっちは罵るどころかぶっ殺してやりたいのを我慢しとるんだ、これ以上おれを怒らせるなよ。おれはお上品な芸術家と違って、野蛮極まりない軍人だ。あとひとことなにか云ったら、眉間にぶちこむからな」
 画家は壁を伝って、床にぺたりと尻をついた。ああ、やってられん。少佐はアトリエを出た。

 

「……おれはなにもしとらんぞ」
 重苦しい空気をまとった車を走らせながら、少佐は云った。
「……わかってるよ」
 伯爵は云った。
「君は民間人には手を出さない。絶対に。そういう男だよ」
「……そりゃーご評価どうも。ぶん殴ってやりたかったが。あのくそガキ」
 伯爵が弱々しく微笑した。
「そんなことしたら、あの子立ち直れないな……繊細なんだ」
 少佐は血管が切れそうだと思った。
「繊細? あれがか? ひとに喧嘩を売るだけの神経は立派にもちあわせとるのにか。おまえなあ、芸術至上主義だかなんだか知らんが、いいかげんに……」
「……するよ」
 伯爵がふいに、はっきりした口調で云った。
「いいかげんでやめるよ。頃合いだ。わたしがどれだけ君に向いてないかよくわかったからね」
 伯爵は微笑して、こちらを見た。
「ホテルまで送って。そしてわたしの部屋へ。ちゃんと話したい」
 少佐はどてっ腹に弾をぶちこまれたような気がした。

 

恋が終わるとき
 
 伯爵がアトリエから抱えてきた絵を見て、ああ、これは、エロイカだ、と思った。貪欲で放埒で、でも限りなく真摯で美しい。あの画家は、思っていた以上に伯爵のことをわかっていたらしい。
「画家の目だよ」
 ベッドに腰を下ろして、伯爵は笑った。
「それが彼の天分。そしてね、わたしはそういうものの前に、彼のあらゆる欠点をどうでもよく思えてしまうんだ……それが、わたしのたぶん一番悪いところなんだろうな。君はさっきわたしを芸術至上主義と云った。云い当て妙だよね、笑ってしまう。美の交感の前にね、わたしは自分自身でさえ、ほとんどどうでもよくなってしまうんだ。画家のインスピレーション、画家の恍惚、その背後にあるもの。そういうものの一部に、わたしがなるのだとしたら、わたしは自分を捧げてもいいと思ってしまう。美の女神はわたしにたぶん、すべてを与えたけれど、でもそれは同時に、わたしが彼女の奴隷となることを意味した。わたしの情熱はいつもそこにあって、女神と同じまなざしと熱で、この世界を見ている。その前では道徳も、あらゆる規範も、意味をなさなくなってしまう。そして」
 伯爵は目を細めて微笑した。
「これ以上に、君にとって耐え難い相手は、いないだろうと思う。君は、とてもまっとうだから。わたしはその点、常軌を逸していると云われても文句は云えないよ。こんなことになってるのに、エルンストのことは許してしまえるし、おまけにもっと腹が立つのは、君のことなんてにっちもさっちもいかなくなるまで思い出しもしなかったってことだよ。君がこういうことについてどう思うだろうかって、わたしは何度も訊いたよね。君は勝手にしろと云った。だから、わたしはそれを額面通り受け取ってしまったんだ。なぜって、わたしの価値観ではこれはまったく悪いことでもなんでもなくて、別段、恥じ入るようなことでもなかったからね。でも」
 伯爵は自分の足を引き寄せ、膝を立ててそこに顎を乗せた。
「いまはもう、わかっているよ。わたしはたぶん、もっともしてはいけないことをした」
 伯爵は鼻を鳴らして自嘲気味に笑った。
「わたしの狂態を、君がどう思っていただろうと思うと怖気を振るってしまうけど。とっかえひっかえ男を連れてきてやりまくるような、そういう人間に育たなかったのはわたしが誇れる部分だと思っていたけど、でも、自分がしていることを振り返ったら、どっちもどっちだって思えた。最終的には、やるかやらないかくらいの違いしかない。道徳観念が緩くて、貞操観念も君ほどには発達していなくて、快楽主義で、行き当たりばったりで……そしてわたしはそれが、悪いことだとすら思っていない。もう思えないんだ。ここまで来てしまったら。こういうのは、子どものころに叩きこんでおかないと、取り返しがつかないね。わたしは自分の育ってきた環境が悪いとは思ってない。父のやり方についても、いまだに尊敬をこめて、これ以上の方法はなかったって云えるよ。でもそれは、君という人間を前にしては、意味を成さないんだ。ああ、なんて違うんだろうね。わたしたちは、あんまり違う、違いすぎるよ。それを、わたしは超えられるんだと思ったんだけど。つまり、わたしの人間的な良心と、君の良心にかけて……その部分でなら、君と渡り合えると思ったんだけどなあ。でも、やっぱり、だめみたいだ」
 伯爵は膝の上に顔を埋めるようにして、うつむいた。少佐は煙草に火をつけた……今日これでいったい何本目だろう? 厄日だ、こんちくしょう。なんだって、急に別れ話になんぞなったんだ。伯爵がなにを気にしているのか、なにに思い当たったのか……少佐は、正直なところ驚いている。そんなことには、彼は気がつかないし気にすることもないと思っていた。伯爵は彼独自の美意識や耽溺や、その精神的な、少佐が近づくことのできない領域だけは、決して譲ることはないだろうと思っていた……ああ、だからか。少佐は納得した。彼の頭は、こんなときだって冷静さを手放さないように訓練されていた。心の中はめちゃくちゃだが、頭は明晰。そのふたつがいつも不気味に乖離していて、少佐はときどき自分がもどかしい。ときどき感情のままになってみたいのだ、伯爵のように。
 伯爵は、譲れないから、別れるのだ。彼は彼の生き方を変えられない。彼の人生で培われてきたあり方を、楽しみを、幸福を、手放すことができない。ほかのなにを手放しても、彼の唯一のものである美の、その領域では彼は一歩も譲ることができない。彼はそのためならすべてを捧げる。たとえ自分に不利になることが持ち上がると、わかっていても。……少佐はため息をついた。
「なにを勝手に納得しとるんだ、阿呆」
 伯爵が顔を上げた。泣き出しそうな、そしてそれを抑えようとしている顔だった。少佐はふいに、ひどく甘ったるい気持ちに襲われた。こいつはばかだ。とんでもなく脈絡がなくて破天荒な行動をとるやつだが、こいつの中身は、その中心点は、はなはだまともだ。外見や性癖がそれをひどく裏切っているのに、こいつの内面のまともさ……伯爵は良心と云ったが……それは一歩も退かずに、堂々と、その存在を主張しているのだ。こんなふうに。こんなふうになってまで。
 彼を、抱きしめてやりたかった。でも、それにはまだ早すぎた。いまそれをやったら、ただの感傷的三流ドラマになる。少佐は、この関係をそんなふうにしたくはなかった。ここにあるのは、もっと本質的ななにかだと思いたかった。それこそ、芸術愛好家が精神性だとかなんだとか云うもの。でもそれはなんのことはない、人間の、真摯な態度と営みのことだ。
「おれの話も聞け。なあ、いいか……」
 少佐の声は自分でも笑えるほど穏やかだった。
「おれたちゃ、全然別の人間だ。育った環境から雰囲気から使用言語から、なにもかもまったく違う。おまえの常識とおれの常識は、たぶん、特に、いわゆる感性と官能の部分で、はなはだ食い違っとる。おれはくそまじめな旧式だが、おまえのはつきぬけて自由で、世間一般に云やあ堕落気味だ。おれはそうは思わんが……というか、思わんようになったんだ。おまえなりの誠意と、おれなりの誠意は行き着くとこは同じなんだが、筋道が違うから見え方も出方も違う。許容範囲がまるで違う。おまえが見てくれのままのけばけばでゆるゆるの人間だったら、いまこんな通夜みたいな雰囲気になっとりゃせんよ。云っとくがおまえ、肉親の葬式に出とるみたいな顔になっとるぞ。修行が足りん。別れ話は顔色変えずにやり通すもんだ、ばか。ああ、話がそれたな」
 少佐は煙草をもみ消した。
「それでだ。ここに価値観がまるで違う人間がふたりいる。こりゃあ、どっちがどうのこうのの問題じゃなかろうが? どっちかに合わせるか? 無理だろ。新しいのを作るか? これも無理だろ。ならどうする。理解はできん。不可能だ。おれにはな。ただ、容認することはできる。おまえがどれだけおちゃらけて軽薄でうすらナマコに見えても、ミーハーで気分屋でしょうもなく見えても、おまけにたびたび言動がそうでも、おれはだからって、おまえの中身の真摯なところまで疑っちゃおらんよ。少なくとも、それがどこを向いとるのかくらいは、おれなのか、別なのか、ひとなのかものなのか、それくらいはわかる」
 伯爵はしばらく呆けたような顔をしていた。少佐はそれきり黙った。もう話すことはなかったからだ。ずいぶん時間がたってから、ふいに伯爵が口を開いた。
「…………クラウス」
「なんだ」
「……抱きしめてもいい?」
「許可する」
 彼はベッドを出て、ソファに飛びこんできた。エーベルバッハ少佐はそれを、受け止めた。そしていつものことながら、抱きしめると自分の鼻先や唇や頬に、甘えたようにまつわりついてくすぐってくる巻き毛をそっと撫でた。伯爵が顔をうずめている、自分の首や肩のあたりが湿り気を帯びている。ばか者。これは心の中で思うだけにした。変なところで自己犠牲精神なんて出すからだ。甘やかされて自由に育った伯爵は彼らしく、ただ堂々と自分らしくしていればいいのだ。それが心地いいのだから。うんと腹がたっても、胸糞悪い思いをしても、ときどきぶん殴りたくなっても、そういう起伏が楽しいのだから。ああ、我がスパイス。少佐はひとり笑った。そしてときどき変に、清らかで怜悧な味がする。
「君って、海みたいだ」
 伯爵が涙声で云った。
「このあいだボロボロンテさんに、あなたの愛は、地中海の海だって云ったけど。でも君は……ああ、もう、だからだよ!」
 伯爵がふいに顔を上げた。眼尻が少し、怒ったようになっている。今度はなんだ?
「云ってくれなきゃ! そういうのは嫌だとか、やめてほしいとかさ。云わないと、気がつかないんだ。ほんとに。このあいだエルンストのところに滞在してたときから、何度も訊いただろ? こういうことって、どう思う? って。わたしは君の感じ方との摩擦までどうでもいいなんて思わないんだよ。君がどう思うのか、わからないから訊いたのに、君ときたら勝手にしろって云ったじゃないか。だからわたしは額面通り受け取ったんだ。わたしだって気にするんだよ、普通のひとは……ああ、もう、おぞましいくくり方だな! でもほかにどう云う? とりあえずこれで勘弁してよね。普通のひとにとっては、こういうことは嫌なの? ここまでしない? こんなこと、冗談でも楽しいと思わない? だったら、云って欲しいんだ、だってほんとに気づかないから。あとから思い返して死にたくなるよ。だってそれって、君の部屋に上がりこんでさんざん好き勝手してめちゃくちゃにして、え、だって君、部屋に入れてくれたじゃない、って云うのと同じことだろ? そんな横暴許されないよ。それくらいの常識はある。でも、ちょっと範囲がずれてしまうと、それがわからなくなるんだ、本質的にはおんなじことなのに。だから、そう感じたら云ってほしいんだよ。君が嫌だと思ったら……自分で自分を丸めこんで、笑ってないでさ。そういうのって、やられたらわかるけど、とても腹が立つよ?」
 今度は少佐がぽかんとする番だった。そうしてふたりは、笑い出してしまった。さんざん笑って、息が切れてそれを整えると、空気は一転してひどく穏やかな、やわらかいものになった。
「……いま、恋が終わったんだ」
 伯爵は少佐の首に腕を回し、彼に体重をあずけて、ひどく感じ入ったようにつぶやいた。
「浮ついた、自分を押し通すやり方はもうおしまい。いま、ここから先は、愛なんだ。芸術は自我から他我への使者だ、とココシュカが……ああもう、今回の元凶だね……その偉大な画家が云ったんだけど、おんなじことだ。恋って、自我の領域だよね。わたしが、君を好き。でも愛は、自我から他我へ、われわれを導くんだ。自分を超えて、相手の中に没入してしまう。わたしは君の自我の中へ。そして君はわたしの自我の中へ。その場所で、融け合う。自我は消滅する……そして必然的に時間も。なぜなら、時間とは自我にほかならないからだ。愛の前に、すべては消え去るという理由は、そこにある。哲学者がいくら頭を捻ったって無駄だよ。愛は、感じるものだ。静かに、開かれた心で。いつもここにあるんだ。この場合は、いま、わたしの感情の中に」
 伯爵の話は、やっぱりときどきわからない。でも少佐はそれでいいと思っている。そして、理屈で彼の云うことを理解できなくても、なにか自分の深い部分では、それをちゃんとわかっているような気がしている。
「……まったく心臓に悪い一日だった。まだ半日しか過ぎとらんと思うと気が遠くなる」
 少佐はため息混じりに云った。伯爵は声を上げて笑った。
「ところで君、今日は仕事は? 忙しいのは終わったの?」
 少佐はそれで、通じない電話のことを思い出した。
「ほとぼり冷めたら電源入れとけ、ばか者」
 伯爵はまただらしなく笑い転げた。
「休みをもぎとった」
 伯爵が少佐の顔の輪郭にそって軽く細かなキスをはじめた。
「くそ忙しかったからな。情報部は過労死寸前だったんだ」
「それはそれは、がんばったねクラウス」
 まぶたにキスが飛んできた。
「おまえがくだらん画家やらイタリアマフィアやらといちゃこいとるあいだにな」
「ああ、クラウス、嫉妬は醜いよ」
 伯爵は彼の頬から首筋へ唇で触れながら、くすくす笑った。
「しとらん、阿呆」
「ねえ、ドイツを出たいな。君を生んだ偉大な敬愛すべき、愛しても愛し足りない国だけど、いまはあんまりここにいたくない。どこか気前のいい国でぱっとやりたいような……モナコ? モナコにいる自称伯爵のダーリンは元気かな? カジノを経営してる男なんだけど。ボロボロンテさんといがみあってるんだ。わたしのことで……やめよう、ボロボロンテさんを悲しませちゃいけないよね」
「おまえなあ、そういうのが……」
「あ、忘れてた」
 ああ! 今度はなんだ。
 伯爵はふいに立ち上がって、シャツの裾をたくしあげた。とたんに、ばらばらと紙がいくつも舞い落ちた。
「これで全部だよ」
 彼はにっこり笑った。少佐は口を開けたままぽかんとした顔で、ひらひらと舞い散る紙を見つめていた。
「わたしのいかがわしい絵。またの名エロイカポルノ。ラフを一枚だけ盗らずに残してきたけど、勘弁してよね。エルンストにだって慰めが必要なんだからね」
 伯爵は彼に目まぜした。少佐はなおしばらくぽかんとしていたが、ようやく立ち直って、一転、げっそりした顔をした。
「おまえらみたいな変態の気が知れん」
「まあ、そう云わずにさ。この絵全部君に寄付するから。エルンストが有名になったら、ものすごい値段がつくよ。きっとね……そのときには、これを売りさばくと同時に暴露本を書いてもいいよ。君なら許す。この絵のモデルと画家とわたしの奇妙な三角関係、とかさ……ゴシップ誌が飛びつくネタだね」
 少佐の首に青筋が立った。
「黙れ、この変態野郎、軽薄頭! さっきの全部取り消しだ!」
「ああ、もう、蒸し返さないでくれないか? で、もらってくれるの、くれないの。君が受け取ってくれないと、わたしはこれを自分で処理しなくちゃいけないことに……」
「てめえで切り刻め!」
 少佐は怒鳴り、ぐったりとソファに体重を預けた。
「……ねえ」
 伯爵は床に散らばるいくつもの紙を拾い上げ、ひとつにまとめて、それを手にしたまま少佐の膝の上に乗ってきた。
「反省してるよ、クラウス。すごく反省してる。ほんとうにごめん」
 唇に、彼のやわらかい唇が触れた。彼の香水の香りがまつわりついてきた。
「わたしが前君にあげたラフ、どうした?」
 少佐は金庫にしまってある三枚のいかがわしいラフのことを思い出した。
「金庫の中だ。見つかったらまずいだろが」
「あれ、役に立たなかった? 一度も見てない?」
 少佐は答えに窮した。
「正直に云ってよ。もし君が不愉快なら、この場でこれを全部燃やすから。でももし、ほんのちょっとでも興味があるなら……それを隠すなんて、必要ないことだよ。だって、もう君以外にこれを見るひとはいないからさ」
「…………くそっ」
 少佐は目の前の唇に食いついた。ほんとうに前言撤回して、別れてやろうか? 少佐は思った。
「そういう悪ふざけが癪に障るんだ、この変態野郎」
 伯爵は満面の笑みを浮かべた。
「わかったよ、もうしない。だから、どうかな、君がこのラフを受け取るかどうかは、ふたりでこの絵をよく研究してから決めるっていうのは。たとえば、この絵はどこまで真実に近いだろう? この、下唇に指をあてがっている挑発的なわたしなんか……わたしはこういうことをするとき、ほんとうにこんな顔だろうか? それを、ひとつずつ検分するんだよ。君の気に入らなかったら、絵の上に赤ペンで不正確とかへたくそとか不合格とか、あるいはもっと罵倒に近いことばでもなんでもいいけど、書いてさ、燃やしてしまう。きっと楽しいよ。ね?」
 伯爵の腕が、蛇のように少佐の首に絡まり、唇になま暖かい唇が押し当てられた。しばらくして、少佐は諸手を挙げ、降参した。そうしてふたりとも、ばかみたいな明るさでベッドの上に転がった。エルンストのラフに対する検証は、実に楽しく、そして長いことかかるだろうという予感があった。たぶんそのために、少佐の休暇をほとんど使ってしまうだろう、とも。

 

バイロンの「カタラス風」は、阿部知二訳、新潮社『バイロン詩集』より。

 

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