ロゴス
 
 水滴が跳ね上がり、したたり、きらめいて宝石のように彼を飾っている。湯船から上がる伯爵を見て少佐はそう感じた。湯上がりで上気した美しい裸体を堂々とさらして、彼は少佐の座る椅子の前をゆっくりと通り過ぎた。バスタオルが積み上げられた小さな棚から深いカーキ色のものをとり、身体にまきつける。ゆっくりと身体を拭く。顎を持ち上げ、長い首をのけぞらせて拭き、肩から腕、上半身から下半身、そして足の先へ。少佐はタオルと手の動きに沿って、伯爵の身体を眺める。深いカーキと白肌のコントラストを楽しむ。微妙な筋肉の凹凸や筋張ったところ、骨の浮いた場所、ひとつずつに唇で触れるように。手で触れるように。視線にそういうものをこめて。
 伯爵はタオルを床へ落とし、レースで飾られた絹の黒い下着を履いた。片脚ずつ縮め、持ち上げて、ふたつの穴のあいだに通す。彼のうるわしき部分、誰だったか哲学者が、女の良心とか云った部分に近しいもの、彼の奥深くへと到達するための場所、そういったものがもれなく黒い生地の下に隠される。しばしさらばだ。どうせすぐに剥くことになるだろうが。
 黒みがかった紫のバスローブを羽織り、伯爵は頭の上でまとめていた髪をほどいた。湿って重たくなった金髪は天から舞い降りるようにゆったりと降りてきて、紫の上に降り注いだ。少佐はその色彩の対比を大いに楽しみ、伯爵が髪を手で軽くほぐすのを見守った。
 伯爵が少佐を見た。そして目を細めて微笑した。少佐も小さく唇を持ち上げて応えた。なにも云わず、伯爵は浴室を出ていった。ドアが閉まる。少佐は椅子から立ち上がり、服を脱ぎはじめた。
 バスタブの湯は澄んだバラ色をしていた。深いダマスクローズの香り。少佐は身体を沈め、目を閉じた。伯爵の先の微笑がまぶたの裏でよみがえった。そしてその身体、カーキ色とのコントラスト。少佐はそれをゆっくりと再生してみた。唇に微笑が浮かんだ。
 身体を洗いながら、伯爵がいましているに違いないさまざまの身繕いのことを考えた。髪の毛を乾かす、全身にオイルを塗る、爪を整える、細心の注意を払って身体の隅々まで確かめ、それから、今宵のお召しものに手をかける。今日はどんなのを身につけているだろう? それはあとのお楽しみだった。自らを美しく飾り終えたら、おそらくなにか飲み物を飲み、暇つぶしの本を携えてベッドへ。そのとき、彼はどんなことを考えるのだろう? 昨夜のことを思い起こすのか。それとも今日のこれからのことについて思いを馳せるのか。少佐はここへ来てからというもの、毎晩彼を求めている。はじめのうち、少佐はどこか自分がはっきりと自分でないような、奇妙に不安定な意識を抱えており、彼を抱くにも不器用な、勢いにまかせたものになっていた。いま、ようやくそれが回復してきたという気がしている。正確には、伯爵を抱きながらもとに戻っていったような気がする。彼の声や反応やしぐさや、あるいはさまざまなタイミング、その中へおさまったときのこと、そしてそれから先のこと、そうしたものはすべてそれなりの時間と回数を重ねて徐々に知られ、何度も試されて作りあげられたものであり、その時間の厚みを感じさせる行為の中から、少佐は少佐自身を引き出し連れ戻してきたような気がしている。エーベルバッハ少佐が一時的に別の男になっていたあいだ、エーベルバッハ少佐自身の肝心要の部分は、その緊密に繊細に作りあげられた時間と空間の中に置かれ、ふたたび解放される日を待っていた、そんな気がしている。
 今日は、確認する日とでも名づけるか。全身の泡を洗い落としながら少佐はふいにそう決めた。いつも自ら進んで彼に施すさまざまな愛撫をいちいち、伯爵に確かめてみよう。いつもどうしていたかを。次はどうするのだったかを。伯爵はたぶん、笑いながらいろいろ教えてくれるだろう。楽しそうなささやき声で。いつものクラウスはね…………たぶん、クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハなる男とは、彼が記憶する、あの肌にしみこんだ自分にちがいない。
 
 寝室で最初に感じ取ったのは、伯爵が好む伽羅の香りだった。沈丁花の木から作られるそれを彼はいつも、美しい青白磁の香炉で部屋にたきこめる。その甘い、けれども底の方にかすかになにかを刺激する鋭さを含んだ香り、少佐にとってその香りはもはや寝室の香りとして脳内に刻みこまれてしまっている。そしてこの香りを嗅いだ瞬間から、もうその先の行為に向かって身体が、あるいは思考が幾分気ぜわしく準備をはじめる。
 部屋の明かりは消されており、かわりに蝋燭があちこちにともっていた。ベッド脇の棚にしつらえてあるランプだけはついていたが、天蓋つきのベッドのカーテンはぴったりと閉じられていた。少佐はゆっくりと歩いていって、垂れ下がるカーテンをそっとかきわけて中を覗いた。ランプの明かりが、伯爵を暗いオレンジに染め、浮かび上がらせている。彼はベッドに肘をつき、下半身を投げ出して本を読んでいた。青いペイズリー模様がプリントされた、美しいカフタンを身にまとっている。少佐はそれにしばし見とれた。
 伯爵が本から顔を上げた。金髪が肩の上で揺れた。少佐はハロー、と云った。伯爵は微笑し、ハロー、と返した。少佐はカーテンの中に身体をすべりこませた。伯爵の隣に横向きに腰を下ろし、彼の顔の輪郭を指でなぞった。伯爵は首を傾け、息をもらして笑った。少佐は伯爵が手にした本のページのあいだから彼の指を引き抜き、本はランプが乗った棚の上に放った。
「読んでたページがわからなくなっちゃったじゃないか」
 伯爵が唇をとがらせて云った。
「もっかい頭から読め」
 少佐は云い、伯爵のとんがった唇を摘み取った。ふたりはそのまま静かにベッドに倒れた。
「……クラウス、クラウス」
 キスの合間に伯爵は云った。
「君がいないあいだ、すごく寂しかった。戻ってきてくれてうれしいよ」
 これは、ここへ来てから新たに加わった習慣だった。伯爵は毎晩、このせりふを云い続けている。寂しかった、君が戻ってきてくれてよかった、愛してるよ……少佐は自分の胸にじわじわと広がるものを意識しながら、また伯爵に口づけ、あれこれをささやきはじめる。伯爵は顔をほころばせ、少佐の身体をまさぐりながら悩ましく首を振ったりのけぞらせたりする。そしてささやき返す。ときどきくすくす笑いが漏れ、ときには笑い声が上がる。そしてまたいちからやり直す。さんざん転げ回って、ようやくお互いの着ているものに手がかかる。……
「……次は?」
 伯爵の耳の中へ息を注ぎこむようにささやくと、彼は小さく身をよじり、少佐を見、答える。
「脚にキスを。太股の内側から……膝の裏を舐めるのが君は好きだ……好きだね? 好きって云って……ふくらはぎを通って足首に……骨のところ、噛んでもいいよ……かかとにキスして……足の裏……土踏まずを忘れないでね……指を……君っていつもべたべたにしちゃう……吸ったり噛んだり……小指はわたしでなくたってほかより小さくてかわいいよ……甲から戻ってきて……」
 ことばにされると、自分がやっていることの多さと細かさに驚く。伯爵はこの確認日の作業をどこか楽しんでいた。自分の行為の確認のつもりだったのに、逆に伯爵に確認させられている。その身体のどこが好きか。なにをするのが好きか。どこの手触りが、舌触りが、感触が好きか。伯爵が喜んで少佐の行為を描写するのにつられていたのかもしれない。少佐は彼の半ば誘導尋問のような問いに答え、云えと云われたことを云い、そしてふたりして、出されたことばに燃え上がった
 実際、言語化ははじめての試みだった。伯爵もこんな手のこんだ言語化を要求されたのははじめてだと云い、少佐は少し誇らしい気持ちになった。先へ進むごとに、ことばはどんどんきわどく輪郭の曖昧なものになり、途切れ途切れになり、切羽詰まっていった。少佐自身の「次は?」もしだいに余裕がなくなってゆき、それは伯爵の、自分のうちへ招き入れる指示から先、途絶えた。
 少佐は彼の両脚を開き、半ばほころびて自分を待ち受けている場所へやや乱暴に分け入った。伯爵が痛みと喜びとで声を上げた。夜毎少佐に向かって開かれ、差し出されている場所ではあったが、今日はことのほか熱く、湿って感じられた。少佐はなにか爆発的な予感におそわれて一瞬身体を震わせ、それを打ち消すように伯爵の唇にキスし、舌先でこじ開け、中をさぐった。伯爵は優しく応じ、少佐のそれを誘導するように絡みついてきた。ふたりはしばし目をつぶってそれに熱中した。これからはじまることをなるだけ後回しにしようとするように。
 唇が離れると同時に、少佐は動き出した。伯爵は呼吸を乱し、声を上げ、ことばにならないことをつぶやいた。なにかを云いたいわけではないとわかっていたが、少佐はん? と云った。伯爵が首を振った。少佐はもう一度ん? と云った。伯爵は口を閉じ、鼻からうめき声を漏らした。その小さな抵抗が妙に可愛らしく、少佐は伯爵の顔の輪郭に沿ってキスをくり返した。伯爵は抵抗するのをやめ、自ら少し脚を持ち上げて、少佐をさらに奥へ誘った。
 ふたりは時間をかけて徐々に昇りつめていった。伯爵はうわずった声を上げ、ときどき反射的になにかことば未満のことを口走った。少佐はそのたびに彼の耳にん? と声をかけた。伯爵はそれにも身体を震わせ、身をよじってその問いかけから逃げるようなそぶりを見せた。まるでロゴスの支配する世界から逃れようとしているかのように見えた。少佐は彼を追いかけ、自らもことばのない世界、ことばにしようのないものが支配する世界へ入りこんでいった。
 やがてそのときが訪れ、少佐は伯爵にあの問いを投げかけた。おれは誰だ? 伯爵はもつれそうな舌で応えた。クラウス。クラウス、クラウス…………それはこの世界でただ唯一の意味をなしうるもの、支配的で絶対的なもののように、思われた。
 ほとんど同時に、何度もきつく締めあげられた。少佐はうめき、小さな明滅を感じた。

 

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