少佐の誕生日休暇

 

新しい遺言書

 

Ab hoc incipiendum est.
ここからはじめなければならない
―― セネカ

 

「では、こちらが新しい遺言書になります」
 禿頭の、御年七十八になるエーベルバッハ家顧問弁護士ダンゲルマイヤー氏は、重々しい手つきで机ごしに書類を差し出してきた。少佐は受け取り、先ほど朗読による内容の確認をすませてはいたが、なお時間をかけて確認した。それから愛用のモンブランで署名し、それをすぐ後ろに控えていた執事に差し出した。彼は震える手でうやうやしく受け取り、失礼いたします、とひとこと誰にともなく云ってから、机に用紙を広げ、署名した。彼は弁護士に差し返して、小さくため息をついた。ダンゲルマイヤー氏はふたたびしげしげと書類を眺め、小さくうなずくと、自分の傍らに控えていた男にそれを渡し、男が署名した。彼は老ダンゲルマイヤー氏の息子のダンゲルマイヤー氏であった。いまでは父の仕事を受け継いで、精力的に活動している。ダンゲルマイヤー家は、ボンで代々続く弁護士一家で、それゆえ、エーベルバッハ家の顧問弁護士たる名誉を得ているのだった。いまでは引退した老ダンゲルマイヤー氏ではあったが、エーベルバッハ家の関係する仕事だけは決して息子にやらせようとはしなかった。なぜなら、彼の父親もその父親も、死ぬまでこの「貴族さまに仕える」仕事だけは自分のものとしていたからで、このような重要な仕事は、十分に歳をとった、経験豊富な人間だけに許される特権である、とダンゲルマイヤー家では歴史的に考えられてきたからである。その老ダンゲルマイヤー氏は最後に自らも丁寧に署名した。遺言書作成の儀式は、これでおしまいであった。執事がほう、と小さくため息をついた。
「遺言書をお書き換えになるのは何年ぶりになりますか」
 老弁護士は顎をさすりさすり、遠くを見るような目で云った。ドアがノックされ、使用人がコーヒーと軽食を運んできた。執事がうなずきかけて、給仕の役目を引き継いだ。
「軍に所属して以来ですよ」
 目の前に置かれたマイセンのカップを口へ運びながら、少佐は微笑した。
「ということは、もうかれこれ十年以上になりますね……」
 ダンゲルマイヤー氏は考え深げに首を振った。晴れてドイツ連邦国軍の所属になったとき、少佐は父親に呼び出されて、このダンゲルマイヤー氏のもとではじめての遺言書を作成したのであった。軍へ入るからには、いつでも死んでいいものと思え、という父親の教えであった。
「あのときの遺言は、親父の云いつけで形だけ作ったようなもんでしたからな。いつか時期が来たら自分の好きなように書き換えてやると思ったもんですよ」
 ダンゲルマイヤー氏は笑いだした。
「まさかお父上も、そのときに末代まで通用するような完璧なものをお作りになろうとは思わなかったでしょうがね。書き換えは当然です。このお名前の上がったイギリスの伯爵は、その世界では著名なコレクターだとか……うちのせがれに、その方面に明るい友人がおりましてね」
 これまでつつましく沈黙を守っていた息子のダンゲルマイヤー氏が、このときはじめて口を開いた。
「美術史家で、わたしの学友なのですが、彼が絶賛していましたよ。まだ若いのに大した目利きで、世界でも屈指の美術品コレクターのひとりだとか。お友だちなのですか?」
 少佐は微笑した。
「まあそうですな。向こうがうちの美術品を見に訪ねてきましてね。それからのつきあいなんですが。ああいうものは、長年一緒に暮らしといてなんだが、おれにゃあさっぱり価値がわからない。それがわかる人間の手元に置かれるのが、結局一番幸せなんでしょうよ。そうじゃない人間にとっちゃ、金のかかるがらくたみたいなもんですからな」
 老ダンゲルマイヤー氏は反芻するようにゆっくりと何度もうなずいた。
「そうかもしれません。わたし個人の意見を云わせていただければ、ドイツの国宝級の美術品が国外へ流出するのは多少残念なような気もしますが」
「たぶん向こうが死んだらドイツへ戻ってきますよ。そういう点は妙に律儀なやつですからな。だからこそ譲るなんてことをおれも思いついたんですが」
 ダンゲルマイヤー氏はまたもや考え深げにゆっくりとうなずいて、それから、立ち上がった。息子がそれに続いた。執事がコートと帽子と杖を取り、ドアを開けた。少佐は執事とともにふたりの弁護士を戸口まで送ってゆき、握手をした。
「あなたのお父上がスイスへ引っ越されたわけがわかりますよ」
 老弁護士は茶目っ気たっぷりに云った。
「こう歳をとってきますと、この広いお屋敷の長い廊下は、なんといってもこたえますからな」
 ダンゲルマイヤー氏は帽子を振って、ゆっくりと玄関の階段を下りていった。息子が黙ってそのうしろに従った。
 ふたりを車まで送っていった執事が戻ってきた。少佐は弁護士たちが出ていったあとの書斎で新聞を広げていたが、紙面の陰からそっと執事の顔色をうかがった。彼は無表情でカップと皿を片づけていた。この男は、自分の新しい遺言書の一連の追加文章をどう思っているだろう? 少佐は考えた。エーベルバッハ家の先祖が集めてきた美術品は、老ダンゲルマイヤー氏のことばを借りなくとも、間違いなくドイツの国宝級の品々だった。それをたかが親しい友人というだけで、外国人たるイギリスの伯爵なんぞに譲り渡してしまっていいものか?
「おことばながら、わたくしは意見を申し述べる立場にはございません」
 ふいに執事が云った。彼の唇はかすかに微笑を浮かべていた。
「まだなにも云っとらんぞ」
 少佐は新聞の陰から顔を出した。
「さようでございましたか?」
 執事はとぼけて、テーブルの上を丁寧にひと拭きし、カートに食器類をまとめて、立ち去る素振りを見せた。
「おまえ、笑っとるな」
 少佐は疑るような声で云った。
「いいえ、そのようなことは決して」
「あほな男だと思っとるだろう」
「いえ、思ってはおりません。ご主人さまのご決断は、たいへん結構なことでしたかと存じます」
「…………いいか、他言無用だからな」
「心得ております。伯爵さまのご到着は、ご予定通り明後日でよろしゅうございますか?」
「……ああ」
 少佐は云って、なんとなくばつが悪かったので新聞に視線を落とした。執事はかしこまりました、と云って部屋を出ていった。少佐は頭をかいた。それから少し考えこむような顔をして、満足そうにため息をつき、椅子に深くもたれて目を閉じた。

 

目次 | 

 

close