写真2……あるいはクラウスという男について
クラウスに会うのはいつもとっても刺激的だけれど、久しぶりの再会となるとなおさらだ。わたしは何日も前からそわそわして、いつもはなんだかんだで十時間近くベッドの中にいるのに、八時間くらいしかいなかった。本を読んでも気はそぞろ、音楽を聴いても右から左、わたしをとても愛してくれている、さるインドの貴公子から電話が来たときも、わたしはぼんやりした返事しか返せなかった。
「あなたは心ここにあらずといった具合ですね?」
彼は笑って云った。
「わかっていますよ、あなたが誰かと恋をしていることくらいは。もうずいぶん前から、わたしたちみんな、そのために喜んでいいのか悲しんでいいのかわからないでいるんですよ……」
わたしはしばらく前から、インドのとある美術館に展示されている舞踏のシヴァ像が欲しくて彼とコンタクトをとり続けている。肉感的で官能的な唇をした、うっとりとした身体つきのシヴァ。それが脚を曲げ手をあげて、踊っている。踊るということはとても官能的なことだ。クラウスと一度だけ皇帝円舞曲に乗って踊ったあのときのことを、彼とこんなふうになっても、わたしはたぶん生涯忘れないと思う。
「忘れないでください。あなたは確かにあるひとりの男の……それがどこの誰かは詮索しませんが……ものですが、わたしたちのようにあなたを心から愛する人間が、世界中に大勢いることをね。ときどきは、思い出してください」
ほんとのことを云うと、そのときのわたしは確かにそんなこと忘れていた。だって、少佐どのはわたしにあらゆることを忘れさせてくれるただひとりの男だから。彼のあの、ちょっとひとをからかうような微笑の前には、みんな消し飛んでしまう。あの精悍な顔つき。鋭く締まっていて、目つきなんか剣の切っ先みたいで、どこかどっしりした高い鼻と、厳しく禁欲的な細い唇。それが、微笑するときにはふっとゆるんで、彼が身体の奥の奥の方に持ち合わせている柔らかさが少し顔をのぞかせる。そしてベッドでは、その柔らかさが情熱を身にまとって、すごく官能的になる。
わたしは彼に会える日を、指折り数えていた、とは云わないけれど、浮き足立つくらいには心待ちにしていた。彼がこんなに長いこと任務のために拘束されたのは、少なくともつきあいだしてからははじめてのことだった。いったいこのわたしが二ヶ月もの禁欲生活を強いられたなんて、そしてそれに耐えたなんて、誰が信じるだろう? たぶん、わたしの知り合い連中は誰も信じない。わたしは美しく、相手にはこと欠かないし、わたしが半ば意識的に、でも半分は無意識にまとっているなまめかしさは、禁欲とは相反するものだ。君がまばたきするたびにため息が出るよ、と云った男がいた。あなたがただ立っているだけで、その首にむしゃぶりつきたい気持ちになります、と恥ずかしそうに云った男もいた。そういう存在だ、わたしって。
そして今日、クラウスはイギリスへやってくる。任務を終えて、休暇をもぎ取って。二、三日家でゆっくりしてからでもいいのに、報告書を仕上げたその日のうちに電話してきて、明日そっちに行く、と云った。たぶん、いろいろと溜まっているんだろうな、かわいそうに。だからわたしは彼にとびきり丁寧に、優しくしてあげようと思っている。
待ち合わせの時間は午後二時。わたしは少し考えてから、女ものの衣装がそろったクローゼットを開き、引き出しをかき回した。二ヶ月ぶりに会う男のためだ、それなりのものを着て行かないと。次々に服を引っぱり出しては身体にあてがい、床に放り投げる。二ヶ月前に彼に与えたあの写真、憂いを帯びた微笑をたたえた女……わたしは、あの女としてクラウスの前に現れたらどうだろうと思ったのだ。彼女は、どんな女なのだろう。内向的で、男に自分を引き出してもらうのを待ちわびている女? 過去があり、やることをやりつくして人生に疲れた女? 自分に絶対的な自信をもち、男をもてあそぶ女? どれにもそれなりの魅力がある。しとやかな女は男の相手をリードしていたいという欲求をストレートに刺激するし、過去のある女の蔭は、独特の性的な魅力に満ちている。男をもてあそぶ女! それこそ、破壊的で破廉恥な魅力の塊だ。クラウスは、そのどれを持ちだしてもからかいをこめて反応するだろう。でも、あの写真を撮る瞬間カメラに向かって浮かべた微笑は、いったいどんな女の微笑だった? そのままのグローリア伯爵に近いんじゃなかったか? なぜって、クラウスが、あまり化けなくていいと云ったじゃないか。
……床に撒き散らされた服を一瞥し、わたしは笑ってしまった。ひとが着ていないときの服って、なんだか哀れっぽい。しわくちゃで、頼りなくて。わたしは腰に手を当て、首を傾けた。OK、坊や。今日はドリアン坊やみたいな女でいこう。茶目っ気があって、気まぐれで、自分の気分の赴くままに生きている、グローリア伯爵みたいな魅力的な女でね。
というわけで、わたしはもう一度クローゼットをひっかき回した。美しい碧瑠璃の、オフネックのサテンワンピースを見つけ、身体にあてがい、鏡の前で考える。それから専用の下着が入っている引き出しを開け、女性らしい身体のラインを出すためのあれこれを身につけてから……もちろん、ガーターベルトを装着するのを忘れなかった……ワンピースを着、絹のストッキングを履いた。そうして宝石がごちゃごちゃと入っている棚の中をしばらくかき回し、長さの違うパールネックレスをふたつつけた。それからまた宝石の山をまさぐり、イヤリングをいくつも出して耳にあてがい、鏡を見ては戻し、当ててみては戻しをくりかえして、最終的にルビーとダイヤモンドとパールがちりばめられたシャンデリアイヤリングに落ちついた。ふう! もうひと仕事こなした気分だ。
鏡台の前に座り、くるくるの金髪ちゃんをまとめて頭のてっぺんに仮止めしてから、化粧にとりかかる。クラウスは厚化粧が好きじゃない。たぶん、恋人の厚化粧が好きな男なんてそうそういないだろう。どちらかというと、化粧するより素のままの方がまだまし、とか云い出すタイプだ。でも、たまにこうやって女装して、きれいに装って現れるとやたらとにやついたりもする。だから伯爵さまは、少佐どののことを注意深く観察して、そろそろそういうお遊びをする時期かな、なんて計算して、ばっちりのタイミングで遊戯をしかけなくちゃいけない。少佐どのは本来、というか、長いこと女性を愛するひとであったために、そもそもの恋愛脳が女性用にできている。伯爵さまはときどきそれを満たしてあげる必要があるわけだ。今回はなにやら長い任務だったようだから、男のわたしがずかずか出ていって、どかーんと彼にぶつかったら、ちょっとよろけてしまうかもしれない。その程度には、疲れているかもしれないから。わたしってなんてすばらしい恋人なんだろうと思う。気遣いがきめ細やかで、相手の欲するものを、いつも感じ取ってしまう。それがいいのか悪いのか、ほんとはよくわからないけれど。
あまり好きじゃないけどリキッドファンデーションを塗り、パウダーをはたいて、少し考える。アイシャドウの色をどうしよう? 彼は派手な色は好きじゃない。おとなしくブラウン系でまとめよう。アイラインとマスカラを忘れずに。チークは? 色が白いから、少し肌が上気したような感じがほしい。そういう微妙な艶かしさが彼は好きだから。口紅は控えめな、でもグロッシーなピンクで。髪をほどいて、ブラシでくしけずりながら、髪の毛はアップにしようか、そのまま流していようか考えた。オフネックを着ていることだし、うなじを見せつけるならアップにした方がいい。ふわふわしていてちっとも落ちつきのない巻き毛ちゃんを束ね、ぐりぐりねじって巻きこんで、コームでとめて拷問する。ごめんよ巻き毛ちゃん。
ほんとうはハイヒールを履くと完璧なんだけれど、わたしがヒール七センチなんて靴を履いたら、少佐どのより大きくなってしまう。ほかのことは大概どうにかなるけれど、身長だけはどうにもならない。元祖変装名人シャーロックみたいにかがんで歩くわけにもいかないし。第一服がそうさせてくれない。というわけで、散々悩んでオープントゥのパンプスにした。オードリーがかぶっていたようなつばの広いキャプリンハットをかぶり、小ぶりのクラッチバッグを持って、いざ出陣。念のため鏡の前でもう一度自分の姿を確認する。一回転して、鏡に向かって微笑む。完璧だ。
待ち合わせは、ハイドパーク近くのホテルのラウンジにあるバーだ。なんとなく歩きたい気分だったから、パディントン駅から歩いていく。途中で信号待ちをしていて、大学生らしい男三人組に声をかけられる。わたしは笑って首を振り、ひとと待ち合わせているから、と云って信号が変わると素早く歩き出す。いつものことだ。冴えない連中だったけれど、ひとりだけちょっといいのがいたな。黒髪の、情熱的な目をしたやつだった。わたしっていつから黒髪に反応するようになったんだろう? 前はそんなに興味がなかったはずなんだけれど。
ロンドンの空はうっすら曇っていて、寒くもなく暑くもなく、散歩にはちょうどいい気温だった。歩きながら、彼、この二ヶ月くらいどうしていたのかな、とふと考えた。ほんとのことを云うと、わたしはクラウスがどんな仕事をしているのか、実際のところよく知らない。スパイなんて、映画や小説の中にいる、なにか現実味のないものだ。そういうわたしだって、ルパンかなんかみたいな、怪盗だなんて得体の知れないものを職業にしているやつが実際にいるとは思わなかった、とクラウスに云われたけれど。わたしたち、お互いに浮き世離れした存在ってわけだね、と云って、笑った。
でもふたりとも仕事のことについては、つっこんで訊いたことがないし、話したこともない。そうしなくちゃいけないんだろうか、と思うことはある。お互いの、理解のために。でもクラウスの仕事には、なにか一般人の理解を拒絶する空気みたいなものがあった。それは閉鎖的な、とても特殊な、そして想像を絶する仕事で、常人の感覚でいたら気が狂ってしまうみたいな、そういうあやうくて、すさまじいなにかであるように思えた。そういう空気を、わたしはときどき彼から感じた。それが怖かったわけじゃない。わたしが怖かったのは、このまま彼を理解できないんだろうか、ということ。わたしがおそれているのは、彼の深いところへ手を伸ばしてゆくことを、拒絶されてしまうんじゃないか、ということ。たぶん、だからわたしは仕事のことを彼に訊くのを、ためらっているんだと思う。わたしがそういう態度だから、彼もわたしに訊いてこないのかもしれない。その部分の扱いについて、わたしは迷っている。でも、これはこんなふうに悩んでいたって解決しないことだ。そのうち偶然に、ほんとうにふいの出来事で、突破口が開けるようなことだ。わたしはそれを待つつもりだ。
ホテルに入り、まっすぐにバーに向かう。通りに面した窓から光が差しこむ、テーブルとカウンターのあるバーを見回して少佐どのを探す……すぐに見つかった。端っこのテーブルに座っていた。黒のパンツに、シャツとジャケット、クラウスの私服はいつもえらくシンプルだ。考えるのが面倒くさい、と云っているけど、彼はおしゃれかどうかというよりは、裾の微妙なカットの仕方とか、襟の形とか、そういうのにこだわっている。それから、ドイツ製であること! これが一番大切だ。
でも、なんとまあ、少佐どのはひとりではなかった! 向かいの席に、あろうことか女が腰を下ろしている。年齢は、たぶん三十代半ばくらい。もう少し上かもしれない。脱色した金髪をアップにして、身体にぴったりした、ウエストがきゅっと締まったドレスを着ている。彼女はなにやら熱心に少佐どのに話しかけている。鼻が長くてどちらかというと平べったい顔つきをしており、真っ赤な唇が野暮ったく感じられる。クラウスはどこかきょとんとした顔で女を見ている。伯爵さま、もといレディ・グローリアは、眉をつり上げてバーの入口で立ち止まった。ウェイターの男があわててやって来た。
「どなたかお探しですか?」
長身で、明るいブラウンの髪をした、甘ったるい顔をしたなかなかいい男だった。厚い唇が官能的。彼の目は、わたしの首と唇と目を、行ったり来たりしている。わたしにいわゆる「びびっと来て」いるらしい。ちょっとにやついたような顔でわかる。わたしは唇を突き出し、男の耳にその唇を寄せて訊ねた。
「あの女だけど……ほら、あの隅の席の、黒髪の男の前に座ってる女」
ウェイターはわたしの不満気な顔を見、それからテーブルに目をやり、納得した顔をした。
「ああ! あの窮屈そうなドレスの女性ですね」
「ここのお客なの? あなたご存じ?」
男は肩をすくめ、わたしの耳元にこれでもかとばかりに近づいて、
「三日前からお泊りいただいているお客さまですね。アメリカのご夫人で、ご主人の仕事の関係で来週いっぱいロンドンにいらっしゃる予定だとか。ところがそのご主人というのが、彼女より二十近くも年上で、仕事で飛び回ってるような方らしいんですよ。おわかりですか? その、そういうご夫人の……」
「生理的および情緒的な不満のこと?」
ウェイターはまた肩をすくめた。
「よくある話ですよ」
「だからって、わたしの恋人に近づいていいってことにはならないと思いません?」
「まあ、……その……そりゃあそうですね」
ウェイターはわたしとテーブルにいるクラウスとのあいだで目玉をきょろきょろ動かした。
「ほんと、油断も隙もないんだから!」
わたしはふん、と鼻を鳴らし、ことさら怒ったような表情を作って、クラウスの座るテーブルに向かって歩き出した。ウェイターが慌ててあとについてきた。テーブルの真ん前で立ち止まると、少佐どのと女はほとんど同時に振り向き、わたしを見上げた。わたしはできるかぎり冷たい顔を作った。
「ハロー、クラウス。こちらどなたさま?」
少佐どのは一瞬固まった。たぶん、わたしの女装のために。わたしをさっと上から下まで眺め、顔をまじまじと見て、それから、ほんの一瞬間、ほんとうにわかるかわからないかくらいの微笑を浮かべた。一方、女の方はわたしを無遠慮に眺め回し、明らかに気分を害したらしかった。わたしはつばの広い帽子の下から、その女を睨みつけてやった。女はひるみ、腰を浮かせた。ふん、なにさ、小心者。あちこちで男に声をかける程度の勇気はあるくせに、分が悪くなってくると、すぐに云いわけして逃げていくタイプだ。
「デイトン夫人……で合ってますかね? アメリカからいらしたそうだ。五分ばかり前に知り合った」
クラウスは眉をつり上げて云った。わたしは「あはあ」と云い、眉をつり上げ返した。
「こちらの方が、手持ち無沙汰にしてらしたからよ。ちょっとしたボランティアだわ。おしゃべりの相手がいたら退屈しないだろうと思ったのよ……そろそろ失礼しますわ。もう行かなくちゃ。夫が帰ってくるかもしれないわ」
女はそそくさと立ち上がり、もう一度わたしをじろじろ見て、立ち去った。結婚指輪はしていなかった。いやな女! わたしは女の後ろ姿をにらみつけ、舌を出した。成り行きを見守っていたウェイターが苦笑していた。女の姿が見えなくなると、わたしはクラウスの向かいに腰を下ろした。女が座っていた椅子はまだ生ぬるく、それがどうも気持ち悪かった。わたしは半ば無意識にお尻を動かして、むずむずやった。
「レディ、ご注文は」
ウェイターが訊ねてきた。
「シャンパンを」
わたしはつんとした態度で云った。クラウスはちょっと身を乗り出し、頬杖をついて、わたしの顔をのぞきこんできた。わたしは顔を背けた。……クラウス、少し痩せたと思う。
「ちょっとばかしめかしこんで来たな」
彼はにやにやしながら云った。わたしは黙っていた。……ねえ、なんとなくいつもの生気がないみたいだ、疲れているよ、君。
「帽子取れよ」
わたしはNOを云った。……それに声もちょっとかすれてるし。
「怒ってんのか?」
クラウスはからかうような声で云った。わたしは首を動かして、彼をにらんだ。その微笑はやっぱりちょっと、いつもより生彩を欠いていた。あの女が、クラウスにちょっかい出してくれていてよかった。こんなふうに、どことなくいつもの彼じゃない彼、でも別になにもなかったみたいに装っている彼と、二ヶ月ぶりにいきなり顔を合わせたって、たぶんどうしたらいいかわからなかったと思うから。なんだか悲しくて、泣きたいような気持ち。もしかしたら、つらさのあまりぶったりなんかしていたかもしれない。
「そうにらむなよ。怖くもなんともない」
わたしはにらむのをやめて、そっぽを向いた。
「こっち向けよ、首が痛くなるぞ……なんかの劇でそういうせりふなかったか」
「いかにも、ありそうなせりふ」
わたしは云った。彼の視線が唇にやってくるのを感じた。それから、むき出しの首筋に。そして、そのあたりを飾っている、耳から垂れ下がっているイヤリングとパールのネックレスに。彼は比較的長いこと、その景色を楽しんでいた。白い首に垂れ下がるパールとダイヤモンド、アクセントのルビー。わたしはいずれにしてもそのうちこの首にあてがわれるのは間違いない彼の唇のこと、その感触のことや、それに続く熱さのことを、考えていた。彼の視線は穏やかだったが、絡みつくようなものが感じられた。……ねえ、あとでね、めいっぱいしよう。君の疲労やらストレスやら、なにもかも消し飛ぶようなすばらしく情熱的なセックスをね。
シャンパンがやってきた。わたしは首を正面に向け、グラスを取り上げて飲んだ。クラウスはわたしの唇や、上下する喉元を見ていた。
「変な女だったぞ」
頬杖を解き、椅子に深くもたれてクラウスは云った。
「いきなり、ちょっとここよろしいかしら、と来たもんだ。こっちがはいもいいえもないうちに、もうそこに座って話をはじめてんだ。自分がアメリカから来た女で、夫がいるんだが不満たらたらなんだみたいな話をうわーっとおっぴろげて、こっちはわけがわからんだろ。こりゃ頭がいかれてんのか、それとも欲求不満なのか、目ぇ白黒させて考えてたところにおまえが来たわけだ。おめかしして」
クラウスはどこまでもおどけた調子だった。わたしはシャンパンのグラスを置いて、彼に向かって顔をしかめ、ふん、と鼻を鳴らしてみせた。
週末のハイドパークにはたくさんのひとがいたが、広さがあるからごみごみした感じはしない。わたしたちはあてもなくぶらぶらして、公園のすがすがしい空気を吸いこみ、散歩を楽しんだ。わたしはずっとしゃべっていた。わたしと二ヶ月も没交渉でいるとどういうことになるか、これでクラウスにもよくわかったはずだった。でも、彼はよく耐えた。辛抱強く寄り道の多いわたしの話を聞き、適度に相づちを打ってときどき口を挟んだ。彼はあまりしゃべらなかった。わたしはなんとなく不安で、彼がここにいるけれど、でもなんだか別のところにいるような、妙な感じがして、何度も彼を呼んだ。ねえクラウス、それでねクラウス、あのねえクラウス、クラウス、クラウス、クラウス…………
はじめそれは、どこか彼の外で響いていたみたいだった。でもそのうちに、それはいつものように、彼の名前として、彼の内側で響きだしたようだった。もしかしたら、それはあのキスのためだったかもしれない。ベンチに腰を下ろして、帽子を取り、わたしは彼に微笑みかけた。クラウスはちょっとまぶしそうな顔をした。そして胸ポケットから、二ヶ月前にわたしが彼に預けた写真を取り出して、それとわたしとを見比べた。わたしは彼にへばりついて、その写真を一緒に見た。
「つくづく思うんだが」
クラウスはため息をついてから云った。
「おれたちは役者みたいなもんなんだろうな。ある意味でな。おれはこの二ヶ月、あろうことかドイツ系のアメリカ人男としてずーっとやって来たんだが……しかしアメリカ英語は苦痛だった。しまりのない発音、やたらと耳障りなR……正直に云うとな、おまえの英語が聞きたくてたまらなかった」
クラウスはぼんやりと、どこを見るでもなく、遠くを見ていた。わたしは彼の肩に頭をもたせた。
「そういうことはいい加減、部下にやらせろ、と上の連中は云うわけだ。でもおれの部下は二十六人しか……いや、二十六人も、と云うべきだ、とか主張するやつもいる。んなやつはほっとけ。とにかくこの二十六人の中で、やりくりせにゃあならんだろ。向き不向きもある、みんな万能選手じゃない。向かないところに無理矢理送り出したら下手すりゃ死んじまう。だったら、おれは自分で動く方が気が楽だ。というかなあ、おれは、管理職に向かないんだ。自分で首つっこむのが大好きときてる。エーベルバッハ少佐から、ぜんぜん別の、なんの誰それになるのも苦痛じゃない。任務ならな。で、その誰それになることに没頭していて、ふと、おれはこのまま、このまったく別の男として生きていけるんじゃないかと思いはじめたりする。そういう瞬間があるんだ。新しくできた仕事仲間とかご近所さんとかな、そういうものに、警戒しながらもなんとなく愛着を持ちはじめとる自分に気づいたとき……それで、あわてて戻る。事実そうやって、そのまま別の人生に没頭して戻れなくなるやつもいるし、そういう二重の人生ってのに耐えられなくなって自滅するやつもいる。そういうやつらを、うまいこと役目をこなしてる連中は笑うが……おれは笑えない」
クラウスはまだ遠くを見ている。わたしは彼を抱きしめた。見慣れた、傷跡もほくろの位置もなにもかも知っているその身体に手を回して、抱きしめた。
「でもな、たとえばおれがエーベルバッハ少佐でないと、おれの部下どもは困るだろ。やつら出来の悪い連中ばかりだしな、部長も使えん阿呆だし。今回はな、おれはこれを、見ていた」
少佐は左手でつかんでいたわたしの写真に視線を移し、ひらひら揺さぶった。
「最初は女対策に、と思ってたんだが……こりゃあ効いた。すこぶる効いた。所帯を持つとか、恋人を作るとか、そういうことは危険だから、あるいは不幸の元だからやめろ、という意見に、おれはどっちつかずの態度で来たんだが……いまならたぶん、部下か誰かにそれを訊かれたら、自分がこの自分でなきゃならん理由を作っとけ、と云うと思う。意地でも、這ってでも、もとの自分に戻らなきゃならん理由を作っとけ、そう云うと思う」
クラウスはしばらく写真を見つめ続けていた。それから微笑して、わたしを見た。わたしは泣いていた。彼はわたしの頬を流れている涙をぬぐって、わたしに唇を重ねてきた。わたしたちは静かに、時間を忘れたみたいに、あるいは、時間が止まったみたいに、黙ってキスをしていた。
たいていの男には、セックスの最中に見せる、ちょっと特別なくせとか、好みとか、習慣のようなものがある。クラウスの場合には、名前を呼ばれることに対する一種独特の執着というか、そんなようなものがあった。もう息も絶え絶えであっちもこっちも大変、そんなときに、彼は自分の名前を呼ばれることを欲する。呼んでくれとかいうんじゃない。彼の云い方はこうだ。おれは誰だ? わたしの耳元で。わたしと同じくらい切羽詰まった呼吸のあいだから。わたしは応える。クラウス、クラウス、クラウス、クラウス…………
わたしはそれについて、あまり深く考えていなかった。オルガスムスに達するためにいろいろとややこしい儀式が必要な男もいるし、特定の行為がないとだめな男もいるし、そういう性癖は、ひとによってほんとうにさまざまだから。でもこの日、いつもみたいに、もしかしたら少しいつもより熱烈に、抱き合って昇りつめようとしていたとき、そして彼がいつものようにそう云ったとき、わたしがそれに応えたとき、わたしは彼がなにを求めていたのか、はじめて理解した。わたしは震えた。震えが止まらなかった。心臓に太い杭を打ちこまれたみたいな気がして、震えながら泣いた。嗚咽を漏らして泣いた。わたしはもういたのだ。彼の、一番深いところに。いつの間にそこにたどり着いていたのか、ちっとも気がつかなかったけれど。
わたしの髪を梳きながら彼は云った。おれの仕事は、絶対秘密厳守の、誰にも話せないことだらけだから、と。わたしは、そんなこと別にいいんだ、と云った。だって、そんなこと知らなくたって、わたしは君がクラウスだってこと、誰よりもよく知っているつもりだから。君が、わたしが女装していようとなんだろうと、わたしだってことを認めてくれるように。
クラウスは微笑んだ。そうしてわたしの肩に鼻先をうずめて目を閉じた。今度はわたしが彼の髪を梳いてやった。彼はもう眠っていた。安心しきった顔をして、眠っていた。