おまけ 恐怖のぬいぐるみ事件
Taedet tui sermonis.
君の話はうんざりだ。
―― プラウトゥス
「ねえあなた、最近体調は大丈夫なの? よく眠れてる?」
妻の気遣うような声に、Aは車に乗りこもうとしていた身体を止めた。
「どうしたんだい? 急に」
笑いかけると、妻はいくらか戸惑うような顔をした。もしや、またなにか寝言でも云っちゃったかな? Aはしまったな、と思った。ほかのことはたいがいコントロールできたけれど、うなされるのだけは自分では止められなかった。だからといってそれを気にし過ぎると、また眠れなくなってしまう。そうしたらよけい彼女に迷惑がかかる。それでなくても妻は勘のいい女性だった。ごまかすのに四苦八苦して、結局ごまかすのをあきらめた。云わないかぎり聞かないわ、でもうそをつくのはやめてちょうだい……Aは昔からうそが苦手だ。変なスパイねえ、うそをつけないスパイなんて。
微笑んだら、彼女にうそをつくのと同じだ。Aは笑いをひっこめて、ぼくなにか、変な寝言を云った? と訊ねた。
「云ったわ。クマのぬいぐるみがどうたら、って」
Aはきょとんとした顔をし、それから笑いだした。妻が怪訝そうな顔をした。
「ごめん、だっておかしくてさ……あははは……ごめんごめん、心配かけちゃって……」
笑い転げる夫にじれたのか、妻は近づいてきて、彼をぶった。
「いやなひとね! ひとが心配してるのに、自分だけ大笑いして!」
「ごめんごめん」
Aはようやく笑いをおさめて云った。
「クマのぬいぐるみがどうかしたの?」
Aはまたちょっと笑って、妻の耳に唇を寄せた。
「内緒だよ……実はね……」
「おいA、聞いたぞ、少佐のテディベ……」
Aは相変わらずよく通るBの声をあわてて封じにかかった。
「ばか、B、声がでかいぞ」
口をふさがれて、Bはもごもごとうなった。Aはちょっとにらみつけてから、手を離した。
「少佐がどうしたのよ?」
Gがお手製のチーズとベーコンのサンドイッチを食べ終え、疑るような視線を向けてきた。その隣では、相変わらずZが同じものを粛々と消化していた。Zは正直に云うと、別に食堂のメニューで事足りるのだった。厨房で働いている女性従業員たちは、Zをまるで息子かなにかみたいに思っていて、彼の皿はいつも必ず大盛りにされるからだった。
「若いんだから、しっかり食べて、がんばりなさいよ」
というせりふが、毎度毎度決まり文句のようにZに浴びせられた。だがしかし、彼はだからといってGの好意を無にするようなこともできかねた。それで、昼食のあとはいつも軽く身体を動かして、胃の中を落ち着けねばならなかった。Zは正直なところ、ちょっとげんなりしていた。
「おまえ、なんで知ってるんだ?」
AがBを問いつめはじめた。昼食どきの食堂には多くの職員がいた。みんな思い思いに同僚や部下たちと食事をとっていたが、その実、情報部の会話に興味津々で聞き耳を立てていた。
「おいおいAくん、ばかなこと云っちゃあいけないな。おれたち、情報部だぜ、情報部!」
「おまえ、ほんとこんなときだけ優秀だよな……」
Aはため息をついた。
「まあな。でも云っとくけど、おれ、吹聴はしてないぞ。知ってるのはおれとDとEだけだ。で? いったい、ありゃどういうことなんだ?」
ほかの部下たちも身を乗り出して、Aにつめよってきた。ことにGは、気迫迫る表情で、もし黙っていればただではおかぬという決意をみなぎらせていた。Aはため息をつき、観念して話しはじめた。
「昨日、少佐が官邸に呼ばれたのは知ってるよな?」
部下たちはみんなうなずいた。ほかのテーブルの連中も、耳をダンボにして聞いていた。
「建物の前で少佐を待ってたら、少佐の車が見えたんで、一応迎えに出たんだ。少佐が駐車場に車を止めてるとこで追いついたんだけど、そのとき、少佐の車の助手席にさ」
部下たちはよりいっそうずずいとAに身を寄せてきた。ほかの連中も、椅子から転げ落ちる寸前まで身を乗り出していた。
「ものすごくかわいらしいテディベアが乗ってたんだ。こう、シートベルトして、おしゃれなズボンとシャツを着てさ」
食堂がしんと静まり返った。部下たちはおそるおそる顔を見合わせた。Gはおなかが痛いような顔をして考えこんでしまい、Zは青ざめた顔をして、サンドイッチを口へ運ぶ手が止まっており、ほかの部下たちもみんな頭が痛いときのような、具合が悪いときのような顔つきをしていた。
「シュタイフだったか?」
Bがのんきに訊ねてきた。
「知らないよ。とにかく、ふわふわした茶色い毛の、愛らしい顔したベアだった。おまえらどう思う? なんであの少佐のベンツの助手席に、テディベアが座ってるんだ?」
みんな苦しい顔で考えこんでしまった。食堂にいたほかの部署の連中はしかし、得意げな顔で、あるいは面白がるような顔で、にやついて、ひそひそと話し出した。
「少佐はなんにも云わなかったのか?」
Dが訊ねた。
「うん。それにぼくも、あんまりおそろしすぎてなにも訊けなかったよ。だってさ、そうだろ?」
もちろんだ、とみんなうなずいた。
「……きっと、深いわけがあるのよ」
Gがあえぎあえぎ云った。
「そうですよね、きっと」
Zが強く何度も首を振りながら云った。
「そうに違いない」
Eが重苦しい顔つきで云った。
「少佐が休暇中なのと、なにか関係があるんだわ」
Gは額に手を当てて目をつぶった。
「だいたいこないだからおかしいわよ。少佐がまともに休暇だなんて。あのひと、そんなことする柄じゃないわ。きっとどっかで密かに動いてるのよ。テディベアは、たぶん情報の受け渡しかなんかに必要なんだわ」
「まあ、穏便に考えればその線だけどなあ」
Bがつまらなそうに云った。
「だけどさ、みんなどうもおかしいと思わないか? 納得できなくないか? 少佐はそりゃあ、自分で動くし、たいがい自分で解決しちゃうさ。おれらなんかいなくたってな。でも、もし少佐が密かに活動してるとして、おれらの中でだれひとり、なにも知らないなんてことあるか? もし少佐がほんとに休暇中だったらどうする? いつだかのぬいぐるみも、今回のぬいぐるみも……ぬいぐるみ続きじゃないか。もしもさ、もしもだぞ、少佐がぬいぐるみが大好きで、ベッドのまわりにぬいぐるみをいっぱい並べて寝てたらどうするんだよ? それこそ、大事件じゃないか!」
「やめて!」
Gが悲鳴を上げて立ち上がった。
「云わないで、B、黙んなさいよ! それ以上云うと、ぶち殺すわよ!」
Gは叫びながら食堂を出ていった。残った部下たちも決まり悪そうにお互いを見やった。食堂にいたほかの部署の連中はざわつきはじめ、ある連中はひそひそと内緒話をはじめるし、別の連中はますますにやにやしながらことの成り行きを見守った。
「……………………どう思う」
懲りないBがみんなを見回しながら云った。
「やめましょうよ、少佐のことをあれこれ想像するのは」
Zが疲れたような顔をして云った。
「ぼく、考えたくありません」
「ぼくもだ」
Aがうなずいた。ふたりは立ち上がって、食堂を出ていった。残された部下たちも、次々に立ち上がった。
「おい、なんだよ、おまえら、夢がないなあ。少佐が実は乙女趣味だったらおもしろくないか? 実はぬいぐるみをだっこして寝てたらおもしろくないのかよ? ちぇ、ノリの悪い連中だよ、まったく!」
Bはぶつぶつ云って、Zが手つかずで残していったGのお手製サンドイッチをつまんだ。
情報部の連中が散り散りになってしまったので、よその連中も、こぞって食堂を後にしはじめた。昼休みはまだ半分ほど残っていた。彼らは急いでほかのみんなにこのニュースを伝えなくてはならなかった!
少佐のテディベア事件は、その日のうちにNATOボン支部全域に知れ渡った。噂は噂を呼び、とても口には出せないような内容までがでっち上げられ、議論された。休暇帰りのエーベルバッハ少佐はもちろん、ただひとりそのことについてはなにも知らなかったが、それからというもの、ときどき彼宛に送り主不明の、おそらく複数人からと思われるぬいぐるみやぬいぐるみ用の服が届くようになってしまった。少佐はけげんな顔をし、はじめのうちは捨てていたが、男の子用の服だけは使えるかもしれないので持ち帰ることにした。伯爵はもちろん、受け取らなかった。どこの誰が作ったものかしれない服を、大事な友だちに着せるわけにいかない、というのだった。確かにそれはそうだった。で、少佐はこれまで通り全部捨てることにした。
「部下A、わからないんだが、なんだって最近おれのところに、ぬいぐるみだのぬいぐるみ用の服だのが届くのかね?」
こう問われた部下Aは震え上がって、また数日のあいだうなされ、美しい細君をたいそう心配させた。