港にての物語

 

 

 夜明け前の港は濃い霧の中に包まれていた。空気はたっぷりと湿気と潮気をふくんで重たくまつわりつくようだった。まだ光の差さない中に、それでもかすかな光の予兆のようなものがほのめいていた。静かだった。ずらりとならんだ船やボートもまだ深い眠りの中にいるかのようにうごかなかった。埠頭に立ちならぶ堅牢なレンガ倉庫も、ひんやりと冷たい朝まだきの気配のなかでじっとしていた。黒黒とした海面だけがかすかに揺れうごいていた。
 ふいにその静止した景色の中へひとりの男があらわれた。くたくたになった灰色の帽子をかぶった、小柄な老人だった。青いつなぎの服を着て煙草をくわえ、ゆったりと桟橋へ近づいてくる。老人のうしろから、小さな鞠みたいな犬が転がるようについてきた。それが合図であったかのように、どこからともなく男たちが船着場へあつまりはじめた。話し声があたりに響きだし、犬が吠え、荷物をころがす音や船のエンジン音などで、静まりかえっていた港はたちまち活気づいた。太陽がこのさわぎにようやく目をさまして、地平線のむこうからのんびりと起きあがってきた。雲の多い鈍色の空が徐々にあばかれてゆく中を、船が一艘、また一艘と、地平線にむかって出航した。例の小柄な老人が、船着場の隅でじっくりとパイプをふかしながらこの船出の景色を満足そうに見まもっていた。その横で鞠みたいな白犬が、海にむかってさかんに吠え、しっぽを振った。
 老人の横へ、男がやってきた。立派な身体つきではあったが、港町の男でないことはすぐにわかる。身ごなしに隙がなく、歩きかたがいかにも軍人式だった。黒髪をうしろでひとつに束ね、無造作にシャツを着ていた。老人の横に立つと、男はふところから煙草を取りだして吸った。そうして老人と同じように海を見やった。
「今日はひと雨降るだなあ」
 老人が空を見てつぶやいた。刈りたての羊毛の山のような、美しい雲が帯状になって広がり、朝日を受けて端々がバラ色に輝いていた。老人の日焼けした、しわのきざまれた顔にもそのバラ色が当たっていた。
「天気予報じゃそんなことは云っとらんかったがね」
 男が云った。老人はひとがよさそうに笑った。
「あんなもんはいざってときにゃ当てにならんだ。なんでもそうだがよ! これってときにゃあ、自分の勘のほうがよっぽど頼りになるだ」
 老人はくるりとうしろを向いて、来たときと同じようにのんびり歩き出した。すこし腰が曲がり、がに股気味ではあったが、いかにもどっしりと力強くたのもしい歩きかただった。犬がうれしそうに主人にしたがった。数歩行って、男を振りかえり、早く来いというようにしっぽを振った。男はもう一度空を見上げ、いぶかしげな顔をしてから、歩き出した。

 

 北方のこのちいさな港町に、ひと月ばかり前から都会者の男がひとり住みついていた。といって、まったくのよそ者なのではなかった。男はヘルマン老人という、町の名物男の家へ居候していた。このヘルマン老人は、町で代々漁師をしているルーエ家の長男として生まれ、いまでこそ郷土愛に満ちて漁師ひと筋だったような顔をしているが、若いころは故郷を嫌って家を飛び出し、行き当たりばったりの放浪生活を送り、相当にあぶない橋も渡ってきたという話だった。たしかに老人は七十を過ぎたいまも好奇心にあふれ、かつ深い思慮を秘めた輝くような目をしており、なにか不思議に存在感のある男で、骨太の頑丈そうな身体つきと、どこか隙のない身ごなし、日焼けした顔に刻まれた深い皺などがその並ならぬ人生を物語っているように思われなくもなかった。そして実際、この七十を過ぎた老人の話は文句なく面白かった。ことに酒場でビールとともに供されるにさいしては、誰しも聞き入らずにはいられなかった。ヘルマン老人は、目をいたずらっぽく輝かし、独特のしゃがれ声をもちいて、ベルリンの街角で出会った娼婦の最期を見とどけた話や、ケチな窃盗で捕まって脱獄をはかった話、鼻持ちならない金持ちを引っかけて千マルク儲けた話、果てはひょんなことから旧東側でスパイとして暗躍した話まで、それを商売にしているかのように面白おかしく話すのだった。
 もっとも、その興味のつきない話にたいする町のひとびとの受け止めかたは千差万別で、ひとによって半分信じたり、ぜんぜん信じていなかったりした。酒が入れば入るほど舌はまわり、話は大きくなっていくので、まじめな連中の中には大ホラ吹きだと眉をひそめるのもいた。だがその他ほとんどの、もっと寛大な連中は、この老人をたいそう好いていた。実際ヘルマン老人は、話を多少大きくするという欠点があるだけで、情が深く、もと勇敢な漁師であって、口先だけとも云いきれない存在だった。とくにいっしょに漁に出たことのある男の中で、この老人のことを敬わないのはひとりもいなかった。
 このヘルマン老人には、太って小柄な、老人より十以上も年下の細君があった。老人は四十を過ぎたある日突然、それまでの数かぎりない放蕩といたずらに見切りをつけ、この細君をともなって港町へ帰ってきた。そうして生家へどっかりと腰を落ちつけ、子どもを三人もうけて育て上げ、両親を看とり、息子が成人して結婚し、りっぱな跡継ぎになると、かねてより目をつけていた町はずれの空き家に夫婦で移り住み、完全なる隠居生活に入った。三十年以上におよぶ結婚生活のあいだ夫を終始支えてきた細君は、かつて貴族のお屋敷で女中をしていたことがあった。目下ルーエ家へ居候中の男は、この細君の奉公先の当主なのだった。
 この男……エーベルバッハ少佐なるものものしい名前をもったこの男は、これまでにも何度かヘルマン老人のところへ居候していたことがあり、町の者は誰でも知っていた。もとの主人に忠実な細君の話では、軍人というものは余人の想像もおよばぬ激務をこなすのであって、ときおりこうした気分転換の休養を要するのだ、ということだった。細君は、この少佐を自分の息子みたいに大事にして自慢にしていた。もう四十にもなっているであろう男をつかまえて「ぼっちゃま」と呼んではばからず、毎日ぼっちゃまの好物をこしらえるといって、せっせと八百屋や肉屋に通って料理をこしらえ、ぼっちゃまの服のボタンが取れているからと買い求めに出てみたり、新しい靴下を買いに来たりした。陸軍将校ともあろう男のほうも、この「ぼっちゃま」という呼称がぜんぜん気にならないらしかった。それで、この男は町中の連中に、かげでは「ぼっちゃま」と云われていた。
 そのぼっちゃまは、毎日規則正しく散歩をし、ぶらぶらして過ごしていたが、夜も明けきらないうちに出ていった漁船がもどってくるころにはたいてい港にいて、誰に云われるでもなく仕事を手伝ったりしていた。二、三親しくしている漁師がいて、重たい荷を積み出すのに手を貸してみたり、云われた場所まで運んだり、好んで力仕事をするので、町の連中の評判は上々だった。
「あんた、ここへ休みに来てんだってえじゃないか、いいのかい」
 と思わず聞いたさるおかみさんに、
「おれは仕事が好きなんだ」
 と答えたのだということだった。そうして水揚げが終わると、たいていは男たちと連れだって飲みに行った。整った貴族ふうの容姿をよそに、田舎らしいうちとけた気安い感じがあった。この陸軍将校は、いまでは港町にすっかりなじんでいた。そして町の娘たちの中には、みずからの感情にみずからすすんでかなわぬ恋と名づけ、そのことで舞い上がってみたり胸を痛めたりしているのがいた。

 

 ヘルマン老人の細君は、つやつやしたなめらかなバラ色の頬をしていた。快活な顔つきと声は若いころからほとんど変わっておらず、いつも無造作にまとめられている栗色の髪はいまもってつやめき、たっぷりとしていた。その太って張りのある身体つきはまだ多分に女くささを漂わせていて、朝露をあびた野草のようにみずみずしかった。このうるわしい細君が、朝まだ薄暗いうちに起きだすより先に、夫のヘルマン老人は家を出て、港へ行く。船の出るのを見るのが好きなのだった。数年前までは、細君も同じような時間に起きて、したくを整え、漁に出る夫を送り出したものだった。いまでは、細君はすこし朝寝坊になった……そしてたぶんそのために、日々ますます快活になっていくようであった。
 この快活な細君は、早朝起きだして身なりを整えると、まず台所にある裏戸をくぐって庭へ出て行く。この庭は正しく細君の領土であり、細君はそこでバラや季節の花、ハーブと野菜を育てていた。正方形にちかい形をした庭は、ヘルマン老人お手製の柵でかこわれており、これまた老人が細君のために手作りした味わいある木のベンチがあった。細君は野良仕事で疲れるとそこへ豊満な腰をおろしてひと休みし、雲のようすを眺めたり、自分の領土を満足げに見まわしたり、だまって風に吹かれたりした。夕方空がバラ色に染まりだすころには、今度はヘルマン老人がそこへ陣どって、パイプを片手にぼんやりすることもあった。
 庭は冬をのぞいていつもみずみずしい緑に燃えていた。ことにバラの花咲くころになると、細君がいろいろの骨を折った努力がみごとに実り、庭をかこむ柵に沿って、赤や白や黄色の美しいバラが、濃い緑の葉のあいだで咲きほこった。あたりには甘いバラの香りがただよい、道行くひとを思わずふりむかせた。バラは長いこと強く香り、毎年町で一番最後まで咲いていた。ひとびとはこのバラをほめ、幾人かの園芸愛好家はこぞってその秘密を聞き出そうとしたが、細君は特別なことをしていないと笑うばかりだった。あるときには噂をききつけたどこか都会の花屋が、自分の店へおろしてくれと云いに来たことがあったが、細君は笑って首をふるばかりだった。ヘルマン老人も、庭のものは妻の裁量だからといって承知しなかった。都会の商人はがっかりして帰っていった……帰りぎわに、「しかし、見事なバラですなあ!」と云いのこして。
 小さな庭は、このように細君の王国だった。いま、うるわしい五月にさしかかり、庭のバラは去年と同じように一輪また一輪と恥じらいがちにほころびはじめ、細君の節くれだって荒れた手は、その見返りを得ようとしていた。日の出る前に、細君は裏戸のわきにある水場で水を汲み、丁寧にあちこちへかけてまわる。目につく雑草を引き抜き、芽を出し葉を広げはじめた畑の野菜やハーブを満足そうに眺め、ただよいはじめたバラの香りを胸に吸いこんで、テーブルへ飾るための花を二、三本切りとると、細君は満足して台所へ戻ってゆく。
 朝食の用意をしているあいだに、居候のぼっちゃまが起きてくる。夫はとっくに帰宅してテーブルにつき、パイプをふかしながら新聞を読んでいる。白い飼い犬はひと足先に朝食を与えられて満足げにテーブルの下に寝そべっている。あいさつが交わされ、男たちのあいだで今日の天気についての会話がはじまる。
「今日は少し風が出とるが、悪くねえ天気だだ、少佐。今日あたり、またやるかもしんねえ」
「そうか。そんなら出かけよう」
 この日はこういう具合だった。こうなると、ぼっちゃまは昼前から町はずれの丘へ行き、昼過ぎまでそこにいる。細君は弁当をこしらえてやらなくてはと思った。細君は料理人だった。もちろん、エーベルバッハ家で料理番をつとめているマンツのように、遍歴の旅へ出て腕を磨いたというのではなかったが、家庭にいる情熱的な料理研究家のひとりだった。土地柄常食される魚の臭みをとったりごまかしたりする方法や、その風味を生かす方法についてかさねてきた研究には、ちょっとしたものがあった。そして細君の素朴な田舎料理を、都会派のぼっちゃまはたいへん好んでいた。細君はたっぷりした両腕を組み合わせ、冷蔵庫の前で弁当の献立を考えはじめた。

 

 

 町の海に面した側は、だらだらと眠たくなるような海岸線が、雲の多いぼんやりした空を背負って続いている。港の周囲にひろがる町を過ぎると、森が広がっていて、このあたりがまだ未踏の処女地だったころの名残をとどめているようである。その森を南東の方角へ進んでいくと、森はしだいにひらけて、小高い丘になる。丘からは海が一望でき、北東に目を向ければポーランド領の小さな島が遠くに見える。
 この森や丘を含めたあたり一帯は、かつてはヘルツベルク家という一族の所有であった。いまではかつての多くの大領主たちと同じように没落して、過ぎ去った栄華をしのばせるものといえば、町からすこしはなれた、森を背負ってでんとかまえている大きな屋敷だけである。そのお屋敷に、当代のあるじが二、三の使用人を置いて、さびしく暮らしていた。
 このヘルツベルク家の現あるじは、五十を過ぎたなかなか整った顔立ちの男で、二度結婚して、二度とも不幸な結果に終わっていた。町のひとびとの話では、別れた女房というのはふたりとも都会の気どった、かなり高飛車な女で、しばらくのあいだは領主館の女主人ということにすこぶる満足しているけれども、しだいにその「領主」なるものの内情をさとり、気晴らしの場所にとぼしい田舎暮らしにうんざりしはじめ、しまいには出ていってしまうのだということだった。
「その女房どもはよ、嫁に来たあたりにゃあ判で押したように同じようなこと云っただ。こんな海の近くの、静かな田舎に暮らすのが夢だったのよ……ってな。んで、まあいいとこ五年もたちゃあ、こんな田舎、気が狂っちゃうとかなんとかまた似たようなこと云ってな、出て行くのよ……」
 というのは、屋敷へ出入りしている八百屋の話である。
 エーベルバッハ少佐は、自身もまた旧領主であるところの身分として、この話を実に重く受けとめた。そうして、いまどきの旧領主や旧貴族というものはもはや特権階級ではなく豊かでもなんでもないこと、また、そのことを潔く認め、自分に見合った相手を選ばなければ立ちゆかないと云って、周囲のさかんな同意を得た。
「ヘルツベルクの野郎ってのは、いまだに家柄とか昔の栄誉にしがみついてやがるんだ。それしか自慢することがねえからよ」
 と町の若い漁師がばかにしたように云って、みんなまたさかんに同意した。エーベルバッハ少佐はというと、彼はどういう意見にもめったに心の底から同意するということがなかった。
 少佐はえっちらおっちら丘を登って、頂上へやってきた。片手には、細君がよこした昼食の入ったバスケットを下げていた。もう片方の手には双眼鏡が握られ、新聞がわきへはさまっていた。振りかえって町と海を見下ろすと、風がばたばたと吹きつけてきた。さすがにここまでは潮の香りはこないらしかった。眼下に、ブナやナラの濃い緑色をした森が広がり、その先にレンガ色を中心としたうるわしい港町が、そしてさらに先に、船をいくつも浮かべた海が横たわっていた。水平線のうえの空は綿のような雲をいっぱいに浮かべて、そのかげからにぶい黄色の光をはなっていた。こうして高いところから見下ろすと、海はすぐ近いように見えるのに、実際はずいぶんと離れているというのは不思議だった。はるか沖のほうに、船がのんびりと進んでゆくのが見えた。
 少佐は望遠鏡を目にあてがって、しばらく眺めた。それから微笑して、遠慮なく地べたに座りこんでバスケットを開けた。中にはサンドイッチとお茶の入った水筒、大きなハンカチ、それに細君の育てたバラが二本、飾りとして入れてあった。少佐はハンカチを地面へ広げてバラを飾り、サンドイッチの包みと水筒をのせた。それから両手をこすりあわせ、いよいよ食事にとりかかった。細君はこの日、少佐の好きなニシンの酢漬けとピクルスのたっぷりはさまったサンドイッチをこしらえていた。ボンではこうはいかない! 少佐は夢中になって食べた。風がからかうように少佐の黒髪をもてあそんで過ぎていった。日差しはうららかに降りそそいでいた。スズメがあたりをうろついていたので、少佐はパンくずを遠くへ放り出して知らん顔をしていた。スズメらはびくびくしながらパンくずへ近づいてきて、ぱぱっとつついてあわてて逃げ出し、しばらくするとまた戻ってきて同じことをした。羽虫が一、二匹、少佐にぶつかってあわてふためいてから、また飛んでいった。
 食事を終えると、少佐は細君のバラを胸ポケットに差した。これは細君に対する、食事への満足と感謝を示す合図で、細君は少佐が帰宅するとその胸元を確認し、バラが飾られているのを見て顔をほころばせる。あの逆らいがたいえくぼが出現し、目が輝くのを見るのは、昔から少佐にとってよろこびのひとつだった。あの細君がまだひとさまのものでなく、エーベルバッハ家のいち女中であったころには、その笑みはとくに母親のいないクラウス少年に向けて、慈悲ぶかく辛抱づよく向けられたものだった。当時からもう、お屋敷の若い女中は絶滅危惧種に指定されていた。クラウス少年のところでも、彼女が唯一の若い女性だった。クラウス少年の母親についてエーベルバッハ家にやってきた女中がいたが、彼女は自分のあるじが死んでしまってしばらくすると、もとの奉公先へ連れ戻された。そちらではたくさんの子どもを抱えていて、ひと手が足りなかったからである。
 この女中がもとの場所へ戻らなければ……そしてあるじの残した子どもがいたからには、その可能性のほうがずっと高かったのだが……ヘルマン老人の細君が奉公へ来ることはなかっただろう。クラウス少年はこの若い女中が好きだった。家の中で、少年を女らしく甘やかしてくれたのはこの女中だけだった。少年にはときどき、彼女は父親や、執事や、執事見習いのヒンケルや、ほかの男の使用人たちとはなにか別の世界から来たように思われることがあった。当時はまだほっそりしていた彼女の、魅力的な目の輝きとえくぼ、少年をしかるときのきびしく寄せられた眉……けれども、クラウス少年は彼女がどんなにおっかない顔をしていても、その隙をついて笑わせ、降参させる方法を知っていた。また彼女のほうでも、少年を責め罰することに徹しきれない甘さを、いつでもかなり残していた。
 ふたりは歳の離れた友だちのように、手をつないで庭を駆けまわった。彼女はその気になれば、かなり早く走ったり、するすると木に登ったりすることができた。少年が拾ってきた蛇のぬけがらや虫の死骸や、ポケットにつっこまれたごちゃごちゃと汚らしい戦利品にたいしても、顔をしかめたり金切り声をあげたりすることがなかった。彼女はいい友だちだった。そのくせ、ほかの使用人たちにない、近づきやすい、やわらかく包みこむ雰囲気をもちあわせていた。彼女にたいする子どもじみた愛着は、それから三十年以上もたったいまでも、まだ少佐の中で元気に活動をつづけていた。また、彼女の少佐にたいする愛情も、いまもって衰えをみせないようだった。
 少佐は腕時計を確認し、双眼鏡を手にとって海へ向けた。ちいさな漁船が一艘、ゆらゆらと右側からやってくるのが見えた。しばらくすると、左からも同じような漁船がやってきて、すれ違った。右から来たのは左へ、左から来たのはそのままポーランド領のほうへ進んで見えなくなった。少佐はそのようすをじっと観察しながら、ときおり右手で空中へ字を書きつけるような動作をした。それから双眼鏡を外して考えこんだ。
 しばらくすると、少佐は微笑してごろりと寝転がり、幸福な昼寝に突入した。風が気持ちよくそよいでいた。鳶が円を描いて上空を舞っていた。
 力強く勇ましい足音が近づいてきたので、少佐は目を開けて身体を起こした。ヘルマン老人が、少しくたびれかけた、けれどもまだまだ頑強な身体をゆすって、丘をのぼってくるのが見えた。白犬がときに先導するように、あるいは老人のうしろに隠れて、楽しそうに走っていた。少佐は微笑した。老人は小柄だが骨のしっかりしたいかにもしぶとそうな体格をしていて、杖をついてはいたが、その気になればそんなものは放り出して、ひと息に三百メートルも泳いでしまえるのを、少佐は知っていた。わき腹と胸に、ほとんど致命傷といえそうな大きな刃物による傷あとがあって、それを見たことのある人間は、どうあっても畏怖の念を抱かざるを得なくなることも知っていた。老人はその傷がついたいきさつについても、請われれば例の調子でおもしろおかしく話して聞かせた。多くの人間は、話半分に聞いた。しかし実際にこの老人を親しく知っている者は、そのうちのどの部分がほんとうで、どこらへんが作り話なのかについて、かなり正しく判断することができた。
「やっこさんがた、今日はやっただなあ、少佐」
 老人は顔をしわだらけにして、うれしそうに笑いかけてきた。そうして少佐に紙切れをさしだした。少佐はそれに目を走らせ、満足げに微笑して、ライターで燃やした。
「こん調子なら、あんたの田舎暮らしももうしばらくの辛抱だだよ。もっとも、あんたがこいつをいやがってればの話だがよ」
「おれは考えとるんだが」
 少佐はまじめな顔で云った。
「あんたの家に、漁師見習いをひとり置く気はないかね? 多少歳はくっとるが、あんたが改心して漁師になったのとそう変わらん歳のはずだ」
 老人は声をあげて笑った。
「そうなりゃ、おりゃあうれしいだよ。おれにゃ、もう漁師の息子がひとりおるだが、別にそれがふたりになったからって、どうってこたねえ。だけんど、たぶん……その見習いは、もって三ヶ月が限度だろうよ。そのころになるってえと、もうわけもなく退屈だって気になってきやがって、なんか変わったこたあねえかってうずうずし出すだな。おりゃあそう思うだ」
 少佐は微笑した。ふたりは肩を並べて丘をくだった。白犬は鞠のように転がりながら、運動へのよろこびに満ちてふたりの先を走っていった。
「そういやあ、さっき港でちょっとした事件があっただ」
 老人は杖先で足もとの草を払いながら云った。
「事件ちゅうほどでもねえが。さっき入ってきた船に、えれえ女がひとり乗ってただよ。つまり、どえれえ美人ちゅうこったが。おりゃあ都合七十三年生きてきただが、そんでも、あんな女見たなあはじめてだって云えっかもしんねえ。そんだけどえれえ美貌だっただ。ことにあの脚ときたらよう! おりゃあ、あと二十年若かったらまともに見れなかったかしんねえ」
 少佐は眉をつり上げて興味を示した。老人の話では、そのすさまじい美女というのは、歳のころ二十四、五かそこらに見え、金髪碧眼の、古典的で優美な顔立ちをしていた。意志の強そうな眉や、すばらしい稜線の鼻や、熟れたような唇や、すっきりしたやわらかい顎、しなやかそうな長い手足、盛り上がり、くびれてまた盛り上がる身体の線は決して横暴でなくつつましやかで、身につけているものも洗練されていた。彼女はやや時代がかったつばの大きな帽子をかぶり、膝丈のすっきりしたシルエットのドレスをきていた。そしてそこから見える脚が、とにかくすばらしかった!
 彼女は従僕か助手のような男をひとり従えていた。小柄で樽のような体型をした、ひげづらの男で、大きなトランクを抱えて彼女のあとにしたがっていた。このふたりづれがタラップを降りて上陸すると、ヘルツベルクが待ちかねていたように飛び出してきて、出迎えた。そうして自分の使用人に荷物を引き受けさせ、彼女に親しげな笑みを向けてあれこれと熱心に話しかけながら、迎えの車へ案内して、いっしょに屋敷へ向かった。
「たぶん、あの美人もヘルツベルクと同じような種類の人間かもしれねえ。親戚じゃあねえと思うが、似たような階級出身の人間だと思うだ。つうことは、今後あの美人がおれらの目にとまるような機会はほとんどねえ、ちゅうこっちゃ! 残念だがよ! ヘルツベルクの旦那は、おれたち町の人間とは交際したがらねえだから」
 老人の細君もその美女の到着を知っていて、夕食の席ではそのことがもっとも長く議論された。三人は細君お手製の魚の入ったスープと畑でとれた野菜のオーブン焼き、パンとチーズを食べていた。細君はたしかに料理人であった。少佐はこういう料理を自分の家にいるときには決して味わえなかった。料理人のマンツは、下賤の者が食べるような魚など決して食卓へあげようとしなかったし、まして田舎くさい魚と野菜のごった煮料理など、自分の名誉にかけてこしらえなかった。だが少佐は細君のごった煮スープが大好物だった。一年も食べないでいると、もうたまらなくなつかしいような気がしてくるのだった。
「女たちの意見はまっぷたつよ」
 細君は男たちのためにパンを割き、料理を回しながら、いかにも話を楽しむように目をきらめかせて云った。
「ひとつには、あれは生まれつき優雅になるように教育された女だという意見。もうひとつは、生まれてしばらくしてからそれを身につけたのだという意見。彼女のアクセサリーはすばらしかったらしいわねえ! 要するに、それを先祖代々受け継いできた女なのか、男からもらってきたような女なのか、という論争なのね。だけど、あれはどう見てもヘルツベルクの第三の嫁候補だという意見では一致してるのよ。陸から来ればいいのに、わざわざ見せびらかすように海からあがってくるなんていやらしいと云ってるひともいるわ……」
 細君はこの意見の対立をあきらかに楽しんでいた。そして彼女自身は、賢明にも判断を差し控えていた。
「おれの考えじゃあ、あの女は生まれつきものに囲まれて育ったほうだと思うだ。だけんどもよ、これで女どもはしばらくほかのネタを漁らねえですむんでねえか」
 ヘルマン老人は地元のアルコールの高い、気長に寝かせた黒々としたビールを飲みながら満足そうに云った。
「健全で無害な話題だだな! その女は美人で、ヘルツベルクの旦那とかかわってて、しかもよそもんだ! 町の誰にも害がおよぶ心配がねえだ……どこの亭主がどこの女房と浮気してるだの、どこの家のガキがどこのガキとくっついたの、そういうのに比べりゃあ、いい餌だで、まったく」
「ほんとうね」
 細君はちょっとまじめな顔になって同意した。
「最近はあまりみんなが面白がるような話題がなくて、こんな状態がもう一週間も続いたら、誰かが話題づくりのためだけにどこかの亭主をけしかけたりするんじゃないかって、わたしは思ってたわ! ぼっちゃまは、はじめのころはそりゃあもうえらい話題をさらったもんだけど、いまではすっかり当たり前のひとになってしまったし。今日来たというその女性には悪いけど、しばらくみんなを楽しませてくれそうよ」
「その女がヘルツベルクって名字になるかどうかは知ったこっちゃねえだが、あの旦那もええ加減身をかためたほうがええんでねえかとは思うだな。あの旦那は本来が、女なんぞなしに過ごしたほうが気が楽だなんつうタイプじゃねえこたあ確かだ。連れなんぞいらんと思うような人間にしたって、ひとりきりでこの世を過ごすちゅうのは、晩年になればなるほどこたえてくるもんだ。それに、家族をもつちゅうのは別に悪いもんじゃねえだ。世間じゃ悪いようにばかり云うが。おりゃあそう思うだがなあ! おりゃあ、自分の子どもらがみんなおれの真似して四十年も引っぱらねえで、とっとと結婚しちまいやがったんでうれしいだよ。もちろん、いろんな考えがあるのはわかっとるだが」
 この実に家庭的な男が、いったいどういうわけでそこへ帰結したのか? 以前にはひどい放浪癖の持ち主で、何度も我が身を危険にさらして飽きたらず、東西の極度に政治的な闘争の中で暗躍したこともあり、数々の浮き名を流しもしたらしいこの男が。少佐にはよくわからなかった。少佐にとって、このヘルマン老人はいつまでも魅力的ななぞであった。これほど剛胆で、これほど機知に富み、これほど危険というものの似合う男が、こんな田舎の漁師としての一生に深く満足して、起伏のすくない毎日をよろこんでいるのはなぜだろう? 自分は耐えられるだろうか、と少佐は考えた。少佐は想像した……ボンのあの城において、嫁と子どもと使用人にかこまれ、老いてはたぶん息子夫婦と孫たちにかこまれて過ごし、やれ子どもの進学だの結婚だの、飼っている犬が子どもを生んだのといったことが人生の大がかりなできごとで、妻がしだいにそっけなく高慢にかつ肥大してゆくのを見届け、それにともなってみずからもなにか大きな平凡な流れの中へ埋没して鈍化してゆくのにまかせ……
 あるいはそれが平穏であるということなのかもしれなかった。あるいはそれが、この地上における最大限に合理的な生き方であるのかもしれなかった。しかし少佐はそういう男ではなかった。そういうところへ沈むのを、みずからにゆるすことのできる性質を持たなかった。なんといっても、少佐は危険な刺激というものを愛していた。そしてそういう人間の性として、どこへ行ってもその種を見つけてしまうのだ。あるいは危険や刺激のほうが少佐を愛していて、どこへでもやってくるのだろうか?
 いずれにしても、この町にもこれでなにがしかの小さな嵐か、落雷の予感がほのめきはじめたのは事実だ。美人というのはいつでもどこでも一種の嵐か落雷を引き起こしてやむことがない。少佐はあごをさすって、じっと考えこんだ。しかし、幸か不幸か、それは自分ではない! 雷は誰か別の人物のところに落ちるはずだ。美人という名の雷に打たれるのは何度経験してもいいものにはちがいないけれど……たとえ丸焼けになろうとも。

 

 

 予想されていた落雷はしかし、予想よりかなり早くに起こったようであった。お屋敷へ出入りしている八百屋のせがれは、今年二十三になるなかなか整った顔立ちの男だった。本人もそのことを知っていて、ちょっとした町のカサノヴァ気取りだった。どうやらこのせがれは、その情熱的な性質を母親から受け継いだものと見える。彼女はドイツのかなり南のほうの出身で、美人であり、なにか熱烈な光を帯びた、うるんだような大きな目をしていて、この町の女たちとはあきらかにちがっていた。ことばも少しちがっていた。そうして頑固に、自分のことばをつらぬいていた。そして、そういう女から生まれた息子が、町の純情な娘をたぶらかしたらしいとのうわさを仕入れるたびに、八百屋の亭主は激怒して、おまえのような不埒な息子は勘当するとおどしつけて家から追い出していた。カサノヴァ先生はしかし慣れたもので、そういう事態になったらめんどうをみてくれる女のところへ二、三日隠れていればいいのだ。そのあいだに、母親が泣いて必死にとりなしをしてくれ、しまいには父親の怒りを解いてくれるのだった。
 この放蕩息子が、ある日どういうわけだか父親のかわりにお屋敷へ使いに行った。より辛辣なほうのうわさによると、せがれは父親の腹を下させるか、一、二日気分がすぐれなくなる工夫をしたのにちがいないということだった。もちろん、彼はうわさの美人を垣間見る機会をねらっていたのにちがいない。そうしてじっさいに、その機会をとらえたのだ!
 この戦略的なせがれが、いつも父親がするように台所わきの勝手口で用ききをしているとき、偶然に例のご婦人があらわれたのだ。
「まあ、おじゃまでしたわね」
 と低い落ち着いた声でその女性は云った。雪のように白い頬には微笑が浮かび、薄桜の色をした唇が楽しげにひきしまった。青い目はからかうように戸口に立つ八百屋のせがれに向けられていた。
 このせがれは、その瞬間、これまで目にした中でもっとも美しく優雅な、そして真に洗練された女を見た。女は鮮やかな金髪を丁寧に結い上げ、耳から赤い宝石のついた小さな金細工のピアスをぶら下げていた。黒いレースで飾られた、直線的なシルエットの白いドレスを着て、藍色に染めたウールのショールを羽織っていた。衣類に覆われていない膝から下は、すばらしいとしか云いようがなかった。そしてその脚の先は、つつましくハイヒールの中へおさまっていた。たいへんに女性らしく優雅だったが、それでいてどこにも隙のないかっこうだった。
 このせがれは、彼女のような女性を表現できることばをもたなかった。彼女と比較しうるいかなるものにもふれてきたことがなかった。このせがれは、雷に打たれたように感覚が麻痺し、だらしなく口を開けて、しばらくまたたきもせずに女を見つめていた。麻痺していたにも関わらず、彼の本能からはすでにこの女にたいする希望が捨て去られていた。それは、たかが田舎町の八百屋のせがれにすぎない男が、気安く話しかけたりからかったりしていいような女ではなかった……彼はそのとき、生まれてはじめておのれにたいする深刻な恥の感情に見舞われた。彼は逃げ出したくなった。けれども女のほうは、この町の住人に興味をもって近づいてきた。彼の相手をしていた料理番の女が、これは町の八百屋の息子だと告げた。彼はまったく、いますぐにここから走り去りたい気持ちだった!
「まあ、それではあなたにお礼を云わなくてはならないわ……」
 彼女は育ちのいい女性が、無邪気に親切をありがたがるときの調子で云った。
「ここの食事には、わたしまったく満足していますのよ。料理の仕方というより、元の食材がいいからだと、彼女が教えてくれましたの」
 この発言はせがれにとって決定的だった。彼女はどう見ても、町の人間が近づけるような女ではない!
 せがれはあやふやな返事をした。料理番は意地悪くにやにや笑いながら、この若きカサノヴァの敗北を見て楽しんでいた。うるわしき女性はいまこのたった数分のあいだに、ひとりの若者のうえにいかなる打撃が加えられたか、なんにも気がついていなかった。そうして無邪気に、自分がここの逗留客で、屋敷の主人に頼まれて古い美術品や骨董品の調査をしに来たのだと告げた。
 せがれはこのままいくとお互い自己紹介をしなければならないことになると気がつき、あわてて次の用事があるからとその場をあとにした。彼はその女に名乗り出ることだけはしたくなかった……彼はアルフォンスという自分の名前を決して嫌ってはいなかったが、町の八百屋の息子という漠然とした印象以外のいかなるものも、彼女の頭に刻んではならないと感じた。そんなことをしたらみじめさに追い打ちをかけるだけだ。彼はもうたくさんだった。すでに彼女のために、とても扱いきれないほどのものを背負わされていた。
 もちろん、アルフォンスみずからが、こんな不名誉な報告を町のみんなにしたわけではなかった。それは料理番の配下にある女中からもたらされたものだった。彼女は自分の抱えている話題の価値を知っていて、いつも出し惜しみするような女だった。今回のことも、三日ほど出し渋ったあげくに、たっぷりと盛り立てて友だちに話したのだった。
 話は町中を瞬く間に駆けめぐり、その日の夕方には、もう酒場での最大の話題になっていた。ひとびとはアルフォンスの好色な興味と行動力について話しあい、それが実を結ばなかったことをからかい、意地悪くよろこんだ。少佐はいつもの漁師仲間とビールを飲みながらその話を聞いていたが、八百屋のせがれがなにかひどく、あわれなような気がした。町の女が女という種類のすべてであるかのように思いこみ、半ばそれを征服した気持ちになっていた若い男には、深刻な打撃にちがいなかった。この男は生まれてはじめて、自分がどういうものの中にいたのかを知っただろう。育った環境の差というものはたいていの人間にとって、一生涯縮まることがない。少佐は人生のかなり早いうちにそのことを意識した。かのエーベルバッハ少佐でさえも、その差を縮めるためにかなりの労力をはらってきた。このせがれとは逆の立場から。
 少佐が仲良くしている漁師のひとりが……彼はさばけた実直な男だった……このとき少佐にいみじくも云った。
「まあ、おれらの中でそのご婦人に見合うのは、ヘルツベルクの野郎をのぞきゃあ、あんたぐらいだろうなあ!」
 少佐は思わず八百屋のせがれの顔を盗み見た。彼はひどく真剣な顔で、少佐を見つめていた。そして少佐と目が合うと、あわてて顔をそむけた。

 

「カサノヴァがすっかりしょげかえってるそうですよ」
 その翌日、少佐が帰宅すると細君が云った。その日は天気がよかった。少佐は丘へのぼって細君の弁当をたいらげてきたところだった。バスケットには、今日はピンクの丸ぼったいバラが入っていた。それは当然、いまは少佐の胸ポケットにささっていた。
「さっき、父親が来て満足そうに話していきましたよ。彼ときたら、息子のためにその女性に感謝してるというんですよ……まさかあんた、お屋敷に行ったとき本人にそんなこと云いやしなかっただろうね、って訊いたら、云うもんかって答えだったからあたしはひとまず安心しましたけどね」
 細君はゆったりと台所とテーブルのあいだを立ちまわって、少佐へお茶を出した。少佐は彼女の豊かな尻がゆるゆると部屋の中を行ったり来たりしているのを見るのが好きであった……本来なら、それはヘルマン老人の特権であるはずだが、少佐は例外だった。細君の肉づきのよい腰まわりがゆさゆさと揺れながら用事を果たしているのを見ると、少佐は気持ちがゆったりし、おおらかになり、不思議な落ちつきをおぼえた。たっぷりした腕やまるまるとした手が仕事をするのを見るのも好きであった。少佐はときどき、ヘルマン老人がからかいをこめてするように、細君の尻をぽんぽんとたたいてみたくてしようがないときがあった。ときどき伯爵に対してしていることではあったが、なにかまるでちがった気持ちで、ちがった愛着でそうしたいと思うのだった。
「父親が女に感謝してるとして、母親はどうなんだろうな?」
 少佐は花模様の陶器のマグカップからお茶をすすりながら云った。
「母親も、同じように感謝するだろうか?」
 細君はお茶の用意を終えて窓辺の椅子に腰かけ、編みものをはじめていたが、手をとめて茶目っ気たっぷりに微笑した。魅力的なえくぼがふたつ、両頬にあらわれた。
「まあぼっちゃま、本気でおっしゃってるんですか?」
 細君はわざと目を丸くした。
「わたしは八百屋のご主人に、バラの花をいくつか持たせて帰したんですよ! 母親というものは、我が子がふさいでいるときには自分までふさいでしまいがちなものだからって云ってね。そうしたら彼は顔をしかめて、あいつは息子に甘すぎるって云ったわ。あの父子がしょっちゅう衝突するのは、どう考えても彼女が原因だわ……たぶんご主人は、いまごろ妻の気持ちを少しでも自分へ向けようと必死になってるでしょう」
 細君はため息をついて、編み針をすっかり膝のうえに置いてしまった。
「あなただって、エルゼのことはちょっとはご存じでしょう……エルゼは、わたしにだけは少し心を開いてくれるわ……結婚した時期もそう違わないし、お互いよそ者どうしだから。わたしはこの町に受け入れられようと努力したけど、彼女はちがった。わたしは夫の生まれ育った町で、わたしという女のせいで彼の評価を下げるなんていやだった。でもエルゼはちがったわ。あのひとは南の女で、ドイツ人というよりイタリア人だわ。夫の愛情と、息子への愛だけで生きられるひとなのよ。わたしなら、生意気な息子の鼻をへし折ってくれた女性に感謝するでしょう。しかも彼女がその気もなくそんな芸当をしてくれたんだとしたら、なおさらね。だけど、エルゼは違うわ! いつだって息子のためにいきり立って、武装して戦うような母親だと、わたしは思いますよ」

 

 

 少佐はゆるゆると丘をのぼり、双眼鏡ではるかな海を眺めた。眠たくなるようなうららかな日だった。港の周囲では、幾艘もの船が波にゆられていた。しばらくすると目下少佐の監視する船が、一艘は右から左へ、もう一艘は左から右へと、よたよたと横切っていった。途中、右からきた船の船員が海中へなにかを投げ入れた。左から来た船の船員は、しばらくたってから、網でなにかをひろいあげた。すれちがうとき、船はお互いに陽気に汽笛を鳴らしあった。
 少佐は自分の仕事が終盤に近づいていることをさとって、微笑した。バスケットをひらいてすみれ色のハンカチを広げ、絹のようにかすかな黄色味をおびた細君のバラに敬意を表してまっさきにそのうえへ置き、それからザワークラウトの入った瓶と、ニシンの塩漬けのサンドイッチを並べて、少佐は昼食をとりはじめた。白い蝶が丘をのぼってきて、どこかあぶなげに少佐のそばを通りすぎた。このあたりのスズメどもはすっかり味をしめていて、少佐が食事をはじめるとどこからともなく近くの木の枝までやってきて、ちょろちょろと様子をうかがうようになっていた。少佐は微笑し、いつものようにパンくずを遠くへ投げ出してから、横になって昼寝をはじめた。
 ……武装した女騎士の幻想が、少佐の頭から去らなかった。しかもそれは誇り高い処女騎士などではなく、中年の、なにかひと足ごとに重苦しさを感じさせるような騎士なのであった。彼女は大地にふんばって、剣をおろして立っていた。いざとなれば、いつでも飛び出せる構えだった。その目は超然としていたが、そのくせどこか残忍な、好色そうな感じをおびていた。そしてその騎士のそばでは、彼女の愛情をめぐる、男たちの醜いあらそいがおきていた。女騎士は、それには手を貸さなかった。ただ、男たちのうち誰かが打ち倒されそうになると、駆け寄ってさんざんにほかの男たちを罵倒し、剣を振りまわした。そうなると男たちはしばらくあらそいをやめたが、そのうちにまた聖なる決闘のなかへ戻ってゆくのだった。そうして女騎士は自分の持ち場から、また超然としてこのあらそいを見守るのだ。
 女騎士の顔は、はじめあの八百屋の細君エルゼの、赤みをおびた情熱的な顔をしていた。そのうちに、その顔は伯爵の好色な好奇心たっぷりの微笑にかわっていた。……
 草むらを踏みしめる足音で、少佐は目ざめた。彼は自分がなにかみだらな気分のなかにいるのを感じた。あの伯爵の微笑にあてられたにちがいなかった。少佐は微笑し、身体を起こした。出張中は連絡をとることはゆるさないと云い置いてきたので、帰ったらどんなうらみごとを云われるかわかったものではなかった。自分がどこへ行くのか、なにをするつもりなのかを彼に伝えることを、少佐は自分に禁じていた。自分が云わなければ、誰も彼から聞き出すことはできない。それで少しは安心できた。伯爵の大いなる犠牲のうえに成り立つ安心ではあったけれど。
 足音はしだいに近づいてきた。それがヘルマン老人の、まだまだ力強いものであることはわかっていた。果たしてなだらかな丘の下から、老人の姿が見えた。うしろには、いつものように白犬がくっついてきていた。老人は手を振った。少佐は立ち上がった。
「これが通信の中身だだよ。もちろん、書きうつしたもんだがね」
 老人は目を輝かせ、得意そうに紙きれを差し出してきた。少佐は目を走らせ、すぐにそれをライターで燃やした。
「しかしあんたの老骨を」
 少佐はバスケットを取りあげ、にやにや笑いながらヘルマン老人の肩を小突いた。
「おれは必要以上に酷使してるんじゃないかと思うんだがね。あんたがくたばっちまったら細君になんと詫びたらいいもんか、おれはいつも考えとるんだ」
 ヘルマン老人はひとがよさそうに笑い声をあげた。
「あいつの考えはわかっとるだで、大丈夫でさあね。おれがおっ死んだら、あいつは少佐ん屋敷へ終身雇用で雇ってもらうだって決めてるだよ。まんだ繕いものも家事もできるだ、ちゅうて。そいだら、執事のヒンケルだの、料理人のマンツだのいうやつらを、うんといじめてやれるで長生きできるだ、ちゅうて、あいつはいまからおれの死ぬのを待ってるだ。三人して、百を過ぎても生きててぼっちゃまを困らしてやるだ、ちゅうとるだよ」
 少佐は笑った。ふたりは肩を並べて帰路についた。
「思うに、彼女には庭をまかしたほうがいいだろう。庭師ひとりにまかせておくには、うちの庭は広すぎる」
「そうかもしんねえ」
 老人はうなずいた。
「あいつの指は、たぶん土かなんかでできてるだ。だから、植物がよく育つだ。考えたこたあねえですかな、少佐、女なんちゅうもんは、みんな土かなんかでできてんじゃねえかって。そんで男が、生意気にもそっからにょきにょき生えてるだよ」
「ありうることだ」
 少佐は少し考えてから、云った。
 丘をくだり、森を抜けて町へさしかかったとき、ふたりは八百屋の息子のアルフォンスが、左頬を腫らし、ふてくされたような顔つきで小走りに森へ入ってゆくのを見た。ふたりは思わず顔を見合わせた。白犬が、見知った若者に向かって走っていきそうになったので、ヘルマン老人があわてて鋭い声で止めた。犬はしゅんとして、主人の足もとへもどった。
「嫉妬に駆られた女が殴ったんじゃあないな、あの腫れかたは、間違いなく」
 老人はうなずいた。
「頬骨んとこが、いやな紫色になっとっただな。ありゃあ男の力だで。それもたぶん、父親の」
 老人はため息をついて、肩をすくめた。
「自分の経験から云うだがね、少佐、ああいうアルフォンスみてえな若え男は、どうあったっていつかはガツンと一発くらうだ。しかもそりゃあ、男の仕事じゃなしに、女の仕事だだよ。間違っても父親の仕事じゃあねえ! しかもあいつはこないだそれをくらっただ。そんなときに、家にいるのがあの父親と母親じゃあ……親父は怒り狂うことしかしらねえ。おふくろは、息子をやたらとかばうことしかしらねえだ」
 ふたりは暗い気持ちで家へ帰った。玄関のドアをくぐり、すこやかな細君がすこやかに支配する家の中へ帰還したときには、ふたりともほっとしたのは事実だった。あたりには、細君が飾りつけたバラの香りが品よくただよっていた。細君は例の豊かな尻をゆすって台所をみがいていたが、ふたりの足音を聞きつけて、手袋をはめた手で出てきて、茶目っ気たっぷりに微笑した。えくぼがふたつ、あらわれた。
「ふたりとも、もう最新ニュースを仕入れた?」
「あんだい、そりゃあ」
 亭主が訊ねた。
「八百屋のご主人がさっき、ナウマン先生の診察を受けたのよ! ひどく殴られて倒れたときに、頭を打ったの。それでエルゼが金切り声で先生に電話したってわけなのよ。ご主人はしばらく動けなくて出血もしたそうだけど、幸い大丈夫だったらしいわ。いつもかぶってるあの店の名前がついた緑の帽子ね、あれがなかったら危なかったそうよ」
 男たちは顔を見合わせた。
「おめえは昼飯からこっち、ずっと家ん中を掃除しとったでねえか」
 ヘルマン老人がいぶかしげに云った。
「いってえどっから話を仕入れただ?」
 細君は咲き誇るバラのように誇らしげにほほえんだ。
「女は、家にいながらあんたたち男よりずっといろんな情報を手に入れられるのよ」

 

 八百屋の極道息子はその晩から姿を消した。酒場では毎晩さかんに彼のことが議論された。
「あいつは親父を殺しちまったと思ったにちげえねえ。そいで、急いで逃げたんだ。親父を殴り倒したあと、あいつは真っ青になってたって云うじゃねえか」
「いや、あいつのこったから、もう誰か女から無事だってことは聞いてるはずだ。おおかた、どっかの家の小屋にでもしけこんでんだろうよ」
「だとしたって、いっぺんぐれえ親父のようすを見に行ってやったっていいでねえか。それか、おふくろさんをよう。エルゼだって、かええそうでねえかよ」
「おめえは昔っから、エルゼにやさしいからなあ! 気いつけねえと、今度ぁおめえが亭主に殴り倒されるだぞ」
 みんなはどっと笑った。からかわれた男はむっとして、おりゃああんな男、殴り返してやるだけのこたあできるだ、と云った。
 少佐とヘルマン老人は、あの息子が森へ入って行くのを見たと云いだすべきかどうか、判断がつかなかった。あの甘やかされた息子が本気でどこかへいなくなるとは思えなかったし、自分だったらこんなとき、しばらくひとりでいたいだろうと思ったからでもあった。ふたりはアルフォンスに、男としていささかの同情を感じていた。ヘルマン老人もかつては好き放題にやっていた息子だった。エーベルバッハ少佐も、若いころにはむやみに自分の武器を振りまわしていた時代があった。ある種の男というものは、そうやってめくらめっぽうに武器を振りまわしながら、自分の武力の程と扱いかたとを会得していくものなのではないのか? 多くの恥と屈辱をともないながら。
 少佐とヘルマン老人とは、食事を終えると細君の王国である庭へ出て、ベンチに腰かけて静かにビールを飲んだ。ふたりともなにも云わなかった。バラの生け垣がときおりさらさらと涼しげな、やさしい音を立てて踊るように身体をゆすった。うるわしい月夜だった。あたりは月の青白い神秘的な、感傷的な光に満ちていた。
「おりゃあ、四十をすぎてから改心しただ」
 ヘルマン老人がふいに云った。
「おりゃあそれまで、来る女はみんな拒まなかっただ。おれが自分でしかけたこともずいぶんあっただ。そりゃあ、おれだって、何度も折り曲げられたりくだかれたりしただよ。身を焼かれるような思いってのも、ずいぶんあっただよ。だけんども、そういうこともいまんなってみりゃあ、みんな思い出んなって海ん底へ沈んでっちまったみてえだ。ちっとつまんねえくれえだ」
 少佐はすねたように吐き出された最後のひとことに微笑した。
「……前から訊きたかったんだが」
「あいよ」
 老人は待ちわびていたように返事をした。そうして質問に対する好奇心に満ちた顔を向けてきた。
「あんたみたいな男が、なんだってこういう生活にこんなになじんどるのかとね。細君ができて、ガキができて、ガキがでかくなって、年寄りになる」
 老人は庭に目を向けて、ほほえんだ。
「そいつがさっぱりわかんねえ。ある日突然、もういいだ、と思っちまっただよ。もういいだ、ヘルマンよ、おめえの冒険の日々は終わっただ! と思っちまっただな。それがよ、少佐、そいつはあんたのお屋敷で起きただよ! おれがお屋敷行ったのはたまたまだった。用事を済まして、もうボンなんぞへ来ることもあんめえと思って、あちこちぶらぶらしてただ。おたくはちょっとした観光名所だでね、おれも古い城を見物するつもりんなって、出かけて行っただ。おれはいまの執事の前の執事に、見学を願い出て、歓迎された。そんで、庭師といっしょに敷地をあちこち歩き回らしてもらっただ。バラ園のそばを通ったとき……そんとき、女がひとりバラに向かって仕事してただ。庭師はおーいちゅうて、女を呼んだだ。彼女は立ち上がって、振り向いた。庭師が、なんか仕事の指示を出すついでに、これは見物客だっちゅうて、おれを指さして紹介した。彼女は左手に切ったばかりのバラの枝抱えて、泥だらけだっただが、猫みてえに好奇心たっぷりの目して、おれを上から下まで見た。そんで次の瞬間、微笑んだだ。えくぼがふたつ、くっきり浮かんだだ。まぶしかっただなあ! 庭師はすぐ歩き出しただが、おれはがまんできねえで、おめえさんの名前を教えてくんろ、ちゅうただ。そしたらあの女は笑って、おれにバラを一輪差し出しただ……それが、女の名前だっただよ。ローザ・インメル……いまじゃもう三十年以上もローザ・ルーエだ……ありがてえことによ! そんときの……あのおれに堂々とバラを差し出してきたときの、あいつの輝くような目とえくぼを見たときだなあ。おれはあんとき、いっぺん死んだだ。おりゃあそう思うだ」
 一度死んでよみがえった男は、それきり黙った。少佐はその先の話を知っていた。それから一年ほどして、ローザ・インメルは結婚のための退職を願い出て、受け入れられた。彼女は当時二十八になっていて、奉公に来て十年が過ぎていた。器量が悪いわけでもないのに、そのあいだに浮いた噂のひとつもなく、屋敷の誰もが、ローザはもう嫁に行かずに一生ここで働くつもりだろうと考えていた。だから、彼女の退職願いはたいへんな事件だった。執事はすっかり彼女をあてにしていたし、なり手の少ない若い女の使用人は貴重だった。執事はその晩、少佐の父親にたいして長々と遺憾の意を述べ、常にないことに少し酔っぱらったともきいている。そしてクラウス少年は、姉のように慕っていたお気に入りの使用人をひとり失ったのだ。少年は彼女を連れ去ってしまった男に、子どもらしいうらみをずいぶんつのらせた。彼女が意に反して連れ去られ、虐待されるのではないかと想像して、悪の権化のような男をいつか打ち倒さなければならないと夢見た…………
 風が出てきた。バラの枝が踊り、葉の茂みはうわさをしあうようにざわめき、咲き誇る花たちはうなずいた。少佐はわかったような気がした。なにについてかはわからなかった。そしてその答えをもうずいぶん前に知っていたような気がした。
「風が出てきましたよ」
 細君が裏戸を開けて、男たちに呼びかけた。
「もう家へお入りなさいな」
 ふたりの男は云いつけに従って、月光とバラの香りに満ちた庭から、家の中へもどった。道すがら、彼らはほとんど中身のなくなったビールのコップをぶつけて乾杯した。

 

 

 極道息子が姿を消してから一週間が過ぎた。母親のエルゼは、どこから見ても気が狂わんばかりになっており、父親は包帯で頭を巻かれた痛々しい姿で商売をしていた。そうして顔を合わせた人間全員に、あんな息子はこれきり帰らなければいいとわめきちらしていた。
「でもあのひとは、そろそろこたえはじめてるわ」
 朝食の席で細君は云った。
「間違いなくね。運の悪いことに、たったひとりの息子なんだもの……子どもがもうひとりふたりいたら、きっとそうでもなかったんでしょうけど。それで、ご主人はそんな自分にますますいらいらしてるわ。結果はというと、奥さんに当たり散らすのよ……わたしは昨日エルゼを見たけど、左頬が腫れてたわ。でも彼女は、誰にもなにも云わせないでしょう……そういうふうにふるまってたわ、痛々しいくらいに! あのひとは、男を献身的に愛さずにいられないのよ。一本気で、勇敢で……その称賛に値する態度が、あんな結果しか生まないのは、いったいどうしたわけなの? 彼女は息子を失うかもしれないってだけじゃなくて、いまではご主人の愛情まで失うかもしれないって思っているのよ。ご主人がいつ、おまえと結婚したのが間違いだった、と云い出すかと思って……」
 細君はそこで、朝食の席にはあまりにも重すぎる話題を振りまいてしまったことに気がついて、あわてて話を引っこめた。だが、誰もこの細君を責められなかった。町じゅうが、いまはなにか悲惨な、重苦しい空気に包まれていたのだ。多くの人間が、アルフォンスはもう帰らないかもしれないという考えにとりつかれはじめていた。何人かの娘たちは、若いカサノヴァのことを思って泣いていた。あたりまえにいたときにはたいして気にもかけなかった男が、いざいなくなってみると、なにか妙な空洞が生まれてしまったかのように感じられるのだった。
 少佐はもう、丘へのぼる習慣を守らないでもよかった。さらに云えば、別段ここでぐずぐずしているいわれはなかった。それにもかかわらず、少佐はまだぐずぐずと居残っていた。今日はもう十五日だった。少佐がここへきて、ひと月以上経とうとしていた。町では、なにかと役に立つ少佐を離したがらなかった。そして少佐も離れがたかった。
 少佐は細君のバスケットを下げて、丘へのぼった。もうこの習慣ともいいかげん今日でおさらばだろうと彼は思った。そう思うと、どこか悲しかった。少佐はボンへ帰りたくなかった。この港町ののんびりした景色が、ゆるやかな時間が、細君の庭が、料理が、耐えがたいほどの魅力をともなって少佐をひきつけていた。少佐はときどき考えることがあった……自分はもう引退して、こんな田舎へ引っ越すべきではないのか、と。すべての騒々しいことから身を引いて、毎日ただ生きるために、その日の糧を得るために働き、家に帰れば伴侶がいるのだという、そういうささやかな希望だけを頼りにして…………美しいバラの微笑みは、少佐のうえにももう投げかけられていた。それはもうずいぶん前に、少佐の前にあらわれていたのだった。けれども少佐は、その微笑みだけを大切にして生きるような境地へは、まだ達していなかった。おれの大冒険時代は終わったと、少佐はまだ云えそうもなかった。ヘルマン老人の伴侶はその名のとおりに、うるわしいバラのような女だった。エーベルバッハ少佐の伴侶は、たしかに誰よりもうるわしくバラのようではあったが、男だった。それが、ヘルマン老人と少佐とを、決定的に隔てていた。
 少佐は昼食をあとまわしにして、丘の上に寝転がった。風がやさしく少佐の身体をなでて通り過ぎた。にぶい灰色をした雲が、薄青い空にかかっていた。日差しは穏やかに降りそそいでいた。少佐は眠たくなった……目を閉じると、痛ましく顔を腫らしたアルフォンスや、その母親の顔が浮かんだ。それから怒り狂ったその夫。この危機を我知らず引き起こしたなぞの美女の、想像上の顔……それはどこか伯爵に似ていた……金髪碧眼の美女というと、伯爵のことを無意識に思い浮かべてしまうのだろう……その美女のことについては、いっかな情報が得られなかった。彼女はすっかりヘルツベルクの屋敷に引きこもっていた。ヘルマン老人でさえ、その美女についてはなにも知ることができないでいるのだった。そして少佐はそのなぞの美女に関して、これまでほとんど関心を抱いてこなかったことに気がついた。正直に云って、見知らぬ美女など相手にしている場合ではなかった。おそらくはそれよりはるかに美しくて、はるかに手がかかり、はるかにうるわしく偉大な魂をもったひとりの人間に、少佐の魂はとらわれてしまっていた。ヘルマン老人がかつてその細君に魂をさらわれてしまったように。少佐は自分も一度死んだことを知っていた。一度死に、そして力強くよみがえったのだ。男はみなそうではないのか? 自分の熱望し探し求めていたものを得た男であってみれば。
 ……鳶があの独特の笛のようにふるえる声で、高く鳴いた。
「お休みですの?」
 少佐ははっとして目を開けた。視界いっぱいに、美しい女が飛びこんできた。ゆるやかで豊かな金髪の巻き毛がほっそりした卵形の顔をふちどり、意志の強そうな眉と、優しげな青い目、優雅な鼻梁と唇とが、その顔をかたちづくっていた。古典的な優美な美しさだった。少佐はいつもそこに、本人の趣味同様、現代的なものを読みとるのがむつかしかった。美とは保守的なものだ、とその顔の持ち主はいつも云っていた。あるいは、普遍的なものであり、年代による着色を必要としない、と。
 少佐が微笑すると、美女も微笑を返した。彼女はかがみこんで、少佐の顔をのぞきこんでいたのだった。少佐が上半身を起こすと、彼女もかがめていた身体をのばした。彼女は白いレースの日傘を差していた。傘の影の中で、彼女は奥ゆかしく首をかしげて、いたずらっぽく微笑した。
「あなたは……」
 少佐は目を細めて云った。
「目下うわさの美女でしょうな、そうでしょう……」
 少佐は頭を掻いて、髪の毛にくっついていた草のくずをはらった。
「お昼寝のじゃまをしたかしら?」
 彼女は低い、穏やかで品のある声をしていた。
「いいや、ちっとも」
 少佐は力をこめて云った。美女は微笑した。そうして少佐の横の地面をちらりと見た。
「わたし……」
 少佐はみなまで云わせず大急ぎでバスケットを開け、大ぶりな薄紅色のハンカチを取り出して、自分の横へ広げた。
「まあ、よろしいんですの?」
 少佐は立ち上がり、うやうやしく手を差し出して、この美しい女性がハンカチのうえへ腰を下ろすのを手伝った。羽虫がばかにしたような羽音をたてて飛んできて、少佐にぶつかってまたどこかへ飛んでいった。
「あなたのことは町じゅうでうわさになってるが、こういう方だとは、正直云ってまったく想像していなかった」
 少佐は彼女の顔をのぞきこみ、率直に云った。ほんとうにまったく想像していなかった。こんなふうに、こんなかたちで、こんなところで会おうとは! 少佐はうれしかった。あまりにも思いがけないことだったために、怒りが出てくるひまがなかった。ほんとうはいかめしい顔で叱りつけて、ばかなことをするなと云って追い返さなければいけなかった。ほんとうは、おまえはいったい、おれがなんのために行き先を告げないでいるのかわかっているのかと、訴えなければいけなかったのだが。美女は微笑して、少し顔をそらした。
「まあ、そんなうわさになっているなんて……どういううわさだか、お聞かせいただけますか?」
「ただもう、絶世の美女だといううわさですよ」
 少佐は笑って答えた。
「もっとも、あなたはヘルツベルクの嫁にくることになっているとか、口に出して云えないようなところから出て来たんだろうとか……」
 美女は声を上げて笑った。
「ありそうなことですわね!」
「でもいまとなっては、そういううわさはすっかりなくなりましたがね」
「まあ、なぜかしら?」
 彼女は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
「あなたが美術品だかの鑑定に呼ばれたことが知れたからです。田舎というところがどんなものだか、あなたも知っとるでしょう。どんなことでも、しまいには知れ渡ることになっとるんです。あなたと話したという八百屋のせがれのことやなんかも」
 彼女は微笑んで、寛大に肩をすくめた。
「あのハンサムな若いかたね? いつだか、お父さまのかわりとかで、屋敷に見えたわ。わたし偶然見かけて、お話しましたの……お元気でいらっしゃるかしら、あのかたは。わたしがはじめて話した町のかたでしたわ。ヘルツベルクさんは、いいひとですけど、町の人間との交流は無意味と考えてるらしいんです。下品な連中だといって。わたしにはわかりませんわ、それにあなたは……」
「おれは町の人間じゃありません」
 少佐は云った。
「よそ者です」
 ふたりは彼女の日傘の影の下で、複雑な視線を交わした。それは初対面の人間どうしにしては、こころもち長すぎ、含むところが大きすぎるように見えなくもなかった。彼女が先に微笑んで視線をそらした。
「そうでしたの」
 彼女ははるか先の海へ視線を向けた。
「どうりで、少し雰囲気がちがうと思いました。それに漁師さんなら、こんな時間に丘のうえでお昼寝なんてこと、ないわね」
「おれはどうしようもない無精者でしてな」
 少佐はスカートの下からのびたすばらしい脚をまじまじと見つめてほほえんだ。たしかに、まったく、こんな脚があろうかという脚だった!
「都会から勝手にやってきて、こういう気分のいい田舎で、のらくらしとるんです。純情な田舎者に、世話をおっつけて」
 彼女は笑った。
「なんてこと、ひどいひとねえ。それで、あなた、ここらあたりには詳しいんですの?」
「まあ、だいたいは知っとりますが」
「それで、お時間がありますの?」
「まあ、割合にたっぷりとですな」
「それじゃあ、わたしの道案内を引き受けてくださいます?」
 ふたりはまた長すぎるほど時間をかけて視線を交わした。
「かまいませんよ、よろこんで。しかしですな、その前に、おれに昼飯を食わしてくれませんか」
 彼女はバスケットへ視線を向けた。
「かまいませんわ。その中に入ってますの?」
 少佐はバスケットから、細君のサンドイッチと水筒を取り出して見せた。今日のバラは、真紅のバラであった。少佐はそれも取り出して、彼女へ見せ、居候先の奥方がこしらえているのだと説明した。
「すてきなバラね……」
 彼女がうっとりした顔になったので、少佐はそれを彼女へ差し出すために、向きを変えてもちなおした。その拍子に、指先に痛みを感じた。見ると、枝の花に近いところに、取り忘れたとげがひとつ残っていた。指先からは、血がにじんでいた。
「たいへんだわ」
 彼女はあわてて白い絹のハンカチを取り出し、血のにじむ指先にあてがった。
「たいしたこたあない」
 少佐は云ったが、彼女の世話は受け入れた。血は少ししみ出した程度で、すぐにおさまった。それでも白いハンカチの一部が、血にそまったのは事実だった。
「こいつは洗ってお返ししなけりゃなりませんな」
 少佐は指先に過剰なほど丁寧に巻かれたハンカチを満足げに眺めて云った。
「正確には、洗わせて、じゃありません?」
 彼女はからかうような、意地悪な笑みを浮かべて云った。
「あなたがお世話になっているという、純情な田舎者に! なのにあなたときたら、自分でやるような云いかたをなさって。恥ずかしいと思いませんの?」
「そいつはまったくそのとおりです」
 少佐はまじめな顔で云った。それからふたりとも笑った。
「だいたい、あなた、アイロンがけなんてできますの? わたしはできないわ! したことがないもの」
「おれはやれと云われればできる」
 少佐は顎に手を当てて考えてから云った。
「おれは見かけほど不器用でもありませんからな」
 少佐はそれから、あらためて真紅のバラを二本、トゲを慎重に確認して取り去ったうえで、うやうやしい態度で彼女に進呈した。彼女はうっとりとバラを眺めて香りを楽しんだ。少佐はいそいで細君の作ったサンドイッチを食べ、水筒のお茶を飲んだ。そしていつものように、パンくずを明後日の方向へ放り投げた。
「なぜそんなことをなさるんですか?」
 少佐の食事するのを楽しそうに眺めていた彼女は、不思議そうに云った。
「スズメが来て食うんです」
 あはあ、と彼女は云った。
 食事がすんだので、ふたりは立ち上がった。少佐は薄紅色のハンカチを丁寧に折りたたんでバスケットへしまった。いつもよりかなり丁寧に。
「で、どちらへ行かれるんですか?」
 少佐の問いかけに、彼女は肩をすくめて少女のように微笑んだ。
「実はわたし、迷子なんです」
 少佐は眉をつり上げた。
「わたしがヘルツベルクさんのお屋敷へお世話になっているのはご存じですわね?」
 少佐はうなずいた。
「わたし、あんまりお天気がいいので、ぶらぶらと森へ散歩に出ましたの。それで、足の赴くままに丘をのぼってここまで来ましたの。それから、どうやら迷子になったことに気がつきましたの。そのあとで、あなたがお昼寝をしているのに出くわしましたの」
 少佐はうなずいて、あはあ、と云った。
「実に理路整然としとりますな」
「わたしもそう思います。純粋な帰結ですわね」
 彼女はうなずいて、目を輝かせて微笑んだ。
「ですから、あなたがご親切にわたしをヘルツベルクさんのお屋敷へ送り届けてくださったら、わたしはとっても助かるんです」
「もちろんです。そりゃ、義務というもんです」
 少佐は云い、それにたいして返ってきた微笑についうっかり、いつもするように彼女の尻をぽんぽんとたたきそうになって、あわててそれをとりやめ、うやうやしく左肘を差し出した。彼女は優雅なしぐさで、そこへ右手をからませた。
 彼女は町のひとびとの生活や、その風景についていろいろと知りたがった。少佐はゆっくりと丘をくだりながら、彼女の質問に丁寧に答えた。ことに、朝というより夜中に活動を開始する漁師の生活や、魚が水揚げされるようすや、そうしたことがすべて過ぎ去ったあとの港の静かな、整然とした美しさについて語った。
「あなたはここでの生活が気に入っていらっしゃるのね」
 彼女がふいに云った。日傘の陰に隠れて、その顔はよく見えなかった。だがそのことばは少佐に思いがけない動揺をもたらした。少佐はとっさに打ち消そうとした。しかし、そうするにはあまりにもここでの生活になじんでいることに気がついて、とりやめてしまった……そうなのだ。自分はここが気に入っているのだ! この港での、ゆったりした毎日が。
 彼女が同情するような表情を浮かべて、少佐の顔をまともに見てきた。その目は少佐に、なにか罪悪感に似たものを引き起こした。これ以上この話を広げるべきではなかった。彼は例の魅力的な青い目を、穏やかな湖のようなその目を、なるたけ平然と見返した。それから安心させるように微笑した。彼女は顔をそらした。うつむいた顔は、どう見ても納得していなかった。それは仕方のないことだった。
「あなたのここでの生活についてはどうなんです?」
 少佐は気をとりなおして訊ねた。
「毎日なにをしていらっしゃるんですか」
 彼女も気分をふりはらうように微笑んだ。
「わたしは……毎日、あのお屋敷に代々伝わっている美術品や宝飾品などを見て、それがどういうものか調べていますの」
 話がそこにおよぶと、彼女の目が生き生きと輝きだした。
「古い、由緒あるお屋敷には、やはりまだまだそれ相当のものが眠っているものです。わたしはこういう機会を得て、とてもよろこんでいます」
 少佐は彼女の身体が、目にしてきたものへの興奮にざわめきたつのを感じた。それは少佐にとっても、いつもよろこびだった。共感のむつかしいよろこびではあったが、それでも彼女のよろこびは、いつでも少佐のよろこびだった。
「ヘルツベルクさんとはお知り合いだったんですか?」
 少佐はもっとも気になっていたことを訊ねた。彼女はいたずらっぽく笑って、なだめるように首を振った。
「いいえ、前からのお知り合いではありませんでした。わたしがヘルツベルクさんにお会いしたのは最近のことで、とあるかたのパーティーでしたけど、向こうから声をかけてきましたの。わたしが美術品に詳しいことを、あるかたから伺ったのですが、と云って。彼は率直でしたわ。自分は古い地主の家柄で、実を云うと屋敷の財政がかなり逼迫している、そこで家の美術品を手放したいのだが、公にはしたくないし、手近な人間に頼むのもいやだから、鑑定して処分してくれるひとを探している、とおっしゃったんです。打ち明け話をするあいだ、彼は苦しそうでしたわ……ほんとに困ってらっしゃるんだなとわたし、思いました。わたしは引き受けました……実を云えば、ヘルツベルク家の所有する絵の中に、前から欲しいと思っていたものがあったからなんですけど」
 彼女は微笑した。そのなぞめいた微笑ときたら! エーベルバッハ少佐でなかったら、めまいを起こしていただろう。
「わたしは実物を見ました。見て、たいへんに満足しました。そのほかにもいくつか、目の肥えた人間でも満足できそうなものがありました。状態もすばらしいですし、ヘルツベルクさんは、かなりの金額を手にできると思いますわ」
 ふたりは丘をくだって、ブナやナラの立ち並ぶ中を通っていった。木々のあいだから、日差しが静かに降り注いでいた。鳥の鳴き声と梢のたてる涼やかな音が混じった音楽が、聞こえていた。
「……わたし、ずいぶん考えたんですけど、あの屋敷の美術品をいくつか買い取ろうと思いますの。欲しかった絵も含めて」
 しばらくたってから、彼女がぽつりと云った。少佐は眉をつり上げた。
「あなたは、はじめからそのつもりだったんですか?」
 思わず問いつめるような口調になっていた。彼女は真剣な顔で少佐を見つめ、それから、首を振った。
「いいえ、はじめはそういうつもりじゃありませんでした。もっと別のことを考えてました……でも……わたし、ヘルツベルクさんのところにお世話になっているうちに、そうしなければいけないような気がしてきたんです。わたしには、さいわい金銭的な余裕もいくらかありますから。でも、そのお金で彼が立ち直れるかどうかは微妙だわ。ああいう古い家柄のひとたちが失ったものは、財産や特権だけではないんですもの。わたしはときどき、自分がイギリスに生まれてほんとうにさいわいだったと思うことがありますのよ」
 それはおそらくほんとうにちがいなかった。少佐とて、いまや貴族でもなんでもなかった。社会的には、かろうじてその名字だけが、古い称号をとどめているに過ぎなかった。住んでいる城はたしかに輝かしいあかしにはちがいない、しかし今日び、あんな城を所有して維持してゆくというのは並大抵のことでなかった。それ以外には、みずからの出自と誇りとを提示してくれるものはもはやどこにもないにもかかわらず。
 この問題は、ふたりのあいだで明確に共有することのできる、貴重な、痛ましい問題だった。彼らはこういう世の中で、自分たちがもはや見せ物以上の価値をもたないことを知っていた。多くの場合、彼らは盲目的な羨望か、かすかな哀れみをふくんだ好奇心の対象にすぎなかった。そしてそのくせ、ひとびとはむやみにそれを美化したり、実物以上の価値を与えてきたり、その逆の考えを押しつけてきたりするのだった。たしかに、なんの努力もなしに手に入れた称号ではあった……たまたまその家に生まれたというだけのことなのだから。しかし、それに適応しそれを背負って生きてゆくということは、ほかの多くの人生の問題と同じように、なまなかなことでなかった。
「おれはどっちかというと、あの男に同情していた」
 少佐は云った。
「あの男が、思ったより金がないという理由で二度も女に捨てられて、それを町の連中に笑われてるのを見ていた日にゃあ、やりきれん気持ちにもなる。たしかに、そういう女を選んだのがばかだった、それはたしかにそうだ。だが、それじゃあというんで名もない平民だが賢明で倹約家の女房を拾ったとして……いや、そもそもそういう女房を拾いに行く決断を、あの男に迫るのは酷じゃないかね? そこまでしたら、あの男のプライドは決定的に崩れちまう。意識するなと云うほうが無理な、でかい屋敷と長ったらしい家系と家名だけでも手一杯なのに、なにかっちゃあ気取ってやがるとささやかれ、そうかと思えばもう終わった人種だと云われ。やるせないってのは、こういうこった」
 彼女は真剣な、暗い顔をして聞いていた。少佐は自分がしゃべりすぎたこと、しかも、うっかり状況もわきまえず本音をもらしてしまったことにいまさら気がついたが、もうおそかった。暗い影を背負った翼は飛び立った。行きつくあてもなく、ふたりのあいだをうろうろとさまよい、ふたたび少佐の胸の暗い場所へと舞い戻ってくるためだけに。
「すいませんな、つい」
 少佐は云った。彼女はゆっくりと、首を振った。
「世の中は、あんまり冷たすぎます。われわれ貴族に、何百年というあいだ、多くの義務を背負わせ、社会的な重みとそれに見合う誇りを育ててきたというのに、そういったものをすべて急に根こそぎご破算にして、なにもかもなかったことにしろというのはあんまりです」
 彼女は物憂げに首を傾け、ため息をついた。
「いったい、どうしろというのでしょう? 世の中は、なるほど変わるものだけど、人間の感情や生き方はそんなにすぐに変えることができない。なにかを修正するには、それが育ってきたのと同じくらい長い教育が必要だわ。なのに、なにもかもあんまり性急で……」
「……たぶん」
 少佐は彼女の腕をしっかりつかまえて云った。
「われわれが板挟みになって打ちひしがれる最後の世代だ。それが確かに機能していた記憶は、いまはまだ手の届くところにある。もう二、三代先になれば、それはうんと遠い記憶になっちまって、そのうち汗かきながら本の中で勉強するものになるにちがいない」
 彼女はしばらく考えこみ、それから悲しげに微笑した。そうしてそれきり黙った。程なく、屋敷が見えてきた。財政の逼迫した、過去の栄光をほこっている、大げさな、なりばかり立派で金のかかる、迷惑千万な、それでもそこに住む人間にとって愛着をもたざるを得ない屋敷が。
 門の前で、彼らは別れることにした。屋敷へはそこからなお一キロほども歩かねばならなかったが、少佐は呼ばれもしないのに中へ入っていくのはためらわれた。
「バラをありがとうございました」
 彼女は微笑んで、手にしていたバラの香りをふたたび嗅いだ。
「お返しできるものがなくて残念だわ」
「ハンカチがありますよ」
 少佐はもったいぶってまだハンカチを巻いたままの指を振った。
「ではそれは、お返しにならないで受け取ってくださいますわね? きっと、あなたのお世話をするどなたかが洗って、しみぬきをしてアイロンをかけてくれるわ。女もののハンカチなんて、もっていたってしかたがないかもしれませんけど……」
「いや」
 少佐はおどけて云った。
「見るたびにあなたを思い出しますよ。いい思い出だ。なにしろ今日はおれの誕生日ですから」
 彼女はゆっくりと微笑した。目がいたずらっぽく輝き、美しい顔全体が輝きを放つように、少佐には見えた。すばらしい計画だろう? という自信たっぷりの声が、聞こえてくるようだった。
「そうでしたの。おめでとうございます。そんな記念すべき日にお会いできてよかったわ。送っていただいてありがとうございました」
 少佐は彼女が門の中へ入り、かなり遠くへ行くまで見守っていた。それからにやにや笑い、ハンカチを巻いた指を見てまたにやにや笑った。彼女がちらりと振り返ったので、少佐はそのハンカチを振ってやった。彼女がこたえてバラを振った。それから少佐はくるりときびすを返して、うるわしきローザの支配する家に戻るために歩き出した。もしかしたら、予定より帰宅が遅くなったので、ぼっちゃまときたら誕生日だというのに、家で待っている女をほったらかしてどこで遊んできたのかと、からかわれるかもしれなかった。少佐は、すみません、おかあさん、からはじまる一連のいいわけ文句を考えながら、またにやにやした。
 百メートルばかりお屋敷の門から遠ざかったときだった。少佐はふいに立ち止まり、ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。ゆっくりとひと息吸って吐き出し、にやりと笑って、振りかえった。
「慣れない真似はしないほうがいい。そんなにがさごそ足音をたてちゃあ、ゾウが追っかけてきたのかと思っちまう」
 かなりしばらくたって、八百屋の極道息子が、わきの茂みからしぶしぶ顔を出した。左頬の腫れはだいぶ引いていたが、治りかけて、今度はところどころいやな黄緑色になっていた。その人間の皮膚にあまり似つかわしくない色が、せっかくの美貌をいくらか損ねてしまっていた。
 アルフォンスは身体を出したはいいが、それ以上どうしたらいいかわからないで、ふてくされた顔でうつむいていた。やや伸びすぎになった赤みを帯びた金髪が、白い頬にふりかかっていた。唇をつきだした子どもっぽい顔つきは、女にとってはなかなか魅力的といえそうだった。これまで彼はそういう母性本能にあふれた女たちの腕の中で存分に甘やかされてきたのだろうが、少佐はそんなふうにするつもりはさらさらなかった。といって、父親のようにぶん殴ってやるつもりもなかったが。
「きみは、ひとのあとをつけるような無礼な真似をした云いわけをせにゃならんと思うが」
 少佐はこの甘ったれた小僧に助け船を出してやった。甘ったれ小僧はますます唇をとんがらかし、しばらくもぞもぞと身体を動かしていたが、そのうちにしょうことなしに覚悟を決めたのか、いやそうに顔を上げた。
「べつに、そんなつもりじゃなかったんです」
 不機嫌な声だった。
「ただ……」
 彼は顔をしかめ、口ごもった。そうしてまた唇をとんがらかした。少佐は黙っていた。もう手を貸すつもりはなかった。アルフォンスはなおしばらく、相手の反応を期待して黙っていたが、少佐がうんともすんとも云わないので、あきらめてため息をつき、口を開いた。
「あの女のひとが……あのひとが帰ってくるのが見えたから……その……あなたといっしょに」
 少佐はからかうように眉をつり上げた。相手の顔が赤くなった。
「べつに……ぼくはその……なんでもないんです、ただ……」
 彼は行きづまって、頭をかいた。それから少佐を盗み見て、おもしろがってはいるが、腹を立てたり気分を害したりしていない顔に出くわすと、ほっと息を吐いて、一気にまくしたてはじめた。
「ぼくはただ、あのひとをもう一度見たいと思っただけなんです……家に帰る前に。うちでなにがあったか、どうせうわさで知ってるでしょう……親父をぶん殴って出てきたけど、いつまでも家に帰らないわけにいかないし、世話になってる子に悪いし、それにこれ以上帰らなかったら母さんが死ぬほど心配するし。親父と顔あわせるのはいやだけど……あんな親父くたばればいいけど、一応父親だし。あいつはぼくが嫌いなんだ……殴りつけてやって、ちょっとすっきりしたけど」
「悪かったとは思わんのかね?」
 少佐はからかいをこめて訊いた。アルフォンスは愚問だというように肩をすくめた。
「まあいい。別にここで道徳問題を議論したってしょうがない。それで? なんだって彼女に声をかけなかったんだ。いまとなっちゃ、もう無理だぞ。屋敷に帰っちまったからな。あすこの家の玄関に立って、堂々と使用人を呼んで案内を請えるなら別だがね」
 青年の顔がまた真っ赤になった。彼は痛いところをずばり突かれて、瞬間的に怒りに燃えて吠えたてた。
「ええ、そうですよ、どうせぼくはただの八百屋のせがれなんだ。あんたやヘルツベルクの野郎なんかとちがって、貴族でもないし、金持ちでもないし、大きな屋敷になんか住んでない。だけど、ぼくはそれで満足してる。そんな人間になるなんてまっぴらだ。かっこつけて、上流ぶって、自分たちはほかのやつとはちがうって顔して……」
 その怒りが、少佐にもいくぶん向けられていることは確かだった。彼女と親しげに会話しながら、腕を組んでここまで歩いてきた、都会もので旧貴族のエーベルバッハ少佐。彼だって、「ぼっちゃま」と呼ばれうやまわれる人種なのだ。それもただ生まれという偶然から得た特権によって。
 少佐はため息をついた。
「……ひとつ訊くがね」
 云いながら吸い終わった煙草を投げ捨てた。
「おれやヘルツベルクはともかく、彼女がいつきみに、そういう態度を示したのかね?」
 アルフォンスは、この反撃をまったく予想していなかったのにちがいない。彼は一瞬、意味がつかめずぽかんとした。それからあからさまにうろたえ、顔を真っ赤にして、黙ってしまった。
「まあうわさなんぞ全面的に信じるわけにいかないもんだが、おれは少なくとも、彼女がきみをきみの生まれによってばかにしたという話は聞いたことがないんだが。それとも、そうだったのかね?」
 アルフォンスは動揺した目をさっと少佐へ向け、それからうつむいた。
「おれは彼女とさっき幸運にも話をする機会を得たんだが、彼女はこう云っとったぞ。あの八百屋の息子というひとは、自分がはじめて話をした町のひとで、あれ以来会ってないが元気でいるだろうか、ってな」
 これは決定的だった。アルフォンスは一瞬、いまにも泣き出しそうな顔になり、歯を食いしばった。激しい動揺をあらわすように、目が落ちつきなく左右へ行ったり来たりした。
 少佐はやりすぎたとは思わなかった。こういうときは、徹底して痛めつけられるにかぎる。自省することに慣れておらず、その習慣もなかっただろう男は、こうして徹底的に追いつめられなければどこかに逃げ道を見つけてしまって、そのうちにすべて忘れ去ってしまうかもしれなかった。
「おれはきみたちのやりとりなんぞ別に興味はないよ。ほかのやつらはどうか知らんが、うわさ話に興じる趣味もないしな。ただ、都会の人間だとか金持ちだとか貴族だとかで、みんなひとくくりにされちゃあやりきれんからな」
 少佐は話は終わったということを示すために、肩をすくめ、青年から視線をそらした。そうして彼に背を向けようとした。
「すみませんでした」
 追いすがるように、アルフォンスがつぶやいた。少佐が振り向くと、彼は相変わらず泣きそうな顔をして、おどおどと少佐を見つめていた。彼は明らかに、生まれてはじめて容赦なく追いつめられていた。そうして、なにかすがれるものを求めていた。寛大に許され、おまえはまちがっていたが、もういいと云われることを求めていた。
「おれに謝ってどうするんだ?」
 少佐はいらいらしたように云い、つきはなした。
「そんなことはおまえの問題だ、おれには関係ない」
 そうして、青年に背を向けて歩き出した。少佐は振り返らなかった。かなりたってから、青年が駆けてくる足音が聞こえてきた。
「待ってください! 待って……」
 少佐はしぶしぶ立ち止まって、冷たい目つきで駆け寄ってきた男を見た。
「まだなにか用かね?」
 アルフォンスは息をはずませながら、眉根をよせ、弱りきったように云った。
「ぼく、彼女に謝るべきでしょうか?」
「……きみの母上には申し訳ないが、きみはばかだ」
 少佐はあきれたようにため息をついた。
「そんなことしてなんになる? きみは彼女がおまえの心の葛藤を知っていて、許してくれるとでも思っとるのかね? いったいきみは、女という
女がみんな慈悲深く万能な聖母みたいな存在だと思っとるのか? さっきおれは訊かなかったか? いったい彼女が、きみになにかしたかね? それはきみの問題だと云ったろうが」
 アルフォンスは途方に暮れ、その顔には怒りに似たものすら浮かんでいた。プライドをへし折ってすがりついたというのに! 少佐はいらいらしてきた。こんな甘ったれを扱うことになったのは久しぶりだった。かなり昔、おぼっちゃんで、好き放題に甘やかされて育ってきた男をひょんなことから預かるはめになり、来る日も来る日も雨あられと攻撃を浴びせて以来だった。さいわいその男のプライドは、高いだけでなく何度でも不死鳥のようによみがえるタイプのものだった。彼は二年とすこし少佐のところにいて、見違えるような男になって巣立っていった……そしてそのかわりに、少佐の声は枯れかけたのだ!
「甘ったれるのもいい加減にしろ。自分の問題は自分で片づけるもんだ。他人を巻きこむんじゃない」
 少佐はこのときもしかすると、かつてのあの部下に怒鳴っていたのかもしれなかった。いまはすっかり陸軍将校づらをして、少佐を見ると顔を輝かせ、次には妙に恥ずかしそうなそぶりをみせ、それから両手を差し出してくるあの男……少佐はふと、気がゆるみそうになった。あの男のせいで、少佐はもしかしたらもう二度と、甘ったれに真剣に怒鳴ることができないかもしれなかった。いまいましいことだ! こんなにしまらないことはない! 少佐はもう相手にしないという態度をあからさまにして、その場をあとにすることにした。たぶんアルフォンスは、なおかなり長いこと、ふてくされて泣きっつらをしているにちがいなかった。少佐のところへ来たばかりのころあの部下が、そうしていたように。

 

「すみません、おかあさん、寄り道をしすぎてしまいました」
 豊満で美しい細君にバスケットを差し出しながら、少佐は道々考えていたいいわけを口にした。細君は寛大な態度で、しかし幾分いぶかるように、おもしろがるように、眉をつり上げた。
「まあぼっちゃま、どちらへいらしてたんです? それにあなたは、今日は胸にバラがないじゃないの! わたしの昼食が気にくわなかったのね?」
「ちがいます、おかあさん、どうか話をきいてください」
 少佐はうわさの美女に丘のうえで会った話をし、彼女を屋敷へ送り届けた話をした。アルフォンスのことはしかし、云わなかった。細君は目を輝かして興味しんしんでこの話を聞き、話が終わってからもしばらくひとりで反芻して楽しんだ。
「さあ、ハンカチをお出しなさい!」
 とっくりと話を楽しむと、細君は指を振っておどした。
「純情な田舎者が、洗濯をしてあげますから。ぼっちゃまの世話をしてさしあげるのは、この町にはわたししかいないんですからね! そしてそれから、あなたは手を洗って、誕生日のお祝いの席につくんですよ。揚げたジャガイモをいやというほど食べさせてあげるから覚悟なさい!」

 

 

 翌日の昼前に、エルゼが顔を輝かせて細君のもとへやってきた。放蕩息子が、ついに帰還したのだった。
 その午後、港では船に乗りこむ例の美女の姿が見られた。彼女はあいかわらずひげづらの従僕らしき男をひとり連れていて、容姿からというより生まれからくる自信にあふれていた。彼女は輝かしく、まぶしかった。ヘルツベルクが見送りに来ていて、この女性に感謝のことばをしきりに述べていた。船着き場には、アルフォンスも来ていた。そうして彼女が船に乗りこむ前に、あたりをひとわたり見渡したとき、目があった。彼女は知った顔を見つけ、にっこり微笑んだ。アルフォンスもおどおどと微笑を返した。すると、彼の予想に反して女性が近づいてきた。
「最後にお会いできてうれしいわ。あなたとあまりお話ができなくて、残念に思っていましたのよ」
 八百屋の息子は一瞬、打たれたように立ちすくんだ。驚きに見開かれた目は、やがてほころび、歓喜をおび、さらに自信をおびたものへと変わっていった。
「アルフォンスといいます」
 彼はしっかりと彼女の手を握った。
「あのときは名乗りもせずに、失礼しました」
 彼女は微笑し、首を振った。
「いいんです、お忙しかったんでしょうから。アルフォンスさんとおっしゃるのね。優雅なお名前だわ。あなたにお似合いだわ」
 彼女は名乗り返した。アルフォンスはそれを、頭の中へ刻みこんだ。
 彼女が船に乗りこもうとすると、船員がうやうやしく手を差し出して手伝った。彼女は礼を云い、その親切を受けた。
 彼女を乗せた船が、港から離れていった。アルフォンスはずいぶん長いこと、あとに残って見送っていた。

 

 さらに次の日には、エーベルバッハ少佐がついに休暇を終え、故郷へ帰ることになった。船を待つあいだ、細君は少なくとも十ぺんはハンカチを取り出して目もとをぬぐい、ヘルマン老人はそのたびに妙な顔をして、「ばかやろう、ばかなやつだなあ、二度と会えねえってんじゃなし、泣くこたあねえだ」と涙声で云った。
 知り合いの漁師たちもみんな来ていた。彼らは漁の成功を祝うときの歌を歌い、乾杯して、少佐を祝福した。何人かは半ば酔っぱらっていた。そうして、少佐にすがりついて、ぜひ近いうちにまた来るようにとか、きみがいないと荷揚げがつらいとか云ったりした。
 かなわぬ恋連盟の乙女たちも、こっそり来ていた。彼女たちは遠巻きに少佐を見守って、ため息をついたり悲しみに暮れたりした。
 盛大な見送りを受け、細君がこさえた弁当と特大のバラの花束を抱えてて船に乗りこみ、町のひとたちから離れると、少佐は正直なところほっとした! やれやれ! 田舎の人間は、純朴で感情表現が率直すぎる! 都会人を自認するエーベルバッハ少佐は、そういうことにあまり慣れていないのだ。少佐はかなり、くたくただった。しかし、それでも、かなり満足してもいた。
 遠ざかる陸地を見つめながら、少佐は微笑した。あの町のすべてのものどもに、さいわいあれ!

 

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