孤独と幸福の一日
少佐のからかい
時計は十一時五十七分を指していた。あと三分。伯爵の長々とした話を聞きながら、少佐はベッドに入り、消灯して、寝るだけの体制になった。彼はこの真っ暗闇の中でする就寝前の電話というやつが嫌いではなかった。
「それで、今日もお祈りしたんだ。あの子の魂が、正しく天国へ召されますようにって」
伯爵はこのところ、かわいがっていた野ウサギが死んでしまってたいへんなショックを受けている。裏庭(と伯爵は云うが、広大な所有地のことである)に住んでいたやつで、灰色の、くりくりしたかわいらしい目のウサギだった。それが、鳥かキツネのような肉食獣の餌食になって、殺されてしまった。死体を見つけたのは伯爵だった。彼は夏のあいだ、せっせと庭や自分の土地を回って、鳥や野生動物や植物を観察することを趣味にしていた。あるとき、五月の終わりのことだが、伯爵は脚にけがをしたウサギを見つけた。彼はたいへんかわいそうに思い、家に連れ帰って、獣医を呼んで手当をしてもらった。同時に、庭の一角に金網で覆われたスペースを作って、ウサギのけがが治ったらいつでも跳ね回る練習ができるようにした。そのとき、彼はウサギと「生涯変わらぬ友情」を結んだ、ということだった。けががよくなり、野に返す前に、伯爵は友情のしるしに、ウサギのかわいらしい前足に緑の色つきの輪っかをつけた。友だちのことをすぐに見分けられるように。そしておおよそ一週間前、伯爵はその輪っかのついたウサギが、無惨な姿で(というよりほとんど外見をとどめない姿で)転がっているのを見つけた。
彼の悲しみはたいへんなものだった。少佐はその日の夜は辛抱強く長いこと彼の話につきあい、なぐさめてやらねばならなかった。伯爵は動物が好きだった。だから、彼はペットを飼わないのだ。死んだときとても悲しいから。伯爵がどれほどその野ウサギを愛したか、少佐は知っていた。五月の終わりからひと月近く、毎日毎日伯爵はウサギの報告をするために、少佐に手紙とメールで写真や動画を送ってよこした(その中には、ウサギと伯爵が並んでごろごろやっている悶絶ものの画像もあった)。今日のロビン(ウサギの名前)はなにをどれくらい食べた、傷はどうなった、どれくらい動いた、伯爵はなんでもかんでもこと細かに少佐に報告してよこした。連日分厚い封筒が届くので、しまいには執事のヒンケルまでウサギの報告を楽しみにするようになってしまった。よって、ウサギの突然の訃報を受けた執事の悲しみもまたたいしたものだった。
「おいたわしいことでございます」
彼は目に涙を浮かべて云ったものだ。
「伯爵さまのお悲しみはいかばかりでございましょう! あの方が悲しい思いをなさるなど、いったい神はなにをお考えなのでしょうか……」
神がなにを思ってか弱き野ウサギを殺したか、そんなことはわからなかったが、少佐は義務として、悲しみにくれる伯爵をどうにかしなければならなかった。気の済むまでウサギの話をさせたことで、伯爵の落ちこみはだいぶ和らいでいたが、一週間経っても、彼はまだ完全に立ち直ってはいなかった。
「ロビンの墓に出かけた帰りに、似たようなかわいい野ウサギを見ることがあるんだ。そうすると、もうたまらないよ。わかってるんだ、同情して、情が移るようなことをしてしまった自分が悪いんだって。さんざん学んだはずなのにね。でも、しょうがない。だってこれがわたしだから。それにね、ロビンって、きっと鈍くさいやつだったんだよ。だから怪我したり、治ってもほかの動物にやられちゃったりするんだ。彼のこと、野に返すべきじゃなかったのかなって思うよ。すごく複雑な気持ちだよ……」
少佐は当然だと云い、時計を見た。あと数十秒で、日付が変わるところだった。
「ごめんごめん、またこんな話をしちゃった。退屈だろう? もうしないよ。それにもうすぐ十二時だ。おやすみのあいさつの時間だね」
少佐はふたたび時計を見た。四、三、二、一……
「おまえ、今日なんの日か覚えとるか」
「ロビンが死んで八日目だよ」
伯爵は云った。少佐は笑いだしてしまった。
「ウサギのことはちょっと忘れろ。日付を見て、よく考えろ」
「この部屋、カレンダーがないんだ、電話は電話中だし……ちょっと待ってよ、確かどこかの机の中に……ええっと……あったあった! カレンダーって、見つかるとこんなに嬉しいものだったんだね、知らなかったよ……今日はね……七月の二十八日だよ……なんてことだ!」
伯爵さまは叫んだ。
「誕生日だ、忘れっとっただろう」
「うん、すっかり忘れてた。どうしよう! 今日はばかみたいに忙しい日なのに」
伯爵さまはもう誕生日のことで頭がいっぱいになったらしかった。一日の予定を声に出しておさらいし、ああ! と大きなため息をついた。
「怒濤のプレゼントラッシュとお礼の電話ラッシュ、午後からはお祝いのパーティー。忙しいったらないんだよ」
伯爵さまの誕生日は、さながらひとつの祭りかなにかのようである。その日には、伯爵の城に、世界中のものを買い占めたかのような大量の贈り物が届く。トラックがやってくると、部下が数人出ていって、荷物の送り主を確認し、書き留め、リストにして別の部下に渡す。その部下はリストの名前の横に、そのひとの電話番号を書きこむ。そうしてそのリストは、贈り物の山を検品する部下のところへ回ってきて、今度は電話番号の横に品名が書きこまれる。それからいよいよ、リストは伯爵さまの手に渡る。伯爵さまは一覧をざっと眺め、ご丁寧に贈り物の山をひとつひとつ見て回り、その印象をつかんでから、電話を手に取り、リストの頭から順番に電話をかける。ひとつ残らず。それは大変な数にのぼる上、中には電話ではなく手紙のほうを喜ぶ送り主もいる。そういうひとには、伯爵は後日手紙をしたためることになる。そうこうするうちに、もう一日の半分が終わっている。伯爵さまは着替えをし、パーティー会場へ向かわなければならない。伯爵さまの誕生日は、毎年さる古城で、伯爵が商売仲間だとかお友だちだとか呼んでいるあやしい連中によって祝われることになっている。会場は同じだが、趣向は毎回異なる。主催者が違うからだ。主催は毎年抽選で選ばれるのだが、それは非常に名誉なことなので、その幸福な人物は、まるまる一年、知り合い連中に自慢してもいいのだ。主催は伯爵さまに喜んでもらうため、一年かけてそれこそ命がけで計画を練る。そして伯爵さまが到着すると、パーティーは盛大に、華やかにおこなわれるのだ。
少佐は、毎年のことだが、あいにく本年も伯爵さまの誕生日には仕事だった。そしてそれでよかった。お祝いに乗じてバカ騒ぎをするのは好きではなかった。
「ところで、おまえ、いくつになった?」
少佐はわざと聞いた。伯爵さまは自分の年齢を知られること、それが話題にのぼることを全面的に嫌っていた。
「君って意地悪だね。知ってるくせに」
伯爵さまはむっとしたように云った。ある程度の秘匿がロマンスの秘訣と考える伯爵さまとしては、少佐が情報部であるのをいいことに自分の個人情報のほとんどを握っているという事実がすでに気に食わないのだった。それで、この話題になるといつも不機嫌になった。少佐はそれが楽しくてしょうがなかった。
「そりゃあ調べられるが、忘れたんだ。いくつになった?」
少佐はもう一度意地悪く云った。
「君に関係ないだろう」
伯爵さまはちょっとむくれた口調で云った。
「そうか? まあいいから、いくつになった」
「もう、しつこいな! 知ってるくせに! 君みたいな無礼な男は嫌いだよ、さよなら」
電話が切れた。伯爵さまは怒っていた。少佐は気の済むまで笑ってから、かけなおした。コール音がやむまで、かなり待たされた。
「…………まだなにか用?」
伯爵さまはぶすっとした口調で云った。
「用ってほどでもないが」
少佐はにやつきを隠せなかった。
「怒ったのか?」
「……怒ったわけじゃないよ。失望しただけ」
「そいつは大変だ」
少佐はびっくりしたような声を出した。
「撤回するにはどうしたらいい」
「もう遅いよ。君ってひどい男だよ」
少佐は謝った。
「わたしの年齢を聞き出そうとするなんて、そんな無礼なことした男、これまでいなかったよ」
少佐は謝った。
「君なんか大嫌いだよ」
少佐は大いににやついた。そして、それとは真逆のことを云った。伯爵さまは吟味するように鼻を鳴らした。そして、「それ、ほんとう?」と疑り深い声で云った。少佐はほんとうだと請け負った。それから、自分は仕事があって行けないが、いい誕生日を過ごすように、と云った。伯爵さまは鼻を鳴らした。
「やっぱり君なんか嫌い」
電話が切れた。少佐はまたひとりで大笑いした。
ボーナムの心配
「ほんとにどうもありがとう。あなたの愛を感じました。おかげで、とってもすてきな誕生日を過ごせそうですよ! ええ、そうなんです、これから出かけなくちゃならなくて。ええ、ええ、じゃあごきげんよう! ほんとにどうもありがとうございました」
伯爵は電話を切ると、それを盛大に放り投げ、ため息をついた。
「やっと終わったよ! もう今日は十分すぎるほど喉を酷使したって感じがするな! まだ一日が終わっていないなんてぞっとする。これからまたひとしゃべりしないといけないなんて! 日ごろから喉を鍛えておいてよかったよ。わたしはね、君やみんなにしゃべり散らして、この日のための訓練をしてるんだって思うことがある。じゃないと、喉が悲鳴を上げて、使命を果たせないからね!」
ボーナムは、あなたはまだ十分しゃべれますよ、あとぶっ続けで二日くらい、と云おうかと思ったがやめた。かわりに、お疲れさまでした、と云い、伯爵の手からリストを受け取って、クリップで閉じた。これはこのまま向こう何年か保存されるのだ。伯爵が必要なときに誰からなにをもらったか思い出せるように。このボスは、まったくまめだとしか云いようがなかった。興味のないめんどうなことはとことん嫌いなくせに、ひとに電話をすることや手紙を書くこと、お礼をすることには神経質なほどまめに対応した。たぶん、それがかわいがられ、目をかけてもらうこつなのだろう。ひとは自分を気にかけてくれる人間のことを気にしないわけがないからだ。たぶん、このまめな性質のために、伯爵はあらゆるひとに愛され、プレゼントの山をもらうのだ……あるいは、そんな人間づきあいが趣味なのかもしれない。それとも、生来のサービス精神だろうか。
「ジェイムズ君はどこにいるの?」
テーブルの上のお茶に手を伸ばしながら伯爵は云った。
「あいつは二階の部屋で、贈り物が市販品かそうじゃないか見てますよ。売ってもばれなさそうなものなら資金源にするとかで」
伯爵は微笑した。
「それだって、一応心のこもったプレゼントなんだけどなあ!」
「まあ収穫は少ないと思いますけどね。あなたに贈り物をするのは、既製品なんて手にしそうにないひとたちですから」
「今年は毛皮が十かそこらあったなあ……あれ、どうしよう? 古いのを処分したほうがいいだろうか?」
「捨てたくないのと、そうでもないのをわけておいてくださったら処分しますよ。ほしがるやつもいるだろうし」
「じゃああとでやっておくから、似合う子がいたらあげてよ。宝石もね。そのほかいろいろのものも! 誕生日の時期が、大掃除にうってつけになるなんて皮肉な話だよね! そう思わない? わたしは本来、ものをごちゃごちゃ持ってるのがあんまり好きじゃない。気に入ったものだけに囲まれていたいんだ。それも、美しいものだけ。でも、くれるものはしょうがない。矛盾だよ。大いなる矛盾! わたしは愛情の照準はなるべく狭い範囲に絞っていたい人間でもあるんだよ。それなのに、愛想をふりまくのが大好きときてるんだからね! たぶん寂しがりなのかもしれない。人間ってうまくいかないね、ボーナム君。古いプレゼントの処分、君に任せるよ。休暇から帰ってきたらでいいからね。君、今年はどうするの?」
「イタリアをめぐってますよ」
ボーナムは笑いながら答えた。
「美術館や教会を回るつもりです。それにこのあいだ、フェンディがウフィツィ美術館の改修費用を寄付したでしょう? 気になってるんですよ。どんな具合になるのか」
伯爵は眉をつり上げ、「あはあ」と云った。
「ことと次第じゃ、もういつもの侵入経路が使えなくなるからね……まったく、フェンディは偉大なことをしたと同時によけいなことしてくれたよ!」
伯爵の部下たちは毎年、ボスの誕生日からきっかりひと月、バカンスを取ることになっている。七月二十八日、伯爵がパーティーに出かけるのと同じタイミングで、あるいはその前後に、根城を出て各々好きなところへ行くのだ。そのあいだは伯爵もバカンスだ。彼も好きに過ごす。誰かの家にお呼ばれされたりもするが、伯爵はたいがい、ひとりで静かに過ごしている。ひとりになるのがうれしいのだ。彼はこの城にいる限りいつも誰かに囲まれているので。恋人がいる場合はそのひとと過ごしたりもするようだが、それは詮索してはいけないことだった。伯爵が窃盗団のボスであることと、彼個人の人生とはまた別の問題だ。彼のほんとうのプライベートの部分には口出ししてはいけないのだ。たとえ知っていても。
ボーナムは、本当のことを云えば休暇などいらなかった。できればいつも伯爵のそばにいたいと思っていた。ボーナムだけでなく、ほとんどの連中がそう思っていた。伯爵はなにしろ冗談なのか本気なのか区別がつきにくい上、通常の生活能力に恵まれず、見ちゃあおれないことが多いから。でも伯爵はほんとうは、ひとりが好きだ。そういうふうに見せないこつを心得ているだけ。
「いけない、もう時間だ。支度しなくちゃ。じゃあボーナム君、いつもみたいに見送りしないけど、元気で楽しく過ごして来るんだよ。仕事に関わる調査をしたら、費用をジェイムズ君に請求するの忘れないで! ほんとはそういうのだめって云いたいけど、君って云ってもむだなタイプだからな! それに、休暇が終わったらちゃんと帰ってきてくれないと困っちゃうよ! 男なんていなくたってなんとか生きていけるけど、君がいないとわたしはほんとに死んじゃうんだからね!」
伯爵はさんざんしゃべり散らして立ち上がった。もうお着替えをしてパーティーへ出かけなければならない時間だった。
「はいはい、わかりました。じゃあ、わたしも旅行の準備をするとしますか。プレゼントの山を仕分けしておきますから、あとで確認してくださいね。いつもの、二階の空き部屋にまとめておきますから。それと、この家は今夜からあなたしかいなくなるんですから、ちゃんと戸締まりしてくださいよ。あなたの屋敷が泥棒に入られたらしゃれにならないんですよ!」
伯爵は笑って、着替えるために部屋を出ていった。ボーナムはため息をついた。あのおしゃべりはまったくたいしたものだ! それに、朝から電話をかけ通しで、その次はパーティーとは、まったくたいした元気だった。普通の人間なら、気疲れから息切れやめまいを起こすだろう。でも伯爵はそうならない。慣れているからだ。ボーナムは毎年この日には、いつも複雑な気持ちになる。人間には、慣れていてもいいことと悪いことがある。甘んじて譲っていい部分と、そうではない部分がある。伯爵はたぶん、その範囲が少し広すぎる。それが彼の魅力だし、云っても無駄なのはわかっているけれど。
ボーナムは立ち上がり、長い廊下を進んで、別の部屋のドアをノックしてから、開けた。窓辺に置かれたマホガニーのどっしりした机に、ジェイムズが座っていた。彼は頭に鉢巻きをして猛烈な勢いでカシオミニをたたき、書類をめくり、ものすごくちびた鉛筆でノートに数字を書きこんでいた。彼はときどき苦悩するひとのように頭をかきむしり、真剣だが不機嫌な顔つきをしていた。部屋の中央には、覆いをかけられた彫像らしきものが置いてあった。部下たちが伯爵へのプレゼントに盗んできたのだ。そのまわりで、部下たちが数名、レシートのようなものや書類を整理していた。
「赤字かい、会計係」
ボーナムはドアを閉めて云った。
「大赤字だ」
ジェイムズは不機嫌に云った。
「ほんとにもう! おまえら、みんなして集団でレストランなんかに入るなよ! ちゃんとしたとこで食事していいのは、ここんちじゃ伯爵だけなんだぞ! うちは極貧団体なんだ、わかってるのか? 食事なんて水とパン切れですませりゃいいだろ、ぼくを見習って……ううう……こないだの二万ポンド、せっかく定期預金にしたのにもう解約しなきゃならないのか……うらめしや……ううううう……今年の税金だってひねり出せるかどうかの瀬戸際なのに……」
ジェイムズはぶつぶつ云いつづけた。
「まあまあ。さっき伯爵が、お古になった毛皮やら宝石やらを処分してもいいとさ」
ボーナムはなぐさめるつもりで云ったのだが、ジェイムズはきっと顔を上げた。
「伯爵のお古は売れないんだ!」
ジェイムズは頭をひっかきまわした。
「あのひとの持ち物ときたら、全部特注品なんだから! 売りに出したとたんにばれちゃうに決まってるだろ! ううう、宝の山を目の前にしてそれを換金できないぼくのくやしさがおまえらにわかってたまるか……だからうちはいつまでたっても貧乏なんだ!」
ボーナムは肩をすくめて、あわれな会計士の相手をやめた。
「問題は、これをいつ伯爵にプレゼントするかだな」
彼は覆いをかけられたものにちらりと目をやり、別の部下に向かって云った。
「伯爵が出てったら、玄関先に置いとこう。おれが一番最後に出る前にやっとくよ。休暇ったって、おれはヨークシャーの実家に帰るだけだからさ」
部下のひとりが云った。この案はよかろうということになって、採択され、部下の名前をとってウルゴット大作戦と名づけられた。
「くそっ!」
ジェイムズが突然、不機嫌に叫んだ。
「伯爵への誕生日プレゼント強奪作戦だけで三千七百二十五ポンド四十六ペンスも赤字だ……あのひとの生まれた日は呪われろ!」
「……ヨブじゃないんだから」
ボーナムは顔をしかめた。
伯爵さまの孤独
パーティーの最初に、野ウサギのロビンに対する追悼式がおこなわれた。みんな伯爵が野ウサギのロビンを失った事件をわがことのように悲しんだ。これには伯爵も驚いたが、よく考えてみたら、自分の責任だった。というのも、事件当初、伯爵は悲しみが強すぎて、いろいろなひとにしゃべりまくったからだ。みんなが伯爵をなぐさめてくれ、ロビンが二匹とはいない誉れ高い野ウサギであると認めた。伯爵はみんなにお礼を云った。それから、パーティーがはじまった。なにもかもが去年と違っていて、そしてなにもかもがこれまでどおりだった。伯爵の席の横には相棒のウィスパー用の椅子がちゃんと用意されていた。もちろん、テーブルには相棒専用の小さな食器セットも乗っていて、彼の好みであるサーモンのスープと、ブルーベリーのマフィンが用意されていた。伯爵は方方からまたしこたまプレゼントをもらったし、かわいらしいウィスパーもいろいろなものをもらった。伯爵の誕生日は、ウィスパーの誕生日でもあるからだ。伯爵の父親が、息子の生まれた日にその身長をメモし、テディベア作家にそれと同じ大きさのベアを作ってくれるよう頼んだのだ。その日の父親の日記には、多くの感動的な文章とともに、この息子のクマの相棒についても書かれている。
「あの子はきっとわたしに似て寂しがり屋に違いない。見た瞬間に分かった。あの子はわたしに似ていると。きっと繊細で、感じやすい子どもだ。そういう子どもには、しっかりした相棒が必要だ。彼が小さいうちは、人間よりそれ以外のもののほうが安心して心を開くことができるだろう。きっと、テディベアはあの子の大切な友だちになるだろう……」
そして、そのとおりになった。伯爵はかたときも相棒を離さなかった。どこへ行くにもいっしょに行ったし、いろんな病気もふたりいっしょにかかった。ふたりは一心同体だった。伯爵が悲しいとき、ウィスパーも悲しんだ。伯爵がうれしいとき、ウィスパーもよろこんだ。ウィスパーのことばは伯爵にしか聞こえなかったが、彼はそんなことを気にしなかった。歳ごろになり、もうぬいぐるみを連れ回すのはおかしいと誰に云われても、伯爵は友だちといっしょにいるのをやめなかった。それにウィスパーは友だちであって、クマのぬいぐるみではなかった。自分のことをほんとうにわかってくれるのは、父親とこの友だちだけだと伯爵は知っていた。多くの多感な少年と同じように、思春期の伯爵もずいぶん孤独だったのだ。
伯爵は相棒と一緒に、浮かれた空気の中を漂った。すこしアルコールが回って、心地よく。でもそれは陶酔ではなかった。ほんとうの陶酔は、そうそうめったに訪れるものではない。陶酔するふりをすることはできた。熱狂するふりをすることもできた。しかし、伯爵は自分が本質的に祭り上げられた偶像にすぎぬことを知っていた。彼は孤独だった。どんなにたくさんの人間に愛されていたとしても。豊穣な愛の中で孤独であり、称賛の嵐の中でいつも自分を見失うのを感じた。しかしその一方で、彼はちやほやされること、賞賛されること、そういうひとづきあいに慣れすぎてもいた。
パーティーのあいだじゅう、伯爵の心の中を何度も少佐のことがよぎった。こういう浮かれた、自分に対する愛のために捧げられた時間の中では、伯爵はいつもそうだった。みんな伯爵を愛していた。みんな伯爵を理解していると思っていたし、誰よりも自分が一番伯爵のことをよく知っていると思いたがった。そういう気持ちも、よくわかる。それは非難されるべきことではなかった。むしろ、ほほえましいことだった。しかしそのうるわしさの中にある空洞が、伯爵をいつも少し寂しい気持ちにさせるのだ。たぶん、自分が求めすぎるのだろう。自分の要求が高すぎて、自分で自分の首を絞めてしまうのだろう。
ローマから駆けつけたボロボロンテが、伯爵を抱きしめ、うやうやしく手にキスした。彼を見ると、伯爵は少しほっとした。この男には、心安らぐものを感じられた。彼は伯爵を理解してくれていた。伯爵はこの大物マフィアを外のテラスに誘って、少しのあいだふたりきりでおしゃべりした。伯爵は彼に身体をもたせかけて、スーツからかすかに漂う葉巻の匂いを嗅いでいた。その匂いは、記憶にある父のスーツの匂いに似ていた。
「疲れてるな、伯爵」
ボロボロンテは伯爵の顔を見て、微笑し、頬をなでた。
「おれはときどき、あんたがかわいそうになることがあるんだ。おれたちがやってることは、あんたを愛してると云いながら、よってたかってあんたを侮辱してるのと同じさ。連中はみんな、同じなもんかって云うだろう。でも同じだ。おれだって同じだ。心がこもってるだけ罪深い。誰の人生にも犠牲はあるが、あんたがなにを犠牲にしてるのかを考えると、おれはときどき寒気がすることがある」
葉巻の煙が揺れて、遠くへ流れていった。伯爵は煙の行く先を追うように、遠くを見ていた。青白い月が冴え冴えとあたりを照らしていた。煙はまるでその月に吸いこまれてゆくかに見えた。ふたりはしばらくのあいだ、無言だった。ボロボロンテの手が、優しく伯爵の身体をなでていた。伯爵は目を閉じ、男の首に腕を回してじっとした。それから小さな声で礼を云った。ボロボロンテは頭をかいた。
「知ったような口きいたこと、許してくれ。気を悪くしないでくれよな。もう戻るとしよう。おれがひとりであんたを長いこと独占してると、殺しあいが起きそうだ」
伯爵は笑って、ボロボロンテにひかれて会場に戻った。かなり気が晴れていた。席に戻ってみると、友だちのウィスパーは、椅子の上で寝ていた。もう十時になるところだった。彼はいつも九時に寝るのだ。どこでも、どんなときでも九時。伯爵は彼を抱き上げ、頬ずりし、友だちが眠くなってしまったので、そろそろ帰らなければならないと云った。みんなとても残念がったが、なぜ夜更かしの得意な伯爵がそんなに早く帰宅するのか、その理由を知っていたので、誰もなにも云わなかった。それは伯爵愛好家たちのあいだのルールだった。伯爵の予定を最優先すること。それから、彼の恋路に口出ししないこと。彼らは紳士協定を結んでいた。そして結んだからには、破られることはなかった。伯爵は壊れもののように大切に扱われた。息苦しいほど大切に。
閉会時の通例として来年の主催の抽選が行われ、会場はひとしきり盛り上がった。それがすむと伯爵はみんなに愛をこめて挨拶した。そして、盛大な見送りを受けながら、会場をあとにした。
伯爵さまの幸福
城に戻って、玄関を開けたとき、ホールの中央に設置されていた彫刻に伯爵はおどろいた。幼いデュオニューソスを抱くヘルメス。オリンピア考古学博物館に展示されている……否、いた、というべきか。高さ約三メートルの堂々とした彫刻は、力強く、たいそう美しかった。デュオニューソスがまだ母親の胎内にいたときに、母セメレーは父ゼウスの雷火によって焼死してしまったのだが、ヘルメスが彼を救い出し、養母であるニュムペーたちのところへ連れて行った。これはおそらくその途中の一場面だ。左腕に抱いた幼いデュオニューソスを見守る眼差しの、静かな優しさ。高く掲げられた右腕は失われているが、それでもなお全体の美しさ、若々しい青年の肉体の力強さを、損なうことはない。その像は、伯爵を魅了した。彼にはこれが部下たちからのプレゼントだとピンときた。そしてこれをわざわざ自分に捧げるために、相当の苦労をしたに違いない彼らのことを思った。しかし、伯爵は陶酔できる気分ではなかった。彼は今日一日自分を取り囲んでいた祝福の感情にあてられていた。それにまぶされ、こね回されて、すっかり疲れてしまっていた。こんな気分のときにまじまじと鑑賞することは、美に対する冒涜だと思われた。伯爵は微笑し、ほどなくその前を通り過ぎた。
寝室へ引っこみ、鍵をかけた。おねんねしているウィスパーを着替えさせてベッドに寝かせ、ソファに横になると、ようやくほっとした。彼はソファの上で丸まって、クッションに顔を押しつけた。ボロボロンテのことばを思い出した……自分がなにを犠牲にしているか……それは犠牲だろうか? ほんとうに犠牲だろうか。だって、自分のように幸福な男は、この世にまたといないと感じる。いつも感じている。たぶん、ちょっと感傷的になっているだけだ。君、いくつになったっけ、ドリアン坊や。自分が歳をとると、相棒のウィスパーも歳をとる。年齢を数えることなんて、ばかげている。だって、そんなものじゃ人間はなにひとつ決まらないから。
伯爵は、少しうとうとした。目を覚ましたのは、コツンというかすかな音がしたからだった。窓ガラスになにかがぶつかったような音だった。伯爵は起き上がり、確かめるために窓辺へ歩いていった。青白い月光が差しこんでいた。あたりは真昼のように、しかし真昼よりも穏やかに、明るかった。
窓の鍵に手をかけようとして、伯爵は目を見開いた。ベランダの手すりを越えて、なにかが下からあがってきた。風船だった。赤と青と緑と黄色、それに白の風船が、ゆらゆらと手すりをこえてあらわれてきた。伯爵は急いで窓を開けた。それから、驚きに目を見張った。風船の結び口のあたりに、ちょうどロビンにそっくりな野ウサギが……否、正確には野ウサギのぬいぐるみがくくりつけられていたから。そいつは前足に緑の輪っかまでつけていた。そして首には、赤いリボンが結んであった。
伯爵はベランダに飛び出した。そうして、ぬいぐるみと風船をつかみ、下を見やった。彼は息が止まりそうになった。窓の下では、少佐が風船を結んだ長い糸をあやつっていた。
「ダーリン!」
伯爵は叫んだ。
「手放してもいいか」
少佐はまったく色気のないことを云った。伯爵はうなずき、風船とぬいぐるみを持って部屋の中へ駆けもどった。それからそれを放り出して、大急ぎで階段を下り、玄関まで走った。伯爵はもどかしかった! どうして、自分はこんな広い家に住んでるんだろう! それに、云っちゃ悪いけれどうるわしきヘルメスの邪魔なことといったら! ぶつかる寸前でよけて、重たいドアを開くと、伯爵は目の前に立っていた男に飛びついた(だがこれはあまり賢明な方法ではなかった。少佐は箱を三つばかり抱えていたからだ。でも幸い、彼は運動神経がよかったので、なんとか伯爵が飛びついてきても箱の中身を台無しにせずにすんだ)。
「ああ、クラウス、クラウス! 夢みたいだ! 夢かな? ちょっとつねってみてくれる? いた! 痛いよ! 本気でやることないだろう? サディスト!」
頬をさすりながら悪態をつくと、少佐がこらえきれずに吹き出した。伯爵はもうたまらなかった。彼を抱きしめ、顔じゅうにキスし、しまいに少佐がうんざりして、もういいわかったと云われるまで続けた。
「君が来てくれるなんて思わなかった。すごくうれしいよ」
伯爵はうっとりと云った。少佐は唇を持ち上げ、それを続けて伯爵の額に押し当てた。それから、今日は楽しい一日だったかどうか訊ねてきた。伯爵は相変わらずうっとりしながら曖昧にうなずいて、少佐を家の中へ引き入れた。彼はヘルメスにぶつかりそうになり、けげんな顔になったので、伯爵は部下からのプレゼントだと説明した。
「盗品か?」
少佐は事情聴取する刑事みたいな顔つきになって云った。伯爵は微笑し、ヘルメスを見上げた。
「盗品だよ。はるばるオリンピアから、海を越えて来たんだ。いつか、これが欲しいと思ってた。ヘルメスはわたしの守護神だからね。そして美しい青年……君、夜ご飯は食べた? なにか飲む?」
少佐はアルコールを所望した。伯爵はうんざりするほどお祝いのシャンパンをもらっていたことを思い出し、それを取りに行って、グラスと瓶を居間へ運んだ。それからふたりは寝室へ上がっていった。ドアを開いて、ふたりとも思わず笑いだしてしまった。ウサギのぬいぐるみをつけた風船が、天井に当たってふわふわやっていたからだ。ぬいぐるみは宙吊りの刑を受けているみたいだった。少佐は歩いていって、ぬいぐるみを救出し、伯爵の手にうやうやしく渡した。伯爵は礼を云い、かわいらしいぬいぐるみをなでた。
「わたしのロビンにそっくりだよ」
伯爵はうっとりと云った。
「ちゃんと緑色の輪っかまでつけて。すごくうれしいよ……」
伯爵はぬいぐるみに頬ずりした。彼はとても満ち足りていた。今日一日でもらったどのプレゼントよりも、このぬいぐるみは伯爵の心にぴったりきた。彼は失った友だちに会えた気分だった。失っていたいろいろなものを、全部取り戻した気分だった。伯爵の気持ちはすっかり新たにされていた。もう気落ちしていなかったし、寂しさを感じてもいなかった。彼はとても満足していた。幸福で、うるわしい気分だった。彼はうっとりした顔のまま、少佐を見つめ、礼を云った。少佐は肩をすくめ、それから伯爵をうながして居間へ戻った。ソファの上で、伯爵は彼にもたれて少し泣いた。今日一日で感じたいろいろなものが、それにともなって優しく流れ去っていった。少佐はそのあいだ、伯爵の背中をさすって慰めた。彼には、自分が今日一日どんな気分でいたのかわかっているのだ、と伯爵は感じた。だから、少佐のプレゼントは豪華ではなかった。お祝いも盛大ではなかった。彼は伯爵を褒めそやすためのことばを費やさなかった。そういうものはすべて、多かれ少なかれ軽蔑の感じを含まずにおかないことを、少佐は知っているのだ。
「……いま気がついたんだけど」
涙が去ってゆくと、伯爵は静かな声で云った。
「わたし、ここんとこ君に会えなかったから寂しかったんだと思うな!」
少佐は微笑した。伯爵は身体を起こし、シャンパンのうちの一本を開けた。ものすごい勢いでコルク栓が飛んでゆき、天井の照明器具の一部を破損した。ふたりは笑い転げた。
「おれならもっとうまいこと狙う」
少佐がそう云ったので、伯爵はプレゼントにもらったティーカップを的にするゲームを思いついた。彼は大急ぎでティーカップとソーサーのセットを持ってきて、それを暖炉の上に並べた。少佐はシャンパンの瓶を受け取り、狙いを定め、軍隊式の号令つきでシャンパンの栓をすっ飛ばした。ガシャン! ティーカップはいっそすがすがしいほど粉々になり、伯爵は笑い転げた。それからゲームに参加したが、てんで下手くそだったので、今度は少佐が笑い転げた。伯爵は部屋に飾ってあった壺と、花瓶と、ランプを壊した。その光景をボーナムが見たら発狂しかねなかったが、彼はこの先ひと月いないのだ! 伯爵はお行儀悪くざまあみろと云った。それからけらけら笑った。少佐は百発百中の腕前を見せた。伯爵がそれを賞賛し、うっとりした顔をしたので、少佐はとても機嫌がよくなった。
「もうカップがなくなっちゃった。これにてゲーム終了。では景品として、カップに当てた数だけわたしからキスをあげよう」
伯爵は少佐の首に腕を回して、ねんごろにキスした。それは実際にカップをぶちこわした数より少し多かったかもしれないが、ふたりとも気にしなかった。
それからふたりは、カップの破片ですさまじいことになっている暖炉の周辺から目を背けてソファに戻った。伯爵は少佐にシャンパンをついでやった。自分のグラスにも満たして、乾杯しようとすると、少佐が止めた。
「うちの料理人から預かってきたやつがある」
少佐は抱えていた三つの箱のうちの、一番大きいのを開けた。甘い香りがあたりに広がり、フルーツタルトが顔を出した。伯爵は顔を輝かせた。
「これ、彼が作ってくれたの? あの太っちょの彼?」
少佐はうなずいた。
「これから飛行機に乗る人間にこういう食い物を渡すやつがあるか、と云ったんだが、云うだけ無駄だった。苦労したぞ、ごまかすのに」
伯爵は笑った。ナイフとフォークと皿を取ってきて、乾杯し、タルトを切って食べた。タルトはとてつもなくおいしかった。
「それから、こっちの箱は執事からだ。手紙つきだ」
伯爵は真っ白な包装紙に包まれた小さな箱を開けた。瑠璃色をした、美しいインクが入っていた。伯爵は少佐を見、受け取った手紙を読み上げた。
敬愛なる伯爵さま
お誕生日おめでとうございます。こうしてあなたさまのお誕生日をお祝いできる光栄に預りましたことを、心から誇りに思います。まことに、わたくしの一生の中でこれほど名誉と思われることはございません。奉公に出されて以来、わたくしは気の利く使用人だとたびたびほめられたものでございますが、そのときですら、これほど誇らしい気持ちになったことはございませんでした。いまでは、あなたさまの笑みがわたくしのよろこびであり、あなたさまのお幸せが、わたくしのなによりの幸福でございます。わたくしにはそのこともまた、たいへん名誉なことと思われるのでございます。
お贈りしたものが、お役に立てば幸いでございます。ロビンさまのことでずいぶんインクを消費なさったことと思いますので、その補充にでもあてていただければたいへんうれしゅうございます。ロビンさまのことは、まことに不幸なことでございました! 自然はときに冷酷で厳しいものでございますが、伯爵さまの悲しみが一日でも早く癒えますことをお祈りいたしております。
伯爵さま。どうか、これからも日々を楽しく、幸福にお過ごしになられますよう。またいつでもいらしてくださいませ。伯爵さまのお世話をさせていただくことが、わたくしの生きがいでございます。料理人めも、伯爵さまのために腕を振るえない日々が悲しいと申しておりました。彼があのタルトをどれほどはりきってこしらえたか、まったくお見せしたいほどでございました。料理人はほかにもいろいろと申しておりましたが、わざわざお伝えしてお手間を取らせるほどのことではございませんので、省略いたします。ときどきは、このドイツの年寄りどものことを思い出していただけますとたいへんうれしゅうございます。
「こりゃお祝いの手紙とは云わん。こういうのを俗にラブレターというんだ。執事め、雇い主は誰だと思っとるんだ、ばかめ」
少佐は顔をしかめて云った。
「たしかにね」
と伯爵さまは云った。彼は優しい気持ちに満たされていた。執事の気遣いはありがたかった。それにペンのインクも確かに減っていた! 執事の推測通り、ロビンの報告のおかげで、伯爵のインク壺は枯渇寸前だった。なのに、そういうことには誰も気がついてくれないのだ。インクのこととか、便箋のことなんかについては。コンラート・ヒンケルはすばらしい執事だった。細やかな愛情のある、すばらしい執事だった。
伯爵はそのへんに転がっている万年筆を探し出し、試しに少しそのインクを入れて文字を書いてみた。美しい色のインクは、伯爵の書く美しい文字にとてもよく合っていた。伯爵は少佐にペンを渡した。少佐は伯爵の文字の横に書いた。少佐の字はどちらかというと個性的だったので、美しい色のインクはこの場合、多少気違いじみた印象を与えた。ふたりはその違いを鑑賞して話し合った。
「君はどうしてアルファベットを圧縮して書くの? 圧搾機でいじめてるみたいだよ。たぶんそれがいけないんだと思うな!」
「性格が細かいんだ。おまえみたいに弛緩しとらんのだ」
「そりゃ、まあ、その通りだね」
それから少佐は最後の箱を開けた。箱のなかには小さいクッションと、とても小さいチェックのベレー帽が入っていた。伯爵は大急ぎですやすや寝ていた相棒を呼びに行った。そしてクッションの上に座らせ、耳の寝癖防止のためにかぶっていたナイトキャップをとって、ベレー帽をかぶせた。ベレー帽をかぶると、ウィスパーはとてもかっこよくなった。
「精力的な芸術家って感じだよ、ウィスパー。君みたいにベレー帽の似合うベア、ほかにはいないよ」
伯爵が云うと、彼はよろこんで、クッションの上で飛び跳ねた。それから少佐の膝の上にやってきて、ドイツ語でお礼を云った。少佐はどういたしましてと云った。ウィスパーはもっとちゃんとよろこびたかったのだが、もう遅いので眠かった。そこで、よろこぶのは明日にとっておくことにして、帽子を脱いで、ナイトキャップをかぶりなおし、クッションの上に横になった。
残されたふたりはおとななので、まだ寝なくてもよかった。ふたりは楽しくおしゃべりした。伯爵はロビンを膝に抱えて、その日あったことを残らず全部しゃべった。まったくよく働く舌だった! 少佐はうなずきながら聞いていたが、途中で空腹を覚えて台所へ進入し、ありあわせの食材で簡易式サンドイッチを作った。それから伯爵のためにお茶を淹れた。これもまた、今日伯爵をお祝いしてくれた連中にはなかなかできないことだった。彼らは伯爵といっしょで、お湯の沸かし方も知らないようなのばかりだった。伯爵はサンドイッチをひと口欲しがった。少佐は太るぞと云って脅し、わざと伯爵の機嫌を損ねた。それからその機嫌を元に戻すために、あれこれ云ったりやったりした。
「君はこの二十四時間で、二度もわたしを怒らせたよ」
伯爵さまは不機嫌に云った。
「こんな男、いままでいなかったよ!」
「唯一無二だろ。魅力的じゃないか」
少佐はあっけらかんと云った。伯爵さまは怒気をそがれて、笑いだしてしまった。
「それはほんとだ」
伯爵は少佐にもたれて云った。
「君みたいな男はほかにいないよ……」
伯爵はうっとりした顔で、いろいろな思いをこめてそう云った。少佐は間違いなく、この地上でもっともすばらしい男だった。彼のくれたプレゼントはどうだろう! 彼はほかの誰にも真似できないやりかたで、いつも伯爵をなぐさめるのだった。一体誰が、伯爵がどんな美しい絵画より彫刻よりも、そのあたりにせいぜい三十か四十ユーロで売っているうさぎのぬいぐるみを喜ぶなどと思うだろう。市販品との違いといえば、緑のプラスチックの輪っかでかろうじて「聖別」されているだけ。でもその緑の輪っかがついていることによって、このぬいぐるみはただのぬいぐるみではなくなっていた。少佐なりの気遣いは、いつもそういうかたちをとった。とても気が利いていて、伯爵の心を優しくくすぐった。伯爵は、クラウスってわたしをいつもさんざんガキっぽいとか云ってばかにするけれど、彼だってじゅうぶん子どもっぽいんじゃないかな、と思った。彼がいったいどんな顔をして、風船やぬいぐるみを買ったのだろう? そう考えると、おかしくてたまらなかった。買ったものに細工をして、仕事終わりにあわただしく飛行機に飛び乗って、ここへやって来て風船を膨らまして、ぬいぐるみをくっつけて、二階の窓まで届くようにした。彼の遊び心。それがたまらなく愛おしかった。
伯爵はとても幸福だった。ふいに胸がいっぱいになって、お礼や自分の気持ちや、いろいろなことを云おうとした。でも、少佐の目を見て考えは変わった。もう黙るときだった。彼は黙った。そして静かに口づけを受けた。彼は陶酔した。愛の中の、夢のような時間に酔いしれた。
「君が休暇? ひと月も!?」
男の腕の中で、心地よい余韻にうっとりしていた伯爵は、驚いて大声を出した。
「そうなんだ」
少佐は難しい顔をして云った。
「冗談で申請してみたら、通っちまったんだ。おれはいよいよ首を切られるところなのかもしれん」
伯爵は口をぽかんと開けて、「そりゃあ……そりゃあねえ」とぼうっとして云った。
「おまけになあ、妻子持ちの連中が、ここぞとばかりに似たような時期に休暇なんだ。Zなんぞ妻子持ちでもないくせに、家族旅行とかで八月いっぱい休むらしい。Gは南仏でロマンスを生みながら美しくなってくるとか云っとったぞ。なんのことだ? まあいい。なるようになれ。休暇中になにかあったらただですむと思うな、と云ってきたから、たぶん平気だろ」
伯爵は「はあ」と云った。
「それで、部長は?」
少佐は盛大に顔をしかめた。
「あのくそデブは毎年きっかりひと月休暇なんだ。奥さんとのんびり過ごすとさ。今年はヴェネツィアに行くと云っとったから、そのまま美少年でもめっけて死んじまえ、と云ってやった」
「ヴェネツィアか」
伯爵は夢を見るような顔になって云った。
「あそこの夏はすばらしいからね! 昔本場で本格的なタージオごっこをして、ほんとにやばいことになった話、もうしたっけ? われわれも明日は、自分たちの予定をたてなくちゃいけないよ」
少佐の顔が眠そうになってきた。伯爵はおしゃべりをやめ、クッションに寝たままになっていたウィスパーと、新入りのロビンを自分と少佐のあいだへ押しこんだ。
「この子たちをつぶさないでね!」
伯爵は云った。少佐は唸り声のようなものをあげた。彼はもう半分寝ていた。
伯爵はしばらくのあいだ、実に幸福な気持ちでその寝顔を見つめていた。いろいろな思いが伯爵の心へやってきては過ぎていった。それから微笑し、少佐の精悍な頬に口づけて、自らも目を閉じた。
明日からなにをしよう。伯爵は楽しみで仕方がなかった。まずは、ふたりでロビンの墓参りをしなくちゃ。花を摘んで、墓の前に供えよう。お祈りをして、黙祷しよう。ぬいぐるみのロビンをつれていこう。久しぶりに、魂を移す儀式をやってもいい。ロビンの魂を、ロビンのぬいぐるみに。子どものころ、よくあやしげな黒魔術の儀式をして、母の顰蹙を買ったものだった。蛇のぬけがらとか、薬草とか、虫の死骸なんかを集めてきて。黒魔術セットがまだあったかな? 物置にしまってあるかもしれない。父はわたしのものをなんでもとっておいてくれたから。
それにしたって、ひと月もこの男を独占できるかもしれないなんて、たいしたことだ! どこか感じのいい、静かなところに彼と、執事と料理人をつれていって過ごしてもいいな。使用人の休暇ってどうなっているんだろう? 明日、確かめないと。どこかいいところがなかっただろうか? それとも彼が知っているだろうか。
伯爵は、わたしってなんて幸福な人間だろう、と思った。そうして、微笑とともに優しい眠りの中へ落ちていった。