アプロディーテーの帰還
 
※聖ヨハネの帰還と、お茶会攻防戦の前後のお話です。それを踏まえてお読みいただけると嬉しいです。

 

 人間は習慣の生き物だ。就寝前にメリーさんのひつじをやらないと寝つきが悪いのは昔からのことだが、いまではそれに加えて、イギリスからの「おやすみ電話」がないととてつもなく寝つきが悪かった。悪いことが判明した。少佐は煙草に火をつけ、溜息とともに煙を吐き出した。伯爵は、お互いこんな関係になってからというもの、毎晩欠かさずに少佐に電話をよこしていた。おやすみ、ということばと、濃厚なキスの音で終わる電話。伯爵が仕事にとりかかるとそれは途切れたが、でもそういうときには少佐も事前に話を聞いていたから、ああ、今日はあいつは仕事をしているな、と思いながら眠りについたのだった。なんとかいう国で、なんたらいう美術品を、なんとかいう美術館から、あるいは個人宅から、博物館から、教会から、盗み出す計画を嬉々として語る伯爵の話に耳を傾けているだけで、少佐は微笑ましい気持ちになった。それが反社会的行為だとか、誰かに実害を与えずにはおかないこととか、そんなことはどうでもよかった。伯爵のくるくるの金髪に覆われた頭の中がなにか楽しい計画でいっぱいになっている、そしてそれが成功した暁には、ますます幸せいっぱいではちきれんばかりの伯爵が見られる。彼が幸福でいるとき、少佐もまた幸福だった。彼が喜びに満ちた人生を送っているとき、少佐の胸もまた喜びに満ちていた。静かに打ち寄せる波のように、彼から伝わってきた喜びが少佐の胸に優しく覆いかぶさってきて彼を満たした。
 煙草を何本吸ったところで、おやすみ電話のかわりになるわけではない。人間は習慣の生き物だ。ある習慣が途絶えた場合、それに慣れるまでには時間が必要だ。少佐はまたため息をついた。伯爵とはリマソルで別れたきりだ。ほんの一週間ばかり前のことなのに、もうずいぶん長いこと彼に触れていないような気がする。彼の空気に。あの独特の色香に、声を聞くだけで溢れそうに満たされるあの雰囲気に。
 ほっといてくれないか、というあの突き刺さるようなことばが、耳から離れない。失ったものは二度と戻らないんだ。あんなに美しかったのに。美しいものは、手をかけて愛さなければ滅びてしまう。神の息吹、至高の精神、たゆまぬ情熱……なんでわからないんだ。みんな大嫌いだ。この世界は無粋で愚鈍で鈍感で無神経なやつばっかりだ。窒息しそうだよ。気が狂っちゃう。わたしはなんでこんな世界にいないといけないんだ?
 少佐は、ホテルの一室のソファの上で膝を抱えてうずくまる彼に手を伸ばし、頬に触れようとしたが、振り払われた。はたき落とされた、というのに近かった。伯爵は常にない鋭い命令口調で……英語で……触るなと云った。彼の身体は、冷たく、硬いものに覆われていた。少佐は、おめでたいことだが、これまで彼の殻を突き崩せないと思ったことはなかった。伯爵はいつでも、最後の最後で少佐に甘かった。拒絶し閉じているときでも、いつもどこかに入りこめる隙があった。そういう隙を、少佐のために残しておいてくれていた。少佐がそれを手探りで見つけ、そっと爪の先で引っ掻いて、徐々に穴を広げられるように。穴を広げて中を覗きこみ、優しくくすぐり出せば、ほどなくそれは破けて、あるいは溶け去って、あとには優しい余韻だけが残るのだった。でも、今回ばかりは違った。少佐は締め出されていた。どこにも隙はなかった。伯爵のぐるりをいくら見回しても、どこにも、ほんの小さな傷すらも、見当たらなかった。少佐は手を引っこめた。どうしたらいいのかわからなかった。手を広げても、腕を伸ばしても、どんなことばをささやいても、そしていかなる愛撫を施そうとも、おそらく無駄だった。伯爵は、取り返しのつかない傷を負っていた。そして少佐はそれを、どうすることもできなかった。少佐は身体を屈め、伯爵の耳元に謝罪のことばを残して、部屋を出た。ドアを閉め、ため息をつくと、ドア越しに静かな嗚咽が漏れてきた。少佐はどれほど部屋の中へ引き返したかったか知れない。引き返し、問答無用で抱き寄せ、口づけ、拒絶されながらもそれをくり返し、彼が落ち着くまで、そうしていたかった。もしかすると、こんなとき男というものは、そうすることで自分の影響力を示し、信じたいだけなのかもしれない。でも、慰めたいという気持ちはほんとうだった。彼が悲しむとき、少佐も悲しかった。地下牢に閉じこめられ、鎖に繋がれ、永久に光を失ったような、そんな気持ちがしていた。少佐は自分を、自分の仕事を、そこに入りこんできてしまった伯爵を、そしてそこに関係してきたあらゆる人間たちを、呪った。
 その日から、電話はない。こちらからかけてもつながらない。メールにも返事はない。そしてそれ以外に、少佐は彼と連絡を取るすべを知らない。少佐は、国境どころか海を隔てて住んでいる自分たちがひどく不安定なものの上に築かれていることを思い知ったのだった。これで向こうから二度と連絡が来なければ、もうそれでおしまいだ。少佐は彼の城の場所を知ってはいるのだが、押しかけていったところで本人に会えるとは限らなかった。なんとなれば、情報部などよりはるかに緊密で統制のとれた裏社会の連中が、伯爵のために全力で立ち回り、エーベルバッハ少佐を伯爵から遠ざけるに違いなかった。そうなれば、それこそお手上げだ。少佐はもう二度と伯爵の顔を拝むことはかなわない。そういうものだ、と理解していた。はじめから、この関係は最後の線では一方的なものなのだった。伯爵がエーベルバッハ少佐を不要とみなせばそれで終わり。あの輝かしい美と愛の象徴は消え去り、永久に戻っては来ない。
 鳴らない電話を見つめて、少佐は煙草を灰皿に押しつけた。メリーさんのひつじをやったところで、うまく眠れないのはわかっていた。彼に会いたかったし、直接に自分のせいではないにしても、どうにかして、罪滅ぼしのひとつもしてやりたかった。たとえこの身が滅びたとしても。

 

 部長の護衛のために出向いた空港で、Aの口からボーナムの名前が出たときには、思わずどきりとした。匿名の招待状が届いた、というのを聞いてわけもなく気持ちがざわついた。少佐は招待状とはなんの関わりもなかったし、なにも知らなかった。いつもなら、例のよろしく転がりまわる舌から真っ先にそのことを聞いていただろう……ねえ、招待状が届いたんだ、匿名のやつだよ。あやしいよね、どう思う? 行くべきだと思う? それともやめておいたほうがいいと思う? おかしなことになったら、君、助けに来てくれる? そのちょっと甘えた声を、想像できた。そして、少佐はそれにすら、懐かしさを禁じ得なかった。くそ部長の不審な行動と伯爵とのあいだにどうやらなにかつながりがありそうだとわかったときには、死ぬほど腹が立った。エーベルバッハ少佐を差し置いて、あのくそ部長が伯爵とつながっている。ボロボロンテは仕方がない。あれは伯爵の昔からのお友だちで、伯爵のことをこの地上のいかなるものよりも愛し、大切にしている。そしてボロボロンテは、伯爵を慰めるのが得意だ。たぶん、今回も気落ちした伯爵をなんとか慰めようと、サプライズを用意したのに違いない。彼の愛情は、陽気な雰囲気に覆われてはいるが真剣なものだ。ボロボロンテもまた、伯爵の幸福が自身の幸福であり、伯爵の不幸が自らの不幸である人間だ。そういう意味では、エーベルバッハ少佐と同じだった。でも部長は? 部長については許しがたかった。なぜ部長でなければならないのか。なぜ、いまこの時期に伯爵を慰め、喜ばせるのが部長でなければならないのか? もしエーベルバッハ少佐が仕事熱心な人間ではなく、部長の護衛など思いつかなければ、この計画のことをまったく知らずに終わっていた。伯爵は部長とボロボロンテと三人仲良く楽しくパーティーで盛り上がり、しまいに、すごく元気が出ました、ふたりともありがとう、とかなんとか云って、それぞれの頬にキスする。あるいは、抱きしめるかもしれない。ボロボロンテにはもう少し濃厚な愛情を示すはずだった。それはいい。それはかまわない。でも、部長だけは勘弁ならない。そしてなにより、自分のところへなんの話も来ないことが、伯爵がこちらになにも求めてこないことが、我慢ならなかった。自分のすぐ近くの人間が伯爵のために動き回っているのに、この肝心要のエーベルバッハ少佐になんの音沙汰もないとは、いったいどういうことなのか?
 たぶん、少佐は何割か、そういう怒りのために行動していたのに違いない。偽りの警告メールを通して伯爵に自分の存在を思い出させようと試みたが彼はその手には乗らなかった。少佐はそれにも猛烈に腹が立った。怒りながら、虚しく、みじめな気分だった。少佐は無視されていた。伯爵にとって、エーベルバッハ少佐はもうただの他人でしかないのかもしれないという予感が、急速に広がり、現実味を帯びてきていた。彼の大切な獲物を、彼の美しい世界を、理解せず、破壊することしか知らない、愚鈍で無神経でどうしようもない野蛮人。考えてみれば、よくもまあこんな男に長いこと愛情を注いでいたものだ。でも、彼はついに悟ったのだろうか? エーベルバッハ少佐が、しょせん伯爵側の人間……美と快楽と愛情と感性で生きる人間、神に愛され、その息吹を受けた者……ではなく、彼の嫌悪する、ものの道理のわからない人間……冷たく、頭でっかちで、我を張り、あらゆることに気づかず、目に見えぬものを理解しない愚者……でしかないことを。伯爵は、ようやくそれに気づいて目がさめたのだろうか。そうして、元の世界へ戻るのか。エーベルバッハ少佐のもとには、光もなく、冷たく閉ざされた世界だけが、色も香りも形も、なにもかもをなくした世界だけが残るのか。
 たぶん、少佐はただ彼に会いたいだけだったかもしれない。どんな反応を示されても構わなかった。ただ、あと一度でいいから会いたかった。お互いに仮面をかぶった、どうしようもない関係を演じざるを得ないとしても、それでも少佐は伯爵の本心くらいは見抜ける自信があった。なにかの拍子にあのちょっとひとをからかうような笑みが見られるか、それとも氷のように冷たいか。あるいはもう無関心なのか。そして実際には伯爵は、どちらかというと少佐を避けようとしているように見えた。いつものようにエーベルバッハ少佐に会えたことを喜んでいる顔をしていたが、すべてがどこかよそよそしかった。彼に会ったときいつも感じていた、あの包まれる感じ、たとえ敵対者として対峙していても、彼がふとした瞬間に送ってくれるあの、温かい眼差し、あるいは熱のこもった視線、親しみをこめた美しい微笑、少佐を微笑ませ柔らかい気持ちにさせるあの空気は、どこにもなかった。伯爵はまだ見えない殻に覆われており、彼の美しさも愛も、その殻の内側にこもって、こちらに背を向けていた。そしてエーベルバッハ少佐は二度とその殻を破ることはできず、彼にもう二度と、近づけないことを知った。

 

 部長が大慌てで空港へ逃げてゆき、伯爵とボロボロンテはふたりしてどこかへ行ってしまった。脳天気に電話をかけてきたロレンスにありったけの怒りをぶつけてから、少佐は部下たちを先に空港へ戻した。どうしても、このまま帰るわけにはいかないような気がした。せめてもう少し形のある別れ方をしたかった。追いすがるようで無様だが、別に無様でもよかったのだ。恋の終わりとは、そういうものだからだ。
 少佐は手はじめに、ボロボロンテの部下を見つけることからはじめた。伯爵の護衛のためにうようよしていた連中のひとりくらいは掴まえられそうだった。ボロボロンテは陽気な男だがばかではない。周到でぬかりない。そのぬかりなさで、いつも伯爵を全力で支えている。彼の愛は、目に見えて明確だ。伯爵のためなら、どんなことも厭わない。惜しげもなく手下も金も使う。そして、自分の身も心も、捧げる。
 おれだってそのつもりだった。少佐は思う。派手ななにかができるわけではない。いつも寄り添っていられたわけでもない。彼好みの贅沢な、豪華絢爛ななにかになれたわけではないけれど、でも少佐はきわめて人間的な地道なやり方で、どちらかといえばひたむきに、愛を注いだつもりだった。そして一見きらびやかで浮ついたようにみえる伯爵が、実はそういった泥臭い人間の本性の部分で勝負している人間であることを、少佐は知っていた。その部分で、お互いに真摯なはずだったし、また心からのものを、捧げていたのでもあった。お互いに。でも、生まれつきの性質の差や感性の差はどうにもしようがない。それに我慢できなくなってしまえば、そして少佐が伯爵の大切なものを破戒し続ける、社会的常識と秩序につく側の存在でしかないのならば、彼を傷つけ、息の根を止めてしまうような世界の人間であることしかできないのならば、関係の持続は到底不可能に違いなかった。たぶん、そんなことははじめからわかっていたことだ。でも、愛の持つあの陶酔的な雰囲気が、なにもかもを上手に覆い隠し、甘ったるい夢を見させていたのだった。その夢を丹念に織り上げたのは伯爵だ。美しさ、きらめき、恍惚、愛と官能のすべてを少佐のもとにもたらしたのは彼だ。あの、美と愛の化身。海に落ちたウーラノスの精液の、その泡から生まれたという女神……現実には彼は男だが。
 少佐は、昔から勘がよく働く人間だった。あてもない場所に放り出されたとしても、なにか不思議なひらめきのようなものが、少佐をいつも解決の糸口へと導いてくれた。今回もそうだった。少佐はほどなく、携帯電話を片手に歩くボロボロンテの手下のひとりを見つけた。そうして、彼のあとについていった。手下は用心深く、しかしなにげない調子でローマの裏通りを進んでゆき、一軒のバーの前で立ち止まった。さっとあたりを見回し、バーの横手にある地下へと続く階段を降りていった。少佐は少し待ってから、バーに近づいた。当然だが、店はまだ営業していなかった。すべての椅子が机の上に逆さにして置かれ、床にはおがくずが撒かれてあった。地下へ降りる階段は狭く、濃い緑色に塗られた手すりがついている。少佐はそっと階段を降りた。つきあたりのドアも、濃い緑色をしていて、関係者以外立入禁止の看板がかけてある。ドアに近づき、少佐は耳をすませた。物音は聞こえない。少佐は試しにドアノブの鍵穴から中を覗いてみた。細長い廊下になっているらしかった。ドアノブに手をかけると、ゆっくりと回転した。鍵はかかっていない。音がしないように慎重にドアを少しだけ開けてみる。湿っぽく、どこかカビ臭い、コンクリート床の廊下だ。端から端まで五メートルくらいだろうか。左右にドアがひとつずつある。つきあたりはまたドアになっていて、おそらく反対側の通りへ抜けられるのだろう。相変わらず物音はしない。少佐はなんとなく拍子抜けしたと同時に、ふいに自信を得た。ボロボロンテの手下は、まさかおれを殺しはしないだろう。たぶん。少佐はためしに左側のドアに近づき、聞き耳を立てた。複数の男の声がした。
「まったくボスもなあ、あの伯爵のこととなるととんとばかになっちまうからな」
「よせよ、聞こえてるかも知れねえぜ」
「いいんだよ。あのひとはそう云われることを誇りに思ってんだ。自分で云ってるぜ。おれもばかだぜ、ってな。で、続けてこう云うんだ。でも、ばかになっちまうのが愛ってもんだぜ、これにつきるんだ、人生はよ、ってさ」
「そうなんだよ、いいこと云うんだよなあ、ボスって……」
 そうだな、いいこと云うじゃねーか。少佐もそう思った。そしてそのドアから離れ、右側のドアに耳をくっつけた。少佐の心臓がぐっと跳ね上がった。
「ほんと、散々ですよ。愛しの聖ヨハネは粉々だし、お茶会は台無しだし。かわいそうなわたし! せっかくあなたがわたしを元気づけようとしてくださったのに」
 ちょっと甘ったれたその口調が、耳から胸の中へ入りこんできて、少佐をざわつかせた。イタリア語を話してはいたが、伯爵の声に違いはなかった。
「なあに、あれはあれで楽しかったじゃねえか。このおれが逃走劇たあ、なかなか笑わせるぜ。ハードボイルドだろ、な? いいってことよ。それよりなあ、伯爵、元気を出してくれよ。モザイク画のことはほんとうに残念だったが……おれがなんとかして慰めてやれるといいんだがなあ! あんたの胸の痛みをかわりに引き受けてやりたいもんだ。かわいそうに。あんたがそんな悲しい目に遭うなんて間違ってるぜ。あんたが悲しそうにしてると、おれは地獄に落ちた気持ちになる。太陽は登らず、鳥も鳴かず、花も咲かず。そういう気持ちだぜ……」
「ありがとう、ボロボロンテさん。そのことばだけで十分ですよ。ねえ、抱きしめてくれませんか?」
 沈黙が流れた。たぶん、ボロボロンテは伯爵にうやうやしく腕を回し、あの身体を腕の中へおさめたのに違いなかった。たぶん伯爵は目を閉じ、彼の肩に頬をこすりつけて甘えているのに違いない。ボロボロンテは、伯爵の背中を優しくさすってやるだろう。少佐は、全身の血が沸き立つように感じた。ボロボロンテのかわりに伯爵を抱きしめるのは自分であるべきだった。こんなときに、彼を慰め、彼の気持ちを支えるのは、エーベルバッハ少佐であるべきだった。抱きしめてほしいと擦り寄られ、甘えられるのは、ついこのあいだまで、なによりも先に自分ではなかったか。
 しかし少佐は、伯爵を罵ることはできなかった。責任を感じていたからだ。せめて、伯爵が心を奪われたものを、もう少し大切にすべきではなかったか。もう少し、注意を払うべきではなかったか。少佐に直接的な責任はなかったが、だからこそ、少佐は罪の意識を感じていた。それはたぶん、伯爵の世界と自分の属する世界との間隙で、少佐がいつも感じる矛盾であり葛藤の結果なのだった。美と愛は、そこにひそむ激情は、人間の作りだす法や秩序を超越している。でも少佐はいつも、最終的にはその法や秩序に守られたものの側にいなければならない。そこを飛び越え、彼の中へ、なにもかもを捨てて入りこむこと。それは一時の夢であり、夢想だ。いっときは現実だが、永遠に完全には実現しないもの。少佐はいつもそのあいだで揺れているのだった。
「なあ、伯爵。いま手下が迎えに来るが、今日のところはひとまず我が家に移動してパーティーってことで、勘弁してやってくれ。それから、気の済むまでローマにいて、好きなことをしていいんだぜ。あんたの微笑みがなきゃあ、太陽が消えたのと同じだ。おれにできることがあったら、なんでもするぜ」
 ボロボロンテが、一段低まった優しい声で語りかけている。
「ほんとにありがとう、ボロボロンテさん。あなたは優しいひとですね。でもね、たぶん、数カ月後にはわたしはまたとっても元気になってると思うんです。モザイク画の複製を注文してあるんですよ。あのラヴェンナにあるすてきな古書店に……ほら、ニコリーニさんのところ。彼のこと話したでしょう? ボーナム君が夢中の」
「ああ、あんたが話してくれたことは全部覚えてるぜ。なにひとつ忘れちゃいねえよ。そうかそうか、複製か……よかったな、たとえ複製でも、手に入るめどがついてるならいくらか気持ちも楽ってもんだ」
「ええ、ほんとうにね。だから、あなたまで気を落とさないでください。お願いだから。わたしがますます悲しくなっちゃいますよ! そうだ! ねえ、新しい獲物を物色するのを手伝ってくれませんか? イタリアは美の宝庫、わたしにとってはお宝の山。なにかを失ったときは、新しものを得るに限りますよ。恋愛もそうでしょう? 失恋の痛手には新たな恋。わたしもまた、なにか美しいものに恋をしなくっちゃ」
 ボロボロンテの豪快な笑い声が響いた。
「そうそう、あんたはそうでなくちゃいけねえ。目をきらきらさせて、求めるものを追っかけていないとな。あんたはそういうときが一番きれいなんだぜ……」
 少佐はそっとドアから離れ、階段を登って引き返した。伯爵とのあいだに大きな隔たりを感じていた。確かに、いま伯爵が求めているのは、彼を慰めることができるのは、エーベルバッハ少佐ではなく、ボロボロンテか、あるいはそういう裏社会のお仲間であるに違いなかった。あらゆる社会的規範を飛び越えた、美しさや美意識に生きる、彼の世界に属する人間であるに違いなかった。エーベルバッハ少佐には、あんなふうに彼を甘やかし、理解を示してやることはできなかった。立っている場所が根本的に違っている。ボロボロンテのような人間は、伯爵のすぐそばに立って、手を伸ばせばすぐに触れられる。エーベルバッハ少佐は、対岸から身を乗り出せばかろうじて彼に指先が触れるような、そういうあやういところになんとか立っていて、どうにかこうにか彼の背中を支えていたのだが……少佐は微笑し、首を振った。でも、ひとつ収穫があった。ラヴェンナの古書店。経営者の名前はニコリーニ。伯爵はそこに、モザイク画の複製を頼んでいる、ということ。それで、伯爵の気持ちが元に戻るわけではないにしても、なんとか今回の埋め合わせができるかもしれない。

 

 ボンに戻った少佐は、情報部に所属していることを神に感謝したい気持ちになっていた。通常の方法で検索をかけてもなにも出てこなかったが、情報部のデータベースとなると話は違った。ラヴェンナにある古書店の一覧。そこから、経営者の名前を絞りこむ。少佐はイタリア語ができることも感謝したい気持ちになっていた。ニコロ・ニコリーニなる男が経営する古書店が、確かにラヴェンナにあった。少佐は電話番号を頭に叩きこみ、考えたあげく、昼休みに支給品の携帯電話から電話をかけた。数コールで、落ちついた老年の女の声が応じた。少佐は、ちょっとお尋ねしたいのだが、と云った……さて、ここからが勝負だ。古書店がモザイク画の複製という仕事を取り扱っているわけがない。少なくとも、表向きは。微妙なやりとりが必要だ。まずこの女が話のわかる人間かどうか確かめ、それから、こちらが事情をなにもかも把握していると思わせなければならない。実際には、少佐はなにも知らないが、それを気取らせてはならなかった。
「そちらに、ある注文が入ったと思うんですがね。たぶん、十日かそれくらい前です」
「どういったご注文でございますか?」
 女の声は落ちついており、どこか面白がるような軽い、しかし優しい響きがあった。
「注文したのは若い男です。イギリスの伯爵で……」
 電話の向こうの声が、くす、っと笑った。自分はなにかへまをしたのだろうか? 少佐は一瞬ひやりとしたが、すぐに気を取り直した。そうして、なるだけ優しい声で聞き返した。
「なにかおかしなことでも?」
「いいえ、失礼いたしました。先をお伺いしますわ」
 向こうからはなにも云わないようだ。なかなかしっかりしたばあさんだ、当然だが……少佐はすこし考えて、云った。
「実はその代金の支払のことで」
 少佐の頭の中を、このときになってはじめて「破産」ということばがよぎった。裏ルートを巡っている美術品の金額など知らない。たぶん途方もないものだろう。でも、別に構わなかった。自分が滅びてでも、最後に彼に、なにかをしたかった。
 女の声が、さっきよりもう少しはっきり、ふふ、と笑った。少佐は、自分がまたヘマをしたのだろうかと考えて、全身の血がかっとなった。それとも、からかわれているのだろうか? 優しい老女の声だけに、ますます薄気味が悪いような感じがした。
「ええ、ええ、確かにイギリスの伯爵さまからご注文いただいております。ですが、そちらのお代は、もういただいておりますわ」
 少佐は一気に重苦しい気持ちに襲われた。そうですか、と落胆を見せずに軽やかに云い、それから、ふと思いついて訊ねた。
「それなら、もしよければ教えていただきたいんですがね。その支払いの申し出は、これで何件目ですか」
 女の声が今度は決定的に、笑った。
「あらあら、ごめんなさい。笑ってしまって……あの方のご注文となるといつも争奪戦ですもの、おかしくって……でも、わかりますわ。とても愛らしい方だから。そうですわね。今回はこれで四件目ですわ。お早いほうです。当方ではいつも先着順にさせていただいておりますの。次回ご利用時のご予約、というのは承っておりません。ご注文は不定期ですし、うちは小規模な店でございまして……ご理解くださいませね」
 では、ごめんあそばせ、ということばとともに切られた電話を、少佐はしばらく黙って見つめた。いつもこうだ。なにもかもこうだ。伯爵に手を差し伸べたいと思っても、その役割を、いつも誰かに奪われている。金はこっち、宝石はこれ、服はここ、娯楽はそちら……少佐は、実質なにもできないままだった。なにひとつ、させてもらえなかったような気がする。最後の最後まで。普通の男が、恋人に与えられるようなよろこびを、捧げることもできなかったし、受け取ってもらうこともできなかった。普通のやり方では。エーベルバッハ少佐が真実与えることができたものは、いつも見えないもの、形には残らないものだけだった。決定的に大事なのはそれなのだが、でも、少佐はいつも、どこか自分が及ばないのを、そしてあの、与えたいという男が当然持ちうる欲求が満たされていないのを感じていたのだ。相手にとって全知全能の、すべてをあまねく与える神にはなれないとしても。でも、大方の恋人どうしというものは、もっとたくさんのものを、ただひとりの相手から受け取っているはずだった。心も、身体も、物質的な贈り物も。
 陰鬱な気持ちで執務室へ戻り、部下から上がってくる膨大な報告書を片づけていると、ドアがノックされた。いつものように皺ひとつない清潔なスーツに身を包んだ部長秘書だった。手袋をはめた手に、真っ白の凡庸な封筒を持っている。
「お忙しいところすみません、少佐。ちょっとよろしいかしら?」
 少佐は微笑みかけ、立ち上がり、秘書に椅子をすすめた。
「どうかなさいましたか」
「いいえ、ええ……まあ、そうね、どっちかしら。どうかした、とも云えますし、どうもしてないとも云えますわね。部長のことですけど。いつものように」
 少佐はうなずいた。彼女がこうして少佐個人を訪ねてくるときには、いつも部長がなにか問題を起こしたときなのだ。
「はっきり云いますわね。この封筒と、中身をご覧になって」
 部長秘書は、封筒を机の上に置き、手袋を脱いで、少佐に渡してきた。少佐は男の手には少し窮屈なそれをはめ、封筒を手にとった。白い、上等な紙を使用した封筒は、かすかに甘い香りがした。部長の字で、宛名が書かれている。ローマの私書箱ゆきだ。ローマ? なぜローマなのだろう? 裏返すと、一度糊付づけされた封がきれいに開けられていた。中身を取り出そうとして、少佐は念のため部長秘書を見た。部長秘書はうなずいた。封筒の中に、また封筒が入っている。その封筒の上に書かれているのはこれだけ。親愛なる伯爵へ。少佐は眉をつり上げ、ふたたび部長秘書の顔を見た。部長秘書は、困った顔をしていた。
「そうなんですの。部長ったら、これをわたしに出すように云いつけたんですの。わたし、部長が手紙を出す先は全部覚えているんですけど、はじめて見る宛名でしょう? ローマの私書箱なんて、なんだかおかしいわ、と思って、部長には悪いと思いましたけど、念のため住所を調べさせてもらったんですのよ。そうしたら、登録上はローマの不動産会社が利用していることになっているんですけど、そんなところに部長が用があるとは思えなくて。それで、申し訳ないけど開けさせてもらいましたの。ほら、部長って、ときどきやりすぎるでしょう? 公私混同は、よっぽどのことがない限り大目に見ますけど、あんまり行き過ぎてあとあと問題になったら困るし、なによりあなたにご迷惑がかかるから……」
 封筒の中に入っている封筒の封は、しっかりと閉じられたままだった。さすがに部長秘書もこれを見てみる気にはなれなかったのに違いない。
「あの伯爵が悪いというんじゃないんですのよ。ローマにあてたということは、大方、例の、なんでしたっけ、あのちょっと面白い名前のマフィアのボスとの関係だと思いますの。このところ電話でしょっちゅうやりとりしていてよ。個人的なおつきあいなら別に止めないわ。マフィアのボスだろうが、暗黒街の帝王だろうが、部長がどんなひととお友だちになったってかまうもんですか。でも、ここからお手紙を出すのはやっぱりどうかと思いますの。証拠が残りやすいでしょう。それでわたし、帰りに郵便局へ寄って出そうと思ってますのよ。その、もしあなたがお嫌でなければね。なにはともあれ、ひとまずお知らせしておこうと思って。その手紙、わたし、出してもいいかしら?」
 少佐はため息をついた。いつもどおり考えなしの阿呆な部長だが、部長のことなど、この際どうでもいい。伯爵は……あの男の存在は、エーベルバッハ少佐を不要品とみなしてからも、こんなふうにいつまでも周囲にちらついて、消えないのだろうか。エーベルバッハ少佐だって、部長のことなど云えはしない。伯爵の存在が、公私ともに深く食いこんで、離れない。
 少佐は手紙を預かった。部長秘書のために、あからさまに部長につきつけることはしません、と約束して。

 

 夜遅く帰宅し、就寝準備を整えてから、少佐は台所へ行って、やかんに少量水を入れて火にかけた。それから、ふところから例の封筒とピンセットを取り出した。ほどなくしゅんしゅん音がしはじめ、注ぎ口のところから湯気が噴き出してきた。少佐はそこへ慎重に距離を測りながらピンセットでつまんだ封筒をあてがい、糊を剥がした。古典的な方法だが、これが一番確実なやりかただ。
 親愛なる伯爵へ、と書かれた封筒から便箋を引き抜く。部長の字は、あの顔に似合わぬきれいなものだ。ほんとうにあの部長には似合わないが、教養を感じさせる繊細な筆跡だ。少佐は便箋を広げて読みはじめた。まずは、先日の無礼を詫びる文章から。お茶会計画が頓挫してしまったことを、部長は自分の責任だと感じており、任務の鬼エーベルバッハ少佐がいなければ、もっと楽しいパーティーが開けたはずだった、と書いている。少佐はけっ、と云った。それから、またお目にかかりたいこと、パーティーのリベンジ計画を密かに温めていること、誕生日に欲しいものがあったら教えてほしいこと、今回のお詫びの印に、別便でボロボロンテのところにプレゼントの箱を送ったこと、などをつらつらと書き綴っていた。あとは、愛と称賛のことばを延々と。そして最後に、ボロボロンテによろしく、早く元気になってくれることを祈っている、という一文。
 少佐は腹が立ってきた。部長の手紙なんぞを盗み読みしている我と我が身にも、腑抜けた部長の手紙にも、部長の贈り物にも、ボロボロンテのところでまだよろしくやっているらしい伯爵にも、そのほかすべてのことについて、自分をのけものにして進んでいる伯爵まわりのすべての関係について、腹を立てていた。少佐は便箋を元へ戻し、自室へ戻ると、封筒をよく乾かし、糊をつけて封をしなおした。寝室へ行き、ベッドに転がった。煙草に火をつける。午前零時近かったが、電話はいっこうに鳴らない。
 少佐は起き上がった。煙草を灰皿に押しつけ、考えこむような顔をし、ため息をついて、またベッドに転がった。そうして目を閉じた。メリーさんのひつじをやり、布団を頭からかぶった。少佐はいまでは、おやすみ電話がないことではなく、寝つきが悪いことに慣れてしまっていた。

 

 週末、少佐はケルン・ボン空港からローマに飛んだ。ありがたいことに、ボロボロンテの家の場所は知っていた。念のため伯爵の携帯にかけてみたが、やはり通じなかった。メールへの返信もなし。破滅は決定的であるかに見える。少佐は笑うしかなかった。こうなったら、どこまでも無様にいくしかない。
 タクシーを拾い、目指す住所のかなり手前で降ろしてもらう。少佐は歩き出した。ポケットの中には、部長の手紙が入っている。のんびり屋のイタリアの郵便事業より届くのが早いかもしれない。なんなら、手紙を預かってきたことにしていい。預かってきたから読め、と云って渡して、それで終わりでもいい。伯爵は、もしかしたら単純に、ああそう、と云って終わりにするかもしれない。あるいは、なにかことばをかけてくれるかもしれない。なにを? 別れのひとこと? そういえば、ちゃんと云っていなかったから、とかなんとか云って。そういうところは、やたらと律儀なやつだ。もう君とはやってけないとか、さよなら、とか云われたら、なんと返すか。たぶん、ただ笑っていなくなるのがいいだろう。なにも云わずに。じたばたするのは見苦しい。無様に追っかけて来たのはまあ仕方がないとして、そういう見苦しさは嫌だった。
 門の前に、スーツ姿でサングラスをかけた、いかにもな男がふたり、腕を組んで陣取っていた。少佐はふたりの前に立ち、ボンジョルノ、と云った。ひとりは若い男で、ひとりは中年だったが、中年の方が少佐を「NATOの大将」と認めた。そうして、ちょっと待ってておくんなせえよ、旦那、と云って慌てて家の中へ入っていった。少佐は若い男とふたりで残された。男は姿勢を正していたが、ときどき足元の石ころをつまらなそうにつま先で蹴っていた。
 しばらくして、中年の男が戻ってきた。
「お待たせしました、旦那。どうぞ、お入りになって。さあさあ、ボスがお待ちです」
 少佐は男に続いて、門をくぐり、家の中へ入った。エントランスを抜け、絵画や壺で飾られた廊下を通り、奥まったところにあるドアの前で、男は足を止めた。ドアをノックし、「ボス、お連れしました」と云った。中からくぐもった声が聞こえた。男はドアを開け、少佐に中へ入るように促した。
 部屋は、応接室らしく見えた。座りごこちのよさそうなソファとテーブルが中央に置かれ、ドアの反対側に、大きなフランス窓がある。窓は開いていて、薄いレースのカーテンがかすかに揺れていた。ボロボロンテは部屋の隅にしつらえられた暖炉のところに立って、葉巻に火をつけていた。
「チャオ、少佐。よく来てくれたぜ。まあ座ってくれ。あんた、葉巻は吸うかい? やらない? そうか。じゃ、煙草は好きに吸ってくれ。なにか飲むかい。いらねえのかい? そうか。そんならいいんだ」
 少佐はソファに腰を下ろした。ボロボロンテも向かいに座り、足を組んだ。
「どうもこのところ、体重が増えちまったんだ。少し落とさねえと、また医者に怒られる。スーツも着られなくなるしな。だから、毎日泳ぐことにしたんだ。朝食の前に、ちょっとひと泳ぎしてな、健康的だぜ。健康なのが一番だ。そういや、部長は元気にしてるかい? あの男も、ちょいと体重を落としたほうがいいな。見たとこ、ありゃあ甘いもんの食いすぎだぜ。検査でいちいち引っかかるだろうなあ、あの腹じゃあ」
 ボロボロンテは葉巻を美味そうに吸い、煙を吐き出した。
「ま、でも、酒も美味も色ごとも、どれも魅力的だからな。切りつめるなんて至難の業だぜ。あんたなんかは割と簡単にやれそうだけどな。自制心が強そうだからよ。おれはだめだ。部長もだめだろうな。生まれ性ってやつなんだろうよ。これが合わないととことんだめだな。同じ人間なのに。潔癖なやつと自堕落なやつが暮らしたら事件だろうしよ、お祭り人間と禁欲的で寡黙な学者か宗教家なんかが暮らしたらこれまた事件だろ。だけど、世の中見回してみるとそういうケースもずいぶんあるんだな。そんで、そこそこうまくいったりしてるんだぜ。不思議じゃねえか。おれは昔から不思議でしょうがない。その道にかけては十代前半から追求し続けてんだが、いまだになにひとつわからねえ。たぶん永久にわからねえんだろうな。さてと」
 ボロボロンテは組んでいた足をおろし、姿勢を正した。
「伯爵は、離れで遊んでるぜ。白状すると、離れは彼のために作ったんだ。この窓を出て右へ行くとバラ園があるんだが、その先だ。真っ白な建物だ。横にプールがついてて……行けばすぐわかる。この時間だと昼寝してるかな。寝るのが大好きだからな。どうだかな、まあ、行ってみてくれ」
 そう云うと、ボロボロンテは立ち上がった。
「おれは今日中に片づけないといけねえ仕事があるんで、失礼するぜ。飯食っていくかい? まあ、またあとで教えてくれよ。じゃあな、大将。チャオ!」
 少佐の肩を叩き、ボロボロンテは部屋を出て行った。
「……おれはまだなにも云っとらんぞ」
 少佐は目を瞬いた。

 

 バラ園には、いろいろな種類のバラが植えられており、温室も併設されていて、年間を通して美しい花が咲くように工夫されているらしかった。庭の中央に、天使が鎮座する噴水が備えつけられており、清らかな音を立てて水が流れていた。この庭もまた、バラの花が大好きな伯爵のためにボロボロンテが作らせたのかもしれない。少佐には、この馥郁とした香りにつつまれた庭を、古代ギリシアの衣装を思わせるような服を着た伯爵が、優雅に歩きまわるのが見えるような気がした。噴水のそばに佇み、あるいはあの、庭の隅に置かれたベンチに腰を下ろし、どこか陶然とした顔で、花の香に酔いしれ、なにかを夢想する。少佐はしばしその空想を追いかけ、その空想の中の伯爵を楽しんだ。どこかで鳥が鳴いている。静かだ。
 離れは、白亜の壁がまぶしい平屋の建物だった。屋上がそのままバルコニーになっているらしい。少佐は金のドアノブがついた扉を、ゆっくりとノックした。しばらく待ったが、反応はなかった。少佐はドアをそっと押してみた。それは内側へ向けて、静かに開いた。彼はその隙間に体を滑りこませた。
 小ぢんまりして居心地の良さそうなリビングだった。出窓やテーブルの上、棚の上、いたるところにバラの花が飾られている。壁には少佐には誰のものかわからない絵画がいくつも。左手に見えるのは、鷲に掴まれた美少年の絵だから、たぶん、絶世の美少年ガニュメーデースが連れ去られるところだ。それから、海から上がるアプロディーテーを描いたもの。帆立貝の上で、褐色の巻き毛をかき上げる魅力的な女神。白い肌が美しく、プロポーションは抜群。少佐は目を細め、それをしばし見つめた。いい女だが……などと云うとたぶん伯爵は怒るだろう。そういう俗な表現はやめてくれないかな、君、とか云って。でもこの絵画の女も美しいが、伯爵も美しい。美しいものは、美しいものを好きにしていい。少佐はいつの間にかそう信じるようになった。彼の美しさだけで、あらゆるものを支配する資格は十分だ。英雄は名を轟かして、息張って歩いて行きますが、その強情も、あらゆる物に打ち勝つ美の前には意(こころ)を曲げてしまいます……そう書いたのはゲーテだったか。そうだ、あの美しさは、あらゆるものに勝る。理屈をねじ伏せ、プライドを粉々にし、自制心や理性や、つまるところ人格を破壊する。そういうものだ、あのただごとでない美しさは。
 少佐は絵画から目を離し、部屋を横切って、更に奥の部屋へと続くドアを開いた。その瞬間、風がさっと吹いてきて、少佐の黒髪をなびかせた。
 寝室だった。天蓋つきの大きなベッド、ゆったりとしたソファ、サイドボードの上にはバラの花と香炉、床には美しい絨毯がひかれている。かすかに、伯爵の好きな香木の香りがする。風が吹き抜けてきたのは、窓が開いているためだった。そしてベッドの上に、伯爵がいた。頭板に身体をあずけるように座り、本を読んでいた。ちょうどさっき少佐が夢想したようなギリシア風の服を身にまとい、首にダイヤとサファイアのネックレスをつけ、美しい足をゆったりと投げ出して。傍らにはいつも一緒にいるテディベアが、チェックのベストと灰色のズボンを身につけてちょこんとかわいらしく座っていた。伯爵は本から顔を上げた。そうして少佐を見、ちょっと眉をつり上げ、ハロー、と云った。思ったより元気そうだった。少佐はどこかほっとしてうなずき、ドア枠にもたれるようにしてその場に立っていた。
「久しぶりだね。いや、そうでもないかな? 君、わたしを探したの?」
 落ちついた声だった。喜びの感情があるわけでも、怒りがあるわけでも、失望のようなものがあるわけでもなかった。なにげない世間話をするような口調だった。少佐はちょっと首を傾けて、部長の封筒を取り出した。
「これを渡しに来た」
 伯爵は目で封筒をとらえたが、手を伸ばすことも、身動きひとつしなかった。少佐はゆっくりとドア枠から身体を離し、寝室の中へ入った。ベッドの横に立ち、彼に封筒を手渡した。伯爵は本を開いたまま横へ置き、代わりにテディベアを左手で抱き上げて、右手で封筒を受け取った。伯爵のあの、すばらしい香りがふわりと少佐のまわりに広がった。胸苦しい心地がした。
 伯爵は封筒を開き、封筒の中からさらに封筒が出てきたのを見て小さく笑い、便箋を広げ、ときおり、mm-hmm、とでも書きあらわせそうな声をあげながら読んだ。hmm、の部分がちょっと尻上がりの、かわいらしい云いかたで。読み終わると、伯爵は微笑し、便箋を丁寧に元へ戻した。そうして、それを本の上へ置いて、この日はじめてまともに少佐を見た。淡いブルーの目が、いつものようにきらめいている。少佐の胸苦しさは重みを増した。
「部長、なにをプレゼントしてくれるんだろうね。楽しみだな……彼のセンス好きだよ。君、用事はこれだけ?」
「……まあ、そうだ」
 少佐は云った。
「そこに椅子があるよ。座らないの?」
 伯爵は少佐から視線をはがし、テディベアを撫でながら云った。
「座っていいのか?」
 伯爵は少佐を見た。
「どうぞ」
 少佐はうなずき、部屋の隅に置かれていた椅子を引っぱってきて、枕元に置くと、それに腰を下ろした。伯爵は相変わらずテディベアを撫でている。
「……元気そうだな」
「うん。だいぶね」
「楽しくやってたか」
「うん、ボロボロンテさんがとても気を遣ってくれて、毎日楽しくしているよ。毎朝彼のダイエットにつきあってる。一緒にプールで泳ぐんだ。それから、お腹の一番太いところを測るんだよ。ちょっと泳いだくらいじゃ減らないのにね」
 少佐は小さく笑った。沈黙が流れた。
「君のとこはみんな元気?」
「ああ」
「忙しい?」
「いや、そうでもない。まだこないだの報告書を作るんでごちゃごちゃやっとる」
「そう」
 また、沈黙が流れた。少佐は伯爵を見た。つややかな金の巻き毛、美しい顔、均整のとれた肢体。少佐は自分の内側が燃え上がりはじめているのを感じた。いけないことだったが、それはゆっくりと赤い炎をくゆらせはじめ、身体の中で少しずつ広がり、少佐をつつきはじめていた。
「このあいだ、久々に熱が出て、寝こんだよ。三十八度。ちょっと苦しかった。わたしってなにかというと知恵熱が出てたって話、したっけ? 久々に子どもみたいな気持ちになったよ。氷嚢を見ると、子どものときのこと思い出す。うちにいた執事が看病してくれたこととか、父が……ちょうどいま君がしてるみたいに、枕元に椅子を置いて、ずっといてくれたこととか。懐かしかった。戻りたくなったよ。少しだけね。でも、戻りたくないな。いまのほうがずっといい。自分の好きなものくらい、自分で選んで、自分で手に入れられるいまのほうが、ずっといい。君が……」
 少佐はじりじりして、黙っていられなかった。伯爵に呼びかけ、彼の話を無理やり遮った。伯爵はどこかうつろな目で少佐を見つめた。
「電話。どこにやった。出なかっただろ」
 伯爵はゆっくりとまばたきした。
「かけてもこなかった」
 伯爵はうつむいて、微笑した。
「そうだね。謝るよ。ずっと電源を切って、ここに」
 と云って、伯爵はサイドボードの一番上の引き出しに手を伸ばし、開けた。そうして、いわゆる「愛の電話」を引っぱり出した。
「入れてあったんだ。怒ってる?」
 少佐はしばらくためらってから、首を振った。
「じゃあ、怒ってたんだ」
 伯爵は指先で電話の角をなでた。
「いや。怒る、って表現は……いや、でも、怒ってたのか」
「君はなんでも怒るからね。悲しくても、傷ついても、切なくても、なんでも」
「……まあ、そうだな」
 伯爵は少佐を見、微笑した。
「ほんというと、君の顔も見たくなかったんだ。怒ってもいいよ。でもほんとなんだ。なにもかも嫌になって、投げ出したくなるときって、あるだろう? ほんとにうんざりしてたんだ。君たちがやってるばかみたいなことも、云いあらそいも、対立も、みんな、なにもかも」
 伯爵はテディベアを両手で抱きしめた。
「君と話したら、すごくひどいこと云いそうだったんだよ。爆発して、全部ぶちまけてしまいそうでさ。それが嫌だったし、怖かったのもある。誰でも、これだけは猛烈に腹が立つ、我慢がならないことってあるだろう? その部分を刺激されたら、わたしってもうだめなんだよ。復讐の鬼と化すか、とにかく、激情に任せて突っ走っちゃうか、それこそ、すごく、破壊的なことも平気でしちゃう。深い愛情の裏返しだって、ボロボロンテさんは慰めてくれたけど。ほんとにショックだったんだ。あのモザイク画のこと。あんなにきれいだったのに。わたしの心は、あれだけを目指して生きていたのに。それが壊されるってことは、自分が壊されるみたいなものなんだ。だから、なんていうかもう、どうしようもなかったんだよ。そういうわたしに、誰も巻きこみたくないって思うんだ。君には悪いけど、こういうときはボロボロンテさんだけが別格。不思議なんだ。わたしを刺激しないで、そっとしておいて、でも、すっと心の中に入ってきて、黙ってそこにいてくれる。君とそんなことできるとは思えなかった。だって、君といるとわたしって必ず刺激されてしまうからさ。愛情の深浅の問題じゃないんだ」
 少佐は、泣き出しそうになっている伯爵の顔を見た。そして、そのことばが自分の心臓の奥へ、深く深く食いこんでくるのを感じた。少佐はその突き刺される痛みを、細部に至るまで感じつくそうとした。そうしなければならないと思った。彼の味わった痛みの数万分の一でも、この身体で感じたかったのだ。
「連絡しなかったこと、謝るよ」
 少佐はうつむいて、目を閉じ、微笑し……首を振った。歓喜が、波のように広がっていた。
「……怒ってる?」
 少佐は顔を上げ、伯爵を見て、首を振った。伯爵は弱々しく微笑した。子どもみたいに、微笑した。
「……ここに来てよ」
 伯爵は自分の横をぽんぽんと叩いた。
「もう、ごちゃごちゃしていないから。うんと刺激的になっても平気だよ」
 伯爵の顔は、どこか晴れやかだった。少佐はゆっくりと立ち上がり、ベッドに腰を下ろした。伯爵を見、頬に手を伸ばした。振り払われることはなかった。少佐は頬をなで、巻き毛をゆっくりとくしけずった。伯爵は目を閉じて、じっとしていた。親指で頬骨の高さを確かめ、滑り降りてきて、唇と顎に指をすべらせた。ゆるやかに閉じていた唇が少し開いた。少佐はそこへ自分の唇をあてがった。彼のまとう香りが少佐の身体の隅々まで満たした。
 白い頬、顎から喉仏にかけて、首筋、それに巻き毛を持ち上げてうなじへ、唇を押し当てながら、少佐は彼のやたらにひらひらした衣装を、取り払う糸口を探した。全身を這いまわる手を、伯爵が押しとどめた。少佐は顔を上げた。伯爵が耳元に唇を寄せてきた。
「いいから、すぐに来てよ」
 ほとんど吐息のような声が囁いた。伯爵は足を少し動かし、そのあいだへ、少佐の身体を導いた。少佐はその中心へ手を伸ばした。
「それでいいよ……そう……」
 伯爵がなにかささやくように云い続けていた。少佐はそれと、伯爵の香りに陶酔してゆく自分を感じた。

 

 伯爵の胸に頭を乗せ、少佐は満ち足りた気持ちだった。伯爵の指先が、黒髪を優しく梳いていた。少佐はもう終わりかと思った、とは、云わなかった。伯爵も自分の気持ちとその不安のあいだで揺れていたらしいことを、知ったからだった。
「……ねえ、君」
 伯爵が小さな声で云ったので、少佐は首を動かして、彼を見た。伯爵は目を閉じて、微笑していた。
「ニコリーニさんのところへ電話しただろ」
 少佐は黙っていた。伯爵の手は相変わらず優しく、少佐の頭を撫でている。伯爵は目を開いて、少佐を見た。
「ああいうところに仕事を依頼したら、いくらくらいになるか知ってる? 裏取引される美術品の相場を知ってる? いくら君が貴族出で、たとえ資産家だとしてもだよ、ほいほい払える金額じゃないよ。破産しちゃうよ、ばかだな。ねえ」
 伯爵の目が楽しそうに、でも真摯に、きらめいた。首に両腕が回され、伯爵の顔が、ぐっと近づいた。
「君はそういうことはしないで。気持ちは、すごく嬉しいけど。ほんとに嬉しかった。ありがとう。でも、君に求めてるのはそういうことじゃない。わかるよね?」
 少佐は、しばらく黙って伯爵を見ていた。それから、彼の頬に手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。伯爵はうっとりと半眼になった。少佐はふたたび彼の胸の上で、小さく頬をこすりつけるようにすると、目を閉じた。伯爵の手がまたやって来て、少佐の髪を梳きはじめた。
「……ボロボロンテさんが」
 しばらくして、伯爵が云った。
「夕食のこと、気にすると思う。君、たぶんわかってないと思うから云うけど、わたしのダーリンは彼にとって世界一重要なお客なんだよ。どうする? 彼を恥じ入らせるようなことしないでよね。意味わかる? かわいそうだよ、こんなにお世話になってるのに。ちゃんとした服持ってる? 持ってないだろ。そろえてもらおうか? ちょっと待って、いま電話するから」
 伯爵は身体を起こし、少佐はずるりと滑り落ちた。ああ、いつものこいつだ。少佐は、笑い出したかった。なにか新しいことを思いつくと、官能的な気分も、優しい事後の雰囲気もどこへやら。少佐は上半身を起こし、頬杖をつくと、備えつけの電話をかけはじめた伯爵を唇を歪めて見守った。伯爵がものすごい勢いで話し出した。ねえ、ボロボロンテさん、夕食のことですけど。一名ぶん追加ってできますか? すっごく豪勢なの。わたし? そうなんです、もうお腹が空いちゃって、その、わかるでしょう? これ以上は云いませんよ、いくらあなたでも! それで、思ったんですけど…………
 少佐はもぞもぞとベッドの上を移動し、床に脱ぎ散らかされた服の中から煙草を取り出して、火をつけた。実にうまかった。実に久しぶりに、うまいと思った。伯爵はまだ電話に夢中になっている。……ああ、いつもの伯爵さまだなあ。美しく、輝かしく、愛にあふれている。そうしたすべてのものの源。ファウスト曰く、己があるだけの力の発動、感情の精髄、傾倒、愛惜、崇拝、悩乱を捧げるのは、お前だ……少佐は寝っ転がって煙草を吸いながら、笑い出したいのをこらえていた。

 

※作中引用したゲーテの文章は、すべてちくま文庫の森鴎外訳『ファウスト』より。
 
あとがき

 

close