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ベルリンのグランドホテルも、少佐には嘆息しているように見える。ホテルはさまざまな客を抱えては吐き出す。かつては、見栄も重圧も義務もごったにしてごてごてと盛り立てた貴族たちを。いまでは、世界中の出自不明の観光客たちを。少佐は自分が建物の入り口に立ったとき、急激な歴史の推移を見つめてきた建物が、彼に向かってそっと同情のこもった微笑を浮かべたように思われた。
彼は清潔で近代的に作り替えられているホテルの胎内へ入った。エントランスホールは吹き抜けになっており、真正面に大階段が伸びている。階段には絨毯が敷かれ、着飾った大女優でも降りてくればそれだけで映画の印象的なワンシーンになるだろう。天井からは豪勢なシャンデリアがぶら下がっている。少佐の好みからすれば、これは大きすぎ、あたりを照らしすぎ、そして光りすぎである。おかげで、このホールにもまた影がちっとも見あたらない。隙間なく、くまなく光で照らされたロビー、完璧な微笑みを向けてくる受付の従業員。少佐は気持ちの底がざわついて、いらだちを覚えているのを感じる。なにもかもがあまりにあからさまでのっぺりしていると感じる。
受付に立っていた、愛想のいい、やたらに白く美しい歯を持った女性に声をかける。スイートルームに当たる部屋番号を伝え、宿泊者の名前を告げる。女性はにこやかに微笑み、確認のため、さっそく部屋に電話をかけた。少佐は彼女を見るともなしに見ていた。歳のころはおそらく三十後半、魅力的な金髪、大きく薄い、淡いピンクの口元は、電話の応答を待つあいだにも笑みを絶やさない。軽く首を傾け、ときおり灰色がかった青い目を受話器へ向けたり、手元へ向けたりしている。受話器を支える左手の薬指には結婚指輪。たぶん子どもはいないだろう。
「エステンさまは、お部屋にいらっしゃらないようです。外出するところはお見かけしていませんが……」
彼女は申し訳なさそうにそう云うと、首を伸ばして、エントランスを見やった。すぐにそのあたりにいた従業員が気づいて、急いでやってきた。
「エステンさまですか? 今日はお出かけになっていないと思いますよ。ご夕食にもまだお見えになっていないはずです」
少佐はその対応の見事さに息苦しい気持ちがして、逃げ場を求めてロビーを見回した。
ちょうどそのときだった。ロビーにひそかなざわめきが起こった。ひとびとの視線をたどって、少佐の目はエントランス正面の大階段に吸い寄せられた。
大階段を、実に優雅なしぐさで降りてくる者があった。襟と袖に膨大な毛皮のついた、真っ黒なコートをゆるく身にまとい、きっちりと巻き上げた金髪の上には羽飾りのついた黒の平たい帽子が乗っていて、そこから顔を覆うベールが垂れ下がっていた。耳には涙型のサファイアをはめこんだイヤリングが、そして首元には同じ宝石と真珠をあしらった三連のネックレスが、シャンデリアの光をまともに受けてきらめいている。黒革の手袋をはめた手が手すりをゆっくりと、なめらかにすべり、同じく黒革のかかとのある靴が、階段を一段一段、確かめるようにじっくりと踏みしめて下ってくる。少佐はしばし見とれた。すばらしい光景だった。すばらしい服、すばらしい宝石、そしてすばらしい容姿。どれをとっても美しかった。こんな美しいのを、少佐はひとりしか知らなかったし、また、世界にふたりといないことも知っていた。
その人物は、自分が注目されていることを十分に理解しており、かつそれに慣れていた。あたりの視線をかき集めるのをさして気にも止めず、どこかしら愉快に感じている気配があった。ゆっくりとあわてずに階段を降り、優雅な足取りでロビーをつっきってエントランスへ向かう姿は堂々としていた。ロビーにいた恰幅のいい初老の男が、自分の前を通り過ぎていったその人物の背中を眺めながら、ため息とともに首を振った。それを境に、制止していた空気はふたたび動き出した。ポーターは荷物運びを、ロビーで雑談していたひとびとは会話を、どこかへ向かおうとしていたひとたちは自分の歩みを、それぞれ再開した。しかしなお、あたりの空気はまだ十分な衝撃と動揺を含んでいた。
その世にも美しい人物は、エントランスを抜けて外へ出ていこうとしていたが、ふと受付のほうに目を留め、少佐の姿を見とめると、向きを変えてこちらへ歩いてきた。少佐の受け持ちをしていた受付嬢が、あわててカウンターから飛び出していった。
「グローリアさま、お出かけですか? ちょうどよかった、こちらの方が、エステンさまにご用があるとかで、いまお電話したのですが、お部屋にいらっしゃらないようで……」
「グローリアさま」は少佐から少し離れたところで立ち止まり、急ぎ寄ってきた受付嬢を微笑を浮かべて受け止めた。それから、ベールに覆われた顔をゆっくりと少佐へ向けた。目が合った。そのひとはひとつふたつまばたきをして、口もとを丁寧に引き上げ、微笑を浮かべた。柔らかな、美しい、それでいてどこかからかうような微笑。お互いを見つめあうあいだ、少佐はまるで時間が止まっていたような気がした。
「どうもありがとう、エステンさんも一緒に出かけるところだったから、いま降りてくると思うけれど」
「グローリアさま」は、男とも女ともつかない不思議な声を出して、その受付嬢を視線で追い払った。それから少佐に向かって最後の数歩を歩いてきた。
いまやふたりは向かい合って、ロビーの片隅に立っていた。少佐は相手を上から下まで眺めた。耳と首にぶら下がったアクセサリーは、軽く二百年は前のものだ。宝飾品が、家名を背負い、その威信を背負い、途方もない手間暇をかけて、ごく一部のひとたちのために作られていた時代。そういう仰々しい時代のものをいまだに使いこなせる人間はそういない。
「あー……」
と少佐は云った。なにを云えば、そしてどう云えばいいのか、よくわからなかった。今日はいったいどっちのつもりで接したらいいのかもわからなかった。男なのか? 女のつもりなのか? その格好からは女かと思われたが、少佐の知る「グローリア」なる人物はどっちつかずのまま通用する世にもまれな人物だった。伯爵という称号をつけていないので女だろうか? でも、ときどき彼が身分を捨ててとんでもないことをやらかしたりするのを、少佐は知っている。
グローリア氏は、否、少佐のよく知ったグローリア伯爵は、少佐の不器用な滑り出しにくすくすと笑った。その目はいたずらっぽく光っていた。そして口元は、なんとも神秘的に微笑していた。顔に垂れ下がったベールが、彼の表情を包み隠し、あやふやにし、ひどく艶っぽくしていた。
怒っちゃいない。少佐はそう感じて、ひとまず安堵した。最後に彼に会ったのは、もう何ヶ月も前のことだった。再会した彼らのあいだには、ひどくひび割れた感じはなかった。お互いに相手を穏やかに受け止めており、親密ささえ感じられた。しかしそこには確かにひと握りの硬さ、冷たさ、あるいはぎこちなさがまぎれこんでもいた。
「きみはわたしに用があるのじゃなくて、エステンさんに用なんだろう? ここ最近、きみんとこの部下が何人か彼の周りをうろついていたのを知ってるよ。エステンさんももちろん知ってる。でも誰もなにも云わないので、彼はちょっとどうしたらいいのかわからないでいる。きみが出てきてよかったよ。でないと、あのひとは変な心配をしだしたかもしれないからね……」
彼の口調は、なんと打ち解けていて、なおかつよそよそしいことだろう。優しい声音があたかも少佐をその中へ引きこみそうになり、けれども寸でのところでつっぱねている。少佐は自分がもてあそばれているように感じる。グローリア伯爵はくせ者だ。ふたりのあいだに持ち上がる微妙な感情の動きについて云えば、たしかにくせ者だ。右へ左へ、少佐を翻弄する。それで、少佐はなにが彼の本意なのか、よくわからなくなる。エーベルバッハ少佐は試されている。いとおしく、残酷に、試されている。
「来たくて来たんじゃない。部下にやらせようと思っとった仕事だったのに。おまえのせいだ。おまえがエステンじいさんと知り合いとは知らなかった」
「意外だった?」
伯爵はまつげをはためかせて目をそらした。
「はいと云えばはいだし、いいえと云えばいいえだ。おまえのことなら、もうめったなことじゃ驚かんよ。でも部下はそうじゃないんでね……」
少佐は狼狽した部下どもに泣きつかれたときのことを思い出していた。はじめ、この任務は順調にいきそうに見えた。エステンは故郷ザクセン州バウツェンで地味な老後を過ごしている、八十近い老人で、規則正しく静かな生活を送り、ひと柄はいたって温厚で、危険はなにもなかった。少佐に任務を任された部下DとEは、ただ彼を見張り、ある資料について交渉を持ちかけ、無事に受け取って、ボンへ戻りさえすればよかった。説得に多少の時間がかかるかもしれなかったが、それはあまり問題ではなかった。
雲行きが変わったのは、DとEが配置についた翌々日、エステンが突如気晴らしを思いつき、ベルリンへ向けて出発してからだった。ふたりがあわててあとを追うと、エステンが宿を取ったグランドホテルで、なんと伯爵が待ち受けていた。DとEはひどく狼狽した。気晴らしはかまわない。誰にでもその自由はある。が、伯爵というのはいただけなかった。長年の経験で、少佐の部下たちは皆、伯爵が出てくるととんでもないことになる、とすっかり信じきっていた。秩序は乱れ、予測不能の事態が起こり、うまくいくはずのことが見当違いの方向に飛んでいき、なにもかもめちゃくちゃになってしまう。彼らはかわいそうなほどうろたえ、即座に少佐に電話をしてきた。それで少佐は自分が出ていく羽目になったのだ。だが、ほんとうにそれしか方法がなかったのかどうか、少佐にはよくわからなかった。「伯爵」ということばを聞いた瞬間に、少佐は呼ばれているのではないかと思ったのだ。何ヶ月も声を聞かず、顔も見なかった伯爵に。
うわさのエステン氏がエレベーターを降りてきて、ロビーを横切ってのんびりと歩いてきた。背の低い、痩せた老人で、やや背中が丸くなっていたが、ぱりっとしたモーニングを着こなし、シルクハットをかぶっていた。丸い小さな眼鏡が、いわく云いがたい丸ぼったい格好の鼻の上に乗っていて、それがこの一分の隙もない、金のかかった身なりの紳士に親しみやすさを加えていた。口ひげをたくわえた彼の顔は、その眼鏡に見合った、素朴なものだった。
伯爵が黒い手袋に覆われた手を優雅に振った。エステン氏はにこにこと笑いながらふたりの横へ到着した。
「エステンさん、ご存じでしょう? こちらエーベルバッハ少佐。わたしたち、いま偶然にここで出会ったんです。あなたに用があるんですって」
エステン氏は、伯爵に導かれてその穏やかな顔を少佐へと向けた。少佐は小さく一礼した。エステン氏は、眼鏡の奥の小さな灰色の目でじっと少佐を見つめながら、ああ、そうでしたか、と云って、少佐に手を差し出してきた。ふたりは短く握手をした。
「あなたの用向きがなにかはわかっているつもりですが」
エステン氏は身体や顔つきに見合った穏やかな、静かな声で云った。
「でも、いまはいけませんな。わたしはこれから彼と夕食をとりに出ますから。ホテルにはもうしばらく滞在するつもりですから、後日あなたのために時間を設けることもできましょうが、いまはだめです。わたしはこの都会での気晴らしを楽しもうと思っているのだし、実際、これから彼と一緒に楽しむつもりですから」
エステン氏はそう云うと、伯爵をいとおしげに見やって、丸眼鏡をつまんでちょっと持ち上げた。伯爵は微笑した。ふたりのあいだには、ふたりにしかわからないような特有の親密さが、たしかに認められた。少佐は承知したことを示すために、小さくうなずいて一歩下がり、給仕かなにかのように腕を持ち上げてエントランスを示した。エステン氏は満足したようにうなずいた。
「よい時間を」
少佐はエントランスの階段を降りてゆくエステン氏に向かって云った。エントランス前にはタクシーが待ちかまえていて、ドアマンが手助けをしようと控えていた。エステン氏はドアマンに助けられながら、のんびりとタクシーに乗りこんだ。伯爵は少佐に微笑を向けてから、彼のあとに続いた。
少佐はあたりに漂う伯爵の香水の香りが消えるまで、とっくに見えなくなったタクシーのほうを見つめて、その場に立っていた。それからホテルの部屋をおさえるために、中へ入っていった。
「ああ、長期戦になりそうですな。あの男はそう簡単に要求には応じんでしょう。そのあいだは、ホテルで様子を見るとします。費用? 予算? これはこれは! とても経験豊富な部長のことばとは思えませんな。おれがただぶらぶらするつもりだとでも思っとるんですか? 辛抱が肝心ですよ、部長。あんたの口ぐせでしょうが。その昔、たったひとりのスパイのために十年待った男はどこへ行ったんです? 盟友ミスター・Lが聞いたら泣きますぞ。スパイの美学に理解のない上層部を説得するのがあんたの腕でしょうに……ああ、エステンの滞在は予定じゃあと十日程度ということだから、まあそのへんが潮時じゃないですかね。十日くらいならAがなんとかするでしょう。動きがあれば報告しますよ。あんたは菓子でも食って、いつものようにどでんとかまえてりゃあいいんです。どうせどうなってもおれの責任になるんですからな……」
少佐は受話器を放り投げた。それからシングルサイズのベッドに転がって、ひとり身というのはこういう場合たいそう具合が悪いと考えた。シングルルームの利用などというものは、このような豪華ホテルにとってプラスアルファ以外のなにものでもないのだ。そのため、窓の外がすぐ隣の建物の壁だとか、もとは物置部屋だったとか、使用人の休憩室だったとか、そういう場所があてがわれる。そのかわり料金は格安だ。そういう部屋を選んでやったのだ。ありがたく思えくそったれ……少佐は部長に毒づいた。少佐の部屋は一階の隅だった。こんなところに部屋があるのかというような、階段脇の廊下をずっと歩いていったところにあった。狭苦しい細長い空間にベッドと小さなテーブルがかろうじて置かれている。日当たりはすこぶるよろしくない。これに比べるとエステン氏だのグローリア伯爵だのの部屋は、最上階で、日当たりよく、広々として、リビングと寝室が分かれ、バスタブとシャワーが別で、小さなキッチンやバーカウンターなどもついているに違いない。おれだってそういう部屋くらい、借りようと思えば借りられるんだ。少佐は考えた。そういう部屋へ来ると、自分が盗聴機を探しているあいだに、伯爵はまず…………
少佐は考えるのをやめた。この方向は不毛にすぎた。彼は起き上がり、シャワーを浴びた。初日にしてもう、少佐は我が家の風呂がなつかしかった。あの大きなバスタブ、執事が用意する上質なタオルとアメニティ、壁のタイルの云いようのない古めかしい静けさ、どんなホテルのバスルームよりも、少佐は自分の城の風呂場を愛していた。今度そこへ、伯爵を連れてこようと思っていた。いつか、もう少しあと、しかしそう遠くない日に。ところがいま、ふたりのあいだは少しばかりぎくしゃくしていた。ぎくしゃくしているというより、改革を迫られていた。
それは伯爵が投げかけた、きわどい試みであった。否、おそらく試みというより、彼の誠意にほかならないのかもしれない。少佐は、伯爵の美しさと神秘的な側面に、ほとほと惚れこんでいた。伯爵は公に見せるやや軽薄そうな言動と裏腹に、その内側は深く広く、静かに波立っている人間だった。彼の奥深くには澄んだ静けさのようなものがあって、少佐はその深い森の奥にある湖のような場所へ出向いて、湖面に降り立ち、水浴びをし、ゆったりと羽を伸ばすのだった。少佐はその場所で、確かに伯爵をつかまえていた。また、その場所でとらえられてもいた。少佐はそこへ引き寄せられ、飲みこまれ、包まれ、漂い…………
しかし伯爵はあえてその湖の静かな場所から、自分の華々しい側面へ、少佐を引きずっていった。イギリスの名門貴族たるグローリア伯爵、教養があり、背負うものを背負い、旧弊な、もはや滅びゆく定めにあるものの顔から、彼のもうひとつの怪盗という顔へ。彼の周りにひしめく得体の知れない男たち、パトロンとも云うべきあまたの男たち、彼を溺愛し、あるいは崇拝する、彼の取り巻きたち。そこでは伯爵は、大物怪盗の名にふさわしく、ごてごてと着飾り、全身に愛と崇拝とを受け、誘うように微笑し、薄暗い暗闇の中に咲き誇る花でありつづけている。
少佐はたぶん、そのふたつのもののあいだで混乱していたのだ。美しく静かな湖のすぐ横に大都市のネオンがきらめいているような光景に、戸惑わない人間などいるだろうか? 少佐は確かに困惑していた。伯爵を知れば知るほど、湖とネオンの対蹠ははなはだしいものとなり、少佐の困惑は深まった。そのふたつはいっこう融合の気配を見せなかった。双方が少佐の腕を片方ずつ取り、自分のほうへ引っ張ろうとしているようだった。
湖を愛していることは確かだった。そしてネオンに惹かれていることも確かだった。しかしネオンの退廃的な魅力が必然的に引き連れてくるものは、少佐を困惑させ、激怒させる性質のものだった。
「ああそうだ、おれは至極平凡な男なんだ。古くさくて、堅苦しくて、やりきれない類の男なんだ、ちくしょう」
最後の大喧嘩のとき、少佐は伯爵にそう云った。ふたりはアムステルダムのとあるお屋敷の一室で向かい合っていた。部屋は好き放題に散らかっていた。テーブルの上にはワインやシャンパンやコニャックの瓶、グラス、つまみの載った皿などがごたごたと置かれており、トランプが模様のように撒き散らされ、部屋じゅうにプレゼントの箱の残骸とその中身が積み上げられていた。ソファの背もたれにはとんでもなく豪勢な毛皮がかかっていて、暖炉の炉棚の上には、誰かが箱から出されたばかりの指輪やブレスレットやイヤリングを、大きさ順に見本のように並べていた。あたりにはまだ紫煙が生々しく漂っており、酒と男ものの香水が交じり合った匂いが充満していた。部屋はまるで嬌態をさらしているようだった。どこもかしこも、少佐には実に淫らに見えた。酒を飲み、煙草を吸い、伯爵を囲んでいたたくさんの男たち、その中心で笑う伯爵。
伯爵は窓枠に腰を下ろして、深い青のガウンをまとい、少佐をじっと見つめていた。開いている窓から、駐車場に止めていた車が次々にエンジンをかけ、出ていく音が聞こえていた。
「……意外に聞こえるかもしれないけど」
伯爵は手にしていた小さなシェリーグラスを窓枠に置いた。
「きみの云うことはわかる」
少佐は彼をきつく見返していた。完全に頭に血が上っていた。
「わかる?」
少佐は押し殺した声で云った。
「なにがわかるんだ? なにもわかっとらんじゃないか。おまえはおれってもんがいようがいまいがおかまいなしに、あちこちで気色の悪い男どもに囲まれて、もてはやされとるんだ。おまえの頭の中じゃそれは普通のことなのかもしれんが、おれには普通じゃない。おれはたとえそれまでの習慣がどうでも、誰か惚れた相手ができたなら、ほかはきれいさっぱりあきらめる。それが誠実な態度ってもんじゃないか? おれは間違っとるのかね? あるいは、こいつはおまえには通じない話なのか? だとしたら、おれはおまえを誤解しとったことになる。まあそうだな、惚れるなんてたいていは誤解そのものだ。そりゃわかっとる。わかっちゃいたが……」
少佐は自分がみっともなくしゃべりすぎていると感じた。彼は口を閉じた。情けなかった。腹の底から怒っていた。伯爵は相変わらずじっと少佐を見続けていた。その顔色から、感情はうかがえなかった。少佐は伯爵から目をそらした。自分が壮大なひとり芝居をしている気がしてきた。
「……この話は何回もしてきたが、これ以上云わせんでくれ。云っちゃいかんことまで云いそうだ」
実際、少佐はもう限界だと感じていた。伯爵とは、この件で何度もやりあってきた。彼と関係を持ったこの二年ほどのあいだに、幾度も衝突をくり返してきた。少佐の願望は、ごく普通の人間がそう願うように、ただ彼を自分のものとし、その確信を常に感じていたいということだけだった。少佐にはそれが必要だった。ひっそりと閉じられたふたつのものの関係、その中へ没入していくこと、その中で外の喧噪を忘れること、それが少佐の希望だった。ところが伯爵は、いっこうそれを追求する気配を見せない。ほかのものを排除し、没入する気配を見せない。それが少佐には耐えがたかった。少佐はあらゆる手を尽くして、彼だけに没入しようと試みているというのに、伯爵はというと、なんの制約も受けずに自由にしているのだから。
伯爵が小さく息を吐いた。
「……きみの云いぶんはわかったよ。というか、わかっているんだよ。たぶんきみが思う以上にわかってると思う。その上で云わせてもらうけど、わたしはきわめてきみの理想に近いよ。そうは見えないのかな。見えない? だとしたら、悲しいな! 確かに、わたしはこんなパーティーはしょっちゅうだよ。よく招待を受けるからね。どこぞの高級娼婦みたいにものをもらってばかり。宝石、服、美術品、土地家屋、ほかいろいろ。わたしはそういうものを素直に好意として受けている……もしも娼婦であることが、きみの中でそういうことなら……娼婦が誠実で貞節なものの対極にあるとして仮定しての話だけどね……それはあまりにも偏見に満ちていて極端な見方だと、わたしなら云うね……まあそれはいいとしよう。それで、きみがわたしを夜毎自分を売り歩いているのだと思うなら……わたしと、わたしの周りのひとたちとの関係をそういうものだと思い、わたしがそれを心から了承しているのだと本気で思うなら」
伯爵の目が刹那、燃え立つように揺らめいた。が、それはすぐに消えて、静かな、穏やかなものに戻った。そこには幾分か、あきらめのようなものも含まれていたかもしれなかった。
「わたしはきみとはやっていけない。愛しているけどね。きみは、愛は制限するものだと思ってる。わたしは、愛は拡張するものだと思ってる。困ったね」
伯爵は苦笑を浮かべた。
「接点は、見つかりそうもないな」
少佐はなにも云わなかった。もはやその部屋の空気に耐えられなかった。こんなところにいたら、自分が汚染されてしまう。伯爵にはじめのころ感じていたあの嫌悪感に似たものが、ふたたび少佐の中に戻ってきて、じわじわと広がりはじめていた。やはり間違っていたのではないだろうか? 伯爵の人格に惚れたと思いこみ、幻想を見ていただけなのでは? 伯爵はやはりどうしようもなく軽薄で、古来美しさが人間を翻弄し続けてきたように、他人をもてあそぶことを楽しんでいるだけなのだ……
少佐は部屋を出ていった。部屋じゅうにたちこめていた煙草と香水の匂いが、身体の芯までしみついている気がした。いやな匂いだった。むせかえるように強烈で、しつこくて、少佐のなにかを執拗にまさぐろうとしてくる。少佐は車に飛び乗り、ひと晩じゅうぶっ通しで車をとばした。眠気はなかった。疲れも出なかった。きみとはやっていけない、という伯爵のことばが終始こだましていた。やっていけない。やっていけないだと? それはこっちのせりふだ、ばかやろう。あんな男に惚れたのが間違いだった。正確には、惚れたのだと思いこんだのだ。幻惑されたのだ。すべては幻だったのだ。戻れ、エーベルバッハ少佐、戻れ。日の当たる、まともな場所へ戻れ。もう金輪際、道を間違うものか。
……そして今日、久々に見た伯爵は、あんなにも美しかった。あの姿は、注目を浴び、美しくきらめくあの姿は、実に伯爵らしかった。そして少佐は、彼を見た刹那、なにか誇らしい喜びを確かに感じたのだ。いったい自分がどうしたいのか、少佐はほとほとわからなくなっていた。疑いようのないことは、まだ彼を愛しているということだった。そして伯爵もまた。伯爵もまた、そうなのだ。
時刻は午後十時近くを指していた。少佐はベッドに横になると、もう一度受話器を取り上げた。
「ああ、おれだ、Aか? いると思っとった。かけといてなんだが、この電話が終わったら、とっとと嫁さんのところへ帰れ。で、用件だが……伯爵は無関係だ。まったく、DもEも伯爵ひとりになにをびびっとるんだか。おおかた、あいつのとんでもない装いかなんかを見て、肝をつぶしたんだろうな。おれも見た。クジャクの羽ばりに飾りたてとった。例の資料は、時間をかければエステンから穏便に受け取れるんじゃないかと思う。まあ、あいつらもおれに泣きついて正解だったわけだ。というわけで、しばらくおらんが頼む。あとは、とっとと家に帰れ。業務命令だ」
電話の向こうで、Aが苦笑したのがわかった。少佐もまた苦笑し、それから早々とベッドにもぐりこんだ。
……彼の着ていたものは黒だった。眠りこむ直前、少佐はふとそう考えた。そしてあの、喪に服しているかのような、なにかを堪え忍んでいるかのような、美しい顔にかかった黒のベール。