5
翌日の朝食の席でも、相変わらず資料の話はまったく出なかった。少佐はエステン氏と食事をし、二階へ行って新聞を読んだ。そうして十時を過ぎてから別れた。
別れ際、伯爵がエステン氏を探してぶらぶらやってきた。起きたばかりなのか、まだどこか眠気のとれないとろんとした目をして、見事な黄金の巻き毛を窓から差しこむ陽光にさらし、シンプルな暗紫色のタイカラーのブラウスとパンツに、千草模様が刺繍されたガウンを羽織っていた。彼は仲良く並んだふたりに目を留めると、少し離れたテーブルの前で立ち止まった。エステン氏が微笑みかけ、新聞を畳んで立ち上がった。少佐も立ち上がった。伯爵は少佐に微笑んで「Morgen」と挨拶した。少佐も挨拶を返した。
「われわれは午後から動物公園の中を少し散策しようと思っているのですが……」
エステン氏はそこで確認するように伯爵をちらりと見やった。伯爵は微笑し、目を伏せた。
「よろしければ、ご一緒にいかがですかな」
少佐も確認するように伯爵を見やった。伯爵は微笑を浮かべたまま、うつむいて、布張りの椅子に刺繍された模様のつた部分に沿って指をすべらせていた。彼の指先はからかうようでもあり、誘うようでもあり、ともに戯れるものを求めるかのように寂しげでもあった。
少佐は瞬時、自分がなにか強い衝動につき動かされそうになるのを感じた。彼の目は、椅子の上でひとり遊ぶ伯爵の指から引き剥がすことができなかった。大きく弧を描き、小さくくるくると回り、指は丹念に刺繍の模様を追っていた。少佐は同行を承知した。エステン氏に促されて、伯爵は指をしまい、少佐に一瞥を投げて、その場を後にした。少佐はしばらく彼の消えたあとの空間を見つめていた。それからのろのろと動きだし、伯爵の指が遊んでいた椅子の布張りの部分に手を置いた。少佐はそこをゆっくりと撫でた。あの指がたどっていた模様の部分を、時間をかけ、丁寧に撫でさすった。
あのように彼を促し、どこかへ導くのは、エステン氏ではなく自分でなければならない。彼が寝起きでぶらぶらと探しに来る男は、自分でなければならないのだ。少佐はそう感じた。これは間違っている。この状況は、間違いなのだ。正されるべく自分に差し出された間違いだ。
ホテルのレストランで、三人は同じテーブルにつき、昼食をとった。エステン氏はよくしゃべった。少佐もよく相づちを打った。伯爵は控えめに、どちらかというと食事を楽しんでいた。彼は襟と袖口にフリルのついた、暗紫色のハイネックのブラウスを着ていた。ブラウスの上から、四連の真珠が連なったネックレスをしていた。クラスプ部分は繊細な金細工にダイヤモンドがはめこまれたもので、その下に大粒のサファイアをダイヤモンドで囲んだひし形のペンダントが下がっていた。耳からは、同じく真珠とサファイアとダイヤモンドの組み合わせの、小さな涙型のイヤリングがぶら下がっていた。
ワインが白から赤に移り、伯爵のグラスが空になった。すぐに給仕がやってきて次を注ごうとしたが、テーブルにたどりつく前に、少佐が手を振って追い払った。伯爵はことに昼食では、飲む量を決めており、それを守っていたからだ。それは完全に無意識の行動だった。少佐は、給仕が下がってから自分のしたことに気がついたが、いまさら弁明のようなことをするのもばかげていると思った。おそらくエステン氏も伯爵も、少佐の行為に気がついていたに違いないが、気づかないふりをしていた。少佐はひっそりと苦笑を浮かべるのを止められなかった。
食後のコーヒーと紅茶が運ばれてくると、エステン氏が用を足すため、断って席を立った。ふたりはしばしテーブルに残された。少佐はちらりと伯爵を見た。伯爵はうつむき加減で紅茶を飲んでいたが、口元はかすかに微笑していた。カップを置くと、彼も少佐を見た。目があった。伯爵は微笑し、すぐに目をそらした。
「そのネックレスははじめて見る」
少佐は彼の胸元を見て云った。伯爵も自分の首からぶら下がったものを眺め、手にとって、少し持ち上げた。それから少佐を見た。
「もっとも、おれの知らんアクセサリーなんぞわんさかあるだろうがね。そいつは似合ってる」
伯爵はうれしそうに小さく微笑んだ。
「似合っとるのはいいが、真珠はどうも冠婚葬祭を思わせる」
少佐はコーヒーを飲んだ。
「うちのばあさんが大事にしとった、代々伝わるやたらと時代がかったひとそろいの真珠のやつがあるんだ。とっておきのときにつけるやつでな、耳にぶら下げるのなんぞ、粒がこんなにでかいんだ(少佐はひと差し指と親指で大きな丸を作った)。ガキのころ、そいつをくっつけたばあさんの写真を見て、おれは耳がちぎれんのだろうかと思ったもんだ」
伯爵は笑い声を上げた。
「シャルロッテおばあさんのこと?」
少佐はそうだ、と答えてうなずいた。一瞬だが、ふたりのあいだにわだかまりのない空気が流れた。
「おまえになら似合うかもしれん。普通なら、真珠が浮いちまうだろうが」
伯爵はふたたび視線を自分のネックレスに移した。その口元は、確かにこれまでよりもずっとほころんでいた。
彼らはブランデンブルク門をくぐり、ぶらぶらと公園の中へ入っていった。入ってすぐに大通りから離れ、遊歩道をのんびりと散策した。木々はすでに葉を落とし終え、枝をむき出しにした姿になっていた。枯れ草色をした葉が地面を丹念に覆うように散っていた。空はどんよりと曇り、ときおり分厚い灰色の雲の陰から、太陽が弱々しく顔を出してはすぐに引っこんだ。ベルリンは、晩秋から一気に冬へ向かおうとしていた。
齢七十を過ぎ、八十に迫ろうとしているエステン氏は、まだまだ衰えを見せてはいなかったが、もう杖の助けなしに長時間歩くことは難しくなっていた。彼はのんびりと、冷たく乾いた空気を吸いながら、若いふたりを両脇に従えた散策を楽しみ、戦勝記念塔へ向かう途中で継続を断念した。
「わたしはここで休んでいるよ」
彼はベンチに慎重に腰を下ろして云った。
「少し疲れた。きみたちは好きなだけ歩いて、帰りにまたここへ来てわたしを拾っておくれ。もしわたしがいなかったら、そのときはくたびれて先に帰ったのだから気にしないで戻るといい。さあ、好きなところへ行って。わたしは雲を見ているよ……これは飽きるということを知らない楽しみのひとつだ……」
少佐は小さく会釈し、伯爵を促して歩きだした。伯爵はおとなしくついてきた。彼はセーブルの、上品な毛皮のコートを着ていた。伯爵の金髪はそれによく映えた。少佐は定番のトレンチコート姿で、伯爵と肩を並べた。
彼と並んで歩くのが、少佐には不思議と心地よかった。少佐は自分の自然なリズムで歩いており、伯爵もそうだった。お互いに歩調に関して少しも気を配らずに、ふたりは自然に並んで歩くことができた。少し速度を落としたり、早めたりする、その感覚がふたりはとても似ていた。伯爵がいつだか、そのことについてこう云ったことがある。「ほらね、同性とつきあうことには、こういうメリットもあるんだよ……」
あのとき、ふたりはケルンの聖ウルスラ教会を出て、クリンゲルプツ公園を散策していた。季節は夏で、公園は緑に燃えていた。伯爵はふいに木の陰に隠れたり、また出てきたりして、少佐の目を楽しませた。夏の強い日差しの中で、彼の金髪はけぶっていた。少佐は金髪が目にしみる感じがすると云い、伯爵を笑わせた。
「そんなこと云われたの、はじめてだ」
伯爵は微笑んだ。幸福そうな、美しい笑み。
あのときからずいぶんな時間が流れたように感じ、ずいぶん遠出をしてしまったような気がする。ふたりのあいだも変わった。あれはふたりの最初の夏だった。伯爵の誕生日が目前に迫っていた。少佐はちっとも思いつかないプレゼントのことでやや焦っていたのだ。ぼんやりとそれについて考えながら歩いていたら、伯爵の顔がふいに目の前にあらわれ、まじまじと少佐の顎のあたりを見つめて、
「きみって、髭を伸ばしたことある? ないんじゃない? でも伸ばしたとしたら……セクシーだろうな!」
と、指でそのあたりをたどったのだ。あのときから、ときは流れ、彼らの関係はさらに深く、重く、ぐんぐん沈んでいった。いまや彼らはその最奥に、ふたり裸で横たわっていた。身動きがとれず、逃げ場もなく。窒息しそうな深みの中で、お互いの顔を見つめたまま。
少佐は煙草を取り出し、口にくわえ、ライターを探してポケットをまさぐった。ふいに横からすっと、黒い手袋をした手に支えられたライターが、少佐が探していたところのライターがやってきて、煙草に火をつけ、少佐のトレンチコートのポケットへ入っていった。少佐は眉をつり上げて伯爵を見た。
「泥棒」
「返しただろう?」
ライターはポケットの袋へ確かに落ちた。しかし、黒い手はなかなかそこから去らなかった。その手は逡巡していた。ポケットの中で、少佐の太股の上で、そこへとどまるべきか、触れていいものか、抜け出すべきか、迷っていた。少佐は煙草を吸い、口から外した。そして空いているほうの手をポケットへすべりこませた。遠慮がちに、しかし待ちかねていたように、伯爵の手が絡みついてきた。カシミヤの柔らかな手触りだった。けれども少佐はその感触にいらいらしてきて、狭い空間で苦心して手袋を外した。素肌が触れた。伯爵が小さく震えた。
少佐は伯爵の手を押さえこんだ。握りしめ、丸めこみ、それから、ゆっくりと離して、伸ばし、手のひらを、甲を、指の一本一本を、優しく探った。薬指には指輪がはまっていた。伯爵が息を飲んだ。少佐はやめなかった。やがて伯爵の頬が、遠慮がちに少佐の肩に触れた。少佐は前を見つめて煙草を吸い続けながら歩いた。
ふいに伯爵が少佐の腕を掴み、ぐっと引いた。少佐は立ち止まり、ゆっくりと首を回して伯爵を見た。伯爵はお互いの腕に腕をからめつけたまま、少佐の肩の上で、じっとこちらを見つめていた。
少佐は煙草を投げ捨てた。外に出ているほうの手で、伯爵の金髪をかきあげた。伯爵がゆっくりと目を閉じた。少佐はそのまま柔らかな金髪を、流れに沿って撫でた。伯爵のまぶたが再び開いて、それから誘うように閉じた。少佐は引きこまれるように口づけた。ポケットの中で、伯爵の手が少佐の手を握りしめた。……
少佐は彼を掻き抱いて、なにもかも終わらせたい衝動に駆られた。口づけ、謝り、彼を信じると誓うのだ。そうすれば、抜け出すことは可能だった。いますぐに元に戻ることも可能かもしれなかった。でも、そうしたところで解決にはならないということはわかっていた。少佐は、まだ苦しまねばならない。そして伯爵を苦しませねばならない。
少佐は苦労して唇を離した。伯爵は少佐に従って唇を離すのが、いかにも嫌そうだった。でも彼はそうした。少佐がしたことの意味を、知っているに違いなかった。ポケットから、手と手袋が出ていった。伯爵は急いで手袋をはめたが、少佐は彼の指の上できらめく、エメラルドの華奢な指輪を見た。そしてそれは、少佐が以前に彼に贈ったものだった。伯爵の身体が離れ、少佐は自分の肉を切り取られたような気がした。伯爵がなにかを問いかけるように、少佐を見た。彼は伯爵に微笑んだ。ふたりはまた並んで歩きだした。
「エステンさんはほんとうはいまごろ、昼寝の時間なんだ」
伯爵は云った。
「ベンチで寝てないといいけれど。風邪を引いちゃうからね」
「彼とは同室にしなかったのかね?」
少佐は訊いてしまってから、しまったと思った。伯爵はじっと少佐の顔を見つめてから、小さく首を振った。気分を害した様子はなかった。
「エステンさんは、きみと一緒の部屋に寝るには、わたしは年寄りすぎる、って。彼はとても遠慮深いし、紳士だからね」
伯爵は微笑した。それからふいに顔を引き締め、少佐へ向けた。
「でも、添い寝してほしいって、云ってくるひともいる」
伯爵はじっと少佐を見つめて云った。
「そうしたからって、なにをするわけじゃあないけど。歳を取ってくると……あるいはそれほど取ってこなくても……ひとはだんだんわがままになるし、ひと恋しくなってくる。だんだん、孤独を感じてくるんだ、人生が、ある時期を超えてしまうと」
伯爵はまた前を見た。
「わたしには、わかるんだ。わかったからって、なにができるわけじゃないよ。それは本人の問題だから。でも、わたしはできることはする。譲歩する部分もあるし、しない部分もあるけれど……わたしたちの多くは、長いつきあいだから。長くて、たぶん少し独特なつきあいだから」
伯爵はまた少佐に視線を戻した。ふたりはしばらく黙ってお互いを見つめあった。少佐は伯爵の揺れるまつ毛を見ていた。伯爵はたぶん、少佐の押し殺したような息づかいを、感じているにちがいなかった。にぶい日差しが、あらゆるものをぼんやりと包みこんでいた。舞い落ちた枯れ葉が風に巻かれて、からからと乾いた音を立てた。
伯爵がふいに微笑した。
「わたしたち、まるで昔に戻ったみたいだね」
その声はかすかに弾んでいた。
「きみが、わたしに関するあらゆることに遠慮がちに、考えながら、計りながら、じりじり進んでいたときに。あのころ、わたしほんとうは、毎日すごくどぎまぎしていた。きみみたいに手探りでそっと、慎重に自分を運び出してくるひとを、わたしは知らなかったから」
伯爵は一瞬、なつかしむような微笑を浮かべた。
「きみって、不思議なひとだよ。大胆で向こう見ずで荒っぽいくせに、とても優しくて、繊細で。ときどき、もみくちゃにされてしまうような気がすることが……」
伯爵はそこで少しことばをつまらせた。まつ毛が数度はためいた。
「でも、きっと、きみも同じなんだろうね」
彼は小さく吐き出す息にことばを混ぜこむようにして、静かに云った。
「…………ああ」
少佐は云った。伯爵はなにかを振りきるように微笑み、前を向いて、歩きだした。
地下道を通って、ふたりは戦勝記念塔の前に出た。六十メートル以上もある塔のてっぺんで、黄金の勝利の女神、ヴィクトリアが誇り高く輝いていた。天を押し返すように、黄金の羽根を広げて。
「もちろん、この女神はたいそうすばらしいと思うけど」
伯爵が塔を見上げながら云った。
「こんなふうに金ぴかに作るのは、俗悪だと思うな」
「俗悪だ? わかっとらんなあ」
少佐は伯爵を見、それから塔のてっぺんを見上げて云った。
「生きるか死ぬかの状況で戦う人間のことを考えてみろ。そいつがやっとこ終わって、しかも勝利を手にしたとわかったとする。たいがい気が抜けて、しばらくものも考えられんが、そのうちになあ、ふいに頭上から光が射してきて、神々しい女神が降りてくるんだ。おれにはわかる。こういう金ぴかの勝利の女神がいるんだ。こいつは象徴でもないんでもない。実際にいるんだ」
伯爵は少佐を見、それから女神を見上げた。
「きみは、その女神を見たことがあるの?」
少佐は伯爵に向かってにっと笑い、それから女神を見上げた。
ふたりはずいぶん歩いたので、帰りはバスに乗ろうとして、ぎりぎりのところでエステン氏のことを思い出した。本当にあぶないところだった。あわてて元来た道を戻ってみると、エステン氏はベンチの上でうつらうつらしていた。伯爵が彼を揺すって起こし、また三人並んでホテルへ帰った。少佐はふたりとエレベーターの前で別れた。上層階へ向かうエレベーターへ乗りこむ直前、伯爵が探るような、そしてすがるような目を、一瞬向けてきた。少佐はうなずき返した。伯爵はなにか云いたそうに唇を動かしたが、扉が閉まりはじめてしまった。
……おれたちはずいぶんばかだと思わんかね。少佐は閉じてしまった扉に向かって、心の中でそうつぶやいた。こんなとき、ふたりとも、感情を大っぴらに出しあえるような人間ではなかった。大声を上げて喧嘩して、吐き出すものを吐き出しきってしまえば、もしかすると楽なのかもしれなかった。そしてきっと、そのほうが手っとり早いに違いなかった。でも、彼らにはそれはできなかった。そうするにはあまりにも真摯な、あまりにも愚直に過ぎるものを、ふたりとも持ちあわせて生まれてきてしまっていた。彼らはもどかしく、じりじりと、はっきりとなにかが見えてくるまで辛抱強く待ちながら、進むしかなかった。