4 七月二十六日の話

 

 伯爵さまはお目覚めになると、いつもの習慣からまずベッド脇の呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばしてひもを探った。ところがいくら探っても見つからないので、ようやく伯爵さまはここが自宅でないことを思い出され、それから執事のコンラート・ヒンケルを呼び出す黒い無粋な機械のことを思い出された。
 伯爵さまは身体をぐるっとひねってベッド脇のサイドボードを見た。果たして暗黒物質はそのうえに乗っていた。実に無粋だった。まったくやりきれない光景だ、と伯爵さまは思った。それから、手を伸ばしてそいつの赤いボタンを押した。
 執事のコンラート・ヒンケルは稲妻のように電光石火であらわれた。
「おはようございます、伯爵さま。よくお休みになられましたか?」
 遠慮がちなノックのあとで入室すると、彼は実に礼儀正しく云った。いつもの決まりきったお仕着せを着ていた。
「おはよう、コンラート」
 伯爵さまはまだおねむの声で云った。
「きみはまたどうして、ずいぶん早くあらわれたもんだねえ。あのきみの物置部屋からここまで、どんなに急いだって三分かそこらかかるだろうに」
「たまたまお部屋の近くにおりましたので」
 執事は寛大な微笑を浮かべ、部屋のカーテンを開けて、伯爵さまへ暖かいタオルを差し出した。伯爵さまはそれを顔へあてがった。それでようやく目が覚めて、執事の差し出したガウンを羽織り、浴室へ行った。バスタブに湯が張られ、室内にはダマスクローズの香りがたちこめていた。お湯加減は完璧だった。いったい執事のヒンケルが、どのようにしてこのような狂いのない神のごとき業をなすのか、伯爵は深く考えないことにしていた。たぶん、執事という連中はすべからくすべて、神の遣わした天使かなにかなのだろう。そうにちがいない! 伯爵さまはしばらく例のお仕着せ姿のコンラート・ヒンケルへ仰々しい純白の羽根を生やしたり、空を飛ばしたりして楽しんだ。バスタブで楽しくやっていると、朝の紅茶が来た。伯爵はよろこんでこれを受け取った。
「クラウスは今日はどうしたの?」
 伯爵さまは執事に訊いた。執事はバスタブの上にある窓に向かって立っており、午前の輝かしい光の中で、あたかも光輪を背負っているかに見えた。
「はい、ご主人さまはただいま、おそらく島を全力疾走していらっしゃいますでしょう」
「全力疾走?」
「はい」
 執事は微笑を浮かべた。
「探索がてら走ってくる、とおっしゃって一時間半も前になりましょうか、お出かけになられました。そろそろお戻りになるかもしれません」
 執事の予言は的中した。それから五分とたたないうちに、少佐が運動から汗みずくで帰ってきて、浴室へ乱入してきた。
「マラソンは楽しかった?」
 一面ガラスに覆われたシャワースペースで気持ちよさそうにシャワーを浴びる男を伯爵はまぶしそうに、満足そうに眺めた。
「なに?」
 少佐はシャワーを止めて聞き返した。
「マラソンは楽しかったか、って訊いたのさ」
 少佐は微笑してまたシャワーに戻った。
「運動はいつしてもいい。頭が爽快になる」
 全身を流すと少佐はガラス戸を開けて出てきた。日の光に満たされた浴室に、少佐のあらゆる意味で鍛え抜かれた身体がさらけ出された。伯爵は目を細めた。彫像のように美しい、鋼の筋肉。それが少佐の身体を鎧のように覆っている。古代ギリシア人もミケランジェロも同性愛のすばらしさを知っていたので、あのようにすばらしい彫刻を残すことができたのだ……男の肉体のすばらしさが真にわかるのは男だけだ。まったくいつ見てもすばらしい身体だった。
「きみの運動万能説は聞き飽きてるよ。わたしは島の景色のことを云ったのさ」
 伯爵はバスタブの中でくるっと回ってうつぶせになり、浴槽のふちに腕と頭を乗せた。
「観光客がわあわあよろこんで写真を撮りそうな景色が満載の島だ。走りには特に影響せんのだが」
 伯爵は大笑いした。それで、浴槽へ腰を下ろして、少佐の頭を拭いてやるために、自分の横へ座るよう指示した。少佐はバスローブを羽織って指示に従った。
「きみも今朝起きたとき、例の暗黒機械でコンラートを呼んだの?」
「呼ばんよ。自分で支度して、あいつに走りに行ってくると伝えようと部屋を出たら、目の前に立っとった。で、ご朝食をまだお取りにならないのでしたら、伯爵さまがお目覚めにならない程度にあたりを掃除したいと思いますがよろしいでしょうか、ときた。あいつはたぶん朝の五時前から、なにか仕事がしたくてうろうろしとったんだろう。あわれなやつだ! おれは許可した。おかげでもう居間のほうはちりひとつない。ただいまは布団をばたつかせて寝室を掃除しとるよ、まったく」
 エーベルバッハ少佐は肩をすくめた。伯爵はさらに大笑いしながら、タオルを持つ手を動かし続けた。じっとりと濡れた黒髪が、しだいに水気を失ってやわらかくなりはじめた。伯爵さまは世話女房みたいにこの仕事に熱中した。
「きみはきっと、子どものころは毎日こうやってコンラートに髪を拭いてもらったりしたろうねえ」
「建前上、やっちゃいかんことになっとったがね」
 少佐は云ってから、なつかしそうに目を細めた。
「おやじの教育方針は、およそ考え得る限りの峻厳さをきわめとったからな。ガキを甘やかすのは堕落につながるとか云って、なにをするにも教えたらあとは自分でやれ、だった。それがまた悲しいことにおれにはなかなか効果的だったんだがね。あまり厳しいんで、使用人のほうがおそれをなしとったよ。執事なんぞ、おやじの目をかいくぐってなんとかしておれを助けようといつも身構えとった。髪を拭くとか着替えるとか歯を磨くとかいうときになると、なぜか必ずそばにおるんだ。で、おそるおそるお手伝いいたしましょうか、とくる」
「きみは手伝いを許可したの?」
 伯爵さまはうっとりした調子で訊ねた。小さなクラウス少年が、伯爵さまの頭の中で必死に着替えたり靴ひもを結んだりしようと奮闘していた。それはかなりほほえましく、いじらしかった。
「ときどきな。それで執事の手が伸びてくるとさっと逃げ出すんだ」
 少佐はふてぶてしく微笑し、もう滴の垂れてこない頭を振ってから、立ち上がって浴室を出ていった。

 

 島に残って浜辺でごろごろするか、それとも島をでて観光をするかそれが問題だった。ふたりは朝食の席で、意志決定をコインに任せることで合意した。結果として、浜辺でごろごろするほうが採択された。エーベルバッハ少佐の休暇はおおよそ一週間ばかりあるということだった。つまり、まだまだ時間はあるわけだった。
 伯爵さまは浜辺へ向かう前に、ありとあらゆる形のサンダルを少佐の前へ並べた。それからありとあらゆるたぐいの服をクローゼットから次々に出して、少佐をめんくらわした。伯爵さまの今年のサマーコレクションだということだった。執事のヒンケルがおごそかに後ろに控えていて、騒ぎが落ちついたらすぐさま整理整頓にかかろうと身構えていた。
 ふたりは実にすったもんだをしたあげく、少佐が白い清楚なサンダルと、同じく白いチュニックじみた大振りな上着を採択し、黒いつばの広い帽子が金髪の上へあてがわれて、着替えが終わった。伯爵さまは嬉々として、日焼け止めやサングラスや髪留めやいろんなものを、夏らしいかごのバッグにつっこんだ。そうして執事の鼻先にそれをつきだして、これをもって一緒に浜辺へ来るようにと脅した。執事はいかなるときにも決して、これをやってからとか、それはあとでとか云わなかった。早くもサンダルを分類しクローゼットへ入れかけていた執事は、表情ひとつ変えずに、
「かしこまりました」
 と云ってかごを受け取った。それから独自にいくつかの品物をかごの中へつけくわえた。
「きみも浜辺スタイルを構築しなくちゃいけないよ、コンラート」
 伯爵さまはたしなめるように云った。
「浜辺へ行くんなら、どうしたってそのお仕着せ以外の服を着なくちゃあ。そんなかっこうでついて来られたんじゃ浜辺気分がだいなしだものねえ」
 執事のヒンケルは苦しい顔になった。
「たいへん申し訳ございませんが、わたくしはこの仕事着のほかは寝間着しか持ち合わせがございません」
 伯爵さまは口をあんぐり開けた。
「なんだって、コンラート、きみはいったいこんな夏のリゾート地へ、仕事着しか持ってこなかったっていうの?」
「はい、必要を感じませんでしたので」
 伯爵さまはよろけた。そして少佐に向かって「この男をどうにかして!」と云った。少佐は顎をさすって考えこんだ。
「おれは前々から疑問に思っていたんだが」
 少佐は疑り深く目を細めて執事を見た。
「おまえはいったい、私服なんぞというものを持っとるのか? おれにはその服以外のなにかを身につけたおまえというものは見当もつかん」
「あるにはあるのでございますが」
 執事は恥ずかしそうな顔で云った。
「そういったものへ身を包んでおりますと、実際のところ、なにかこう、落ちつかない気がいたします」
 少佐と伯爵は顔を見合わせた。
「予定を変更しよう」
 伯爵さまが云った。
「きみはこの部屋へ置いていくよ、コンラート。そしてわたしは服屋を呼ぶよ! きみは今日の午後めいっぱいかかって、そのお仕着せ以外のリゾートスタイルを作るんだよ! わたしたちといっしょに浜辺にも、観光地にも、なんならオペラにだって行けるようにね! どう、クラウス?」
 少佐は考えこんだ。そしてよかろうと云った。これを受けて、執事は非常に心許ない顔つきになった。それから不安げに自分の主人を見やった。主人がふたたび力強くうなずいたので、執事は肩を落として「かしこまりました、お望みとあらばいたしかたがございません」と云った。
「これはいい手だと思うな」
 伯爵さまはうれしそうだった。
「わたしはいい服屋を探して呼んでもらうよ。というわけで先に行ってるよ! ホテルの前の浜辺へ来てね、クラウス!」
 伯爵さまは風のように駆けていった。
 主人とその従僕は顔を見合わせた。
「ご主人さま、ほんとうにわたくしはリゾート服なるものをあつらえなければなりませんでしょうか?」
 執事がおそるおそる云った。
「そのように思われる。あいつが要求しているからには。なんといってもこの島じゃ、あれが王さまだからな。たぶん、おまえはひと夏の休暇用の服を一式丸ごと、あつらえることになるだろう」
 執事のヒンケルは怖気をふるった。少佐は笑いが出てきた。
「たまにはきまじめな勤務態度を改めるのもいいかもしれんぞ」
 少佐は笑いながら云った。
「服装が変われば、おまえの気分も変わるかもしれん。実際のところ」
 少佐は執事のお仕着せと、すっかり禿げ上がってしまった頭髪、しわの増えてきた顔をまじまじと眺めた。
「おまえはもう何年も、いや何十年も、まともな休暇ひとつとったことがないだろう、違うかね? おまえが屋敷からいなくなるのはほとんど、親族が死んだか結婚したかというときだけだった。それもたった一日二日で舞い戻ってくる。いったいおまえは、そういう人生でいいのか? たまにはねじをまき直したり、油を差したりせんでいいのかね?」
 少佐は自分があまり云うべきでないことを云っているのに気がついた。だが少佐の舌は止まりそうもなかった。何十年も休まずエーベルバッハ家のために働いてきた、経験豊富な執事のコンラート・ヒンケル! 彼はもう年老いてきた。昔は確かになかった顔のしわがそれをあかししている。少佐はふいにいま、改めてそのことに気がついたのだった。お仕着せを着ているのが当たり前の執事。いつでもそのあたりにいるのが当たり前の執事。しかし、こんなリゾート地へ彼を引っ張ってきて、なおかつお仕着せを着せ続けるというのは、なにかあまりにも大きなものを無視していはしまいか? 彼だってひとりの人間だ! たとえいまは暗黒の機械によって呼び出されることに妥協しているにしても、彼は使用人マシンなどではない、決して!
「おまえはほんとうのところ、自分の職場に満足しているのか? ほんとうはもっといろいろと要求したいことがあったんじゃないのかね?」
 少佐はなにかおごそかな気持ちでもってその質問をしたのだが、執事はそんな少佐の意図を汲みとるのでもなく、どちらかといえばしかめっ面に近い顔をした。
「わたくしはそのような質問に対して意見を申し述べる立場にはございません」
 質問を跳ね返すような口ぶりだった。そして執事の顔は強情とも云えそうなくらいに、かたくなに引き締まっていた。少佐は自分が拒絶されていると感じ、怒りを覚えた。少佐は誰に冷遇されても気にもとめなかったが、この執事に拒まれるのだけは耐えられなかった。
「いいや、云え、命令だ」
 少佐は打ちつけるように鋭く云いはなった。その鋭さが執事に突き刺さるだろうと思った。それを思うとなにかひどく心地よかった。少佐が安心して突き刺すことのできる者は、この地上において執事しかいないかもしれなかった。
 主従はしばし、にらみあうような格好になった。こんなことをしたのはいつ以来だろうか? かつては……ことに少佐が思春期のころには、こういうことをかなりしたような気がする。あのころの執事はまだ豊かな頭髪があり、もっと頬がふっくらしていたのだ。そしてあのころの執事は、クラウス少年を一人前の男にしなければならぬとの使命感から、おのれ自身が盾となり槍となって、あるときはクラウス少年を守り、あるときは渾身の力でぶつかってきた。そのクラウス少年の思春期なるものが死に絶えてからの、このおよそ二十年にもわたる歳月によって、コンラート・ヒンケルからなんと多くのものが失われたことだろう。そしてエーベルバッハ少佐は仕事に追いまくられて、それになんと無関心であったことか!
 執事があきらめたようにため息をついた。彼はうつむき、視線を逸らした。少佐は自分が執事を追いつめているような気がしたのだが、もう引き返すことができなかった。執事がふいに顔を上げた。そうして真正面から少佐を見つめてきたが、もうその表情は落ちついていた。
「わたくしは、使用人……執事としての人生しか送ったことがございませんので、正直に申しまして、そのような質問をされましてもわかりかねます」
 執事はきっぱりと云った。
「わたくしとて、いつでも無我夢中で走り続けてきたなどというわけではございません。お屋敷へ奉公に上がりましてから、まずは仕事に慣れるまで、それから一人前になるまで、ぼっちゃまが生まれますとぼっちゃまが歩けるようになるまでは、ぼっちゃまが学校へお入りになるまでは、ぼっちゃまが卒業なさるまでは、ぼっちゃまが無事陸軍へお入りになるまでは、ぼっちゃまのお仕事が落ちつくまでは……それまではどうにかここで踏ん張っていようと、そのように、自分なりに区切りというものを考えながらやってまいりました。しかしさてその区切りに到達しますと、また新しい区切りが見えてまいりまして、わたくしは次の区切りまでは仕事に打ちこもうと思うのでございます。そうして結局この執事はもうこんな年寄りでございます。いったい、わたくしにどうすればよかったとおっしゃるのでしょうか。わたくしは別のやりかたを存じません。現代のひとたちは、なにか節目節目に立ち止まって考えるようなことをなさるようですが、わたくしは旧弊な人間でございます。わたくしどもは一度決めた生き方を変更するようなことは教わってまいりませんでした。立ち止まって考えたりなどすれば、こうすればよかった、ああすればよかったなどというものは、誰しもうじゃうじゃといくらも出てくるものでございます。わたくしにいまさら、そのような問いかけをなさるのは少々残酷に過ぎるというものでございます」
 執事は射抜くような目で少佐を見ていた。執事の目は半ば怒りのために燃えていた。そうだった。そうだったのだ。エーベルバッハ少佐は後悔し、打ちのめされたような気持ちがした。いったいおれはなんと残酷な仕打ちを、この男にしたことか。勢いとはいえ、決してのぞいてはならないものを、それを見てしまえば引きずりこまれとらわれてしまわざるを得ない、あの「もしも」という名の暗く際限ない裂け目を、自分はこの男へつきつけてしまったのだ。何十年ものあいだ、執事としての人生にひたすら邁進してきたこの忠実な男に対して。少佐がいま質したことは……自分の執事への扱いの是非を執事に質すということは……ほとんどこの男の忠誠に対する冒涜だった。
「すまん、その通りだ。おれが悪かった。失言だった」
 少佐は云った。彼は誠意をこめて、しかし幾分気後れしたように、執事の見慣れた八の字ひげのついた顔を見つめた。執事に謝るときにはいつもそうだった。いったいどうしたら自分の謝罪と誠意が伝わるものか、執事の自分に対するあまりにも大きな愛情と寛大さの前に途方に暮れながら、少佐は……クラウス少年は、いつも執事へ許しを乞うていたのだった。執事があまりに優しく主人思いなために、ただ謝りさえすれば、自分の誠意などなくても許されてしまうのではないかと、半ばおそれながら。
「二度と云わん。許してくれ」
 執事は瞬時、泣きそうになったように見えた……しかし、彼はすぐに表情を引き締め、それからいつもの微笑を浮かべた。
「おわかりいただけましたならば、うれしゅうございます」
 執事は静かに云った……そうして、少佐へ静かに頭を下げた。

 

 伯爵さまはドゥブロヴニクの街から、わけても高級な店の店員をホテルへ呼びつける算段を整えて、浜辺へ上機嫌で降りていった。浜辺には何人かのお友だちが来ていて、それぞれに太陽に焼かれながら、椅子の上へ転がって新聞を読んだり、砂浜の上に寝そべったりしていた。伯爵がそばを通ると、みんなにこやかに挨拶をしてきた。ホテルのボーイがひとりひまそうにつっ立っていて、なにか用はないかとあたりを見回していた。伯爵は具合のよさそうな場所を選んで、ボーイを呼んで椅子をふたつとパラソルを注文した。ボーイはかしこまりました、と云ってホテルへ飛んで返した。
 ボーイが注文のものを設置してしばらくすると、少佐がやってきた。
「遅かったねえ!」
 伯爵さまは甘えるように云って少佐へすり寄った。そうしてすぐに、なにかはっとしたような顔で少し身を引いた。少佐にはどこか固い、照れたような、とまどっているような気配があった。なにかあったのだ! でも少佐はそれを押し隠そうとしているようだった。伯爵さまは疑問を押し殺して微笑した。そうしてまた少佐へすり寄っていった。
「きみが来ないと背中へ日焼け止めを塗れないんで待ってたんだよ」
 伯爵はぴょんぴょん飛び跳ねて云った。
「赤ぶくれになるのはいやだもの!」
 そうして伯爵が服を脱ぎだすと、少佐は微笑して、いつもの少佐にもどった。
 伯爵は手の届かないところへ日焼け止めを塗ってもらった。それから少佐を裸に剥いて転がして、全身へ丁寧に日焼け止めを塗ってやった。そうしてふたりして寝転がり、存分に太陽にあぶられた。ふたりはときどき海へ出て遊んだ。うんと遠くまでふたりして泳いだり、少佐がジョーズ並みに伯爵を追っかけまわしたりした。それから浜へ上がると身体を拭いて、また律儀に日焼け止めの塗りっこをした。伯爵さまはときどきくすぐったそうに笑った。それから伯爵さまが少佐を砂の中へ埋めるために、墓掘り人のように働いて、大きな穴を掘って少佐を押しこんだりした。
 浜辺にいたお友だちは、ふたりを見て微笑んだ。伯爵を追っかけてきて遠巻きに見守っていた若い連中は、少佐がうらやましくて歯噛みしたり悲しんだりした。それでみんなしてなぐさめあい、しまいには自分たちも同じようなことをやって、けっこう楽しんだ。

 

 存分に遊んで部屋へ戻ると、ソファの前で執事のヒンケルが……否! 彼は執事でなかった! ヒンケルは涼しげな半ズボンをはいて、青いストライプの半袖シャツを着ていたのだ! 彼の横では、どことなくいかがわしげな、ぽっちゃりした中年の店員が、満足そうにうなずいていた。
「やあ、コンラート! きみのファッションショーに間に合ったんだね、わたしたち」
「もうこれが最後の一着です、これで試着は終わりです。この紳士の今年の夏はこれで完璧ですよ、お客さまがた」
 店員が顎を三重にして満足げにうなずいた。
「買うものを見せて」
 伯爵さまは専門家らしく落ちついた態度でソファに座って、云った。店員がよござんす、と云って、合計四つにわたるスーツケースの中から次々に服を取り出してよこした。半袖の柄のシャツ、無地の色違いのシャツ、ポロシャツ、半ズボンに長ズボン、ジャケットさまざま、いろんな色の靴下、TシャツにYシャツ、ベルトとズボン吊り、サンダルや革靴、水着、パナマ帽や中折れ帽などが手品みたいにずるずるといくらも出てきた。
「これが全部必要なのか?」
 少佐はあっけにとられて云った。なぜといって、主人たる少佐だってこんなにたくさんの服は持っていなかったからだ。太めの店員はたしなめるような微笑を投げてよこした。
「お客さま、いまどき、この程度のものは、はい、お年に関係なく、おしゃれをする場合には必要になるのでして。しかもどれも流行にとらわれず着回せるものばかりでございますよ。紳士といいますものは、場合によっては婦人よりもたくさんのものを要する場合もございますですから」
「それは確かにそうだよ」
 ものもちの伯爵さまがうなずいた。
「よし、全部置いていってもらうよ。きみの選択は理にかなっている。はじめておしゃれをするんなら、これくらいそろえるのは当たり前さ……明細をくれるね? 出張費や経費をちゃんと含めてね……」
 伯爵さまは太っ腹にカードで一括払いをした。あとでジェイムズくんが引き落としの明細を見たら、きっと泡を吹いて倒れるだろう。店員は大口の取引にほくほく顔で帰って行った。執事のヒンケルはまだ半ズボンとシャツ姿で立たされていた。彼はなんとも気まずそうだった。
「おまえの半ズボン姿なんぞ拝めるとは思いもよらなかった」
 少佐は正直に云った。ズボンの下からのぞく執事の脚は、想像よりずっと細く、なにか頼りなげに見えた。
「わたくし、半ズボンなど履くのは半世紀ぶりでございます」
 執事はとまどっていた。
「どうも脚がすーすーしまして、具合が悪うございます……仕事着に着替えてもよろしいでしょうか?」
 執事は訴えるような目で伯爵を見やった。伯爵はふうん、と鼻を鳴らして、それから寛大にもいいだろうと云った。
「明日から少しずつ、きみの私服姿を楽しむことにするよ。わたしが毎日服を選んで着せてあげるからね! 楽しみにしているんだよ!」
 おそれいります、と執事は云った。なんたる従順な、忍耐力のある男!

 

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