予想されていた落雷はしかし、予想よりかなり早くに起こったようであった。お屋敷へ出入りしている八百屋のせがれは、今年二十三になるなかなか整った顔立ちの男だった。本人もそのことを知っていて、ちょっとした町のカサノヴァ気取りだった。どうやらこのせがれは、その情熱的な性質を母親から受け継いだものと見える。彼女はドイツのかなり南のほうの出身で、美人であり、なにか熱烈な光を帯びた、うるんだような大きな目をしていて、この町の女たちとはあきらかにちがっていた。ことばも少しちがっていた。そうして頑固に、自分のことばをつらぬいていた。そして、そういう女から生まれた息子が、町の純情な娘をたぶらかしたらしいとのうわさを仕入れるたびに、八百屋の亭主は激怒して、おまえのような不埒な息子は勘当するとおどしつけて家から追い出していた。カサノヴァ先生はしかし慣れたもので、そういう事態になったらめんどうをみてくれる女のところへ二、三日隠れていればいいのだ。そのあいだに、母親が泣いて必死にとりなしをしてくれ、しまいには父親の怒りを解いてくれるのだった。
 この放蕩息子が、ある日どういうわけだか父親のかわりにお屋敷へ使いに行った。より辛辣なほうのうわさによると、せがれは父親の腹を下させるか、一、二日気分がすぐれなくなる工夫をしたのにちがいないということだった。もちろん、彼はうわさの美人を垣間見る機会をねらっていたのにちがいない。そうしてじっさいに、その機会をとらえたのだ!
 この戦略的なせがれが、いつも父親がするように台所わきの勝手口で用ききをしているとき、偶然に例のご婦人があらわれたのだ。
「まあ、おじゃまでしたわね」
 と低い落ち着いた声でその女性は云った。雪のように白い頬には微笑が浮かび、薄桜の色をした唇が楽しげにひきしまった。青い目はからかうように戸口に立つ八百屋のせがれに向けられていた。
 このせがれは、その瞬間、これまで目にした中でもっとも美しく優雅な、そして真に洗練された女を見た。女は鮮やかな金髪を丁寧に結い上げ、耳から赤い宝石のついた小さな金細工のピアスをぶら下げていた。黒いレースで飾られた、直線的なシルエットの白いドレスを着て、藍色に染めたウールのショールを羽織っていた。衣類に覆われていない膝から下は、すばらしいとしか云いようがなかった。そしてその脚の先は、つつましくハイヒールの中へおさまっていた。たいへんに女性らしく優雅だったが、それでいてどこにも隙のないかっこうだった。
 このせがれは、彼女のような女性を表現できることばをもたなかった。彼女と比較しうるいかなるものにもふれてきたことがなかった。このせがれは、雷に打たれたように感覚が麻痺し、だらしなく口を開けて、しばらくまたたきもせずに女を見つめていた。麻痺していたにも関わらず、彼の本能からはすでにこの女にたいする希望が捨て去られていた。それは、たかが田舎町の八百屋のせがれにすぎない男が、気安く話しかけたりからかったりしていいような女ではなかった……彼はそのとき、生まれてはじめておのれにたいする深刻な恥の感情に見舞われた。彼は逃げ出したくなった。けれども女のほうは、この町の住人に興味をもって近づいてきた。彼の相手をしていた料理番の女が、これは町の八百屋の息子だと告げた。彼はまったく、いますぐにここから走り去りたい気持ちだった!
「まあ、それではあなたにお礼を云わなくてはならないわ……」
 彼女は育ちのいい女性が、無邪気に親切をありがたがるときの調子で云った。
「ここの食事には、わたしまったく満足していますのよ。料理の仕方というより、元の食材がいいからだと、彼女が教えてくれましたの」
 この発言はせがれにとって決定的だった。彼女はどう見ても、町の人間が近づけるような女ではない!
 せがれはあやふやな返事をした。料理番は意地悪くにやにや笑いながら、この若きカサノヴァの敗北を見て楽しんでいた。うるわしき女性はいまこのたった数分のあいだに、ひとりの若者のうえにいかなる打撃が加えられたか、なんにも気がついていなかった。そうして無邪気に、自分がここの逗留客で、屋敷の主人に頼まれて古い美術品や骨董品の調査をしに来たのだと告げた。
 せがれはこのままいくとお互い自己紹介をしなければならないことになると気がつき、あわてて次の用事があるからとその場をあとにした。彼はその女に名乗り出ることだけはしたくなかった……彼はアルフォンスという自分の名前を決して嫌ってはいなかったが、町の八百屋の息子という漠然とした印象以外のいかなるものも、彼女の頭に刻んではならないと感じた。そんなことをしたらみじめさに追い打ちをかけるだけだ。彼はもうたくさんだった。すでに彼女のために、とても扱いきれないほどのものを背負わされていた。
 もちろん、アルフォンスみずからが、こんな不名誉な報告を町のみんなにしたわけではなかった。それは料理番の配下にある女中からもたらされたものだった。彼女は自分の抱えている話題の価値を知っていて、いつも出し惜しみするような女だった。今回のことも、三日ほど出し渋ったあげくに、たっぷりと盛り立てて友だちに話したのだった。
 話は町中を瞬く間に駆けめぐり、その日の夕方には、もう酒場での最大の話題になっていた。ひとびとはアルフォンスの好色な興味と行動力について話しあい、それが実を結ばなかったことをからかい、意地悪くよろこんだ。少佐はいつもの漁師仲間とビールを飲みながらその話を聞いていたが、八百屋のせがれがなにかひどく、あわれなような気がした。町の女が女という種類のすべてであるかのように思いこみ、半ばそれを征服した気持ちになっていた若い男には、深刻な打撃にちがいなかった。この男は生まれてはじめて、自分がどういうものの中にいたのかを知っただろう。育った環境の差というものはたいていの人間にとって、一生涯縮まることがない。少佐は人生のかなり早いうちにそのことを意識した。かのエーベルバッハ少佐でさえも、その差を縮めるためにかなりの労力をはらってきた。このせがれとは逆の立場から。
 少佐が仲良くしている漁師のひとりが……彼はさばけた実直な男だった……このとき少佐にいみじくも云った。
「まあ、おれらの中でそのご婦人に見合うのは、ヘルツベルクの野郎をのぞきゃあ、あんたぐらいだろうなあ!」
 少佐は思わず八百屋のせがれの顔を盗み見た。彼はひどく真剣な顔で、少佐を見つめていた。そして少佐と目が合うと、あわてて顔をそむけた。

 

「カサノヴァがすっかりしょげかえってるそうですよ」
 その翌日、少佐が帰宅すると細君が云った。その日は天気がよかった。少佐は丘へのぼって細君の弁当をたいらげてきたところだった。バスケットには、今日はピンクの丸ぼったいバラが入っていた。それは当然、いまは少佐の胸ポケットにささっていた。
「さっき、父親が来て満足そうに話していきましたよ。彼ときたら、息子のためにその女性に感謝してるというんですよ……まさかあんた、お屋敷に行ったとき本人にそんなこと云いやしなかっただろうね、って訊いたら、云うもんかって答えだったからわたしはひとまず安心しましたけどね」
 細君はゆったりと台所とテーブルのあいだを立ちまわって、少佐へお茶を出した。少佐は彼女の豊かな尻がゆるゆると部屋の中を行ったり来たりしているのを見るのが好きであった……本来なら、それはヘルマン老人の特権であるはずだが、少佐は例外だった。細君の肉づきのよい腰まわりがゆさゆさと揺れながら用事を果たしているのを見ると、少佐は気持ちがゆったりし、おおらかになり、不思議な落ちつきをおぼえた。たっぷりした腕やまるまるとした手が仕事をするのを見るのも好きであった。少佐はときどき、ヘルマン老人がからかいをこめてするように、細君の尻をぽんぽんとたたいてみたくてしようがないときがあった。ときどき伯爵に対してしていることではあったが、なにかまるでちがった気持ちで、ちがった愛着でそうしたいと思うのだった。
「父親が女に感謝してるとして、母親はどうなんだろうな?」
 少佐は花模様の陶器のマグカップからお茶をすすりながら云った。
「母親も、同じように感謝するだろうか?」
 細君はお茶の用意を終えて窓辺の椅子に腰かけ、編みものをはじめていたが、手をとめて茶目っ気たっぷりに微笑した。魅力的なえくぼがふたつ、両頬にあらわれた。
「まあぼっちゃま、本気でおっしゃってるんですか?」
 細君はわざと目を丸くした。
「わたしは八百屋のご主人に、バラの花をいくつか持たせて帰したんですよ! 母親というものは、我が子がふさいでいるときには自分までふさいでしまいがちなものだからって云ってね。そうしたら彼は顔をしかめて、あいつは息子に甘すぎるって云ったわ。あの父子がしょっちゅう衝突するのは、どう考えても彼女が原因だわ……たぶんご主人は、いまごろ妻の気持ちを少しでも自分へ向けようと必死になってるでしょう」
 細君はため息をついて、編み針をすっかり膝のうえに置いてしまった。
「あなただって、エルゼのことはちょっとはご存じでしょう……エルゼは、わたしにだけは少し心を開いてくれるわ……結婚した時期もそう違わないし、お互いよそ者どうしだから。わたしはこの町に受け入れられようと努力したけど、彼女はちがった。わたしは夫の生まれ育った町で、わたしという女のせいで彼の評価を下げるなんていやだった。でもエルゼはちがったわ。あのひとは南の女で、ドイツ人というよりイタリア人だわ。夫の愛情と、息子への愛だけで生きられるひとなのよ。わたしなら、生意気な息子の鼻をへし折ってくれた女性に感謝するでしょう。しかも彼女がその気もなくそんな芸当をしてくれたんだとしたら、なおさらね。だけど、エルゼはちがうわ! いつだって息子のためにいきり立って、武装して戦うような母親だと、わたしは思いますよ」

 

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