カフェシェルツにて
雨が降り出した。外は寒かった。少佐をして思わずひと震いさせるほどに寒かった。天気予報がこの雨についてまったく言及しなかったので、ひとびとは傘を持っていなかった。終業時間直後のエントランスホールは混雑していた。あるひとは恨めしそうに空を見上げ、あるひとはいまいましそうに顔をしかめ、あるひとはただため息をついた。建物を一歩出れば、公道に至るために敷地内を縦断している私道を、てくてく百メートルほども歩かねばならなかった。ひとびとの嘆きは主にその点に集中していた。こんな長ったらしい道は条例で撤廃してしまえ、と誰かが云った。賛成の声がいくつも上がった。
少佐はというと、無表情で空を見やり、それから大股に、男らしく果敢に、雨の中を歩きだした。執事のヒンケルがいつも完璧に整えているスーツが、無惨にも雨に濡れて、そこここに濃いしみができた。
少佐は問題のけしからぬ私道を大急ぎで歩ききった。そうして行き交う車のあいだを縫って道路を斜めに横切り、カフェシェルツの古きよきガラス張りのドアを押した。NATOボン支部に勤める誰もが、一度はこのカフェの客になった。そして一度そうなったら、二度三度とそうしないわけにはいかないなにかが、この店にはあった。
カフェシェルツは三階建ての、広々とした店であった。ビーダーマイヤー調の落ち着いて居心地のいい装飾で統一され、客はコーヒー一杯を頼めば、布張りのふかふかしたソファに丸一日いてもいいのであった。一階と二階は誰にでも開放されていた。一階は禁煙者向けに、そして二階は喫煙者向けに。三階部分だけは、誰でもというわけにいかなかった。そもそも客のほとんどは、三階があることを知らなかった。ここへ案内されるのは、NATOのお偉方だけであった。階段を上がると、廊下に沿って個室が並んでいて、それこそ秘密めいた会談をするのに持ってこいにできていた。
さてエーベルバッハ少佐は、この三階へ上がってゆく正式の権利を有していた。職務上の問題からだけでなく、家柄の問題からいっても当然のことだったが、少佐はひとりのときには決して三階を利用しなかった。誰しもが知るように、カフェの喧噪は、不思議とひとに働きかけるものだからである。
レジの前で、いつものようにカールヒェンが番をしていた。この若い、バラ色のつややかな頬をした男は、来る客来る客を一日じゅう笑顔で出迎え、勘定を受け持ち、笑顔で見送るのだ。手が空いたときには、もちろん店内をうろつき回って、注文を聞いたり、カップや皿を運んだりもする。このカールヒェン目当てにカフェシェルツへやってくる女性客はずいぶんいた。男性客のためには、可憐なウェイトレスのベーレンス嬢がいた。彼女はとびっきりの笑顔と、驚くほどメリハリの利いたボディラインを持ち合わせていた。この驚くべき金髪娘は、ボンの手引きだの注目すべきカフェ十選だのといったような書物によく顔が出ていた。市の広報にまで顔を出したことがあった。カフェシェルツは評判だった。一階のカウンターの後ろに陣取って一日中カップを磨いたり、コーヒーを淹れたりしている店主のシェルツ氏は、その特徴的な髭や禿頭とあいまって、もはやひとつの名所であった。それにここの料理は間違いなくドイツでも指折りにうまかった。満席なこともよくあった。平日にはNATO職員たちのせいで、週末には、観光客や地元住民たちのせいで。
少佐はいつものようにカールヒェンに挨拶し、シェルツ氏に挨拶し、階段を上がって、二階へ突き進んでいった。そしてだいたいいつも腰かける窓際の席にまんまと腰を下ろした。店内は混んでいた。急な雨のせいです、と注文を聞きにやってきたベーレンス嬢は云った。でも、きっとすぐに上がります。天気予報で、さっきあわててそう云ってましたから。ベーレンス嬢は、どの客にも同じことを云って回っているのに違いなかった。
少佐はコーヒーを頼んだ。もっとも、店でも心得ていた。常連客には、そのひとの一杯、というのを心得ているのだ。たとえば少佐の上司である部長もこの店をこよなく愛し、カールヒェンもベーレンス嬢もこよなく愛していて、よく入り浸っているが、彼に対しては、あらかじめ角砂糖を十個入れて、ホイップクリームをてんこ盛りにしてシガーを差したコーヒーが給仕されるのだった。カールヒェンなどは一度ひどくまじめな顔で、あの方はあんなお砂糖をとって大丈夫なのですか、と少佐に訊ねた。
少佐は気持ちのいいソファにゆったりと座って、スウェーデン語の教科書を開いた。少佐は別に、それを学習する必要はなかった。その必要があるのは部下Gで、おかげで毎日ゲーゲー云っているのだった。少佐はGが文句を云った日の翌日に、さっそくバリカンを買ってきて、机の上に置き、毎日スイッチを入れてモーターの回転具合を確かめることにした。その無言の圧力に、Gは青い顔をして必死にページを繰るようになった。少佐は満足し、自分も多少いっしょに勉強してやる気になった。それで、カフェの向かいにある会員制本屋のアイゼンバウアーおやじと相談して、手頃な入門書を一冊手に入れたのだった。この本屋には、ドイツ国内で過去に出版されたことのあるすべての本の在庫があった。うそでなしに、これはほんとであった。三十年戦争のころに出版されたものだって、ちゃんと倉庫に眠っていた。しかもおやじは、方針としてこれを定価で販売するのであった。ただし、そのためには厳しい規定をクリアした会員である必要があった。噂では、このアイゼンバウアーおやじは相当の資産を蓄えていて、この本屋は片手間に、趣味でやっているのだということだった。これはいかにもありそうなことだった。
少佐はしばらくスウェーデン語の本に集中した。定時に退社して、こんなふうにカフェで時間を過ごせるというのはすばらしいことであった。彼はいまでは、スウェーデン語で挨拶できたし、天気の話をすることができたし、ちょっとした議論をすることもおそらくできた。窓の外では相変わらず雨が降っていた。空は鉛色に濁って、いかにも寒々しかった。おまけにまだ五時台だというのに、もうずいぶん暗くなりつつあった。
しばらくたってから、少佐は顔を上げて、窓の外を見た。雨は上がっていた。ベーレンス嬢の云ったことはほんとうだった。少佐は微笑した。それから腕時計を見た。午後六時を回っていた。執事のヒンケルに、昼のうちに今日は早めに戻ると電話をしてあった。あまり遅くなると、料理人のマンツが気を揉むだろう。カフェのひとごみもだいぶ落ち着いていた。少佐は帰り支度をはじめた。そうしてふと、午後からこっち、電話を確認していなかったことに気づいた……仕事用のではなく、プライベート用のほうを。だいたい、この電話は午後からでないと機能しない。先方が午後からでないとまともな活動をしないからだ。昼前までは、伯爵さまは優雅におねんねをしているのだ。
彼はややおそるおそるといったふうに画面をのぞきこんだ。数十件のメッセージといったことがときどきあるからだ……よかった、今日はそこまでではなかった。たったの八件だった。これは喜ぶべきことだった。
少佐は順を追って見た。ドイツ時間にして午前十一時二十七分、ハートマークつきの「Morgen!」からはじまっていた。伯爵さまは起きたのだ。その次は、お天気の実況であった。
「ロンドンは今日は曇っているよ。とてつもなく寒いよ! 雨か、ひょっとして雪が降りそうな感じがする。わたしが起きがけに震えたので、ボーナム君はあったかい毛布を持ってきてくれた。すべすべして、柔らかいんだ。それで、わたしはまた眠っちゃった。ほんとは、十時過ぎに起きていたんだよ、誓って!」
それから伯爵さまは本日がバレンタインデーであることに言及し、おそろしいほどたくさんのプレゼントが届いていたことを報告していた。少佐はいろんな大きさの箱が山になった写真を見た。それから、クマのウィスパーが、透明な袋に入れられて、かわいらしいリボンをかけられた蜂蜜の瓶の前で満足そうに笑っている写真を見た。それから巨大なケーキとものすごい量のハート型クッキーの山を見た。さらに、おそろしくたくさんの花束にクマのウィスパーがかくれんぼしている写真を見た。そして愛すべきボーナム君が、ややげんなりした表情で、永遠の愛を捧げるというメッセージカードのついた、美しいペルシア絨毯を広げている写真を見た。最後は、ところで君は今日も帰りが遅いの? というメッセージで終わっていた。
少佐は写真の洪水で疲労を感じたので、いったん画面から目を離して、店の中と、窓の外を眺めた。夕食のためにやってきた客たちで、店はまた繁盛しはじめていた。カールヒェンやベーレンス嬢が忙しく立ち回っていた。このふたりは昼の当番なので、確か六時半か七時には仕事を終えて店を出なければならないはずだった。そうでないと、週三十五時間の労働時間を制定している労働法に違反するのだ。まったくいまいましい法律だ! 少佐が駆け出しだったころには、欧州のどこにもそんな法律はなかった。下っ端どもは、擦り切れて見えなくなるまで徹底的に働かされた。そうして仕事を覚えていったのだ。また、そうでなければならないなにかが、ある種の仕事には存在するものだ……とはいえ、少佐のところのZなどは、それでもずいぶんよくやっていた。彼は長時間労働によく耐えた。上司の法外な要求について、ときどき口ごたえすることはあっても、上層部や労働裁判に訴えることはしなかった。あれはなかなか、根性のある男だった。
微笑しながら窓の外を見ると、もうすっかり暗くなっていた。ボンの街は明かりをともして、優しく夜を出迎えていた。ひと雨降ったあとの街は、しっとりと湿ってぼやけていた。少佐は最後の煙草に火をつけて、それを吸いながら返事を打った。グローリア伯爵は天下無双のもらい手である由、今日はこれから帰る由。クマのウィスパーによろしく……というのも、この聡明なベアは、ときどきおそろしく不作法になる自分の友だちと、エーベルバッハ少佐との微妙な軋轢についてよく理解し、いつも慰めてくれるからだった…………
受け皿の下に紙幣を一枚つっこんで、外套を着て伝票を手に階段を下り、もうすぐ仕事じまいのカールヒェンに向かって伝票と紙幣を差し出しながら、ついでに煙草をひと箱くれるように云った。いつものように、釣りはカールヒェンのポケットへ入れるように指示し、雨がやんでよかった旨についてちょっと会話をして、店を出た。
少佐はぶらぶら引き返して来た。けしからぬ百メートルあまりの私道には、誰もいなかった。そうして、建物の横にある駐車場へ入っていって、自分の車に乗りこんだ。彼は車通勤組だった。地下鉄でもなく、バスでもなく、徒歩でも、自転車でもなかった。だから、雨のことなどはじめから気にすることはなかったし、カフェシェルツへわざわざ寄る必要はなかった。しかし、エーベルバッハ少佐はときどきそうした。雨や雪や強風にかこつけてそうした。カールヒェンやベーレンス嬢や、カフェシェルツ店主のシェルツ氏などもきっとそれを知っているに違いなかった。
シートベルトを締めていると、胸ポケットの電話が震えた。伯爵さまがまたなにか送ってきたのだ。
「早く帰ってよ。きっとびっくりしちゃうよ!」
それで少佐は、びっくりするために急いで家へ帰った。それにたぶん遅くとも明日には、伯爵さま自身が、少佐がロンドンへ向けて送ったもののために、びっくりするに違いなかった。
最近こういうのが書きたい気分なので。