舞踏会の一夜
やりすぎたかしら? と伯爵さま……否、ただいまは伯爵令嬢……は考えた。由緒正しき舞踏会というからには、由緒正しい格好をしなければいけない。伯爵さま……伯爵令嬢……は午後からボーナム君をはじめとするみんなを大いに弱らせながらすったもんだを繰り広げ、おそろしく十九世紀的な貴婦人をこしらえた。白い膨大な裾とレースを持つ、バラや花の刺繍やアクセントの青いリボンで飾られた舞踏会用のドレスは、この日のためにわざわざ作ってもらったのだった。それとそろいのヘアアクセサリーのおかげで、金の巻き毛のシニョンは伯爵令嬢の長い首の上に美しくまとまっていた。ネックレスとイヤリングは手持ちで間に合わせるつもりだったが専用のものがくっついてきた。こういうもの全部でいくらかかったのかは知らない……伯爵令嬢は、生まれてこの方金を払って服を買ったことがなかった。
美しい砂時計状のシルエットを作るために、ウェストをきびしく締めあげる必要があった。手持ちのコルセットはそれを大いに助けたが、ボーナム君ほか三名をうんざりさせ、疲弊させた。なにしろ、伯爵令嬢はみずからのウェストを半分以下にまで縮める必要があったからだ。だが装着は完璧だった。伯爵令嬢は、鏡に映ったおのれのウェストに深く深く満足し、また、あるはずのない膨らみが首尾よくふたつ追加されたことにも大変満足したのであった。
会場をまんべんなく見渡しても、こんなに念を入れた格好をしている女性はいなかった。近いところまでいっているのはいた。でも、コルセットを駆使してウェストをスズメバチばりに締めあげているのは、やっぱりいなかったのだ。彼の云うことを信じた自分がバカだったのかしら? 伯爵令嬢は……もうすっかり頭の中まで令嬢になりきっていたので……弱々しく、自信なさげに考えた。政府の要人が集う正当な舞踏会であるからして気合いを入れて来いと云われたから、ちゃんとした格好をしてきたのに! それとも、やっぱり伝統的な舞踏会も現代風俗に迎合せねばならぬ運命なのか? ウィンナーワルツにあわせて踊るのが、いまふうのすらりとしたドレスばかりでは、色気も味気もへったくれもあったもんじゃない! ワルツにあわせてくるくる回るのは、上から見たときに裾が傘みたいに広がるドレスでなければならないのだ。美的観点から、これは絶対的真なのだ。やっぱり、これでいいんだわ……美しい伯爵令嬢はそこまで考えて安心し、それから会場の外を見つめた。
ホーフブルク王宮は参加者でごったがえしていたが、この令嬢はその中へ加わらずに、出入り口付近で待ち続けていた。お相手がまだやってこないためだ。かくも美しい令嬢が気もそぞろに、ひと待ち顔して遠くを見つめ、それから悩ましげにため息をついて時計を見るたびに、会場にいる五十人くらいの男たちが同時にため息をついた。男たちはしきりとうわさをした……もしや彼女の待ち人は来ないのではないか? そうだとしたら、誰がこの美しい令嬢に声をかけるという偉業を成し得るだろうか? 自分だと声に出して云う者もいた。声には出さずとも、心でそう決めている者も数限りなくあった。そうしてこれらの男性のパートナーたちは、自分の連れが生返事しかしないでひとりの女を熱心に見つめていることに、少なからず憤慨していた。彼女たちは女の古典的服装をやや苦労して非難し(なにしろそれはどこから見ても美しくすばらしいドレスとしか云いようがなかったので)、女の性格と、まだ見ぬ女の連れをこっぴどく想像した。令嬢は、そんなことはもちろん知らなかった。
とうとう舞踏会がはじまる時間になった。会場の入り口で名前を読み上げるためにしゃっちょこばって立っていたまだ若い男は、早くも役目を終えて引っこもうとしていた。この男は、ときおり令嬢のほうへ目をやったが、それはその他大勢の男たちが令嬢にするのとは少し違っているように見受けられた。彼はときおり、げんなりしたような表情さえ浮かべたように見えた。それに彼はときどき、誰にも気づかれずこのようなことを小声で云うことがあった。
「ターゲットはもう全員会場入りした。少佐はまだだ……」
そのときだった! ひとりの紳士が足早にやってきた。令嬢のお相手は危ないところで間に合ったのだ! 令嬢はお相手の姿を見とめると、顔を輝かせ、白い手袋をはめた美しい手を子どもみたいに大きく振った。
「ダーリン!」
大股でやってきた男に、令嬢は飛びついた。
「あたくし、いらしてくださらないかと思ったわ!」
令嬢はこのときはじめて口を開いたのだった。その声の音楽的な響きに男たちは歯噛みして、令嬢をかくも長く待たせ、かくも長いこと気をもませたけしからぬ男を、集団で睨め殺しにでもかかるかのように睨みつけた……男は長身で、体格がよく、なんとなく隙のない身のこなしと、やや剣呑なまなこを持ち合わせていた。たぶん軍人なのかもしれなかった。そして、正真正銘のハンサムだった! 肩まである黒髪はどことなく異国ふうであり、鋭い顔つきは、ある種の近寄りがたい威厳をたたえていた。会場のあちこちで歯ぎしりとため息が聞こえた。招待状を受け取ろうと控えていた男も、この瞬間にため息をついたようだった……ただし、非常にげんなりと。
男は令嬢を安心させるように軽く抱きしめて頬に口づけ、耳になにごとかささやいた。令嬢は目を見開いて、なにか云いそうになったが、少佐はしいっ、と云ってそれを押しとどめた。それからさりげなく会場内を見回し、さらにそれから、改めて自分の令嬢を見回した。男は、令嬢に満足した。令嬢は期待通り抜群に目立っていた。背の高さでも、つつましく結われた金の巻き毛でも、その古典的ドレスとシルエットでも、それから、もちろん美しさでも! このほうは、とにかくまったく際だっていた! きれいに化粧された首から上だけで、涎が出そうだった。でもいまは、涎を出している場合ではなかった。いずれ出すにしても、それはともかくもっと、あとにしなければならなかった。
それで男は令嬢の手を取って、大急ぎで招待状を係の男へ渡し、男がそれをうやうやしく受け取って頭を上げるのも待たずに、令嬢といっしょにさっと会場の中へ飛びこんでいってしまった。係の男は顔を上げたとき、目の前に誰もいなかったので、一瞬ぽかんとした顔をした。そうして事情が飲みこめたのか、むっとした顔をして、招待状を読み上げもせずにぞんざいに、ほかの招待状でいっぱいになったかごの中へ投げこんでしまった。
ところで、この読み上げられることのなかった招待状には、こういう名前が書いてあった。クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐。これは、読み上げられなくて正解だった。なぜかというに、この名前を聞いたらびくりと身体をふるわせて、会場からの密やかな脱出をはかる人間が、もしかするといたかもしれないからである。
ふたりの到着を待っていたかのように、舞踏会が華やかにはじまった。オーストリアと周辺諸国の限られた名門貴族ならびに政府要人が集うこの舞踏会は、オーストリア首相のスピーチからはじまった。洒脱な話に参加者は和み、笑い、会場の熱気は高まった。シャンパンやワイン、高級食材をふんだんに使ったオードブルが臆面もなく消費された。ワルツが流れ、ひとびとは踊りだした。あちこちで親しげな、あるいは政略的な知り合いの輪が広がっていた。エーベルバッハ少佐とその連れであるイギリスの伯爵令嬢は、この光景を眺めて楽しむだけで、踊ることはしなかった。というより、ふたりは、舞踏会よりもお互いに夢中になっているというふうに見えた……伯爵令嬢は絶えず愛らしくしゃべり散らした。エーベルバッハ少佐はそれを聞き、うなずき、ときどきこの令嬢がはしゃぎすぎて飲みすぎていないかといぶかるように、優しく見守った……。
ドイツ連邦共和国外務大臣が少佐に声をかけてきた。彼は親しげに少佐と握手し、彼の日頃の働きぶりをねぎらい、おとなりの美しいことこの上ない令嬢を紹介してくれるようにと頼んだ。令嬢はずっとつつましくうつむいていたが、それがまた大臣の気に入ったのだった。でも少佐は、偽りの身分でよければと云って、ほんとにしなかった。大臣は笑った。
「君たちの仕事において、本物を見つけだすことくらい困難なことはないからね……」
大臣は訳知り顔でこう云って、美しい令嬢の手にうやうやしくキスしていなくなった。
「あの大臣は話のわかるひとでな。基本的に、情報部に優しい人間なんだ」
少佐は大臣の後ろ姿を見守りながら云った。それからシャンパングラスを持ち上げ、ちょっとうつむいて、「全員、定位置につけ」とごくごく小さな声で云った。そうして、グラスの中身を飲みほした。
ここウィーンでは、十一月の赤十字舞踏会を皮切りに、三月までの舞踏会シーズンに突入する。観光客をも巻きこんで数千人規模に発達することも珍しくない。それらの雑多な人間どもを無事さばききるだけでもたいしたことだが、政界財界の要人が参加するような舞踏会の際には、警察は神経をとがらせ、警備態勢は厳重を極める。そんなぴりぴりした空気をあざ笑うかのように、今日のこの舞踏会に対する爆破テロ予告が、開催一週間前に参加国政府に届いた。予告は信憑性があった。緊急に話し合いが持たれ、各国情報機関並びにNATO情報部にも指令が飛んだ。少佐以下二十六名の部下たちは、ほとんどまる五日、寝る間もないほどの働きをした結果、実行グループの面子を絞りこむことに成功した。それを受けて各国政府は、予定通り舞踏会を開催し、テロ予告についてはいっさい外部に公表しない……というよりも、なかったものとして扱う……という方針をとりまとめた。この決定がなされたとき、舞踏会の開催は翌々日というところまで迫っていた。少佐は舞踏会当日に、実行犯どもを根こそぎひっとらえることを各国の要人たちに固く約束した。それこそ、自分の命にかけて約束した。
とはいえ、なんといっても時間がなかった。開催は二日後に迫っていた。実行グループは全部で五名、その全員に二十四時間体制で部下が張りついていたが、連中はあきれるほどのんびり日常生活を満喫していた。そのうちのひとり、グループのリーダー格の男は、舞踏会に正式の招待を受けていた。父親が外交官をしていたからである。彼はまだ二十三の若造だった。なかなかハンサムな部類の顔つきを持っていたが、雰囲気がどこか冷たく、暗かった。
少佐と部下二十六名は、それこそこの件が片づいたらぶっ倒れる覚悟で、情報収集に精を出した。これまでに培ってきた少佐のコネが、この場合にも大いに役立った。少佐は武器火薬の販売、密輸ルートにおいては、なかなかの顔だったのだ。少佐に好意を持っているある男が接触をはかってきて、いくつかの条件と引き替えに、重要な情報を漏らしてくれた。そのおかげで、少佐は当日爆破物の設置を担当する男が誰なのかわかったのだ。なにが使われるかわかったから、使う方法も設置場所もおおよその見当がついた。あとはどうやってこいつをぶんどるかを考えねばならなかった。
起爆のスイッチは、おそらくリーダー格の男が持っているだろう。彼はそれを密かに身につけて会場へ来るはずだった。男の隙を見てこいつをちょろまかすことのできる人間が必要だった……ここまで考えを推し進めたとき、少佐の人選はほとんど決定していたのである。ウィーンの舞踏会、古典的なワルツは、美しい古典的なドレスの令嬢を必要とする。少佐はただちに令嬢候補へ連絡した。必要な身分証やパスポートなどを大急ぎでこしらえ、令嬢候補を即座にウィーンへ呼びよせた。少佐は令嬢候補へ、とびきりめかしこんでくるようにと念を押したのだ。この令嬢は、会場の男どもの視線を根こそぎ釘づけにするほど美しいほうがいい。そのうちの何割が少佐個人の願望であったかは、本人にもちょっとわかりかねた。
そうしてこの舞踏会当日だ。これで失敗すると、われわれは四方八方からこぞってトンママヌケと呼ばれた上に、二度と永久に栄誉ある職にはありつけないだろうと少佐は昨日部下たちの前で宣言しておいた。部下たちはただでさえ憔悴した顔をさらに青くした。いかなる状況下でも大食いでのんきなBはこう云った……「ちくしょう、どうせ貧乏暮らしになるんなら、もっとうまいもん食っとくんだったなあ!」
そのBはいま、うまいもんにありつくどころか、控え室で化粧に精を出しているはずだった。ほかの部下たちもめいめいの配置について、神経質に、けれども表面上は平気な顔をして、状況を伺っていた。少佐の神経もまた極限まで張りつめていた。伯爵令嬢にはそれがよくわかった。実のところ、伯爵令嬢はいまもって、今日正確にはなにをどうしたらいいのかまだよくわかっていなかった。令嬢は、実行犯のリーダーたる男に巧みに接触して、彼の気を引きつつ、爆破装置のスイッチをどうにかして奪い取らねばならないのだ。まったくたいへんな仕事になりそうだった。というよりも、今回の少佐の任務はほとんどこの令嬢と、似たような役目を任されている部下Gの動きにかかっていた。伯爵令嬢は、この大変な仕事を引き受けるに当たって、もちろんそれ相当のものを要求した。もしも仕事がうまくいったら、エーベルバッハ少佐はその報酬として、少佐自身と部下たちを根こそぎ最低ひと月の休暇へ送り出さねばならない。NATO加盟国各国にとって、これはまったくたいへんな要求であった!
舞踏会は華やかに続いていた。ひとびとは踊り、おしゃべりし、食べかつ飲んだ。ご令嬢も楽しげに食べたり飲んだりしていたが、しばらくすると席を立って、云わなくてもわかるところへ行くためにしずしずと歩きだした。ご令嬢は美しい手に、小さな夜会用のハンドバッグと、白い絹のハンカチを持っていた。絹のハンカチにはイニシャルとバラの花が刺繍されていて、レースでふちどりがしてあった。ご令嬢は円卓のあいだを縫って美しく歩いた。あたりの男たちはみんな見とれた。実行グループのリーダーは……リーダーといっても、計画を練ったり指示を出したりするほんとうの黒幕はぜんぜん別にいて、彼はただ使い捨ての駒にすぎない……会場の隅にある円卓のひとつに腰を下ろしていた。そこからは、会場全体が見渡せた。彼の連れは馬面の、骨ばった女であった。ふたりは一度ワルツにあわせて踊りに行ったが、あまり会話をしなかった。倦怠の感じがふたりを覆っていた。仲が悪いというのでもないが、さりとてまったく発熱していて、浮かれていられる関係でもないというふうな具合に見えた。
このふたりが座るテーブルのとなりに、小柄な金髪の男が、その連れである美しい細君といっしょに腰を下ろしていた。まったく美しい、快活そうな細君であった。夫の方は優しげな、誠実そうな顔立ちをしていた。ふたりは夫婦であるに違いない、というのも、両方ともそろいの指輪を左手の薬指にはめていたからである。細君とこの優しそうな夫は、こちらも一度踊りに行ったきり、会話や飲食やその場の雰囲気に熱中していた。この小柄な夫は知り合いが多いようであった。彼のもとへは、ときどき誰かがやってきて、親しげに挨拶をしていった。そうして、彼の美しい細君へ、親しみのこもったまなざしを向けるのであった。
さて例の美しい伯爵令嬢は、これらふたつのテーブルの前をおっとりと通り過ぎてはばかりへ向かっていった。実行犯リーダーの男も、さすがに彼女を少しのあいだ目で追いかけないわけにはいかなかった。それほどかの令嬢は目立っていて、すばらしかったのだ。令嬢はしばらくしてまた同じ道を通ってテーブルへ戻っていった。そのときも、このリーダー格の男は無意識に令嬢を目で追った。まったくすばらしい令嬢だった!
ワルツは手を変え品を変え続いていた。リーダーの男とその連れが腰を下ろすテーブルの前を、ひとりの給仕が通りかかった。彼は銀のお盆にシャンパングラスをいくつも乗せて運んでいた。連れの女は先ほどからしきりとのどが渇いた。その前につまんだキャビアの乗ったオードブルが、どうも少し塩辛すぎたようなのだ。あるいはチーズとスパイスと合わせられたスモークサーモンであったか? 彼女は給仕を呼び止め、グラスをふたつ受け取った。そうしてそれをどっちも勢いよく飲み干した。
「調子に乗って飲み過ぎるなよ」
男は少しきつい調子で云った。
「平気よ、こんなちょびっとしか入ってないシャンパンなんか」
女は不機嫌に云った。のどの渇きはおさまったように思われた。
華々しいファンファーレが鳴り響き、入り口のドアが開いて、道化師や笛吹男やバイオリン弾きや、さまざまな仮装をした楽団一味がなだれこんできた。舞踏会を盛り上げるための愉快な催し物であった。彼らはいくつかの塊にわかれてテーブルのあいだを縫うように進行しながら、ある道化師は観客のひとりをつかまえて、そのしぐさをいちいち真似しては周囲を笑わせ、ある者はウィリアム・テルの格好で見事なナイフさばきを披露し、ある者は操り人形に扮して人間離れした不自然な動きで観客を驚かせた。バイオリン弾きや笛吹男や太鼓持ちといった連中は、くるくる回ったり飛び跳ねたりしながら、愉快な曲を演奏した。彼らは会場をほとんど嵐のように騒々しく通り抜けていった。
エーベルバッハ少佐と連れの令嬢も、この見せ物を大いに楽しんだ。派手な化粧を施した、もじゃもじゃアフロの頭をした道化師が、この美しいご令嬢に感激して、うやうやしく膝を折り、手に口づけをし、ふところからさっと紙でできた造花を取り出して、彼女に与えた。令嬢は喜んで、連れに美しい笑顔を向けた。会場が騒ぎから落ち着いてしばらくすると、令嬢はこの造花がどうやって折られているかについての研究に夢中になりはじめた。彼女はときおり連れに茶目っ気たっぷりの笑顔を向けながら、苦心して赤い折り紙を広げた。ところでこの紙には、紙と似たような色のインクで、目立たぬように文字が書きこまれていた。
「二名場外ニテ捕獲済」
令嬢は紙を広げ終わるとそれをしげしげと眺め、連れも一緒になってその折り目を研究した。それから令嬢はいまと逆の道をたどって造花を折りだした。令嬢の連れは、相変わらず彼女のすることなすこと愛らしくてしようがないというように見守っていた。
そこへ、ひとりの男が親しげに近づいてきた。エーベルバッハ少佐の知り合いであった。彼は少佐と握手し、令嬢とうやうやしく握手し、それから少佐と会話をはじめた。令嬢がすぐに居場所を失ったように感じだしたことはあきらかであった。ふたりはどうやら同級生か幼なじみらしく見えた。ふたりは自然、令嬢の知らない話で盛り上がりはじめた。
令嬢は少しのあいだ辛抱強くしていたが、やがて席を立った。それからどうしましょうというようにあたりを見回し、続いてハンドバッグを見やり、ふいになにかを思いついたようにしばらく中を探った。そうして、「まあ、いやだわ!」と声を上げ、なにかを探すように床をあちこち見回しながら歩きだした。密かに彼女を見守っていたあたりの男たちは、これをいぶかり、助け船を出してやった方がいいのではないかと、遠慮がちにタイミングをはかりはじめた。
ところがであった! 彼女に真っ先に声をかけたのは、当然といえば当然ながら、ホールで給仕をしていた男であった。彼は先ほど、リーダーの連れの女にシャンパンを渡した給仕であった。
「いかがなさいましたか?」
給仕はこう遠慮がちに令嬢に声をかけた。令嬢ははっとして振り向き、それから困ったような微笑を浮かべ、ハンカチを落としてしまいましたの、と恥ずかしそうに述べた。給仕は手伝いを申し出、令嬢に落とした可能性のある場所を聞き、結局、彼女がはばかりへ行くために歩いた床の左右にあるテーブルのクロスをひとつずつめくって確かめることにした。テーブルに座っていたひとたちは、もちろんこの捜索に喜んで協力した。令嬢はみんなに頭を下げて、恥ずかしそうにうつむいていた。その顔といったら! 男たちは皆少なくとも、鼻の下をだらしなく三十センチはのばした。若い女たちの機嫌は三割増しで低下した。
令嬢と給仕は、リーダーの男のいるテーブルへやってきた。男の隣の椅子は空いていた。というのも、連れの女が少し前に席を立ったからだ。彼女はやっぱり飲み過ぎたらしく、今度は気分が悪くなったのだ。給仕が事情を説明し、クロスをめくる許可を求めると、彼は親しげに応じた。給仕はクロスをめくった。そうしておや、と声を上げ、かがみこんで、テーブルの下からなにかを拾い上げた。
「あたくしのハンカチですわ」
令嬢がうれしそうに声を上げた。給仕はハンカチをさっとはたいてきれいにし、令嬢の手にうやうやしく戻した。
「どうしてこんなところに入りこんでしまったのかしら? 探しても見つからないはずだわ」
令嬢は頬に手を当て、かわいらしく首を傾けた。
「きっと、先の見せ物連中のしわざでしょう」
テーブルの男が応えた。
「あいつら、かなり勢いよく行進していきましたからね。あなたのハンカチを、不作法な靴先で押しこんでしまったんでしょうよ」
給仕はここで一礼して引き下がった……ところでこの給仕は、この間ずっと、胃のあたりからこみあげてくるものを我慢するのにかなりの苦労をしていたのであった。このときばかりは、彼……部下E……は、部下Gに感謝しなければならないように感じた。というのも、常日頃この愛すべきおかまが、おかまに対する耐性なるものを養成してくれなければ、彼はさらなる強烈な吐き気に悩まされていただろうから。
「ほんとに助かりましたわ。これ、とっても気に入ってるんですの……でも、あたくしときたら、よくものを落としたり忘れたりしてしまうんですわ。これでも気をつけているつもりなんですけれど!」
男は微笑んだ。令嬢は、男の隣の席が空いているのを遠慮がちに確かめると、少し先にある自分の席を見やった。彼女の連れは、まだ知り合いの男と楽しそうに会話をしていた。それにその男ときたら、令嬢の席へ座りこんで、すっかり長期戦にそなえているのであった!
「あの、失礼ですけど」
令嬢は恥ずかしそうに切り出した。
「ほんの数分、ここへお邪魔してもよろしいかしら? あたくしの相手が、知り合いの方につかまってますの。悪い方じゃないんですわ、ほんとに。でも、この方が出てくると、いつもほんとにお話が長いんですわ。ほら、あのテーブル、男の方がふたりいますでしょ? こっちに背を向けているのがその方なの……あたくし正直に云って、その方とお話するととても疲れますの」
男は一瞬、確かにこれは怪しいと感じたのである。しかし、男は今度の計画に自信を持っていた、というのも、この男はほとんどなにもしなくてもよかったからだ。彼はただこの会場の雰囲気を楽しんで、頃合いになったらある行動をとればよかった。そしてそれは、非常にたやすい、かつ非常に自然な行為であったので、それの持つ意味には誰も気づきようがないのは明らかだった。それで男は、このすこぶる危険な令嬢を自分の隣に置くことに同意してしまった。いずれにしても、おしゃべりは数分で終わるだろう。それくらいなら、楽しんでも問題はなさそうに思われたのだ。
令嬢は示された席に腰を下ろした。そうしてふたりは楽しくおしゃべりをはじめた。
さて令嬢の連れはというと、ただいたずらに知人とのおしゃべりに時間を浪費していたのではなかった。この知人とは、部下のひとりであった。彼とほがらかに話をしながら、少佐は絶えずあたりに気を配っていた。彼の耳の奥にしこまれた小型の無線には、ほとんどひっきりなしに部下からの報告が入った。そのたびに少佐は耳の下をぼりぼり掻くのだった。彼は向かいの知り合いに、この不作法な動作について、湿疹ができてしまってたいそういまいましい、と云いわけをした。知り合いは、自分もこのあいだ似たような湿疹が現れて、まだときどき痒い、きっと流行りのバイキンだろうと云って、なぐさめた。
部下Zは、トイレから出てきたリーダーの連れの女に接触することに成功していた。この顔の長い、暗い表情をした冴えない女は、まだ相変わらず気分はよくなかったが、いまではそのことに感謝したい気持ちになっていた。なぜなら、気分が悪そうな顔でもしていなければ、自分の人生の中でこんな小ぎれいでハンサムな男に声をかけられることなど、まずなかったに違いないからだ。ハンサム男は自分の連れがどこかへ消えてしまったので探していたことを明かし、しかしそれを後回しにして、彼女をテラス席へ誘った。それで、女はちょっとばかり舞い上がってしまい、また、組織の自分に対する扱いに反感を抱いてもいたので、憂さ晴らしにちょっとばかりの逸脱行為を働くのも悪くないと考えた。なにか悪いことがあろうか? ただちょっとのあいだ楽しく過ごすだけのことが? なにしろ信じられないことに、目の前のハンサムな金髪青年は、彼女になにか好意に近いものを抱いているようなのだ……あたしだって、そうばかにしたもんでもないんだわ……女はふいに自信を得て、気が大きくなっていた…………
Zの連れ役である部下Gは、実行グループのひとりをつかまえるべく奮闘していた。標的の男は、調理場のスタッフのひとりになりすまして会場に侵入していた。愛すべきおかまGは、ハンサムな年下の恋人を持ってしまった、ちょっと年増の女役を見事に演じていた。彼女はこの年下の恋人……彼は金持ちだった……と結婚間近で、いわゆる玉の輿に乗ろうとしていた。しかし、金持ちの生活へ溶けこもうと努力すればするほど、自分が生まれ育った上品とはとてもいえない環境に対する、愛憎半ばする感情に苦しめられるのだ。彼女はきらびやかな舞踏会の中でどうしても感じてしまう疎外感から、飲み過ぎて酔っぱらい、「自分にふさわしい下品な」環境を捜し求めて調理場へ侵入した。
「あたしゃあそりゃあ、努力はしたさあ。こんでも、頭悪くなんかなかったんだからね。担任の先生なんかさあ、将来は、学校の先生になっちゃどうかねなんてさあ、父ちゃん母ちゃんに云ったっけ。ほんとだよう、あんたら。だけどさあ、あんたら、聞いてくんなよ。あたしの実家は飲み屋でさ、まいんち酔っぱらった下品な連中相手にしてたからさあ、わかる? こういうとこ来るってえとさあ、ほんとんとこ、全身むずがゆくなっちゃうんだよ! だって、連中ときたら酔っぱらい方まで上品だってなもんだからね!」
彼女は調理場でこのような故郷バイエルン地方の方言を駆使した表現豊かな大演説をぶち、怒り、嘆き、しまいに泣きよろめいて、近くにいた男のひとりにすがりついて大声を上げて泣き出した。そしてこの不運な男こそ、かの実行グループのひとりであった。男は爆弾をしかけるという、グループの中では非常に重要な役割を担っていたのだが、そしてその実行時間は確実に迫っていたのだが、当然、この激しく不愉快な女とともに調理場から追い出された。運の悪いことに、女はいつまでもくどくどと泣き、すがりついて不満をぶちまけていっこうにやまなかった。男は弱った。完全に想定外のことだったからだ。で、男はとりあえずこのバカな女をどうにかしようと、苦労してスタッフ用のロッカールームまで引きずっていった。部屋の中には誰もいなかった。上下二段のロッカーが、規則正しく四列に並んでいる。こんな時間にロッカールームに来るやつなどいない。皆忙しい盛りだ。
男はドアを閉めると、突如として本性を現した。女(に見えるおかま)を乱暴にひっぱたいたのだ! 彼女は当然悲鳴を上げようとしたが、男はその口を手でふさいでしまった。
「うるせえんだよ、ちくしょう!」
男は怒りもあらわにどなった。
「わけわかんねえことグダグダぬかしやがって…………」
男のことばはそこで途切れた。感電したのだ。
Gは素早く男の身体をあちこち探った。なかなかいい身体…………じゃない! 彼女はすぐに胸ポケットに隠されていた小型の通信機を見つけだした。装着してみると、男の声が聞こえた。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
「問題ない」
Gは小さな声で答えた……もちろん、もともと持ち合わせの声で。
「女を気絶させただけだ……心配ない」
「そうか。ならいい。急いで仕事にかかれ」
「わかった」
Gは通信機をドレスの胸につっこむと、舌打ちをひとつし、ドレスの中からひと巻きのロープを引き出して、男をがんじがらめに縛った。それから男の身体をもう一度まさぐった。ズボンのポケットから鍵束が出てきた。反対側からは、ロッカーの鍵とおぼしき小さなタグのついた鍵。番号は216。Gは急いでロッカーを探した。ビンゴ! あたしって、やっぱりさすが少佐の部下だわ! ロッカーの中にはコートとマフラー、黒のバッグ。バッグを開けると、ふたたびビンゴ。Gは今度は本来の通信機に向かって、
「部下Gです、ブツを発見しましたわ、少佐」
と、キンキンおかま声で云った。一分もしないうちに、ふたりの男がやってきて、縛られた男と黒いバッグを大きなカートにつっこんで持ち去ってしまった。
「まあ、お父さまが外交官でいらっしゃいますのね?」
令嬢とリーダーとの会話は平和に続いていた。周囲の男連中はくやしくてじろじろと無遠慮にこのテーブルのふたりを見ていた。
「では、海外は慣れておいでなのでしょうねえ……」
「ええ、まあねえ……」
男が懐中時計を取り出して、時間を確認した。
「まあ、すてきな銀時計ですこと」
令嬢が声を上げた。
「いまどき懐中時計の方は珍しいのではなくて?」
時計は、手のひらに収まるほどの大きさで、よくあるように、てっぺんに大きなねじと、鎖をつけるための輪っかがついていた。青年はなかなか魅力的な……しかし見方によってはひどく冷笑的な……微笑を令嬢へ向けた。
「これは、祖父の形見でしてね。いまどき流行らないのは知ってるんですが、なんとなく愛着があって手放せないんですよ」
「すてきなお話ですわ」
令嬢は笑顔で応じた。
少佐が耳の下をぼりぼりやりだした。
「部下Dです。男が吐きました。起爆スイッチは懐中時計です」
少佐は微笑し、蝶ネクタイの具合をいじると、「部下G」と小さな声で云った。
「年下の恋人のところへ戻れ」
Gはテラスへ舞い戻った。青白い、壮絶な顔をこしらえて。年下の金満家の恋人は、テーブルのひとつに陣取って馬面の女となかなか楽しそうにおしゃべりをしていた。
「ダーリン!」
彼女は悲劇味たっぷりのキンキン声をあげ、両手で頬を挟み、それから年下の恋人にむしゃぶりついていった。
「あなた、やっぱりあたしじゃいやなのね? あたしみたいなガサツな女は嫌いなんでしょう? そうなんでしょう? はっきり云ったらどうよ! あたしがちょっといなくなってる隙に……!」
ハンサムな金満家は大慌てで誤解を解きにかかった。馬面は興ざめして、そっとその場から逃げ出した。ほんとうは、一番興ざめしていたのはハンサムな金満家自身だったのだが。
「そうなんですの、あたくし、父のおかげでたくさんのことを身につけましたわ。父はなんでもさせてくれますの……」
令嬢は話の途中でちょっと止まり、手で口を押さえて、シュッ! と小さくかわいらしいくしゃみをした。それからあわててハンカチを取り出し、
「いやですわ、ごめんなさい。くしゃみって、いつ飛び出すかわからなくって……」
と弁解した。男は、そろそろ連れの戻りが遅いのに疑問を感じはじめていた。そこでふたたび懐中時計を取り出して、時間を確認した。令嬢がそれをちらりと見やった。
「あら?」
令嬢が云った。男は時計から顔を上げた。
「あれ、もしかしてお連れの方ではなくって?」
男は首をひねり、廊下へ通じる出入り口を見やった。確かに、連れがテーブルへ戻ってくるのが見えた。相変わらず気分は悪そうだったが、なにか変わったことが起きたような様子はなかった。まったく、ばかな女だ!
「では、残念ですけど、あたくしはこれで失礼しますわ。とっても楽しい時間でした。お相手してくださって感謝しますわ」
令嬢は立ち上がり、男も立ち上がるのを待って、美しい手を差し出してきた。男はうやうやしくそれを取り、音を立てて口づけた。令嬢は微笑し、きびすを返した……そして、またハンカチを取り落とした!
「また落とされましたよ」
男は笑って、かがみこんでハンカチを拾い上げた。うっかりなお嬢さんだ!
「まあ、いやだ」
令嬢は顔を赤らめ、あわてて自身もかがみこんだ。でも、男はもうハンカチを拾い上げて立ち上がるところだった。
「一日に二度もこんなことして、恥ずかしいわ。でも、ほんとにご親切に」
男は令嬢にハンカチを差し出した。令嬢は受け取って、小さく一礼すると、自分のテーブルの方へ戻っていった。連れが戻ってくるまで、男はちょっとのあいだ彼女の背中を見送った。
「誰よ、あの女」
あのような絶世の美女と親しく会話したあとで、こんな陰気な女を見なければならないとは! 使命のためとはいえ、男はいやな気持ちがした。それで、ひどく邪険に女をあしらい、ふたたび椅子に腰を下ろした。女はむくれた。彼女の方では、あんな優しくてハンサムな金髪男と話したあとで、こんな冷たい、憎たらしい男の相手をしなければならないとは、仕方のないこととはいえ、なんて不幸な運命だろうと考えたのであった。
それから少しして、男はまた懐中時計を取り出して眺めようと……否、今度はいよいよそれのスイッチを押そうと胸ポケットに手をやった。通信機による仲間の報告は上々で、すべて計画通りにいっていた。そして舞踏会は、おしまいに近づいていた。警備の人間たちも、もうそろそろ油断し出すころである……しかし、男はぎょっとして動きを止めてしまった! ない! 彼はあちこちのポケットを探った。
「なによ? どうしたのよ?」
女が訊ねてきたが、彼は答えなかった。そんなはずはない! そんなはずは! さっきまで確かにこのポケットに…………
男はふいに思い当たった。鼓動が高まり、胸がしめつけられたようになった。全身の血が冷たくなり、口が渇いてきた。
「……あの女か……!」
男は弾かれたように立ち上がり、あたりを見回した。そのとき、ひとりの給仕が彼に近づいてきた。以前に、あの令嬢のハンカチ探しを手伝っていた給仕だった。
「失礼ですが、お探しの品はこちらでございますか?」
給仕は、白い絹のハンカチにくるまれた懐中時計を差し出した。男はかっとなり、それをひったくろうとして、急に動きを止めた。ハンカチの下から、銃口がのぞいていたからだ。連れの女は、さっとハンドバッグに手を伸ばした……が、こちらもまたすぐに動きを止めてしまった。ふたりの後ろのテーブルにずっと座っていた小柄な金髪男が、彼女の背中に堅いものをつきつけていた。
「このほかにも、落とし物をいくつかお預かりしております。たとえば、ロッカールームにありました黒いバッグなどでございますが」
給仕は微笑して云った。男は歯ぎしりし、小さくうなり、しばらくなにかを抑えようにぶるぶると震えていたが、やがて給仕の前に立って静かに歩きだした。
ふたりは例の令嬢と、その連れの男が座るテーブルの前を通った。
「あら、お帰りですの?」
令嬢は愛らしく云った。
「また機会があればご一緒したいですわね」
彼女は白い手袋に覆われた手を、優雅に振った。彼女の連れの男は、関心がなさそうに一瞥を投げてよこしただけだった。会場を出るまでに、どこからともなく集まった数人の男たちが、さりげなくこの男と連れの女を取り囲んだ。
これを期に、二十人以上の人間が会場から気づかれず姿を消したが、そんなことは参加者の誰も気がつかなかった。道化役をやっていた部下Bはしかし、まだ役を続けていた。彼は今度は会場の外で、客を楽しませねばならなかったのだ。彼の本来の役目はとっくに終わっていた。でも彼は、外庭でわいわいやっていた連中にひどく気に入られてしまったのである!
部下Gもまた、テラス席に残っていた。あたりには誰もいなかった。彼女はちょっと飲みすぎた。それで、酔いを醒ますために酒を飲む必要があったのだ。相棒の部下Zは、先輩は飲み過ぎだとかなんだとか、年下のくせにとにかく小うるさいので、とっくに追っぱらってしまった。
「あーあ、酒がうめえ……」
彼女は、美しいドレスに身を包んだまま、大股を開き、本来の持ち合わせの声でそうつぶやいた……
少佐と令嬢のところへ、ふたたび外務大臣がやってきた。ふたりは立ち上がって迎えた。大臣はよくやったというように少佐にうなずきかけ、握手を求めた。
「各国政府を代表して君に礼を云うよ。よくやってくれた」
少佐は小さく頭を下げ、同時に、相手のそれ以上の言を制した。
「そちらの美しいご令嬢にも、お礼を云わせていただけますかな」
令嬢は光栄ですわ、と云って、うやうやしく頭を下げた。
「君たちのお手並みについては、報告書をよく読ませてもらうことにしよう……それに、例の部長からもいずれ話を聞けるだろう。ところで、君たちの仕事はほとんど終わったようなものだろう? このご令嬢を、やっぱり紹介してもらうわけにはいかないのかね? できれば一曲、お相手願いたいんだが」
少佐は唇を持ち上げた。
「残念ながら、閣下」
少佐はちらりと令嬢に目をやった。
「彼女はうちの秘蔵品でして。たとえ閣下のご要望でも、よそへ貸し出すわけにいかんのです」
閣下はふうむ、と鼻を鳴らした。
「それなら仕方ない。しかしまたぜひどこかでお目にかかりたいものだね! あなたはほんとに美しい。お世辞ではありませんぞ。とにかく、よくやってくれた。この礼は必ずしよう。では」
大臣閣下は歩いて行きかけて、ふいにくるりと振り返り、
「ときに君は、まだ少佐でいいのかね?」
少佐は微笑し、小さく頭を下げた。大臣は眉をつり上げ、今度こそ立ち去った。
「一国の大臣にまでほめていただいてうれしいわ、あたくし」
伯爵令嬢はうっとりしたように云った。
「すてきな方だわ、大臣って」
少佐はあきれたように令嬢を見やった。
このとき、ちょうど曲が変わった。舞踏会は、終わりに近づいていた。
「まあ! 皇帝円舞曲だわ」
令嬢の顔がほころんだ。
「思い出の曲」
令嬢は云い、なつかしむような顔をした。それからその顔を輝かせて少佐を振り返った。少佐はもちろん、ご令嬢がなにを云わんとしているか、わかりすぎるほどわかった。この曲は、彼にとっても思い出深い曲だった。何年たっても、それは色あせなかった。
少佐は令嬢に眉をつり上げて見せた。令嬢の顔はますます輝いた。それから少佐は令嬢に向けて肘を突き出した。令嬢は、うっとりと優雅な仕草でそこへ腕を絡ませた。