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よくあることだが、彼らは自分たちのことにかまけていろんなことを忘れていたことに、しばらくたってから気がついた。すでに午後になっていた。厳密に云えば少佐はもっと前から気がついていたのだが、自分の腕の中でとろんとしている伯爵を前に、仕事が義務がどうのと云いだすのは、まったく並大抵のことではなかった。そんなことは、たとえエーベルバッハ少佐でもできかねた。それで、伯爵の気が済むと、彼はまずくそいまいましい写真とネガに火をつけて、徹底的に燃やした。それから大慌てで部長に電話をし、資料が手元に戻ってきたことを伝えた。
「めでたいことだが、しかしそりゃあ……いったいどうしてそんな神業ができたのかね?」
部長は心底不思議そうな声で云った。少佐は一瞬ことばにつまった。その隙に、伯爵が受話器を奪いとった。彼はベッドの上で勢いよく行動に出たので、シーツやかけ布団ががさがさいう音が受話器の向こうにも届いたに違いなかった。
「ハロー、部長! わたしですよ! 誰だかおわかりですか? あはっ、それはどうもありがとう。わたしは毎日輝いてますよ! そうなんです、わたしとっても暇だったんです。つまりこれは、純然たる暇つぶしなんです。いい頭と身体の体操になりましたよ、おかげさまで! 今後もご用命がありましたらお気軽にどうぞ! 請け負うかどうかはわかりませんけど」
チンと音を立てて受話器を下ろした伯爵を、少佐は冷たく見つめた。
「前から思ってたんだけど、部長とかきみの部下諸君は、いったいわたしたちのこと知っているのかな? それともぜんぜん知らないの?」
伯爵は少佐の首に腕を回してぶら下がり、少佐の鼻先に自分の鼻先をこすりつけてきた。
「知っとるのか知らんのか知らん。少なくとも部長には、いまので確信させた可能性もあるが」
少佐はまだ冷たい顔をしたままで云った。
「態度にも出さないの?」
伯爵が音を立ててキスしてきた。彼は実に都合よくひとの話を無視することができるのだ。
「出さんよ。んなことしてみろ、たとえ部長だろうとアラスカへぶっ飛ばしてやる。いいか、おれはやるぞ」
「ああ、なんと恐ろしいこと! ご主人さま、情けをお忘れになりますな! どうかお慈悲を! お慈悲を!」
伯爵がのけぞって暴れるので、少佐は伯爵をぶら下げたまま立ち上がり、部屋をぐるぐる回った。それからふたりはソファにどすんと腰を下ろした。それからけたけた笑った。
「ご主人さま、わたくしの考えを云ってもよろしいでしょうか?」
少佐の上に横向きに乗っかった伯爵が云った。彼はまだ少佐の首に腕を回していた。
「云うがよい」
主人は許可した。
「ありがたき幸せ。わたくしめの考えでは、ご主人さま、この世に長く保たれる秘密というものはございません。墓場まで持っていくことのできる秘密などないのでございます。どのみち、神の前にはすべて明らかです。神はすべてをご覧になり、記録天使が勤勉に仕事をしているというのに、われわれ人間というものは、おのが小さな胸に後ろ暗い秘密をたくわえることばかりでございます。ですが、ご主人さま、一方で、秘密とは尊いものでございます。それを不当に侵害する権利は誰にもないのでございます! 万が一にもそうしたことがございましたらば、もちろんご主人さまは激怒なさり、誰であろうと毅然として罰をくわえる権利がおありに……」
「アラスカ送りの……」
「おそろしい罰を……」
この出演者二名、観客ゼロの芝居はそこで、惜しくも電話のベルによって中断された。部長からだった。
「すまんな、少佐、資料はきみが持ち帰ることになるのかどうか、聞くのを忘れたもんだから。ところでこの番号は、きみの部屋のものじゃないようだが、折り返してもよかったのかね?」
「折り返しといて云わんでください。そういうのをスケベ根性と云うんだ」
伯爵が大声で笑った。少佐は受話器をおろして、罰をくわえてやる、と云いながら電話線を引っこ抜いた。
「アラスカ送りだ! 電話ごと!」
伯爵は叫んで、万歳し、また笑った。
それからふたりはおとなりをノックして、エステン氏に資料を返した。エステン氏はびっくりして、丸眼鏡を上げようとしてずり下げてしまった。
「ドリアン、きみときたら、いけない子だよ、まったく」
話を聞いたエステン氏は思わず、八歳か十歳くらいのドリアン坊やに云うように、そう云った。ドリアン坊やはぺろりと舌を出し、しかられるのが怖いので急いでドアの陰に隠れた。
「これは、あなたに差し上げましょう、エーベルバッハ少佐」
エステン氏は資料を少佐の手に押し戻して、気前よくそう云った。
「気の済むようになさるといい。わたしの休暇もそろそろおしまいだし、残りの期間を、なんら気に病むことなしに楽しく過ごしたいですからな」
伯爵が大急ぎでドアの陰から出てきて、エステン氏に抱きつき、キスと感謝の嵐を浴びせた。エステン氏はやや迷惑そうな、しかしまんざらでもなさそうな苦笑いを浮かべていた。
三人はそれから、ホテルのレストランへ出向いて食事をした。ドリアン坊やがとても腹ぺこでいけないと云い出したからだ。
「安心したらお腹がすいちゃった」
というのが伯爵の云いぶんで、そして少佐はそれももっともだと思った。この数日というもの、少佐は食事をしていたというより、食物を腹につめこんでいた。伯爵もおそらく似たようなものだったに違いない。そうしていざレストランへ行こうとなったとき、今度はドリアン坊やは着替えをすると云って、部屋に駆けこんでいき、三十分も出てこなかった。少佐とエステン氏は礼儀正しく、辛抱強く十分は待った。が、そのあとは辛抱するのをやめて、エステン氏の部屋に入り、静かに祝杯をあげた。もっとも、ことにエステン氏にとって、それを祝杯と呼んでいいものかどうかは微妙なところだった。だが、一種の祝杯には違いなかった。
「わたしは少なくとも自分の一部が、幾分晴れやかになったのを感じますよ」
とエステン氏は云ったからである。
伯爵がようやく着替えを終えてやってきた。彼は目の覚めるような美しい青いブラウスに、バラの花とつたをモチーフとした、ダイヤモンドをたっぷり散りばめたネックレスと、そろいのイヤリングをしていた。金髪をきらめかせた伯爵はまばゆいばかりに美しかった。エステン氏は伯爵を見て思わず目をしばたき、それからゆっくりと微笑した。少佐は眉をつり上げた。伯爵が少佐とエステン氏のあいだに入って、ふたりの肘に腕をかけた。
三人は仲良く連れ立ってぶらぶらレストランに降りていった。伯爵はすっかりいつもの伯爵に戻っていて、とどまるところを知らないおしゃべりで食事の席を盛り上げた。エステン氏はにこにこしながら伯爵の話に相づちを打ち、ゆっくり食事を楽しんだ。覚えの悪い給仕が、またもや伯爵のグラスに二度めの赤ワインを注ごうとしたとき、少佐は今度は堂々と彼を追っぱらった。伯爵はうれしそうに肩をすくめ、小さく笑っていた。
老人とふたりの男は、それからまたも連れだって動物公園へ散策に出かけた。
「われわれの代わり映えのなさときたら、一級品だと思いませんか?」
伯爵はエステン氏に云った。
「ベルリンはとても広いのに、わたしたち、ここに滞在するあいだ、グランドホテルと、動物公園と、その周辺の施設にいくつか顔を出しただけ。ホテルの外のレストランへも行ったけど、たいがいはホテルですませましたね?」
「年をとると、人間、環境の急激な変化を望まないようになるからねえ。年寄りは、静かな完結した秩序を愛するんだよ。実はわたしはベルリンへ遊びに出てきたその日から、ずっと故郷バウツェンをなつかしく思い続けてきたんだ」
伯爵は一瞬面食らったような顔をして、それから声を上げて笑った。
エステン氏はまたも戦勝記念塔へ向かう途中で散歩を断念し、雲を観察する趣味に時間をとることにした。少佐と伯爵は彼よりうんと若かったので、先を続けた。
ふたりは裸の木々のあいだをのんびりと歩いていった。伯爵は上品なベージュのカシミヤのコートに身を包み、気持ちよさそうに金髪を揺らして歩いていた。顔には絶えず微笑が浮かんでおり、ときおり青い目が優しく少佐に向けられた。少佐は数日前に、暗い毛皮のコートに身を包んだ伯爵とふたりでこのあたりを歩いたときのことを思い出していた。ふたりの物理的な距離は、そのときもいまと変わりなかった。彼らはいまと同じように寄り添って歩いていた。が、いまとはまったく違っていた。少佐はいまは、伯爵の身体を確かに感じられた。それが自分の横にあることを、疑いなく、非常な充足と実感を持って感じられた。その実感は絶えず彼をくすぐって、心地よい満足を誘った。
少佐は満足して煙草を取り出した。口にくわえ、箱をしまって、火をつけようとしてまたもライターがないのに気がついた。はっとすると同時に、すっと横から伯爵の手が伸びてきて、少佐の煙草に火をつけた。
「……泥棒」
少佐はにやつきを隠さずに云った。伯爵は実に美しく微笑した。妖しい微笑を浮かべたまま、伯爵は火がついたばかりの煙草を少佐の口から抜き取り、情感たっぷりに音を立ててキスして、煙草を元へ戻した。そうしてまた微笑した。ライターはまだ伯爵の手袋に覆われた手のひらの中にあり、彼はそれを手の中でもてあそんでいた。そうして急に身体の向きを変え、振り返って少佐にからかうような視線を投げてから、逃げ出した。少佐は一瞬あっけにとられ、それからにやついて、追いかけはじめた。
伯爵が本気で逃げ出したなら、誰にも捕まえることなどできはしない。彼は豹のごとき脚を持っているからだ。だがこの場合、伯爵はまったく本気でなかった。彼は慎重に少佐との距離を計算していた。少佐が大股で近寄れば、急に走り去って距離を広げ、少佐の焦燥感を煽ってみたり、少佐があきらめてのんびり歩いて後を追えば、伯爵の歩みもまるで散策を楽しむようにゆったりしたものになった。伯爵は木の陰に入って、くるくると幹の周りを回ってまた出てきたり、脇の小道へそれたり、少佐の手が届きそうな距離まで近寄ってきて、また離れていったりした。少佐はこの遊びを大いに楽しんだ。あるときは伯爵の誘いに乗って本気で走って追いかけたり、また別のときには伯爵の手には乗らずに、関心がなさそうにことさらゆっくり歩いたりもした。唯一の欠点は、ライターがないので次の煙草が吸えないことだった。少佐の煙草はとっくに終わっていた。ふたりは不思議な追いかけっこを続け、ときにもつれあうように、転がりあうようにひとつのかたまりのようになったり、ふいに離れたりしながら、ついに戦勝記念塔までやってきた。
伯爵は塔の入り口前で、首をかしげてかわいく立っていた。少佐は伯爵の少し前で立ち止まって、塔のてっぺんできらめく黄金の勝利の女神を、まぶしげに見やった。女神は相変わらず堂々としていた。それから少佐は伯爵を見やった。伯爵は首を反対にかたむけて、微笑した。それから急に身を翻して、塔の中へ入っていった。少佐もあとを追った。
伯爵が料金を払わずに行ってしまったものだから、少佐は受付でふたりぶんの料金を払うのに多少の時間をとられた。旅行者どもの落書きに汚染された薄汚い壁の先に、展望台へ出るための螺旋階段がある。伯爵は緑がかった手すりに手をかけ、少佐がついてきていることを確かめるように振り返って、軽々と階段を上っていった。少佐は追いかけた。ふたりはぐるぐると上へ連なる階段を上り続けた。上から見たならば、くるくると回りながら上ってゆく伯爵の金髪はさぞ美しいだろうと少佐は思った。ふたりは緩慢な動きの駒のように回っていた。上と下で、ミツバチの旋回のように、じゃれあう子猫たちのように、くるくると回っていた。
展望台に着いた。少佐が外へ出ると、伯爵が正面のフェンスに背中を預けて、微笑を浮かべて待ち受けていた。彼は太陽を背負っていた。彼の金髪が、冬の午後の落ちついた日差しを浴びてきらめき、さんざめいて、少佐を誘った。そのきらめきは、塔のてっぺんに荘厳な様子で立ち続ける女神よりもはるかに美しく、優しく、人間らしく、少佐に訴えかけていた。勝利の女神は微笑んでいた。少佐の勝利の女神、栄光の美神は……男だが……少佐に万感の思いをこめて微笑んでいた。少佐は刹那、圧倒された。その栄光、気高さ、誇り、真摯さ、けなげさ、いろいろなものが、少佐の脳裏をよぎった。女神が意味ありげにまばたきした。少佐は吸い寄せられるように、近づいていった。
彼の青い目が少佐を見つめていた。少佐の灰色がかった緑の目はそれをじっと見返した。伯爵が小さく微笑み、少佐にライターを差し出してきた。少佐はそれを受け取り、ポケットへしまい、それからふと思い出して、あのすずらんのブローチを、クレイグの足元から拾ってきたあのブローチを、ポケットから取り出し、ライターの代わりででもあるかのように、伯爵に手渡した。伯爵はうれしそうに顔を輝かせ、ブローチを受け取って、うっとりと首を傾けた。
少佐はしばらく伯爵の顔を見つめて待った。伯爵がブローチをしまい、十分なほど時間がたってから、少佐は彼の両肩をつかみ、その大気に溶け出すような、けぶるような金髪に、おそるおそる鼻先を触れさせた。それから額に、鼻筋に、鼻先に、遠慮がちに唇で触れた。唇を離すと、目があった。ふたりは抱き合った。そうして、勝利の女神の輝く下で、長いことくちづけを交わしていた。