魂と愛

 

 自分がいつもの厳しさを忘れ、ひどく弛緩しきって、だらけた人間になっているような気がしていた。それは南ドイツの、幾分穏やかな気候のためばかりではなく、ものみな新たにわきおこる春のすばらしい陽気のためばかりでもなかった。
 部屋の隅のソファでは、執事のヒンケルが、背もたれに打ち捨てるようにかけられた美しいティーガウンをそっとつまみ上げ、丁寧に畳んでいた。彼はこの応接室に午後のお茶を運び終えて戻るところだったが、生来の世話好きな性質のために、なにかを見過ごし、あるいは黙って通り過ぎるということができないのであった。そのためいつも、どこにいても、なにかしら仕事を見つけ、それに没頭している。少佐は彼がただぼうっとつっ立っているところを思い浮かべることができない。めったに音を立てず、静かに手先を動かし、なにかを磨いていたり、整えていたりする、そういう姿しか思い浮かべることができない。まめまめしく動く腕や手、かすかな衣ずれの音、この仕事に従事してきた年月を思わせる顔の皺。彼は見慣れた置き物や写真に似ている。その存在がはっきり思い出されることはめったにないが、なければどこか落ちつかない、妙な気持ちがするのだ。
 執事が服を畳み終え、赤子でも抱くように大切に腕に抱えて、部屋を出ていった。少佐は先だって町で手に入れたばかりの新しい煙草に試しに火をつけ、執事の運んできたコーヒーを飲んだ。いつもの味だった。ただ、カップが違っているだけ、そしてそれを口にする部屋が違っているだけだ。実際、少佐にとっては、世界中どこにいようとも、執事がいればそれでいつもと変わらぬ日常を送れるのかもしれない。自分の育ってきた城は好きだが、そこにいなくても、くつろぐすべは知っている。
 この南ドイツの城は、記録によれば十七世紀よりこのかた、エーベルバッハ家の親戚に当たる一族によって受け継がれ、管理されてきたのであるが、いまの当主の代になって、ついに経済上どうにもしようのない困難にぶつかり、少佐とその父親が親戚と根をつめて話し合った結果、エーベルバッハ家が所有することで話はまとまった。とはいえ、エーベルバッハ家だって、周囲が思っているほど金銭的余裕があるわけではない。所有権を移されたところで、いつまでも税金を払い続けていられる保証もなかった。いまのところは黙って転がしてあるが、いずれホテルにするなりなんなり、なにがしかの対応をしなければならないだろう。目下のところ、少佐の父親が頭を悩ませている。少佐は知らないふりをしている。それについては、あえて関わりたくない気持ちが強かった。そのかわりであるかのように、ときどきこうしてやってきては昔の思い出に浸ったりするのだが、いつまでこうしていられるものかはわからない。
 昔はよく、ここで夏の休暇のひとときを過ごした。南の豊かな、恵み深い自然の中で、少佐は親戚の子らと毎日駆け回り、転がり回った。広大な土地には探検する場所が山のようにあった。森や湖、なだらかな丘、小川、近所の農園で飼われている羊や牛や豚、真っ赤で大きな夕日、静かな星空の下の夜。ここへ来ると、少佐は子どものころのことを思い出す。そして不思議と、穏やかな気持ちになる。少佐はそれに、伯爵を引きずりこんでみたかったのかもしれない。その見慣れた景色の中へ、伯爵を置いてみたかったのかもしれない。おそらくいずれは改築されるか、公開されるか、とにかくいまのままではいられないだろう、この思い出のつまった城の中へ。
 長期休暇やたまってゆく休暇を、すっかり消化することはまれだった。少佐だけでなく、少佐の部下もそうだった。エステだの美容院だのバーゲンだので、しょっちゅういなくなるように見えるGですらそうだった。そのため少佐はいつも、人事部の連中からぶうぶう文句を云われていた。おまえのところはそろいもそろって仕事中毒の集まりだ、と揶揄されることもある。それはおそらく、ある程度少佐の責任なのだろう。仕事中毒の上司の下で働く人間が、バカンスだの家族サービスだのとのんきなことを云っていられない、というのはよくわかる話だ。少佐はよくわかっていたが、きちんと改めようとはしてこなかった。昼夜問わず、身体のどこかにいつも仕事の意識がまつわりついている、あるいはいつでも仕事になだれこむことができるような精神状態を保っている、そういう生活が、彼にとっては自然だった。仕事のほかに、打ちこむべきものを持たなかった。自分の仕事や役割や使命というものが、絶えず精神を支配し緊張させている、軍人というのはそういうものだと思ってきた。それはつまり、自分の父親がそういう人間だったということでもある。いつもぴんと張りつめていて、隙がなく、触れたとたんに指先が切れそうだった。クラウス少年はそれをおそれ、そして、ひそかなあこがれを抱いてもいた。
 誕生日を挟んでの長期休暇は、部下たちの話題になったかもしれなかった。でも少佐は、かまわないと思っていた。人間たるもの、自分の生まれた日くらい、好きに過ごす権利があるはずだ……と、これは伯爵が云ったことだ。伯爵の場合は、自分の生まれた日のみならず年がら年中好きにやっているが、それは彼の性格や気質の問題、そして主義主張の問題だった。少佐は、それに感化されつつある自分を感じることがある。仕事をふいにいい加減なところで部下に押しつけてしまったり、やりたくないものをやりたくないとつきかえしたり、そしてそういうことをやっていたほうが、存外世の中はうまく回ることに、いまさらのように改めて気がついたりもした。
 応接間のドアが開いた。美しい青のガウンをまとった伯爵があらわれた。彼の輝くような金髪は、どんな色の服にもよく映えて、彼の周りに、なにか神秘的な調和を描き出すように見える。それはたとえば伯爵の好む画家たちが、命がけでキャンバスに描こうとしたものであるのかもしれなかった。
 伯爵はいつもそうするように、部屋に入ってくるなり、これでお気に召すだろうかというような、茶目っ気とかすかな媚態を含んだ視線を少佐に投げかけた。少佐はソファに大いばりで座ったまま、新しくお召し替えをした伯爵を上から下まで、遠慮なく眺めた。伯爵はまだどこか、午後のうるわしい眠りのなごりを、身体にまとっているように思われた。少佐は彼の横で一緒になって、少しのあいだまどろんだのだった。ベッドでの昼寝の習慣のなかった少佐にとって、それはなかなかに大きな変化ではあった。でも仕方がない。普段は昼近くまでぐずぐずベッドの中にいる生活をしているのに、少佐のためにけなげにそれをひるがえしている伯爵に、昼寝の自由くらいは認めなければなるまい。昼間の世界は、彼にはまぶしく、過剰なのだ。彼は夜に捧げられたものだ……ノヴァーリスのことばを借りるならば。
 少佐は伯爵の全身点検を終え、微笑した。上等な絹で織られた青いガウンは、すばらしく彼に似合っていた。いつもそうなのだ。彼の着るものは、いつも彼にぴったりだ。そして少佐の気持ちにもぴったりくる。すっきりした気分のときにはすっきりと、優雅なときには優雅に、少々みだらなときにはみだらに。あるいはそれは、伯爵が誘発するものであるかもしれない。伯爵の気分が、伝わってくるのであるかもしれない。いま、少佐はとてもくつろいで、落ちついた気分だった。そして伯爵は、とてもゆったりした、落ちついた青色のガウンを着ていた。
 衣ずれの音をさせながら、伯爵がソファにやってきて、少佐の横に腰を下ろした。そうして少佐の新しい煙草に顔を近づけ、その匂いをめずらしそうに嗅いだ。伯爵の身体が密着してきた。少佐はそれに腕を回した。伯爵は煙草に近づけていた顔を、少佐の肩の上に置いた。伯爵の身体は、少佐と同じくらい大きいし、やわらかくしっとり、というのとはほど遠かった。でも、少佐にはなんともいえずしっくりきた。腕におさめたときの感じや、抱き合ったときの感じに、云いようもなくぴったりくるものがあった。それにともなって小波のように揺れ動く、なにか微細な感情とともに、ひどく心地よく感じられた。
 執事が伯爵のために運んできた紅茶は、蜜のような甘くすばらしい香りがした。伯爵はうっとりした顔でそれを楽しみ、少佐はその伯爵を楽しんだ。彼はいつも美しい。どんな表情のときにも、どんな仕草をしているときにも。全身に官能的な、熟れたような空気がまつわりつき、それが刺激されて波立ち、引いてゆく、その変化を、少佐はぬかりなくとらえ、味わう。ときどきは、少佐自らがそれを引き起こす。
 お茶のあと、散歩に出た。裏門を出てしばらくぶらぶら行くと、木が鬱蒼と生い茂る森に出る。どこかひんやりとした森の、清らかに香りたつすがすがしい空気を感じながら、なおもぶらぶら行くと、小さな泉がある。そこまできたら休憩だ。伯爵は気が向くと、ナルキッソスごっこをする。あたりの花を摘んで花冠を作り、金髪の上に乗せたら、泉のかたわらに寝そべって、水面に自らの顔を映し、微笑する。少佐はそれを見て楽しむ。たぶん、実際のナルキッソスだってこう美しくはなかっただろう、と思いながら。夢を見るような目と、バラ色の唇、割るとザクロのように赤く、甘い。りりしく愛らしい鼻、熟れたような顔立ち。伯爵はしばらくすると静かに起きあがり、美しい足をさらして、泉の水に浸す。少佐は彼のかわいらしいかかとや足の甲や指先に見とれる。伯爵はそのまま気持ちよさそうにばしゃばしゃしたり、ふいに立ち上がって、手近な花を摘み、少佐の胸ポケットにいくつか差したりする。少佐はなにか幻を見ているような心地がする。伯爵の楽しげな、優雅な動き、ささやき声、揺れる巻き毛、その存在がなにか淡い輝きに、包まれている。こうして戯れているときの彼からは、まだ青春の香りがする。青く、すがすがしく、夢見がちな。たまらなくなり、とらえようとすると、彼は笑いながらさっと逃げてゆく。そうすると、躍動的な追いかけっこがはじまる。逃げ足の早い彼に追いつくのは本来、容易ではない。でも伯爵はしまいには必ず捕まることになっている。少佐が彼を腕の中へおさめると、その身体は熱を帯びて、少し汗ばんでいる。草いきれのようなその湿った香りを、少佐は深く吸いこむ。笑い声があがると、どこかで鳥が驚いたように飛び去る。そして静けさがあたりを支配する。ばかなことをやっているふたりの人間が、存分にうっとりできるように。
 伯爵はこの日、執事におみやげとして小さな花束を持ち帰った。伯爵の頭には花冠が乗ったままで、少佐の胸ポケットにはかわいらしい花が飾られていた。執事はそれを見て、ほんの少し微笑を浮かべたが、すぐに元へ戻した。伯爵は花束の中からいくつか花を抜き取り、執事の胸ポケットへ差した。執事はうやうやしく礼を云い、お食事のお時間はいかがいたしますか、と訊いてきた。

 

 彼らは毎日そんなことをして遊んでいた。これというなにかをするわけでもなく、思いつくままに思いついたことをした。大概、なにかを思いつくのは伯爵だった。少佐はそれに従い、そして、伯爵のように決まりや規則を嫌う、だらけた人間になっていた。
 執事が、書斎にしまわれていたというアルバムを出してきた。なつかしい写真が貼られていた。貫禄があって厳しい顔つきの祖父や、その息子や、そのさらに息子、それに娘……少佐が一緒に遊んだ連中だ……そして、かつての少佐やその父親。一族総出でサロンに並んで撮ったもの、遊び回る子どもたちだけを写したもの、しかつめらしい顔をした年寄りたちを撮ったもの……そのほとんどが、もうすでに亡くなっている……アルバムをめくりながら、少佐は柄にもなくなつかしい気持ちが去来するのを止めることができなかった。ここで休暇のひとときを過ごした、そのときの記憶が、においが、感情が、よみがえってくるかのようだった。皆でピクニックに出かけたこと、湖に落ちて風邪を引いたこと、親戚の男の子といっしょに水疱瘡になったこと、その当時この城で働いていた若いメイドに、ほのかに抱いていた恋心のこと……少佐は写真の人物をひとりひとり伯爵に説明し、執事はそれを助けた。ややこしい親戚関係の説明にかけては、執事の右に出るものはなかった。彼は、エーベルバッハ家の家系図をそらで覚えていた。
 伯爵は熱心に聞き、写真の中のまだ若い、男盛りの少佐の父親や、厳しく精悍な顔つきをした、青春のさなかにいるクラウス少年に、あたたかい、慈しみのこもったまなざしを向けた。
「君は、こんなふうだったんだね」
 伯爵は写真を指でなでながら、しんみりと云った。
「若いころの君は……」
 そうして伯爵はどこか寂しげな、蔭のある、愛情のこもった視線をよこした。若いころの自分。少佐は彼のことばを心の中で反芻した。青春のころ、まだ世界が燃えていたころ、まだほとんど夢の中にいたころ、美しく、俊敏で、張りつめて、炎のようだったころ。……ああ、と少佐は思った。世界が燃えていたころ、その心も同じように燃えていただろうか。青春は、振り返るに輝かしく、けれどもどこか一点のしみのような、汚辱の感じを持っている。フットボールに明け暮れた学生時代、軍隊生活、情報部での日々、そしていま。自分から、若さは失われた。この写真の日々のような若さは。けれども、しかし……。
「君はすてきだよ」
 伯爵はふいにうっとりした顔で、ささやき声で云った。
「とっても、すてきだよ……」
 そうして目を閉じ、少佐の胸にもたれかかってきた。執事がアルバムを閉じて、そっと持ち去った。

 

 伯爵がベッドの上に放り投げていった本を、少佐は手に取った。イギリスの古い詩人が書く、エロースとプシューケーについての物語だった。少佐はその愚かしくも美しい愛の物語を、興味からではなく教養として知っていた。伯爵は文学や芸術との、そういう冷めた関わり方を嫌い、ふたりはそのことでときどき云いあいになった。伯爵はあらゆる芸術作品が内包している精神を、自分の血肉の一部としてとらえているタイプだった。そして少佐は、そういうものに対してひどく鈍いほうだった。衝突は必須だったが、ふたりともそれを悪いこととは思っていなかった。議論の最中の伯爵は情熱的で、美しかった。彼はなんとか少佐にひとつの絵画の、文学作品の、戯曲の最奥をわからせようと、いろいろと心を尽くした。
「たとえばね」と彼は熱っぽい目をしてはじめるのだった。
「あらゆる作品がそのうちに隠し持っている神秘は、自分の引き出しにあるものと結びついてはじめて体験され、あらわになる。少なくともわたしはそう思う。ひとつの作品の中には人間の体験するあらゆる感情が、あらゆる瞬間があるんだ。愛を、悲しみを、慈しみを、苦悩を、よりたくさん経験し知っている人間は、それだけ他人のそうしたものを豊かに、わがことのように味わうことができるわけ。そしてわたしの考えではだよ、君は引き出しがいっぱいあるのに、開けるのが面倒で、ほっといてるんだ! わたしは君にそれを開閉してほしい。少なくとも、わたしの前では。そしてそれは結局、君が誰かの絵を見たとき、誰かの作品を読んだとき、打ち震えるようななにかを、感じるようになるのと同じことなんだ」
 そして伯爵はそのもっとも深いところにある秘密を、少佐に告げた。それは多くの場合、ことばによらなかった。彼の身振り、親密な空気、微笑、そしてその肉体で、彼は告げた。あらゆるものの奥に眠っている秘密を、神秘を、目覚めさせるものがなんであるかを。彼は少佐にそれをそそぎこみ、満たした。それからそっと、少佐の注意を一枚の絵や、一遍の戯曲に向けた。おかげで少佐は一時期、どんな絵を見ても、そこにいる美しい人物に伯爵を重ねてしまう病を患った。聖母の微笑や、乙女のはじらいがちな笑みや、若い男の鋭く引き締まった決意の表情や、物憂げな顔、あらゆるものに、彼は伯爵の断片を見て取った。そして、その美しさをおぼろげに理解しはじめたのだ。同じように、彼は恋人たちのドラマを見聞きするたび、登場人物のいずれかに伯爵を投影する病を経て、作者が云わんとしていることを、伝えようとしている感情を、ぼんやりと理解しはじめた。
 少佐は本のあいだに挟まれていた栞を取って、読みはじめた。この愛と魂についての寓話を、彼は数日前から伯爵に隠れて盗み読みしていた。伯爵は少佐が風呂に入っているあいだに、そして少佐は伯爵が風呂に入っているあいだに、ページを進めた。ふたりの読み進める速度はだいたい同じくらいで、残りのページはあとわずかだった。たぶん、少佐が最初にそれを読みはじめたのは、退屈しのぎだったかもしれない。あるいは、もしかしたら、その本のことで伯爵をちょっとからかってやるためだったのかもしれない。
 ある国の王の娘として生まれたプシューケーは、あまりにも美しかったので、美の女神アプロディーテーの怒りと嫉妬を買い、散々な目にあうのだが、愛の神エロースに愛され、それゆえにまたさまざまな誘惑や困難に遭いつつも、最終的には彼と結ばれ、不死の生命を得て神々の仲間入りを果たすのだ。詩人はリズミカルな、美しい英語で物語を書き綴っている。それを読みながら、少佐の中にもさまざまな感情が揺らめきたって、消えてゆく。魂は多くの試練を経て、ついに愛のもとへたどりつく。少佐は、いまならばわかるのだ。それがなにを意味するのか、そしてなぜひとは、ひとつの作品に心を揺さぶられるのか…………
 寝室のドアが開き、伯爵が入ってきた。少佐は本をベッドの上に戻した。伯爵は白いナイトガウンをまとって、左手に燭台を持ち、しずしずとベッドに向かってやってきた。天蓋から垂れ下がった薄い布ごしに、少佐は伯爵を見やった。そのため、伯爵は神秘的なベールに覆われた花嫁かなにかみたいに見えた。蝋燭の明かりがゆらゆらと揺れた。少佐は垂れ下がった布をかきわけて、伯爵を迎え入れた。彼は衣ずれの音をさせながら、静かに入ってきて、ベッドに腰を下ろした。
 ふたりはひとこともしゃべらずに、長いあいだ黙って寄り添っていた。伯爵は感傷的な気持ちに浸っているらしかった。少佐もまた、なぜかそのような気持ちだった。昼間見た写真のせいだったろうか? それから静かに口づけ、身につけているものを取り去って、お互いの身体に口づけあい、触れあった。少佐が伯爵の長い首の筋や喉仏に口づけ、唇でなぞると、伯爵がお返しに少佐の首に口づけ喉仏に軽く噛みつくというように。今日は、そのような夜だった。つまり、挿入するとかなんとかいうややこしい手続きを踏まずに、優しくお互いの身体に触れあうことで、高まり、感じあい、極まってゆく夜だった。指で、手のひらで、唇で、あるいは頬で、ありとあらゆる場所で、お互いのありとあらゆる場所の感じを、探り、記憶し、慈しむ夜だった。ふたりは微笑と、湿った呼吸と、ささやきと、シーツがこすれる音の中で、生ぬるく、穏やかな快楽の中に身を横たえた。
「ひとつ云わせて」
 伯爵が、彼の美しい脚に唇を寄せていた少佐の動きを制するように、黒髪に手を置いて云った。少佐は顔を上げた。
「時計を見て」
 少佐は云われたとおりに、サイドボードの上の時計を見た。十二時ぴったりだった。少佐は日付が変わったこと、そして、自分の誕生日が訪れたことを知った。伯爵は柔らかく微笑んで、おめでとうを云った。少佐は肩をすくめた。
「愛してるよ」
 伯爵はささやいた。
「君に会えてよかった」
 そうしてふたたび、目の前の行為に没頭するために、目を閉じた。

 

 その日の朝食では、少佐はあらゆる労働を禁じられた。安息日のユダヤ人のように厳格に禁じられた。自分の食事のフォークを口に運ぶことさえも許されなかった。そういうことは皆、伯爵が引き受けた。彼は少佐のためにスプーンを運び、フォークを運び、パンをちぎって運んだ。カップさえも彼が運んだ。少佐はただ赤子のように口を開いて、待ち受けるだけだった。少佐の文句は聞き入れられなかった。伯爵はおっかない女主人のように、少佐のすべてを取り仕切った。執事のコンラート・ヒンケルは、その様子を見てあやうく笑いをこらえきれずに吹き出すところだったが、なんとかそれをおさめ、平然としていた。
「さて、では誕生日のエーベルバッハ少佐、君は今日一日、わたしとなにがしたい?」
 朝食が終わると、伯爵は腰に手を当て、なにかおごそかに宣言するように、しかしはつらつとして、云った。少佐は首を傾けた。そうして口を開きかけたが、伯爵に先回りされてしまった。
「セックス以外で」
 執事のヒンケルが、片づけていたフォークを取り落とす音がした。続いて、申し訳ございません、という謝罪の声(かわいそうな執事!)。少佐は肩をすくめ、そういうのは伯爵が考えることではないのか、という考えを述べた。伯爵は眉をつり上げて「ふーん」と鼻を鳴らした。
「君はそういう考えなんだね? 聞いた? コンラート。だから云ったんだよ。クラウスは、普段はてこでも手綱を握ってはなさないくせに、こういう肝心なことは丸投げする主義なんだ。わたしの苦労、わかってよ!」
 執事が、僭越ながら、わかるような気がいたします、伯爵さま、と云った。彼の頬はまだ少し赤かった。
 正確に云えば、少佐は誕生日だからといって特別なことをなにもしたくなかった。記念日という概念は、彼にとっては無用のものだった。少佐はいついかなるときも、あくまで慣れ親しんだ規律を、普段の習慣を愛した。彼は変化に乏しい、とりたてて特別なもののない日常を恩寵のように愛していた。任務に忙殺される日々が、そういうものへの愛を高めていたのだ。少佐はいつのころからか日常を、つかの間与えられる、貴重な安息のように感じていた。そして規則正しい寝起きや、執事の静かな足音や、城の修理や、使用人たちの動き回る気配といったものの中へ沈潜することを愛した。煙草の煙と新聞に囲まれた、もの静かな時間を愛した。そしてその時間の中へ、その空間の中へ、伯爵を引き入れることを愛していたのだ。
 伯爵はすねたようなことを云いながらも、少佐のそういう考えを、そういった慈しみを、ほんとうは理解しているのだ。少佐はそれを感じている。そして騒々しくて刺激たっぷりの伯爵が、ほんとうは静けさと安らぎの中へ深く入りこんでゆくタイプの人間であることを知っている。彼のきらびやかな見た目と、尽きることのないおしゃべりとのあいだへ分け入ってゆくと、そこには透明な静けさが、穏やかな景色があるのだ。少佐はそこで目を閉じ、身体の力を抜いて、休息する。その場所こそが実在であり、世界であり、真実だ。あらゆる美しさの源泉、あらゆる感受性の源、すべてのものが、わき起こりあふれ出てくるところ。
 ふたりは一日、とりたてて特別なことはなにもしなかった。伯爵は朝からすばらしい服と宝石を身につけて、少佐の目を楽しませた。鳥のように軽やかなおしゃべりで、少佐の耳を満たした。少佐はそういったものにくるまれながら、いつものように新聞を読み、煙草を吸い、伯爵とともに散歩に出かけた。この日ふたりは森とは反対のほうへ足を向け、町まで出た。少佐はこの町のどこにどんな店があるか、どこに広場があり、噴水があり、墓地があるか、よく知っていた。少佐は子どものころから親しんだ風景を、伯爵に見せた。よくお菓子を買った店、仕立屋、いつも軒先にベーコンの巨大な塊をぶら下げている肉屋、みずみずしい果物が並ぶ店、少佐の父親が通った、退役軍人の常連がいる小さなカフェバー。
 ふたりはそこで休んだ。退役軍人はいまもいた。カウンター席で小さなグラスを目の前に置き、ちびちびと舐めながら、ぼんやりとパイプをふかしていた。年老いて、白髪を生やし、背中が丸くなってきていたが、目にやどる一筋の光の鋭さは相変わらずだった。それはどこか、少佐の父親の目に似ていた。
 少佐は彼に話しかけなかった。話しかけてもわかってもらえるかどうか、わからなかった。少佐とその父親が習慣としてこの地方を訪れるのをやめてから、すでに十年以上の歳月が流れていた。そのあいだに、あまりにもいろいろなものが過ぎ去り、また新しくはじまった。いまでは、クラウス少年はエーベルバッハ少佐であり、傍らにいるのはかつて夢見たような美しい、聖母のような女ではなかった。おとなになりはしたが、結婚しておらず、自分の子どももなかった。
 頼んだ飲み物が運ばれてきた。太った気のいい店主も年をとっていた。彼もまた、エーベルバッハ少佐が誰であるか気がつかなかった。そしてその向かいにいるあまりにも美しい、あまりにも鮮やかな男を、なにかまぶしげな目でしばらく見つめていた。
 ふたりは黙って見つめあった。伯爵の口元に、優しい、気遣わしげな微笑が浮かんでいた。少佐は声に出さず、ただ唇を、愛をささやくときのように動かした。伯爵はなにかを含むような笑みを浮かべ、そっと視線を飲み物のカップへ移した。
 雨がぱらつきだした。ふたりは濡れて帰った。伯爵の巻き毛がしっとりと湿気を含んで、ゆるやかな螺旋を描いて彼の、雪のように白く美しい頬に、額に、そして肩に落ちた。
「君、ここ数日、わたしの本を盗み読みしてるね?」
 伯爵はからかうような調子を含んだ声で云った。
「黙っていたってわかるんだよ、白状したまえ」
 少佐は胸に手を当て、軍事裁判にかけられた人間のように白状した。伯爵は笑った。彼の笑いにあわせて、その顔のまわりで細かな水滴が踊った。
「読み終えた? じゃあ、感想を聞かせて」
 伯爵の手が媚びるように、甘えるように少佐の手にからまってきた。少佐は彼のしなやかな指を、手のひらを、優しく握り返した。そうして云った。エロース、つまり愛と、プシューケー、すなわち魂とが真に結びつくことの困難を。言外に、その喜びをにじませて。それは、少佐自身の話でもあった。少佐のみならず、あらゆる人間の物語でもあった。
 伯爵は半ば目を閉じ、少佐の肩に頬を預け、うっとりと聞き入った。うるわしい音楽でも聴いているかのように。
 自分はようやく、ほんとに目覚めたのだ、と少佐は思った。伯爵の美しい赤みの差す頬を、ザクロのような口を、鮮やかな目の意志を、差しこむ光のひと筋のような金の巻き毛を、俊敏な指を、怜悧な足の丸みを、彼のすべてを通して、あらゆるものの背後にある秘密を、知りはじめたのだ。それは喜びであり、安らぎであり、平和であり、神聖さであり、これまで信じてきたあらゆるものの、終わりであった。
 愛の営みを、この地上を満たすものを、その喜びを、少佐はこれまで、こんな歳になるまで、なにひとつ知らなかった。だがまだ、遅くはない。ほんとうの人生をはじめるのに、遅すぎるということはない。
 屋敷の入り口で、少佐は立ち止まった。雨はあがっていた。少佐は後ろを振り返り、自分の歩いてきた道のりを見やった。まだ空気の中に滞留する細かな雨の彼方に、町並みがかすんでいた。少佐は微笑した。ふいに自信を持ち、なにか穏やかな達成感に、満たされたからである。
 伯爵を見ると、優しく微笑していた。少佐は細かな水滴に濡れた彼の顎を掴み、彼の顔をのぞきこんだ。伯爵はゆっくりとまばたきをした。まつげが、蝶の羽のようにまたたいた。その奥に潜む目は、からかうような、温かい光に満ちていた。少佐はぎこちなく彼に口づけた。はじめてそうしたときのように。彼との口づけは、いつもはじめてのときのようだ。驚きと喜びに満ちて、新鮮で、そして神聖である。伯爵は乾いた地面が水を吸いこむように、少佐の口づけを受け取り、引きこんだ。少佐は長い時間、彼の引力の中にとどまった。

 

 風呂に入り、少佐は正装をした。伯爵がそのようにせまったからである。執事までもが正装をして、いかめしく食堂に控えていた。彼の目は、茶目っ気と、仕事に対する誇りにあふれていた。執事の誇りももっともだった。しみひとつない美しいテーブルクロスの上に、年代ものの銀の燭台や、鮮やかなバラの生けられた花瓶が並んでいる。ほのかな黄味をおびた蝋燭は、優しく淡い明かりであたりを満たしていた。赤いバラはその明かりに照らされて、舞台に出ておじぎをするひとのように、ちょっと首をかしげていた。食堂の中は完璧に一変し、これからはじまる食事が愛に満ちた、神聖なものであることを主張していた。
 伯爵が来るまで、しばらく待たされた。伯爵は宝石で飾られた美しいノースリーブの上に、シースルーのブラウスを羽織って現れた。雨に濡れてぺしゃんこになっていた巻き毛は、丁寧にブローされてつややかに蘇り、指も耳も、美しい宝石で飾られていた。少佐は伯爵がもじもじしだすくらい、長いことその姿に目を奪われていた。執事が食前酒からはじまる、フルコースの給仕を開始した。料理人は今夜は特別腕によりをかけたらしかった。ろうそくの明かりががゆらめく食堂は神秘的で、静かな暖かさに満ちていた。テーブルに飾られたバラは、誇らしげに匂いたっていた。料理人が時間をかけて作った料理は、すばらしいのひとことだったし、それを口に運ぶ伯爵の振る舞いもとても優雅だった。彼の目はときどきからかうように、少佐の上に優しく注がれた。そのすべてが、少佐に祝福を与えていた。
 食事のあと、執事がおずおずと少佐に、きれいな紙にくるまれた煙草を差し出してきた。少佐は礼を云い、さっそくそれを吸った。伯爵はネクタイピンという、彼にしては実用的な贈り物を差し出してきた。細長い箱につめあわされたそれを、少佐は日替わりでつけることを約束させられた。それは執事にもきつく申し渡され、彼は毎日出勤前の主人のネクタイピンの具合を確認し、違反があれば報告する任務を云いつけられた。執事はおごそかに、その役目を引き受けた。彼はちょっと、涙ぐんでいた。

 

 長く尾を引く、ゆるやかな快楽を伯爵に与え続けながら、そして自身もその中へ浸りながら、少佐は伯爵の真っ白な耳の中へ、いろいろなことばを吹きこんだ。それは先に伯爵が彼に向かってささやいた大変情熱的な、大変美しいことばの数々に対する返礼の意味もあった。ささやきながら、そしてそれにほころぶ伯爵の顔を見ながら、少佐は自分の中に絶え間なく湧きあふれるものを、あの森の中の美しい、澄んだ泉のような透明なたゆたいを、それが自分のことばとともに自分のうちへも響いてきて、こだまするのを感じていた。少佐はほんとうに、彼と出会ったことが、自分の人生における最大の幸運だと思っていた。少佐はほんとうに、彼と出会ってはじめて自分は目覚め、ほんとうの人生がはじまったのだと思った。自分の干からびた魂の中に、愛の息吹を、躍動を、この世界の秘密を、そしてそれを飛び越えるために必要なものを、彼が、もたらしたのだ。辛抱強く、優しく。
 伯爵は微笑し、長い腕で少佐をつつんだ。少佐は目を閉じ、沈んだ。そこでまどろみ、また生まれてくるために。

 

 久々に出勤すると、少佐の机の上には、大小さまざまのプレゼントの箱が山積みになっていた。部下たちは、自分たちをさしおいて長いこと留守にいていた少佐に意地悪して、それについて誰もひとことも云わなかった。おしゃべりな部長でさえ口をつぐんでいた。
 その日から、少佐のネスカフェゴールドブレンドをすくうスプーンは新しくなり、カップが新調され、安くさいプラスチックのゴミ箱は黒いハイセンスなものに変わり、さまざまな書類を壁にとめておくマグネットはイノシシの形をした、ひどく愛らしいものになった。少佐の身の回りは天変地異でも起こったかのようにおしなべて新しくぴかぴかになり、そしてこれは少数の部下だけが気がついたことだが、少佐のネクタイピンは純銀や純金の、優雅な美しいものになった。そして少佐自身はというとなにひとつ変わらずに、部下に怒鳴り散らし、無理難題をふっかけ、部長とやり合い、皆におそれられた。
 ボンの春が、そうしていつものように過ぎていった。

 

少佐お誕生日おめでとうございます!

 

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