Fathers and sons, the present and the past

 

 飯を食ってくる、という理由をつけて外へ出た。会議室は息苦しく、ホワイトホールはどこかものものしかった。イギリス人は相当に礼儀正しい民族だと思うが、慇懃というのも考えものだ。なにを考えているのかまるでわからない。大親友になってもまだ名字で呼び合うような、そういうつきあい方、いかに心を開いても、奥底には相手に対する敬意を交えた遠慮が残っている、そういう少しよそよそしい、窮屈な感じ。上流階級は特にそうだ。伯爵もはじめはそうだった。彼にドイツ語でduを使うのを認めさせるのは骨が折れた。いまでは笑い話だ。当時は必死だったが……彼に、口づけたいばっかりに。
 庁舎を出て、電話を一本入れた。ボンではAが生真面目な顔つきで少佐代理をやっているはずだった。部下どもは、そういうときのAをからかいと親しみをこめてチビ少佐と呼んでいる。チビ少佐に報告。チビ少佐の指示待ち。チビ少佐が怒るぞ! でも、チビ少佐はエーベルバッハ少佐ほどおそれられてはいない。Aは元来気だての優しいやつだからだ。慕われるが、怖がられることはめったにない。少佐はチビ少佐に、山のような指示を出す。チビ少佐はそれを一回でなにからなにまで頭にたたきこむ。メモなしに。
 電話を終え、タクシーを拾い、別の電話を取り出して、またかける。携帯電話がふたつ。少し不便だ。でも、仕方ない。
「起きたか、坊主。なに? 蜂蜜の瓶の蓋? 知らんぞ、おまえが開けたんだろう。ああー、そのちっこい指輪は、たぶんソファの下に転がっとる。ホテルのやつに掃除のときに……ああ、わかったわかった、あとで見てやる。ところで、昼飯食えるところ知らんか。ああ、そうだ、ロンドンで異邦人やっとる……いや、カミュは読んだぞ。自慢じゃないが。わけがわからんかった。ん? いや、別に急ぎじゃない。二、三時間ボイコットしてやろうと思っとるんだ」
 電話の向こうで、クローゼットを開き、ばたばたと忙しく駆け回る音がする。すぐ行くよ、クラウス、ほんとにすぐだよ、伯爵さまただいままいります! 急ぐから男のままだからね。まあどっちみち、どっちつかずだけど、わたしって。よく云われる、君、どっち? どっちだと思う? ってにっこり笑って答えるんだけど、最近そういうことしてないな! すっかりお遊びから縁遠くなっちゃった。残念無念、学生のときちゃんと遊んどいてよかった、だって、人間誰しもほんとの恋をすると貞節なつつましい人間にならざるを得ないから。ねえ、ブレスレットが見あたらない! タオルの上? それ、ほんとう? あった! ありがとう、ミスターエスパー。君、今日エレガントなわたしと、いい子なわたしと、ちょっと危険なわたしと、どれが見たい? どれでもいい、はなしだよ。それ、男がする中で最低最悪の答えだ。セクシーなのは昨日でちょっと酔っちゃったかな。じゃあ、つつましやかに行くよ。まだ昼だしね。ほんとにすぐ出るってば。いまズボンを履いてるんだから……もたついてるのは君が電話を切らないからだよ、もう! バイ。
 そのとき、少佐はもうホテルのほとんど目の前までやってきていた。タクシーを降り、料金を払って、中へ入っていった。部屋まで行くと、伯爵さまが機嫌を損ねそうだった。もう来ちゃったの? わたしが遅いって云いたいんだろ……でも、猛烈な勢いで身支度する伯爵さまを見たいような気もした。悩ましい問題だ。
 少佐はロビーの、わざと奥まったところにあるソファに腰を下ろして待った。しばらくして、目の覚めるような金髪がロビーにあらわれた。袖にスリットが入ってひらひらしているカットソーはオフホワイトで、襟とフリルとボタンがいささか挑発的な黒だった。それに、黒のズボンとロングブーツ。小脇には灰色のファーのコート。おやおや、ほんとにつつましやかにまとめたようだ。フロントに立っていた中年の男が伯爵を見て親しげに声をかけた。ロンドンの一流どころでは、伯爵はみんなに知られている。誰もが彼に笑みを向け、なにかと気にかけ、世話を焼く。そこには彼の属する世界、彼が慣れ親しんだひとつの秩序がある。少佐はそれを、興味深く見つめる。彼はどんなところで時間を過ごしてきたのか? どんな人間に囲まれて生きてきたのか。伯爵は男に早口になにか云って、電話をかけながら外へ出ていった。男は微笑んで伯爵を見送った。そして少佐もにやつきながら見送った。少佐の電話が震えた。
「クラウス? いまホテルを出たけど、君どこ?」
「ホテルの中」
 少佐は笑いをこらえて云った。伯爵がぶつぶつ云いながら戻ってきた。ロビーをきょろきょろ見回し、君、ほんとにいる? と鋭い声を上げた。少佐はまだ少し彼をじらしていたかった。いるぞ、よく探せ。伯爵が唇をとんがらかした。君ってほんと、いつもそうなんだ。ひとがこんなに急いでやったのに! サディスト! 少佐はとても満足して、ようやく立ち上がった。伯爵はすぐに気がついた。顔が怒っていた。唇が大きくつき出している。少佐は笑い出したかった。
「君、殺しちゃうぞ!」
 伯爵は云った。少佐はどうかお慈悲を、と云い、両手を挙げた。伯爵は目を細め、むー、と吟味するようにうなった。細められた目元、突き出された肉感的な唇が、どことなく卑猥だった。こんなことを考えていると知れたらまた怒られる。さきほどの中年従業員が、この光景を見て笑いをこらえていた。
「慈悲をかけるかどうかは、君の提案による」
 伯爵さま(劇中によくいるタイプの、美しき若き領主)は顎をこころもち持ち上げ、尊大に云った。罪人エーベルバッハ(悪事を重ねてはきたが根はそれほどの悪人ではない、機転が利きそれで数々の窮地を脱してきた)はしばし考えこんだ。
「では、わたくしめの自由時間を少々延長するというのはいかがでございますか」
 伯爵さまはわざとにことさら渋い顔をし、また吟味するように「むー」とうなった。
「よろしい。では、わたしを連れ出したまえ」
 罪人Eはうやうやしく頭を下げた。いまいましい庁舎へは、夕方まで戻らないことに決めていた。
「ロネッティの車を呼んでおりますよ、伯爵さま」
 この寸劇を見学していた中年従業員が云った。伯爵の顔が輝いた。
「ほんと? 彼に挨拶しなくちゃってずっと思ってたんだ、だってここ二、三ヶ月、一度も見てないんだもの。ありがとう!」
 そうして、少佐を置いて駈け出した。少佐は肩をすくめた。中年従業員は苦笑していた。少佐も笑うしかなかった。
 ホテルを出ると、伯爵が目の前に停まっていたタクシーの運転手をやや熱烈に抱擁していた。運転手は初老の、でっぷり太った、浅黒い肌をした陽気な顔つきの男だった。
「お元気そうですね、坊ちゃま」
 男の英語には少し訛りがあった。
「君もね、ロネッティ」
「とんでもない」
 男は首を振った。
「もうすっかり年寄りになりました。この仕事もあと何年もつかってとこでしょうよ」
「無理しちゃダメだよ。だいたい、働く必要なんてないんだからね。そのために、恩給ってものがあるんだから」
 運転手は苦笑して頭を掻いた。伯爵が少佐に気がついて男から身体を離した。男も陽気に笑って、少佐に帽子を持ち上げて挨拶した。
「彼はロネッティ。昔、うちの運転手をしてた。父が亡くなるまで。ロンドンの道のことなら、誰よりよく知ってる」
 伯爵は楽しそうに少佐に運転手を紹介した。ふたりは握手を交わし、タクシーに乗りこんだ。
「まるっと四十八年、運転してますからね。そりゃあ詳しくもなりますよ。坊ちゃまのお父上がまだこんなちっちゃい坊っちゃんだったころからお乗せしてるんで。今日はどちらへ行かれます?」
「ウォーロックの店まで」
 伯爵は楽しそうに云った。ロネッティは景気よくクラクションを鳴らし、車を出した。
「知り合いの店なんだ」
 伯爵は微笑んで、云った。
「オーナーが、わたしの祖父と友だちだった。すてきな店だよ。支配人に頼むと、わたしの子どものころの写真を見せてくれる。父と店に行くたびに写真撮影。オーナーがそれを見るのを楽しみにしてて。名づけて、ドリアン坊やの変遷。その店に行くのは、いつも父とふたりだけで。月に一度。ふたりとも、毎月とっても楽しみにしてた。その日が来ると、早起きして、軽くご飯を食べて、おしゃれして、出かけるんだ。その日のための服を、事前に用意しておいて。ピカデリーをぶらぶらして、昼過ぎに店へ。ゆっくり食事して、映画や劇を見て、またどこかでちょっと食事して、帰る。すごくおとななことをしてる気分だった。子どものときはね。一度も欠かしたことなかったな、父がベッドから出られなくなるまで。お互いにすごく忙しかったときも、どうしてかわからないけど、必ず一日だけ、ぴったり予定の合う日があったんだ。思い返すと不思議だよ。どうして毎月毎月、暇があったのか」
 伯爵の父親のことは、ほとんど知らない。写真を見たことがあって、顔立ちそのものはあまり似ていないという印象を持ったことがあるくらいだ。平均からすれば整ってはいたが、伯爵のように桁外れの美貌ではなく、男性として常識的な範囲におさまっていた。もしかすると、それは伯爵の父親が、ある程度常識的な範囲の中で行動することを余儀なくされてきたためであるのかもしれなかった。そのひとのまわりに漂う空気やカメラに向けられた微笑、あらゆるものが、どこか抑制されていた。その押し殺した情熱のすべてが、息子に注がれていたのかもしれなかった。話を聞く限り、この親子は互いにほんとうに、相思相愛だった。父は息子を溺愛し、息子は父を尊敬していた。幸福な親子関係だ。お互いにお互いの理解者だった。父はなんでも息子の好きにさせた。そうして、庇えるだけ庇った。息子はそれを感じており父に感謝していた。ひきかえうちは……少佐は考えそうになり、首を振った。いやいや、たぶん、うちだって、幸福な方なのだ。おやじが苦手なのは、嫌いだからではなく、接し方がよくわからないからだ。男にとって父親ほど、居心地が悪くて気まずい存在はない。顔も見たくないほど大嫌いだというなら、まだ話は楽だ。だが、大概の息子は、多かれ少なかれ、父親をどこかで尊敬しているものだ。自覚があろうとなかろうと。また、それがどのような形であらわれようと。それが気まずさの最大の原因だ。
「あのころは楽しかったですね」
 ロネッティが云った。
「ピカデリーまで月に一度、お送りしたもんでした。おふたりとも、朝からそわそわしてらした。おかげであたしもそわそわしてた。夜になると電話がかかってきて……」
「お迎えだよ、ロネッティ!」
「そう、それ! そのことばで、あたしは車に乗って飛び出したもんです。坊ちゃまときたら、帰りの車の中でもしゃべることしゃべること、小さいころは、しゃべりながら寝てましたよ、覚えてらっしゃいますか」
「うん、覚えてる」
 伯爵は目を細めた。
「きっとね、あの一日は、まるごと魔法にかかってたんだと思う。朝から晩まで。わたしはずっと興奮しどおし。いくつになってもそうだった」
 少佐は少し甘ったるい、感傷的なものが漂っている伯爵の顔を見て微笑した。魔法にかかった一日……そういう日が、誰にでもあるものだ。特に子どものころには。少佐はふいにあるできごとを思い出した。なにごとも軍隊式の堅苦しい父親が、なぜかその日、クラウス少年を遊園地へ連れて行った。クラウス少年は実は、そういう騒々しい場所が嫌いだった。クラウス少年の父親も嫌いだった。だが、来てしまったものは仕方がなかった。ふたりは、さながら拷問のような演技を続けていた。楽しむ子どもと、それを楽しむ父親のふり。お互いに、相手がちっとも楽しんでいないことを知っていた。でも、それをやめることができないでいた。半日以上も。ジェットコースター、回転木馬、騒々しい浮ついた音楽、べたべたでちっともおいしくないアイスクリーム。クラウス少年は目眩がした。だが、彼は並外れて我慢強い少年だった。彼はこの一日を、任務のようにとらえていた。やりとげねばならぬ。それは、家族としての平凡さと均衡をとりもどすためのなにかだった。母親が亡くなって以来、エーベルバッハ家はずっとバランスを崩したままだった。なにかが崩れ、失われてしまっていた。母親がいて、父親がいる、男がいて、女がいる。世のひとびとがぼんやりとそこへおさまっているあらゆる「平凡な」もの。その平凡さを、ふたりは見つけ出そうとしていた。手探りで。見つけ出さねばならなかったのだ。クラウス少年は、そういう微妙な問題に対する父親の不器用さを知っていた。なぜなら、クラウス少年もまたおそろしく不器用な少年であったから。お互いの気を張った努力は、午後三時近くになるまで続いた。ふたりとも、くたくただった。うんざりしていた。しかし、お互いにおぞましいほど我慢強かった。その張りつめた耐え難い空気が破れたのは、どこかの間抜けな子どもが、ジュースの入った紙コップを持ったまま走ってきてクラウス少年の父親とまともにぶつかり、中身を思いきりそのスーツにぶちまけてからだった。子どもは泣いた。クラウス少年の父親は怒りを抑え、子どもをなだめた。子どもの母親が飛んできて詫びた。母親! 甘ったるく、過保護な存在。泣きじゃくる子どもを叱りながら、同時に、なにかその奥にあるもので深く抱擁している。男に、あんなふうに甘ったるくするのは間違いだ……だからだ、男のくせに、めそめそしやがって、クソガキ。クラウス少年は泣きたいのは自分だと思った。無性に腹が立った。だがしかし、少年はまことに我慢強かった。その父親も我慢強かった。父親の濡れたズボンを拭くために、ふたりはベンチに腰かけた。
 ……もうやめよう、と父親が云った。こういうのは。これはおれとおまえのやりかたじゃない。
 おれとおまえの、ということばに感じられた、奇妙なアクセント。そのとき、ふいに泣き出したい気持ちになったのはなぜだったのだろう? 悪かったな、坊主。帰ろう。クラウス少年はうなずいた。父親は立ち上がり、クラウス少年に向けて手を差し出した。クラウス少年は、その手を、大きく、無骨な手を、しっかりと握った。クラウス少年は、満ち足りていた。おまえの母さんは、と歩きながら父親が云った。ああいうところで、素直に楽しめるひとだった。おまえの母さんといると、おれも楽しめるような気がした。でも、それはおまえの母さんがいたからだ。クラウス少年は、それがよくわかった。おれとおまえでは、と父親が云った。そうはいかんな。おれたちは、そういうやりかたはできないんだ。クラウス少年はうなずいた。いまや、自分が父親と同等なもの、同列に扱われてもいいものであるような気がしていた。自分と父親がなにかを共有し、その部分で、ほかのなによりも強く結びついていることを感じた。そしてふたりはもう二度と、そのようなばかな一日を過ごすことはしなかった。
 ……あれも、魔法にかかった一日だった。伯爵に云って、わかるだろうか? 少佐は考えた。たぶん、わかるだろう。彼はなんでもわかってしまう。そのときの光景、そのときの感情、そのときの匂い。そのとき、ふたりのあいだに生まれたもの。そういう再生を、ひとはくり返して生きる。たぶん、これを話したら伯爵は泣くだろう。泣いて、かつてのクラウス少年にキスするに違いない。ありったけの愛情をこめて。そしてかつてのクラウス少年、現エーベルバッハ少佐は、なにかが氷解するのを感じる。包まれ、柔らかく昇華されてゆくのを感じる。世界は美しい輝きと優しさと静けさに、満ちあふれている。

 

 陽気なロネッティの運転するタクシーが、灰色の、どっしりと落ちついた建物の前で停まった。降りる前にちょっとしたいざこざがあった。ロネッティは、坊ちゃまからお金を受け取るわけには絶対にいかない、ただでさえ、毎月女房とふたりの生活には多すぎるほどの恩給を頂いているのだし、そもそもタクシー運転手の仕事は、車の運転なしでは生きられない自分の趣味の延長であって、金を稼ぐのが主目的ではない、と主張した。ドリアン坊やは譲らなかった。サービスに対する対価を支払うのは世の原則だよ、ロネッティ。いいえ、いけません、坊ちゃまに口答えしたくはありませんが、あたしゃ絶対に受け取れません。もう、これ以上云うと命令しちゃうよ! 少佐は見かねて、こういうとき妙に義理堅くやたらと頑固な英国人のあいだに割って入った。つまり、ドリアン坊やを車から追い出し、自分の財布から金を出した。しかしロネッティも頑固だった。
「いいや、だめです。坊ちゃまのお友だちからだって受け取れません。そいつはしまってください! それから、失礼を承知でお願いするんですが、もしできたら、あたしがちゃんとあなたからお金を受け取った、と坊ちゃまにお伝えしてくださいませんか?」
 少佐は降参した。こういう問題について義理堅い男をねじ伏せるのは不可能だった。ロネッティは何度も礼を云った。
「お願いついでにもうひとつ、帰りもあたしを呼ぶようにって伝えてくださいませんか。昔、お父上と坊ちゃまはいつもそうしてらした。坊ちゃまはあたしの番号をご存じです。でも、あたしの仕事の邪魔になるってんで、連絡してくださらないんですよ。そういう方なんです」
 少佐は、よくわかるような気がした。微笑して、ロネッティと握手し、車を降りた。
「彼、お金受け取ってくれた?」
 伯爵は九割方信じていない顔つきで云った。
「ごり押ししてやったぞ、感謝しろ」
 少佐は唇を歪めて云った。伯爵は、一応信じたらしかった。彼の中では、エーベルバッハ少佐のごり押しの力を、ロネッティの義理堅さよりも信頼しているらしかった。少佐はとても気分がよかった。
 通りから数段階段を上がると、大きなドアだ。その上部に店名が入れられたぴかぴか光る看板が掲げられている。創業一九〇四年。伝統と格式。その目の前に立つ人間を、ちょっと尻ごみさせるものがある。ドアが内側からゆっくりと開き、きっちりと給仕服を着こんだ中年男が堂々と出現した。伯爵を見て、顔をほころばせ、慇懃に一礼する。
「いらっしゃいませ、伯爵さま」
「ハイ、ヒギンズ。奥さんは元気? そう、よかった! 娘さんの不良彼氏どうなった? 別れた? とうとう? すてきだ! 乾杯しなきゃね! あれはろくな男じゃなかったよ。わたしが云うんだから間違いない。大丈夫、次があるよ。伯爵さまとその他一名、中へ入れていただけますでしょうか?」
 ヒギンズと呼ばれた男はにっこり微笑み、扉を大きく開いた。彼の目の前を通りすぎるとき、男は少佐にも丁寧に頭を下げた。
 店内へ進むと、初老の堂々とした男が待ち構えていた。胸に名入りの小さな金のプレートをつけている。この店の支配人らしかった。
「ハイ、ベッドフォード」
 伯爵は男に微笑みかけ、手を差し出した。男はうやうやしくそれを握った。
「お久しぶりでございます、伯爵さま」
「元気そうでよかったよ。ご無沙汰して悪かったね。それより、ねえ! 君、来年でやめちゃうんだって?」
 ベッドフォードと呼ばれた男は笑いながら親しげに首を振った。
「なにぶん、わたくしももう歳でございまして、伯爵さま。こればかりはどうしようもありません」
 伯爵は唇を尖らせた。
「あーあ! みーんな歳をとっちゃうんだな! わたしのロネッティも、君も、みんな。すごく寂しいよ。当たり前だと思ってた秩序が、どんどん壊されて、別のものになっていくんだからね」
「それが人間社会の現実でございます、伯爵さま。われわれは、そのことに慣れねばなりません」
 伯爵はなんとも云えない顔で肩をすくめ、それからあわてて少佐の肩を掴んだ。
「ごめんごめん、彼、エーベルバッハ少佐。正式名称クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ」
 ベッドフォードは眉をつり上げた。少佐は自分の名前を重苦しく感じることがある。貴族階級であることがすぐに知れてしまうからだ。でもこういうとき……こちらも紛うかたなき貴族である伯爵の属する秩序の中に置かれたとき……そこにいることをたちまち承認され、すぐに溶けこんでいけることは、利点であるのかもしれなかった。少佐とベッドフォードは握手を交わし、三人は連れ立って、大きな窓から光が差しこむ明るく清潔な店内を横切って、衝立で仕切られた、奥まったところにある席についた。若いウェイターがやってきて、伯爵と少佐の前にうやうやしくメニューを差し出した。伯爵はこのウェイターとも知り合いであるらしかった。親しげにことばを交わし、微笑み合う。ウェイターはなかなかの美男子だった。
「オーナーですが、今日はマンチェスターでどうしても外せない商用がありまして。電話の向こうで歯噛みしておりました。おそらくほんとうに大事な用なのでございましょう……伯爵さまのこととなりますと大概は放り投げて駆けつける方なのでございます、エーベルバッハ少佐」
 支配人自ら食事の用意をしながら、おしゃべりは続いた。
「お孫さんのクリケットの試合まで放り出すのですから大したものでございます。たまたま、伯爵さまと先代の伯爵さまのご来店にかち合ってしまったことがございまして」
「それもわたしの十五歳の誕生日のとき」
 ベッドフォードはうなずいた。
「即断でございました。そんな大事なイベントに欠席できるか! と、こうでございます。おかげでそのあとしばらく、祖父孫関係が少しばかりばつの悪いものになってしまいました」
「責任を感じてるよ」
 伯爵が重苦しい表情で云った。
「オーナーの孫のジェラルドって、わたしと歳がふたつ違いなんだ。なにが起きるか想像できるだろう? 自分のおじいちゃんが、よその子どものことを自分より気にかけてるなんて、気分が悪いよ。わたしたち、オックスフォードではじめて顔を合わせたんだ、彼も同じカレッジに所属していてね。忘れられないよ、わたしが入学してすぐだった。君がグローリア伯爵家のドリアンか! って云いながら、わたしを上から下まで眺めて……その、わたしって、ほんのすこしだけ目立ってたからね。彼、ガタイがよくて、ちょっと怖かったよ、ほんと。でもさ、次の瞬間、彼、笑い出したんだ。大笑いして、あーあー、なるほどね、って云って、わたしの肩を叩いたわけ。で、こう云われたんだ。仲良くしよう、って。今度ふたりで、うちのおじいちゃんの誕生日会企画しないか、そしたら喜ぶと思うんだ、って。勝負する領域が全然違うんだって、感じたんだろうね。ジェラルドは間違いなくオーナーの自慢の孫だったんだ、勉強ができて、クリケットの強化選手で、礼儀正しくて紳士的。みんなが好きにならずにいられないような男なんだよ。グローリア伯爵家のドリアンは、美しくて、愛らしくてひとをぽうっとさせるけど、それ以上に強いなにかがあるわけじゃないんだ。そもそも勝負にならないんだよ、肉親と、そうでない人間とのあいだではね。ジェラルドはわたしのことでその優しい胸をひっそり痛め続けていたわけだけど、わかってもらえてよかったと思ってる」
「そのおふたりで企画されたお誕生日会というのが」
 ベッドフォードは苦笑を浮かべていた。
「なんと申しましょうか、たいそう革新的でございましたね」
「劇団をまるまるひとつ呼んだしね。一度やってみたかったんだ。ジェラルドは面食らってたけど……そうだ、ベッドフォード、あとで写真を持ってきてよ。オーナー秘蔵の、ドリアン坊やの成長記録。せっかくだから彼に見せなきゃ」
 それは食事のあとに、さながらデザートのようにうやうやしくベッドフォードの手によって運ばれてきた。分厚い皮のアルバム五冊にわたるドリアン坊やの写真集は、年ごとにしっかりと分類され、写真の下に日付とドリアン坊やの年齢が記入され、細心の注意をはらって扱われていた。一冊目。ドリアン坊やのこの店における歴史は、生後八ヶ月からはじまっている。上等な産着にくるまれ、父親の腕に抱かれているふっくらした赤ん坊は、少しだけある髪の毛がやっぱりくるくるで、目は冴え冴えとした青だった。その目をちょっときょとんとさせて、まっすぐにカメラに向けている。そこにはすでに、現在のドリアン坊やに通じる、弾けるようななにかがあった。子どもを抱いた父親は、静かに微笑していた。いかにも大切そうに息子を抱える父親からは、優しさと知性、それにいくらかの茶目っ気が感じられた。その横に、金髪の母親がいた。髪の毛をきっちり後ろでまとめることで、美しい細面の顔が強調されている。美しいには美しいが、伯爵とはまた別の系統の顔立ちだった。どこか気取った、いくらか高慢な、冷たさを感じさせるものがあった。伯爵が彼女から受け取ったものがなにかあるのだろうか? 少佐は考えてしまった。親子であるにも関わらず、この母親と現在の息子のあいだには、おそるべき断絶があった。まったくの赤の他人よりも、なお深い断絶があった。伯爵の美しさ、その内側に秘めた情熱、愛情、大胆さ、知性、あふれんばかりに放たれているそれらの性質は、どれもこの母親の内側からは生まれ得ないものであるように思われた。それはやはり、ミニチュアの形で父親の側に内包されているものに思われた。控えめな、穏やかな、紳士的な微笑の中に。その目の茶目っ気のあるきらめきの中に。
 それから毎月一枚ずつ、順を追って写真が並んでいるのだが、はじめ一緒に来店していた母親は、息子が一歳になると同時にいなくなってしまった。それから先は、ずっと父と息子だけ。でもドリアン坊やがむずがったり、べそをかいたりしている写真は一枚もない。彼は赤子のときから、カメラを向けられれば微笑して応じるタイプの子どもだったらしい。五歳のときにはすでにいっぱしのしなを作ってカメラに向かって微笑んでいる。十歳の時点で彼はもう完全に自分の魅力を把握しものにしており、父親の腕に腕を絡めて微笑を浮かべるそのどこか陶然とした顔には、見るなら見よ、欲するなら欲せという、挑戦的な、見る者をざわつかせる光があった。十二、三になると、もう子ども離れした色気を漂わせていた。しなやかで細い身体は蛇のくねりを連想させ、微笑する唇は単にことばを発し食物を咀嚼する以上の秘密をその奥に隠しており、青い目は周囲を挑発しねめつける時期を終えて、来るものを待ち受け、吟味する存在となっていた。十五にもなると、彼の性的な力はすっかり本人の支配下に入り、安定して、出し入れ自由のものになっていた。つつましく礼儀正しい態度の陰に、それはそっと隠れて、しかし決して完全に秘匿されることなく、誰かによってつつき出される瞬間を静かに待っていた。十八あたりでそこに力強さと大胆さが加わり、ほとんどいまの伯爵になった。少佐は思わず目の前の伯爵を見、写真の中の伯爵と見比べた。こちらに向かって微笑を浮かべるいまの伯爵は、そういう意味ではもう完全に成熟し、否、成熟を通り過ぎてしまっていた。少佐はそこに、無数の男の影を見た。その欲望と熱意と愛情とがあいまった、人間の業のかたまりが過ぎ去ったあとを見た。伯爵は写真を指さし、そこに映し出されている人物やできごとについて説明してくれていたが、少佐にはもう聞こえなかった。少佐は自分の内側で、怒りと痛みの交錯する、ある衝動が広がっているのを感じた。目の前で無邪気そのものの顔をしている男の、その無邪気さがこたえた。彼を抱きしめたかった。髪を撫で、口づけ、さすってやり、もういいと云ってやりたかった。もうその義務と背負わされたものを、肩からおろせ。でも、少佐自身も大いに彼の、その美しさを楽しんでいた。本人の意志と半ば無関係に撒き散らされ、味わわれる、無防備にさらされている美しさ、人間のあらゆる感情や欲望に火を放たずにおかないもの、それを、そしてその媚態を、おそらくはいま誰よりも、少佐自身が味わい、楽しんでいた。ちょうど昨夜のように、そして、いままで積み重ねてきたありとあらゆる夜、それが示しているように。
 少佐の中で、彼を愛することと、彼を欲することとは、わかちがたくひとつのものだった。彼を愛することと、その美しさに陶酔すること、その官能の中へ身を投げ出すこととは、ほとんど同じ重みを持っていた。浅ましく、野蛮で、美しく、清らかだ。彼を通り過ぎていった無数の男たちと、自分とのあいだに、なんの違いがあるだろう? 結局のところ、同じなのだ。伯爵のことを理解しようともせずその見てくれだけを欲する連中に腹わたが煮えくり返る思いがしながら、結局、求めるものは同じ。そういう形でしか、誰も、まともに愛を表明することができない。そもそも、愛情とはいったいなにか? その匙加減で、同じ行為も痛みになり、愉悦になる。愛することは、その気持ちをどの部分へ向けることであるのか? 肉体か精神か? その混合物か? どちらもだ。そのどちらにも、耐えがたいほど惹かれている自分がいる。彼の外的な美しさも、内的な美しさも。そしてそれが、彼を欲することへと結びつく。それ以外に、やりようがない。だからもしほんとうに彼を、彼が背負ったものから解放したいなら、殺すしかないのかもしれない。ほんとうに彼を愛するなら、自分のところへも、誰のところへも、彼を向かわせてはならないのかもしれない。
 写真を眺めながらのおしゃべりに夢中になっていた伯爵は、すぐに少佐の変化に気づいたらしかった。そんなところにも、少佐は腹が立った。彼は敏すぎる、感じすぎる。美しすぎ、人間を左右する力を持ちすぎた。あまりも、あまりにも不都合なものの寄せ集め。それがこんなにも美しい。伯爵は穏やかに口を閉じ、微笑し、もうそろそろ戻る時間じゃない? と云った。少佐は、ひどくみじめな気分だった。理不尽に傷つけられ、罵倒され、そこから逃れるすべを持たないときの気分だった。

 

 ロネッティのタクシーの中で、伯爵は陽気におしゃべりを続けた。少佐は心臓にマグナム弾でもぶちこまれたような気分が抜けなかった。それは刻一刻痛みを増し、化膿しはじめていた。伯爵のおしゃべりに注意深く応じながら、上の空で、そして伯爵がそのことに気がついていると気がついている。やりにくかった。こんなとき、これほど扱いにくいと感じる人間はいなかった。伯爵がせめてもう少し、その外見に見合った浮ついた感じを持ちあわせてくれていたなら。あと少し、鈍かったなら。そしてあと少し、自分勝手だったら。そうしたら、話は違った。NATO情報部エーベルバッハ少佐は、彼をごまかせた。でも実際には、伯爵は気づくことも、受け止めることも、庇うことも、出来すぎたしやりすぎた。少佐はたぶん、ずっと前から、それに一番腹を立てていた。
 さすがにホワイトホールまでタクシーで行くわけにはいかなかった。少佐はそのかなり手前で車を止めるように指示を出した。ゆるやかにタイヤの回転が止まると、楽しそうにおしゃべりしていた伯爵がふいに首を傾けて、
「ロネッティ?」
 と運転手に媚びるように呼びかけた。
「なんでしょう?」
 ロネッティは陽気に答えた。
「悪いんだけど、ちょっと、外してくれる? その、ほんの……ちょっぴり」
 伯爵はありとあらゆるものをこめてゆっくりと一語一語、発音した。ロネッティは眉をつり上げ、それからいかにもとぼけた顔で、タクシーを降りてどこかへ歩いていった。伯爵が待ちかねていたように抱きついてきた。
「ああ、クラウス、君に写真を見せたの、失敗だったかも」
 伯爵は詫びのたっぷりこもった調子で、少佐の頬に口づけた。
「君の胸を痛めちゃったみたいだ。そんなつもりじゃなかったんだよ。純粋に、楽しんでくれるかなと思ったんだけど。もちろん、君のその、鋭い観察眼のこと……わたしは文学的想像力と云うほうが好きだけど……そのこと、忘れてたわけじゃないよ、でも……」
 少佐は目つきで伯爵を黙らせた。彼は叱られたみたいにしゅんとして、黙った。少佐は怒りを感じていた。なにか、わけのわからないものに。さっきの写真から感じたこと、伯爵の中にあるもの、そしてたぶん、率先して詫びてくる伯爵自身にも。でもそれは、ぶつけるあてのない怒りだった。解消しようのない、不毛な怒りだった。これをあらわし、押し進めれば、さらに不毛な展開が待っていた。それはみっともない、恥ずべきことだった。少佐は唇を噛んで、やりすごした。伯爵が気遣わしげな顔で、少佐の髪を撫でた。どんな顔でも、どんな仕草でも、彼は美しかった。そしてその美しさに触れるとき、なにもかも、結局のところその力にさらわれて、うやむやになってしまうのだった。まったく、どうしようもない。少佐は苦笑して、伯爵の頬を安心させるように軽く叩き、詫びた。伯爵は大慌てで、子どもみたいに首を振った。それから、ゆっくりと微笑んだ。
「ねえ、こうしよう。次に会うときには、何時間後になるかわからないけど、いまのこと、お互いに忘れているんだ。きれいさっぱりだよ。まあ、かわいらしいわたしの写真については、覚えていてくれてもかまわないけど。じゃないと、わたしが自分で自分を殺したくなっちゃうからさ。そんなふうに思うなんてごめんだし、君にそんなふうに思ってほしくもないし。君もわかってると思うけど、わたしは自分の存在についてはある程度の内的調和を得てるんだよ。わたしは傷つかないし、傷つけられることもない。傷つくとすれば、それは自分の責任なんだよ。わたしの美しさでも、もちろん、君のせいでもない。それは云いわけにすぎない。わたしは、自分の過去にも、現在にも、未来にも、満足だよ。厳密には、そういうものは存在しないけどね」
 こんなとき少佐は、伯爵が些末な煩悶など飛び越えたところにいるのを感じる。彼はそこから見下ろし、微笑んでいる。だから汚れなく、そして美しい。少佐は彼の巻き毛を撫で、頬を撫でた。伯爵は少佐の手の動きに身を委ね、うっとりと微笑んだ。なじみの教会に飾られた聖母が浮かべる笑みに似ていた。少佐は、ため息をついた。
「じゃあ、またあとでね。電話をくれる?」
 少佐はうなずいた。唇に唇が押し当てられた。少佐はタクシーを降り、ひとつ深呼吸して、歩きだした。振り返らずに。

 

あとがき的なやつ
 

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