ヘルメス
 
 ご主人さまはああ云ったが、急かす必要はない、と階段を上りながらコンラート・ヒンケルは考えた。昔は、晩餐といえばたとえ来客がなくとも正装したものである。いまではもちろんそんな習慣は廃れてしまったのだが、イギリスの伯爵さまはいまだにそれを守り通しているらしい。あるいは、ご主人さまといるので特別にそうしているのか。
 あのばか遅いぞ、呼んでこい、という命を受け、執事は厨房から出て二階へ向かっていた。主人は普段休日に着ている服をそのまま着ていて、着替える素振りも見せなかったが、伯爵さまはそうはいかないのだ。彼は、いつも自分を美しく飾ることを忘れない。日に何度も着替え、そのたびに装飾品まで替え、二階から降りてきてこう云う。クラウス、これどう? 主人はそれを見て、はじめふーん、とかほー、とか、答えになっていない適当なことを云う。でも実はよく見ていて、追々その模様はごてごてしすぎているとか、身体にぴったりすぎるとか、なんやかやと云いだす。しかし執事の見立てでは、気に入っているときほど文句が多い。伯爵さまはときどきむくれてこう云う。じゃあこれはもう着ないよ。すると主人は、着るなとは云っとらんだろ、と云いはじめる。もう、なんなのさ、君。……まったく、お若い方々ときたら!
 とにかく、伯爵さまを急かす必要はない。伯爵さまが納得するまで衣装選びに時間をかけてもいいのだ。冷めた料理など、温め直せばいい。主人が云いたかったのは、早くしろということではなく、あいつを手伝ってやれということだったのだから。伯爵さまのお召し替えを毎回なによりも楽しみにしているのは、ほかならぬ主人なのだから。
 寝室の前にたどり着き、執事はドアをノックした。伯爵さまの声が応じた。
「伯爵さま、失礼いたします。ヒンケルでございます。ドアを開けてもよろしゅうございますでしょうか?」
 どうぞ、と伯爵さまの声が答えた。執事は咳払いをして、ドアを開けた。
 伯爵さまは部屋中に服をとっ散らかし、その真ん中に座りこんで途方に暮れていた。執事は、瞬時微笑した。大方こんなことだろうと思っていたのだ。
「僭越ながら、お料理が冷めてしまいますと申し上げに参りました。いかがなさいましたか」
 伯爵さまは執事を見上げた。
「服が決まらないんだ。まあ、古典的でよくある悩みだよ」
「さようでございますか」
 執事は重苦しくうなずいた。
「なんだか服を持ってきすぎたんじゃないかって気がする。それが敗因なんじゃないかってさ。だって、準備のときすごく張り切っちゃったんだよ。わかるだろう? なんとか二着に絞ったんだけどね……そうだ! 君が決めてくれない? どっちがいいか。長年クラウスに仕えてきた人間として、君の意見は傾聴に値する。だいたい、君が間違ったこと云ったことなんてないものね。これとこれ、どっちがいいだろう?」
 伯爵さまは立ち上がり、服の山をかきまわして、執事に服を差し出してきた。男ものにドレスということばを使っていいのかどうか疑問だったが、女性が着れば間違いなくドレスということばで通用するようなしろもので、ひとつはシフォン素材の、孔雀の羽のような色合いのゆったりした服、もうひとつはシルクの、深紅の地に金糸でビザンチンを思わせる模様を刺繍した、ストレートラインのドレスみたいなものだ。ただし、女性用と異なるのは、その下に履くズボンがついていることだった。執事は眉間にしわを寄せてふたつを見比べた。
「さようでございますね……」
 執事が迷っているのを見て、伯爵さまはそれぞれを交互に自分の身体にあてがってみせた。系統はまるで違うが、どちらもよく似合っていた。
「それでは僭越ながら申し上げます。どちらもよくお似合いでございますが、その赤いお洋服の方が、なんと申しますか、しっとりしてよろしいかと存じます。正確に申しますと、孔雀のようなお洋服は、より明るいお昼どきにお召しになりますと、色味が冴えまして美しく見えるかと存じます」
 伯爵さまの顔が輝いた。
「コンラート! 君ってすてきだよ! もちろん云う通りにする。確かに、いまは明るい光の下で見ているけど、食堂はもっと薄暗いからね。ありがとう。これでようやく下に降りられる。彼、待たされていらいらしてない? 君、使いに呼ばれたんだろう? すぐに行くよ……服を着たらね(と云いながら、伯爵さまは裸になろうとしていた! 執事はあわてて後ろを向いた)……ねえ、待って、そこにいてよ、この服、後ろにボタンがあるんだ……ひとりじゃ絶対に着られないし、脱げないんだよ、わかるよね……わたしって誰かの手を煩わせずにはいられない男なんだ……君が来てくれてよかったよ……ほんとにさ……よし、もうこっちを向いていいよ。というか、別に最初から向こう向く必要なんかなかったのに、君って律儀だな!」
 執事は振り向き、思わず目をしばたいた。伯爵さまはたいそう美しかった。深い赤の服が金の巻き毛によく映え、かつ肌の白さを際だたせている。なによりも圧倒されるのは伯爵さまが身にまとう雰囲気だ。優雅で繊細で、でもそういった雰囲気につきものの、あのなよなよしさはなく、落ち着いていてどこか力強さがある。そして、そうしたものを包みこむようにただよっている色香……としか云いようのないもの……それはたとえば伯爵さまのまばたきであるとか、ささいな手のしぐさであるとか、そういったところから感じられるものであるのだが、そのうっとりするような芳香に似たものに、執事は惹きつけられ、とらえられそうになっている自分に気がついた。あわててそれを打ち消すように微笑を浮かべ、大変お似合いでございます、と小さく頭を下げた。
「ありがとう。ボタンをとめてくれる?」
 伯爵さまは後ろを向き、髪をかきあげて、執事にむき出しのうなじと背中の一部を差し出してきた。執事は瞬時うろたえた。伯爵さまの細く長い白鳥のような首、そのつけ根の少し突き出した骨、そしてそこから続く背中、それはいつも巻き毛や衣服で隠されているだけにあまりにも生々しく、本来隠されるべきなまめかしい部類のものに感じられた。何日前だったか、主人がそのあたりへ唇を寄せて伯爵さまとじゃれあっているのをうっかり目撃したことがある。広間でのことだった。ふたりは広間のちょうど真ん中あたりに立っていて、主人は伯爵さまを後ろから抱きすくめていた。おそらく、広間に飾ってある絵を見ていたのだろう。伯爵さまは首を傾け、主人のすることに身を任せながら、甘えた声でなにか云っていた。主人はからかうような声で応じていた。やがて伯爵さまは色めいた声で笑い出し、なだめるように云った……クラウス、だめだよ、だめだってば……執事は主人の唇の感触が、そこに焼きつき、しみこんでいるのではないかという気がした。それは忠実なる執事のヒンケルにとって、罪悪感と背徳を感じさせずにはおかないものだった。だが空想の翼は本人の感情とは別に、エロティックに飛躍していった。あのときもきっと主人は伯爵さまの髪をかきあげ、ゆっくりと唇を近づけ、触れ、吸いあげ、あるいは舌を……やめないかコンラート。執事は自分を叱りとばした。なんてことを想像しているんだ。
 執事はあわてて空想を頭から振り払い、失礼いたします、とことわりを入れ、おそるおそる伯爵さまの服に手を伸ばした。頭がくらくらしそうな香りが鼻に入りこんできた。執事は実際、軽いめまいを感じた。指先がボタンに触れたとき、ふいにその手を掴まれ、あの美しい顔がこちらへ向けられ、微笑するのではないか……執事はそう思い、その想像がもたらす恐怖に近いものにおびえた。が、幸い伯爵さまはおとなしかった。指先が肌に触れないよう細心の注意を払って小さな赤いボタンをとめていく。なめらかで、手触りのよさそうな肌が少しずつ覆い隠されてゆく。ひとつめ、ふたつめ……執事は飛び上がりそうになった。ひとさし指の先が、伯爵さまの背中に触れてしまったのだ。
「申し訳ございません」
 執事は謝った。
「なにが?」
 伯爵さまはのんびりと云った。だが、少しわざとらしくはなかったか?
「お肌に触れませんよう気をつけておりましたが……」
 伯爵さまはからから笑った。明るい笑い声だった。
「別にいいじゃないか。減るものじゃないし、わたしは女性じゃないんだよ。訴えたりなんかしないから、そんなにびくびくすることないよ」
 執事はありがとうございます、と云い、ボタンをかけ終えた。軽く汗をかいている。体温が上がって、というより、奇妙な、頭がぼうっとするような熱を帯びている。伯爵さまがふいに振り向いた。美しい顔が目の前に、すぐ近くにある。唇を持ち上げ、どこかからかうような微笑を浮かべている……執事の心臓が跳ね上がった。
「ついでだから、アクセサリーを選ぶの手伝ってくれる? わたしに似合うものを探してほしいんだ。君のセンスにまかせるよ……」
 伯爵さまが執事の手首をつかんだ。白い指が執事の着ている黒いスーツに軽く食いこむ。なんて美しい指だろう……執事ぼんやりした頭で考えた。夢を見ているような気分だった。そのまま宝石箱が乗っている棚の横へ連れて行かれる。三つもある箱を、伯爵さまは細い指でひとつずつ開け、ぎっしりつまった中身を執事の目にさらした。数々の宝石で燦然と輝いている。執事はまためまいを感じた。
「この中から、わたしが美しくなれるものを選んで。イヤリングと、ネックレス、それに、あればブレスレットかな。指輪はいいよ。いましているので間に合わせるから」
 伯爵さまは棚の上に肘を乗せてもたれかかり、どこか挑発的にも見える目で執事を見た。……わたしを見て。君には、それが許されている。執事は伯爵さまがそう云うのが聞こえるような気がした。しかし、伯爵さまを正視するのは勇気が要った。顔を、目を見ることがどうしてもできない。執事はその身体の上におどおどと視線をさまよわせた。頭は相変わらずぼんやりしている。伯爵さまの香りがまつわりついてくる。
「……おことばではございますが、わたくしではとても……」
 執事はもごもごと口ごもった。伯爵さまは微笑した。
「自信を持って。君たち執事ときたら、なんにでも通じていること百科事典並みだものね。グルメにファッションに政治に家事に育児、いろいろな遊戯、ありとあらゆることにね……」
 伯爵さまは指を折って数え、笑った。暗に示されているものに、執事は赤面した。
「さあ、選んで。君の選んだものを身につけるから」
 執事はおそるおそる伯爵さまを見、宝石箱に目をやった。もう一度伯爵さまを見る。彼は微笑を返した。なまめかしい、熱っぽい微笑だった。執事はその熱に浮かされたように、宝石箱の中にそっと手を伸ばした。
 最初に手に取ったのは、ルビーとパールがちりばめられた金細工のイヤリングだった。同じようなネックレスとセットになっていて、執事はそれをしばし眺め、それから伯爵さまを見、首を振った。豪勢なつくりだが、今日のお召しものには合わない。服そのものが豪奢なので、けばけばしく下品に見えてしまう。このダイヤモンドはどうだろう? 粒が小さすぎる。こちらのドロップ型のものは逆に大きすぎて不格好に見えるだろう。パールは? 執事の頭になにかがひらめいた。すばらしい照りの、粒がそろった純白のパールネックレスが目に入った。長さもいろいろとそろっている。同じく純白のパールを大きな二重のリング状にしたイヤリングを見つけ、執事は満足げにうなずいた。これだ。彼はそれをうやうやしく取り上げ、伯爵さまに差し出した。伯爵さまは差し出されたものを面白がっているような目つきで一瞥し、首を傾けた。
「さしずめアール・デコって感じだね。ストレートラインの服に、パールで装飾。すてきだな。気に入ったよ。君ってやっぱりすごくすてきだ。ネックレスをつけてくれない?」
 伯爵さまはまた髪をかき上げ、執事に背中を向けた。執事は今度はいくらか誇らしげな気持ちで、伯爵さまの首に長さの違う二種類のネックレスをつけた。念のため伯爵さまの全身を見て確認する。純白のパールは深紅の上に落ち、そしてそれを身につけた伯爵さまは、見事としか云いようがないほど美しかった。
「イヤリングもつけて」
 伯爵さまは金の巻き毛を耳にかけ、首をひねって執事に耳を向けた。首筋がむき出しになって執事の目にさらされた。むしゃぶりつきたくなるような美しい首だった。そしてその美しい横顔。高い鼻は頂点に向かってりりしくまっすぐなラインを描いている。その下にある唇はふっくらとして情熱的であり、つつましい額と顎、夢を見ているような目……横から見ると伯爵さまのまつ毛はとても長く、肌の上にふわりとした影を落としている。執事は酔いが回ったかのようにぼうっとしていた。請われるままにイヤリングを手に取り、そっと耳たぶに触れた。ほんのりと赤みの差す耳たぶは柔らかく、冷たかった。執事は思わずそこを指先で優しくつまんだ……伯爵さまが少し身をよじった。執事は飛び上がりそうになった。
「申し訳ございません」
 伯爵さまはなにも云わず、たしなめるような流し目をひとつくれただけだった。執事はまた汗をかきはじめていた。顔がほてっている。きっと赤くなっているに違いなかった。執事は震えそうになる手で伯爵さまの耳にイヤリングをつけた。片方が終わると、伯爵さまは首を反対にひねった。女がキスをせまられたとき、じらすために一度は首をひねって拒絶する、そのなまめかしい動きを思わせた。執事の手はほんとうに震えはじめていた。
「どうもありがとう」
 伯爵さまは首を元に戻し、鏡で自分の姿を確認して満足げに微笑み、巻き毛を整えた。そうして、その微笑みをたたえたままの顔で執事を正面から見つめた。
「君はほんとうにすばらしい執事だよ。仕事は手際がいいし、頼めばなんでもやってくれるし。しかも忠実だ。こんな時代に、得難い人材だよね。いまさらこんなこと云うのなんだけど、君にはほんとに感謝してるんだよ。わたしのこと大目に見てくれて、彼とそっとしておいてくれて。普通だったら叩き出されても文句云えないのに。クラウスのためだね? 主人として、彼を心から慕ってる。わたしの愛だって君にはかなわないよ。ほんとにありがとう」
 執事は、夢見ごこちな気分から一気につき落とされた。そうだ、自分は一体なにをしていたのだ? なにをするつもりだったのだ。伯爵さまは主人のお客さま、そして自分は使用人ではないか。全身からさっと血の気が失せた。執事は、ほんもののめまいを感じた。反射的に、額に手をあてがう。それをどうとらえたのか、伯爵さまが近づいてきた。腕が伸びてきて、お互いの身体が密着した。執事は今度は、全身がかっとなった。
「ほんとうに、ありがとう。君が大好きだよ」
 耳元で柔らかい声がそう云った。そうして、頬に唇が触れた。執事は伯爵さまの香りに満たされ、その体温に満たされていた……ああ。執事は瞬く間に熱に浮かされた、うっとりした気分の中に引き戻された……頭はふたたびぼんやりし、そのくせ身体は熱く、いやに研ぎすまされて覚醒している。身に覚えのある熱っぽさがおそってくる。ああ、いったい伯爵さまは、あのときにはどんな顔をしていらっしゃるのだろう。この美しい顔をどんなふうにして、どんなことをするのだろう、あの主人と…………
 いつも見慣れた、厳しい顔つきの主人の姿が頭をよぎったとき、執事は震え上がって伯爵さまから自分をもぎはなした。
「いけません、伯爵さま」
 執事はつとめて鋭い声で云った。
「貴族さまは、使用人をそのように抱擁するものではございません」
 伯爵さまはきょとんとした顔をし、それから笑いだした。
「あは! 君って古めかしいんだな! いまどきそんなこと誰も気にしないよ。みんなおんなじ人間さ……さあ、すっかり遅くなっちゃった。いい加減、食堂へ行かなくちゃね。クラウスが待ちくたびれて、気が狂っちゃうよ」
 伯爵さまはそう云うと、執事を残して部屋を出た。しばらくして、クラウス、ダーリン、と叫ぶ声が聞こえてきた。…………執事は苦笑した。なんというお方だ! なんて危険で、そのくせ邪気のない方なのだろう。あの濃厚な色香ときたら! あんなものをまともに受けたら、誰だっておかしくなってしまう。執事はさきほどまで確かに自分を覆っていた夢想的な甘い雰囲気、夢のような香りを思い起こした。あんな強烈な力を持つお方と平気で一緒にすごしている主人は、ほんとうに尊敬に値する。
 ……だが、伯爵さまは思い違いをなさっている。伯爵さまが出て行ったドアを見つめながら執事は考えた。伯爵さまのことは、嫌いではなかった。ときおりおいたが過ぎ、世話のやけるお方ではあるが、内心煙たく思っているなどということはなかった……。
 執事は首を振り、寝室のドアを閉めた。

 

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