イギリスの朝の光
彼の通り名は、ベートーベンのあの曲に由来するものではないような気がしている。確信があるわけではない。でもあの曲は嫌いなのだ。好き嫌いがわかるほど音楽を聴きこんでいるとは思わないが、それにしたって、あの曲はいささか、けばけばしすぎる。雄大さも雄々しさも、度を越せばただの喜劇だ。あの曲は、その紙一重のところをいっていないだろうか? それともこんなふうに感じるのは、伝統的に喜劇性の乏しいドイツ国民の真面目さゆえなのか。あれはユーモアなのだろうか。ベートーベンは、同郷のはずだが。
自らも城に住まう人間として大きな声では云えないが、城というのはあまり呼ばれたり訪ねたりしたい場所ではない。威圧的だし、しゃっちょこばっていて、滑稽ですらある。時代錯誤だ。領主がいて領民たちがいる、あの時代はとうに終わっている。そして建物とあやふやな血筋だけが残り、レトロだとかロマンだとかで大衆を魅了するが、その分厚い壁は、レトロロマンで片づけられないものを、血の重みを、たっぷりと吸っている。
ぴったりと閉じられた黒塗りの門の前でベルを鳴らすと、若い男の声が答えた。覚えのある声ではない。英語だが、伯爵とは微妙に発音が違う。彼のは、外国人にも聞き取りやすい。ソフトで舌の上を転がるように滑り出てくる。なめらかな氷の表面。火にあぶられて溶けはじめ、つややかな光を帯びている……なんの連想だ? 少佐はあわててそれを打ち消した。インターホンに出た若い男の英語は、それと比べるといらぬ雑音が混じったかのように聞こえる。くそいまいましいロレンスの英語も、伯爵と比べたら雑音に近かった。たぶん、育ちの問題だろう。
あまりなめらかでない英語で要件を伝えると、すぐに門が開いた。でも君のドイツ訛りはセクシーだな。顎に手を当て、首を少し傾けて、伯爵はそう云った。なんでもセクシーのレッテルを貼るな阿呆め、と親切をやめてドイツ語で云ったが、喜ばせただけだった。君って、ドイツ語なんだ。存外流暢なドイツ語が返ってきた。君の思考回路も、リズムもドイツ語なんだ。もうちょっとまじめに練習してみようかな。文法書を見るのはぞっとするけど。どこかにあるはずなんだよ。昔やったからね。もう半分近く忘れてしまったけど。彼のドイツ語を、直してやってもよかった。活用の間違いとか、もし書くことがあるなら綴りについて。エスペラントなどという珍妙な発想が、計画だけで頓挫してよかった。世界公用語ができていたら、たぶん、ドイツ訛りがセクシーだとは云われなかったし、小学生のように唇を動かしながら活用表を凝視する、眉間に皺の寄った彼の顔を眺めることもなかった。その次に会ったとき、のっけからあのよく転がりまわる舌でドイツ語をまくしたて、そうして浮かべた、してやったというあの顔もだ。
観音開きの重たそうな玄関が開いて、中に通された。扉を開けた男はまだ若く、そして美しかった。すれ違いざまに、こちらに剣呑な目を向けてきた。おお怖い。嫉妬の渦の中へ巻きこまれるのはごめんだ。玄関から応接室へ案内してくれた男もまた美しかった。伯爵は、美男と見るやかき集めてくる習性でもあるのではないか? ありそうなことだった。彼は重症の美中毒だ。美しいものを、身の回りに置かずにいられない。美しいもの、美しい男。美しいものは、健全な肉体と健全な魂の関係のように、美しい魂を求めるだろうか? これまた、ありそうなことだ。伯爵が最も嫌悪するのは、美の反対の醜ではなく、美に値しない腐敗だった。その証拠に、ゴミみたいな税理士と平気で一緒に暮らしている。
応接室のソファはすばらしかった。その上に尻を乗せていると、体重を感じない。ソファを覆う美しいアラベスク模様。カーテンも似たような生地で作られており、けばけばしい(と少佐は感じていた)のが妙に好みな伯爵の趣味を思わせる。
いつもの習性で、時計を見た。朝の八時を回っていた。空には重く雲がかかっており、その隙間からときおり陽光がこぼれたが、あまり具合のいい天気とは云いかねた。君の時計を見る仕草もセクシーだよ。だから、なんでもセクシーという概念に当てはめるなばか者め。……そうとしか云いようがないんだよ。ふいに熱っぽく、潤んだような真面目な顔つきになって彼は云った。性的魅力。イット。なんて力だろうね。わたしはそれに近いものを、ものにも感じることがあるけど、どうしてこんなものが人間には与えられているんだろう……。
おいおい、エーベルバッハ少佐、おまえさん仕事中だぜ。そうなのだ。なんのために、わざわざイギリスくんだりまで来たというのか。それも彼の城へ。Aはいまごろ電話で、Bに愚痴をこぼしているかもしれない。Gがしきりに同行したがっていたが、連れてくるのは論外だった。部長の鼻の穴を広げた誇らしげな顔を思い出して、気分が悪くなった。「少佐、いいかね。これができるのは、世界広しと云えど、エロイカ君ただひとりだ。彼を説得し、連れてきたまえ。報酬は十分に用意してある……ただし、このところの世界的不況で、NATOと云えど緊縮財政だからね。そんなに多額の報酬を支払うことはできない。そこで……」
そして部長の鼻の穴はますます広がり、エーベルバッハ少佐を絶望の底にたたきこむようなことを云ってのけた。それ以来、エーベルバッハ少佐は常時不機嫌であり、部下Aは常にそれを感じ取ってびくびくしていた。今朝飛行機に乗った直後の、Aのとりわけ同情した顔はなかなか見ものだった。
「部長の陰謀ですね」
Aはげっそりした顔で云ったのだ。このぶんだとそう遠くないうちに、円形脱毛症どころか禿げ上がるんじゃなかろうかこいつは、と思ったが、神経質は本人が克服すべき問題だった。
「いやがらせですよ、少佐。部長の趣味なんです。伯爵を……」
Aはふいに黙った。自分が投げかけた、視線の鋭さを感じたからだった。そのとき少佐は突然、罪悪感のようなものにとらわれた。部下に無用な心痛を与えている。Aは一番つきあいが長いだけあって、こちらの感情を、考えを、発生したのとほとんど同時に感じ取るのだった。その点では、彼はほとんど、自分と一心同体だといってよかった。Aは決して読み違えることがなかった。これまでは。そして少佐はそれを、信頼していた。Aはある意味ではエーベルバッハ少佐の第二の脳であって、そのよくできたコピーでもあった。Aが、そうであるように固く決意し、そう努めてきたからだ。コピーよ。と彼は思った。自嘲に似たものが、こみ上げてきた。ひとはいつまでも同じではないのだ。エーベルバッハ少佐は、いつまでも堅物のホモ嫌いのエーベルバッハ少佐でいるわけでもなかった。そもそもホモというのは蔑称である、と叱られて以来それがつい口をついて出そうになるたびに、おっといけねえ、と思い直していることも、Aは到底知るまい。彼には、まだわからないかもしれない。未来へ開かれた可能性。変わることの不安と期待とが渾然となって、自分の全存在が揺さぶられそうになるあの感じ。いまではそれをどの程度の規模で迎えるかで、人生と人間性が決まるといっていいように思っている。
ドアがノックされた。
「少佐」
開いたドアから、見知った髭面が覗いた。その後ろにもうひとつ、じとっとしたゴミくさい気配を感じるが、無視した。
「遠いところようこそ……お待たせしてすみません。あのひと、朝はいろいろ忙しいもので。高度美容婦人も真っ青ですよ。いま降りてきますから、食堂へどうぞ。朝食がまだなんですよ……少佐は朝食は……」
「食った……伯爵はなにをしとるんだ。八時には行くと云っておいたはずだが」
「ははは、すみません」
ボーナムは苦笑を浮かべた。
「この時間には、いつもはまだ寝てますから」
「まあ、泥棒は伝統的に夜行性と決まっとるな」
「それでなくても、朝に弱いんです。伯爵は、朝は寝たいだけ寝ていられる環境で育ったもんですから」
「だらけとるな」
「前衛的家庭と云ってほしいそうですよ。お父上の口癖が、おまえがそうしたいならそうすればいい、だったそうで」
「……信じられん。おれの親父ならそんなやつは血祭りにあげとる」
とはいえ、伯爵の朝寝を邪魔できる人間がこの世にいるとは思えなかった。豪奢な巻き毛にふちどられた端正な顔が、朝の気だるい、ぼんやりとした日差しの中で、弛緩し幸福そうにまどろむとき。まぶたはその奥にある青い目をつつましく覆い隠し、整った鼻筋の先では穏やかな、静かな呼吸が繰り返されている。ありとあらゆることをやってのける唇もゆるく結ばれて、本来の優しげな形をたもっている。甘やかされて育った、自分のままでいることを許された幸福な子ども。その子どもらしい眠り。彼は驚異的なまでに、自分らしいままだ。圧倒的なほどに、気の向くままだ。誰にも矯正されていない。誰からも、強制されない。彼は生まれたときから、神が与えた楽園の中にいる。そしてそこにとどまっている。いったいどれだけの人間が、大人になっても楽園にとどまっていられるだろう? 人間生活がもたらすあらゆるものが、子どもを日々楽園から追い立ててゆく。その翼は毎日、むしりとられている。たぶん、愛情と善意の手で。
――だって、わたしはわたし以外のなにかになれないからね。欲しいものは欲しいし、嫌いなものは嫌いだし、好きなものは好きなんだ。それを、どうしろっていうのさ。
どうもできやせん。いまではそう思う。そしていまではその楽園を、たぶん自分に残された最後の楽園への帰路を、ただ保持していたいと思う。
食堂のやたらと長いテーブルは、自分の城と似たようなものだった。ただ、テーブルの中央に置かれた花瓶に、バラの花がこれでもかとばかりに盛られているのは、エーベルバッハ家では見られないことだった。ここであいつもひとりで飯を食うのか。彼は思った。お互いに、わびしいもんだ……否、伯爵の場合、男を侍らせて給仕させているかもしれないけれど。
「あ、伯爵が来ましたよ」
ボーナムが廊下をのぞきこんで云った。かすかな衣擦れの音が近づいてきた。
「そなたの面影がわが目の花園を過ぎるとき、心はそなたを見るため目の窓に来る。そなたにふさわしい憩いの場はほかにない。その場こそこの世ではわたし、定まれるわが目の片隅。来たれ、そなたの訪れに捧げるため、わが心の宝庫から目の窓に、わたしは紅玉と真珠を引き出そう……ハーフィズは偉大な詩人だよ。大好きなんだ。酒と女の詩ばかりだけどね。なにかっちゃあ、そのふたつを讃えてる。でもとても美しいんだ」
滅紫色をしたバスローブにくるまり、伯爵は王のように堂々と現れた。その瞬間を狙っていたかのように、雲の切れ目から太陽があらわれ、大きな窓から彼の自慢の巻き毛と、均整のとれた肉体とに微笑みかけるかのように、やわらかい光を投げかけた。
「ハイ、少佐。たとえ仕事のためでも、来てくれてうれしいよ。せっかく来てくれたのにこんな格好で悪いね。というか、いまこれ以外のものは着られないんだ。全身べたべただから。オイルまみれなんだ。香りがしない? アーユルヴェーダだよ。マッサージを受けてた。美しさを維持するのには、お金と手間がかかるんだ。ひとでも、ものでも。だからこそ価値が増す。朝はほんとに忙しいんだ。巻き毛ちゃんのお手入れもしなくちゃならないし、爪は磨いてやらなくちゃならないし、風呂に入って着替えて、重労働だよ。あーあ、君がよりによって今日来なけりゃ、こんなに早く起きずにすんだんだけど……」
「朝寝と美容の邪魔して悪かったな」
少佐は皮肉をこめて云った。
「どういたしまして。君のためなら、三日三晩徹夜してもいいよ。たとえ肌が砂漠と化そうとも」
ときどき、これは不公平なのではないか、と思うのだ。伯爵は正直だ。率直だ。自分の思うままを舌へ乗せても、誰からもなにも云われやしない。ところがこちらときたら、それを繕うのに必死なのだ。秘匿、隠蔽、情報部の性だ。悲しいなあ、君って、職業柄ひとの云うことが信じられないんだろう……ああそうだ。そして自分で自分の首を絞めているともいえる。この件に関しては。
伯爵は、ボーナムにわめきたてるドケチ虫を連れて下がらせ、テーブルに片肘をついて、こちらにうっとりした目を向けてきた。でもその目はまだ一種の抑制を失っていなかった。いささかわざとらしさのある陶酔。エーベルバッハ少佐はまだエーベルバッハ少佐であり、グローリア伯爵はまだグローリア伯爵だった。閉じられた部屋に、ふたりきりであるとしても。
「最近はどう? 相変わらず忙しくしているのかな。君の部下たちは元気? G君は、シャネルのマニキュアを使うかどうか知ってる? 家にあるんだけど、いま昔ながらのマニキュアは流行らないからね。わたしはというと最近、とても機嫌がいいよ。念願のラファエロを手に入れたんだ。ここ二ヶ月は、ずっと彼に夢中だった。毎日眺めて、まだ飽きてないよ。一生かかっても、とても感じきれないかもしれない。美は、人間の内的真実だ。それを生み出す情熱こそが人間にとって唯一の力なんだよ。こんなふうに云っていいなら、それがこの世界での、神のあらわれなんだ。神ってことばに抵抗があるなら、もっと別のことばを持ち出してもいいけど。たとえばダルマとか……ああもう、君のせいだよ。君が禅なんか薦めるから、東洋神秘思想オタクみたいになっちゃったじゃないか。あれからしばらく仏教にこって、ちょっと勉強したんだ。ほんとに悟りを開けるかと思ったよ。今度は、インド美術に手を出そうと思ってるんだ。ラファエロが落ちついたらね。あの国のひとたちの想像力はほんとに、想像を絶するものがあるよ。豊かで、エキセントリックだ。禅がどうして中国で生まれたか知ってるかい? 中国人は現実的なんだよ。インド人が空想家で情熱的なのとは逆にね。あれは、仏教のきわめて中国的解釈なんだ」
「もういいか」
少佐は腕時計を見て云った。
「いいかげんそのベアローリング並みに転がりまわる舌をしまえ。おれはおまえの講演を聞きに来たわけじゃない」
伯爵は微笑し、肩をすくめた。彼が身体を動かすと、甘ったるい、濃厚な香りがかすかにあたりに漂った。少佐は、それにも不満だった。その身体が全身香油でべたべたになっているかと思うと、それもまた不満だった。寝不足なのも不満であり、朝っぱらから飛行機に乗ったのも不満であり、この屋敷にいる美形の男どもにも不満であり、イギリスの鈍くさい空模様にも不満であり、ありとあらゆるものが不満だった。
「今朝の君は不機嫌だね。不機嫌な君は嫌いじゃないけど」
伯爵は甘えるように、指先で巻き毛をくるくるやった。彼のくせだ。たとえ変装のためにかつらをかぶっているときだって、彼はついこれをやりそうになってしまう。そして、自慢の豊かな巻き毛がそこにないことに驚いたような顔をすることがある。そういえば子どものころ、敷地内に迷いこんだ子猫がいた……ミルクをやり、指先でなでてやったものだが、その猫の甘ったれた鳴き声、そして口の奥で光る赤い舌を、ふいに思い出した。
若い男がお茶と朝食の乗った銀のトレーを運んできた。亜麻色の髪を肩にかかるあたりで切りそろえ、細身の身体を禁欲的な給仕服で包んでいる。バラ色の頬をした美しい男だった。雇っているのか、それとも気に入って連れてきたのだろうか。ありそうなことだ。あるいは逆についてこれられたのか。これもまた、ありそうなことだった。
「朝食がまだだからね」
伯爵はうれしそうに云った。
「君はもう食べた? ああそう。じゃあ失礼して……食べることにしよう。それを口にしてもしものことがあろうと構わぬ……シェイクスピア。わたしは朝食を、時間をかけて食べるのが好きなんだよ。昼くらいまでかかって食べててもいいね。途中、中断したりなんかしてね。普通の家は、そういうことはしないらしいけど」
イギリス人は朝食をよく食べるという定説は、伯爵に関する限り、やはりほんとうらしかった。トーストにジャムやバター、マーマレード、シリアル、ベーコンに卵、ソーセージ、豆と野菜、フルーツ、ヨーグルト、スコーン、そしてお定まりの紅茶。大きな陶磁器のポットに入れられた紅茶からは、うっとりするような甘みと深みのある香りがした。茶葉も高そうだがポットも高そうだ。円形をしたポットには、蔦と花の模様が丹念に刻まれている。伯爵は繊細な形をしたミルクピッチャーから、ポットとおそろいのカップへ真っ白なミルクを注ぎ、さらに紅茶を注いだ。それから、別のカップに紅茶だけ注いで少佐に差し出した。
「少佐、バッハのカンタータは好き? かけてもいいかな? 習慣なんだ」
彼はうなずいた。伯爵のばかばかしいほど優美な習慣を、破る必要はなかった。朝食を給仕に来た男は、音楽をかけるようにという伯爵の云いつけに恭しく頭を下げ、少佐の前に象牙でできた灰皿を置いていった。灰皿の底に、ハチドリに似た鳥が一匹、小さな実の成る枝にとまっている。ふちどりの彫刻がすばらしかった。少佐は遠慮なく煙草に火をつけ、遠慮なく象牙の上に灰をこぼした。しばらくすると、音楽が静かに流れてきた。
「それで、君がわざわざボンから来てくれたのは、どういう理由なのかな? 昨日の夜、部長から電話があったよ」
少佐は眉を吊り上げた。
「君が来る理由までは明かしてくれなかったけど、とても思わせぶりなことを云ってたな……わたしにとって、素敵な出来事になるはずだ、とかなんとかね……わたしに好意を示したいみたいだった。彼、わたしのことが好きなのかな? 少しは色気を見せたほうが君、やりやすい?」
「知るか」
少佐は額を押さえた。デバラのくそ部長め、ぶっ殺してやる。
「早く吐きたまえよ、楽になるよ」
伯爵はベーコンを切りわけながら、楽しそうに笑っている。
「わたしが昨日夜が明けるのを、どれだけ楽しみにしていたか知ってる? ラファエロと君がせめぎあってね(伯爵はナイフとフォークを目の前でがちゃがちゃぶつけあわせた)、わたしの心はあっちへ飛んだりこっちへ飛んだり……」
「勝手に飛んで落ちろ。いい加減に黙れ。おれが来た理由はこいつだ」
少佐はスーツの内ポケットから、数枚の写真を取り出し、伯爵の目の前に置いた。そうして伯爵の顔を、注意深く見守った……彼は数度瞬きし、目を見開いて、顔全体が輝き、一気にほころんだ。
「ねえ、君!」
彼は満面の笑みを見せた。
「これをどこで? これ、もしかして君たちが持っているわけ? すごいな! このダイヤルロックにお目にかかったのは二度目だ。一度目は、三年前にイタリアで。ある金持ちの家で、無用の長物と化してたよ。こんなときに遭遇するなんて、って思ったよ。ティツィアーノを失敬しようとしてたところだったからね。これはね、最大級の敬意を払われてしかるべき芸術品なんだ。見た目の問題じゃない。見た目の無骨さは、この際問題外だよ」
写真に写っているものは、ありきたりの黒い小ぶりな金庫に見える。扉には一般的なものより大きめの、円盤型のダイヤルロックがついている。お世辞にも美しい芸術品とは云えないが、写真を眺める伯爵の顔は陶然としている。金のまつ毛にふちどられた青い目が、情熱を帯びて光っている。魂を揺さぶられるものに注がれる眼差し。そしてあの、ふたりで織りなす恍惚の中へ沈んでゆくときと、同じ眼差し。それを見るのは嫌いではない。でもなぜそのふたつが同じでなければならないのだろう? 一時期、別だと思いこもうとしたことがあった。そして結局、諦めた。そういうことは、あやふやなままにしておいたほうがいいのだ。それを身をもって学んだ。少し遅い学習だったと思う。伯爵の顔に、そしてそこから連想されるものに吸い寄せられそうになる目と意識を引き剥がし、少佐はつとめていつものぶっきらぼうな口調で、云った。
「そいつを知っとるのか。なら話が早い。そいつはドイツ銀行の地下に埋まっとった。その中に、ナチスが開発をもくろんでいた……というより、完成させたらしい、生物兵器の詳細が眠っとる。たぶん現物と一緒に。中に入っとるものがものなんで、不用意にぶち壊すわけにもいかんとお偉方がうるさくてな。ドイツのものはドイツ人で片をつけたかったんだが、あいにくそのロックを解除できるような腕のやつが国内におらんかった」
「ナショナリストの君としては悲しいことだね」
伯爵は写真から目を離し、同情をこめて云った。
「これを知らない泥棒は泥棒じゃないよ。金庫破りの勉強をしてれば必ず出てくる。教科書で必ず学習する作品ってあるだろう? 君の国でいけばシラーとかさ。なんだか、運命的なものを感じるな。このダイヤルロックを作ったのはね、君たちの国でもっとも偉大な職人だよ。一説では、本職は皮革細工の職人だったらしいけどね。鞄とかそういうものを作る。彼ならきっと、三百年たっても壊れないような鞄を作れたんだろうな。イタリアでこれを見て、彼の情熱を感じたとき、ふるえが止まらなかった。緻密で繊細で知的な、本物の情熱。職人の情熱だ。すべての芸術は、職人技だからね。絵でも彫刻でも家具でも機械でも、なんでも。途方もない努力と試行錯誤の末に、ついに掴みとる光。インスピレーションだけでは、作品は完成しない。九十九パーセントの努力と、一パーセントのインスピレーション。芸術の配分だよ。このウォルター式ダイヤルロックは、世界で三つしかない……と云われてる。ひとつはイタリアに、ひとつはドバイにあるって聞いたことがある。それで、もうひとつはここ。ひとつだけ、お国に残ってたわけだね」
熱っぽく語る彼を見ているのは嫌いではなかった。泥棒家業は気に食わないが、それに従事する彼を見るのは、悪くない気分がする。少佐はそこに、彼の自由を、飛躍を、跳躍を見る。そして彼の蛇のような動きをする指先。躍動感と情熱、少し上向きになる体温、彼の興奮がもたらす香り。
「んで、開けられそうか」
伯爵は首を傾けた。
「うん、たぶんね。このロックはだね……泥棒講義をしてあげるよ。ほら、これを見て。一番外側の円がアルファベット、その次がギリシア文字、そしてローマ数字。さらに、ダイヤとハートとクローバーとスペードの絵……ここ、金細工になっているんだ。きれいだな。これがすばらしいのはね、単純にすべてのパターンを試していっても永遠に当たりが出ないことなんだ。ダイヤとハートとクローバーとスペード。このうちのどれかがキーになるんだけど、なんらかの組み合わせを試すたびに、キーがずれていってね、わかるかい? 永遠の鬼ごっこなんだ。涎が出そうだ。ぞくぞくするよ。おまけにこの子ときたら、ディスクの回転がなめらかすぎて音も立てないし、手応えもほとんどないときてるんだからね。これを作ったウォルターってひとは……慎み深いひとだったみたいで、どんな人生を送ったのかは謎なんだけど……すばらしい宿題を残してくれたわけだよ。でも、開けられると思うよ。真にその情熱を理解し、崇拝する者には、心を開いてくれる。芸術的な仕事って、そういうものだ」
伯爵は感動から、ほとんど泣きそうな顔になっていた。静かな歓喜の前に、静かに涙を流す。そういう瞬間を、何度か見ている。そしてその静けさの前にこちらも打たれたような気分になって、ただ静かに抱き合う。そのときの空気が、伯爵の周りに充溢していた。少佐は、微笑したいのをなんとか抑えた。任務中、任務中であるぞエーベルバッハ少佐。だから彼はただその空気を感じ取ることで満足しようと努めた。
「そいつをめでたく開けた場合の報酬は……」
「お金なんて! これを見てわたしを思い出してくれただけで、十分名誉なことなんだよ。でも、一応聞いておくよ。ジェイムズ君が、ただ働きを許さないからね」
「百万ポンドだ」
「ふうん! 君のとこ、財政難?」
「いちいち癪に障ることを云うな、殴るぞ……確かに、いつぞやに比べたら支払い額が減っとるがな。だがその代わりに」
「代わりに?」
伯爵が催促するように云った……ああ、云いたくない。云いたくない。云ったら、彼を面白がらせてしまうし喜ばせてしまう。それも部長の陰謀で。部長は、エーベルバッハ少佐にいやがらせをすることに命をかけているふしがある。そしてエーベルバッハ少佐を不機嫌と絶望と憂鬱の中へ引きずりこむには、エロイカを引きずり出すに限る。そういう図式が、部長の中には出来上がっている。間違いではない。ひどい間違いではない。エロイカは、エーベルバッハ少佐の人格、理性、品性、および感性を、めちゃくちゃに引きちぎってくれる。彼といると、人生は嵐だ。感情と興奮が、怒涛のように押し寄せる。そしてふいに凪が訪れる。荒れ狂い、息も絶え絶えになり、かと思うと嘘のように静寂が広がる。あらゆる感情と情熱がごっちゃになった奔放な、おそれをしらぬ洪水。それが彼だ。こんなのとまともにつきあっていると、もたないと思う。でもどうしても、離れるわけにいかない。そして実際、離れることは叶わない。大砲のない戦車などあり得ないように、エーベルバッハ少佐とエロイカは、分かちがたく結びついている。あらゆる状況が、運命が、天啓が、それを助長する。今回もまたそうだ。
「……おれは任務が終わったら、たまっとる有給休暇の消費を兼ね、三日間イギリスに送られる。報酬として無償で貸し出すそうだ」
伯爵は口笛を吹いた。
「壮大な嫌がらせだね。君、ほんとに部長に嫌われてるんだな。かわいそうに。まあ、わたしはとてもうれしいけど。部長のこと、抱きしめてキスしてあげたいよ。それくらいしてあげないといけない気がしてきた。だけど、ねえ!」
伯爵はしばし笑い転げた。
「君を好きにする権利か。君の一日は、いくらに相当するんだろう? じゃあこれから、君が見たくなったらNATOにお金を払えばいいわけだね? 一日一千万ポンドくらいかな? いいこと聞いちゃったな。だけど、君の部長って、きっとわたしの天使だね。守護天使は誰にでもいると云うけど。電話して、お礼を云っておくよ。で、君は承諾したんだね? そうに決まってる。仕事の鬼の君のことだからね。それが与えられた任務なら君はそうする。それ以外に方法がないし……」
「しゃべりすぎだ、阿呆」
伯爵は諸手をあげて黙った。でもその顔はにやついていた。
「これ以上云わないから、ひとつだけ云わせてくれないかな」
少佐は鼻を鳴らした。
「君と三日間なにをするか、じっくり計画を立てようね」
伯爵は微笑した。ふん、と少佐は云った。失敗するなんて可能性を、微塵も考えていないらしい。
「承諾したなら、一緒に来てもらう。お偉方が焦っててな。泥棒の事情を考慮してるひまはないんだとさ。おれはいつから使いっ走りの用足しになったんだ、まったく」
「そりゃ、お急ぎだね。飛行機? 何時?」
「十二時半のやつだ」
伯爵はふうん、と鼻を鳴らした。
「ねえ、まだ三時間くらいあるよ。まあ二時間移動やらなんやらでとられたとして……一時間猶予があります」
少佐は、たいへんいやな予感がした。伯爵は身を翻しドアのところへ歩いて行って、ドアを開けて上半身をつっこんだ。
「ボーナム君! ボー、ナム、君! あのねえ、これからドイツで仕事だよ! 少佐がすてきな仕事を斡旋してくれたんだ。仕事が来たのはいいけど、十二時半の飛行機に乗らないといけなくなったよ。いやいや、準備は特にいらないんだ。わたしの指がドイツに行ければ。さあ、三日分くらいあればいいんじゃないかな? それは行ってからのお楽しみだよ。莫大な報酬があるよ! わかった、わかったよ、ジェイムズ君。費用は向こうもちだよ、もちろん。君のお金は一ペンスだって減らないんだよ……わたしはこれからちょっと少佐と庭を散歩してくるからね。小旅行の準備を頼むよ……服以外の。服は自分で選ぶよ。少佐の故郷へ行くんで、おしゃれしないといけないからね。だって、いつ彼の親族に会わないとも限らないだろう? 第一印象はよくなくちゃいけないからね。あ、テディベアを忘れないでくれたまえよ。あれがないと落ちつかないんだから」
少佐はあやうく、出されたお茶を吹き出すところだった。
「これでよしと。着替えてこよう。もうオイルも乾いたから。外へ出るときにはさすがに、まともな服を着ないと。どんなのがいい? 庭を散歩するときに適切な服って、なんだろう? 過ごしやすいもの? 動きやすいもの? 脱がしやすいっていうのもありだけど……わかったよ、わかったってば、黙るよ。銃を向けるのはなしだ、暴力反対! 時代は平和主義だよ!」
伯爵は大急ぎで部屋を出て行った。少佐はすでに一日分の体力を使い切ったような気分になっていた。バッハのカンタータだろうがベートーベンの交響曲第三番だろうが、伯爵の無秩序なおしゃべりには絶対に勝てないだろう。
どんよりと空を覆っていた雲が、散りはじめていた。伯爵はレースをたっぷりあしらった、ゆったりした絹のシャツを着て、満足げにバラの生垣に囲まれた庭を歩き回っている。恋人の踏んだ地面をも愛するという一文があったが、彼の麗しき足は、スペインの美しい刺繍がほどこされた靴にくるまれていた。指の先まで、彼はたしかに美しかった。彼の肉体には、一部のたるみも歪みも弛緩もない。すべてがほどよい緊張感と怜悧さをもってかたちづくられている。ギリシア式の雄々しさでなく、現代の狂疾的な線でもなく、抜群のばねをもつしなやかで均整のとれた肉体。彼が動くのを見るたびにそれを考える。思い出す。夢想する。耽溺するのは性に合わないが、たぶん性に合わないことをするのが人生だし、恋だ。それを自身のうちに招き入れた瞬間から、人間は気ちがいじみた獣になる。あるいは崇高な精神に。そのどちらでもある。そのあいだで揺れる。その揺らぎを、彼はいつも連れてくる。
「麗らかに晴れたる春の日の、輝く陽はわがめぐみにひろがり……ワーズワース。昨日の夜、雨が降ったのかな? みずみずしくて美しい朝だ……雨の蒸発とともに立ちのぼる草木の匂いってすばらしいね。こういうとき、セッターとかなにか、相棒になるような犬がいたらいいなあと思うよ。飼えないけど。だって、死んだときすごく悲しいからね」
少佐は煙草に火をつけ、犬を飼ったことがあるのかと訊ねた。
「あるんだ。実は。子どものころ。一番上の姉が、まだ小さかったころに飼いはじめた。だから、わたしがすごく小さいときに死んでしまったけど。ほんとうに悲しかったよ。冷たくて、動かない身体……忘れられない。大事にしていたカナリアが死んだときも、とても悲しかった。昨日のことみたいだ。時間は凍結してしまうね、悲しい思い出の前には。でも喜びの体験は、時間を推し進めるんだ。堂々と扉を開くみたいに」
「生家は、ここじゃないんだったか」
返事がこれでは、話を聞いていないように思われるだろう。事実、少佐はよくそう誤解される。実際には、相手の話になにかをつけ加えることを差し控えているだけなのだけれど。そして相手の話が尊いものであればあるほど、彼の生真面目さはそれを保持しようとする。彼はすばらしいものは、そのままにしておくのが好きだ。自分が手をかけた瞬間に、崩壊するかもしれないと思う。おそれというより、敬いだ。自分のがさつさは、自分が一番よくわかっている。
「そうだよ」
伯爵は振り向いて、微笑した。
「その話、覚えていてくれたんだ。した記憶はあるけど、覚えていてもらおうなんて思っていなかったから、うれしいね。父親も息子も男色家とあってはね、女系家庭は崩壊せざるを得ないよ。家を手放して、いろいろなものを失ったけど、でもわたしは両親が離婚してからのほうが人生、面白くなった。父はわたしを、ほんとうに好きにさせてくれたからね」
「それが問題だ。おまえは甘やかされすぎとる。おまえの頭には、自制と規律が絶望的に足りない」
伯爵はまた微笑した。絹糸のようなつやのある見事な巻き毛が、陽光を受けてほとんど透けるように、きらめいた。
「わたしは人生から、自分の思うままに生きよっていうメッセージしか受け取ってこなかったんだ」
彼はゆっくりと円を描くようにして歩きだした。
「人生は美しいよ。毎日、すばらしく楽しい。抑圧とか理性とか、ああいうのってたぶん、不能で、もてない、楽しむことを知らない男が考え出したんだ。そんな人生ごめんだね」
伯爵は手入れの行き届いたバラの木の一本一本に触れながら、ときおり立ち止まり、その香りを楽しんだ。庭のどこかで、ひばりが鳴きはじめた。伯爵はそれを聞きつけ、しばし立ち止まって、耳を澄ませて楽しんだ。太陽が彼の上に、母親の腕のように慈しみをもってやわらかく光を注いだ。むせかえるような草木の、そしてバラの香り。バラの葉の影が、ゆったりした彼の白い、レースがこれでもかとばかりについたシャツに、幾何学的な模様を描き出していた。
人生に、世界に、あるいは神に、愛されている存在。世の中にはなぜか、絶対的に幸福な人間と、そうでない人間がいる。少佐は無神論者というより宗教全般への過度な干渉を避けてきたのだが、仮に幸福な人間は神に愛されているのだとするならば、この伯爵は、それを一身に受けているかに見える。美しい顔、夢を見るような造形、物質的な富と、精神的な富。彼はそのいずれも、もっていた。彼を見るとき、人間はどこまで自分に正直でいることができるか、ということを考える。自分には、もう無理なことだった。軍人だった父親に軍隊式の教育を受け、それがすっかり肌に馴染んでしまったために、少佐はもはや自分が少佐という、軍人という肩書きをとりのぞいたとき、いったいどのような人間であるべきかを、忘れてしまった。でも伯爵を見ているとき……彼の微笑や巻き毛のきらめき、いっこうにまとまらないおしゃべり、秩序のかけらもない、軽やかな行動、むき出しの欲求。そうしたものの中に、少佐は忘却していたものを垣間見る。人間は皆、こんなふうに無邪気だった。やりたいことをやり、自分の感情が正しいこと、自分の感性に間違いはないことを知っており、そして、すべてそれでよかった。守るべきものはなにもなかった。自分を傷つけるものなど、存在しなかった。それと引き換えに、なにを手にしたのか? 頭脳戦、数多の傷、張りつめた攻防、不安と動揺……作為的なものはすべて愚かしい。すべてあるがままがもっとも美しい。あれは老子だったか?
「幸せなやつだ」
少佐は煙を吐き出しながらつぶやいた。伯爵は振り向いた。彼のまわりで、ふたたび金の光がきらめいた。巻き毛まで微笑しているようだ、と少佐は思った。
「そうだよ、わたしは幸福なんだ。人生は、楽しくなきゃ変だと思ってる。世の中のひとたちは、わたしの幸福を幸運のせいだと云う。家柄や容姿や、そういうものにたまたま恵まれていた、ラッキーだったんだって。でもそれは違う。わたしは望み、それを貫いた。信じていたんだ、望むものは手に入るって。このふたつだよ、人生に必要なことは。望むこと、そしてそれを信じることだけなんだ」
伯爵はバラの花をひとつ摘み取り、まっすぐに歩いてきて、目の前で立ち止まった。
「わたしが望んできたものは、全部、ここにある。あらゆる美、静けさ、居心地のいい根城、内面の充足、そして君」
左耳に、バラが差しこまれたのを感じた。伯爵の唇が、ゆっくりとこちらの唇に触れた。
「絶望に限りがないように、幸福にも限りがないんだよ。たとえばね、いまわたしの足がもげたとか、腕がなくなったとか、なにか肉体的な部分がいちじるしく損なわれること……そういうことになったとしても、わたしは幸せだろうと思うよ。そしてね、わたしは、君もその中へ連れていくよ。君が不幸せだっていうんじゃないよ。怖くなるような幸福の中で、まどろむことを、おそれなくなること。日差しの中で、行き届いた美しい庭で、転がり回ることをおそれないこと。人間は本来、そこにいるべきなんだ。絶対的な幸福の中に。美しさは、わたしにその場所を思い出させてくれる。そしてその場所では、なにもかも、消え去ってしまう」
伯爵はうっとりとした顔で、彼の肩に頭をもたせた。少佐は受け止めた。首筋に、温かい伯爵の呼吸を感じた。ゆっくりと、深い。伯爵の云うことは、ときどき理解できて、ときどきは、理解不能だった。けれども、そういうことばのすべては、たぶんこの身体のどこかにしまわれて、静かに働きかけ続けるだろう。そういう力が、ときどき、人生には必要だ。感傷的だ。しかし人生とは、そこからもたらされるドラマとは、ひとつの感傷でなくてなんだろう。絶対的な真実は、内的確信は、いつも様々な感情の狭間から、立ちあらわれるものではないか。
彼は長い巻き毛を丹念に払いのけ、その中から美しい顔を掻き出した。そうしてそこへ、唇を寄せた。抱きあって、キスをするんだよ、クリムトの絵みたいにね、そうすると、すべてのものが幻だとわかるよ、といつだか伯爵は云った……ふたりは長いことそのまま、静かに食みあっていた。伯爵が満足げなため息をもらした。
「……向こうに、別邸があるんだけどね」
彼は情熱的な目つきで云った。金髪碧眼人種特有の、抜けるように澄んだ青い目が、静かに揺らめいていた。
「別名わたしのハレム。ベッドが特大だよ」
少佐は眉をしかめた。立ち消えたはずの不機嫌さがぶり返してきた。
「ひとりで遊んどれ色ボケ野郎が。おれは暇人じゃないんだ」
少佐はつきはなした。
「じゃ、特急コースだね」
伯爵はぴしゃりと云った。
「ここでなにもしないで帰ったら、わたしは君を見損なうよ。一生呪い倒して、鈍くさい不能って叫び回るよ」
「……かんべんしてくれ」
少佐はげっそりして云った。
「ではわたしを、愛の巣へ連行したまえ。クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ君。君の名誉にかけて」
聖テレジアの法悦。あの、名状しがたい恍惚の表情と同じものが浮かんで消えていった顔の上にいまあるのは、かすかな疲労と満足、そして相変わらず、幸福だった。だらけた顔で目を閉じ、眠りと覚醒の、そのあいだで揺れている。美しいまどろみ。もしかすると、白昼夢。
「……君ってほんとに」
伯爵がもがもが云った。意識がいくらかはっきりしてきたらしかった。
「命令されるとそのとおりに動くんだね。一時間以内にすませよ、って云うと、ほんとにその通りにするんだ……」
「軍隊式行動様式の基本、時間厳守、だからな、ふん」
「あああ、君って、たぶんどんなときでも時計の針が頭から離れない人種なんだろうな。おもしろくないなあ。ぜんぜん、おもしろくないよ。ときどき、少しくらい抜けてるほうが人間、かわいらしいんだよ」
「かわいらしくなってどうする」
「わたしが喜ぶ」
吸っていた煙草の煙を、伯爵めがけてふきかけてやった。伯爵はむせた。少佐は満足した。
「せっかくのオイルの香りが汚染された! 髪だって、パチュリのとてもいい香りがしてたのに。してただろう?」
「……ああ、そういう名前のしろもんだったのか」
その香りは、悪くなかった。甘ったるく、少佐を官能とよろこびの中へ誘った。オイルでなめらかになった肌も悪くなかった。もう少し、時間をかけてそれと戯れたかったけれど。時間を忘れたいと思うことは、よくあるのだ。ただ、立場上、そして主に習慣から、それを自分に許すことができないだけだ。
「ところで、君がわたしに捧げてくれるはずの三日間だけど」
「ん?」
「ほんとうにあるのかな、君の場合、いまいち信用できないんだ」
少佐はにやつくのを抑えるのに苦労した。
「おれの予定ではな」
「うん」
「三日間の精神的苦痛に対し、四日間の休養を必要とする、と部長に云ってある」
伯爵の顔にあの、輝かしいほころびがやってきた。そして少佐は、今度こそ、それがくそいまいましいロックでも部長の陰謀でもなく、真に自分に由来するものであることに、とても満足していた。そして自分がその瞬間を彼に与えることを、いつも、真実、耐えがたいほど望んでいるのだ、と思った。