2 誕生日会場の話

 

「今年のお誕生日はねえ、バルカン半島へ行くよ……かのドゥブロヴニク、アドリア海に浮かぶうるわしい都へ」
 少佐は寝転がって目をつむったまま、あまり興味がなさそうに受話器の向こうへ「ん」と返事をした。
「そこに住んでいるお友だちの担当なんだ、今年はね……きみは今年も仕事なの?」
 少佐はまた実に気のないふうで、きっとそうだろうと云った。
「まあ、そうだろうね」
 伯爵さまはにやにや笑いを浮かべているらしい調子で云った。
「きみはそれでいいのさ」
 少佐は電話を切ってメリーさんのひつじをやり、眠りについたが、頭のなかでしきりになにか新しい考えが渦を巻いて、形を為そうとしているのを感じた。今年の誕生日は、もちろんエーベルバッハ少佐は例年のごとく仕事であって、例年のごとく仕事でありながら現場へ駆けつける予定だった。
 クロアチア……ドゥブロヴニクか……アドリア海の真珠だかなんだか云われておる観光地だ……ルフトハンザで行けば具合がいい、ドイツの航空会社は信用できるからな……アドリア海の真珠か……あいつの誕生日は二十八だ……それまでに……そうだ、今回は執事をみやげにつけてやろう。執事がおれの計画についてどう思うか、直接そのときに聞いてみなけりゃなるまい……執事がわめくようなら、多少は考えなおさにゃならんかもしれんからな……二十八か……まだひと月以上ある!
 エーベルバッハ少佐はうつらうつら考えて、ひとりでにやつきながら、いつの間にか眠りについていた。

 

 このうるわしいアドリア海沿岸をクロアチアが占領してしまっているのは少し不公平じゃないかしらん、と伯爵さまは思った。ボスニア・ヘルツェゴビナにだって少しくらい権利があるはずなのに、沿岸一帯はみんなクロアチアのものだなんてちょっとどうかしている。地図によると、アドリア海をのぞむ両海岸をイタリアとクロアチアがほとんど独占していて、モンテネグロとアルバニアがイオニア海へ抜ける手前を申し訳程度に一部所有しているといったありさまだった。それにしてもイタリアはめぐまれすぎている。いずれも青く美しい地中海とアドリア海を、国の両側で享受しているなんて。まあでも、そんなことは観光客には関係のないことだ! 地政学や国境線の問題は、学者や政治家が勝手に云いあらそえばいい! 伯爵さまは微笑し、地図から目を上げた。ともかくも、目の前にはまぶしいエメラルドグリーンに輝くアドリア海が広がっている!
 伯爵さまは、このたびの主催の招待によって、七月二十日、正しくロンドンの邸宅よりドゥブロヴニクへ運び出された。正確には、彼らがいるのはドゥブロヴニク湾から少し南西に離れたところにぽつんと浮かんでいる島で、その島は正しくこのたびの主催の所有地であり、ドゥブロヴニク湾からボートやクルーザーに乗って移動するのだ。
 アドリア海をはさんで向こうに住んでいるボロボロンテは、みんなのためにもてるクルーザーやボートを総動員した。彼は名うてのイタリアマフィアであり、地中海もイオニア海もアドリア海も自分のものだと思っていたから、自分が移動手段を出すと云ってきかなかった。そうしてなにをどうねじふせたのか、イタリアからどしどし真っ白なやつを送りこんできて、いくつもドゥブロヴニク湾へ浮かべた。
 きわめつけは伯爵さまの名を冠した客船だった。ボロボロンテは伯爵さまを愛するあまり、彼の名をつける許可を取りつけた優美な客船を特別に作らしており、それを引っぱり出して自慢する機会をいつもねらっていた。空港からぞろぞろとやってきた老若男どもは、工場の製造レーンに乗せられた商品よろしく順繰りにこの純白の客船につまれ、深紅と金とでみごとに統一された船内で伯爵さまが来るのを待った。ボロボロンテの忠実な手下どもと主催の使用人たちが大わらわで、タラップに赤い絨毯を敷いたり、シャンパンとグラスとオードブルの用意をしたり、伯爵のために撒く白と赤のバラの花びらをむしって準備したりしていた。
 伯爵さまはより抜きの美青年たちに取り囲まれて姿をあらわした。お友だちはみんな元気に手を振って伯爵を迎え、タラップから船内へ順序よく並んで、彼に向かってバラの花びらを撒いた。伯爵さまはお友だちのひとりひとりに各駅停車して、キスしたり抱きしめたりして挨拶を交わしたため、この行列のあいだをぬけきったころには、例のうるわしい巻き毛は花びらまみれになっていた。
 それからみんなしてシャンパンを開け、船は島へ向かって景気よく汽笛を鳴らして出港した。今回の主催は、みんなに向かってスピーチをした。彼は今年のお誕生日会がなんといっても一番だったと後々までも語り伝えられるように全力を尽くす、と云って、みんなの盛大な拍手を受けた。
 船が島の入り江に着くと、伯爵を先頭にみんなわらわら船から下りて、島の上におっ建てられた白亜のホテルへ向かった。五階建ての立派なホテルで、このお誕生日会のために特別に作られたものだった。彼らはホテルの空調の利いたレストランやスパや屋上のプールなどを案内されたのち、それぞれあてがわれた部屋に連れて行かれた。伯爵さまは最上階の特別室をあてがわれた。若いハンサムなボーイが荷物を運んでくれた。ボーイは伯爵さまへたっぷりの感情のこもった目配せをしてよこした。
 ホテルのある島はすばらしかった。起伏の少ない歩きやすい島で、どこもかしこも美しい樹木に覆われていた。島の周囲は天然のビーチで、ひとがビーチでするようなことはなんでもできた。散策用の小道が整備され、島じゅういたるところにある美しい眺めを楽しめるようになっていた。みんなはじめのうちは島を興味深く眺め、続いて要塞に囲まれたドゥブロヴニク旧市街へ繰り出したり、海岸沿いにある島々をうろついたりしたのだが、いかんせん夏だったので、どこも観光客でいっぱいだった。伯爵さまやそのお友だちが、そうした一般の観光客に紛れていいものだろうか? みんな疑問に思った。そこで、みんな早々に観光をよして、おもに浜辺で過ごしたり、具合のいいホテルの部屋やプールでごろごろするようになった。

 

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