ヘルム=アプロディトス
わたしがもっとも美しいのは眠っているときだ、とよく云われたものだ。いろいろな男に。眠っているときの君はかすかな微笑を浮かべているように見える、うっとりして、甘美で幸福そのもの、とろけそうに美しい、と。でも残念なことに、わたしは眠っているわたしを見ることはできない。彫刻を作ってくれた男はいた。描いてくれた男もいた。わたしはうつぶせになり、枕に腕を組んで、その上に頭を乗せ、腰から下を軽くひねって脚を物憂げに少し曲げて投げ出している。偶然にもどちらも同じ構図をとっているのは、たぶんそれがもっとも美しいポーズだからだろう。あるいは、「眠れるヘルマプロディートス」に霊感を得たのか、それはわからない。わたしはもちろん裸で、どこか陶然と目を閉じている。唇を優しく結んで。実際、わたしがこの両性具有の神にたとえられてもまあ、間違いではない。ヘルメスとアプロディーテーの美しい息子であるこの神に。わたしが唯一加護を願うべき神はヘルメスであり、一番の恵みを与えてくれたのはアプロディーテーだ。
彫刻の方は、いまもそれを作った彫刻家の家にある。飾られているというよりは秘蔵されていて、彫刻家のひそかな官能の楽しみを支えている。かわいそうなピュグマリオーン、彫刻のわたしはキスしても目覚めない。あの男のキスでなくてはね。
そのキスで、わたしは目覚めた。髪にされた優しいキスで。わたしは幸福なまどろみの中にいた。情熱的な交わりのあとの至福のとき。なまあたたかいベッドの中、うっとりと目を閉じてうとうとする。クラウスがベッドを出て、なにやらごそごそやっていたのは知っていたけれど、わたしは気にとめなかった。それよりもまどろんでいたかった。オルガスムスのあとの、気だるい感じを引きずって。
目を開けて首をひねると、彼が枕元に腰を下ろしてわたしを見下ろしていた。濃紺のガウンを着て。彼も紫がよく似合う。「かぼちゃパンツ」をばかにはできないよ、君。わたしが微笑みかけると、彼は壁に向かって顎をしゃくった。わたしは彼に従った。そうして、彼がなにをしていたのか理解した。
眠れるわたしの彫刻は彫刻家が所持しているけれど、絵の方は、画家が死んだのでわたしの手元にあった。あるとき、わたしはそれをクラウスに見せた。わたしの城に招待したときのことだ。見せないわけにいくだろうか? その絵は、わたしも気に入っていたのだ。アンティオペーやエンデュミオーンの眠る姿にだってひけをとらないはずだ。美しく、見ているだけで幸福になれそうな、うっとりした絵。クラウスはそれを見て、しばらく黙っていたけれど、やがてこう云った。おれは名うての芸術オンチだが、この絵の価値ならわかる気がする、実物を知っとるからな、と。わたしは笑って、彼にもたれかかった。クラウスはその絵がとても気に入ってしまったみたいで、わたしのところに滞在中、何度もそれを見に行った。そして、その絵とわたしを並べて鑑賞することを思いついた。そういうところが彼にはあるのだ。思い立ったが早いか、重たい額縁ごと絵を運び出し、寝室のベッドの壁に立てかけた。わたしは彼の目の前で服を脱ぎ、ベッドに横たわると、同じポーズを取った。そのあとのことは推して知るべし。そしてそれはわたしたちのあいだでときどき行われる、密かな楽しみになった。わたしはその絵を彼に贈った。ひとりのときにも、彼がわたしの寝姿を楽しめるように。
それは忠実なる執事のコンラートのみが知る彼の所蔵物となり、今回はなんとエーベルバッハ家からはるばるここまで移動してきたわけだ。ここへ来た初日に、当然のように寝室の壁に立てかけられた絵を見て、君ってばかだな、とわたしは云った。クラウスはまあな、と云った。でもこいつはしまっておくか。クラウスは云い、コンラートに大きな布を持ってくるように云いつけ、その絵を覆った。どうしてしまっちゃうのさ、とわたしは訊いた。クラウスはにやりと笑った。しばらくは実物のみを鑑賞する。わたしは笑い転げた。そうだね、実物と絵を同時に鑑賞するなんてのは、文化的にもちょっと高度な遊びだ。そうだろ、とクラウスは答えた。そういうのは、もうちょっとあとになってからだ。彼はなにげないふうに云ったけれど、わたしは彼が、本調子じゃないんだな、と思った。そして彼がわたしを、いまここにいて息をしているわたしを求めていることを感じた。
いま、わたしの絵は覆いを外され、壁にとりつけられたホタテ貝をモチーフにしたランプと、床に置かれたいくつかの蝋燭によって照らされている。薄暗い中、オレンジに浮かび上がる絵はとても幻想的で、見慣れたものとはまた雰囲気が違っていた。わたしの肌はどこかなまめかしく濡れた感じを帯びており、わたしの寝顔もどこか淫猥な感じを、好色で、なにかみだらなものを期待しているような感じを帯びていた。わたしはクラウスを見た。彼は絵を見ていた。
「おれはやっぱり芸術オンチだな。さっき気がついたんだが、こいつは、事後だ」
絵を指さし、クラウスは云った。わたしはその意味をとっさにはかりかねたが、少し考えて、理解した。そうして微笑を浮かべた。
「どうしてそう思うんだい? 教えて」
わたしはささやくように云った。そうして身を起こそうとしたが、クラウスにやんわりと止められた。わたしは微笑して、あの絵と同じポーズをとった。目は半分開けて。クラウスはわたしの上にかかっていた布団をゆっくり取りさった。そうしてしばらく、わたしと絵を見比べていた。
「……どうしてって、そうだからだ」
「そう感じた?」
「ああ」
「たとえばどんなところから? 君の解釈を聞かせてよ」
クラウスは少し考えていた。
「顔がな」
「うん」
「顔つきが、というか。あのうっとり具合は、なかなか上等なやつを一発こなして、なんだ、まだその雰囲気の中にひたってるとき……なわけだ、とにかく」
わたしは微笑した。
「それにいま気がついたの?」
「だから、オンチだって云っただろ」
わたしは声を上げて笑った。
「そうだね……もしかしたら君の云うとおりかもしれない。でもわたしには、自分の寝顔を見ることができないから……だけど、君がそう云うなら、そうなんだろうな、きっと」
クラウスは立ち上がり、ガウンを脱いでわたしの隣に横たわった。わたしと絵を見比べられるように、頬杖をついて上半身を起こして。わたしは首を後ろへひねった。
「たとえば今日なんか、わたしはこういう寝顔をしていた? 今日はとても素晴らしかったよ……」
クラウスは鼻を鳴らして笑った。
「さっき気がついた、って云ったじゃねえか」
「ああ、そうだったね」
わたしは笑い、首を元に戻して、目を閉じた。彼がわたしの巻き毛をいじりはじめた。あの絵と同じような具合になるように調整しているらしかった。
「君、それに気がついたからには、この絵を見る目が変わっちゃうね」
「まあ、ポルノじみてくるのは事実だな」
「どちらかといえば牧歌的な絵だったはずなのにね」
「牧歌的ってのが適切かどうかは知らんが……しかし、よう描いたもんだな、この画家は。恥ずかしげもなく、まあ」
「芸術なんて破廉恥で不道徳なものだよ」
巻き毛を整えていた手が離れたのを感じた。そのまましばらく時間が過ぎた。たぶん、彼はまた絵とわたしとを見比べているのに違いない。わたしはなるだけ絵の感じに近づくように、軽い微笑をたたえて口を閉じていた。さっき彼としたあれこれを思い出しながら。やがて彼は静かにわたしの上に覆いかぶさってきた。耳に口づけられ、耳たぶを噛まれた。
「この画家とは長かったのか?」
彼の手がわたしの身体をなではじめた。わたしは唇を持ち上げた。
「どうだろう……長いってどれくらい? 一年以上? それとも寝た回数による?」
クラウスは鼻を鳴らし、わたしの身体とシーツのあいだに手を滑りこませてきた。
「わたしがこれを描いた男に、君に対するのと同じような愛情を注いでいたなんて思わないでほしいな。彼のことは好きだったけど、そのときわたしはほかにも好きだと思う男がいたんだ。愛してるのとはちょっと違ってた。みんなね」
彼の唇が背筋に沿ってすべってゆく。わたしはそれに小さく身体を震わせ、息を漏らした。腰まで進むと、今度は舌が同じ道を戻ってくる。耳まで戻ってきた舌はそのくぼみを舐めまわした。わたしはそのぞわぞわするような音に、軽く興奮しはじめていた。
「そいつよかったのか」
彼がそうささやいた。わたしは唇を歪めた。
「まあそこそこにね……」
胸や腹部を這いまわっていた手が、下へ伸びてゆきわたしを掴んだ。
「ねえ、君、今日はもうおしまいだよ」
とても素晴らしい体験をしたあとに、また改めてもう一度する気にはなれない。その余韻が消えてしまうから。それは彼だってわかっているはずなのに、彼は手を動かしはじめた。唇の方はわたしの背中を吸いあげ、甘咬みしている。
「ちょっと、だめだってば」
わたしはあわてて枕に押し当てていた腕を解いて、彼の手を離そうとしたけれど、彼は力を入れてわたしにのしかかってきた。わたしは抵抗した。でも彼は本気だった。空いている方の手でわたしの腕を押さえつけ、もう片方の手は動きを止めない。わたしは完全に彼の下敷きになった。
「君ねえ……」
ちょっと文句を云ってやろうと思ったのに、わたしは思わずうめいた。彼が指先でわたしの先端を強く撫でまわしはじめたから。そうして、わたしの腕を押さえつけていた手が外されたと思うと、彼はわたしを開いて、強引に押し入ろうとしてきた。
「わかった、わかったよ、わかったからそれは待って……もう、待てってば!」
わたしは微妙な体勢だったが、彼の脚を蹴りつけた。彼が一瞬動きを止めた。わたしは首をひねった。ともに鋭い視線がぶつかった。どちらの目もわずかだが怒りを帯びていた。違う種類の怒りを。……わたしの怒りは、それを見て瞬く間に鎮まってしまった。そうして代わりに、彼への愛おしさがどっと溢れた。わたしは視線を和らげ微笑した。すると彼の目のとげとげしさも幾分緩んだ。わたしが身をよじると、彼はおとなしくわたしが動けるように少し身体を浮かした。わたしは彼と正面から向き合った。そうして、彼を抱きしめた。
「……なにを訊きたい?」
わたしは黒髪を梳き、彼の耳元でささやいた。
「なにも」
彼は答えた。わたしは笑った。
「訊いていいんだよ」
そうささやいて、目を閉じた。
「君にはその権利があるよ、ねえ」
それでも彼はなにも云わなかった。なにもせず、ただ黙ってわたしに抱きしめられているだけ。勢いをそがれて、ばつが悪そうに。わたしは謝ろうかと思ったけれど、そんなことをしたら彼がよけいに怒るだろうと思って、やめた。そして代わりに別のことをささやいた。
「君が救いがたい芸術オンチなのはほんとだな。画家が描いた通りのものを見たなんて、一概に信じちゃダメだよ。どちらかというとね、彼らが見るのはその一端だ。そして、キャンバスに描きながら真実に到達する。それが現実に存在するか、起こるか、そんなことは問題じゃない。それが人間を、世界を、その奥深くにあるものをあらわしていたならそれでいいんだ。彼がほんとにこんなにうっとりしたわたしを見たのかどうか、それはわからない。でもねえ、たぶん、見なかったんじゃないかな……だって、わたしが感極まってそれが長らく尾を引くようなときって、必ずそこに愛があるからさ。そしてそういうのはそうそうめったに体験できることじゃないし、そんな幸福な関係だってそうめったに作れるものじゃない……この先はもう云わないよ。わたしは口を閉じるからね。君に云うことはあとひとつだけだ」
わたしは彼を真正面から見、真摯な、けれども燃えるような目を向けて、云った。
「愛して」