車の鍵

 

Perfer, obdura.
耐えよ、我慢せよ。
―― カトゥッルス

 

 少佐は職業柄、呼び出されたらいつでもどこへでも行ける心づもりがしてあった。休暇中といえど、少佐を必要とするのはなにもNATOだけとは限らなかったので、なにかの都合で呼び出されることもあった。たいがいは部下たちが気を遣って、少佐まで話を回さずにおいたが、国家レベルの要請においてはそうはいかなかった。彼らは、単に少佐から直接話を聞くために彼を呼び出すということをした。本人以外の弁は信用できないと思いこんでいるふしがあるらしかった。
 休暇三日目にして、少佐は外出せねばならなくなった。電話を切ってすぐに着替えをはじめ、愛車ベンツの鍵を持って外へ出ていこうとして、応接間で相棒のクマを抱っこしてむくれている伯爵を見てしまったのがいけなかった。少佐はどうしてもご機嫌をとらずにはいられない気持ちにおそわれた。
「夕方には戻るだろ」
 少佐はそう云って、ソファでむくれている坊やの頭を撫でた。坊やは無言だった。
「じゃあな」
 そう云ったが、少佐はなかなか動けなかった。伯爵さまはそっぽを向いていたからだ。少佐はため息をついて、おれは行くぞ、と云いのこして部屋を出た。玄関を出て階段を下りている途中に電話がかかってきた。部下Aからだった。
「おれだ。ああ、いまから行く。まったくだ、せっかくの休暇に狸じじいどもの顔を拝まにゃならんかと思うと気が滅入る。我が国が首相に女性を選んだことの意義を痛感しとるとこだ。なんといっても、見てくれもくそもない男連中の中では一輪の花に違いないからな……あっ。……いや、なんでもない。着いたら連絡する」
 少佐は電話を切ると、ベンツ姫へ向かいながらポケットをあちこちまさぐった。確か胸ポケットに入れたと思った鍵が、どこを探しても見つからない。少佐は顔をしかめ、少し考え、「あの野郎!」と叫んで屋敷へ飛んで帰った。
「ご主人さま、いかがなさいましたか?」
 玄関のドアを磨いていた執事が驚いた顔をした。
「あのばかはまだ応接間か?」
「はあ、少なくともお出かけにはなっていないかと存じますが……」
 少佐は大股で応接間へ向かい、ノックもせずにドアを開けた。伯爵はまだソファにいて、相棒と遊んでいた。
「おい、こら」
 少佐は怖い顔をして、ソファへずいずい歩いていった。
「鍵を返せ」
 伯爵さまはばかにしたようなつんとした顔を少佐に向けただけで、また相棒と遊びはじめた。
「わたしは持ってないよ」
 伯爵さまは相棒を高い高いしながら云った。
「なんなら調べてみればいいさ」
「おまえなあ、逆さにして剥くぞ」
 少佐は伯爵をつかまえ、しかしさすがに美しいブラウスをひん剥けはしなかったので、隠せそうな場所をすべて調べたが、確かになかった。
「どこへやった?」
 少佐は怒って云った。
「時間がない。遊んどる暇はないんだ。云え」
「いやだって云ったら?」
「おれの首が飛ぶ」
「へえ? 君の愛するドイツ連邦共和国は、そんな無慈悲な国なの? いましがた急に、勝手に呼び出しておいて、相手が要請に応じなかったら首を切るような、そういう冷酷な国なの? いったいここは独裁国家なの? 君は奴隷かなにかなの?」
「黙れ」
 少佐は鋭い声で云った。伯爵の顔が怒りを帯びて赤くなった。それどころではなかったが、少佐は一瞬見とれた。
「首が飛んじゃえ、君なんか」
 伯爵はそう云うと、ぷいと横を向いた。……ああああ。少佐はうんざりを通り越して、なんとなくおかしくなってきた。これはエーベルバッハ少佐のせいなのではないか? むくれている恋人に対し、どのように対処すべきか、を君は忘れたのかね? 少佐どのは、やり方を間違えたのだ。
「……なあ、おい、あのなあ」
 少佐は何度も何度もそうしてきたように、伯爵をなだめにかかった。少佐が態度を和らげると、伯爵は決まってぐずりだして、かわいそうなドリアン坊やだと泣き真似をはじめ、少佐はあやしてやらなければならなかった。泣き真似で気が晴れると、伯爵は一転してうっとりした顔になった。
「君、今日はウィスパーをつれてって。彼と離ればなれで過ごすのはつらいけど、でもわたしのかわりに。わたしだと思ってね……」
 伯爵はそう云って、少佐の手に相棒を押しつけた。そうして、少佐に小さくキスして、部屋を出ていった。
 少佐は頭をかいて、伯爵の相棒を見やった。相棒も困っていた。で、結局鍵はどうなったのか? 少佐はふと、相棒のお尻のポケットが不自然に膨らんでいるのに気がついた。鍵はそこに入っていた。
「君は、あいつがわかるかね?」
 少佐はクマの相棒に訊ねた。
「おれにはさっぱりわからん」
 ウィスパーは、そうだろうね、というように、うなずいた。

 

 目的地へついた少佐を出迎えに来た部下Aは、ベンツの助手席にシートベルトをしたクマのぬいぐるみが置かれているのを見て仰天した。でも、あまりにもおそろしくてなにも云えなかった。また、少佐もなにも云わなかった。部下Aはその日一日少佐の顔を見るたびに、おしゃれな服を着たかわいらしいクマのぬいぐるみを思い出さずにはおれなかった。彼はその都度かわいそうに冷や汗をかき、頭をふってクマのことを忘れようとつとめた。
 その日の夜、部下Aの隣で眠りにつこうとしていた彼の美しい細君は、夫が寝言で「クマのぬいぐるみが……少佐が……」と云うのを聞いた。このひと、大丈夫かしら? 優しい細君は、しばらく考えこんでしまった。

 

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