1
ベルリンは新しい街だ。少なくとも、少佐にはそのように思われる。そして落ちつかない街である。新しく、いつまでたっても未完成で、いつもどこかしらなにかを造ったり、変えたり、壊したりしている。古いものを一部に残しながら、うごめくように拡張を続けている。街じゅういたるところに見受けられる、若者たちによるわけのわからないアートとやら、どこの国から来たのか判別しかねる、さまざまな肌の者たち、立派な、巨大なガラス張りのビル、夜になれば煌々と明かりのともる街並み。
戦勝記念塔の展望台からは、ベルリンの夜の明かりがよく見渡せた。高さ六十メートル以上もあるこの塔は、ベルリンのティーアガルテン……動物公園なるだだっ広い公園のど真ん中、園内を通り抜ける五本の通りが交差するロータリー部分に、いまはぽつんと立っている。塔の上には黄金に輝く勝利の女神ヴィクトリアが、その建設目的であるデンマーク戦争の勝利を記念して、いまだ誇り高くそびえている。
塔の中へ入り、長い螺旋階段を上ると、女神の足下の展望台へ出ることができる。フェンスをはりめぐらした円形の展望台はひとがすれ違うのもやっとなほど狭いが、閉館時間も近づいた時刻には、誰もいなかった。
女神ヴィクトリアの足下で、晩秋のベルリンの夜を見下ろしながら、少佐はその街が放つ明るさに反発しようとしている自分に気がついた。塔からまっすぐに伸びた六月十七日通りのつきあたりにそびえるブランデンブルク門は、ここからではごく小さく見えるだけだが、あまりにも華々しくライトアップされているために、すぐにそれとわかる。通りを行く車のライト、ポツダム広場の明かり、天へ向かってにゅっとつきだしたテレビ塔の放つ光、そうしたものが動物公園の、いまは葉を落とした静かな木々の群れの先にふいにあらわれ、がなりたてながらこちらへ迫ってくるような印象を与える。ベルリンの夜の明かりは、少佐をなにやら威嚇するような、ものものしい気持ちにさせた。街じゅうが必死に明かりを放って、夜を、暗闇を、まがまがしいものを、不安を、重圧を、押し返そうと試みているかに見えた。
少佐ははりめぐらされたフェンスの隙間から、女神を見上げた。女神は泰然自若といった様子で、まっすぐにベルリンのはるか彼方を見返していた。磨かれ、よごれひとつ見えない女神は神々しいが、物憂い、動かぬ表情は、どこか痛々しいようにも思われた。女神は決して羽ばたかない。決して飛翔しない。ただこの場所で、このベルリンのど真ん中で、いつまでも黙って月桂樹の冠を掲げているだけだ。
塔の閉館時間になった。受付にいた男が息を切らしながら長い螺旋階段を上がってきて、少佐に抑揚のない声で、もう降りるように命じた。男は少佐が先に出ていくのをじっと待っていた。少佐は命令に従って、螺旋階段を下りていった。男は数歩離れてついてきた。少佐が塔を出ていくとき、男は自分の持ち場である受付の前で薄く笑って、
「お客さん、軍人さんでしょう。すぐわかります。わたしの父もそうでした、あなたとまったく同じ歩き方でした……」
と云った。
少佐は外へ出た。記念塔はロータリーのど真ん中にあるので、どこかへ移動するためにはいったん地下道へ降りて、また地上へ上がらなければならない。少佐はすぐそばの階段を降り、地下道へ入っていった。誰もいなかった。足音が薄明かりに照らされた壁に当たり、大きく四隅で跳ね返って、少佐の耳に迫ってきた。四隅の暗がりは、あたかも少佐を引きずりこむ機会を淡々と狙っているかのように、少佐が動くたびに一緒になってうごめき、どこまでもついてきた。
「わたしの父もそうでした…………」
少佐ははじめて父親につれられて、戦勝記念塔やブランデンブルク門を見学したときのことを思い出していた。父親は幼いクラウス少年に向かって、門の上の四頭馬車に乗った女神ヴィクトリアを差し、かつてナポレオンがベルリンを征服した際、女神がパリへ持ち去られたこと、そののちプロイセンが盛り返し、ふたたび女神が戻ってきたこと、その一連の戦争に、エーベルバッハ家の偉大なるご先祖が参加したこと、などを語った。当時まだ執事見習いのいち使用人だったヒンケルも同行していて、しち小難しい家系図を朗々と語って聞かせた。
「まず、あなたさまのひい、ひい、ひいおじいさまに当たる方からはじめなければなりませんが……」
ひい、ひい、ひい……それは遠い昔の響きだった。その昔から続くものが、いつまでも残ってたたえられているというのは実に不思議だった。クラウス少年は、自分がこうした由緒ある、壮大な歴史と直結したなにものかであることに、誇らしいような、不気味なような、名状しがたいものを覚えた。
その後彼らはバスに乗り、戦勝記念塔へ行って、話題はデンマーク戦争のことや普仏戦争のことに移った。エーベルバッハ家のご先祖は、この戦争にも名を連ねていた。幼いクラウス少年は、歴史が戦争ばかりで成り立っていることを感じ、歴代のご先祖と同じように、いずれ自分もそれに参加する義務が発生するに違いないと考えた。それはクラウス少年の少年らしい誇りを満足させ、自分の家柄に対する自信、自分の出自に対する確固たる自信を形づくるのに役立った。そしてなによりクラウス少年の印象に残ったのは、あまたある戦いの、その勝利を記念した女神の像だった。
「人生というのはな、まるまる戦争みたいなものだ」
帰りのバスの中で、クラウス少年の父親は云った。
「戦う対象が常に、ひっきりなしにあるんだ……そしてそれに、勝ち続けなければならん。もっとも、おまえはまだそんなことを考えなくてもいいがね」
戦うこと、そしてそれに勝つこと、という、人間にとって一種不可避の衝動が、クラウス少年の中でたしかに意識されたのは、このときだったのかもしれない。戦争と勝利、そして勝利の女神の関係は、幼いクラウス少年になにか不思議な感銘を与えた。母親のいないクラウス少年にとって、女性というものは親しみが持てるような、近寄りがたいような、いわく云いがたい存在だった。戦いに勝てば、美しい女神を得られるのだ、とクラウス少年は考えた。それは非常に魅力的なことに思われた。クラウス少年はその日から幾度か、美しい女神が地上に舞い降りてくる夢を見た。クラウス少年はたいへんな冒険を成し遂げるか、悪の敵を粉砕するかしたあとで、女神は彼の勇気をたたえ、その美しい笑みを向けるのだった。
少佐は暗く閉塞した地下道をくぐり抜けて、六月十七日通りに出た。ライトをつけた車がひっきりなしに行き交う通りは明るく、少佐はまぶしかったので、しばし目を細めて明るさに慣れるために立ち止まっていた。それからこの大通りを例の、ひと目でわかるという軍人式歩行でつかつか歩いていった。
少佐は歩きたかった。ベルリンでは、少佐はいつもどこか身体の隅が落ちつかなかった。ボンは小さな都市だ。ローマ帝国の時代にまでさかのぼる古い街は、すでにできあがり、とうの昔に成熟して、ひっそりと余生を送っているかに見える。そのような場所の、これまた古い家柄に育ち、根を張って生きている、そういう人間は、古く、安定し、もはや枯れかけているようなもののうちに、静かな安らぎと、豊かな憐憫のようなものを見出すのかも知れない。
ブランデンブルク門に到達した。門は四方からライトに照らされて、華々しく漆黒の中に浮かび上がっていた。その上に鎮座する四頭立て馬車に乗った女神ヴィクトリアは神々しく、威厳たっぷりに見えた。門の前のパリ広場は昼間のように明るく、まだ観光客がうろついていた。彼らを狙った露店や大道芸人も、数多く残って営業を続けていた。周囲にはしゃれた現代的な建物がいくつも建っていて、あの手この手で観光客たちを惑わす。それで、お客連中は門を見学し写真に収めると、せわしなくそういったものの中へ吸い寄せられていく。歴史的門の威厳はすでにない。女神を信奉し祈りを捧げる者はとうの昔に死に絶えた。観光客たちにとって重要なのは、見学の証拠に門を写真に収めること、その次にはきっと、あたりのレストランで飲むドイツのビールなのだ。
少佐は感傷的な気分だったのかもしれない。かつて力を持っていたもの、そして歴史の流れにもまれ、この世から駆逐され消えてゆくものの静かな嘆きと足掻きが、胸にせまってくるようだった。名ばかりが広く知れ渡り、すっかり大衆化されて、いわば守られながら虐待されている歴史あるものたちと自分とは、どこか似ている。少佐はそういうものが、自分のうちにも流れているのを感じる。自分の名前にくっついた「von」の三文字の重みを、少佐は感ずる。ひい、ひい、ひい、のつらなり。沈みゆく三文字。それがあることで、少佐はこれら過去の勝利を記念したものたちと、親しくする権利を有しているという気持ちになる。
少佐はブランデンブルク門上の女神に向かって、心から敬礼した。それから女神の下をくぐり抜け、さらに先へと歩いていった。明るい街並みに刃向かい、少佐は影を求めて建物に寄り添うように歩いた。ところどころにわだかまる影は優しく、明るさに疲れた彼を迎え入れた。少佐は影から影へと渡りながら、自分がつかの間休息しているのを感じた。少佐はいつしか微笑していた。勢いよく角を曲がるたび、愛用のトレンチコートの裾がくるりとひるがえり、それ自身、舗装された道に濃く黒い影を落とした。