もしも伯爵が部長秘書の代理としてやって来たら
ため息混じりの祈り
「ああ、それから」
いつもかけている度のきつい眼鏡の端を指先で持ち上げ、部長秘書のシュヴァイツさんは思い出したように云った。
「わたし、来週は休みを取っていますから。ちょっと遅いバカンスよ」
エーベルバッハ少佐は二、三度目を瞬いた。
「そうなんですか?」
「そうなんですのよ。下の娘がようやく結婚する気になったみたいで……お相手がなんとデンマーク人。ご挨拶を兼ねて、旅行へ行って来ますわ」
「そりゃおめでたいことですな」
部長秘書シュヴァイツさんは小さく微笑んだ。
「わたしの代理には、部長がとびきり優秀な人材を確保しているそうだから心配いらないと思いますけど、もしにっちもさっちもいかなくなったら、この番号にかけてくださいね。書類の場所や部長の扱い方くらいなら教えて差し上げられますから」
少佐は渡された紙切れを大事に、しっかりと、しまった。この番号には、なにがあっても絶対にかけてはならない。いつも大変な苦労をして部長に仕事をさせてくれているシュヴァイツさんに、休暇中くらいは迷惑をかけてはいけない。絶対にだ。
「そういえば、シュヴァイツさんは来週バカンスで不在だそうだ」
業務報告を終えて自席へ戻ろうとしていたAは驚いた顔で振り返った。ほかの部下たちも皆似たような顔でこちらを見た。
「ほんとうですか? まいったな! 去年みたいなことにならないといいけど」
「おれもそれを危惧しとるんだ」
去年部長秘書シュヴァイツさんが休暇をとった一週間、部長は自分を抑えつけておく人間がいなくなったので、やりたい放題だった……ミスター・Lをはじめ各地の友人知人に私用で電話をかけまくり、仕事をしているふりをしてインターネットであやしげなサイトを眺め、Gにいかれた女装をさせ、かと思うと急に部屋の模様替えをはじめてシュヴァイツさんが長年きっちり整理してきた書類の束をめちゃくちゃにした……そして少佐と二十六名の部下たちは、それをもと通りにするのにほとんど一週間を費やした。代理でやってきた中年の秘書は、作業能力はありそうだったが、部長のようなわけのわからない人間を御せるほどの対人スキルを持ちあわせておらず、気が狂っている(と少佐には見える)男を相手にただおろおろするばかりだった。
「だが、シュヴァイツさんにも休暇を取得する権利はある。そしてわれわれはそれを侵害してはならない」
「当然ですね……今度の代理のひとが、去年よりまともだといいけど!」
Aはため息をつきながら自席へ戻っていった。少佐もまたため息をついた。ほんとうに、どうかまともなひとが来てくれますように、と祈るしかあるまい。
眠りの前に
「そうそう、明日からちょっと、仕事で海外に行くからね。日中は電話に出られないよ」
少佐は寝間着に着替えながら、ほー、と云った。
「とてもすてきな街へ行くんだ。大好きな街だよ。いまから楽しみで、胸が破裂しそうだよ。もちろん、仕事の内容もね。ああ、人生って素敵なことばかりだ。幸せすぎて、わたしの金髪はますます輝くよ。そのうち聖人たちみたいに、後ろに光の輪っかが見えるようになるんだ、きっと。だけど実際、どんな気分がするんだろうね。自分から後光がさしているって。まぶしくないんだろうか? 夜寝るときなんて、不便だろうね! だって、明かりを消してもいつまでも明るいんだもの」
伯爵のピーチクパーチクを聞きながら、少佐はベッドに横になった。もうすっかり習慣になってしまった……いまでは、メリーさんのひつじの前に、伯爵のピーチクパーチクがないと眠れないのではないかとさえ思う……どちらも、ひとつの習慣であり、ひとつの儀式だ。日常を円滑に回すための。そしてそれを、豊かにするための。
「あ、十一時五十九分だ。うちのドイツ時間の時計、あってる? そう、よかった。じゃあ、おやすみクラウス坊や。バイ」
「チュッ」という濃厚な音とともに電話が切れた。明日か……明日からシュヴァイツさんがいない……部長をどうやって働かせよう……代理なんぞあてにならん……どうにかしてやつのケツをひっぱたかないと……。
メリーさんのひつじを歌いながら、少佐は眠りについた。
華麗なる代理
「みんなちょっといいかね?」
朝一番、皆めいめいの仕事にとりかかろうとしており、まだ空気が少しばたばたしているときに、この脳天気な部長にドアの前を占領されることほどやる気をそがれることはない。少佐は皆を代表してなんでしょうか、といらつきを抑えずに云った。
「知っているかもしれんが、今日からシュヴァイツさんが一週間休暇をとっているのでな。代理の秘書が来ているのだ。一応、紹介しておこうと思ってな。今年のわしは去年とは違う。今年はバリバリ仕事をするのだ……では、入って来たまえ」
コツン、とハイヒールのかかとを響かせて、少し身体をどかせた部長の横から、長身の女性がすっと部屋の中へ入ってきた。
部屋中が静まり返った。つややかなブロンドの巻き毛を後頭部できっちりとまとめ、清楚な化粧をほどこした銀縁眼鏡の女は、かなりの美女だった。上質な仕立ての赤みがかったベージュのスーツとかかとの高いハイヒールが垢抜けていて、形のいい爪はフレンチカラーに塗られている。部下たちの何人かはぽうっと見とれているが、少佐は自分の額に血管が浮かび上がるのがわかった。
「きゃあ〜っ! 伯爵、伯爵だわぁ〜!!!」
Gがキンキン声を上げた。部長秘書代理はピンクのグロスを乗せた唇を持ち上げ、にっこり微笑んだ。
「ハイ、G君。やっぱり君にはバレちゃうんだね」」
大柄だがものすごい美女の口から、女のものではない声が漏れた瞬間、部下全員がめいめいに驚きや嘆きや絶望の声を上げた。
「ああん、伯爵ったら今日もすてき……まさか、まさか伯爵がシュヴァイツさんの代理で? そんな、夢みたいだわ!」
Gがうっとりした声で云った。部長が勝ち誇ったように笑い出した。
「そうだろう、そうだろう。そうなのだ。彼……いやいや、彼女が一週間シュヴァイツ君の代理をつとめる、その名もドリー・グロヴァー女史なのだ。みんな彼女の云うことをよく聞くように」
ドリーなんたらは、「ハアイ」と女声で云い、手を振った。Gを除く部下たちがげっそりした顔で一斉に少佐を見た。少佐はこめかみのあたりが引きつるのを感じながら、努めて冷静な声で「部長、ちょっと向こうでお話が」と云い、彼……とドリーなんたら……を部屋の外へ引っ張って行った。
「なんだね? 云っておくが君に彼女を解雇する権利はないぞ。わしの秘書なのだ。わしが雇い、わしがやめさせる」
いかにも優越感たっぷりに、鼻の穴をふくらませ、勝った、という顔でのたまう部長に少佐はキレた。
「あんたね! こいつのどこが優秀な秘書ですか! ええ!? 秘書どころかまともな社会人経験もないのはあんたもよくわかっとるでしょうが! おちゃらけるのもいいかげんにせんと人事部に直訴しますぞ!」
部長は目を細め、口髭を指先でしごきながらふう、と息を吐いた。
「少佐、そうやってひとを見た目や経歴や性癖で判断するのは君のよくないところだぞ。彼……いや彼女は、ほんとうに優秀な秘書なのだ。まあ、黙って見ていたまえ。わしのやることに間違いはないのだ。君たちに迷惑はかからんよ」
伯爵……否ドリーなんたら……はそのやりとりを見てにやにや笑っている。少佐は額に手を当てた。ふざけやがってちくしょう! 彼は、この場合は、部長に対してというより伯爵に対して怒っているのかもしれない。なんだっておれの職場にまで手を出すんだ! 自分がどんなやっかいなことをやらかそうとしているのかわかっているのか? あれだけ愛しているの好きだのとのたまうなら、頼むからもう少しおとなしくしていて欲しい。
黙りこんでしまった少佐をどう受け取ったのか、部長はまあ、そういうことだ、と勝手に話をまとめてしまった。……ああ、災厄だ。ドイツはじまって以来の災厄だ。こうなったら部長が梃子でも動かないことは明白だったし、伯爵が引き上げるなんて面白味のないことはしないのも明白だった。
「……絶対にこっちに余計な仕事を回さんでくださいよ。おれは尻拭いはしませんからな」
「ああ、もちろんだとも」
部長は鼻の穴を膨らませた。
「仕事してくださいよ」
「もちろん」
「部長のお仕事にはちゃんと目を通しておきますわ、少佐」
ドリーなんたらがハートを飛ばして云ったが、少佐は無視した。
「それから」
少佐はふたりを睨んだ。
「頼むからそいつの女装だけはかんべんしてください。気分が悪い。あんたの部屋の前を通りかかるたびにトイレに駆けこみたくない」
部長と伯爵は見つめ合った(ああ!)。
「……どうするね、ドリー君」
ドリーなんたらは切なげに空を見つめ、ため息をついた。
「ああ、残念ですね、せっかくあなたにすてきなスーツとマニキュアと、アクセサリーまで買っていただいたのに……(少佐は耳を疑った)。でも、愛する男の要求を無碍にするわけにもいきませんから。愛の要求の前には、すべて無力です」
「仕方がない。ドリー・グロヴァー女史は公にはあきらめよう。ふたりで外出するときだけに……」
「いいかげんにしてください!」
少佐は怒鳴り、ふたりを追いやった。廊下の角を曲がる直前、ドリーなんたらがこちらを振り返り、ぺろりと舌を出した。それはもうかわいらしく……そして少佐は、おのれの軟弱な思考に嫌気がさしてきた。
ぐったりしていると、Aがこそこそと様子を見に来た。
「……少佐、いかがでしたか?」
「いかがもくそもあるか」
少佐はため息をつき、部屋へ戻ると煙草に火をつけた。
「部長はあいつを一週間あの神聖なシュヴァイツさんの席に置いとくつもりだぞ。あの席にだ! 情報部で唯一のまともな場所にだぞ! けがらわしい! あのくそったれの女装だけは阻止したが……しかしおれは立場上、どれだけはらわたが煮えくり返っていてもこれ以上どうにもできん。無視だ。徹底して無視してやる」
少佐は立ち上がり、部下たちを見渡した。部下たちは縮み上がった。
「おい、おまえら、これから一週間、部長と部長秘書代理には徹底して事務的に対応しろ。反応するとつけあがる。特にG!」
Gはびくっとした。
「入り浸るなよ。部長秘書代理相手に油を売るな。仕事がはかどっとらんかったら今度こそ丸刈りにして女装を禁止するからな。それからZ!」
Zはびくっとした。
「……おまえは部長の部屋と部長秘書代理から半径五メートル以内に近づいてはならん」
Zはげっそりした顔でため息をついた。
「いまの段階で部長に回す必要がある書類は?」
すぐに部下の何人かが走り回って書類を集めてきた。
「これはあとでまとめて持っていくか。接触回数をできるだけ減らさねばならん。おまえたちもだ。できるだけあいつらに関わるな。視界に入っても認識するな。あやういものにむやみに近づいてはならん、けがのもとだ」
少佐のきびしい口調に、部下たちは顔を見合わせた。
そろそろ昼食どきだった。やれやれ午前中は平和に過ぎた、と思っていると、Aがものすごい顔でトイレから戻ってきた。
「少佐、少佐!」
目がまん丸になっている。
「なんだ、どーした」
「たいへんです」
「なにがあった」
少佐はいやな予感でいっぱいになり、身体を固くした。
「……部長秘書代理が」
Aはごくりとつばを飲みこんだ。つられて、部下たちもいっせいに同じ行動をとる。
「まじめに仕事をしているんです」
少佐はくわえていた煙草を落とした。
「おまえらなんでついてくるんだ」
書類の束を抱えて歩く少佐のうしろを、二十六人の部下たちが壁に隠れたり床に伏せたりしながらついてくる。隠れているつもりらしいがばればれだ。
「少佐の護衛です」
Aが律儀な口調で云った。少佐はため息をついた。このくそばか野郎どもめ。見学したいだけだろうが。頭を振り、少佐は念のため壁に隠れるようにして、部長の部屋の前を覗き見た。部下たちも首を伸ばして同じようにした。部屋の周囲には誰もいない。静かだ。不気味なほど静かだ。
「A、おまえ、どうやって秘書代理が仕事しとるのをつきとめたんだ」
「ノックして、中をのぞきました」
Aは生真面目に答えた。
「部長の監視も職務の一環かと思いまして」
少佐は鼻を鳴らした。
「で、そのときはどうだったんだ」
「……ええと」
Aが語ったところによると、次のとおりだった……
いつもシュヴァイツさんが座っているうるわしき席に、金髪巻き毛、碧眼美麗、薄いブルーのブラウスにぴったりしたパンツを履き、ネックレスをじゃらじゃらさせた伯爵が座っている。Aが部屋に入っていったとき、彼は電話中だった。受話器に向かい、なにやら英語でしゃべっている。
「業務中ですよ、ミスター・L。シンプソンズの食事は確かにすばらしいけど。ご招待ありがとうございます。うんとおしゃれして行きます……ええ、では部長へおつなぎします」
ボタンを押して、伯爵は「ミスター・Lからお電話です」と云い、受話器を置いた。それからAに向かって、
「お待たせしました、なにかご用でしょうか?」
と云った。Aは当然、身体中がぞわぞわした。
「いえ、特に用というわけでは。なにか困っていることでもないかと……」
伯爵……秘書代理……はにっこり微笑んだ。
「ご心配なく。いまのところ順調に仕事をしてますから」
それから机に積んであった書類をめくりはじめた……割に真剣な顔で。そのとき、部長が部屋から出てきた。
「おお、エロイカ君、ちょっといいかね? ミスター・Lと話をしているのだが、当時の資料の場所がわからんのだよ」
「なんの資料ですか、部長?」
「ちと古いやつでな、八十三年の……」
ふたりはそのまま部長の執務室へ入っていった。Aは、ぽかんとした。
「……ね、ちゃんと仕事してるでしょう?」
Aがおそろしいものを見たときのような、震える声で云った。「仕事する伯爵、すてき……」とGがつぶやいたが、皆無視した。
「そんなんじゃ仕事のうちに入らんぞ、ふりかもしれんだろが、ばか者」
少佐はふん、と鼻を鳴らし、書類の束を抱えて部長秘書代理のところへ行こうとした……が、足を止めた。廊下の反対側から、誰かが同じように壁に身を隠して様子をうかがっている。
「おい、物見高いやつがほかにもいたらしいぞ」
部下たちはいっせいに、さらに首を伸ばした。ああ、ここは命を懸けた仕事の場、神聖な場所であるはずなのに……少佐はため息をついた。あのくそばか野郎、あいつのせいだ、ぶっとばしてやる。
「あれ、誰だろう?」
「軍服着てるぞ。陸軍だな。男だ」
「なんで軍の男が伯爵に用があるのよ」
「知るかよ、G、くっついてくるなよ。ファンデーションがスーツにつくだろ」
「ふん、しょうがないでしょ、狭いんだから。あんたがどきなさいよ」
「おい、Z、なにやってんだよ。中途半端なとこに立ってないでこっちに来いよ」
「……いえ。ここらへんが半径五メートルかと思って……」
部下どもがやいやい云っているうちに、壁に隠れて様子をうかがっていた男が動き出した。ぱりっとした軍服、身長約百七十五センチメートル、筋肉質、刈り上げた髪は明るいブラウン、すさまじい鷲鼻……あの顔には見覚えがある。
「あいつはおれの同期だぞ」
少佐は苦々しい顔でつぶやいた。
「ロイスだ。ロイス中尉。なんだってあんな男がこんなとこに……」
少佐はいやなことに思い当った。かなり前に、少佐は彼と酒を飲んだことがある。正確に云えば、仲間内の何人かで楽しくやっていたところにロイスがたまたまやってきて、強引に同席してきたのだったが……ロイスは、正真正銘のゲイであって、なおかつエーベルバッハ少佐を敵視していた。というのも彼が気に入った男がなぜかことごとくエーベルバッハ少佐に好意を寄せていて、お話にならなかったからだ(同性愛者に好かれたのは、なにも伯爵がはじめてではない。なぜかその道の男に好かれてしまうのは昔からのことなのだ)……そのとき、ロイスはしつこく伯爵のことをきいてきたのだった。あのものすごくきれいな男はなんだい? 情報部とはどういうつながりだ? 少佐は適当におっぱらったが、エロイカとエーベルバッハ少佐の奇妙な連携については、調べようと思えばいくらでも方法がある。
「……あの野郎」
ロイス中尉は軍人式のきまじめな歩き方で部屋に近づき、丁寧にノックをした。少佐も出て行った。部下たちがついてきた。ふたりの同期は、部長の部屋の前でめでたく邂逅した。
「やあ、エーベルバッハ少佐」
「おまえここでなにしとる」
少佐はロイスをちょっと睨んだ。
「部長の秘書代理をひと目見に」
「勤務中に脱線すな、帰れ、ばか者。だいたいなんでおまえが秘書代理のことを知っとる」
ロイスはにやりと笑った。
「部長が自分であちこち宣伝して歩いたからだ。他部署の役職連中に。来週から、うるわしい秘書が来るってね」
少佐は額に手をあてがった。あのくそ部長!
どうぞ、という伯爵の声がした。ロイスは咳払いをし、ドアを開けた。部下たちが開いたドアの隙間から一斉に中をのぞきこんだ。おまえら、楽しんどるな……少佐はげんなりした。
きんきら部長秘書代理は、突然入ってきた軍服の男を、初対面の男を見るときの、ちょっと熱のこもった詮索好きな目で見つめた……全身査定二秒。興味わかず。サービス不要。営業スマイル。部長に面会ですか? ご予約は? どういったご用件でしょうか?
「ふん、なによあのイモ男、鼻の下伸ばして伯爵に近づいて! 魂胆が見え見え。あんな土から出して一年もたったジャガイモみたいなの、伯爵が相手にするわけないじゃないの。ああ、伯爵って大変ね。ありとあらゆるのが寄ってきて、それ全部あしらわなくちゃならないんだから」
Gよ、おまえの意見は正しいぞ。少佐は自分よりもGの方が、伯爵をよくわかっているような気がしはじめた。ロイスが伯爵に握手を求めた。伯爵は応じた……立ち上がらずに、そのままで。少し高慢に見える態度で。ロイスは伯爵の手を握りしめ、それからその手に唇を寄せた。
「ぎゃあ〜! あの男、伯爵になんてことするのよ! けがらわしい! ばっちいわ! ああん、おいたわしや伯爵……」
「小声で悲鳴上げるなよG。器用なのは認めるけど。おまえだって似たようなもんだろ?」
「一緒にしないでよ! あたしはあんな真似しないわ! 身の程はわきまえてるの……なんて男、あつかましいわね! 調子のってんじゃないわよ!」
「Zぉ〜、おまえそんなとこにいていいのか? すごいことになってるぞ」
「……半径五メートルです……」
Gが悲鳴をあげるのは多分に嫉妬からだろうが、伯爵はさすがにもの慣れていた。顔色ひとつ変えずにロイスの口づけをやりすごし、すさまじい勢いであれこれまくしたてはじめた男を黙って見つめている……でもたぶん、話を聞いていない。その金髪頭の中ではぜんぜん違うことを考えている。おもしろいから黙って放置するか? いや、だがあのロイスのしつこさは、正直精神的に尾を引く。やつは陰険な、ねちねちした男なのだ。いつまでも根に持って、ことばや態度でちくちく刺してくる。おれがいったいなにをしたんだ、とエーベルバッハ少佐はかつて思ったものだ。ああ、思い出したくもない。
「話が長いな、あの男」
「図々しいったらないわ! あたしの伯爵に……」
「なあ、あれ、部長に用事なんかないよな?」
「たぶんな。あの部長には、誰もまともな用事なんかないよ」
部下どもの話を背中越しに聞きながら、少佐はため息をついた。仕方がない。
「おい、秘書代理」
少佐はドアのところから声をかけた。そのときこちらに向けられた秘書代理の顔ときたら、まったく見物だった……一転してキラキラ、ハートがぶんぶん飛び回り、もし彼が犬だったとしたら、しっぽを振っているのが見えるようだった。
「はい、ご用でしょうか、エーベルバッハ少佐」
ことばのあちこちからハートが飛んでいる。少佐は「部長に面会だ」と云い、書類をつき出した。ロイスが露骨に嫌そうな顔をした。少佐は鼻を鳴らした。
「ロイス、とっとと持ち場に戻れ。上官に報告するぞ」
「あれ、ふたりってお知り合いですか?」
伯爵が首を傾げた。ロイス中尉が複雑な顔をした。
「いま、その話をしてたと思うんですが……」
「そうでしたっけ? すみません、もの忘れがひどくて」
中尉はさすがにプライドを傷つけられたのか、脈なしと見たのか、それともエーベルバッハ少佐と関わりになりたくなかったのか、適当なことを云って渋面で帰っていった。
「ご面会ですね? ミスター・Lとの長電話は終わったかな? ああ、終わってる、今日はとってもいい子にしてるんだな……少々お待ちを……部長? エーベルバッハ少佐です、ご面会です、書類があるようですけど……だめです、ちゃんと仕事するんでしょう? ハグしてあげませんよ」
少佐は複雑な顔で部長秘書代理を見た。部長秘書代理はにっこり笑って、お部屋へどうぞ、と云った。
少佐は目を疑った。まず、部屋がきれいだ。テーブルの上の花瓶にバラが生けてあり、なにやらいい香りがする。ソファも棚の上も床も、ほこりひとつない。それに、日頃書類に目を通しサインをするという単純なことすらやりたがらないくそ部長が、どうしたことか、今日は先週末にためこんだぶんを全部消化している。
「わしだって、本気を出せばこんなもの、すぐにできるのだ」
彼は鼻の穴を膨らませて云った。
「いまならどんな仕事だってできそうだ。やる気がみなぎっておる。午後からの会議もばりばり発言するぞ、わしは。そうだ、君たちの待遇改善について議会に提案しよう。困っとることはないかね? 給与面では? 足りない備品はないかね?」
少佐は額に手を当てた。
「あんた、秘書代理にどんな見返りを要求したんですか」
部長は眉間にしわを寄せた。
「なにを云っておる。そんな不純な動機で仕事をこなしたりするものか。これが本来のわしの実力だ。普段は爪を隠しているのだよ」
「ほー。そりゃずいぶん長いこと隠していたもんだ」
ふたりはしばしにらみ合った。数十秒後、部長が先に目をそらした。少佐はふん、と鼻を鳴らした。
「そりゃそうと、早くなにか仕事をくださいよ」
「わしだってそうしたいのは山々だが、いまのところ急を要する案件はないんじゃ。この機会におとなしく報告書でもまとめておくんだな。いつでもサインするぞ」
部長はペンを振り回した。暇なのはてめえのせいだろうがくそったれ。部長の無能ぶりは他部署にも知れ渡っているから、シュヴァイツさんの休暇中に余計な仕事を持ちこまないように、みんな気をつけているに違いないのだ。
部長の部屋を出ると、部下たちはもう引き上げていた。
「あいつらどーした」
部長秘書は備えつけのノートパソコンに向けていた顔を上げた。
「お帰りになりましたよ。エーベルバッハ少佐」
飛び散るハート。きらきらスマイル。少佐はげっそりした。こいつ、秘書ごっこを楽しんでいるに違いない。やたらと慇懃な態度や口調は、ほかの人間なら大変好ましく思えるところだが、伯爵の場合遊んでいるとしか思えない。
「部長秘書代理がちゃんと仕事をしているのでご安心ください、と部下の皆さんにはお伝えしました。少佐も安心してお戻りください……部長、ちゃんと仕事をしていたでしょう? 午後二時からは会議、それに少佐のお持ちになった書類に目を通していただければ今日の主な仕事はおしまい。明日も朝一番で会議がありますがそれ以外は……」
部長のスケジュールをそらんじる秘書代理に、少佐は身体がかゆくなってきた。
「……おまえ」
「はい?」
きらきらスマイル。
「それで一週間やり通すつもりか?」
「もちろん。仕事ですから」
「報酬は」
「お金と、お金に換えられないもの。それ以上は秘密です」
「部長になに約束した。あの仕事のはかどりっぷりは異常だ」
「今日の昼食と晩餐への招待を受けることと、女装数回と、仕事を片づけるごとにハグです、エーベルバッハ少佐」
女装とハグ。あーそうかい。少佐はぐったりした。
「あのな、おまえな、おまえがなにしようが部長がまともに仕事すりゃあおれには関係ないがな」
少佐は怖い顔をした。
「余計なことするなよ。ありとあらゆる意味でだ。特に休暇帰りのシュヴァイツさんの手を煩わせるようなことしたらただじゃおかん」
「はい、エーベルバッハ少佐」
きらきらスマイル。少佐はなにも云う気がなくなった。
「あ、そうだ、少佐」
部長秘書代理は一本指を少佐の目の前に突き出して立ち去りかけていた彼を制止すると、青いファイルを差し出してきた。
「これ、少佐の執務室にあるべきファイル。部長が返し忘れてました」
「……ああ、そりゃどーも」
少佐は頭をかいた。なんだかどうも調子が狂う。執務室へ戻って、ファイルを開いてみたら、封筒がはさまっていた。中には便箋と鍵束。少佐は折り畳まれていた便箋を開いた。
親愛なる少佐どの
アフターファイブは充実していますか? 終業後の息抜きをお探しではありませんか? もしそうなら、下記住所まで。めくるめく官能の世界があなたを待っています……
「……アホか」
住所に目を通してから、少佐は煙草に火をつけた……ついでに、ライターでその紙を燃やした。なんだかようやくまともな伯爵に行き会った気がし……そうしてどこかほっとしている自分に気がついて、ぞっとした。
あらゆることは夜になされる
「めくるめく官能」が待っているという部屋は、市の中心地に近いところにあった。五階建ての、なかなか立派なマンションだ。比較的最近できたものらしい。入り口や設備が実に近代的だからだ。少佐は時計を見た。午後八時。伯爵はまだくそ部長の接待を受けている最中に違いない。
柵を開けて中へ入ると、円形の広いエントランスだ。中央に、天に向けて手を差し出す少女の石像がある。それを横目で見ながら、エントランスホールのつきあたりにあるエレベーターへ。五階のボタンを押し、浮遊することしばし。ドアが開くと、絨毯が敷かれた細長い廊下が左右に広がっていた。指定は五階の一号室だ。少佐はぶらぶら左の方へ歩いていった。正解だ。五階の一号室へのドアが、廊下のつきあたりに見える……ほかにドアはない。まさかと思い、来た道を戻って、反対側へ行ってみたら、そちらには二号室のドアがあるきりだった。少佐は眉をつり上げた。そうして一号室のドアへ戻り、鍵束を取り出して、鍵穴に指しこんだ。開いた。当然ながら。少佐はまた眉をつり上げ、ドアを押した……明かりがひとりでについた。
そこには実に広々とした空間が広がっていた。大きなL字型のソファとグランドピアノが部屋の中央に置かれている。アンティークの椅子やらランプやらスツールやらがあちこちに置かれ、美しい花瓶にバラが生けられ、バルコニーへ出られるらしい大きな窓にはすさまじいボリュームのカーテンがかかっている。玄関先には天文学的金額がしそうな絨毯が敷かれており、壁にはいくつか絵がかかっている……どれも伯爵の好きそうな、神話の一場面を描いたものなんかが中心になっている。彼のための部屋だ。少佐は思った。伯爵のために、その趣味に合わせて整えられた部屋。
「……貢ぎものか?」
少佐はつぶやき、中に入っていって、ソファに腰を下ろした。ボンに土地を持っているような愛人か、仕事関係者かなにかいるのだろうか。おっと、いけない、愛人なんて概念をもちこんではいけない、こんなことを思いついたなんてことがばれたら火が出るほど怒られそうだ。ほんとに君ってどうしようもないね。わたしの愛の純粋さがわからないんだ、ああ! そしてまた長々と、なにかの詩か戯曲のせりふか、そんなようなものを持ち出して自分の気持ちを語るだろう。そういうのを見ているのも面白い。それをなだめるのも、面白い。伯爵は感情を利用して遊んでいる。そして少佐もそれを利用して、遊んでいる。
部屋中になにか、少しくせのある香りが漂っている。ハーブではなさそうだ。花でもない。たぶん、木香。不思議と落ち着く香りだ。ローテーブルの上に、小さなアンティークのランプと灰皿、そしてバラが差しこまれた花瓶がある。灰皿の上に、メッセージカードが乗っている……少佐どの。喫煙可、飲酒も可。伯爵さまの帰宅時刻は未定です……部長があんまりしつこくないといいけど!
そいつぁ無理だ。少佐はカードをテーブルの上に戻し、煙草に火をつけ、微笑した。部長のしつこさは尋常じゃない。特に気に入った男、あるいは女、のためならとことんのめりこめるしばかになれる。彼は伯爵をたいそう愛している。主にその美しさを。彼は伯爵を理解してはいないしそういう愛の捧げ方でもないが、でも、愛しているには違いない。世の中にはいろいろな愛がある。それぞれがパズルのピースのひとつだ。うまいこと組み合わさって、ひとりの人間を支えている。
煙草をもみ消して、立ち上がった。リビングのほかに、広いバスルーム、キッチンと食堂、寝室、行き場のないアンティークの家具や調度品を押しこんだ部屋があった。もしこの部屋が伯爵のものだとしたら、そうなって日が浅いらしい。彼はこんなふうに家具を虐待したりしないからだ。しかるべく処分し、配置し、行く先を見守るだろう。彼は元来世話焼きタイプだ。信じられないことだが。
キッチンカウンターの上に、酒の瓶がいくつも並んでいる。少佐はいくつか見繕って、ソファに戻ってきた。食事も風呂も家ですませてきたから、なにもすることはなかった。夜の七時を回ってから出かける主人に、執事はいつものことと疑う素振りすら見せなかった……疑う? なにを? 自分の主人に、誰かいいひとができたかもしれないということ。別に隠さなくてもいいのだが、ばれたらばれたで面倒だ。執事の頭も旧式だ。自分の主人がホモなんぞにたぶらかされたうえ、その道に足を踏み入れたとなったら、父に面目がたたぬと自殺するかもしれない。否、あるいは……もしかしたら、伯爵を気にいるかもしれない。わけのわからないやつだし、善悪の観念もちょっとずれているが、悪い人間ではない。幸福そのもので、生まれたてみたいに純だ。どうしても放っておけない、守らずにおかないと思わせるようななにか、庇護欲をかきたてるなにかが、伯爵にはある。執事がそこに目を向けたとしたら、彼のことを、とても甘やかすかもしれない。彼のわがままに喜んで応じ、身を粉にして働くかもしれない。コンラート、とたぶん伯爵は執事を呼ぶだろう。ねえ、新しいタオルはどこ? ふわっとしていないといやだよ。できたら香りつきがいいんだけど。テディベアを洗っておいてよ、汚れてきちゃった。そう云われたら、執事はぬいぐるみを洗うだろうか? 伯爵の大事な相棒を? 名前はウィスパー。伯爵の、夜の旅における二十年来の友だちだ。かわいらしいぬいぐるみだが、とても重大なしかけが施されている。それを知っているのは、いまのところ三人だけ。伯爵と、その父親と、そして少佐。そこへ執事が加わるのは悪くない。彼はエーベルバッハ家に忠誠を誓っており、並のエージェントなら吐いてしまいそうなどんな拷問を受けたとしても、ぜったいに口を割らないからだ。自分の空想が夢見がちなのはわかっている。この木香のせいだろう。異国ふうで、異端的。伯爵そのものだ。彼といると、少し甘すぎる夢を見る。甘ったれた仕草と愛情と、そしてそれにそぐわないぞっとするほどの媚態と。でもやっぱり、そんなときだって彼は甘ったれかもしれない。その官能の園の奥では、とても純粋な子どもが、幸福そのものの顔で、まどろんでいる。溶けるような愛撫の中、満ち足りた快楽の中で。
…………なにかの気配を感じて、少佐は意識を取り戻した。いつの間にか眠っていたらしかった。部屋の明かりが消えている。ついていたはずなのに。時計は午後九時すこし前を指している。目の前の窓が開いている。カーテンが風にあおられて、ゆらゆらと頼りなげに揺れている。そこから月光がほの白く差しこんでいる。
反射的に神経が張りつめ、五感と緊張を高めている。皮膚の表面にひりひりした感じがある。この感じは好きだ。仕事につきものの、この高揚感。悪くない。いつも肌身離さず身につけている銃へ、手が伸びる。少佐は微笑した。
すべては一瞬のうちに起きた。少佐はなにかを避けるようにソファの上に身体を倒した。同時に、ちょうど彼が座っていた場所へ、上からなにかの塊が降ってきた。塊は金色の残像のような線を描いて、なめらかに落下してきた。少佐はそれに、見とれてもいいと思った……次の瞬間に、ソファに仰向けに転がった少佐の首には細い鋭利な、美しい宝飾が施されたナイフがあてがわれていたが、少佐も降って湧いた塊の心臓の上に銃をつきつけていた。少佐は銃を相手の身体にぐいと押しつけた。
「……わたしを“お殺しに”なるの?」
頭の上からひとをからかうような女の声がした。金の巻き毛が顔の上に降りかかってきた。
「てめえが寝こみを襲ったんだろが」
少佐は云い、眉をつり上げた。塊が笑った。
「なーんて、すごいせりふだよね」
今度は耳慣れた男の声が云った。ナイフが首から外れた。少佐は銃をしまった。
「アメリカの探偵小説で読んだんだ。ひどい英語! イギリスの伯爵夫人が云うせりふなんだけどさ、どこの誰が、銃を向けられて殺されそうってときに、わたしをお殺しになるのなんて、上品なことばを使うかな。お殺しになる、だよ? いくら貴族だからって、この云いかたはない。ひどいよ」
少佐は腕を伸ばし、ローテーブルの上にあるランプをつけた。金の巻き毛に覆われた美しい顔が、オレンジの明かりの中に浮かび上がった。ソファに膝立ちになって、こちらを見下ろしている。
「くそ部長は満足したか」
彼は腕を伸ばして、指先でくるくるの巻き毛をひと房つかんだ。それに引かれるようにして、伯爵が少佐の身体の上に倒れこんできた。胸の上に腕を乗せ、その上に顔を乗せて、微笑した。
「したよ。しこたま飲んで、大満足で眠っちゃった。彼の奥さん、見たことある? 美人とは云えないけど、愛嬌がある。料理が上手だ。あれじゃあ部長は太っちゃうよね」
少佐は微笑し、すぐにそれを引っこめ、つかんでいた巻き毛を持ち主の顔めがけてたたきつけた。
「この野郎。ひとをおちょくるのもいい加減にしろよ」
「いた、髪の毛が目に入った! なんてことするんだ。だって、部長にとても丁寧に頼まれたからさ、断れなかったんだ。断れないよ、こんな楽しい話!」
「やかましい。迷惑だ。おれの職場を汚すな、ばか野郎。シュヴァイツさんの席は神聖なんだぞ」
「ええ!? 君ってああいうちょっときつめのおばさんが好みなの?」
「なんでそうなる。おまえ、シュヴァイツさんに会ったのか?」
「先週末に、部長も交えてちょっと」
伯爵は唇をとがらせて、顔に当たった巻き毛を見つめている。少佐はため息をついた。
「おまえいつからボンにおるんだ……」
「金曜日からかな」
「で、いままで黙っとったのか」
「だって、驚かせたかったから。どうだった? ドリー女史」
「気色悪い。おまえなあ、女装趣味がないならやめろ。部下どもがげっそりしとったぞ」
「G君以外は、だろ? 報告は正確にね。明日からは普通にするよ。ほんとにさ。それよりほめてよ! まともに仕事をしたんだからね。部長にも、ちゃんと仕事させたんだ」
「色じかけでだろが、ばかもの」
「どこがさ。一緒に食事してあげて、仕事ができたらハグしてあげるだけだよ。十時と三時にいっしょにおやつを食べて。すごく健全だよ」
「あんなデブおやじと一緒に食事だのおやつだのしてハグするのが健全か?」
「あとは本人の好みの問題だろうね。わたしはなんともないよ。慣れてるから。それに君、わからないだろうけど、部長ってちょっとかわいいところがあるんだ。今日はわたしのために執務室にバラをかざってくれて、昼食はすごく奮発していいレストランにつれていってくれて、マイセンのカップとソーサーを用意してくれたよ。おやつにすばらしいタルトを、イギリスの紅茶と一緒に食べたし。彼、とっても紳士で情熱的なんだ。ああいうひと、好きだよ」
「……ただの気に入ったやつを甘やかしてだめにするおやじにしか見えん」
「ああもう、クラウス」
伯爵が苦笑しながら云った。
「君のその厳格さが大好きだ」
唇に、彼の唇が触れた。ゆっくり、まるで粘度があるかのように離れがたく数度。
「もちろん、君のすべてが好きだけど」
夢見がちな目をして、伯爵はささやいた。
「おれはひとの寝首をかこうとしたり、とんでもねえサプライズよこすような男なんぞごめんだ」
少佐はふん、と鼻を鳴らした。
「愛してるからだよ」
伯爵は相変わらずうっとりと微笑している。
「刺激的でありたいんだ。お互いのために。わたしのありとあらゆる行動はそのため。君を刺激し、楽しませるため。わたしは君と、君の感性への奉仕のための奴隷だよ。君も楽しんでると思うんだけど?」
「……度が過ぎなきゃな」
伯爵は目を細め、もう一度唇を重ねてきた。今度は、もっと本気で。そして少佐もそれに応じた。
「お風呂に入ってくる」
唇を離し、伯爵は耳元で云った。
「部長のことは洗い流そう。そして清らかになるよ。君のために」
少佐はけっ、と投げやりに云った。
「ねえクラウス、クラウス! クー、ラー、ウス!」
風呂に入ったと思ったら、伯爵が大声を上げた。バスルームのドアを開けっ放しにしているらしい。声が響く。煙草をつけたばかりなのに。少佐はソファから立ち上がり、自分の名前を歌みたいな調子をつけて呼び続けている伯爵のところへ行った。伯爵はバスタブを泡でいっぱいにして、洗濯物みたいにそこに漬かってにこにこしていた。
「なんだ、やかましい。ひとの名前を気安く連呼するな」
「どうしてさ。だってあのときにはすごく喜んでくれるじゃない。君の体温上がるよ、いつもわたしが……ぶふっ」
少佐は栓をひねって、泡風呂に優雅に沈んでいる伯爵にシャワーをぶっかけた。
「鼻に入った! 鼻に! 痛いよ!」
片手で鼻を押さえ、蜘蛛の巣でも払うときのようにもう片方の手を顔の周りで振り回しながら悲鳴を上げている伯爵に、頬が緩んだ。でかいガキめ。彼はシャワーを止め、浴槽の縁に腰を下ろし、もちろん大げさな表現として半泣きで鼻を押さえている伯爵の巻き毛をがしがし撫でた。
「で、なんだ」
伯爵はちょっとにらみをきかせて見上げてきた。
「君ってサディストだよね」
「どこがだ。おれはイエスのように慈悲深いぞ。だからなんだ」
「あの、今日の午前中に来たロイス? ルイス? ライス? なんだっけ? あの男」
「ロイスだ。肩書きは中尉だ」
「知り合い?」
伯爵はシャンプーを手に取り、巻き毛を洗いはじめた。
「同期だ。同い年でな、士官学校に入った年が一緒だった」
話が長くなりそうだ。少佐は一度バスルームを出て、灰皿と飲みかけのグラス、それに椅子をひとつ持って戻ってきた。伯爵はまだ熱心に髪を洗っていた。
「それで中尉? あまり出世するタイプじゃないね。君があえて少佐でいるのとはわけが違いそうだし」
「男のケツばっかり追っかけとるからだろうよ。責任を背負うのがいやらしくてな。そういうのの常で、口だけはうまいんだが……普通の会社じゃどうか知らんが、ああいうのは、軍じゃ評価されんよ」
伯爵は微笑した。
「彼、どうにかならない? 今日、帰りも襲撃されそうになったよ。部長が一緒だったからなんともなかったけど」
「のらくらせんとはっきり云え。きかなきゃ殴れ。刺すくらいならしてもいいぞ、許可する」
伯爵は考えこむ顔をした。
「ふうん! まあちょっと、今後もしつこいようならひっぱたくくらいしようかな。君とはなにか浅からぬ因縁がありそうだし……」
「向こうが勝手にきれとるだけだ。おれはなにもしとらんぞ」
自分がいかに不本意ながらロイスの恋路の邪魔をしてきたか、という話を聞かせると、伯爵は笑い転げた。
「ほら、だから、だから云っただろ? 君はもてるんだよ、クラウス。わたしみたいなのに。君にうっとりするのは、わたしの専売特許じゃないんだ」
「おれはまったくうれしくない」
少佐は煙草を乱暴に灰皿に押しつけた。
「どのみち、時間の問題だったんだ」
伯爵はうれしそうだった。
「君が転ぶのは。男に愛されるのもいいものだよ。別に、わたしじゃなくてもさ。愛って、なんだっていいものだ」
少佐は複雑な顔で、巻き毛にすさまじくいい香りのするトリートメント用の液体を擦りこむ伯爵を見つめた。
「無責任に云いやがって、阿呆め」
髪にホットタオルを巻いて、伯爵のヘアケアはしばしの休憩時間に入る。そのあいだに爪の甘皮を処理するとかなんとか、女も顔負けの美容儀式があるわけだが、伯爵は今日はそんなものよりリキュールとアイスクリームを所望した。
「冷蔵庫にあるはずなんだ、ハーゲンダッツの大きいの。それとチョコレートリキュール。容器のままでいいよ、もういま食べるぶんくらいしか残ってないんだ」
少佐は渋面で、けれども忠実な執事よろしく、それらを取りに行った。こういうことは、ぜひとも使用人か執事がやるべきだ。たとえばうちの執事なら、喜んでやるだろう。コンラート、ハーゲンダッツを持ってきてよ。満面の笑みでそれをうやうやしくバスルームに運ぶ執事。慇懃な態度でドアをノックし、なるべく裸体を見ないよう気をつけながらドアを開け、給仕し、引き下がる。たぶん、あとあと執事はこぼすだろう。イギリスの貴族さまといいますのは、皆あのようにお風呂でお食事をなさったり、日がな一日読書なさったりするものなのでございましょうか。なんとも自由な精神と申しますか、しかしそれが文化的差異とあっては致し方ございません、バスルームを改築して居住空間を併設しなければなりませんでしょうか……でも、彼はそれを大まじめに考えているのだ。エーベルバッハ少佐は、そんな必要があるかばかもの、とひとこと云うだろう。そして伯爵はなにも知らずに、バスルームで楽しくものを食べたり飲んだり読んだり見たりする。たぶん、エーベルバッハ少佐はそれにかなり長い時間つきあうのだろう。執事がご丁寧に用意した椅子かなにかに座って。灰皿と、たぶん新聞を持って。いまみたいに。
バスルームへ入っていく前に、少佐はどうしても漏れてくる苦笑を押し殺さねばならなかった。
彼は、夜にはほんとうにすばらしい、などと云うといかにも下世話で品のない感じがするけれど、でもほんとうだ。それ以外に云いようがない。いかなる賛美のことばも、その前には消え去る。
伯爵がすばらしいのは、元来ひとを驚かせたり喜ばせたりするのが好きな、サービス精神旺盛な性質をしている上に、いっさいの恥じらいをもたずに官能の世界にすべてを捧げられるという、力強い情熱をもっているためだ。夜の彼は自らの魅力を知り抜いた者の、そしてそれがもはや自身の内面になんの影響も及ぼさないほどのところへ達してしまった者の静かな自信にあふれていて、それゆえに優しく、慈悲深く、素直で甘ったれていて、でも獣のようにしなやかで鋭く、貪欲で美しい。
伯爵はたぶん、ほとんどなにもかも知り尽くしているはずだった。その身体でできることなら、感じられる快楽なら、ほとんど探求し尽くしているはずだった。いまさら新しく覚え溺れる味のようなものは、彼の中に、もう残ってはいないはずだった。それなのに、彼はいつも感極まってぐずぐずやりながら、思い返せば赤面しそうになるほど自分がどれだけ感じているか、自分がどれだけこの……つまりNATOが誇るトーヘンボク少佐との……一連の行為に夢中なのか、繰り返し囁きかけてくる。甘ったるい、甘えた声で。どろどろに溶けたハーゲンダッツもびっくりだ。あんな甘ったるくて食えたもんじゃないものはほかにないが、頭の悪いことに伯爵のにはちょっと中毒性がある。
天蓋つきのベッドの、優雅な造形を楽しむ余裕はすでにない。少佐の視界を覆っているのは金の巻き毛と、それがくっついた顔の快楽に美しくほころぶさま、そして、彼のしなやかな身体。暗がりに慣れた目に、はっきりと見える。目を閉じ、巻き毛をシーツの上に盛大に散らして、首をのけぞらせ、まつ毛を震わせ、開いた唇から湿った息と声と、ことばを漏らす。その口ははじめ、少佐の身体じゅうを母猫みたいに優しく舐め上げていたのだったが。その生温かい舌と唇。なぜかときどきふいに、それを確かめたくなる。伺いを立てるように口づけ、開いた唇のあいだから舌を優しく差し入れて、その柔らかさを確かめる。キスは大好きだね、と彼はいつだか……否、割にいつも……云っている。彼につられているかもしれないと思う。伯爵がことあるごとにじっくりと、愛情やらなにやらをたっぷりこめてしてくるものだから、ちょっとくせになってしまった。たぶんそうだ。舌のつけ根から上顎から歯列まで、時間をかけて丁寧に。伯爵は満足そうに鼻を鳴らした。唇を離すと、少し早い呼吸とともにいまのキスを絶賛。だから、少佐は男との経験が皆無だったくせにかなり早い段階でなにをどうすればいいのか、とてもスムーズに学習した。ものすごくたくさんの甘ったるいほめことばとともに。これはいい作戦だ。ほめられてうれしくないやつはいない。期待されて、熱望されて、やる気を起こさないやつはいない。たぶん、教師側に余裕がなければできない指導方法だけれど。
そして少佐はいまでは教師の指導がなくてもかなり自由に泳げるようになった。波の具合を予測することも、深さをものともせず潜ることもできる。もともと探究心はある方だ。少佐は伯爵という美しく神秘的な、けれども女体のように陰鬱で隠されていて、神秘主義めいて予測不可能なものでなく、もっとオープンで陽性な、適度に肌を焼き心地よく酔わせてくれるような、その肉体と戯れることにタブーも遠慮もなくゲルマン式に生真面目に取り組んだ。そういう姿勢をまた、伯爵は愛した。そうして豊穣な情熱で包みこんだ。
絶頂が近づくあの性急でもどかしい過程を駆け抜けてゆくときの伯爵がなんとも云えない。こちらの髪や肌を緊張しこわばった指先でかき回しながら、少佐を何度も呼ぶ。たとえドイツじゅうに同じ名前の人間が百億人いたとしても、たぶんこの瞬間にはそれは絶対的なひとつのものを意味し、そしてこんなふうに情熱的に何度も、感情をこめて呼ばれる「クラウス」はほかにないように思われる。彼はどうして、こんなに相手を愛していることを、素直に大っぴらに、心から表現できるのだろう? そういうやり方を教えてくれるひとはあまりいない。そしてそういう感情でこちらを満たすひとも、あまりいないのだ。数限りない登場人物がいる人生にだって、そうそう何人もは。そしてそれが、非常に特殊な意味を持つということ、存在のあらゆる側面に影響を与え、揺さぶり、優しくどこかへ運んでゆく、そういう感覚を、引き起こすひとがいるということ。それを惜しげもなく実行してくれる人間が、いるということ。伯爵の愛はそういうやり方だ。そういう持ち方で、そして全力だ。彼の持つ幸福と愛が、こちらに注ぎこまれてくる。洪水みたいに。それから染み渡る。細胞のすべてに。
「……貢ぎものだよ、君の云うとおり」
終わったあとも散々ぐずぐずやるくせのある伯爵のほとぼりが覚めてから、少佐はようやくこの部屋のことを訊ねた。
「知り合いの中にはまあ、ちょっと天文学的な資産があって、それをうるわしい伯爵のためにいくらでも使おうという、そういう男もいるわけ。たまたま、こないだそういう男のひとりと話をしてたんだ……部長からの話があった直後。話のついでにボンへ行くよって云ったら、部屋を用意してくれたんだよね。調度品までわたしの好みにあわせて、いろいろしてくれたけど……壁にかかってる絵だけで途方もない金額だよ。こういうこと、愛のあるセックスのあとに云うべきことじゃなかったかな? わたしもそういうの、そろそろやめたほうがいいんだろうかっていつも思うんだけど、でもそれが生きがいだっていうひともいるんだ。そしてわたしはそういう気持ちがわかるんだよ。ただ、喜んで欲しいっていう気持ち……だから、たぶんこれからも貢いでもらうことをやめないと思う。だって、それでお互いうまくやっているから。もちろん、君がすごく傷つくとか、烈火のごとく怒るとかするなら、やめるけど」
少佐はもちろん怒らなかった。伯爵は、金持ちじじいどもに寄ってたかって甘やかされているような人生がお似合いだ。それは当然のことだ。与えたものが、戻ってきているわけだ。相手に喜びを与え、喜びを得る。旺盛なサービス精神には、旺盛なサービスが返ってくる。そういうものまで自分が規制しようとは思わないし、その権利もない。
「だけど、どうしようね、この家。一週間で使い捨てて返却なんてもったいないな。まあそれでいいって云ってたけど、わたしはここが気に入ってるんだ。君が腹立たしく思わないなら今後も利用しようと思うんだけど。君の、そういう方面のプライドってどうなってる?」
少佐はなにも感じないと云った。そして話題を変えた。伯爵のなかなか堂に入った秘書代理ぶりのことに。
「学生時代、父の知り合いの画商のとこで事務をしてたんだ。お勉強を兼ねて、アルバイトだよ。だから、事務的なこと、だいたいはこなせるんだ」
それから話題は学生時代のアルバイトのことになった。少佐はこの話題では、ちょっとばかり話せることがらが豊富だった。息子を決して甘やかさなかった父親が、苦労して勉学を身につけることにこそ意義があると考えていたので、いつもかつかつの金額しかくれなかった。で、クラウス少年は、ほかの一般家庭の子息と同じように、あらゆるアルバイトをした。おかげでいまだにキャベツの解体と、玉ねぎのみじん切り、じゃがいもの皮むき、そして皿洗いならぜったいにプロ級の自信がある。伯爵は大笑いした。
「つくづく意外性の男だな、君って。奥が深いよ。そんなとこが好きなんだ」
そして雰囲気はまた甘ったるいものに逆戻りした。これが一週間続いたら、全身がべたべたになるな。少佐はそう思ったが、別にどうこうする気にはならなかった。
ご機嫌ちゃんの朝
カタリ、という小さな音で少佐は目を覚ました。朝の六時。当然だが、伯爵はまだ眠っている。とても幸福そうな顔で。巻き毛に顔を埋めるようにして。
玄関のドアが開く音がした。続いて、部屋に入ってくる足音が。ひとりのようだ。少佐は身体を起こした。伯爵が身じろいだ。
「おい、誰か来たぞ」
少佐は伯爵を揺さぶった。伯爵は鼻に抜けるような声を出したが、それだけだった。
「起きろ、阿呆」
なおも揺さぶると、伯爵がようやく薄目を開けた。
「フーニーだよ……紳士つきの紳士だよ……この部屋の……」
少佐はぞっとした。
「おい、そいつ、まさかこれからめしのしたくでもするのか」
「そうだよ……」
語尾はほとんどかすれて聞き取れなかった。少佐は飛び起きた。
「そういうことは先に云え、阿呆」
スーツ一式を脇に抱え、音を立てないように気をつけながらドアを開く。キッチンの方から、なにやらごそごそ物音がする。そこで作業中らしい。少佐はなおもしばらくドアの陰から気配を伺い、それから大急ぎでバスルームに駆けこんだ……助かった。見ず知らずのやつに、寝起きの裸などというみっともないところを見せずにすんだ。いつもより早い起床時間だったが仕方ない。少佐は時間をかけて身支度し、もう誰がどこから見てもいつものエーベルバッハ少佐といういでたちになってから、またもや様子をうかがうようにしてバスルームから出た。
ソファの前のテーブルに、新聞が並べてある。ちょっと、尋常でない数だ。ドイツとイギリスの新聞各紙、アメリカのもあるしイタリアのもある、フランスのル・モンドもある。フーニーとかいう男は新聞屋なのか? 少佐は首をひねり、このまま部屋を出るべきかどうか考えた。フーニーたらいう男に会ったら、とても気まずいことになりはしないだろうか? 伯爵がなにも云わなかったから平気なのだとは思うが、おめでたく夢の中な伯爵なんぞ放っておいて、帰るべきではなかろうか?
思い悩んでいると、キッチンから男が出てきた。ブラウンの髪の毛をきっちりとなでつけ、仕立てのいい服に身を包んだ、小太りの、六十手前と思われる男だった。焦げ茶の目や厚ぼったい唇は陽気で、ひとあたりがよさそうな雰囲気がにじみ出ている。男は少佐をみとめるとにこやかにほほえみ、軽く一礼し、朝の挨拶をしてよこした。
「失礼でございますが、エーベルバッハ少佐どのでお間違いありませんでしょうか?」
見てくれに似合わぬソフトな美声。よく見れば、太ってはいるがなかなかいい男だ。昔はたぶん、伯爵がよだれをたらす美青年だったに違いない。少佐は間違いないと云った。
「そうでございますか! 伯爵からお話はうかがっております。わたくしフーニーと申しまして、この家の管理をしております。どうかおかけください。お好きな新聞を……ところどころ赤丸がついてございますが気になさらず。伯爵が興味をお持ちになりそうなものに、印をつけてございますので。目覚めの一杯はコーヒーでございますか、それとも……」
少佐はソファに座り、コーヒーを所望した。この男は信頼できると少佐の直感が告げていたからだ。たぶんその、明るい親しみのこもった顔つき、ゆったりと落ち着いた穏やかな話し方、そして、長年の経験を物語る、規律正しく教育された使用人のものである態度。
「お出かけは何時ごろになさいますか? 七時にはお食事をご用意いたしますが、間に合いますでしょうか?」
少佐はまるで家にいるような気分になって、小さくうなずき、当然、ドイツ紙を手に取った。それから八時に出れば間に合うだろう、とつけ加えた。フーニー氏は引き下がった。なかなかいい使用人ではないか? あれは伯爵のものなのだろうか、それともこの部屋の持ち主のものなのだろうか。
美術品や展覧会などの記事に印のついた新聞を読んでいると、フーニーがコーヒーを持って戻ってきた。深煎りのを濃い目に。好みの味だった。少佐は眉をつり上げた。
「君はおれの好みを把握しとるのかね?」
フーニーは微笑した。
「わたくしではなく、伯爵が」
ああ、と少佐は云った。それから、ふと気になったことを訊ねてみた。
「君は、この新聞全部に目を通したのか?」
少佐は新聞の山を指さし、面白がるような目でフーニーを見た。
「はい。いつものことでございますので。伯爵がわたくしをご指名の際にはいつも、わたくしが記事を厳選させていただいております」
フーニーはちょっと誇らしげに云った。少佐はまたまた眉をつり上げた。ひとのいい使用人に見えるが、こいつはおそるべき男であるのかもしれなかった。
六時半になろうとしている。そろそろあのねぼすけを起こさなくてはなるまい。少佐は立ち上がり、寝室へ入っていった。カーテンを引いたまだ暗い部屋の中で、伯爵はベッドに丸くなっていた。どこかうっとりしたような、幸福そうな寝顔。枕元には、相棒のウィスパーが転がっている。風が吹き抜ける草原を思わせるような、豊かに波打つ巻き毛があちこちに散らばり、目は物憂く閉じられている。少佐はカーテンを引いた。朝日が待ちわびていたように差しこみ、伯爵の眠るベッドと彼を、やさしく包みこんだ。鮮やかな色彩の目覚め。金の巻き毛はきらめき、なめらかな白い肌と、うっすらと赤みを帯びた唇が夜の世界から帰還する。そしてその美しさが。鮮烈な朝、世界の目覚め。少佐は目を細め、その鮮やかさをしばし楽しんだ。詩人になろうと思ったことはないが、彼の美しさはすべての人間を詩人じみた感受性の中へ連れ去る力を持っている。少佐は苦笑を浮かべ、詩人にはとうていふさわしくない威圧的な声で、起きろと云った。伯爵は寝返りを打っただけ。これが部下なら、このひとことで飛び上がって目覚めるのだが。
少佐はベッドの横に立った。うっとりと、官能的な美しい眠り。まったく起こすに忍びない。この寝顔のためだけに家のひとつもくれてやる男が、きっとうじゃうじゃいるだろう。でも少佐はこんなときにも、耽溺より時間を選んでしまう男だった。本人の意に反して。布団をひっぺがし、ベッドの端に腰を下ろして、繊細なカーブを描く鼻をつまみあげた。待つこと数秒。
「……苦しい……」
少佐は指を離した。
「君のやりかたって、ちっともロマンティックじゃない」
伯爵はまだ半分夢の中にいるような、どこかうつろな目をして、枕に乗せた腕の上に頬を乗せ、唇をとがらせた。
「悪かったな。おれは実用主義だ」
「もうちょっと官能的にいこうよ。そういう気分なんだ。わたしは優しくされると頑張るタイプだよ」
少佐は時計を見た。六時半まであと一分二十秒ほどある。彼はそれから、ベッドに仰向けになり、期待をこめた目でこちらを見つめてくる伯爵を見た。そうしてため息をついた。一、二分の遅滞がなんだ! キャベツ頭のクラウス!
彼は伯爵の上にかがみこんだ。首にからみついてくる腕には好きにさせておいて、ふにゃふにゃした巻き毛をかきわけ、口づけた。伯爵の足が身体にからまってきた。唇の感触を楽しみながら、彼の背中に沿わせた腕に力をこめ、上半身を起こすのを手伝った。完全に起きあがると、唇を離した。
「……おはよう、ダーリン」
伯爵はご機嫌で云った。彼の英語も、ご機嫌な鳥みたいだった。
彼は女みたいに身支度に時間のかかるやつだ。テーブルの上にはできたてのイギリス式の朝食が乗っているが、まだバスルームから出てこない。たぶん髪の毛とかそのへんに手間取るのだ。あのつやつやのふわふわを御すのも維持するのも大変だろう。少佐は先に食べはじめた。かりかりに焼けたトーストは香ばしく、卵も野菜も新鮮で、とてもおいしかった。
「お口にあいますでしょうか」
と聞いてきたフーニーに少佐は珍しくとてもうまいと口に出して云った。フーニーはうれしそうな顔をした。
伯爵が鼻歌とともにバスルームから出てきた。翡翠色のバスローブを身につけて、全身からみずみずしい、いい香りを放っている。
「おはよう、フーニー! いい朝だね。ブラッドオレンジ絞ってくれた? わたしの宝石箱、持ってきてくれないかな。でもその前に電話を取ってくれる? パパに電話しないとね、約束だから」
少佐はトーストをかじりながら、すっかり眠りのベールを剥がし、すがすがしさいっぱいといったふうの伯爵を目で追った……眼福。彼は確かに、見る者に幸福の香りを運んでくる。たぶん、彼の一瞬一瞬の表情やしぐさや雰囲気といったもののために、それを眺めるためだけに、ひと財産つぶしてもかまわない、と自分も思うだろう。幸いなことに、そうはならないけれども。
電話を受け取った伯爵は、慣れた手つきで番号を押はじめた。
「ハイ、パパ。ドイツはすがすがしい、いい朝ですよ。そちらは? 静かなすてきな夜ですか? 雨? ああ、でも雨の夜ってわたしは大好きです。ええそう、今日の伯爵はとってもご機嫌ちゃんです。わかりますか? ご飯食べても? じゃあ遠慮なく(と云って伯爵はいの一番にヨーグルトを口に入れた)。だって、ご機嫌にならずにいられないじゃありませんか、フーニーの食事はおいしいし、部屋はすばらしいし。太陽もわたしを歓迎してくれているみたいだ。ずっと晴れてるんです、こっちへ来てから。(ここでフーニーが宝石箱を手に戻ってきた)ねえ、それより今日のアクセサリーはどれがいいですか? アンクレットをしようと思って……あの、すばらしく深い赤の、ちょっと丈の短いのを履いて。でも、白の方がいいかな? 今日はさわやかな気分だから。うん、やっぱり白にします。あなたのプレゼントの中から見繕ってくれませんか? わたしの足首ですよ! よく思い出して。知っているでしょう? その爪の先まできれいだって、云ってくれましたよね、覚えてますよ。それに白をかぶせて……やっぱり銀鎖のがいいですか? ルビーのついたの? いいえ、邪魔じゃありませんよ、ぶらぶらしてても。ネックレスとあわせるべきですか? 上はあの薄いグリーンのカットソーがいいかなと思ったんですけど、それなら赤にします。思い浮かべました? 赤が入ると一気に情熱的になりますね。腕は時計をするからいいんです。そうそう、あのフランクミュラーのやつですよ。じゃあ、ピアスはどうしたらいいです? え? この細いの? じゃあ、そうしようかな……」
伯爵はどうやらこの部屋の持ち主と、お人形ごっこでもしているらしかった。たぶん、部屋だけでなく服や宝石ごとそろえてもらったのだろう。電話の相手は宝石箱の中身まで把握しているらしいからだ。そしてそれで伯爵を飾って、悦に入るわけだ。伯爵もそういうことがわかっていて、律儀に毎朝電話をするのだろう。今日のお洋服はどれ? パパ……少佐はちょっとだけげんなりしかけた。
「毎日こうする約束なんだ」
伯爵は電話を切ると云った。
「ここにいるあいだはね。わたしがどんな気分でいるか把握して、なにを着て一日を過ごせばいいか、彼が決める。頭の中でわたしをいったん丸裸にして、そこにあれこれ着せる想像をするんだ。そういう官能だよ。それにわたしのなにかを自分が決めたんだっていう、その気持ちね。そういう縛られ方は嫌いじゃないな。ねえフーニー、パパってかわいいひとだね」
「あの方をかわいいとおっしゃるのは伯爵だけでございますよ」
紅茶のポットとありとあらゆるジャムの乗った盆を手に、フーニーが給仕にやってきた。
「わたしはおっかないと思っております」
伯爵は陽気に笑い転げた。
「アメリカに住んでる、ロマンスグレーのおじさまなんだ」
食事より先にフルーツを食べながら……彼の食べる順番は気まぐれでめちゃくちゃだ……伯爵は云った。
「職業は秘密。大金持ち。伯爵が大好き。もちろん伯爵も彼が大好き。フーニーは、ほんとは彼のおつきだったんだよ。でも、わたしが半分もらったんだ。わたしが彼を必要としてるときには、彼はわたしのもの。だってとても気に入ったから。こういうの、人身売買で逮捕されるかな?」
伯爵は弾むように、さえずるみたいに、楽しげだった。今日はほんとうに「ご機嫌ちゃん」らしい。もっとも、伯爵はだいたいいつも「ご機嫌ちゃん」なのだが。少佐は「ほー」と云い、コーヒーを飲んだ。
「フーニーのコーヒー、おいしいだろう? 食事も一級品だし。ねえフーニー、これ、塗ってしまったけどやっぱり黒すぐりのジャムがいいよ。そういう気分みたいだ。もう一枚くれない? 両方食べるから」
フーニーは飛んできて、気まぐれな主人のため、オレンジとレモンのジャムがべったり塗られたトーストを取り上げた。
「それも食べるよ」
「無理かと存じますよ」
フーニーはからかうように云った。
「あなたさまのお腹がカエルの喉みたいに膨れるのでしたら話は別ですが。新しいのをお持ちします」
「でもそれ、もったいないよ」
「わたくしのお腹というものがございます。それに、ジャムをそんなにお食べになっては糖分過多でございます。さきほどヨーグルトの中へブラックベリーのジャムをたっぷり入れておいででしたよ。パパ・フーニーは見ておりますよ」
伯爵は笑いだした。
「フーニー、わたしのパパ、愛してるよ」
「はいはい、存じております」
伯爵はまた笑った。とても幸福そうに。ひとつ、確かなことがある。彼が幸福なとき、世界もまた幸福である、ということ。
「音楽かけよう」
伯爵は立ち上がって、食堂を出ていった。てっきりクラシックがかかると思っていたら、ノリのいいポップスだった。そして伯爵は踊りながら戻ってきた。彼のまわりで、空気さえも、楽しげに転がり回っているみたいだ。そんな様子を、黙って見ていてもいいけれど。少佐は時計を見た。これからまたバスルームでひと仕事する伯爵のことだ。ゆっくりしている時間はない。まったくこんなときには、無情にも感情や感慨や雰囲気、陶酔を切り刻む時間というやつのどてっ腹に、一発ぶちこんで黙らせたくなる。それはあまりにも人間の内面と矛盾する。それはわれわれのやりかた、われわれの、いわば内的時間の使い方に、決してあわせてはくれない。伯爵はそれは、幻想だと云う。時間は存在しないと。だからこの世界のすべては幻想であり、われわれの真実は、その内的感情だけだ、と。少佐は、たいへん心苦しかったが、伯爵にすこし急ぐように云った。伯爵は早回しが嫌いだ。でも仕方ない。秘書代理を引き受けたのは彼なのだから。
少佐は予定より少し早くその部屋を出た。伯爵といっしょに出勤なんて冗談じゃないし、これ以上気分がだらけるのがいやだったのだ。彼のように、放縦な部分が顔を出すのが。伯爵はとりあえず着替えたという体でバスルームから飛び出してきて、熱烈なキスをしてくれた。いってらっしゃいのキスというやつだ。にしては、かなり念入りだったが。
記録的ひとだかりを制するG
伯爵が「ごきげん」で出勤してきた、と入ってくるなりDが云った。
「おれ偶然一緒になったんだけど、今日もすさまじい格好してんだ、あのひと。金かかってそうな服と、金かかってるに決まってるアクセサリーじゃらじゃらさせてる」
「女装よりはましだよな」
Eがペンを口にくわえたまま云った。彼は最近禁煙にとりくんでいて、気がつくと煙草のかわりにペンをくわえているので、先日めでたく「ペン・E」と改名し、部下たちによって承認されたところだ。
Gがそわそわしはじめた。そして数分後、なにくわぬ顔をして、化粧ポーチを手に部屋を出ていった。
「あいつ、伯爵んとこへ行ったな」
Bが朝食のハンバーガーを食べ終えて云った。
「対抗してんだか、引っ張られてんだか知らないけどさ、あいつ昨日今日、やたらと化粧に気合い入ってるし、香水はなんかすごい匂いのやつなんだ。かんべんしてよ」
Gの隣の席のHがげんなりしたように云った。ほかの連中も、もちろんそれには気づいていて、げんなりしていたのだった。
突然、ものすごい勢いでドアが開いた。
「ちょっと! あんたたち、ぼさっとしてないで来てよ! 伯爵が大変なの!」
「なにがだよ、G」
Aがきまじめな口調で云った。
「女よ!」
Gはいかにも汚らしいというように云った。
「部長の部屋の前に、ひとだかりなの! ぎゅうづめもいいとこよ、ソーセージみたいにつまっちゃってるんだから! 部長が朝一で会議でいないからって、女どもがつけあがってるのよ! あんなんじゃ伯爵、いずれくそ女どもに襲われちゃう!」
「少佐に報告しろよ。少佐の許可があれば動いてやるよ」
Aはめんどくさそうに云った。そしてエーベルバッハ少佐は、くそいまいましいが事態の収拾と、部長の円滑な仕事のために交通整理の必要がある、と云って、部下どもを部長の部屋へ向かわせ、自分も乗り出した……ただし、Zはどうしたって留守番でなければならなかった。五メートルの制限があったので。
部長の執務室の前は、確かにGが云うとおり黒山のひとだかりだった。部屋の中にもわんさかいるらしいが、外にあぶれたやつらがドアの周りに殺到していて、どこにドアがあるのかまったく見えない。ひとだかりは、女ばかり。他部署の女性職員たちだ。申し訳程度にファイルなど抱え、いかにもなにか部長に用があるかのように見せかけているが、なんのことはない、単に秘書代理をひと目見ようと集まってきただけだ。
「なあ、G、伯爵って女はぜんぜんだめなの?」
「ふん、お話にならないわよ」
「もったいないなあ。おれならこんなにたくさんの女の子に囲まれるなんてことになったら、明日死んだっていいけどね」
「D、なら死ぬか?」
少佐が云うと、Dは硬直し、黙った。
「くだらんおしゃべりしとらんと、とっととあの浮かれた職員どもをもとの部署へ追い返せ、仕事の邪魔だ」
部下たちは弾かれたように女のかたまりに向かって突撃していった。少佐はため息をつき、すこし離れた壁にもたれ、見守った。部下たちは苦戦している。こういうときの一般女性の扱いにくさときたら、まったくたいしたものだ。口ではとても勝てないし、だからといって暴力に訴えることは許されない。脅しもNG。挙句に開き直られた日には、東西きってのエージェントだって苦戦する。結局、数分の押し問答のあと、その場を制したのは、めったにお目にかかれない怒りを爆発させたGだった。
「ああ、もう、いいかげん失せろよ! 一般人だからってこっちが下手に出りゃいい気になりやがって! この場でぶっ放されたくなかったら、とっとと行け! 伯爵に近づくな! ぶっ殺すからな、このくそあまども!」
……声と口調が男だぞ、G。その場にいた誰しもが一瞬ぽかんとしたが、少佐もまたぽかんとしてしまった。見た目との乖離がはなはだしい。そして意外に口が悪い。あいつは、素のままの方が使えるのではないか?
暴言を吐きまくりながら銃を構えたGを見て、女性職員たちは散り散りに逃げていった。少佐は眉を吊り上げ、ようやく見えた執務室のドアへ歩いて行った。
「伯爵、大丈夫ですか? 女たちにひどいことされませんでした? あの連中、厚かましいったら! 何度来たって、あたしが蹴散らしてあげますわ」
「G君、君って、とっても勇敢なんだね」
伯爵は机に肘をついて、ちょっと疲れたような笑みをGに向けている。G以外の部下たちはどうしたらいいかわからず、げんなりした顔を少佐に向けてよこした。少佐は小さくうなずいた。部下たちは次々に部屋をあとにしはじめた。
「いま、君のことすごく見なおしたよ。なんていうか、たくましいね」
「いやだわ、あたしったら、つい怒りが爆発して、恥ずかしいですわ……」
Gは両頬を手ではさみ、ちょっとうつむいた。
「ともかく伯爵が無事でよかったですわ」
伯爵は苦笑を浮かべた。
「おい、秘書代理」
Gが落ちついたのを見て、少佐は云った。
「はい、エーベルバッハ少佐」
伯爵の顔から疲れの色が吹っ飛んだ。
「どうやらGを置いとくと仕事がはかどると見た。ボディガードとして置いといてやるから今日もまじめに働けよ。G!」
Gはびくっとした。
「そういうことだ。前言撤回だ。この部屋の風紀を守れ。伯爵なんぞどうでもいいが、目をハートにした女がうじゃうじゃなんてことになったら、シュヴァイツさんの神聖な職場が汚れる。規律が乱れんように死守しろ。それからG」
Gはさらにびくっとした。
「……おまえ男に戻ったほうがよかないか」
Gは硬直し、そして赤面した。
Aとその妻とG、もしくは幸福な翼を持つことについて
部長秘書代理がやってきて二日目も、なんとか無事に終業時刻を迎えた。部長は今日も、たぶん秘書代理のハグ等々のおかげで信じがたいほどパワフルに効率的に仕事をこなし、Gは任務を終えて、にこにこしながら戻ってきた。情報部はあいかわらずひまだった。少佐もひまなので、帰り支度をしながらぼんやり部下たちの様子を眺めた。
「おい、A、おれたちちょっと一杯ひっかけて帰るんだけど、おまえどうする?」
Bがよく通るでかい声で云いながら、立ち上がった。
「……今日はパス、妻が来てるんだ……」
Aはなぜか急に顔色を変え、消え入りそうな声で云った。
「おっ、デートか? 愛妻家」
Bはすかさず冷やかした。AはきっとなってBを見返した。
「デート? デートだって?」
AはBに詰め寄った。Bは気圧されて数歩後ろへ下がった。
「な、なんだよ、違うのか?」
「だったらいいさ! おまえにぼくの気持ちがわかってたまるか! 女なんて、みんなミーハーな浮気者だ!」
Aは歯ぎしりした。そして少佐は、A夫妻になにが起きたのか、たぶん実に正しく理解した。
「確かに妻は、部長秘書がいない一週間、もしかしたら地獄を見るかもしれないっておそれてたぼくを気遣ってくれたさ! ああ! 確かに優しい妻だよ! でも、そもそもぼくが部長秘書代理のことを口にしたのがまずかったんだ。代理のこと根掘り葉掘り聞かれて、云っちまったんだ、伯爵が来てるって。あの尋問に耐えられる男がいたら見てみたいよ! それであいつ、なんて云ったと思う? まあ、すてき! だぞ!? まあ、すてき? なにがだよ! あげくに、伯爵を家にお呼びしろって云うんだ! ご迷惑でなければ、なんて……ご迷惑だって!? こっちが云いたいよ! 彼は同性愛者だって何度云ったってきかないんだ。おまけに手書きの招待状まで用意して、今日これを渡さなかったら、ぼくは家に入れてもらえないんだ!」
Aは顔を真っ赤にして、ふところから封筒を取り出し、机にたたきつけた。そして両手で顔を覆い、ため息をついた。その場が静まり返った。そこにいる全員が、どう反応したらいいのかわからないでいるようだった。笑ったらAはますます怒るし、かといって同情するほどのことかと云えば、別段そうでもない。
「……ねえ、A。あんたが家庭内修羅場とか妻の突然の失踪とかに遭遇したくないってことなら、あたしが代わりに渡してあげるわよ」
Gがふいにため息をもらしてから、口を開いた。
「それ、あたしからの招待状ってことにしてあげていいわ。そしたらあたしにとってもすごく好都合なのよね。伯爵と家でお食事……夢みたいじゃない?」
Gはうっとりした顔になった。
「……でもあの伯爵のことだから、愛人とか友だちとかなんとかでとっくに予定が埋まってるんじゃ……」
Zは云いかけて、Gににらまれ、すみません、と云って黙った。Zはいつも核心を突いたようなことをさらりと云う。少佐は内心苦笑していた。もちろん、伯爵が望むなら、ひと晩くらいGと食事へ行ってもらってもいいのだが。でもAの家はだめだ。そんなことになったら、しばらくうじうじ妻への不満やら心配ごとやらを聞かされるのがオチだ。
GはAから招待状を受け取り、中身を確認して、結局使いものにならない、とシュレッダー行きにしてしまった。Aの名前やら奥方の名前やらが書いてあったらしい。でもそんなことではあきらめないGは自分のデスクへ向かうと、信じがたいほど細々したものがごちゃごちゃ入っている引き出しを開け、乙女趣味の便箋を取り出して、なにか書きつけはじめた。
「A、おまえ嫁さんになんて云うんだ?」
Dがにやにやしながら聞いた。
「おまえがどう嫁さんを云いくるめたって、伯爵にうまいこと云っとかないとばれたらおしまいだぞ」
「で、伯爵ってきっと面白がって、わかっててもすっとぼけるんだよな。そういうひとだよ、あのひと」
Bが容赦なく云った。Aの顔が、紙のように白くなった。
面白がってぎゃあぎゃあやりはじめた部下たちを放っておいて、少佐は先に部屋を後にした。そういえば、今日これからどうするべきなのだろう。そういう話をするのを忘れていた。たぶん伯爵のことだからなにかしら考えがあるのだと思うが……ぼんやり考えていると、メールが来た。
G君とお茶してから帰るよ。
なにやら話があるみたい。
部屋の鍵は持ってるよね? 夕食は云えばフーニーが作ってくれることになってるけど、君のとこの執事は、一週間も君を借りたら寂しくて髪の毛がなくなってしまう? 任せるよ(おぞましいほどたくさんのハートマーク)
少佐は自宅に帰った。必要な荷物は約一週間分だ。突然の荷造りを云い渡された執事はいつものことで、なにも訊かずにてきぱきことを進めた。長年軍人を主としてきたので、極秘任務や隠密行動の類には慣れきっているのだ。もちろん、理由の詮索というような下世話なこともしない。でも。と少佐は考えた。執事は、なにかしら勘づいているような気がする。気だけだが。そしてこちらがあくまで打ち明けないなら、執事も自分の考えを、自分の胸の中だけにしまっておく。それこそほんとうに墓場まで。ふいにここへ連れてきたら驚くだろうか、驚くだろうが、驚くだけだろう。たぶん次の瞬間にはわれを取り戻して、いつもどおりの執事になるだろう。
「それでね、G君と相談して、A君の奥さんには丁寧にお断りの電話を入れたんだ。えらいだろう? わたしだって、君の部下の家庭内平和を乱すつもりはないからね。それに、わたしの予定がほとんど埋まってるのは事実だし……埋まってるっていうか正確にはなにもないんだけど、なにもないのが埋まってるってことで……あれ? 文法が変だ。まあいいや。そうそう、なにもないんだよ。昨日そういう話をするのを忘れちゃったけど。でもG君とは、やっぱり一度ディナーをともにする必要があると思ってる。それなんだけど、正直な話、君たちの給料ってどれくらい? どういうレベルの店が適切なんだろう? そりゃあさ、わたしが支払うんだからどこだっていいけど、でもわたしが素敵な店って思うところでは気持ち的にリラックスが難しいとかいう可能性もあるわけじゃない? G君って、いいとこのお坊ちゃんだったりする?」
今日は食事の前に風呂に入りはじめた伯爵に、少佐はやっぱりつきあっていた……灰皿と新聞をおともにして。
「あいつの実家はごく一般的な中流家庭だ」
少佐はフットボールの試合結果に目を通しながら云った。
「イギリス式に云えば中の下だろ」
伯爵は髪を洗う手を止め、ああ! と云った。
「でもG君の給料ってきっと悪くないよね。そして上流階級に素直な憧れもあるんだ。身につけてるものでわかるよ。貴族階級なんてほんとうはみんなが思ってるようなものじゃないけど、でも夢は夢だ。大事にしなくちゃ……ねえ、ときどき思うんだよ。わたしって前世がサンタクロースだったんじゃないかってさ。わたしが持っているもの、そしてひとにあげられるものは、めいっぱい甘い夢だ。美しさと、財産と、それがもたらす快適な、真綿の上に乗ったみたいな心地。ひとにかしずかれて、丁寧なサービスを受けること、そして自分の横に、手に入れる価値のある人間がいるってこと。自分が特別だって思える瞬間。みんなそれだけを希求してるんだからね。わたしは特別性の象徴なんだ。それがみんなの心をくすぐるんだよ。だから、わたしと過ごす時間は夢のような時間になる。現実を離れて、特別な一瞬……わたしはだから、きっと神の気まぐれでこの世に現れたり消えたりして、実在していないんだ、たぶん、そういうひとたちの中ではね。浮ついた熱病みたいな夢だ。熱病みたいなやつなんだ、わたしって。そしてそれは確かに、わたしの存在意義のひとつなんだ。それを受け入れられる精神構造でよかった。つまり、君みたいに潔癖じゃなくて、適度に自堕落でよかった。じゃなきゃ、とんでもなくつらい人生だったと思う」
少佐は熱病を見た。熱病が垣間見せる冷徹な理性を見た。伯爵はときどきそうだ。彼はばかじゃない。自分の存在が必然的に生み出す役割も、それをこしらえる人間のどうしようもない性も欲も、なにもかもが見えている。見えていて楽しむこと。それには、たぶん想像を絶する度胸が必要なのだ。プライド、羞恥、罪悪感、そういったものから、自由になること。あらゆる思想から、自由になること。伯爵がときどき妙に年寄りじみたことを云うのは、そういうことだ。彼は人生のほんのはじまりの時期に、全部見てしまったのだ。その容姿と、その生まれのために。そしてそれを、清らかに乗り越えた。彼の絶対的な清らかさは、そこに由来する。彼にはもう、手出しができない。誰も彼を汚せない。どんなことをしても。彼のうちにある静謐な炎が、すべて鎮めてしまうからだ。そしてその澄んだ美しさを、それと表出するものの不調和を、けれども不思議な融合を、少佐はことのほか愛するのだ。
彼は浴槽の縁に腰かけ、シャワーコックを掴み、ふにゃっとした巻き毛にへばりついた泡を丁寧に洗い流した。伯爵は目を閉じて、おとなしくしていた。時間をかけてお湯を注ぎ、揉みしだくようにして泡を落とすと、シャワーを止めた。伯爵はゆっくりと目を開けて、少佐を見上げてきた。まつ毛に水滴が乗っている。それが涙のようにきらめいている。でも、彼は泣かない……そういうことではもう泣かない。自分の存在と世界との葛藤は、もう彼を苦しめない。それは思春期の迷いだ。思春期の悲痛な軋み、それがもたらす叫び。彼の中に、かつてあったもの。その残り香を、葛藤の傷跡を、少佐は愛する。そうして称賛する。彼の清らかな勝利を。
彼に口づける。そのとき、すべての痛みは解放されて飛び立つ。昼間の日照り、夜の悪夢、すべての闇は、葬り去られる。彼の力。彼の持つ幸福の翼。天にもっとも近いところ。
まだ続きます。