クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐の叱責

 

「おまえうちの執事になにした」
 少佐はちょっと怖い顔で云った。伯爵はダマスクローズの香りのするあぶくの中で身体をさすっていた手を止め、首を傾げた。
「なにもしてないと思うけど……たぶん」
「ほー、そーか」
 少佐はさらにもう少し怖い顔をした。
「君、なんで怒ってるんだ? ほんとになんにもしてないったら。愛を囁いてもいないし、濃厚なボディタッチもしてないし、いたずらだってしてないよ、まだね」
 伯爵は「まだ」の部分に力をこめて云った。少佐はため息をついた。
「まだもへちまもあるか。金輪際するな。あいつはおまえが来てからのたった十八時間かそこらで、頭のねじが狂っちまった。あいつがいまなにをしようとしてたか忘れたり、家具の角にぶつかったり皿を落っことすなんぞ、生まれてこのかた見たことがない」
「わお」
 伯爵は目を輝かせた。
「それってわたしのせい? 彼、つまりその、ぽうっとなってるの? すてきだな! わたしが、彼の情熱に火をつけるとか、彼の男性的本能を目覚めさせるとかできたら、とってもすてきだ……そう思わない? 彼、長いこと恋愛なんかには無縁で過ごしてきたって感じがする。仕事一本で……君みたいにさ……ううん、違うな、君はそれでもまだ、社会の中にいる以上、そういう空気に接する機会があったわけだけど、コンラート君の場合、もっと狭い範囲に生きてるみたいだから……」
 少佐はおしゃべりやめろと云い、首をかっ切る仕草をした。
「いけない? いいじゃないか、人生って、もっと刺激的で楽しいものだよ。泡がぱちぱちはじけるみたいに。それが正しいあり方なんだ。みんな、安定を好みすぎてるし保守的すぎるんだ、わたしに云わせれば。まあそれは半分冗談だけど、でも、ほんとになにもしてないってば。朝、抱きしめてキスはしたけど」
「やっぱやりやがったんじゃねえか」
 少佐は浴槽にたまっていたお湯を伯爵めがけてばしゃばしゃぶっかけた。
「うわ、やめてくれ! 髪が濡れたら一大事なんだ! セットに時間が……ああ、もう!」
 びしょびしょになり、髪の毛がすっかりへたりこんでしまった伯爵を見て、少佐は満ち足りた気持ちになった。してやったという気分だ。おまけに、これから髪の毛を乾かすのを眺める楽しみまでできた。執事のことなど、はじめからそこまで気にしてはいなかったのだ。伯爵はぜったいにキスとハグくらいするだろうと思っていたし、それで執事がおろおろするだろうということくらい……どの程度うろたえるかはわからなかったが……予想はついていた。一度気を許したら、伯爵の愛情は豊かに、親密に、しつこいくらいに表現される。そういう濃厚な表現に、執事はなれていないはずだった。
「ひどいよ! ドライヤーあんまり使いたくないのに。ねえ、コンラートって美容師の心得はある? 頼めばタオルで髪の毛拭いてくれる? 乾くまで、優しく」
 少佐はちょっとばかりむっとした。金色のふわふわのふにゃふにゃを、あの執事がいじくるというのはあまり気に入らなかった。伯爵の金髪は、プードルのくるくるした毛並みみたいに触れたいという欲求を引き起こすものだが、その欲求と実際に触れることとのあいだには、対プードル以上の分厚い壁がある。彼は金髪をあまりひとに触らせないからだ。それが許されるには、相当に仲良くならなければならない。少なくとも、少佐の場合はそうだった。あのふわふわを目の前にして、毛むくじゃらの犬をなでまわすみたいにがしがしやりたい欲求を何度断念したことだろう! それがこうだ。伯爵はファザコンの気がある。濃厚に。年上の男に、かまってほしいし世話を焼いてほしいのだ。この場合の年上というのは、うんと上だ。五とか十とかいうレベルではなくもっと上。その点、エーベルバッハ少佐はどうがんばっても期待に応えられない。執事は、それを満たしている。伯爵はきっと、ちょっと甘ったれた口調でこう云うだろう。見てよ、コンラート、君のご主人が、わたしの髪をこんなにしてしまったんだ! ひどいよ、彼はサディストだ、なんとかしてよ……執事はひどく同情した顔でこう応えるだろう。それは大変でございますね、伯爵さま、ただいま、すぐにお拭きいたします……そして、伯爵は執事に髪を拭いてもらいながらにこにこしているだろう。
 結局、少佐は伯爵のふわふわを自分で拭いた。ばかなことをしていると思った……当然だ。今回の休暇はのっけから全部ばかげているのだ。徹頭徹尾ばかでいくしかない。髪を拭かれているあいだ、伯爵はかなり上機嫌だった。髪を乾かすともうほとんど昼食の時間になってしまっていたので、ふたりは朝食と昼食を同じテーブルで食べた。エーベルバッハ家伝統のヨーグルトを、伯爵は二度おかわりした。そのせいでほかのものが食べられなくなり、結局、最終的に伯爵が朝食を「ごちそうさま」したのは午後二時近くになってからだった。料理人がさぞ気を揉んだろうと思い、食後さりげなくフォローしに行ったら、もう伯爵が手懐けているところだった。君の料理、どれもすごくおいしかったよ、いつからこの仕事してるの? どこかから持ってきたらしいバラの花を一輪、指先でもてあそびながら、伯爵は無邪気そのものの顔をしていた。赤ら顔で太った、今年で確か五十八になる料理人は、聞いた話では子どものころからエーベルバッハ家で働いているのだったが、いつもはむっつりと愛想のない顔をしているくせに、いまは頬の肉のあいだに埋もれているような小さな目をこころなしかうっとりさせて、伯爵を見つめていた……そもそも、あたしのおやじがここの台所を守ってたんですよ、伯爵さま。執事のヒンケルんとこと同じですよ。代々の就職先ってやつで……へえ、そう! そういうのって感動的だね。英国だって、いまじゃそうはいかないよ……。
 少佐はそっと引き返した。複雑な気分だ。家中の使用人が、そのうちみんな骨抜きにされてしまいそうだ。それはそれでいいのだが……いいのだろうか?

 

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