少佐はゆるゆると丘をのぼり、双眼鏡ではるかな海を眺めた。眠たくなるようなうららかな日だった。港の周囲では、幾艘もの船が波にゆられていた。しばらくすると目下少佐の監視する船が、一艘は右から左へ、もう一艘は左から右へと、よたよたと横切っていった。途中、右からきた船の船員が海中へなにかを投げ入れた。左から来た船の船員は、しばらくたってから、網でなにかをひろいあげた。すれちがうとき、船はお互いに陽気に汽笛を鳴らしあった。
 少佐は自分の仕事が終盤に近づいていることをさとって、微笑した。バスケットをひらいてすみれ色のハンカチを広げ、絹のようにかすかな黄色味をおびた細君のバラに敬意を表してまっさきにそのうえへ置き、それからザワークラウトの入った瓶と、ニシンの塩漬けのサンドイッチを並べて、少佐は昼食をとりはじめた。白い蝶が丘をのぼってきて、どこかあぶなげに少佐のそばを通りすぎた。このあたりのスズメどもはすっかり味をしめていて、少佐が食事をはじめるとどこからともなく近くの木の枝までやってきて、ちょろちょろと様子をうかがうようになっていた。少佐は微笑し、いつものようにパンくずを遠くへ投げ出してから、横になって昼寝をはじめた。
 ……武装した女騎士の幻想が、少佐の頭から去らなかった。しかもそれは誇り高い処女騎士などではなく、中年の、なにかひと足ごとに重苦しさを感じさせるような騎士なのであった。彼女は大地にふんばって、剣をおろして立っていた。いざとなれば、いつでも飛び出せる構えだった。その目は超然としていたが、そのくせどこか残忍な、好色そうな感じをおびていた。そしてその騎士のそばでは、彼女の愛情をめぐる、男たちの醜いあらそいがおきていた。女騎士は、それには手を貸さなかった。ただ、男たちのうち誰かが打ち倒されそうになると、駆け寄ってさんざんにほかの男たちを罵倒し、剣を振りまわした。そうなると男たちはしばらくあらそいをやめたが、そのうちにまた聖なる決闘のなかへ戻ってゆくのだった。そうして女騎士は自分の持ち場から、また超然としてこのあらそいを見守るのだ。
 女騎士の顔は、はじめあの八百屋の細君エルゼの、赤みをおびた情熱的な顔をしていた。そのうちに、その顔は伯爵の好色な好奇心たっぷりの微笑にかわっていた。……
 草むらを踏みしめる足音で、少佐は目ざめた。彼は自分がなにかみだらな気分のなかにいるのを感じた。あの伯爵の微笑にあてられたにちがいなかった。少佐は微笑し、身体を起こした。出張中は連絡をとることはゆるさないと云い置いてきたので、帰ったらどんなうらみごとを云われるかわかったものではなかった。自分がどこへ行くのか、なにをするつもりなのかを彼に伝えることを、少佐は自分に禁じていた。自分が云わなければ、誰も彼から聞き出すことはできない。それで少しは安心できた。伯爵の大いなる犠牲のうえに成り立つ安心ではあったけれど。
 足音はしだいに近づいてきた。それがヘルマン老人の、まだまだ力強いものであることはわかっていた。果たしてなだらかな丘の下から、老人の姿が見えた。うしろには、いつものように白犬がくっついてきていた。老人は手を振った。少佐は立ち上がった。
「これが通信の中身だだよ。もちろん、書きうつしたもんだがね」
 老人は目を輝かせ、得意そうに紙きれを差し出してきた。少佐は目を走らせ、すぐにそれをライターで燃やした。
「しかしあんたの老骨を」
 少佐はバスケットを取りあげ、にやにや笑いながらヘルマン老人の肩を小突いた。
「おれは必要以上に酷使してるんじゃないかと思うんだがね。あんたがくたばっちまったら細君になんと詫びたらいいもんか、おれはいつも考えとるんだ」
 ヘルマン老人はひとがよさそうに笑い声をあげた。
「あいつの考えはわかっとるだで、大丈夫でさあね。おれがおっ死んだら、あいつは少佐ん屋敷へ終身雇用で雇ってもらうだって決めてるだよ。まんだ繕いものも家事もできるだ、ちゅうて。そいだら、執事のヒンケルだの、料理人のマンツだのいうやつらを、うんといじめてやれるで長生きできるだ、ちゅうて、あいつはいまからおれの死ぬのを待ってるだ。三人して、百を過ぎても生きててぼっちゃまを困らしてやるだ、ちゅうとるだよ」
 少佐は笑った。ふたりは肩を並べて帰路についた。
「思うに、彼女には庭をまかしたほうがいいだろう。庭師ひとりにまかせておくには、うちの庭は広すぎる」
「そうかもしんねえ」
 老人はうなずいた。
「あいつの指は、たぶん土かなんかでできてるだ。だから、植物がよく育つだ。考えたこたあねえですかな、少佐、女なんちゅうもんは、みんな土かなんかでできてんじゃねえかって。そんで男が、生意気にもそっからにょきにょき生えてるだよ」
「ありうることだ」
 少佐は少し考えてから、云った。
 丘をくだり、森を抜けて町へさしかかったとき、ふたりは八百屋の息子のアルフォンスが、左頬を腫らし、ふてくされたような顔つきで小走りに森へ入ってゆくのを見た。ふたりは思わず顔を見合わせた。白犬が、見知った若者に向かって走っていきそうになったので、ヘルマン老人があわてて鋭い声で止めた。犬はしゅんとして、主人の足もとへもどった。
「嫉妬に駆られた女が殴ったんじゃあないな、あの腫れかたは、間違いなく」
 老人はうなずいた。
「頬骨んとこが、いやな紫色になっとっただな。ありゃあ男の力だで。それもたぶん、父親の」
 老人はため息をついて、肩をすくめた。
「自分の経験から云うだがね、少佐、ああいうアルフォンスみてえな若え男は、どうあったっていつかはガツンと一発くらうだ。しかもそりゃあ、男の仕事じゃなしに、女の仕事だだよ。間違っても父親の仕事じゃあねえ! しかもあいつはこないだそれをくらっただ。そんなときに、家にいるのがあの父親と母親じゃあ……親父は怒り狂うことしかしらねえ。おふくろは、息子をやたらとかばうことしかしらねえだ」
 ふたりは暗い気持ちで家へ帰った。玄関のドアをくぐり、すこやかな細君がすこやかに支配する家の中へ帰還したときには、ふたりともほっとしたのは事実だった。あたりには、細君が飾りつけたバラの香りが品よくただよっていた。細君は例の豊かな尻をゆすって台所をみがいていたが、ふたりの足音を聞きつけて、手袋をはめた手で出てきて、茶目っ気たっぷりに微笑した。えくぼがふたつ、あらわれた。
「ふたりとも、もう最新ニュースを仕入れた?」
「あんだい、そりゃあ」
 亭主が訊ねた。
「八百屋のご主人がさっき、ナウマン先生の診察を受けたのよ! ひどく殴られて倒れたときに、頭を打ったの。それでエルゼが金切り声で先生に電話したってわけなのよ。ご主人はしばらく動けなくて出血もしたそうだけど、幸い大丈夫だったらしいわ。いつもかぶってるあの店の名前がついた緑の帽子ね、あれがなかったら危なかったそうよ」
 男たちは顔を見合わせた。
「おめえは昼飯からこっち、ずっと家ん中を掃除しとったでねえか」
 ヘルマン老人がいぶかしげに云った。
「いってえどっから話を仕入れただ?」
 細君は咲き誇るバラのように誇らしげにほほえんだ。
「女は、家にいながらあんたたち男よりずっといろんな情報を手に入れられるのよ」

 

 八百屋の極道息子はその晩から姿を消した。酒場では毎晩さかんに彼のことが議論された。
「あいつは親父を殺しちまったと思ったにちげえねえ。そいで、急いで逃げたんだ。親父を殴り倒したあと、あいつは真っ青になってたって云うじゃねえか」
「いや、あいつのこったから、もう誰か女から無事だってことは聞いてるはずだ。おおかた、どっかの家の小屋にでもしけこんでんだろうよ」
「だとしたって、いっぺんぐれえ親父のようすを見に行ってやったっていいでねえか。それか、おふくろさんをよう。エルゼだって、かええそうでねえかよ」
「おめえは昔っから、エルゼにやさしいからなあ! 気いつけねえと、今度ぁおめえが亭主に殴り倒されるだぞ」
 みんなはどっと笑った。からかわれた男はむっとして、おりゃああんな男、殴り返してやるだけのこたあできるだ、と云った。
 少佐とヘルマン老人は、あの息子が森へ入って行くのを見たと云いだすべきかどうか、判断がつかなかった。あの甘やかされた息子が本気でどこかへいなくなるとは思えなかったし、自分だったらこんなとき、しばらくひとりでいたいだろうと思ったからでもあった。ふたりはアルフォンスに、男としていささかの同情を感じていた。ヘルマン老人もかつては好き放題にやっていた息子だった。エーベルバッハ少佐も、若いころにはむやみに自分の武器を振りまわしていた時代があった。ある種の男というものは、そうやってめくらめっぽうに武器を振りまわしながら、自分の武力の程と扱いかたとを会得していくものなのではないのか? 多くの恥と屈辱をともないながら。
 少佐とヘルマン老人とは、食事を終えると細君の王国である庭へ出て、ベンチに腰かけて静かにビールを飲んだ。ふたりともなにも云わなかった。バラの生け垣がときおりさらさらと涼しげな、やさしい音を立てて踊るように身体をゆすった。うるわしい月夜だった。あたりは月の青白い神秘的な、感傷的な光に満ちていた。
「おりゃあ、四十をすぎてから改心しただ」
 ヘルマン老人がふいに云った。
「おりゃあそれまで、来る女はみんな拒まなかっただ。おれが自分でしかけたこともずいぶんあっただ。そりゃあ、おれだって、何度も折り曲げられたりくだかれたりしただよ。身を焼かれるような思いってのも、ずいぶんあっただよ。だけんども、そういうこともいまんなってみりゃあ、みんな思い出んなって海ん底へ沈んでっちまったみてえだ。ちっとつまんねえくれえだ」
 少佐はすねたように吐き出された最後のひとことに微笑した。
「……前から訊きたかったんだが」
「あいよ」
 老人は待ちわびていたように返事をした。そうして質問に対する好奇心に満ちた顔を向けてきた。
「あんたみたいな男が、なんだってこういう生活にこんなになじんどるのかとね。細君ができて、ガキができて、ガキがでかくなって、年寄りになる」
 老人は庭に目を向けて、ほほえんだ。
「そいつがさっぱりわかんねえ。ある日突然、もういいだ、と思っちまっただよ。もういいだ、ヘルマンよ、おめえの冒険の日々は終わっただ! と思っちまっただな。それがよ、少佐、そいつはあんたのお屋敷で起きただよ! おれがお屋敷行ったのはたまたまだった。用事を済まして、もうボンなんぞへ来ることもあんめえと思って、あちこちぶらぶらしてただ。おたくはちょっとした観光名所だでね、おれも古い城を見物するつもりんなって、出かけて行っただ。おれはいまの執事の前の執事に、見学を願い出て、歓迎された。そんで、庭師といっしょに敷地をあちこち歩き回らしてもらっただ。バラ園のそばを通ったとき……そんとき、女がひとりバラに向かって仕事してただ。庭師はおーいちゅうて、女を呼んだだ。彼女は立ち上がって、振り向いた。庭師が、なんか仕事の指示を出すついでに、これは見物客だっちゅうて、おれを指さして紹介した。彼女は左手に切ったばかりのバラの枝抱えて、泥だらけだっただが、猫みてえに好奇心たっぷりの目して、おれを上から下まで見た。そんで次の瞬間、微笑んだだ。えくぼがふたつ、くっきり浮かんだだ。まぶしかっただなあ! 庭師はすぐ歩き出しただが、おれはがまんできねえで、おめえさんの名前を教えてくんろ、ちゅうただ。そしたらあの女は笑って、おれにバラを一輪差し出しただ……それが、女の名前だっただよ。ローザ・インメル……いまじゃもう三十年以上もローザ・ルーエだ……ありがてえことによ! そんときの……あのおれに堂々とバラを差し出してきたときの、あいつの輝くような目とえくぼを見たときだなあ。おれはあんとき、いっぺん死んだだ。おりゃあそう思うだ」
 一度死んでよみがえった男は、それきり黙った。少佐はその先の話を知っていた。それから一年ほどして、ローザ・インメルは結婚のための退職を願い出て、受け入れられた。彼女は当時二十八になっていて、奉公に来て十年が過ぎていた。器量が悪いわけでもないのに、そのあいだに浮いた噂のひとつもなく、屋敷の誰もが、ローザはもう嫁に行かずに一生ここで働くつもりだろうと考えていた。だから、彼女の退職願いはたいへんな事件だった。執事はすっかり彼女をあてにしていたし、なり手の少ない若い女の使用人は貴重だった。執事はその晩、少佐の父親にたいして長々と遺憾の意を述べ、常にないことに少し酔っぱらったともきいている。そしてクラウス少年は、姉のように慕っていたお気に入りの使用人をひとり失ったのだ。少年は彼女を連れ去ってしまった男に、子どもらしいうらみをずいぶんつのらせた。彼女が意に反して連れ去られ、虐待されるのではないかと想像して、悪の権化のような男をいつか打ち倒さなければならないと夢見た…………
 風が出てきた。バラの枝が踊り、葉の茂みはうわさをしあうようにざわめき、咲き誇る花たちはうなずいた。少佐はわかったような気がした。なにについてかはわからなかった。そしてその答えをもうずいぶん前に知っていたような気がした。
「風が出てきましたよ」
 細君が裏戸を開けて、男たちに呼びかけた。
「もう家へお入りなさいな」
 ふたりの男は云いつけに従って、月光とバラの香りに満ちた庭から、家の中へもどった。道すがら、彼らはほとんど中身のなくなったビールのコップをぶつけて乾杯した。

 

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