少佐と少佐のお父さん
のことを書きたいと前にも書いた気がしますが、そんな話を書きました。
いろいろと全部捏造です。少佐のお父さんはたぶん毎年クリスマスになると帰ってきているとかいうわけでもないと思うのですが、そういうことにしてしまったし。少佐とお父さんが、ほんとうはこういう理由ですれ違っているとか全部が捏造以外のなにものでもないんだけど、そういう方向性で書いた。
老いてゆく親を見ているのは複雑な気持ちだ。その親が、尊敬に値する、すばらしい人物だったならなおさらのことだ。少佐のお父さんは、きっとびしっとしたすばらしい軍人だっただろうと思う。少佐がお父さんと同じ職業を選んだ時点で、わたしはもう少佐がお父さんを本心から嫌っているとは思えなかった。事実はその逆で、ほんとうはすごく尊敬していたんじゃないかな。そう思うと、なんだか悲しかった。とても。だからこれを書いた。
今回は、最初は意識していなかったけど、書いている途中から竹西寛子さんの小説のことを考えていた。短編なんだけど、少年と父親、少年にとっての父親というのかな、男というものが、まだどっしりしていて張りつめていて、そして揺るがしがたいものであった時代。そういう時代に、少年がいかに父性を見、男を見、感じ、そして男たるものの姿を学んでゆくか。
この作中に出した少佐のお父さんの考えは、たぶんもう古いんだろう。でも、まぎれもなくこの親子はそういう秩序の中に生きている。そしてそういう秩序の中で、まぎれもなく親子であり、父子であった。わたしはそういうものに、たまらない愛惜のようなものを感じる。これはわたしの一種のフェティシズムかもしれない。BL二次創作というものとまた違った、しかし根は同じフェティシズムであるかもしれない。少佐はお父さんと折り合いが悪い。伯爵のお父さんはもういない。でも、どちらの親子も、かつては、親子であったのだ。
私事になるが、わたしの父親はもうすぐ退職する。失われゆくものに対する愛をこめて、そしてこれから続くであろう未来に対して愛を忘れないために、わたしはこれを書いた。