カーンとの面会を控えた朝、お定まりのエステン氏との朝食の席で、少佐は今日の午後からの会談について話し合った。
「ご迷惑をおかけしますな」
 エステン氏はすまなそうに云った。
「まったく、こんなやっかいなことになるのなら、いっそのこと、あなたがおっしゃるように焼き捨ててしまえばよかったのかもしれない。とっくの昔に……でも、それはできなかったのですよ」
 エステン氏はいつものようにのんびりとゆで卵の殻をむいていたが、その仕事が終わると、丸眼鏡を持ち上げてきっちり鼻の上に乗せてから、食べはじめた。
「わたしは昔の資料を見返すことはしませんでした」
 いまや、このふたりのあいだでは、資料の話題はそのほかの話題と同じように、わだかまりなく口にすることのできるものになっていた。これは少なくとも、カーンの仕事がもたらした利点と云えるかもしれなかった。
「むろん、その欲求をときどき強く感じました。ときには大変強く。自分がなにをし、どんなものを築き上げてきたのか、なにか具体的なものをもって確認したい衝動に駆られて、どうにもたまらなくなることがあった。でもわたしは、そのたびにそれを厳しくいましめてきました。資料を銀行の金庫へ預けたのも、その対策のひとつだった」
 エステン氏は今度は、ふたつ目のゆで卵の殻始末にとりかかった。彼は決して一度に殻をむくというようなことをしなかった。ひとつ片づけてから、もうひとつにとりかかる。わかっていても、そういうふうにしかできない人間もいる。
「その衝動は強いものだった。でも、それに身を任せてしまったらおしまいだという気がした。過去の中へ引きずられていって、もう二度といま現在に戻ってくることができなくなってしまうのではないかという、非常に大きな不安、予感めいた不安があった……」
 一瞬、彼の灰色の目を、ぎらついた光がよぎった。
「わたしはもう十分過去に生きている人間です。わたしのすべては古めかしく、ほこりにまみれ、蜘蛛の巣や、得体の知れない虫やなにかがそこかしこにうごめいている。わたしの血は、長く置かれすぎて熟成を通り越したワインみたいなもので……地下のカビ臭い空間に、厚くつもったほこりにまみれて置かれている、あれです……あなたの家にもあるはずだ……古い城や屋敷には必ずある……」
 彼の殻むき作業は実に緩慢だった。殻の裏にくっついた皮ごと外せばぺろりとはがれてくるのに、ちまちまと殻だけを砕いたりしている。
「自分の過去が、自分の中で肥大化してゆくのがおそろしかったのです。わたしは表へ出て注目を浴び、一身に賞賛を受けるたぐいの人間にはなれません。それを享受できる人間には、また別の才能が必要です。そのことは自分でもよくわかっているつもりです。だから、わたしは進んで裏方をやってきた。うまくやってきたつもりだった。自慢じゃないが、わたしは占い師ばりに先のことを見通せるんですよ。昔は一種の神通力かと思うことがありましたな。自分の思い描いたことが、必ず現実になると知っていました。ですから、いずれ必ずわたしのしたことが役に立つ日が来ると、確信を持っていました。それで十分だと思っていた。誰にも評価されなくても、わたし自身のうちにある確信と、名誉と誇りとで、十分であるはずだと思っていた」
 氏の灰色の、ふちがやや青みがかった目は、暗く吸いこまれそうな力を秘めて、じっとのゆで卵の上に注がれていた。否、それは卵を見ているのではなかった。彼は自分を見ていた。自分の内面にうごめくものを見ていた。
「引退してからのこの約二十年というもの、わたしは主として自分と戦ってきた。自分の仕事や能力に対する誇りや、自信だけでは満たされないものと。本来なら、人間は自分の誇りだけで自足していてもいいはずだ。他人が知らなくとも、神はご存じなのだから。しかし、それだけでは、ひとは決して満足しないのだ……わかりますか、しんと静まり返った夜、もう眠ろうと思いベッドにもぐりこむ。しかしなかなか寝つかれない。シーツの上でもぞもぞしているうちに、いろいろな過去のことが思い出され、鮮やかに目の前に蘇ってくる。過去に受けた栄光、名誉、大きな傷み、屈辱、後悔、憐憫、こんなはずでなかったという思い。無理解と手ひどい仕打ち、礼儀を欠いたふるまい。わたしは用済みとばかり放り出された。そんな扱いをされる覚えはなかった…………そうした思いが、わたしに洪水のように襲いかかってくる。わたしは負けたくなかった。その思いをまとった悪魔にだけは。それはわたしの死を意味しましたから」
 エステン氏はゆで卵から、自分の内面の深淵から顔を上げ、少佐をまっすぐに見つめてきた。
「……エーベルバッハ少佐、きみはどうだろう? きみこそ、決して表に出てはならない存在だ。いかな偉業をなしとげたとしても。何度危機を救ったとしても。誰もきみのことなど考えない。きみはすべきことをしたまでだと、ひとびとは考える。そうして忘れていく。引退して何年かたてば、もう誰もきみのことなど覚えていない……」
 少佐は彼の灰色の目を見た。そこにある暗く深い場所を覗きこんだ。その小さな、暗い空間に、少佐の姿が確かに写りこんでいた。いったい、そこに写っているのが自分でないと、誰が云えるのか? 彼が語っているのが自分のことではないと、誰が云えよう? 目の前の小さな、年とった、しかし偉大な男がもてあましているものが、自分にはないと誰が云えよう? あらゆる能力は、いつも隙を連れてくる。あらゆる才能は、悪魔をともなって人間の中に入ってくる。少佐は知っている。自分がバランスのとれた人間だなどと、誰が豪語できるものか。自分は自足しており、ほかのものは必要ないなどと、どんな聖者が云えるものか?
 エステン氏はため息とともに少佐から目をそらした。彼はすでに自身を取り戻していた。その姿は、もうあの穏やかな、満ち足りたひとりの隠居老人にすぎなかった。彼はつかの間開いた扉をふたたび閉じた。しかし、扉からあふれ出たものは、まだあたりに濃い影を落とし、その叫びがこだまし続けていた。
「……そいつがいつおれの首に噛みついてくるのか、おれにはわからない」
 少佐はのろのろとふところに入った煙草の箱に手を伸ばした。一本引きずり出し、しばらく葉を包む真っ白い紙を眺めて、口にくわえ、火をつけた。煙がよたよたと立ちのぼった。
「おれにわかるのは、いまはまだ襲撃を受けていないということだけです。ときどき、おれもそいつの気配を感じますよ。後ろから、気配を殺して近づいてくるのがね。でもいまは黙殺できている。いまは。これから先のことはわかりません。おれは自分がなんのためにこんな仕事をしているのか、立ち止まって考えたことがないんだ。別に金のためじゃない。金なんぞ、先祖代々のものから適当に湧きだしてくる。家柄の義務なのか? そうかもしれない。あるいは、親父やじいさんやそのまたじいさんや、代々の男たちがみんな軍人だったからなのか。家名の誇りだとか、国への貢献だとか、勝利への渇望だとかのために、進んで身を犠牲にしてきた血が、おれにも流れているのか……おれはそのあたりで考えるのをやめるんです。目の前に、ぼんやり霧がかかってくるのが見える。もしかしたら、忙殺される日々から解放されて暇ができたとき、そいつはいっせいにおれに襲いかかってくるのかもしれない」
 エステン氏は目を閉じて、なにかを確かめるように何度もうなずいた。
 ふたりは静かに朝食を取り終え、席を立ち、いつものようにサロンへ出ていって、新聞を読んで過ごした。少佐はエステン氏が、か弱い女子どものように、いまや自分にすべてを任せているのを感じた。

 

 午前十時過ぎ……少佐が部屋へ戻って数分とたっていなかった……部屋の電話が鳴った。
「やってくれたな、エーベルバッハ少佐」
 というのがカーンの第一声だった。彼の声は抑えきれない怒りに震えていた。
「なんの話だね?」
 少佐はやや困惑して訊ねた。部下のひとりがなにかやらかしたのか? だがそれなら、先に部下の方から報告があってしかるべきだ。
「なんの話だと? お望みどおり、今日の会見は中止だ。さぞいい気分だろうな。結局、いつもきみが勝利するわけだ。華々しく、冷静に、スマートに! だがいいか、わたしは決して忘れんぞ、今回のことは。これまでのことだって、なにひとつ忘れていない。自分と部下の首に、いつも注意しておくんだな。それからきみの大事な、あの泥棒の首にもだ、気色の悪いホモ野郎め!」
 電話は切れた。ごく冷静にいって、カーンの最後の批判のことばは的を射ていた。ある種の異性愛者は、伯爵が男だとわかった瞬間に本能的な拒絶反応を示す。これはその典型的な反応のひとつだ。
 少佐はなにか考え深いものを感じながら、一方でひどく困惑しており、手がかりを求めて部下Aに電話をした。
「おはようございます、少佐」
 Aにはなんら変わったところはなさそうだった。
「今日の午後三時ですね」
「その件なんだがね、Aくん。カーンのやつが、たったいまひどく取り乱して電話してきた。彼の意見では、会見は中止で、勝ったのはおれだそうだ。やつは、おれときみたち部下と伯爵に向かって、首に気をつけろと…………」
 少佐はふいに、とんでもない可能性……否、ほとんど事実といってもいいだろう……に気がついて、硬直した。全身を巡る血が、瞬時に凍りつくのがわかった。カーンは、少佐と、その部下と、伯爵に向かって、首に気をつけろと云ったのだ。少佐とその部下だけでなく、伯爵にも。
「少佐? どうなさいましたか? やつはいったいなんの話を……」
「A、部下DとE、それからおまけのBに、今日の会見は中止になったから、一日ベルリンで遊んでいいと伝えてくれ。ただし、どこにいるつもりかだけはおまえが把握しておいてくれ。おれはちょっと確認したいことがある」
 Aはまだ困惑しているに違いなかったが、それを相手に悟らせるような人間ではなかったし、また、少佐が話さないことについてはぜったいに質問をしなかった。
「わかりました、少佐」
 そのAの控えめな、あくまで上官に従順な態度が、ときおりかのエーベルバッハ少佐をして妙に打ち明け話をしたい気持ちにさせた。今回も、少佐は自分の考え……確信……をあやうく口にしかけた。が、結局は思いとどまった。
「また連絡する。腑に落ちんだろうが、しばらく我慢してくれ。たぶん、資料は安全だ。エステンじいさんに返せると思う。あるいは、おれが持ち帰ることになるか。この件に関しては、とにかくおれに預けておいてくれ。おまえらは自分の仕事をするんだ……それからGに、パリにいるからって真っ昼間に三時間も美容院にいるんじゃない、仕事をさぼるなばか者と云え……」
 少佐は受話器を置き、すぐさま部屋を出て行きかけて、急に思いとどまり、やや頼りない足取りでバスルームの前まで戻ってきた。ドアを開けると、真正面に洗面台があって、大きな鏡が取りつけられている。いま、鏡には、ドアに手をかけ、やや緊張した、こわばった顔をしたエーベルバッハ少佐が映っていた。少佐の顔には幾分疲れの色が見えた。そして、これからはじまるであろうことに対して感じている不安と期待と興奮とが、少佐の目の奥にごたまぜになって身を潜めていた。彼らは用心深く待っていた。ここぞというときになるまで、辛抱強く、待つことそのものによってもたらされる興奮とともに、じっと縮こまって待ち続けるのだ。きみの目には、きみのすべてが宿っている、と伯爵がいつだか云ったことがある……きみのそのグリーングレーの瞳、光の加減で、ガラスの破片でも散りばめたように見えることがある。きみのやさしさ、怒り、やるせなさ、同情、狂気、危険で、美しい目…………
 少佐は鏡の中の自分を見つめ続けた。ゆっくりと鏡へ近づいて行き、すぐ目の前に自分の顔があるところまで行くと、立ち止まって、またしばらく鏡を見つめた。少佐と鏡の中の少佐は、静かな敵意を持った男どうしのようににらみ合った。それから少佐は出し抜けに微笑した。鏡の向こうの少佐も微笑を返した。踏ん張れよ、クラウス。少佐は自分をそう励ましてから、くるりと向きをかえて、バスルームから、ついで部屋から出ていった。

 

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