港にての物語

 

 

 夜明け前の港は濃い霧の中に包まれていた。空気はたっぷりと湿気と潮気をふくんで重たくまつわりつくようだった。まだ光の差さない中に、それでもかすかな光の予兆のようなものがほのめいていた。静かだった。ずらりとならんだ船やボートもまだ深い眠りの中にいるかのようにうごかなかった。埠頭に立ちならぶ堅牢なレンガ倉庫も、ひんやりと冷たい朝まだきの気配のなかでじっとしていた。黒黒とした海面だけがかすかに揺れうごいていた。
 ふいにその静止した景色の中へひとりの男があらわれた。くたくたになった灰色の帽子をかぶった、小柄な老人だった。青いつなぎの服を着て煙草をくわえ、ゆったりと桟橋へ近づいてくる。老人のうしろから、小さな鞠みたいな犬が転がるようについてきた。それが合図であったかのように、どこからともなく男たちが船着場へあつまりはじめた。話し声があたりに響きだし、犬が吠え、荷物をころがす音や船のエンジン音などで、静まりかえっていた港はたちまち活気づいた。太陽がこのさわぎにようやく目をさまして、地平線のむこうからのんびりと起きあがってきた。雲の多い鈍色の空が徐々にあばかれてゆく中を、船が一艘、また一艘と、地平線にむかって出航した。例の小柄な老人が、船着場の隅でじっくりとパイプをふかしながらこの船出の景色を満足そうに見まもっていた。その横で鞠みたいな白犬が、海にむかってさかんに吠え、しっぽを振った。
 老人の横へ、男がやってきた。立派な身体つきではあったが、港町の男でないことはすぐにわかる。身ごなしに隙がなく、歩きかたがいかにも軍人式だった。黒髪をうしろでひとつに束ね、無造作にシャツを着ていた。老人の横に立つと、男はふところから煙草を取りだして吸った。そうして老人と同じように海を見やった。
「今日はひと雨降るだなあ」
 老人が空を見てつぶやいた。刈りたての羊毛の山のような、美しい雲が帯状になって広がり、朝日を受けて端々がバラ色に輝いていた。老人の日焼けした、しわのきざまれた顔にもそのバラ色が当たっていた。
「天気予報じゃそんなことは云っとらんかったがね」
 男が云った。老人はひとがよさそうに笑った。
「あんなもんはいざってときにゃ当てにならんだ。なんでもそうだがよ! これってときにゃあ、自分の勘のほうがよっぽど頼りになるだ」
 老人はくるりとうしろを向いて、来たときと同じようにのんびり歩き出した。すこし腰が曲がり、がに股気味ではあったが、いかにもどっしりと力強くたのもしい歩きかただった。犬がうれしそうに主人にしたがった。数歩行って、男を振りかえり、早く来いというようにしっぽを振った。男はもう一度空を見上げ、いぶかしげな顔をしてから、歩き出した。

 

 北方のこのちいさな港町に、ひと月ばかり前から都会者の男がひとり住みついていた。といって、まったくのよそ者なのではなかった。男はヘルマン老人という、町の名物男の家へ居候していた。このヘルマン老人は、町で代々漁師をしているルーエ家の長男として生まれ、いまでこそ郷土愛に満ちて漁師ひと筋だったような顔をしているが、若いころは故郷を嫌って家を飛び出し、行き当たりばったりの放浪生活を送り、相当にあぶない橋も渡ってきたという話だった。たしかに老人は七十を過ぎたいまも好奇心にあふれ、かつ深い思慮を秘めた輝くような目をしており、なにか不思議に存在感のある男で、骨太の頑丈そうな身体つきと、どこか隙のない身ごなし、日焼けした顔に刻まれた深い皺などがその並ならぬ人生を物語っているように思われなくもなかった。そして実際、この七十を過ぎた老人の話は文句なく面白かった。ことに酒場でビールとともに供されるにさいしては、誰しも聞き入らずにはいられなかった。ヘルマン老人は、目をいたずらっぽく輝かし、独特のしゃがれ声をもちいて、ベルリンの街角で出会った娼婦の最期を見とどけた話や、ケチな窃盗で捕まって脱獄をはかった話、鼻持ちならない金持ちを引っかけて千マルク儲けた話、果てはひょんなことから旧東側でスパイとして暗躍した話まで、それを商売にしているかのように面白おかしく話すのだった。
 もっとも、その興味のつきない話にたいする町のひとびとの受け止めかたは千差万別で、ひとによって半分信じたり、ぜんぜん信じていなかったりした。酒が入れば入るほど舌はまわり、話は大きくなっていくので、まじめな連中の中には大ホラ吹きだと眉をひそめるのもいた。だがその他ほとんどの、もっと寛大な連中は、この老人をたいそう好いていた。実際ヘルマン老人は、話を多少大きくするという欠点があるだけで、情が深く、もと勇敢な漁師であって、口先だけとも云いきれない存在だった。とくにいっしょに漁に出たことのある男の中で、この老人のことを敬わないのはひとりもいなかった。
 このヘルマン老人には、太って小柄な、老人より十以上も年下の細君があった。老人は四十を過ぎたある日突然、それまでの数かぎりない放蕩といたずらに見切りをつけ、この細君をともなって港町へ帰ってきた。そうして生家へどっかりと腰を落ちつけ、子どもを三人もうけて育て上げ、両親を看とり、息子が成人して結婚し、りっぱな跡継ぎになると、かねてより目をつけていた町はずれの空き家に夫婦で移り住み、完全なる隠居生活に入った。三十年以上におよぶ結婚生活のあいだ夫を終始支えてきた細君は、かつて貴族のお屋敷で女中をしていたことがあった。目下ルーエ家へ居候中の男は、この細君の奉公先の当主なのだった。
 この男……エーベルバッハ少佐なるものものしい名前をもったこの男は、これまでにも何度かヘルマン老人のところへ居候していたことがあり、町の者は誰でも知っていた。もとの主人に忠実な細君の話では、軍人というものは余人の想像もおよばぬ激務をこなすのであって、ときおりこうした気分転換の休養を要するのだ、ということだった。細君は、この少佐を自分の息子みたいに大事にして自慢にしていた。もう四十にもなっているであろう男をつかまえて「ぼっちゃま」と呼んではばからず、毎日ぼっちゃまの好物をこしらえるといって、せっせと八百屋や肉屋に通って料理をこしらえ、ぼっちゃまの服のボタンが取れているからと買い求めに出てみたり、新しい靴下を買いに来たりした。陸軍将校ともあろう男のほうも、この「ぼっちゃま」という呼称がぜんぜん気にならないらしかった。それで、この男は町中の連中に、かげでは「ぼっちゃま」と云われていた。
 そのぼっちゃまは、毎日規則正しく散歩をし、ぶらぶらして過ごしていたが、夜も明けきらないうちに出ていった漁船がもどってくるころにはたいてい港にいて、誰に云われるでもなく仕事を手伝ったりしていた。二、三親しくしている漁師がいて、重たい荷を積み出すのに手を貸してみたり、云われた場所まで運んだり、好んで力仕事をするので、町の連中の評判は上々だった。
「あんた、ここへ休みに来てんだってえじゃないか、いいのかい」
 と思わず聞いたさるおかみさんに、
「おれは仕事が好きなんだ」
 と答えたのだということだった。そうして水揚げが終わると、たいていは男たちと連れだって飲みに行った。整った貴族ふうの容姿をよそに、田舎らしいうちとけた気安い感じがあった。この陸軍将校は、いまでは港町にすっかりなじんでいた。そして町の娘たちの中には、みずからの感情にみずからすすんでかなわぬ恋と名づけ、そのことで舞い上がってみたり胸を痛めたりしているのがいた。

 

 ヘルマン老人の細君は、つやつやしたなめらかなバラ色の頬をしていた。快活な顔つきと声は若いころからほとんど変わっておらず、いつも無造作にまとめられている栗色の髪はいまもってつやめき、たっぷりとしていた。その太って張りのある身体つきはまだ多分に女くささを漂わせていて、朝露をあびた野草のようにみずみずしかった。このうるわしい細君が、朝まだ薄暗いうちに起きだすより先に、夫のヘルマン老人は家を出て、港へ行く。船の出るのを見るのが好きなのだった。数年前までは、細君も同じような時間に起きて、したくを整え、漁に出る夫を送り出したものだった。いまでは、細君はすこし朝寝坊になった……そしてたぶんそのために、日々ますます快活になっていくようであった。
 この快活な細君は、早朝起きだして身なりを整えると、まず台所にある裏戸をくぐって庭へ出て行く。この庭は正しく細君の領土であり、細君はそこでバラや季節の花、ハーブと野菜を育てていた。正方形にちかい形をした庭は、ヘルマン老人お手製の柵でかこわれており、これまた老人が細君のために手作りした味わいある木のベンチがあった。細君は野良仕事で疲れるとそこへ豊満な腰をおろしてひと休みし、雲のようすを眺めたり、自分の領土を満足げに見まわしたり、だまって風に吹かれたりした。夕方空がバラ色に染まりだすころには、今度はヘルマン老人がそこへ陣どって、パイプを片手にぼんやりすることもあった。
 庭は冬をのぞいていつもみずみずしい緑に燃えていた。ことにバラの花咲くころになると、細君がいろいろの骨を折った努力がみごとに実り、庭をかこむ柵に沿って、赤や白や黄色の美しいバラが、濃い緑の葉のあいだで咲きほこった。あたりには甘いバラの香りがただよい、道行くひとを思わずふりむかせた。バラは長いこと強く香り、毎年町で一番最後まで咲いていた。ひとびとはこのバラをほめ、幾人かの園芸愛好家はこぞってその秘密を聞き出そうとしたが、細君は特別なことをしていないと笑うばかりだった。あるときには噂をききつけたどこか都会の花屋が、自分の店へおろしてくれと云いに来たことがあったが、細君は笑って首をふるばかりだった。ヘルマン老人も、庭のものは妻の裁量だからといって承知しなかった。都会の商人はがっかりして帰っていった……帰りぎわに、「しかし、見事なバラですなあ!」と云いのこして。
 小さな庭は、このように細君の王国だった。いま、うるわしい五月にさしかかり、庭のバラは去年と同じように一輪また一輪と恥じらいがちにほころびはじめ、細君の節くれだって荒れた手は、その見返りを得ようとしていた。日の出る前に、細君は裏戸のわきにある水場で水を汲み、丁寧にあちこちへかけてまわる。目につく雑草を引き抜き、芽を出し葉を広げはじめた畑の野菜やハーブを満足そうに眺め、ただよいはじめたバラの香りを胸に吸いこんで、テーブルへ飾るための花を二、三本切りとると、細君は満足して台所へ戻ってゆく。
 朝食の用意をしているあいだに、居候のぼっちゃまが起きてくる。夫はとっくに帰宅してテーブルにつき、パイプをふかしながら新聞を読んでいる。白い飼い犬はひと足先に朝食を与えられて満足げにテーブルの下に寝そべっている。あいさつが交わされ、男たちのあいだで今日の天気についての会話がはじまる。
「今日は少し風が出とるが、悪くねえ天気だだ、少佐。今日あたり、またやるかもしんねえ」
「そうか。そんなら出かけよう」
 この日はこういう具合だった。こうなると、ぼっちゃまは昼前から町はずれの丘へ行き、昼過ぎまでそこにいる。細君は弁当をこしらえてやらなくてはと思った。細君は料理人だった。もちろん、エーベルバッハ家で料理番をつとめているマンツのように、遍歴の旅へ出て腕を磨いたというのではなかったが、家庭にいる情熱的な料理研究家のひとりだった。土地柄常食される魚の臭みをとったりごまかしたりする方法や、その風味を生かす方法についてかさねてきた研究には、ちょっとしたものがあった。そして細君の素朴な田舎料理を、都会派のぼっちゃまはたいへん好んでいた。細君はたっぷりした両腕を組み合わせ、冷蔵庫の前で弁当の献立を考えはじめた。

 

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