おまけ 少佐と太陽の勝負の結果
休憩を告げるチャイムが鳴ると、みんな待ちわびていたように早々と職務室を後にし、食事を取りにあちこちへ散らばっていく、この各国に共通の光景は、NATOボン支部においても同様に見られた。職員用食堂のテーブルのひとつでは、いつものように情報部の面々がかたまって食事をしようとしているところだった。この日、彼らは朝からある話題を口にしたくてたまらず、ずっとうずうずしていた。昼食時間になり、部屋を飛び出すと、彼らの多くは一目散に食堂に駆けつけ、食べ物の乗ったトレイを受け取って隅のテーブルを占拠した。面子がそろったのを見ると、いつものようにBが先陣を切った。
「おい、おまえらどう思う? 見たか? 少佐のあの……」
「少佐」という単語が聞こえたとたん、食堂にいたほかの部署の連中はいっせいに耳をダンボにした。エーベルバッハ少佐は、よその連中にとっては、おっかなくて、近寄りがたく、つかみどころのない、いつまでたってもよくわからない男であった。そのくせ、彼はなにやら楽しそうな噂話にこと欠かない男でもあった。やたらとおっかない男に、妙にユーモラスな噂話ばかりが持ち上がるというのはどういうわけだろう? ほかの部署の連中は、エーベルバッハ少佐に関する噂が聞かれるたびに、好奇心と想像力とを膨らませていた。
情報部の連中は、Bの発言を受けて一様に重苦しくうなずいた。
「見た」
「もちろんだ」
「おれは朝から気になって、コーヒーの味もよくわからなかった」
「おれなんか、びっくりしてさ、朝一番にサインする書類をどうも間違えた気がするよ。やばいなあ」
「きっと深いわけがあるんだわ……」
みんなはもう一度深々とうなずきあい、ため息をついたり、ぼんやり考えこんだりした。
「ぼく今朝、たまたま部長のところに行ったんですが、そのとき部長が、やたらと景気よく何度も少佐の肩をたたいてました。あれ、わざとです。たぶんすごく痛かったと思いますよ、少佐」
Zがややげんなりした声で云った。
「それでか。そのあとぼくが少佐の部屋に入っていったら、少佐、顔をしかめてうなりながら毒づいてたんだ……」
Aが眉をしかめた。凍りついたような沈黙が、一瞬間、あたりを支配した。情報部の面々はいっせいに身体をふるわせた。
「おいたわしいわ、少佐。きっとあれね、シチリアとかどっか南の島あたりで、大物に会ったりしてたのよ。そのための出張だったんだわ。もしかしたら、炎天下の中、延々待たされたのかもしれないわ。でなきゃ、あんなばかみたいに真っ赤に日焼けして帰ってこないわよ」
みんな真剣な顔で押し黙った。
今朝、どこかへ出張に行っていたとかで五日ぶりに出勤してきたエーベルバッハ少佐は、見ているほうが気の毒になるほど真っ赤に日焼けしていたのだった。皮膚は熱を帯びて赤く腫れ上がっており、鼻の頭の皮は無惨に丸くめくれていた。それは日焼けというより、重度のやけどを思わせた。部下たちはみんな、目が釘づけになった。少なくとも彼らはこれまでに、そんなふうに日に焼けた少佐を見たことがなかった。部下Aなどは、そんな少佐を見ることになるとは夢想だにしなかったので、びっくりしすぎて、しばらく口を閉じるのを忘れていた。猫を飼っている部下Bがそれに気づいて、舌をしまい忘れた飼い猫にしてやるのと同じように、唇を指さして教えてやった。
部下たちの動揺はたいへんなものだった。少佐が日焼けについてなにも云わず、まるでなにごともないかのように業務に就いたので、午前中ずっと、みんな気になって気もそぞろだった。少佐はその日焼け顔のまま就業早々に部長のところへ行き、えらく腹を立てて帰ってきた。Zが証言したとおり、部長が少佐をからかったのは明白だった。でも、誰もなにも云えなかった。少佐につっこんだ質問をする勇気のある者は、部下の中にはひとりもいなかった。けがをしているとか、具合が悪そうだとかいうことなら、Gあたりがすぐさまわめいて、根ほり葉ほり事情を聞き出すのだが、日焼けとなると! もしかしたら、エーベルバッハ少佐は海にでも遊びに行ったのか? 誰と? なんのために? 誰にも想像がつかなかった。少佐が海で楽しく遊ぶなどとは、天地がひっくり返ってもありそうになかった…………でも、もしかしたら。その想像は、部下たちにとってあまりにもおそろしすぎた。
「おれは午前中考えてたんだ」
Bがカツレツにかぶりつきながら云った。
「想像が膨らんじまって、止まらなくてさ、悶々としちゃったよ。少佐、海水浴をする。少佐、トロピカルジュースを片手に寝そべる。少佐、海パン姿でビーチバレーをする。少佐、ビキニのお姉ちゃんを……」
「やめて!」
Gが悲鳴を上げて立ち上がった。
「黙って、B、ぶち殺すわよ! 少佐がそんな軟派なことするはずないわ。あたしの少佐が、浜辺でビキニのお姉ちゃんと……あたしの少佐が! あたし、あたし……でも、だって、さすがにビキニは着られないわ!」
Gは叫びながら食堂を出ていった。
「G先輩は大丈夫ですか?」
Zがやや心配そうに、Gが走り去っていった出口を見やった。
「大丈夫に決まってるだろ……いや、大丈夫じゃないか、頭は。よっぽど前からいかれてるもんな」
Eが面倒くさそうに云った。
「とにかく、おまえらどう思う? 少佐がそんなトロピカルな甘酸っぱい夏の思い出こしらえた可能性、あると思うか?」
Bが身を乗り出し、後ろ黒い相談でもするかのように小声で云った。
「ないって云えるほど、おれたち少佐のこと知ってるか?」
「ないと思うけどな。少佐に限っては」
「でもあの日焼けは尋常じゃない」
「少なくとも、南イタリアあたりの太陽じゃなきゃ無理だよな。ドイツじゃだめだ」
「……実はさ」
これまで沈黙を守っていたAが、ふいに重苦しい声を出した。みんないっせいに彼を見た。Aは真剣な顔で皆を見回していた。
「実は、ぼく、今朝少佐に訊いたんだよ。ずいぶんひどく焼けましたねって」
情報部の面々はAのほうへ身を乗り出した。ほかのテーブルの連中も、我慢できなくなって、立ち上がって情報部の連中を取り囲んだ。
「そしたらさ、少佐、なんて答えたと思う?」
みんなごくりと唾を飲んだ。Aはふたたび周りを見回し、その場にいる全員の注意を十分に引きつけてから、続けた。
「少佐は、こう云ったんだ。諸事情で太陽と勝負したらこうなったんだ、くそいまいましいやつめ、って」
部下の連中は、お互いにおそるおそる顔を見合わせ、それから困惑し、頭を抱えた。ほかの部署の連中は、しばらく呆然とたたずんでから、ふいに我に返って、大急ぎでほかの連中にこのニュースを伝えに走った。
「難問だろう。ぼくにはさっぱりわからない」
食堂のひと気がなくなると、Aは云った。彼はたしかにひどく難しい顔をしていた。
「そのままの意味じゃないよな」
「きっと深い裏があるんだ」
「そうか? ただサンオイル塗って転がってただけじゃないのか?」
Bはあくまで自分の主張を変えなかった。
「少佐がそういうことするか?」
「しないって云いきれるか?」
「仕事で出張したんだろう?」
「そうだって確かな証拠はないだろ?」
部下の連中は、昼休憩が終わる直前まで、頭を抱え、あれこれ云いあった。そしてエーベルバッハ少佐が太陽と勝負をしたという噂は、その日のうちに、NATO全域に広まった。それを聞いたあるひとは、ひどくまじめな顔をして、
「で、どっちが勝ったんだ?」
と聞き返してきた、ということだった。
いつものことだが、エーベルバッハ少佐だけが、この噂話についてなにひとつ知らずに、普段と変わりなく規則正しく毎日を過ごした。
それからしばらくして、部下Gが海外から性転換手術のパンフレットを取り寄せたという噂が流れたが、こちらのほうは誰にもさしたる動揺も与えずに、すぐに立ち消えてしまった。