シェイクスピアのソネット
1
こんなことにはまったくうんざりだから、安らかな死がほしい。
たとえば、真の価値が生まれながらの乞食であり、
取りえのない無がきれいに着飾り、
清廉潔白な忠実がみじめにも見捨てられ、
金ぴかの栄誉があさましくも場違いな奴に授けられ、
純真可憐な美徳がむごくも淫売よばわりされ、
正真の完璧が理不尽にもおとしめられ、
力が足なえの権威に動きをはばまれ、
学芸が時の権力に口をふさがれ、
愚昧が学者づらして才能に指図をあたえ、
素朴な誠実がばかという汚名をきせられ、
囚われの善が横柄な邪悪につかえるのを見るなんて。
こんなことにはまったくうんざりだからわたしはおさらばしたい、
ただ、死んで、愛する者をひとり残すのがこまる。
六十六番。正真正銘、これが彼から受け取る最後のソネットだ。シェイクスピアが作品内で何度も強調しているように、ひとは必ず老い、死は、絶対に訪れる。震える字で書かれたソネットには、長い手紙も一緒についていた。手紙の文字も震え、おぼつかない。たぶん、彼の絶筆だと思う。世界的に名の知れた文豪の絶筆が、若い男への愛と慈しみに満ちた手紙だなんて、研究者が知ったら喜ぶだろうか、それとも悲しむだろうか? 実際彼の作品のいくつかは、高貴なるGという人物に捧げられ、このGというのがいったい誰のことなのか、研究者や評論家は好き放題に云っている。勝手にやればいい。
彼の以前の手紙には、教養ある男の手になる、それはそれはきれいな字が並んでいた。彼の真心はいつもシェイクスピアのソネットに形を変えてやって来た。彼の愛情が、どんなときにも、自分を暖め、支えていたということ。それを痛いほど感じていたはずなのに、いまは、いまになって、その八倍くらい感じている。肉体関係ではなかった。師弟関係でもなく、でも友情や思慕を、はるかに超えていた。
明日は彼の葬式だ。でもそんなものには出ない。葬式なんて。死者が、葬儀を望むだろうか? 死者が墓を望むだろうか? わからない。でも辛気臭くて、湿っぽいのは好きじゃない。たぶん、雨が降っているのが悪い。イギリスを飛び出したら、少しは気が晴れるだろうか? 飛び出して、どこへ? 愛のあるところへ。あらゆるものは、愛がなければしおれてしまうから。
2
頭はまだ鈍いままだ。部下たちが今日一日、泥のようになってかき集めてきてくれた情報、やり方は決してスマートではないがうるわしき努力の結晶が、彼の頭の中で渦を巻いている。血の気の多いEが、どこかで小競り合いに巻きこまれたらしく左目を腫れ上がらせていたが、報告に来たAは「負傷者なし」と云った。Aが云うならそうなのだ。Eは負傷していないし、エーベルバッハ少佐は、彼を気にかける必要はない。乱闘に巻きこまれてまでEが入手してきた情報は、たしかに有益だった。ただ、どれもすべて断片だ。それらを論理的につなぐ必要がある。エーベルバッハ少佐の仕事はそれだ。たった一日で、疲れきってずたぼろになった部下たちの努力を、実らせること。
ずたぼろとはなかなか的確な表現だ……少佐は微笑した。だいたいこの仕事にスマートさなど必要ない。そういうものは、現実を直視できない夢想家にくれてやる。自分の体裁や価値観など無関係に、ストイックにやるべきことを全うする。そういうやり方が、彼は好きだ。そして、彼は自分の部下たちにも、それを示してきたつもりだ。浸透しているかどうかには個人差があるが。特に、見てくれをやたらと気にするGなんかには。
ひらめきが来るには、まだなにかが足りない。閃光がぱっとまたたき、脳がめまぐるしく回転をはじめるあの瞬間は、まだ訪れそうもない。たぶん、知恵の女神の微笑みが足りない。彼女は気まぐれにやってきて、思わぬところから美しい微笑を見せてくれるものだが、さて、こうやって煙草ばかりふかして机にふんばっていても、女神は来ないだろう。女神は、人間の些末な努力など度外視した方法でことを運ぶからだ。帰って寝て、やりなおそうか。
少佐が煙草をもみ消しかけたとき、ドアがノックされた。入ってきたのは、部長の秘書だった。
「おじゃまでしたかしら、少佐」
「……いや、なに。まだ残っとったんですか」
この秘書は美人だ。切れ長の目と面長の顔の輪郭が、知性を感じさせる。きっちりとブローされたつややかな金髪、丁寧に、しかし適切にほどこされた化粧、しわやほこりひとつなく整えられた服、いつも隙がない。部長がかろうじて首の皮をつないでいるのは、ほんとうはこの秘書のため、彼女の有能さのためなのだ。少佐はそう思っている。昔はもっと美しかったろう。歳をとり、体型も顔も多少変化したけれど、生まれつきの美しさに加えて獲得した知的な美しさは、そんなことで損なわれるものではない。
「ええ、整理しなければならない書類がたまっていたものですから。でももう帰りますわ。あなたに、荷物が届いてましたよ。こちらまで回ってきましたから、爆発物ではないと思いますが」
情報部あてに届く郵便物は、すべてスキャンされ、中身を確認される。それから各々の個人ポストへ回されることになっている。少佐は部長秘書の手から、二十センチ四方くらいの真っ白な、小さな箱を受け取った。
「では、わたしはこれで。お先に失礼しますわね、少佐。あまり根をつめてはいけませんよ。煙草の吸いすぎもね」
少佐は敬礼した。秘書は冗談に微笑し、ドアを閉めた。
「……あのばか」
ふたたびひとりきりになった部屋で、彼はひとりごちた。宛名書きの文字には、見覚えがありすぎるほどあった。だいたい、この時間に個人ポストに郵便物があること自体が変なのだ。忍びこんだのだろうか? それなら、彼はボンにいるのだろうか?
あきれてもいいし、怒ってもいいが、そういうことをまだ考えたくなかった。のろのろと箱を開ける。ふたを開いた瞬間に、あの男の好きな、バラの香りがふわりと広がった。そのはずだ。箱の底にはバラの花びらが敷きつめられていて、その上に、薄緑の美しい包装紙にくるまれた平べったいなにかが置かれ、メッセージカードが乗せられていた。バラの花びらはまだみずみずしく、ぴんと張りつめていた。いましがた、むしったばかりというふうだ。少佐はそれを数枚つまみあげ、指先でもてあそんで、箱へ戻した。どうしてあいつはこうけばけばしく、気障なことを平気でできるのだろう? 苦笑して、カードを手に取った。
たとえ薔薇色の唇と頬は、時の手の半円の大鎌に
刈りとられても、愛は時の道化になりはてはしない。
愛はつかのまにすぎる時間や週とともに変わるものではない。
最後の審判が来る間際まで耐えぬくものだ。
これが誤りで、わたしの云うのが間違いだとなれば、なにも
書かなかったも同じこと、この世に愛した男などいない。
シェイクスピアは真実しか云わないね。わたしも、愛がそういうものだと信じる。
こいつはいったいどうしたことだろう? 彼はなにかを疑っているのか? 少佐は少し考えこんだが、自分の中に生じたかすかな懸念のようなものを、いまこの場で深追いするのはやめて、包装紙にくるまれたかたまりを取り出した。手のひらに乗るほど小さいわりに重さがあった。無造作にやぶくと、銀製の灰皿が出てきた。少佐は自分の机の上の、安物のアルミでできた灰皿を見やった。煙草の吸い殻が山になっている。彼は苦笑した。灰皿の中身をゴミ箱にぶちまけ、灰ですっかり汚れてしまったアルミは机の隅の方へ押しやって見ないふりをし、鈍く光る銀を置いた。まあ、悪くはない。ただ、やはり職場には向いていない。美しさ、という属性を持ち合わせたものは、プライベートなときに使い、愛でるべきものだ。
少佐は秘書が来たためにタイミングを逃してまだくわえ続けていた煙草を今度こそ、アルミの灰皿でもみ消して、電話を手に取った。
「おい、こら、不法侵入者」
電話の向こうからくすくす笑いが響いてきた。
「おれの神聖な職場を蹂躙するとただじゃおかんぞ」
「君のせいだよ」
綿毛かなにかを連想させる軽やかなくすくす笑いはやまない。
「君が家にいないからさ、ちょっと、のぞいてみただけだよ。君んとこ、セキュリティレベルをもうちょっと上げた方がいいよ」
「云ってろ」
少佐はなにげなく、灰皿のふちを指先で撫でた。ガラスは温度をもたない。指の腹に、かすかな冷たさを残すだけだった。
「んで、いまどこにいる」
「わりと近くにいるよ。いい月夜だね。こんなうるわしい夜に、机にへばりついてるのかい? 非人道的だ。人生を冒涜してるよ。外へ出ておいでよ。世界を感じよう」
少佐は電話を切ると、灰皿を箱へ戻し、脇に抱えた。知恵の女神のたくらみがはじまっているのだと思った。
伯爵は、あるクラブにいると云った。ひとがひしめくフロアをけばけばしい色合いのライトが照らし、DJが音楽を大音量でかけているようなところだ。クラブは雑居ビルの地下にある。車で乗りつけると、伯爵が地下へ降りていく階段の横で、数人の男と談笑していた。まーたどっかの男が擦り寄ってきとるな。少佐はくわえていた煙草をもみ消し、それから短くクラクションを鳴らした。伯爵がこちらに気がついた。男たちに手を振り、軽やかな足取りで近づいてきて、車のドアを開け、その隙間からするりと身体をすべりこませた。ドアが閉まり、少佐は首に彼の腕が絡まるのを、そして、抜群のしなやかさをもった身体が密着してくるのを感じた。頬に唇が触れた。彼がつける香水の、少しスパイシーなくせのある香りがした。でもその中にも奇妙な甘ったるさがある。彼に、よく似合っている。
「ハイ」
耳元で伯爵が明るく云った。青い目がきらめいていた。
「シートベルト締めろ」
少佐は云い、彼が云いつけどおりにするのを待った。さっきまで伯爵にからんでいた男たちが未練がましくこちらを見ていたが、伯爵はもう彼らのことは忘れてしまっているようだった。
「いつ来た」
少佐は車を出した。
「さっき……夕方。ふと思い立って」
伯爵は髪の毛を指先でくるくるやりながら答えた。彼らしい答えだった。
「んで、いままでなにをしとった」
「ホテルにチェックインして、灰皿を買って、君の家に侵入して、がっかりして泣きあかしてから、気を取り直して君の職場に行った」
「ほー」
「灰皿を届けて……君をちょっと見たんだよ、窓越しに。それから気の済むまで散歩をして、うるわしきボンの空気に敬意を払った。あとはあのクラブにいた。あそこ、好きだな。同志がたくさんいる。イギリス貴族なんて、珍しいってさ。たぶん、誰も本気にしてないだろうけど。でも別にいいんだよ。そういうのって、全部お遊びだしね。昔、家に出入りしていた作家がわたしに云ったものだよ。君の美しさは、わかちあわれなければならない、って。冗談ぬきに、神が君に与えた美は、万人のためのものだ、君はそれを自覚し、かつ、覚悟しなければならないよってね。おかげでわたしはとても気だてのやさしい、芯の強い子になったよ。わたしに魅せられ、引きつけられ、生まれるドラマ、というのが少なからずあったけど、わたしはそれにうぬぼれる必要も、罪悪感をおぼえる必要もない。一瞬の楽しみ、一瞬の魂の高揚。人生の清涼剤。あるひとにとっては、それがわたし。こういう人生を送ると、勘違いする人間が多いけどね、自分はひとよりも価値があるって。そうなったら、美の女神はそのひとのもとを去ってしまう。そういうたわむれと、真摯な愛情とを取り違えるって、とても悲劇だ。わたしは少なくとも、愛は疑わない。真実の愛だけは。自分の中のも、ひとのも」
彼のいつもの饒舌さの中に、なにかこちらをざらつかせるものがあった。伯爵の顔を、一瞬翳が通り過ぎた。少佐は片手で煙草を取り出し、火をつけた。最後の一本だった。あとで買っておかなくては……そんな暇があったら。伯爵がふいに後ろを振り返って、後部座席に置いてある白い箱を見つけ、悲鳴を上げた。
「なんで持ってきたんだ! それは、君の職場用だよ。あんな安くさい灰皿使わないでくれよ、安月給の刑事じゃないんだよ」
「似たようなもんだ。だいたい、書類の山のあいだに銀の灰皿なんつう高級品があってどうする」
「あーあ……じゃあ、家で使ってよね。それはそうと、われわれはどこに向かってるんだろう」
「おれは腹がへっとる」
伯爵はふいに、夢を見るような目つきになった。
「わお、意味深だな、その発言」
少佐は煙草の空箱を、助手席めがけて投げつけた。
行きつけの店で食事を済ませた。支配人が、エーベルバッハ少佐をガキのころから知っていて、従業員は彼の顔を見ただけで個室に案内してくれる、そういう店だ。雇われている人間は皆少佐の連れや話の内容に関心を持たないよう訓練されている。父親もこの店を愛用していた。というより、軍や政府の大物が、よく利用する店なのだ。
伯爵は妙に浮かれていた。オレンジの明かりに照らされた薄暗い個室で、いけない密会しているみたいだ、と云い、あれこれしゃべりまくった。少佐は食事をかきこみながら黙って聞いた。そしてすこしだけ、自分のことを話した。脳みそが働かないこと、知恵の女神の到来を待っていること。伯爵は微笑み、きっと女神は来るよ、と確信に満ちた声で云った。少佐は、そうに違いないと思った。
食後の一服がないのは落ちつかない。試しに従業員に煙草がないか聞いてみたら、気を利かせて買ってきてくれた。それをふかすあいだも、伯爵は相変わらず鳥みたいにしゃべっていた。
店を出て、伯爵が泊まるホテルに向かった。車の中では、伯爵は今度はばかみたいに静かにしていた。窓の外を流れてゆく光を、ぼんやりと追っていた。彼の美しい顔を街の明かりが舐めてゆくたび、少佐は名状しがたい胸苦しさに襲われた。
わたしはね、普通の部屋なんかに泊まってはいけないんだってさ。わたしには贅沢しかふさわしくない、といろんなひとが云うよ。まあ、もちろん、君となら、狭苦しい部屋だっていいけどさ。たまにはね。そんなことを云う彼だから、当然部屋はスイートルームだった。伯爵は部屋へ入ると、まっすぐに窓のところへ歩いて行って、鍵を開け、バルコニーの手すりにもたれて外を眺めた。たしかに、いい月夜だった。少し膨らみを帯びた半月が、柔らかくボンの街を照らしている。そして月光は伯爵ご自慢の巻き毛や、整った顔立ちの上にも平等に降り注いだ。少佐はそれを、ソファに座って眺めた。彼は美しい。こんなとき、そう思う。どんな人間だって、彼を見たらしばらく忘れられないだろう。豊かでつややかな金髪と、粒のそろった青い目、顔の中心をすっと抜ける鼻梁、繊細な形をした唇、そのすべてがあるべき場所にあり、それらをおさめるにふさわしい顔の輪郭と、それが乗るにふさわしい肉体がある。それを見れば、魔法にかからずにいられない。少佐は先に伯爵が云ったことばを思い出した。彼の美は、たしかに世界中でわかちあわれるにふさわしい。彼の美は、誰かが独占するようなものではない。それは振りまかれるものだ。あらゆるひとびとの上に。きらめきとともに。彼は見る者に、一瞬の夢を与える。けれどもそのきらびやかな容姿をくっつけた彼の魂を、一体誰かほんとうに探求した者があるだろうか? その頭の中で、いったいどんな考えがわいているものか、生真面目に追求した人間が、あるだろうか? 君のすべてを知りたい、と彼に云った人間は、腐るほどいるだろう。でも、連中は彼のなにを知って、すべて、という判を押すのだろう。その肉体か? 恋愛遍歴か?
伯爵がこちらを振り向いた。月の光を背負って、彼は微笑した……唇を持ち上げただけの微笑。少佐はそれに、ほんとうの微笑を返した。
「んで、なにがあった」
少佐は静かに云った。伯爵は今度は泣き出しそうな笑みを浮かべた。少佐は彼を呼び、自分のとなりをぽんぽん叩いて彼を促した。伯爵は猫のように彼の横に、彼と、広げた腕のあいだに身体を滑りこませた。そうして彼の肩に頭をもたせて、目を閉じた。少佐は彼の腕や腰まわりを、そっと撫でさすった。
「……葬式って、嫌いだから出ないんだけどね」
「……ああ」
「似合わないし。わたしはそういうところに出すには派手すぎる顔だって、云われているからね。自分でもそう思う。わたしが行ったら、ほかの参列者一同気を悪くしてしまいそうだし、黒づくめになるのもいやだし。だから、今度も出なかったんだけど。さっき話した、家に出入りしていた作家、というひとだけどね、今日、葬式だったんだ」
少佐は、そうか、と云った。
「もう歳だったからね。八十六。わたしをずっと、かわいがってくれていた。そっちの意味じゃなく……わたしを、わかってくれたんだ」
少佐は、そうか、と云った。伯爵がため息をついた。
「美しいことは、君にとってひとつの試練だ、とそのひとが云った。わたしはこの見た目で、想像を絶するくらいいい目を見ているし、いやな思いをしてる。わたしはなにもしていないけど、向こうが勝手に問題を連れてきてしまうんだよね。昔からそうだった。好きになってくれるのは嬉しいよ。だけど、わたしにだって自分の考えってものがある。わたしはただ自分に正直でいたいだけだ、でもそれが誤解される。美しさって、難しいものだよね。それが相手の、思いがけない感情を引き出してしまうんだ。それこそ、とても醜いものをね」
少佐は、ああ、と云った。そうして伯爵に回した腕に、少しだけ力をこめた。
「美しければ、愛されるって? とんでもない! ほんとうの愛を知るのに、外見の美しさなんてなんの役にも立ちやしない。ほんとうに美しいのは愛だけだ。愛が宿るから、美しいものは輝くんだ。愛のない世界では、美しさは枯れ果ててしまう。すべてこの世の美しいものの中には、愛と、情熱とがある。美を賛美するにも、愛と情熱が不可欠だ、でも、ただその美を手に入れること、利用すること、そういうふうに見られてしまっては、美しさは、死に絶えるしかない。愛のない場所に、美は存在しない。でも愛が溢れる場所では、なんだって美しいんだ。わたしは探した。そういう場所だけを探した。この世界が、不毛な砂漠に見えた日にも。それが必ず見つかると、いつも励まして、信じさせてくれたのは彼だった。君の外見が他人の、どんな醜い感情に火をつけ、騒ぎを起こそうとも、それは君の罪ではない。君は永久に無罪だ。そして君は、なにがあっても、君の美を、与え続けなければならない……彼はそう云った。だから、わたしは、わたしでいることをおそれない」
ああ、美しいものよ。少佐はゆっくりと、深く息を吐いた。彼に栄光あれ。彼の戦いに栄光あれ。この世界は暗闇だ。美しさも愛も、美徳も道徳も、いと高きものはことごとく迫害される地獄だ。羨望、嫉妬、独占欲、自己顕示、虚栄、貪欲、恐怖。皆、取り憑かれているのだ。自分を守り、飾り立てることに。皆、なにかをうばいあっている。富や権力や愛。すべては限りがあって、自分のものをなんとか確保しないと、おちおち眠れやしない。個人から、集団、国家にいたるまで、すべてをつらぬくものは、ただこれだけだ。自分の取り分を守らねばならぬという、狂った頭だけ。よくわかる。毎日そんなものばかり見ている。自分を騙し、相手を欺く駆け引き。美しいものは、価値あるものは、欲望と嫉妬の対象となり、歪められるよりほかはない。こんな世界では。でもそれを超えようとする戦い。こんな世界にあって、美しいものを、真実美しいものを、守ろうとする戦い。自分をつらぬく戦い。愛と幸福を選ぶという戦い。彼の美しさは、ただ自然が与えた美しさではない。愛と幸福とを、探し出し、つらぬこうとする美しさだ。ただそれだけを信頼しようとする美しさだ。こんな世界で。
少佐は打たれた。いままでに何度も打たれたが、今度もまた、彼は己の魂が、打ち震え高ぶるのを感じた。自分のすべてをかけて、彼の愛と幸福とを、守らねばならぬ。そしてその美しさを。それを枯らさぬために、彼が尽きぬ美しさの泉であるために、そこから幸福が溢れるために、彼に触れ、慈しみ、愛さねばならぬ。そして、あるいはそうしたものを、自分が受け取るために。
「……認めるよ、ここへ来たのは、かなりの部分、感傷のせいだった」
巻き毛や顔に口づけを受けながら、伯爵はうっとりと目を閉じて云った。
「自分の気持ちを、ひとりで抱えていられなかったんだよ」
少佐は、ああ、と云った。
「そして、たまらなく君に逢いたかった」
少佐は、ああ、と云った。そうしてそれきり、まともなことばは途切れた。
3
知恵の女神は微笑んだ。朝寝が好きな伯爵をひとりホテルに残し出勤した少佐の頭は、信じられないほどきびきびと、鋭く回転をはじめた。あらゆる情報が頭の中を駆け巡り、次々とあてはまるべき場所にはまっていった。部下たちはまたぞろ、彼の指示で一日中奔走するはめになった。少佐も忙殺された。彼はその日一日、伯爵のことを、ほとんど思い返すひまもなかった。電話が鳴ったのは、日付が変わろうとするころだった。
「帰るよ。君、すごく忙しそうだからね」
少佐は、実際忙しかったので、否定しなかった。
「昨日はありがとう。会えて嬉しかったよ」
少佐は立ち上がり、閉め切っていた窓のブラインドを開けた。もしかしたら、どこかに彼がいるかもしれないなどと、考えたわけではなかったけれど。窓の外に、彼の姿はなかった。昨日と同じような、少し膨れた半月が浮かんでいるだけだった。
「もしひまができたら、君の個人ポストを見てみてよ。ラブレターが入っているからね」
「おまえ、また侵入したのか」
少佐はあきれた。
「わたしはプロだよ。じゃあね、任務に励みたまえよ、エーベルバッハ少佐」
電話を切ろうとした彼を、少佐は引き止めた。
「あのな」
「うん」
「ひとつ、礼を云わにゃならん」
「どうして? ああ、灰皿のこと?」
「違う。昨日の一夜でな、頭がすっきりしたらしい。今日一日、冴えわたっとったよ。女神が微笑みたもうた」
電話の向こうで、伯爵が大笑いするのが聞こえた。
ネスカフェゴールドブレンドは、夕方から切れてしまっている。買いに行くか買ってきてもらおうと思っていたが、そんなひまさえなかった。自販機でコーヒーを買うついでに、彼はポストを覗いた。朱鷺色の封筒が入っている。引っ張り出し、部屋へ持ち帰って、封を切った。
シェイクスピアはいつも真実しか云わない。君に会おうとして乗った飛行機の中で、わたしは彼のソネットを読んでいた。作品の大部分は、愛する若い男とのことをうたったものだ。男は美しく若く、詩人はすでに盛りを過ぎていて、その男を心の底から愛している。愛、なんてもんじゃない。自分がどんな立場に置かれたって、なにをされたって、それでも君は正しい、とか云えるんだから。
このソネットをわたしに紹介してくれたのが、件の作家だった。ソネットだけじゃない、わたしをことばの豊穣な世界へ誘ってくれたのは彼だった。君がすごく辟易しているわたしの引用癖は彼の教育のたまものだ(だから、やめないよ! あしからず)。彼は毎年、わたしの誕生日になると、プレゼントの箱にシェイクスピアのソネットをひとつ添えて、送ってくれた。長い手紙もいっしょに。ほんとうにずっと、彼はわたしの支えだった。どうして、与えられていた愛の大きさを、その真価を、失ってから改めて思い知るんだろう? わたしはいまシェイクスピアのソネットを読みながら、彼がその中に重ねていた思い、彼の真心に、心を打たれ続けて、涙が止まらないんだ。そして、この人生で、そんな愛を体験できたことを、誇りに思う。心から。それから、君のことを想ってまた泣く。大切な愛をひとつ失ったけど、でもわたしはもう砂漠にはいない。心の底から、真心と真心とでぶつかる愛。それが優しく寄り添って、憩いあう愛。わたしは満ち足りている。わたしの中に愛はあるし、君がいる。
彼のソネット、三十番を、昨夜の思い出に捧げる。まだちょっと感傷的なエロイカより、愛をこめて。
静かな想いに誘われて、わたしが心の奥深く
過ぎ去ったことどもをあれこれと思い出していると、
かつて求めたものが数多く見当たらないのに、ため息が出てくる、
昔の苦悩がいまさらのように蘇り、時の空しさが身にしみてくる。
そうだ、死の底知れぬ暗夜に消え去った親しい者たちが偲ばれ、
めったに流したこともない涙が眼に滲みでてくる――
そして、遠く過ぎ去った愛の苦悩が胸にこみ上げてきて、
姿を消していった多くの親しい者を悼まないではいられない。
さらにまた、かつての悲しみを思い出しては悲しみ、
以前に涙とともに洗い流したはずの苦しみを
ひとつひとつ数え立ててはまた心を痛め、まだその精算が
すんでいないかのように、あらためて精算しようとする始末だ。
――だが、それなのに、君の姿を思い浮かべるや否や、
損失はすべて帳消しになり、悲嘆は忽ち消えてゆく
※66番と116番は、高松雄一訳、岩波文庫の『ソネット集』より。
30番は、平井正穂訳、岩波文庫の『イギリス名詩選』から。