時刻は午後七時半を回っていた。雨がぱらついていた。少佐はホテルの前でタクシーに乗りこみ、パーティー会場へ向かった。モーニングを着るのは好きでなかった。子どものころから、正装は大嫌いだった。ほんとうに仕方のないときだけ、少佐はそれを着た。正式な場には、許される限り軍服を着て出席することにしていた。そのために、伯爵とはじめて踊ったあの日、あのウィーンでの日にも、少佐はスーツ姿だった。伯爵は美しいドレスを着ていた。彼は美しかった。そして、無粋なスーツ姿の少佐に気分を害したようすもなく、ワルツにあわせて楽しそうに踊ったのだ。あのきらびやかな雰囲気、あの古典的な曲、伯爵の古典的なドレス、慇懃なワルツ。
 タクシーが目的の場所へたどり着くのに、二十分ほどかかった。少佐の目は窓ごしにベルリンのきらめく夜の街並みに注がれていたが、心のうちはあの日の伯爵を追いかけていた。ずいぶん遠い日のことになってしまった気がした。少佐はその思い出ごと、伯爵をふたたび引き寄せねばならない。今夜が勝負だ、という気がしていた。伯爵とお友だちとの関係を、伯爵の華々しいエロイカとしての顔を、少佐がどのように処理するかの、ぎりぎりの期限であるような気がした。これを逃したら、もう伯爵をふたたび呼び戻すことは不可能になるという気がした。
 ベンツのタクシーは大きな邸宅の門から中へ入っていき、車回しのところで少佐を下ろした。持ち主の財力が一目でわかるような、広々とした芝生に覆われた庭や、立派な建物が少佐を迎えた。玄関の前には男が控えていて、階段を上ってきた少佐に慇懃に礼をし、挨拶し、招待状を差し出すよう態度で圧力をかけてきた。少佐はふところから封筒を出し、男へ差し出した。彼は中身をあらため、一礼して、玄関の扉を開いた。
 エントランスホールは吹き抜けになっていて、左右に螺旋状の階段が二階へ伸びていた。左右の階段のあいだに、男のトルソーが飾られていた。髪の感じこそ違ったが、そのギリシア的な端正な面立ちはどことなく伯爵に似ていた。
 使用人らしき男がやってきて、少佐をうやうやしく迎え、ホールから右手の広間へ案内した。ダンスホールにも使用できそうな大きな部屋だった。天井のシャンデリアがまぶしく輝いて、あたりをくまなく照らしていた。床にはその光を吸収するかのような深い赤の絨毯が敷かれていて、白いテーブルクロスをかけられた円卓が並び、壁に沿って料理や飲み物の乗った長テーブルと、休憩用の椅子が置かれていた。庭へ通じるフランス窓は閉じられていて、カーテンがぴっちりと閉まっていた。会場の隅には楽器をたずさえた楽団が控えており、静かな室内音楽を流していた。会場はすでにモーニング姿のさまざまな年齢の男たちがひしめきあっていた。全部で二十人ほどだろうか? 彼らはいくつかのグループに分かれて、和やかな談笑の輪を作っていたが、広間の中央はぽっかりと空いていた。そこには華奢なカウチソファしつらえられていて、足下には目に鮮やかな中国製の絨毯が敷かれていた。ソファの両脇には、優雅な脚を持つ大理石の台に乗った、バラを生けた花瓶がしつらえてあった。シャンデリアのほぼ真下に当たるそこは、広間の中でもっとも明るく輝く場所だった。
 そこが誰のためのものであるかは一目瞭然だった。パーティーの主役、このような特別な席を設けられ、もてはやされるにふさわしい人物。
 ふいに、少佐は名前を呼ばれて振り返った。エステン氏が少佐の後ろで、モーニングに身を包み、微笑んでいた。
「あなたも招待を受けたのですか」
 氏は優しそうな笑みを、ややからかうようなそれに変えて云った。
「そうらしいですな」
 少佐も微笑を返した。エステン氏はうなずいてぐるりと周りを見回し、
「それはよかった、実はわたしはここにあまり知り合いがいない上に、九時には帰宅して寝につきたいほうでしてね。あなたがいてよかった。もしおいやでなければ、しばらくこの年寄りの相手をしてくれませんかな?」
 少佐は喜んで引き受けた。エステン氏とは、実際に話すかどうかは別にして、話したいことがいろいろとあったし、確認したいこともいくつかあった。ふたりはグラスとつまみの乗った皿を受け取って、早々に壁際のテーブルを占領した。広間を傍観しているのはおもしろかった。なにしろ、男しかいないパーティー……中には女装しているのもいたが……というのは、なにやらすごみがあって、まがまがしいものすら感じさせる光景だった。少佐は率直にそのことを打ち明けた。エステン氏はうなずいて同意を示した。
「わたしは伯爵をとても愛していますが、同性愛者とはいえません。だからこの光景は、たしかにはっきり云って、やや息苦しいですな。わたしは結婚しているし、子どももいる。孫だっています。数年前に妻を亡くしましたが、そのとき伯爵はわたしをとてもいたわってくれましたよ。頻繁に手紙や電話をよこして、慰めてくれました。あれはなによりわたしの助けになりました」
 エステン氏が伯爵のことについて話すのはこれがはじめてだった。彼の目は、あのどこか遠くを見る、なつかしいものを見つめるものになっていた。
「自分が忘れられていない、と認識するのは、いくつになっても実にうれしいものですなあ。伯爵のことは、子どものころから知っていますよ。わたしは先代の伯爵と知り合いだったのでね。すばらしい人物でした、彼は。いまの伯爵が、あのようにまっすぐに育ったのも納得できます。彼は実にまっすぐに育っている、そう思いませんか? 彼のいろいろな要素がそれを否定しているように見えますが、そんなものは見せかけだ。彼の中心は竹みたいにまっすぐに伸びている。わたしはそれがうれしい」
 少佐は黙って、広間の中央の空間を見つめていた。まだあるじのあらわれないソファを。伯爵のいろいろな側面が思い出された。彼のあらゆる魅力、美点、欠点、さまざまなものが。彼はまっすぐに伸びている。おそらくそれはほんとうだ。ほかは見せかけだ……おそらく、それもほんとうなのだ。伯爵はまっすぐで……まっすぐ過ぎるのだ。少佐の考えでは。あけっぴろげで、なにもかもおっぴろげるものだから、エーベルバッハ少佐はそれらを全部消化しなければならないのだ。
 ふいに、広間の奥へ通じる木の扉が開き、部屋の中に風が吹きこんできた。そこらに散らばっていた男たちは話をやめ、いっせいに扉のほうを振り返った。少佐もそちらを見、エステン氏も丸眼鏡を持ち上げて、首を巡らした。
 音もなく、伯爵は入ってきた。自分の横に立つぶくぶく太った、今日の主催、ゲルプマンと思われる初老の男に腕をかけ、彼はゆっくりと広間を横切って歩いてきた。身体にぴったりした、広い襟ぐりの黒いノースリーブブラウスと、同じくぴったりした黒のパンツ、二の腕まである長いレースの黒手袋を身にまとい、肩に羽織った、向こうが透けて見えるガウンの長い裾を引きずっていた。ガウンには全面に蝶と花のモチーフが刺繍されていて、胸のところに、すずらんをモチーフにした、ダイヤモンドと真珠を用いたブローチがとめてあった。首からは真珠のネックレスが三連ぶら下がっていた。そしてその美しい顔は、手袋とそろいのレースのアイマスクで覆われていた。
 かかとの高いブーツにくるまれた足が、一歩一歩絨毯の上を踏みしめ、ソファにたどりついて、くるりと向きを変え、ゆっくりと組み合わされるまで、誰も動かず、ひとことも口を利かなかった。その場にいる全員の視線が、伯爵に釘づけになっていた。伯爵がソファに落ち着くと、すぐに給仕が駆け寄ってシャンパングラスを手渡した。伯爵は微笑して受け取り、立ち上がって、グラスを掲げた。全員が同じ仕草をした。伯爵がゆっくりとグラスを口元へ引き下ろし、ひと口飲んで、アイマスクに覆われた目で挑発するように自分を取り囲む男たちを見回した。あとに続いて、全員が同じようにした。グラスの中身を飲みほすと、伯爵はふたたびソファに腰を下ろした。その後ろに誇らしげに控えていたゲルプマンが、うやうやしくその顔を覆っていたアイマスクを外した。見事な造形の顔があらわになった。
 それはなにか神秘的な、秘密の儀式を思わせた。伯爵があらわれた瞬間に、彼はその場のすべてに魔法をかけたのだ。少佐にはそれがよくわかった。そして伯爵のアイマスクが外された瞬間に、その魔法が解けたように、男たちはいっせいに会話を再開し、ぞろぞろと動き出した。
「あの子のあの、あらゆる人間を魅了してしまう力は、すさまじいものだとお思いになりませんか」
 エステン氏がほとほと感じ入ったようにささやいた。
「思います」
 少佐は厳粛な顔で応じた。
「おれ自身、そいつにとっつかまっちまって、身動きならんのです」
 エステン氏は振り返り、少佐を見た。
「そんなつもりはなかった」
 少佐は伯爵を見つめながら続けた。いまや会場の男たちは、彼の前に一列をなしていた。ひとりずつ順番に、伯爵に挨拶し、手を取ってキスし、あるいはもっと親しい関係の者は頬にキスし、抱きしめ、ささやかな贈り物を捧げていた。男たちの顔は一様に浮かれて、赤らみ、浮ついていた。
 伯爵がなにを思っているのかは、いっこうに伺えなかった。彼の顔に張りついたままの謎めいた微笑のために。彼はいつでもそうだった。男たちの中にいるとき、彼はいつも微笑んでいて、楽しんでいるという感じを与えていたが、ほんとうのところどうなのか、改めて考えてみるとさっぱりわからなかった。少佐には、伯爵の真意がわからなかった。ものぐるおしい感じが、少佐をふたたび包みこみ、飲みこもうとしていた。自分の中心で、なにかが猛烈に沸き立とうとしているのを少佐は感じた。
「こんなつもりじゃありませんでした。こんなことに、自分の労力を使うつもりもなかったんだ」
 少佐は云い、それからそっと、伯爵から視線を背けた。
「……致し方ありませんな」
 エステン氏は小さく、あきらめたようにつぶやいた。
「こういうものは、どうしようもない羽目なのですよ、少佐。誰でもいい、年寄りに聞いてごらんなさい。きっとそう云うから。落ちるつもりもないのに落ちてしまった恋だけが、本物です」
 少佐はエステン氏を見やった。彼は伯爵を見つめたまま、思慮深げに微笑んでいた。

 

 このやや場違いなふたりは、壁際のテーブルに陣取ったままおしゃべりを続けた。それしかすることがなかった。伯爵はしょっちゅう誰かに囲まれ、話しかけられ、気遣ったり甘えたりするのに忙しそうだった。男たちは伯爵の近況を聞きだし、あるいは伯爵の今後の仕事の予定について聞き出したがっていた。
「次の獲物はもう決まっているのかね、伯爵」
 長身痩躯の、四十半ばらしきハンサムな男が訊ねると、伯爵は微笑を浮かべ、実はね、と切り出した。
「近々ひと仕事する予定なんです。わたしのいい子たちは、その準備の真っ最中。みんなががんばってくれるから、わたしはこんなふうにひとりのらくらしていられるわけ」
「なにを盗むつもりだい? 絵画? 彫刻? それとも……」
 別の男が訊ねた。伯爵は意味深な笑みをもらした。
「内緒です。この仕事はとても大がかりだけど、でも、みなさんに聞こえていくことはきっとないんじゃないかな……」
「戦利品を見せてくれるだろうね?」
 先の長身痩躯の男が云った。
「もし機会があればね」
 あの感じでは、その「もし」は永久に訪れないだろうなと、少佐は思った。伯爵の笑みは、相手をはぐらかすときのものだったからだ。もっとも、男たちのほうも、その場の会話を真に受けるような連中ではなさそうだった。なにもかもが茫漠として、煙に巻かれているようで、少佐はなんとなく気分が悪かった。
 エステン氏はそんな胡散臭いパーティーの様子を観察して楽しんでいるようだった。彼は出席者と個人的な関係を持ってはいなかったが、それぞれがどんな人物なのかは、なぜか非常によく知っていた。氏は少佐にひとりひとりを指さして、名前と職業、あるいはかつての職業を教えた。その場には、実にさまざまな人種が集まっていた。医師や弁護士や政治家といった社会的地位のある連中から、山師や軽業師、殺し屋、闘牛士なんてのもいた。
 闘牛士……スペインの伝説的な闘牛士、いまは引退したかつての英雄ドン・フィエルロのことは、少佐も聞いたことがあった。現役時代には非常な名声を博し、その優雅な戦いぶりから、マタドールの中のマタドールと讃えられた男。それは伯爵がときおり口にする名前……彼の愛するパパのひとりとして、敬意をこめて口にされる名前のひとつだった。わたしのヒーローなんだよ、と伯爵は云っていた。
「もしかしたら、最初に好きになった男だったかも。五つか、六つのときだったかな? 彼はまだ現役の闘牛士だった。わたしは父に連れられて、彼のショーを見に行ったんだ。すばらしかった。照りつけるぎらぎらした太陽、颯爽と出てきて、余裕の笑みで布を振る彼、怒り狂う雄牛、翻る赤い布、見事な剣さばき……わたしたちは彼の家に泊まった……彼はわたしにナイフ投げだとか、牛の最期のことだとか、いろんなことを教えてくれたよ。忘れられないマドリードのあの夏……」
 ドン・フィエルロはこの広間にいて、誰と話をするでもなく、壁の隅にもたれて立っていた。五十も半ばを過ぎているだろう、灰色になりかかった髪を少し伸ばしてうしろでひとつに結び、身体に合ったモーニングを着こなしている姿は実に紳士的で、落ちついた貫禄を示していたが、鷹のような灰色の目と、左頬から耳にかけて斜めに走る傷跡が、幾分ものものしい、ただごとでない雰囲気を与えていた。何度も生と死のぎりぎりのふちを見てきたに違いない、深い鋭い目、研ぎすまされたような鋭利な顔だち、鍛えられた、しかし驚くほど俊敏に違いない身体は、年齢に逆らって、無駄な肉などひとつもついていないように見える。
 少佐はその人物をはじめて間近で見た。彼には、ほかの男のように浮ついたところがひとつもなかった。彼の目は、伯爵の上に敬意と愛情をこめて終始そっと注がれていた。伯爵もときおり、彼をそんな目で見返していた。目が合うと、ふたりは小さく微笑みあった。
「さて、わたしはもう帰って寝なければ」
 エステン氏が立ち上がった。午後九時前だった。会場に来て、一時間ほどになる。招待された義務は果たしたと云えそうだった。少佐は一緒に戻ろうかと思ったが、一方でそれは伯爵を見捨てていくことのように思われてならず、結局はその場に残った。
 ぼんやりと会場を眺めていると、ドン・フィエルロが少佐のもとへやってくるのが見えた。右足をやや引きずっていたが、態度は実に堂々としていた。どっしりと落ち着いた感じがあり、いかにも伯爵が「パパ」扱いしそうな、揺るぎない自信と慈悲深さを合わせ持っていそうな男だった。
「エーベルバッハ少佐ですね」
 男はその鷹のような目でじっと少佐を見つめたまま、やや不慣れらしいドイツ語で確認してきた。
「突然声をかけて申し訳ない、わたしはフィエルロ、スペインではドン・フィエルロで通っている……」
「どうも、こいつは光栄だ」
 少佐はスペイン語で返した。
「ご心配なく。スペイン語はガキのころから叩きこまれてますからな。家系上、いくらかそっちの血が混じってるもんで……」
 ドン・フィエルロは少佐のスペイン語にほっとしたようにかすかに笑った。
「それはありがたい。ドイツに来ておいてなんだが、ドイツ語はどうも苦手だ。イタリア語やフランス語なら、それなりにできるんだが。伯爵からきみのことを、耳にたこができるほど聞かされていたのでね……一度話をしてみたいものだと前から思っていたんだ」
 少佐の横の椅子に腰を下ろすと、ドン・フィエルロはあたりをひとわたり見渡した。
「伯爵がきみを招待したのか? このパーティーに?」
 相手につられて会場を見回しながら、少佐はうなずいた。
「たぶんそうでしょう。おれは招待状を受け取っただけだが」
「なにか意図があるのかな。きみが来て楽しいようなパーティーだとは思えないが」
「さあ。そいつはわかりませんな。そもそもあいつの意図なんて、おれにわかったためしがあるのかどうか疑問だ」
 ドン・フィエルロは会場を見回すのをやめ、少佐に向き直って、葉巻を取り出した。少佐は火をつけてやった。それから自分の煙草にも火をつけた。
「確かに、彼はときどきわかりにくいように見えるね」
 ドン・フィエルロは聞き分けの悪い子どもに向けるような苦笑を、ちらりと伯爵へ向けた。
「ほんとうはとてもわかりやすい子なんだがね、彼は。ただ、素直に自分に従っているだけさ。求められる場所へ出向き、求められるものを与える。もちろん、自分の誇りや威厳を失うようなことは決してしないが」
 伯爵は相変わらず男たちのあいだで笑っていた。楽しげに、声を上げて笑っていた。彼が満足そうにしていると、男たちも満足気だった。ある小柄な男が……エステン氏の紹介では自称コメディアンということだったが……ひどくこっけいな顔を作って、周囲を笑わせていた。伯爵は彼の肩にもたれて大笑いし、こぼれてしまった涙を指で拭いた……別の男が、彼にさっとハンカチを渡した。伯爵は礼を云い、それを受け取って、涙を拭いた。
「……伯爵から聞いているかな。わたしは彼の父上の友人で」
 ドン・フィエルロが通りがかった給仕からブランデー入りのグラスを受け取って、先を続けた。
「父上を非常に尊敬していた。すばらしいひとだったよ、彼は。いまの伯爵のことは、五歳のころから知っている。小さいときから、聡明な、美しい子だった。あんな美しさを受け入れて自分のものにするには、繊細すぎる子だとわたしは思った。心配したよ。あんな繊細な子に対しては、周囲のちょっとしたからかいめいたものですら、取り返しのつかない深手を与えてしまうことになりかねないからね。先代の伯爵も同じ心配をしていたようだ」
 先ほどおかしな顔を作っていた男が、今度は立ち上がって、へんてこな踊りのようなものをやりだした。みんな涙が出るほど笑った。伯爵が、その踊りを真似して踊りだした。するとあたりの男たちも乗ってきて、みんなで変な踊りをやりだした。室内音楽を担当していた楽団は、この出自不明のダンスに当惑したらしかった。が、すぐにリーダーらしい男が身振りをまじえて指示を出し、タンゴを演奏しだした。タンゴは、この妙な踊りによくあっていた……それで、みんな今度はタンゴを踊りだした。男だけの、へんてこなタンゴを。伯爵は笑いながら踊っていた。小柄な男は乗りに乗って、いまや全身で情熱的な踊りを表現していた。
 伯爵と男連中は、少なくとも非常に楽しそうだった。全員正装してはいるが、それでいて堅苦しくない、開放的な空気が確かに感じられた。エーベルバッハ少佐は、彼らに混ざってみたらどうなるだろう、とでも思ったのか? まさか、そんなはずはなかった。少佐はああいう連中とは別だからだ。エーベルバッハ少佐は、伯爵を真に愛しているのであって、ほかに家庭を持っていたり、長続きしないその場限りの愛を幾度も捧げるようなのとは違うのだから。
 ……きみは愛は制限するものだと思ってる、わたしは愛は拡張するものだと思ってる……少佐はそのことばを、ふいに思い出した。娼婦とそうでない女との根本的な違いはなにか? あるいはそんなものが、存在するのか? わからなかった。もしも伯爵のしていることが正しいなら……もしもこの光景が、いま見ているとおりに楽しく、大らかなものであるのなら……それは少佐のなにかを、根底から覆しかねないものだった。それはあまりにも危険な考えだった。危険で、とりとめなく、おそろしいものだった。
「そうなんだ、わたしの心配は杞憂だった」
 ドン・フィエルロは広間のタンゴを横目に、顔をにやつかせながら云った。
「実際には、伯爵は誰が想像していたよりも軽やかに、自分に課せられた試練を受け止め、乗り越えていった。彼は決してごまかさず、決して逃げなかった。その結果、あらゆるものを魔法にかけ、溶かしてしまう力を身につけたのさ……」
 いまやタンゴの輪は、広間全体に広がっていた。みんな踊っていた。ある者は笑いながら、ある者はややおっかなびっくりに、ある者は困惑しながら。踊りができないほど年をとったものは、椅子の上で身体を揺すっていた。
 いったい、伯爵の魔法とはなにか? 彼の秘密はどこにあるのか? それはどこからやってくるのか? 自分はそれを、不当に押しとどめようとしているというのか? 誰のために? なにを守るために?
「とはいえ、わたしはいつも万が一に備えている……」
 ドン・フィエルロが真剣な話を続けるのは、もはや不可能に近かった。というのも、いまやタンゴは非常に情熱的な局面にさしかかりつつあったからだ。伯爵はいったいいつ、ワルツだのタンゴだのの女役を習ったのだろう? 彼はいつの間にか例の小柄な自称コメディアンと組になって、広間を闊歩し、くるりと回転し、男の腕にしなだれかかって踊っていた。彼の胸にはいつの間にか真赤なバラが挿してあった。男たちは、もうほとんど自分の踊りをやめて、このカップルに喝采を送っていた。曲の終わりに合わせてふたりがポーズを決めると、広間は盛大な拍手と称賛の叫び声に包まれた。小柄な男はぴょこんと頭を下げ、伯爵を指して拍手を促した。伯爵も頭を下げ、それから笑いながらソファに戻った。
「窓を開けろ」
 と誰かが叫んだ。
「暑くって暑くってやりきれない」
 実際、広間は男たちが動きまわったせいで熱気がこもっていた。すぐに給仕がふたり走って行って、カーテンを開き、フランス窓を開けた。寒々とした風がどっと入りこんできて、中は一気に寒くなった。
「すまんが、窓を閉めてくれんか」
 弱々しい老人の声が遠慮がちに云った。
「わしゃ寒くってやりきれん」
 男たちがどっと笑った。広間の空気は完全にほぐれて、リラックスした、打ち解けたものになっていた。
「なんの話をしていたんだったかな」
 ドン・フィエルロが苦笑いしながら云った。
「なんでしたかね」
 少佐も笑ってごましたかったが、できなかった。少佐はちっとも笑えなかった。おかしいどころか、いらいらして、腹を立てていた。そしてこの広間で自分ひとりがいらいらしていることに、ますます腹を立てていた。まったく、くだらないパーティーだった!

 

 それから少しして、ひとりの男が遅れてやってきた。年のころは五十そこそこだろうか、中肉中背で、黒みがかった焦げ茶の毛髪を丁寧に頭になでつけた、とりたてて特徴のない、どこにでもいそうな男だった。使用人に連れられて広間へやってきた男は、さっと中を一瞥し、その場の妙に打ち解けた、親密な空気を感じ取ったのか、眉をしかめてさっと顔を曇らせた。
 彼の登場に気づいた男が歩み寄って、男を伯爵の前へ連れて行った。伯爵は彼に微笑みかけ、腕を広げて抱きしめた。男は身体をこわばらせ、居心地悪そうにもぞもぞした。すぐに身体を離し、男は伯爵に詫びを入れはじめたようだった。
 少佐はこの遅れてやってきた男が、やたらと目をきょろきょろさせ、落ちつかない様子でいるのが気になった。男は顔色が悪かった。なにか思いつめたような、張りつめた顔をしていた。
「あの男」
 少佐はドン・フィエルロに云った。彼もその男を見ていて、うなずいた。
「あの男を知っているかね? 知らない? 彼はクレイグといって、イギリスの美術研究家なんだ。伯爵のあわれな追っかけのひとりだ。彼の論文に、伯爵が目を留めてね……ぜひお話を、というところから交流がはじまったらしいんだが……」
 遅れてきた男……クレイグは伯爵と少し会話をすると、すぐにそのそばを離れて、ソファの裏手側のテーブルに回った。給仕から飲み物を受け取ると、それをなめながら、伯爵の背中にちらちらと気障りな視線をあびせた。警戒しているような、なにかをおそれているような、見ている者を落ちつかない気持ちにさせる目つきだった。
「かわいそうに、伯爵にすっかりのぼせあがってしまったらしいんだよ」
 クレイグは伯爵から視線をそらし、グラスの中の琥珀色の液体をしばらくじっと見つめた。それからまた伯爵を、警戒する小動物のようにちらちらと見やった。
「大学の研究室勤務の、ごく内気で平凡な男だったらしいが……遅い結婚をして、ひとり娘はまだ小さいらしい。ここへ来てもいいたぐいの男ではないよ、本来は。伯爵は最初、一種のショック療法のつもりで招いたらしいがね。自分のいるべき場所を思い出して戻るように、とね。考えあぐねて、さんざんいろんなひとに意見を聞いて回ったうえでの決断だったんだが、不幸なことに逆効果だったんだ。クレイグの……彼も芸術なんぞに関わっている人間だから、ひと一倍粘着質な情念を抱えているわけさ……その情念に火をつけてしまったんだ。あとはどうなるか、云わないでもわかるだろう。平凡で健全な生活の蔭に押しこまれ、隠されていたものが一気に噴き出してきた。それはクレイグに襲いかかり、彼の身を焼いた。彼はいまだ火だるま状態だ。炎に包まれながら、地獄の坂を転がり落ちている。職を失い、妻子を失い……このたったの二年のあいだに!」
 二年だって? 少佐は心底驚いた。二年といえば、ほとんど伯爵と構築してきた年月にひとしかった。それなのに、少佐はなにも知らなかった。伯爵は云うべきことではないと考えていたのか? そんなはずはない。この手の問題を遠ざけておいて、いったい恋人である意味があるのか? 彼は打ち明けるべきだった。エーベルバッハ少佐がいやしくも男、しかもそれなりの経験を持った男である以上、いくらでも手は打てたはずだ。それを自分でなしにほかの連中に聞いて回るとはどういうことなのか?
 ……ふいにあることに気がついて、少佐は血の気が引いた。
 伯爵は云わなかったのではなくて、云えなかったのではないのか?
 伯爵が話そうにも、彼の口からほかの男の名前が飛び出すや、疑ってかかっていたのはエーベルバッハ少佐ではなかったか?
 この二年のあいだ、エーベルバッハ少佐は伯爵の話をほんとうに聞いていたのか? そしていま、こんなに重要な話を、少佐は伯爵の口からでなく、他人の口から聞いている!
「クレイグはいまのところ、まだかろうじて紳士的と云える態度を保っている。伯爵が適当に泳がせているのでね。パーティーというパーティーには招待状を出して、呼んでやっている。クレイグはどのパーティーでもやってくる。たとえイギリスの外でも、ヨーロッパの外でも。そして誰と近づきになるわけでもなく、ああしてじっと伯爵を見ている……一見、伯爵を避けているようにさえ見える態度を取りながらね。ときどき、どうやって手に入れたのかわからない美術品を伯爵のために持ってくることもある……わたしは、あの男はいつか投獄されるだろうと思っている。そうなれば一番いいんだが!」
 少佐は煙草に火をつけ、急いで何口か吸いこんだ。昔から、煙草がじりじりと燃えて、灰になってゆくさまを見ると、不思議と気持ちが落ちつくような気がしたのだ。少佐は灰を灰皿へ落とし、クレイグを見やった。男はひとりきりでテーブルに座っていた。伯爵の背中しか見えない、周囲に誰もいないわびしい席に。そしてひとりで酒をなめ、伯爵の背中を見ていた。ほかの男たちと陽気にやっている伯爵を。決してそこに加わらず、ただじっと、暗い、うらめしそうな、物欲しそうな、陰鬱な目をして。
 少佐は立て続けに二本吸った。それでもまだ、血の気が戻らない気がした。
「さっき話しかけていたことを思い出したよ。ここの連中はおおむね、見たとおり陽気にやっている。でもわたしは一応警戒は怠らないんだ……伯爵に万が一のことがあると大変だからね。彼は見た目がああだし、あの通り鷹揚だからね、望まないいろいろなものに巻きこまれやすい。彼は鷹揚であるが故に、その気もなしに、ひとの罪悪感を刺激してしまうんだよ。そして、罪悪感は人間の薄暗い秘密の根底に横たわっている……わたしはまったく自分の意志で、監視役をしているんだ。ローマのボロボロンテを知っているだろう。彼も似たようなものだ。別にここの連中のように、同盟を組んでやっているわけではないがね。伯爵を守るためとは云わない。そんなことは出すぎたことだし、彼はたいがいのことは自分でどうにかできる。わたしはただ、あまさず知っていて、彼が必要なときには話し相手になり、手を貸したいのさ」
 ドン・フィエルロは哀れむような目でクレイグを見やり、首を振った。

 

 午後十一時過ぎだった。クレイグが伯爵に話しかけた。伯爵の応対は自然で、このふたりのあいだにのっぴきならない問題が横たわっているなどとは、とても思えないようなものだった。伯爵はクレイグをソファの、自分の横に座らせた。クレイグは相変わらずおどおどしたような、ぎこちない態度だった。会話のあいだ、彼は伯爵を見なかった。ふたりは少し話して、立ち上がり、伯爵がひとこと周りにことわって、連れ立って広間を出て入った。
「まずいんじゃないですかね」
 少佐はふたりが出ていったドアを睨みながら云った。彼はもう半ば腰を浮かせていた。
「わからない。こんなところでなにかことを起こすほど、あのクレイグが大胆だとは思えないが……少し待ってみよう」
 ドン・フィエルロは冷静だった。
 五分経った。ふたりはまだ戻ってこなかった。広間の連中は間延びした話をだらだらと続けていた。少佐はドアを睨みつけたままだった。
 十分が経った。広間は、あのくだけた、ほがらかで打ち解けた空気から、明らかにそわそわした、落ちつかない空気に取って代わられつつあった。誰もが、自分や相手の話にまじめに耳を傾けてはいなかった。彼らの注意は、ふたりの出ていったドアに釘づけにされて、そこから動くことができなくなっていた。しかし、そこに注意を払っていることを、かつ憂慮していることを、互いに打ち明けていいものかどうか、まだ迷っていた。
「……もう十分になるぞ」
 少佐がなにげなく発したその声は、つぶやきだったにもかかわらず、部屋じゅうに行き渡り、息苦しい突然の沈黙をもたらした。皆顔を見合わせていた。動き出していいものかどうか、意見を交換しあっていいものかどうか、彼らはわからないでいた。その沈黙が、並ならぬ不安と動揺を物語っていた。
 少佐は立ち上がった。椅子ががたんと音を立て、それが広間にこだました。次の瞬間には、少佐はもう大股で広間を横切っていた。広間を抜けると、すぐ後ろからドン・フィエルロが音もなく追いついてきた。給仕のひとりがあわてて駆け寄ってきた。
「おふたりは、二階の左端のお部屋に……ふたりきりでお話がしたいと申されたものですから……あの……」
 この給仕は少佐のただならぬようすを見て、責任を感じたらしかった。彼の顔はやや青ざめており、口調はしだいにしどろもどろになった。少佐は給仕を放置して階段を駆け上がっていった。ドン・フィエルロがあとに続いた。階段の下では、大勢の男たちが、ふたりの男を見上げながら、どうすべきか迷っていた。が、彼らもすぐに意を決したように、あとに続いた……といきたいところだったが、全員で我先にと駆け出したために、みんなしてつっかえてしまった。彼らは口々に罵声や非難めいた声を上げた。
 部屋の前で、ふたりの男は立ち止まり、目を見合わせた。ドン・フィエルロがうなずき、少佐はだしぬけにドアノブに手をかけた。ノブはすんなり回った。少佐はノックもなしに扉を開いた。
 客室は、いかにも心地よさそうなソファや机、それに大きなベッドで占められていた。そのベッドの上で、ふたりの男が組み合っていた。クレイグは、伯爵を組み抱いて首に手をかけた状態だったが、ドアが開くと驚いて振り向き、らんらんと光る目をかっと見開いた、おぞましい表情を見せた。見開かれすぎたために、目が飛び出しているように見えた。その下にできたくっきりした隈が、ぎらぎらした眼光と対蹠をなし、青ざめて黒みを帯びた肌と、かわいた唇は、棺に横たわった連中を思い起こさせた。一瞬のことだったが、その地獄の亡者もかくやとばかりの顔は、鮮烈な印象を残した。クレイグはふたりの男を見とめると、あわてて伯爵から手を離し、ベッドから飛び降りた。伯爵はベッドに寝転がったまま、ゆっくりと首を回し、ドアのほうへ視線を移した。少佐と目が合うと、彼は誘うような微笑を浮かべ……そこがあたかも今夜のふたりの宿であるかのように……それからそっと身体を起こした。ベッドに座り、身をかがめて床に落ちていたガウンを拾い、肩にかけなおした。
 ようやくつかえがとれた大勢の男たちがどやどやとやってきて、狭い部屋の入り口付近を占拠した。
「みなさん、どうしたんです? そんなにお揃いで」
 伯爵がベッドから立ち上がって、首を傾けながら云った。ベッドの向こう側で、クレイグは身体を硬くし、青ざめた顔をして、伯爵とドアのまわりのひとだかりとを、落ちつきなく交互に見やっていた。
「きみが戻らないから心配したんだ」
 例のぶくぶく太った今宵の主催、ゲルプマンが云った。伯爵は無邪気な笑い声をあげた。
「あはっ、ほんとですか? クレイグさんが、とても美しい細密画をいくつか見せてくれていたんです。夢中になっちゃって、ふたりとも時間を忘れちゃったんですね。心配かけてごめんなさい。でも、なんでもないんです」
 伯爵はにっこり微笑んだ。甘えるような声だったが、そこにはなにか、有無を云わせぬ響きがあった。彼がつかつかとドアに向かって歩いてくると、男たちは波のようにうごめいて、彼のために道をあけた。ドアをくぐる直前、伯爵は少佐をまっすぐに見つめ、すぐに視線を逸らし、ドン・フィエルロに微笑みかけると、廊下を進み、階段を降りていった。
 残されたクレイグが、ぶるぶると震えだした。彼はゆっくりとベッドに腰を下ろすと、頭を抱え、身体を丸めて、動かなくなった。彼の足下に、なにか輝くものが落ちていた。伯爵のすずらんのブローチだった。少佐は迷ったが、それを拾うために部屋の中に入っていった。少佐がすぐ足下にかがみこみ、ブローチを拾い上げても、クレイグは微動だにしなかった。
「われわれも戻ろう」
 ドン・フィエルロがクレイグを鋭く見つめたまま云った。
「あの男は、そっとしておいたほうがいい」
 少佐は相変わらずベッドにうずくまって身動きもしない男を一瞥して、部屋を出た。ドン・フィエルロが静かにドアを閉めた。
 ふたりは階段を降りていった。少佐は疲れ、うんざりしていた。怒りというより倦怠が、なにかの衝動というより沈鬱さが、彼を包んでいた。伯爵はたいがいのことは自分でどうにかする……その通りだった。彼はみごとに窮地を脱してしまった。あんなやり方をされては、クレイグにとっては入る穴すら見つからないだろう。慈悲深いやり方だった。そしてそれゆえに、見ようによってはひどく残酷なやり方だった。クレイグは打ちのめされているに違いなかった。自分で自分を滅ぼしたいと願っているに違いなかった。
 ポケットの中で、すずらんのブローチが、ときおりからかうように少佐の身体に当たり、存在を主張していた。
 少佐もまた、こっぴどく打ちのめされていた。

 

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