それぞれのたいへんな一日

「閣下が消えた!?」
 ザックスは携帯電話を耳に当てながらものすごい声を出した。向かいの席に座って、かわいらしい様子でシフォンケーキを食べていたエアリス嬢はびくっとして、思わずフォークを落っことしそうになった。カフェの周囲のテーブルのひとたちも、なにごとかというようにザックスをちらちら見た。
「おお、そうなんだ。君の友だちはいなくなっちゃったんだよ! 君から電話がかかってきて部屋を出ていって、それっきりだ。一度おれに電話があったんだけどな、慌てた様子で、すぐに切ったんだ。心配いらない、とか云って。おれはてっきり、君の指示だろうと思ったんで、君に確認のために電話してみたんだが、その様子じゃ違うんだな? なあ、大丈夫だと思うかい? これで、いなくなったのが君ならおれはこんなに心配しないさ。君に会ったことはないけど、ソルジャーが特別製で頑丈だってことくらいは知ってる。でもあの坊主は、なんたって普通の人間だろ……」
 ザックスはちょっと考えこんだ。見ず知らずのピルヒェさんからいきなり電話がかかってきたので、なにごとかと思ったら、なんてことだ!
「じゃあ閣下が消えたのは、三十分くらい前ってことですよね? おれが電話したのがそれくらい前だから」
「そうなるな。おれはとりあえず、いまから捜査局に顔を出すよ。同行取材の話は、見事に断られちまったし。その前に、ちょっとカール大公に事情を話して、あたりを探してみようと思ってるんだが……」
 ザックスは迷惑をかけたことと、その心遣いに感謝を表して、電話を切った。
「どうしたの?」
 エアリス嬢が気遣わしげな声を出した。ザックスは自分が彼女を呼び出してお茶につきあわせていることを思い出して、ため息をついた。先ほど話をしたカドバン准教授は、当然のことながら、自分もできれば現地に乗りこみたいと云いだしたので、ザックスは承知して、二時間後にふたたび会うことを約束したのだった。准教授には、荷物の準備やらなにやら、いろいろある。でもザックスにはそういう必要がないので、彼は重苦しい気分を吹っ切るために、エアリス嬢の顔を拝むことにしたのだった。
「ちょっとね。閣下がどっかいなくなっちゃったらしい」
 エアリス嬢は「あら!」と云った。
「あいつはすぐこれなんだ。団体行動に向いてないんだよ。ほんとにさあ。まあそれが役に立ってることが多いんだけど、でもさあ! 今度こそ、きっつく叱らなきゃ。ボスじゃだめだ、ぜんぜん」
 ザックスはいらいらしたように頭を掻いた。エアリス嬢は、心配ね、と云った。
「心配たってどうしようもねえよ。ボスは電波の届かないところにおわして、夜まで帰ってこないし……ピルヒェさんとか捜査局のひとが、きっと探しに出てくれると思うけど……もう! 閣下があんとき、なに見つけて電話切ったのかわかりゃなあ!」
 エアリス嬢は、かっかするザックスを心配そうに見やった。
「ねえ、ザックス、あなた、いますぐに戻ったほうがいいんじゃない? ミッドガルでできることは、終わったんでしょ?」
 ザックスははっとした顔をした。
「いや、でもさ、おれはカドバン准教授をお連れするって約束があるわけで……」
「そんなの、お尻叩いて、急かせばいいじゃない」
 エアリス嬢はかわいらしく唇をとがらせて云った。
「おじさんの旅行なんか、髭剃りと、Yシャツと靴下と下着何枚かあれば足りるでしょ? そんなの、一時間もかからないわ。いますぐ行って、おじさん急かすの! 友だちの命がかかってるって」
 エアリス嬢は強い調子で云った。ザックスは頭を掻いた。
「でもさあ、おじさんだって、ひとによるだろ? それにせっかくエアリスちゃんのこと呼び出しといてさあ」
 エアリス嬢は怒ったように首をふった。
「わたしは、ここでひとりで、ゆっくりケーキ食べて、おいしいお茶飲んで、それから、ぶらぶらして帰るから。どうせ、今日はそんな感じのこと、するつもりだったんだもの。ね? ザックス、いらいらすると、またヘルペス出ちゃうよ?」
「ああ、あれな……父ちゃんからの負の遺産。口唇ヘルペスなんて、ダッサいよなあ! ソルジャーになったら消えると思ってたのに……じゃ、ごめん! おれちょっと行くわ。今度必ず埋め合わせするから! これ、置いてくからなんか好きなもん買ってよ」
 ザックスは札を数枚テーブルに置いた。
「いらない」
 エアリス嬢はむっとした顔をした。
「お金置いてったら、わたし、あなたのこと、ねじり切っちゃうから!」
「でもさあ!」
「い・ら・な・い!」
「わかったよ」
 ザックスは札を引っこました。
「でも、ここのお代だけは、おれに払わしてよ!」
 そうして、一枚だけ札を置いて、エアリス嬢のほっぺをペン、と指先で軽く叩くと、大急ぎで出ていった。
「きっと、いまは恋人どうしだから、なんだわ」
 エアリス嬢はひとり考えた。
「これで、もし結婚して、一緒に暮らすようになったら、きっと旦那なんて、家にいないほうがいい、って思うようになるんだわ。あーあ、やだやだ! 結婚って、怖いなあ!」
 けなげなエアリス嬢はそう考えて一抹の寂しさをまぎらわせ、ふわふわのシフォンケーキを食べることに専念した。

「じいさん! 戦闘機いっちょ!」
 ザックスは飛空艇を整備していたマチェットじいさんに、ダイヤモンドも砕けんばかりの大声で話しかけた。あたりにはエンジン音が響きわたって、引きつけを起こすくらいうるさかったのだ。ザックスのあとをおそるおそるついてきたカドバン准教授は、かわいそうなくらいおどおどしていた。
「ああん!?」
 じいさんはすさまじい顔で振り返った。
「またてめえか! このクソガキ! わがまま云うのもいいかげんにしろよ!」
「緊急事態なんだよ! じいさんの大好きな閣下が行方不明なんだ」
「なにい? あの坊主がか。ちょっと待ってろ」
 じいさんは、そばで一緒に作業していた男になにやらたくさん指示を出して、大急ぎで持ち場を離れた。
「いま乗っていいのどれ」
 ザックスは急いでいたので、じいさんとカドバン准教授を抱えて広い飛行訓練所を走った。
「どれも準備万端だあ! このバカタレ! おれを誰だと思ってんだ」
「マチェットじいさんだよ」
 ザックスは笑って云った。カドバン准教授はぎゅっと目をつぶっていて、しきりに首をふった。
「神さま、どうかご加護を……わたくしめをお守りください……」

「ストライフ君が消えた!?」
 コランダー捜査官は、悪友からの電話で飛び上がった。
「おおよ、そうなんだ。消えちゃったよ! 一度電話がかかってきたんだが、そんときには確か、清掃員をおっかけて、とか云ってたな」
「清掃員? なんでまた……」
 ライオネル捜査官が、彼の横で心配そうに見守っていた。
「おれは思うんだが」
 電話の向こうで、ピルヒェさんがゆっくり云った。
「たぶん、あの坊主は電話の最中に、第二の犯行現場か、あるいはそれに類するものを見たんだ、きっと。で、それをつきとめようとして……」
「わかった、フラットの清掃員について確認する。知らないやつが潜りこんでいなかったかどうかな」
「おれは、一応念のためこのあたりをちょっと走り回ってみるよ。もしかしたら、見つかるかもしれないから」
「ああ、じゃ、頼むよ。こっちも急ぐ」
 捜査官は受話器を下ろすが早いか、早口で指示をとばした。
「シュミット! いますぐ教授たちのいるフラットに行って、スタッフに、今日あやしい、もしくは見慣れない清掃員を見なかったかどうか、確認してくれ。もしかすると、鼻か馬面のどっちかかもしれない。写真を持ってけ! ただし、教授たちには気づかれないようにな。捜査官らしいそぶりするなよ!」
 大柄で、牧歌的な顔を持つシュミット捜査官は食い損ねた昼食のハムサンドをもぐもぐやっていたが、あわててそれを飲みこむと、コーヒーで流しこんで、大急ぎで出ていった。
「残りのやつは、フラットのまわりで聞きこみだ。かたまって行動するな。くれぐれも、教授たちになにも感づかれないように! ライオネル!」
 資料を作成していたライオネル捜査官は、立ち上がった。
「君もストライフ君の足取りをつかめないか、やってみてくれ! 大急ぎで!」
 ライオネル捜査官は、唇を引き締め、あわてて出ていった。部屋がからっぽになった。コランダー捜査官は、胃が縮まる思いがした。十五歳になる自分の息子のことを考えると……ストライフ少年も誰かの息子なのだ……いたたまれなかった。彼は、軽い気持ちで少年を捜査に引っぱりこんだ自分を恥じていた。いくら兵士だからって、彼はまだ少年なのだ。たったの十六年しか生きていない。捜査官は、ため息をついた。
 シュミット捜査官から、まもなく連絡がきた。
「今日フラットに入った清掃員は、クルスでした。誰が証言したと思います? あのへんをねぐらにしてる浮浪者です。そいつは、毎朝ゴミ収集車が来る前に、ひと通り使えるものがないかチェックするんだそうですが、そのとき、裏口から中に入ってくクルスを見かけたそうです。見たことのないやつだと思って、注意して見てたと云ってます。僕は信憑性があると思いますね。あの鼻は間違えようがない、って云ってましたから。同感でしょう?」
 もちろん、コランダー捜査官も同感だった。ストライフ少年は、おそらくそいつを見かけて、追いかけていったのに違いない。彼はシュミットに、いったん戻ってきてくれるように伝えると、電話を切った。いったい、少年はどこへ行ってしまったんだろう?

 ひとり捜査局をあとにしたセフィロスは、まずチョコボを一頭調達するため、ゲインシュタルトさんのところへ出向いた。ゲインシュタルトさんはチョコボ舎にいて、わんさといるチョコボの世話をしていたが、セフィロスを見るとにかっと笑ってパイプの煙を吐き出し、さっそく一頭のチョコボのところへ連れて行ってくれた。
「ケルバを貸すよ。うちの稼ぎ頭だけど、今日はほかのやつを連れてくから、まあいいさ。こいつなら、どこへでもちゃんと行ってくれるからな」
 セフィロスはケルバに親しみをこめて挨拶した。ケルバは首をちょこんとかしげて、挨拶を返した。それから、誰かを探すようにあたりを見回した。ゲインシュタルトさんは大声で笑った。
「こいつ、あの坊主がいないかなって思ってるんだ。元気にしてるだろうな? あの坊主は」
 セフィロスは、おかげさまで嫌になるくらい元気だと云った。ゲインシュタルトさんは、また大声で笑った。
「夕方までには戻ります」
 セフィロスは云い、ゲインシュタルトさんと握手をして、ケルバを走らせはじめた。今日の調査は、遺跡までの道のりの下見という大事な役割を兼ねている。教授たちは最新のGPSや、詳細な地図やなんやかやで武装しているだろうが、それを追う捜査局の面々は、遺跡調査などしたこともないド素人、それがどこにあるかすら正確に知らないのだから、下手をすると迷子になってしまう。かといって、教授たちに気づかれるほど近づいて移動するのもまずい。作戦を立てるのは簡単だが、実行するのはなかなかやっかいなのだ。クラウドが読むような冒険もののマンガなどでは、こうしたやっかいなところはぜんぜん書かれない。だから、だいたいの少年たちは、いざそれと似たようなことが現実に起こったとき、そのあまりのやっかいさにびっくりしてしまうことになる。
 街を出てしばらくすると、黒々とした針葉樹林が鬱蒼と生い茂る森に入る。セフィロスは方位磁石と自分の勘と地図を頼りに、ケルバを走らせた。ケルバはほんとうに頭のいいチョコボだった。セフィロスの指示通りに動くが、ちゃんと自分の頭でも考えていて、走るのにふさわしくないようなところはしっかりよけて走る。たとえば、沼地のそばのぬかるんでいるようなところとか、クマが冬眠している穴ぐらのそばなんかは、事前に察知して、絶対に近寄らない。セフィロスは彼のことを信頼して、ただ方角だけ伝えて、あとはまかせることにした。チョコボの背に乗っての逍遥……セフィロスにはそう思えた……は非常に心地良いものだった。森の冷たく澄んだ空気が彼の鼻腔を刺激し、雪のにおいや、木のにおいを運んでくる。流れてゆく景色はどこまでも静かな森の木々を中心として、ときおりその中に枝のあいだを走るリスや、小さな鳥の羽ばたきが加わる。途中に、ごつごつした岩のあいだから滲み出た小さな泉があった。セフィロスはケルバと一緒にひと休みした。ケルバは水を飲むと、ゲインシュタルトさんからあずかってきた特製の飼い葉をもりもり食べた。セフィロスは微笑し、泉の湧き出る小さな音に耳を傾けた。岩に貼りついたビロードのような苔があんまり美しいので、セフィロスはついそれに見とれてしまった。苔は、自然の芸術品である。こんなに美しい色を、いったい誰にも教わらずに、苔はどうしてひとりでに身につけることが出来るのだろう?
 ケルバが十分に休んだと見ると、セフィロスは再び出発した。森を抜けてはまた別の森に足を踏み入れ、しばらく走ると、突如として目の前に大きな石造りのピラミッド型の神殿が現れた。ケルバはびっくりして短く「クエッ!」と鳴いた。セフィロスは彼の首を撫でて、落ちつかせた。
 古代種たちは、世界各地に似たようなピラミッド型の神殿をいくつも作っているのだが、壮大なピラミッド型の中へ入って行くと、広い円形の部屋がひとつあるきりだ。古代種たちの神殿は、地下に向けて広がっている。だがそのほんとうの姿を見るためには、まず入口を見つけるための摩訶不思議なしかけを解かなければならない。遺跡の謎に挑戦して、その段階でもう諦めてしまった連中も、たくさんいる。
 古代種たちは、偉大なる叡智の持ち主だった。彼らは現代の文明でも理屈を説明できない、さまざまな技術を用いることができた。映像は、古代種文明を研究する際のキーだ。彼らは、なにかものを映す道具、ものが映るものを非常に神聖視した。鏡や水面なんかがそうで、彼らはそういったものに、なんらかの方法で、記憶を映像化して宿しておくことができた。あるいは、思考を、思念を、直接焼きつけるようにして保存しておくことができた。そういう技術があったために文字を持たなかったのか、それとも文字を持たなかったゆえにそういった技術を開発したのか、そのところはわからない。だいたい、文字を発明する文明のほうが特殊なのだ。古代種は、一種のテレパシーを操るサイキック集団だった、という専門家もいる。真偽のほどはわからないけれど、現代人が活用できないなにか別のエネルギーを、活用していたことは事実だ。
 セフィロスはケルバから降りて、神殿の前に立ち、非常に敬虔な気持ちで、胸に手をやって一礼した。こういうものを見ると、借り物の力で繁栄する現代の人間生活など、しょせんはまがいもののように思われてくる。ほんとうの力とは、エネルギーとは、なにか人間の意志を超えたもの、人間が、自らの我を捨てた先に、導かれるところにあるのではないだろうか? セフィロスは、確かに一種の力を持っている。けれどもそれは、所詮人間が自分の頭だけを頼みにして、狭い範囲で考えた理屈から導き出されたものにすぎない。そして、人智を超えた力は、こちらが手を伸ばせば、すぐにその手を取ってくれるような、そういうところにあるのではないだろうか? 人間は、もっと人間以外の力を、受け入れるべきではないだろうか……自分たちが一番えらいなんて、うぬぼれていないで。
 セフィロスはケルバを連れて、神殿の中へ入っていった。勇敢なケルバは、真っ暗な建物の中へ入っていくのでも、物怖じしなかった。チョコボは困るだろうが、セフィロスは真っ暗でも別に問題はないので、少し首を傾げて目があたりに慣れるのを待っていると、ふいに明かりがともった。壁にとりつけられた松明が、ひとりでに赤々と燃え出したのだ。セフィロスは眉をつり上げて驚きを表したが、そこまで驚いたわけでもなかった。この神秘的な神殿では、ありうることだ。ケルバは驚いたようで、さかんにあたりを見回していたが、パニックは起こさなかった。優秀なチョコボだ。
 炎のゆらめきとともに、大きな円形の広間が浮かび上がった。中央に、石碑のようなものが置かれている。文字は書かれていなくて、なにやら暗号のような不思議な記号が書かれているだけ。セフィロスはそれに近づいて、まじまじと眺めた。それこそ、石碑の方で恥じ入ってどこかへ逃げ出してしまうくらいまじまじと、時間をかけて眺めた……彼はいつも、新しいものを見るときはそうするのだ。不思議なのは、石碑よりもその台座部分だった。淡く光る三つの丸い石がはめこまれている。セフィロスはそのぼんやりとした輝きに惹かれて、触れようとしてためらい、腕を引っこました。触れてしまったら、なにかが動き出しそうな気配を感じた。セフィロスは唇に指を当ててしばし考えこむと、部屋の中を一周して、そうして外へ出た。
「見て回りたいのはやまやまなのだが」
 セフィロスは出がけに、石碑に向かって申し訳なさそうに云った。
「一度、戻って報告しなくてはならない」
 彼はかわりに、神殿のぐるりを回って、あたりの景色を頭に焼きつけておいた。ひとが隠れられそうなところを探したり、物騒な装置がないか調べるだけでひとまず満足し、来たときと同じようにケルバに乗って……否今度はもう少し早足で、帰った。
 せっかく訪問者が来たので松明まで燃やしたのに放っておかれた神殿は、怒って「ん、もう!」くらい云ったかもしれなかった。
 街が近くなってきたとき、携帯がぶるぶる震えだした。ザックスからだった。
「ボス、ボス〜! ようやく通じた! おれ、もう心臓がちぎれ飛ぶかと思ったよお!」
 わめきたてるザックスを落ちつかせ、聞き出した内容にセフィロスは愕然とした。
「……鏡のことも問題だが……クラウドが消えた?」
 そう云うのが精一杯だった。
「そうなんだ! あのばかたれあんぽんちん! おれ、実はいま、もう捜査局に戻ってきてるんだ。あのカドバン准教授も一緒。だから、ボスもすぐにこっち来てくれない? クラウドのことはいま、捜査局のひとたちが探してくれてる。まだみっかってないけど……」
「すぐ行く」
 セフィロスは電話を切り、ゲインシュタルトさんのところへチョコボを返しに行った。
「明日もよろしくお願いします」
 セフィロスはケルバの背中を叩きながら、ゲインシュタルトさんに小さく頭を下げた。捜査局で、神殿へ向かうのに、ゲインシュタルトさんのチョコボ車を使うことにしていたのだ。
「おうよ、なんてこたあないさ。仕事だからな。七時半に、捜査局の前でいいんだな? ケルバはしっかり休ませとくよ」
 そのケルバは、なんとなく不安そうな顔でセフィロスの胸に頭のとさかをぐりぐり押しつけてきた。
「おいおい、どうしたんだ? こないだから、しょうがねえやつめ。別れるのがつらくなる癖でもついたのかな」
 セフィロスはまた首をなでてケルバを安心させると、大急ぎで捜査局へ向かった。

 クラウドは相変わらずニッカポッカ姿のまま、大通りを歩いていた。格好が古風なくせに妙にかわいらしく見えるその姿に、何人かの奥様が振り返って、微笑みを寄せた。でもクラウドはそれどころじゃなかった。しかめっ面をして、ポケットに手をつっこみ、太った奥さんの前を行くふたり組に細心の注意を払っていたのだ。
 ふたり組は、しばらくひと通りの多い大通りをぶらぶらと歩いていたが、やがて、ひょいと細い路地を左へ入っていった。クラウドは、少し遅れてついていった。それからは、ふたり組はしばらく細い路地を右へ左へ歩き続け、貧民窟とまではいかないが、ずいぶんさびれた、貧しい感じのする地区へ入っていった。
「まいったなあ」
 クラウドは思った。
「こんなとこじゃ、おれのおろしたての服が目立っちゃうよ。しょうがないなあ。あとでちょっと転げ回るか」
 ふたりは、まもなく小さなアパートに入っていった。みすぼらしい、二階立ての建物で、まわりを生垣に囲まれている。一階の半分に管理人夫婦が住んでいて、部屋を週決めで貸し出しているようなところだ。クラウドはここがふたりのねぐらに違いないと思った。きっと、一週間か二週間で部屋を借りておいたのだ。でも念のため、ちょっとあたりをぶらつくふりをして、そのアパートを観察した。
 石造りの古くさい建物で、屋根はくすんだ小豆色をしていた。玄関ドアの横に小さな表札が出ていて、「エドモンド」と書いてある。部屋は、おそらく一階にふたつと、二階に四つ。表札の下に、ポストが並んでいるのが見える。せめて、あれを覗けたらなあ、とクラウドは思った。でも、そうするには建物に近づきすぎるし、そんなことをしたらあやしいと思われてしまう。例のふたり組が見張っているかもわからないのだ。クラウドはうなった。これからどうしよう? いったん、捜査官たちに連絡して、ここへ誰かを派遣してもらう方がよさそうだ。きっとピルヒェさんも心配しているに違いない。セフィロスに夕方まで帰ってこいと云った手前、自分が帰らないのはなんともかっこわるいことだ……。
 クラウドはふいにびくっとして、あわてて通りの角にかくれた。アパートから、例のふたり組が出てきたのだ! こっちへ歩いてくる。彼らは、クラウドの鼻の先を通り過ぎた。こんな会話を交わしながら。
「兄貴、あの鏡、置いてきちゃって平気なの?」
「うるせえなあ、ほんとに。胃に穴空けて死んじまえよ。一杯ひっかけるくらいの時間、どってことねえよ」
「ほんとかなあ。心配だなあ」
 これって、チャンスなんじゃないだろうか? クラウドは頭をフル回転させた。いま、鏡はあのふたりの部屋にある。そんなに部屋数が多くない建物だ。どこかから忍びこんで、探すことはできないだろうか? 彼の頭はすぐに「やってみる」の方向に傾いた。一杯ひっかけるってことは、そんなにたくさんの時間があるわけじゃない。捜査局に連絡して、どうのこうのしていたら、ふたりが帰ってきてしまうかもしれない。
 彼は建物を一周してみることにした。でもその前に、一応あたりを「転げ回」って、せっかくのおろしたての服をちょっとばかり汚しておいた。クラウドがどんなふうに服を汚したかは、小さい男の子を少しでも観察したことのあるひとならすぐにわかるだろう。それから、彼は建物に近づいていった。側面に、小さな木のドアが見えた。裏口に違いない。鍵はかかっているだろうか? うまい具合に、あたりには誰もいない。ちょっと行ってみよう。
 クラウドは用心しいしい、生け垣の下をくぐって敷地内に進入した。帽子が落っこちたので、あわてて腕を伸ばして拾った。頭に葉っぱがくっついてしまったから、指先でつまみとった。耳当てをしてこなくてほんとうによかった。きっと、どこかで落っことして永遠に行方不明になっていたに違いない。
 一度あたりを見回してから、裏口のドアノブへ手をかけて、そっと回してみた。開いた! クラウドは心の中で万歳をした。でもまだ油断は禁物だ。家の中のひとに見つかって、どなた? なんて云われたらおしまいだ。クラウド・ストライフです、なんて云ったって、通じるわけがない。
 クラウドはそっとドアから中をのぞきこんだ。細い廊下をはさんで、左側が大家さんの部屋らしい。右側には階段と、部屋がふたつ。ひとつの部屋には、かわいらしいふちどりがついた木製の表札がかけてあった。男性名と女性名が並んでいるから、たぶん夫婦か、恋人が住んでいるのだ。もうひとつの部屋には、そういうものはかかっていなかった。クラウドは二階へ回ってみることにした。これで、階段がみしっ、とか、ぎしっ、なんて云おうものならおしまいだなあ、と思いながら、クラウドは足がしびれてくるくらいものすごい注意を払って、抜き足差し足階段を上った。
 二階は、左右にふた部屋ずつ、合計四つの部屋があった。左側の奥の部屋と、右側の手前の部屋に表札がかかっている。あとのふたつはなし。クラウドは、左側の表札のない部屋の前に、映画で見たウータイのニンジャみたいな忍び足でにじり寄って、ドアに耳をくっつけた。なにやら、ぼそぼそと話し声が聞こえる。「そうは云ったって、このところ仕事がねえんだ、わかんだろう……」「でも、よそのお宅じゃなんとかして働いてるもんよ……」「てめえみてえな世間知らずにゃ、わからねえんだよ……世間ってのは厳しいんだ……」
 もしこれが夫婦喧嘩だとしたら、ずいぶん覇気のない喧嘩だった。ふたりの声は、疲れていた……クラウドは、そっとその場を離れた。おとなになるって、いやだなあと思いながら。
 続いてクラウドは、もうひとつの表札のない部屋のドアに耳をくっつけてみた。中はしんと静まり返っている。クラウドは、鍵穴から中を覗けないかやってみた。小指の先指先くらい小さな穴から、なんとか見えた。部屋の中には、男ものの衣類やスーツケースが雑然と置かれていた。長く住んでいるひとではなさそうだ。それにしては、ものが少なすぎる。ところかまわず脱ぎ捨てられた服の中に、見たことのある清掃員用のつなぎ服を見つけて、クラウドの心臓は跳ね上がった。ここが、あのふたり組のアジトなのだ! クラウドはドアから身体をはなして、そうして一度あたりの様子をうかがった。ほかの部屋からは、誰も出てこなかった。誰かが入ってくる気配もなかった。クラウドはドアノブに手をかけてみた。ドアが開いた! 無用心すぎやしないか? 一瞬そんな疑問が浮かんだ。だって、自分たちが盗んだものを置いておく部屋に、鍵をかけ忘れるなんてこと、あるだろうか?
 突然、みしっという床がきしむ音がして、クラウドははっとして振り返った。背後の光景を認識する前に、頭にものすごい衝撃を感じて、彼はその場に伸びてしまった。

 上司から大変責任重大な任務を任されたライオネル捜査官は、きわめて緊張した顔をしながら、すぐさま車で教授が滞在するフラット付近へ駆けつけた。そうして、まずはフラットの前から、大通りをよく観察した。通りはホテルや店が立ち並んでいて、ひとがひっきりなしに右からも左からも、どうかすると斜めからもやってきた。いちじるしい道路交通法違反に、捜査官はしかし、いきり立つひまがなかった。それ以外のことで頭がいっぱいだったからだ。決意したら一直線の生真面目なひとによくあることだが、捜査官もひとつのことに集中すると、周りのことが見えなくなってしまう傾向にあった。それで、普段なら頭からけぶを出して怒るような交通ルール違反にも気がつかなかった。
 だがそのやや偏りのある傾向の埋め合わせに、彼はたいへんねばりづよい性質を持ち合わせていた。フラットの斜め向かいにあるカフェバーに狙いを定め、カウンターへ行ってホットココアを注文し(彼はアルコールを飲まないし、コーヒーも飲まない……胃が痛くなるからだ)、ついでに自分の身分証をさりげなくボーイに見せて、金髪のニッカポッカ姿の少年か、もしくはおそろしく特徴的な鼻をした小柄な男を見なかったか、と訊ねた。
「さあ」
 まだ若いボーイは、風邪をひいているのか鼻をぐずぐずさせながら、考えこむような顔をした。
「でも、イーダさんなら知ってるかな……レジ叩く以外は一日中外ばっかり見てるから……それに記憶力がすごくて。イーダさん!」
 レジの前の椅子に座りこんでぼんやりしていた中年の女が顔を上げた。ボーイが手招きすると、彼女はいますぐに会計に来そうな客がいないことを確かめて、小太りの身体をひょこひょこさせてカウンターへ歩いてきた。捜査官は、身分証を見せ、丁寧に挨拶した。
「ああ! 見たと思うわよ。あのかわいらしい子のことじゃない? 十一時すこし前のことでしょ? ちょっと時代遅れみたいな服だったけど、結構すてきに決まってた。通りを、左の方へ行ったわよ。ああいう息子なら、ほしいわねえ。うちのは図体ばっかり大きくなって、頭はからっきしだし、ぶきっちょで運動オンチで……」
 イーダさんはいいひとなのだが、口を開くとひとり息子の不平不満ばかりこぼすので、ボーイたちはちょっと決まりの悪い思いをしていた。それに、イーダさんがほんとうは息子のことを自慢したいのか、こきおろしたいのか、彼らはしょっちゅうわからなくなった。もしも誰かが、イーダさんの息子の文句に対して、「そりゃあんまりですね、ちょっとひどいですよ」などと云おうものなら、イーダさんはむっとして、レジを壊しそうな勢いで叩くし、会計は間違うしで、散々なことになるのだ。でもそれ以外に関しては、イーダさんはだいたいのところ、陽気ないいひとだった。
 捜査官はイーダさんとその息子についてあんまり深入りしないうちに、あわてて勘定を払って店を出た。そうして、イーダさんの記憶を頼りに左へ進んでいった。それからしばらく、実りのない聞きこみが続いた。飾り窓があって、店内から外がよく見えそうな店を見つけると必ず立ち寄って、聞きこみをしてみるのだが、そこまで注意して窓の外を見ていたひとはいなかった。しかし彼はめげなかった。通りの左右を店をくまなくチェックしながら、辛抱強く話を聞いて回った。そしてついに、彼は次の手がかりを得た。ブティックの若い女店員からだ。
「あたし、そのときちょっと窓をお掃除しながら外を見てて。さぼってたってわけじゃないですよ。ちょっと、あれだっただけ。あのかわいい男の子でしょ? あたし、今日ラッキーだったなって思いました。ほら、きれいな男のひと見ると、ちょっと気持ちが、あれになるっていうか。この仕事、あんまり好きじゃないから。ほら、こういう仕事って、立ち仕事だし、ちょっとあれで。その金髪の子なら、あそこの角を左に曲がっていきましたよ。あの、糸みたいに細い路地。向こう側の町に抜けるのに便利なの、あの通り。あたしもたまに、お使いで使ってて。かなり狭くて、あれだけど」
 彼女が多用する「あれ」の正確な意味は、わからなくてもライオネル捜査官にはいっこう差しつかえなかった。彼は女店員の云う路地へ入っていった。確かに糸のように細くて、ひとがすれ違うのに、お互い建物に背中をこすりつけなくてはならなかった。さてここで、捜査官は参ってしまった。路地はつきあたりへ行くと左右にわかれていて、そこからさらにもっと細かい路地にわかれている。そうして、住宅街を抜けて、となりの地区へつながっているのだが、なにしろ住宅街に入ってしまうので、窓の外をぼんやり眺めているような店員は期待できず、聞きこむにしても相当な手間がかかりそうだった。彼は、素直に上司に現状を報告し、動員数を増やしてもらった。シュミットが、ふたたび呼び戻された。そのほか二名の捜査官も加わった。彼らはねばり強く働いた。が、結局決定的な手がかりは得られなかった。薄暗くなるころ、ライオネル捜査官はひとまず、がっかりして引き上げた。

 

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