ある夫婦の一日
セフィロスは五時半にセットされた目覚ましの、ほんとうに小さな音で目覚めた。すぐに目覚ましを止めて、だいたいいつも自分の横に寝ているクラウドをそっと見る。だいたいというのは、クラウドは寝相がとてもいいので、上にのっかっていたり、斜めになっていたり、はみ出していたりするからだ。今回の場合は、クラウドはセフィロスの身体の上に三分の一ばかり乗っていて、すやすや眠っていた。十八年来使い続けているやわらかいバラ柄の枕よりも、男の胸の上の方がいいとは変わったやつだ。
セフィロスはクラウドを起こさないように、そっと彼をベッドに移動させてから、暖かい布団のあいだから抜け出した。
ニブルヘイムは寒いところだ。いまは冬なので、気温は毎日氷点を下回っている。セフィロスは、クラウドの母さん……いまでは自分にとっても母さんなのだが……が編んでくれた暖かいストールを身体に巻きつけて、寝室を出た。鎧戸が降りている廊下の窓は結露していた。彼は音を立てないように慎重に、鎧戸を開けた。外はまだ暗く、朝の澄みきった、ひんやりした空気が流れこんできた。昨夜は、雪が降らなかったらしい。今朝は、雪かきをしないですみそうだ。
高い山の麓にあるニブルヘイムでは、天候はめちゃくちゃだ。山が厚い雲の行く手を遮って、何日もばかみたいな雨を降らせたり、自分の鼻の先も見えない霧を発生させたり、どか雪を降らせたりする。空気はいつも湿っていて、かんかんに乾くということがない。セフィロスは、クラウドの肌みたいだと思う。あるいは、クラウドみたいだとも思う。彼はいつもみずみずしく潤っていて、鮮烈だ。溌剌で、ちょっとばかりやかましく、水の流れのように奔放で柔軟。セフィロスは微笑して、窓を閉め、一階へ降りていった。
家中の鎧戸という鎧戸を開け、物置の横にあるボイラーのスイッチを入れる。このボイラーはほんとうはもうとっくの昔に寿命で、部品を交換しなければならなかったのだが、クラウドの母さんはそれをしてこなかった。叩いたり、蹴りとばしたりすると、なぜかちゃんと起動したからだ。でも、ほんとうにそろそろ限界だとこのあいだ点検に来た技師のひとが云っていたから、今年の冬が終わったら、そのひとを呼んで大々的な修理をしてもらわなければならない。クラウドは、それに立ち会う予定だ。立ち会って、技術を習得し、今度からは自分が修理を引き受けるのだといきまいている。
ぶおおん、という眠たげな声を上げてボイラーが起動すると、セフィロスはなぜかほっとしてしまう。彼は少しのあいだ、たくさんの管や、本体である四角い箱が、ちかちかランプを点滅させながら動くのを見守っている。それから、玄関のドアを開け、ポストにつっこまれた新聞を取り出す。ポストの隣で、大きな雪だるまが胸を張っている。彼はグレゴリウス四世という立派な名前を持っていて、頭には真っ赤なバケツをシャッポ代わりにかぶり、高く立派な鼻はニンジンでできていて、目は石炭の欠片、胸には、きらきらした瓶の蓋の冠が三つついている。ニンジン鼻の下には、クラウドが持っていたおもちゃのつけひげが、ひとかたまりの雪でもってくっつけられている。それがこのグレゴリウス四世に、たいへん格式高い感じを与える。腕は立派な枝でできているので、とても力持ちだ。ちょっとのあいだ、タオルかなんか預けておいても、グレゴリウス四世はちゃんと支えている。セフィロスはグレゴリウス四世に軍隊式に敬礼して、挨拶をする。四世は由緒正しい家柄の出なので、そういった形式を非常に重んじるのだ。
朝の挨拶を済ませると、セフィロスは台所へ行き、クラウドがプレゼントしてくれたふわふわのフェイクファーでできたシュシュで髪の毛を束ね、お湯を沸かしながら、朝食の準備にかかる。クラウドは、冬には毎朝必ずジャガイモが入ったミルク仕立てのスープを飲みたがる。サーモンやたまねぎやにんじん、かぶ、オレンジ色をしたレンズ豆などを入れて、ごとごと煮こむ。お湯が沸いたら、自分のお茶を淹れる……クラウドの母さんが好きだと云った、カモミールのハーブティーで、これはセフィロスの口にもあった。クラウドにはあんまりあわない。
夕べの残りの温野菜を、ちょっぴりのハーブといっしょに炒めることにする。クラウドの母さんが、肉は鳥しか認めないので、クラウドは普段鳥しか食べない。魚はなんでも食べるが、クラウドは酢漬けの魚が好きだ。ニシンなんか、喜んで食べる。これは漬けてあるものを出せばいいから、楽だ。朝には非常に重宝する。ついでにオリーブも出してやることにする。あとは、山羊のチーズとミルク。パンは、クラウドを起こしに行くときに、オーブンへ入れてちょっと温めればいいだろう。
クラウドの起床時間である七時が近づいてくる。部屋の中は、ボイラーのおかげで隅々まで暖まっている。セフィロスはテレビをつけ、チャンネルを朝のニュースにあわせる。天気予報を見るためだ。「ニブル地方北部は、今日は午後から雪になるでしょう。夜遅くにかけて強まる予想です。南部も、夜には雪がちらつくでしょう……最高気温は氷点下六度、引き続き、水道管の凍結にご注意ください……」
居間の大時計が、ボーンという物憂い音を七回繰り返した。さて、クラウドを起こしに行かなければならない。セフィロスはパンをオーブンへつっこんで、二階へ上がっていった。
クラウドは寒いので、布団を身体に巻きつけて丸まっていた。セフィロスは彼の身体を優しくゆすった。
「クラウド、時間だ、起きろ」
クラウドは反抗するように布団の中へ潜りこんでいった。まあ、いつものことだ。再び眠られてはかなわないので、身体をくすぐって強制的に起こす。クラウドはいやがってもぞもぞしていたが、そのうち本格的に目が覚めて、げらげら笑い出した。そうして跳ねるようにベッドから飛び出して、一階のバスルームへ駆けこんでいく。暖かい素材でできた、かわいらしい星柄のパジャマ姿を、セフィロスは見送る。それから、ベッドを簡単に整え、台所へ戻る。オーブンの中で、パンが香ばしい香りをたてて焼きあがっている。セフィロスは取り出し、クラウドが食べやすいように、適当な大きさに切って小さなバスケットの中へ入れ、テーブルに置く。バスケットの下には、忘れずに紙を敷いておく。パンの切りくずも集めて、バスケットの中へ入れる。あとで役に立つのだ。
クラウドが伸びをしながらやってくる。髪の毛は、まだいじくられていないのでぜんぜんしゃきっとしないで、あちこち寝癖がついている。セフィロスはコップに山羊のミルクを入れ、クラウドの目の前に置く。クラウドはそれをぐいぐい飲んで、パンの上にチーズを乗せ、酢漬けのニシンも乗せ、さらに野菜の炒めたのも乗せて、一気にかぶりつく。それから、スープをやたらにかきまぜながら飲む。セフィロスもいっしょに食卓について、同じものを食べながら新聞を広げる。クラウドはテレビのチャンネルをいじって、三十分の生き物ドキュメンタリーを見る。今日はクマゲラの特集だった。クマゲラなら、このあたりにもいる。でもクラウドは熱心に見る。生き物が好きなのだ。
クラウドは、年に似合わず朝食をゆっくり食べたがる方だ。そうすれば出かける時間が後回しになるとでも思っているみたいに、だらだら食べて、のんびりテレビを見て、その気になればおしゃべりもする。セフィロスはたとえば、なにかの手違いで両面同じ印刷になってしまった紙幣が、オークションにかけられ三百万ギルというすさまじい値段で落札されたとか、酪農家のシュザックさんが、刈り取ってあった羊の毛を盗まれたとかいう記事を読みながら、お相伴をする。クラウドは心ゆくまで食べると、ようやく満足して立ち上がる。
食事のあとで、クラウドはパンくずを庭に設置してある鳥の餌台に撒く。ひまわりの種とか、かぼちゃの種とか、そのときあるものもいっしょにする。そうすると、小さな鳥だけではなくて、いろいろな生き物が食事にありつけるからだ。それから、彼は大事なヘアセットのために、バスルームに消える。セフィロスは食卓の後かたづけをする。クラウドがすっかり見慣れたつんつん頭になって出てきたら、いつもだいたい八時半。ようやく出勤準備完了だ。クラウドはいま、隣村にある自分の父さん(ただし義父)が経営している乗り物の修理屋を手伝っている。仕事は、まあまあ繁盛している。このへんには乗り物を修理できるひとは、牛や馬の世話ができるひとほど多くはないからだ。トラックや軽自動車が壊れたとかいう依頼のほかに、耕運機が壊れたとか、除雪機が壊れたとかいう依頼も受ける。この時期は、除雪機の故障が多い。たいがい、雪がスクレーパーにこびりついてしまって動かなくなっているだけなのだけれど、それをとっかかりにしてメンテナンスの受注まで持ちこめたらしめたものだ。クラウドは、そういうのを割合にうまくやる。あどけない顔をして、にこっと微笑まれた日には、向こうが断れない。感じのいい人間の申し出を断るのは非常に困難であることを、クラウドは経験から知っているのだ。それに、このあたりの村にはクラウドのような若いひとが少ない。みんな都会へ出てしまうのだ。だから、クラウドは重宝されて、かわいがられているらしい……少なくとも、隣村では。
「じゃあ、行ってくる。いつも通りに帰るよ……なにもなきゃね」
セフィロスはうなずいて、玄関で見送りをする。クラウドはドアを開けて振り返り、ちょっと胸を張る。セフィロスは彼の額にちょこんとキスする。これはどちらかというと愛情表現と云うよりまじないという性質を持っている。習慣化した行動のひとつで、これをやることによって、あらゆる災いから身を守ることができるのだとクラウドは信じているのだ。なにごとも、信じれば効果がある。クラウドはキスされた額にちょっと手をやって、グレゴリウス四世に行ってきますの敬礼をすると、ドアを閉めて、いなくなる。セフィロスはひとり家の中に残される……彼は、いわゆる専業主夫だからだ。
ストライフ家の収入は、主にクラウドの給料としてもたらされる。クラウドは、そのことに大変な責任とやりがいを感じており、自分は一家の大黒柱だ、と思っている。ゆえに、セフィロスのことをいわば妻だと思っているし、一般的な基準に照らして、セフィロスは大事にされている方だろう。クラウドは、給料日には必ずなにかおみやげを持って帰ってきて、手渡された給料を全部セフィロスに渡す。今日はちょうどその給料日だから、またなにかクラウドからプレゼントがあるだろう。セフィロスは、受け取った給料から食費や光熱費やもろもろをはじき出し、クラウドのお小遣いを捻出する。でも、困ったことにクラウドは買いたいものがとても多い子で、お小遣いが少ないと欲求不満で病気になってしまう。だから、セフィロスは夫に多めにお小遣いをあげ、足りないぶんと自分の買い物は、自分の蓄えでどうにかする。もちろん、ぜったいにばれないように。クラウドは、自分が少なくともふたりの人間を養っているのだと思って、有頂天になっている。そして、それでいいのだ。
セフィロスは台所をきれいにしてしまうと、洗濯に取りかかった。ふたりしかいないから、などと思っていても、衣服以外にもなにかしら洗濯物というのはあるので、結局毎日なにかを洗うことになる。セフィロスは今日は、ありとあらゆるタオル類を洗うことにした。家中のタオルをかき集め、クラウドがこれで洗ったものでなければ着ないと云ってきかない、香りのいい粉洗剤といっしょに洗濯機に入れる。粉洗剤は、お湯で溶かしてから入れなくてはならない。これがまずひと仕事だ。無事洗濯機ががーがー云いだしたら、今度は家中をきれいにして回る。ものが多いので、ちょっとさぼるとすぐにあちこちほこりまみれになってしまう。二階もあって広いから、楽な仕事ではない。クラウドの部屋から続いている屋根裏は、いつもどうしようか迷う。クラウド以外立ち入り禁止なのに、クラウドは屋根裏がきれいになっていないと、むっとするからだ。セフィロスは試しに天井の穴から目だけ出して、そっと屋根裏をのぞいてみた(目だけなら、進入罪には当たらない可能性が高いと思われたからだ)。クラウドは昨日ここでなにかやっていたようだが、ぞっとするほど汚くはなかったので、セフィロスはその場を離れた。
リビングにいる大きな塩ビキリンのパラニッケさんには、特別丁寧にはたきをかける。世話になっているからだ。彼女の優しい微笑をたたえた顔を眺めていると、いいことを思いつくことがある。それはパラニッケさんの力だとセフィロスは、それにクラウドも、信じている。部屋中をきれいにして回っていたら、電話がかかってきた。この家には固定電話は引いていない。クラウドといっしょに加入した携帯電話だけだ。セフィロスの番号を知っているひとは、ごく限られている。彼は掃除の手を止めて、電話を見た。クラウドの母さんからだった。
「もしもーし! 婿ぉ? あのさあ、あんた、朝あの子になに食べさした? 昼のメニューかぶったらかわいそうでしょ?」
セフィロスは朝食のメニューをこと細かに伝えた。母さんはいちいちメモして、確認のために繰り返した。クラウドは、昼食は母さんのところで食べるのだ。自分の、義理の父さんといっしょに。クラウドの母さんはだから、午前中からせっせと昼食の準備にかからなくてはならない。まだ小さい赤ん坊が、なんだかんだとわめく中で。
「ほんとにさ、女なんて哀れなもんよ。楽じゃない。でもまあ、結局楽しんでるわけだけどね。そうじゃない?」
クラウドの母さんはそう云い残して、電話を切った。通話時間二十七分十六秒。クラウドの母さんは、長話が得意だ……。
昼食は、食べたり食べなかったりする。その日によって違う。食べなければいけないようなものがある日は、それを消費するために食べる。そうでない日は、意地でも食べようとは思わない。この日は、クラウドが朝食の際に食べかけで残したチーズを消費しながら、ゆっくりと本を読んだ。ウータイの詩人が、冬のある一日を紙面の上に鮮やかに描き出している。セフィロスはときどき窓の外を見て、自分の目の前に広がる雪景色と比較しながら、ウータイの冬を想ってみたりする。静かだ。雪が降る田舎の冬は、どこもうんと静かなのだ。大時計の針がこちこち云う音と、セフィロスが本のページをめくる音だけが、静けさの中をつらぬいて響き渡る。この時間が、彼はたまらなく好きだ。午後の、物憂いひととき。彼はひとりきりで、家の中に残されている。手の中には愛すべき本がある。そして傍らにはお茶。ボイラーが懸命に仕事をして、部屋中を暖かく満たしている。雪が降りはじめた。セフィロスは立ち上がって、地下の貯蔵庫へ降りていった。
地下には、秋までに収穫した野菜が眠っている。イモやかぼちゃ、キャベツ、大根、ネギ、ニンジン、それに乾燥させた豆類。昔のようにあらんかぎりの食料を冬になる前に蓄えておく必要はないが、それでも、このあたりのひとたちは燻製や塩漬けをこしらえて、地下室にどっさりためこんでおく。それはどこか、冬眠を思わせる。腹を膨れさせたクマの、満ち足りた冬眠。季節がひとつ過ぎるのをなにも知らずに、夢のなかで過ごす。そういう幻想に、似ている。
セフィロスはひとつの感慨に囚われながら、野菜をいくつか取り出した。この地下室には、秋の終わりごろから猫が住みついている。年をとったぶちの猫で、クラウドがミセス・マーシャと名づけた。猫の世界には人間のようなオールドミスという観念は存在せず、一定の年齢になったら子どもを産む、だから、年をとったメス猫はみんなミセスなのだ、とクラウドは力説した。セフィロスはそのとおりだと思った。そして、ミセス・マーシャがなんだか生まれたときからミセス・マーシャという名前だったみたいな気がした。この名前は、それほどミセス・マーシャにぴったりだった。
ミセス・マーシャはひとになつかない誇り高い猫で、単に冬の寒さをやりすごすために、間借りをしているにすぎない。実に義理堅い店子で、地下室のすみっこにあたたかい寝床を用意してもらったお礼に、ネズミをとってくれる。これは、たいへん助かることだ。だからセフィロスもお礼に水をあげて、こっそりキャットフードを置いておくが、ミセス・マーシャは食べ物の方はごくたまにしか受け取ってくれない。たぶん、プライドの問題だろう。
セフィロスは地下室を出て、夕食の準備をはじめる。さっきまで弱々しく落ちてくるだけだった雪は、大きな牡丹雪になっている。これは積もりそうだ。明日の朝は、どうしたってふたりで早起きして雪かきをしないとならないだろう。
今日は、クラウドの待ちに待った給料日だ。だから、お祝いをしなくてはならない。封筒に入ったちょっとばかりの札と、小銭。それがふたりの生活を、少しだけ豊かに彩る。セフィロスは、クラウドの母さんに教えてもらったチェリーパイを、いっしょに作ることにした。クラウドが好きなのだ。それと、卵がのっかったガレットと、スライスしたイモが入ったグラタン。サラダは寒いから、野菜はオーブンで焼くことにしよう。今日は、クラウドの好きなもので食卓を埋め尽くすのだ。
四時半を過ぎると、あたりはもう真っ暗になる。セフィロスは家の明かりをともす。火のついたろうそくを持って外へ出て、玄関先のランプに火を入れる。真っ暗な外に、オレンジの光が放たれているさまを、セフィロスはすこしのあいだ見つめる。真っ白な雪がいまは夜の暗闇に舐め上げられて、灰色を帯びている。そこに揺れるランプの火影。セフィロスは幻想的な気持ちになって、いまにもそこに幻想世界の住人が現れるのではないかと思う。
クラウドは五時半には帰ってくる。冬場は、長いこと店を開けていても商売にならないらしい。彼は今日は、ひどく上機嫌だった。グレゴリウス四世に帰宅の敬礼をして、自分の頭や服に積もった雪を払い、犬みたいに身体をぶるぶると振って、ようやくドアから家の中へ。セフィロスは当然、出迎える。出ていったときと同じように、額にキスして、数時間前にかけたまじないを解く。
クラウドは夕食の前に、給料が入った茶封筒をセフィロスに差し出した。封筒には、「おきゅうりょう」と特徴のある字で書かれ、モーグリのシールが貼られている。セフィロスはうやうやしく、頭を下げて受け取る。
「ありがたきことかな。これはわれわれの、またひと月の命の糧でございます」
クラウドは胸に顎が着きそうなほど深くうなずきながら、うむ、と云う。
「その重み、忘れるでないぞ」
「しかと心得ておきます」
そうして、セフィロスはその封筒を、大事に専用の引き出しへしまってしまう。それから、夕食だ。クラウドはセフィロスに小さな箱を手渡した。なめし革で作られた、モスグリーンに金箔の蔦模様がプレスされているきれいな栞だった。クラウドは給料日のたびに、こういうちょっとした贈り物をよこす。もしかすると、彼は想像以上にいい亭主になったかもしれない。彼と同じくらいの歳の、どこかのきれいな女性にとっての。セフィロスは胸がいっぱいになりながら、微笑して、礼を云う。気恥ずかしい時間はそれでおしまいだ。ふたりは乾杯して、労働と給料万歳を云い、クラウドは猛然と食事に襲いかかる。
「そういえば、社員旅行の案内が来たんだ」
クラウドが四角く折りたたまれた紙をテーブルの上へ乗せる。セフィロスはそれを広げてみる。社員といっても全従業員二名だから、案内は手書きだった。先の「おきゅうりょう」と同じ特徴的な文字で、次のようなことが書かれていた。
社員旅行のお知らせ
じゅうぎょう員増員にあたり、わが「陽気な乗り物組合」社も、いあん旅行制度をどう入することに決定いたしました。今年は売上が大はばに黒字に転じましたので、どーんとミディールあたりへ、一週間くらい行ってしまう予定。家族同はん可。時期は、もっとも寒さきびしい二月を予定しています。ふるってご参加ください。
どうやらこの「陽気な乗り物組合」社社長は、あまり字を書くのが得意ではないらしいのだ。その割に、手書きのお知らせがやたらと多いのはひとつのミステリーだ。
「で、おまえは参加するのか?」
セフィロスはからかうような声で訊いた。
「まあ、半分社長命令だからね」
「家族は同伴させるのか?」
「まあ、それも社長命令みたいなもんだからね」
「一週間も店を閉めて、平気なのだろうか?」
「平気なんじゃない? あの店がなきゃないで、なんとかするよ、このへんのひとたちは」
セフィロスはそれもそうかもしれないなと云った。
セフィロスが風呂から上がってみると、先にパジャマ姿になっていたクラウドがソファでうたた寝をしていた。テレビのリモコンを握ったままで、チャンネルはとっくに淡々としたニュース番組に切り替わっている。セフィロスはそのリモコンをそっと抜き取り、テレビを消した。そうして、家中の鎧戸を閉めて、玄関のランプを消し、グレゴリウス四世におやすみの敬礼をした。グレゴリウス四世は、相変わらずしゃきっとかっこよく立っていた。それから、セフィロスはクラウドを抱き上げ、リビングの電気を消した。クラウドがちょっともごもご云った。セフィロスは階段を登りながら、「ん?」と問いかけた。「んんーん……」という、よくわからない答えが返ってきた。
ベッドにクラウドを横たえて、セフィロスはしばらく本を読んだ。やがて、夜も更けてきたので、セフィロスは本のあいだにさっきプレゼントされた栞をはさんで、サイドボードの上に置き、明かりを消して、布団のあいだに潜りこんだ。クラウドの体温は眠っているために高くなっていた。セフィロスは微笑して、彼の身体を抱き寄せ、枕の上で好き勝手な方向に散らばっている金髪にキスすると、目を閉じた。
明日の朝は、クラウドといっしょに五時には起きなくては。そして、ふたりで雪かきをする。グレゴリウス四世に、そろそろ子どもができてもいいのではないか? それを、明日の朝起きたらクラウドに伝えてみよう。社員旅行の案内について、明日クラウドの母さんにどう思うか訊いてみよう。しかし、栞というのは気の利いたプレゼントだった。クラウドは、なんていい子なのだろう…………それから…………
セフィロスは、眠りの中へ知らぬ間に船を漕ぎだしていた。