腕枕
クラウドは枕が変わると眠れないといってきかない。意外に繊細な子なのだ。ぜんぜんそう見えないけれど。彼は実際、どんなにことを楽しんだあとだって、ちゃんと枕に頭をあずけて眠る。そのままこちらの腕でなんてかわいいことはしない。「おれ、この枕じゃないとだめだから」彼はそう云う。セフィロスは、ほんとうはちょっとだけそれを疑っているけれど、確かめたことはない。まだ同棲して日も浅いし、セフィロスはクラウドと違って、いきなりそこまで不躾にもなれない。
クラウドの枕は、ニブルから持ってきた筋金入りで、ひとことで云えばカバーがものすごくダサい。クラウドもそれはわかっていて、わざと面白がっている。白のカバーにはなんとなくダサいピンクで、油絵タッチのバラがいくつも描かれている。とても古くさいデザイン。おまけに白いレースのふちどりがある。完全に女性用。これは母親が結婚したときに誰かからもらっただかなんだかした、というはなはだ曖昧な経歴を持っていて(つまりその程度の存在なのだ)、二年ばかりしまわれていたのだが、クラウドが生まれたときに無事思い出され、使用されるに至った。カバーは実際のところ、十五年近くクラウドの金髪を受けとめ続けてきたので、少々くたびれている。すり切れてしまっているところもあって、そこにはびっくりするくらいかわいくないクマのワッペンが貼りつけられている。「母さんのいやがらせだよ」とクラウドは云っていた。
「おれ、これに穴開けた日、ズボンの上から母さんの勝負下着はいておどかしたんだよね、母さんのこと。うちの母さんめったに怒らないんだけどさあ、さすがに勝負下着タンスから引っぱり出されたのには参ったみたい。いっぱい持ってるんだよ、母さん。そもそも、勝負下着大量に持ってる母親ってのはどうなんだ、って話もあるにはあるけど、でも、ほら、うちの母さんまだ若いからね。普段からスッケスケのパンツとかはくしね」
セフィロスはその話を聞いたとき、なんだか頭を抱えたくなった。いろいろな意味で。すごい親子だ。息子に勝負下着の存在を知られている母親と、知っていてふざけて自分がはいてしまうような息子。でも、クラウドの枕にはそうした母子の楽しい思い出が、いくつかつまっているわけだ。クラウドは枕に顔を埋めるとき、実際とても安堵した顔になる。そうして一分と経たないうちに眠ってしまう。投げ出された金髪と、ダサいバラ柄の枕。そのコントラストを、セフィロスはもうすっかり見慣れてしまった。そうして枕の上で真摯に眠る、クラウドの顔。
事件が起きた。セフィロスはある日気を利かせて、彼の枕カバーを洗濯してあげた。なぜか、枕カバーだけなかなか洗おうとしないので。衣類にやさしい漂白剤にちょっと浸けこんで、新品みたいにきれいにした(色あせた色は戻らないけれど)。セフィロスはとても満足して、それを日陰に干した。クラウドが帰ってきたとき、セフィロスは枕カバーについてなにも云わなかった。クラウドが風呂に入っているあいだにでも取りつけて、寝るときに、きれいになったやつを見てびっくりでもすればいい。そういうのは、すこしわくわくする。
クラウドがやかましく風呂へ行ったので、セフィロスはこっそり干してあった枕カバーを引っぱり出して、慄然とした。まだ乾ききっていない。これは、ちょっと由々しき事態だ。いろいろな方法が頭をかすめる。ドライヤー、人力回転、大急ぎで振り回す。でもそんなことをして、万が一にも生地を痛めたら、クラウドはそれこそ一ヶ月くらい家出して帰って来なさそうだった。なぜこんなに乾いていないのだろう、天気は良かったのに、と考えて、セフィロスは今日は寒かったのだということに思い当たった。体温調整が抜群の身体は、これだからいけない。ちょっとやそっと気温が高かろうが低かろうが、てんで問題にならないから気がつかない。これは、正直に云わなければならならない。
クラウドは当然ものすごく怒った。なんで勝手に洗濯するんだよ、生地が痛むからたまにしかやっちゃだめなの、おれこの枕、一生使わないといけないんだから、ちょっと考えろよ、ばか。セフィロスは、カバーくらい替えればいいのではないかとほんのすこし思ったが、いやいやクラウドにとって問題はそこじゃないのだ、彼はこのカバーのついたあの枕でなければ眠れない(と主張している)のだから、と思い直した。これはまったく思慮が足りなかった。謝ったけれど、クラウドは当然ながら許してくれなかった。
「おれの睡眠を返せ。もう。おれ生まれてこのかたあの枕以外で眠れたためしがないのに。学校のお泊まりなんて散々だった。ちっとも眠れなくて、おれ次の年から出るのやめたもん。どうしてくれるんだよ。ばか、ばーか。あんたなんかベランダから落ちればいいのに」
でも落ちてもたぶん怪我しないし、ああもう、いらっとするなあ、とクラウドは顔をしかめて云った。セフィロスは、罰としてネットで「サボテンときのこ栽培セット」を購入しておくことを約束させられた。クラウドはそれでちょっと気が晴れたのか、一応眠るように努力してみる、と寝室に向かい、ベッドに横になった。
「あんた、枕の代わりしてよ。しょうがないから、あんたでがまんする。でもぜったい寝られない。わかってるんだ。無理だよ」
セフィロスはちょっと眉をつり上げて、クラウドのとなりに横になった。クラウドは彼の腕をとって、自分の頭の下につっこんだ。
「硬いなあ。無理だよ、やっぱりこれじゃ。あんたどこもかしこも硬いもんな。女の子ならきっと柔らかいのにな。おれ、選ぶひと間違えちゃったなあ」
ぶつぶつ云っていたクラウドが、急におとなしくなった。寝ている。普通に。セフィロスは呆れた。なにが「無理」だ。なにが「生まれてこのかたあの枕以外で眠れたためしがない」だ。本気にして、損をした。セフィロスはすこしだけ、ほんのすこしだけ、むっとしたかもしれない。だから一時間半ばかり経ったころ、そっと腕枕を外した。クラウドは眠っている。セフィロスはため息をついた。こちらはまだ風呂にも入っていない。
ベッドから起き上がろうとしたときだ。寝ていたはずのクラウドがふいにいらいらしたようにうなった。
「枕」
むっとしたように云われて、セフィロスはあわててもとの姿勢に戻った。クラウドはとたんに鼻を鳴らして、また寝息をたてはじめた。
……セフィロスはちょっとだけ、感動している自分に気がついた。これはもしかすると、すごいことなのではないだろうか。十五年ばかりの歴史を持つ枕に、たった数ヶ月足らずの自分が並んだということは。セフィロスはいたずら心を起こして、夜中にもう一度だけ、腕枕を外してみた。クラウドはまたうなり声をあげて起きた。今度は彼が完全に覚醒する前に、腕を提供。クラウドは安心したみたいにまた眠りはじめる。
セフィロスは眠れなかった。いまでは、クラウドが枕が変わると眠れないというのは、ほんとうだという確信があった。彼は実はとても繊細な子だから。そして好き嫌いが激しくて、ちょっとこだわりが強い。甘えが強いとか、依存心が強い、とも云える……悪い云い方をすればの話だ。でもそんなことは、問題だとは思えない。セフィロスは朝までこのちょっと不思議な現象と、クラウドの寝顔と、誰かに必要とされることについての、誰かにとって特別であることの意味を、ぼんやり考えて過ごした。明け方くしゃみをしたクラウドの鼻をさすってやり、ちょっと抱き寄せると、彼はますますくたっと力を抜いた。生物として、軍人の端くれとして、ここまで警戒心をなくしてはいけないと思うけれど。でもセフィロスは、嬉しかった。とてつもなく嬉しかった。誰かが、自分に全幅の信頼を置いてくれているということ。戦場においてのそれとはまた違う、まったく違う形で。求められることは、こういう求められかたは、ぜんぜん嫌じゃない。魂を満たす求められ方。潤い。幸福。歓喜。生きていることの、幸福。誰かにまるごと容認されることの、愛を注ぎ、注がれることの、耐え難いほどの、幸福。