第二章 休暇は来たりて……そして去りゆく
自然の中
クラウドは朝のうつろな眠りから目覚めて、大きなあくびをし、自分がちゃんと格子縞のパジャマを着ていること、それから彼の毛布がすごくふかふかして暖かいやつであることを確かめた。いつもの水玉のパジャマと、チョコボ柄毛布じゃない。それで、彼は自分がいま休暇中なんだってこと、少なくとも、ミッドガルのあの部屋にはいないんだってことがわかって、うれしくなった。
「おれ、休暇中なんだ」
彼は思った。
「あとで、スキーしなくちゃ。湖でスケートもできるってピエントさんが云ってたっけ。スケート靴作らないと。作れるかなあ。やっぱり専門家に任せるべきなのかな。でも、専門家ってどこにいるんだろ。セフィロスが知ってるかも」
クラウドは、もちろんセフィロスが知っているわけがないことを知っていた。でも、知らなかったとしても、クラウドのために知るようになることを知っていたから、結局おんなじことだった。彼は布団の中で手足を伸ばし、まだしばらく自分の新しいパジャマと、新しい毛布になじむようにもぞもぞした。シーツの感触もいつもと違ったし、ベッドの反発具合だってぜんぜん違った。昨日の夜はじめて世話になったばかりだから、彼はそういうものひとつひとつにまだなじみがなくて、いわば他人みたいな状態だった。それだからいいのだ。他人だということは、これから知り合いになるということで、そういう過程はわくわくする。クラウドは新しいことが好きだった。なにかいつも変化がある方が、彼は退屈しなかったし、生き生きしていられるような気がした。毎日同じことをして、同じものを食べて、同じ時間に寝るのが好きなひとがいるけれど、クラウドとしては、そんなのはごめんだった。
彼は、自分の環境が変わったことをとっくりと感じて、それから満足して起きあがった。うんと背伸びをすると、頭がすごくすっきりした。それで、彼はまずサイドボードの引き出しに入れておいたガス・ピストルを手にとって眺め、それを構えて撃つまねをした。彼の空想の中では、ガス・ピストルより発射された弾は、なんとも見事に壁のど真ん中に命中し、向こう側がのぞけるくらいの穴をこしらえた。クラウドは生意気に鼻を鳴らすと、いつものかわいいブタの室内履きを履いて、パジャマの上から厚手のニットの上着を着、母さんお手製の毛糸のレッグウォーマーを履くと、寝室を出ていった。
コテージは、コテージと名前がついているけれど、要するに別荘だ。つまり、山小屋みたいなものなんかじゃなくて、ちゃんとした家だということ。ドアはみんな重たい木の扉で、玄関のドアには大きな角を生やしたオス山羊の頭のノッカーがついている。セフィロスは昨日の夜それをはじめて見たとき、ここは魔女の家なのかと云った。クラウドはどうしてか訊いた。
「バフォメットだ」
とセフィロスは面白そうに云った。
「黒い山羊の頭をした両性具有の悪魔。魔女たちはみんなこの悪魔を崇拝して、その絵を部屋に飾ったり、山羊の頭を置いたりする」
それでクラウドは、この家がすごく気に入った。ほんと云うと、オスの山羊は意地悪でくさいのであんまり好きじゃない。でも、魔女はなんだか神秘的だし、それに魔女というのはみんな美人で、危険な匂いがする。危険な美女。これはとても重要なことだった。
「ここ、お化け屋敷なの?」
クラウドは云った。セフィロスは楽しそうにドアの前に立って、指先でドアになにやら書きつけると、神妙に目をつぶり、ぶつぶつ云いはじめた。
「なにしてんの?」
「魔除けのまじない」
「なんで知ってんの?」
「昔勉強した。興味本位で。おれを怒らせると怖いぞ。ひとを呪い殺す魔術や、悪魔を呼び出すまじないを知っている」
クラウドは恐怖に駆り立てられた女のひとみたいに高い声で悲鳴を上げ、ドアを開けて家の中に突入した。セフィロスは大笑いした。クラウドも大笑いした。あとで別のコテージに泊まっているザックスに訊いたら、彼のところのドアノッカーは、バイソンの頭だということだった。クラウドは暇だったので、管理人のピエントさんに電話でこのことを訊いてみた。ピエントさんも暇だったので、すぐに答えが返ってきた。要するに、ここに散らばる全部で十のコテージは、それぞれバイソンとか、牡牛とか、山羊とか呼ばれることになっているのだ。ここら一帯の持ち主である資産家の方の、趣味だということだった。
山羊の家は、壁はきれいなクリーム色で、広いキッチンとバスルーム、リビング、客室に書斎、寝室から成り立っている。寝室は当然二階だ。分厚い木板がはめこまれた階段を下りていくと、コの字に灰色のソファが置かれたリビングに通じていて、なんと暖炉があるのだ。暖炉の上には、山羊の頭の剥製がかかっている。もちろん、偽物だ。クラウドは昨日の夜、この暖炉で火遊びして、セフィロスに怒られたばかりだった。でもクラウドは、これはセフィロスがおかしいと思った。誰だって火が燃えているのを見たら、灯油をかけたり、タオルを燃やしたくなったりするはずなのだ。すました顔して、そういうことなんか考えてもいませんというような顔をしている連中がいるけど、クラウドはそうじゃない。やりたいと思ったことをする。まあセフィロスの場合は、立場上叱らなくちゃいけないというのも、わからなくはない。一応大人だからだ。もしも魔除けのまじないを唱えてひとをからかったりするようなひとが、大人だと云えるなら。
セフィロスはもう起きていて、ソファですごく楽しそうな顔をして朝刊を読んでいた。暖炉の火は勢いよく燃えていて、部屋はとても暖かかった。クラウドはそれを横目で見ながら通り過ぎ、顔を洗って戻ってきた。まだ朝の七時だ。都会に暮らしているときは朝七時なんて驚異的な時間だけれど、田舎ではこれはぜんぜん普通か、ちょっと遅いくらいだ。ニブルヘイムも朝はすごく早くて、隣の家の山羊を飼っているショーンじいさんは、朝の四時に起きていたし、パン屋の一家は、毎朝三時半にはもうパンを焼く準備に入っていた。クラウドの母さんだって、毎日十時までには必ず寝て、六時前に起き出してくる。もっともこれは、全面的に美容のためだ。十時から二時までが睡眠の黄金時間だかなんだかで、その時間に寝ることで肌やホルモンバランスがいい状態に保たれるのだということを、クラウドの母さんは信じているのだ。そして実際、母さんはいまでも二十代半ばくらいに見えるから、たぶんほんとなのだろう。
クラウドはセフィロスと新聞のあいだにしゃにむに割りこんでいって、つまりセフィロスの膝の上にお尻を乗っけると、彼が楽しそうに見ている新聞をのぞきこんだ。「アイシック・リポート」という名前で、セフィロスは楕円形にくりぬかれた男のひとの写真がついた記事を熱心に眺めているところだった。クラウドは、見出しを読んだ……「ミッドガル大学名誉教授ホープニッツェル氏、北の古代種遺跡調査のため現地入り」。
クラウドはもう一度男のひとの写真を見た。頭は禿げちゃびんで、禿げたひとってだいたいそうだが、頭髪のことを考えると首を傾げざるを得ないほど立派な口ひげをたくわえていた。
「このひとが教授?」
クラウドはテーブルの上にあったポットから、紅茶をカップに注いでぐいぐい飲んだ。もちろん、カップはひとつきりしかなかったから、クラウドはそれを遠慮なく使った。
「そうだ。この顔には、おまえも見覚えがあるんじゃないか?」
「教授の知り合いなんていないよ」
クラウドはそう云いながら、もう一度その教授の写真を見た。そう云われたら、確かにどこかで見たことがあるような気がした。でも、どこだかは思い出せなかった。クラウドは男のひとを穴があくくらい見つめた。どこかで見たのは間違いないのだ。どこかで……クラウドはふいにひらめいた!
「わかった! このひと、おれ汽車の中で見たよ。食事んとき、ひとりでテーブルに座ってた」
セフィロスは微笑し、よくできました、と云った。
「そして、同じ駅で降りた。おれも汽車の中からずっと、このひとはどこかで見たことがあると思っていたのだが。この新聞記事のおかげでようやく思い出した。彼の本を何冊か読んだことがある。最初の方のページに、白黒写真でこの顔が載っていたんだ」
「なんか、教授っていうか、優しそうなおじさんって感じがしない?」
「ああ。書いたものを読んでいても、そういう雰囲気がにじみ出ていた」
クラウドはもう一度記事を見た。ミッドガル大学名誉教授であるホープニッツェル教授は、このたび、北の古代種遺跡の内部調査のため、七名の研究チームを率いて、現地入りした。教授は世界的に有名な、古代種文明研究の第一人者であり、十日の準備期間を経て、調査に出かける。今回の調査によって、必ずやこの古の民たちに関する、新たな興味深い事実が判明するであろう……。記事の横に、調査団メンバーの紹介として、楕円形の写真と、略歴が記載されていた。若い男も女も、中年もいた。ウータイ系の男もひとりいたが、際立って陰気な顔つきをしていた。
「それにしても!」
セフィロスがふいに額に手を当て、天を仰いだ。
「おれの記憶力は、このところめっきり怪しくなってきた。自分が読んだ本の著者の顔写真も思い出せないとは! 少しぼけてきたんだと思わないか?」
クラウドは首をひねってセフィロスを見上げた。
「ちょっと頭出してみて」
セフィロスは上半身をかがめて、クラウドの目の高さに頭を持ってきた。クラウドは学者みたいに丁寧に、銀髪に覆われた頭を調べた。
「見たとこ、異常なさそうだけど。二七八九たす六〇九六は?」
「八八八五」
「この星の、アリの総量と、ゾウの総量、重いのはどっち?」
「アリ」
「ミッドガルの、いまの三代前の市長の名前は?」
「フリードリッヒ・フォン・クランテルン」
「クラウド・ストライフ君はいまなにを考えていますか?」
「もう質問のネタが尽きた」
クラウドはセフィロスに頭突きを食らわせた。
「そういうとき、もうちょっとロマンティックな答え云おうよ」
セフィロスは眉をつり上げた。
「例えばどんな?」
「わかんないよ。それより、この北の遺跡ってなに?」
クラウドは新聞の記事を指でとんとんやりながら云った。
「ここから、そうだな、西の方に、古代種が残したずっと昔の神殿がある。彼らは世界各地に似たような神殿を造っている。旅をする民だったからな。この北の大地は、彼らにとってなにか特別な意味があったらしい。非常に立派な、大きな神殿、もしくはそのあとがいくつも見つかっているのだが、その内部の調査はなかなか進んでいない。さまざまなしかけがほどこされていて、下手に手を出すと、命を落とすこともある。実際、これまでにたくさんの研究者たちが、遺跡調査へ出かけたまま、二度と戻ってこなかった」
クラウドは「ぶるる!」と云った。
「おまえは、そういうところへ冒険に行きたいんじゃないか? なにかの映画か、冒険小説みたいに」
「おれ、その古代種遺跡を舞台にした冒険もの、何冊か読んだことあるよ。主人公が、最後には必ず古代種が残したお宝を手に入れるんだ。金とか……宝石とかさ。それをねらう悪いやつと戦うんだよ」
「で、その悪いやつらは、それを元手に世界征服を企むわけなのか?」
クラウドは肩をすくめた。
「たぶんね」
セフィロスは微笑して、新聞を閉じた。それから、膝の上の猫をなでるみたいにして、クラウドの金髪をなでた。
「おれ、ザックスのこと電話して叩き起こしてもいい?」
「なぜだ? あいつはたぶん、ほんの数分前に寝たところだと思うが。いつもの生活なら」
「朝食だよ、朝食。わかる? あいつが給食当番申し出たんだから、朝も昼も夜も働かなきゃ」
この保養地は自由なのが売りであって、大自然の中で各自勝手に過ごす、ということは、当然誰も食事の用意なんかしてくれないということだ。借りているあいだじゅう、家の掃除だって誰もしてくれないここでは、生活に関する雑事全般を、借り手がやらなくてはならない。ザックスは昨夜、食料の袋をすべてこのコテージに置き去りにして、喜んで給食当番を引き受けると云った。
「料理はおれの仕事よ。誰もやっちゃだめ。厨房はおれの聖域です。女人禁制男子禁制、子ども年寄りみんなだめ。オッケー? そのかわり、閣下はおれと遊ぶ。セフィロスは、なにもすんな。お願いだからなにもしないで。あんたのこと働かせたら承知しないって、プレジデントに云われてんの。あんたの休暇だから」
とは云え、セフィロスがなにもしないというのは、クラウドがいる限り無理なことだ。クラウドはすぐ散らかすし、こぼすし、熱が三十八度あったってじっとなんかしていない。もしもセフィロスに休暇を与えるとしたら、クラウドからもぎはなさないとならないが、そんなことはたぶん不可能なことだ。
「昨日の夜、ザックスが冷蔵庫になにかしこんでいたが。たぶん、朝の食料じゃないか?」
クラウドは走っていって、冷蔵庫の中を覗いた。すごくおいしそうなサンドイッチが冷蔵庫の一番上の棚全部を占めていた。張り紙がしてある。「閣下へ セフィロスにもちょびっとはわけてあげること。昼飯までには世界一のシェフが起きる予定。麗しのピエント夫人からもらったリンゴの箱なら台所にあるけど、一度に三個までよ。臨時雇われシェフ兼栄養士ザックスちゃんより(高給取り)」
クラウドはにこにこしながらサンドイッチを持ってセフィロスの膝に戻った。
「いつもながら気の利くシェフだ。この高給取りシェフの時給は誰が払うんだろう」
「あんただよ」
クラウドはきっぱり云って、さっそくサンドイッチの包みを空けようとしたが、セフィロスに阻止された。
「なにすんだよ」
「食事の前に、散歩だ。田舎での休暇の過ごし方は、伝統的にそうなっている」
「それ、誰が決めたの?」
クラウドがうらめしそうな顔で云った。
「さあ。正装と同じだ。いつの間にかそういうことに決まったんだ。歴史の中で。誰が決めたか、なぜそうなったかは、学者が考える。そうでない人間は、それに従うか、あくまで反発するか、それともぜんぜん気にしないか選べる。この場合、どれを選ぶ?」
クラウドはサンドイッチを見て、それからセフィロスを見た。
「わかったよ、もう! おれ、着替えてくる」
セフィロスは声を立てて笑った。彼は、とても機嫌がよかった。それで、サンドイッチをまた丁寧に包んで、冷蔵庫へ戻した。
夜のあいだに、すこし雪が降ったみたいだった。外は一面、真っ白に輝く、一度も踏まれたことのない処女雪に覆われていた。太陽はまだ低い位置にあって、分厚い空気の層の中で、にぶく光っていた。空気がすごく冷たくて、澄み切っており、ふたりはそれをくんくん嗅いで、深呼吸し、森へ向かって歩き出した。コテージのすぐ裏に広大な森が広がっていて、しばらく行くと、スケートができるという湖に出られるのだ。たぶん三キロくらい距離があるだろう。ふたりはそこまで歩く予定だった。ザックスが寝泊まりしているコテージは、ふたりのところよりも森から離れていて、一キロばかり手前にある。ちょうど、ピエントさん夫妻が住んでいる家と、ふたりのコテージの中間くらいだ。ほかの八つのコテージは、もっとばらばらにあちこちに点在している。森の中とか、外とかに。この土地の所有者が、ここぞと思ったところに好きに建てたので、お隣さんまでの距離が、あるところではほんの数百メートルだったり、またあるところでは何キロもあったりする。管理人のピエントさんは一応そのすべての位置を把握していたが、それらがみんな埋まってしまうというのはあり得ないことだったので、あんまり意味がなかった。
森の中はひんやりして、木々のあいだからわずかに漏れてくる光を受けて、枝に積もった雪がきらきらしている。寒かったけれど、クラウドはずれやすい耳あてや手袋でしっかり武装していたし、セフィロスはクラウドの母さんが編んでくれたマフラーでしっかりと首元を覆っていたから、少しくらい寒くたって平気だった。ふたりが雪を踏んで歩くざくざくという音は、どこかへ漏れだす前に、しんとした森に吸収されてなくなってしまうみたいだった。ふいに鳥が高い声で鳴いているのがあたりにこだまして、セフィロスは耳をそばだてた。
「いま鳴いたのはノスリだよ」
クラウドは北国の、田舎の子らしいところを見せた。
「こんくらいの大きさで(と云ってクラウドは両手を五十センチくらい感覚を空けて開いた)、身体がころっとしててかわいいよ。タカの仲間なんだ。そうだ、うちのそばに餌台置かない? 鳥とか、運がよかったらリスが見れるよ。おれ作ってもいいよ」
セフィロスは野鳥やリスが見たかったので、ぜひそうしてくれと云った。クラウドは歩きながらくんくんあたりのにおいを嗅いで、首を動かしたことでずれてしまった耳あてをなおしてから、うちの方の森とは匂いが違う、と云った。
「うちのはもっと、なんていうか、コケくさいんだ。コケくさいにおいってわかる?」
「ああ、わかる」
「動物の足跡があるかも」
クラウドはぐるりとあたりを見回して、木のあいだを好きな方向に歩いて行った。セフィロスはあとを追いかけた。前を行くクラウドの靴の跡を見て、セフィロスはふいに、足がずいぶん大きくなっていることに気がついた。これじゃあ、去年のブーツは入らないわけだ。セフィロスは微笑した。しばらくクラウドのあとをついて行くと、雪の上に小さな足跡が点々とついているのを見つけた。
「野ウサギだ。小さいのが前足で、長いのは後ろ足なんだ」
セフィロスはしゃがみこんで、足跡を詳しく観察した。逆八の字の長い足跡の後ろに、小さなかわいらしい前足のあとがふたつある。足跡はくっきりしていて、ほんの数分前に、ウサギがあわててここを走っていったところを想像し、セフィロスは小さく笑みを漏らした。クラウドは、持ってきたポラロイドで足跡をぱちりと写真に撮った。
「もっとサイズが小さくて、似たようなのがあったらリスのだよ。他にもないかなあ」
クラウドはまた好き勝手な方向に歩きはじめた。セフィロスは立ち上がって、あとを追った。しばらくして、クラウドはまた別のを見つけた。ふたつ並んだ丸いあとが、点々と続いている。
「これはなんの動物でしょうか、博士」
セフィロスは云った。クラウドはふうむ、と鼻を鳴らし、大仰に眉をしかめて、もったいぶった。
「テンか、イタチですね。オコジョって可能性もあるけど。すごく似てるから、見分けるのが難しいんだ。こんなふうに、走るときは両足をきっかりそろえて走るんだよ。きっと几帳面なんだ」
博士はなんでも知っているふうだった。クラウドは田舎の子だ。間違いなく。田舎の、それも自然が好きな子。田舎にいながら、そういうことにちっとも興味を持たない子もいる。それはそれで、別のことに興味を持つ。でもそうではない子は、小さいうちに、自然からいろいろなことを学び取ることができる。その美しさ。精悍さと落ちつき、厳しさと優しさ。そういう目に見えないものを。クラウドは、自然とのつきあい方を知っているし、生き物と仲良くなる方法もちゃんと知っている。人間と仲良くなるのは苦手だけれど、でもそれは単に得手不得手の問題だ。クラウドは、勇敢だけれどとても繊細で、その心は、ちょうど枝に乗った雪のきらめきみたいに、純粋で美しい。セフィロスは後ろから、クラウドの、冷たくなった頬にキスした。したくなったのだ。クラウドは意地の悪い顔で笑って、パンチを繰り出してきた。セフィロスはひょいっとよけた。お次は足が飛んできたけれど、これもよけた。で、もう一発パンチがきたので、今度はつかまえた。
「なかなかいいコンボだった」
「ばかにしてるだろ?」
コンボのフィニッシュを飾る胸部への頭突きは、受け止めておいた。クラウドがぐいぐい押してきたので、しばらくやりあったあと、セフィロスは地面に転がった。クラウドも転がった。クラウドの耳あては、とっくに地面に落ちていた。ふたりは葉っぱみたいに折り重なって、げらげら笑った。その声にびっくりして、どこかで鳥が飛び去った。
「いつかぜったいあんたのことのしてやるんだ。のしイカみたいにさ」
クラウドは地面に転がったセフィロスを見下ろして云った……水面に映る自分に見とれるナルキッソスみたいに、セフィロスの胸の上に両肘をついて、ちょっと夢見がちな目で。彼の金髪は、木漏れ日を受けて鮮やかに見えた。セフィロスはそれを、とても美しいと思った。よく手入れされ、つやめいたブロンドはほんとうに美しい。同じ色の眉毛とまつ毛、ときに物憂く、ときに情熱的な、あるいはまったく無邪気な、青い瞳の輝き。ナルキッソスは、もしかするとこんな顔だったかもしれない。抜群に整っていて、どこか夢見がちな。甘ったるさの残る、未完成な少年。セフィロスは知らぬ間に大きくなったクラウドの足のことを考えた。それから、たぶんまだ伸びるだろう身長のことと、それにともなって変わっていくだろうクラウドの見た目のこと。彼の顔から、少年らしい、甘ったるい感じは徐々に抜けてゆくだろうか? 否。クラウドはたぶん、いくつになってもどこか子どもっぽい、無邪気な印象を残したままでいるだろう。ちょこんとした鼻と、甘えたように結ばれる珊瑚色の唇と。
セフィロスは静かに上半身を起こし、クラウドの白い額にくちづけた。少年でいられる時間は、長くない。それはすなわち、いまのこの身体、この顔のクラウドを見ていられる時間は非常に短いということを意味する。彼は日々、変化する。セフィロスはいまのこの時間、十六歳という年齢の彼を、全身で感じ、そうして記憶しておくつもりだった。少年らしいあやうさ。少年らしい物憂さ。人生のいっときの輝き。そういうゆらぎが消えたとき、クラウドはどんなふうになることだろう。
ふたりは静かに起き上がった。セフィロスは、クラウドのとれてしまった耳あてをつけてやった。クラウドはセフィロスの、変な巻き方になってしまった黒いマフラーを巻き直した。もちろん、セフィロスはとても背が高いので、クラウドはちょっと腕を伸ばさないとならなかった。ふたりはこっそり誰かに意地悪したときみたいにくつくつ笑って、また歩き出した。クラウドがセフィロスのコートの袖をつかんだ。で、セフィロスは彼の手をとった。なんてったって、ここは誰もいない保養地で、したがって誰も見ていないのだから。見ているとしたら、遠くで懸命に木をかんかんやっているクマゲラか、雪の下にもぐっている野ネズミくらいのもので、こういう生き物は、人間みたいに秘密をべらべらしゃべったりしない。ふたりが手をつなごうが、クラウドがだっこをせがもうが、そんなことは知ったことじゃないのだ。
午前中に、御用聞きが近所の村からやってきて、あれこれ用事を聞いて行った。ザックスは食料を山ほど頼んだ。クラウドは、引越しかと思われるほどの荷物を送っていたので、それを分解し、整理するのに精を出した。彼はなんでもかんでも持ってきた。ミッドガルの家からのみならず、ニブルヘイムの実家からもものをかき集めて、母さんに送ってもらって持ってきていた。彼はいま鉄道模型にはまっているので、それを一式運びこんでいたし、お気に入りのぬいぐるみやタオルなんかと一瞬だって離れて暮らすのはごめんだった。ニブルヘイムも北国なので、冬の生活に役立つものは、母さんがみんな送ってくれた。あかぎれを防止するクリーム、鼻風邪をひいたときによく効く苦い薬、湯たんぽ、長靴とかんじき、などなど。ほんとうはこの中に赤のかわいいそりも入るはずだったが、こればっかりは送料がすごくかさむというのと、なんとなればビニール袋かお盆あたりで代用できるというのとで、あきらめたのだった。でも母さんはそのかわり、実家から譲り受けたという、古くさくて使えたもんじゃない銀のお盆(すごくすべる)と、ミニスキーを送ってくれた。これは、クラウドがまだ都会に出てくる前、大きなもみの木が嵐で倒れたとき、その一部をちょっと拝借して、自分で作ったのだ。で、わざわざ遠くの街まで出かけていって、そこの鍛冶屋のおやじにブレードをとりつけてもらった。クラウドはそのおやじに、完璧なスキー板だとほめられてすごくうれしかった。なぜってそのやすりがけといったらそれこそ命がけだったわけで、母さんは感心して云ったものだ……「あんたさ、大工の家の子に生まれたらよかったのに!」。彼はすかさずこう云ったものだ。「大工は世襲制(彼はそのころ歴史の授業でこのことばを覚えたばかりだったので、使える機会を待っていたのだ)じゃないんだよ、母さん。その気になったら、おれ大工だって船乗りだってなるよ、船酔いしなきゃね」
クラウドは度はずれの道楽者なので、遊ぶとなったら容赦しない。スキーをするときのために、ちゃんとロウのかたまりも持ってきた。滑る前の日に、これを板っきれの裏に丁寧に塗るのだ。そうしたらスキー板はそれこそ禿げたおやじの頭みたいにつるっつるになって、雪の上を魔法でもかけられたみたいに滑るのだ……。
三人してお昼に熱々のラザニア(シェフザックスの今日のおすすめ)を食べてしまうと、あとはほんとにすることのない、自由な時間がやってきた。
ほんとうになにもすることがない時間というものをたっぷり与えられると、ひとはそのひとらしさを存分に発揮するらしい。あまりものごとを深く見たり考えたりしないひとは、まず途方に暮れる。そして時間をとにかく潰さなくてはならないと考えて、なにか楽しいことを探す。時間を忘れて打ちこめるものを持っているひとは、ここぞとばかりにそれに取り組む。中には、それこそが仕事であるという幸せなひともいる。そして数はごくごく少ないが、なにもしないでもまったく平気なひと、内面の精神的活動で心底満足できるひとは、ほんとになにもしない。セフィロスはこのタイプだったので、ザックスとあたりの探検に行くというクラウドを見送ると、玄関脇のウッドデッキに古びた寝椅子をひとつ持ちだして、そこへ横になった。毛布を丁寧に身体に巻きつけ、ほかにもクラウドの母さんが編んでくれた暖かいマフラーと、ピエント夫人からもらったひざかけなどで完全武装して、何時間でもそこに横になってあたりを眺めていられる体制を整えた。彼はまるで横臥療法中の患者のようになった。以前このあたりがサナトリウムだったころ、ちょうど患者たちはこのようにして座椅子に寝そべり、横臥療法に精を出していたに違いない。
太陽は真昼でも、遠くの空に、やっぱりぼんやりかすんでいた。空気はすこぶる冷たくて清らか、ときおり鳥が鳴いて通り過ぎる。クラウドなら、きっと全部の声を聞き分けて、どれがどの鳥、と云うことができるだろう。彼は、正確に云えばこのとき大地に根を下ろしていた。どっしりと座りこんで、五感を解放し、自然の中に自分の肉体と、精神を放り出していた。叫びだしたいほどの自由と幸福。彼は、こういうときにそれを深く、ほんとうに深く感じることができる。彼の鋭敏な耳は、いろいろな物音をとらえている。森の中で、小さな生き物たちがうごめいている音、枝に乗った雪が落ちる音、太陽の光さえ、鈍く淡い音をたててあたりにそそいでいるような気がする。彼は目を閉じた。そうして少しのあいだ、意識を手放した。おかげで彼の高い鼻の先は、氷みたいに冷たくなった。それでセフィロスは、ザックスと遊びに行って戻ってきたクラウドに、鼻先を温めたいと云って、彼の肩口に鼻っ面をうずめた。セフィロスは鼻先が冷たかったが、クラウドは指先が冷たかった。そこで、セフィロスはクラウドの手を自分の手で温めてあげた。それから、今日一日のできごとをお互いに報告しあった。
クラウドとザックスはまずピエントさんのところに行って、餌台を取りつける相談と、スケート靴の相談をした。餌台に関しては、明日みんなで森に木を切りに行くことに決まった。木材を入手するためだ。スケート靴のことは、村の鍛冶屋にでも訊かないとわからないということだったので、また後日行くことにして、お茶をごちそうになった。そしてピエントさん夫妻が、実はタンゴの名人であるということが判明した。夫妻はすごく情熱的に、音楽に合わせてくねくね、あるいはくるくる、踊ってみせた。ふたりは喝采を浴びせ、ピエントさんの家をあとにした。そうしてなんとなくその静けさに惹かれて森に入っていった。都会人ザックスは暇そうにしていたが、クラウドはそんな子じゃないので、たくさんの動物のフンや足跡、木の実などを見つけてきた。写真も撮っていたので、セフィロスは見せてもらった。ザックスは、ゴンガガの森の話をした。当然、こんな北の森とは全然違っていて、もっと植物がみっちり生えており、蒸し暑くて、虫がいやになるほどいて、血を吸うヒルとか、病気を撒き散らす蚊とか、そういうあなおそろしの生き物がたくさんいるということだった。クラウドは、今度ぜったいに南のジャングルを冒険すると云った。北の森のことは、だいたい想像がつく。でも、南のジャングルのことは、ぜんぜん想像がつかない。世界には、まだまだ知らないものがたくさんあるのだ……。
クラウドの目は夢を見ているようだった。それを見ていると、セフィロスも夢を見ているような気持ちになってくる。北の森の中での休暇ははじまったばかりなのに、彼はもう南の国を夢見ているのだ! 若いということは!
セフィロスはいつか、クラウドを連れてコスモエリアの赤土の上を、一緒に歩いてみようと思った。彼を連れてなら、世界中どこへ行ったって楽しめるだろう。ほんとうにそうしようか。クラウドが、十八か、二十歳くらいになったら。そうしたら、彼とふたりでめくるめく冒険の旅に、出てみようか……。
セフィロスはその晩、そんな夢を見た。クラウドはその横で、古代種の遺跡や、森を冒険する夢を見ていた。