新米記者ストライフ君の奮闘
塔がある広場の真ん前のフラットで、車が止まった。ピルヒェさんと新米記者ストライフ君は、エレベーターで六階に上がった。
「最終予行練習だ。君は新米の、今年の春学校を出たばかりの記者見習いだ。先輩のおれについて、取材の仕方を学んでる最中。だから、黙っていろんなことに目を光らせて、メモを取る仕草をするんだ。若いやつはみんなそうする。それで、だいぶ記者らしく見えるさ」
クラウドはうなずいて、胸ポケットを上から触って、ちゃんとメモ帳があることを確かめた。
「そうだ、おれのとこに、途中でザックスから電話が入るかもしれないんです」
クラウドは万が一のことを考えて云った。ピルヒェさんは顎をさすって、フン、と云った。
「そのときゃ、会社からの仕事の電話と思わせるんだな。敬語で話して……すぐに部屋を出るんだ」
「わかりました」
ふたりはホープニッツェル教授が宿泊している部屋の前に着いた。一度顔を見合わせて、ピルヒェさんがドアをノックする。少しして、禿げちゃびんの教授が自ら出てきた。
「おや、あなたは」
ピルヒェさんは帽子を取り上げ、挨拶をした。
「教授の調査が、明日からはじまるでしょう。たまたま取材でここを通りかかったもんで、もし教授がいらしたら、ひとことご挨拶しとこうと思いましてね」
教授はこの突然の訪問に感動したらしかった。
「それはそれは。わざわざありがとうございます。散らかってますが、いかがです? 中でお茶でも」
云いながら、教授はもうお茶を出すつもりで部屋に引っこんでいた。ピルヒェさんは礼を云って、クラウドを促してあとに続いた。
フラットは広くて、数名の男女が好きなところに座ったり立ったりして、パソコンをいじったり、資料に目を通していた。ソファに、中年のウータイ系の男が座っていて、熱心にパソコン画面に見入っていた。たぶん彼がシノザキ助手だ。ふたりがすぐそばに来ても、彼は気づかないふうで、パソコンを見たままだ。中途半端な長さの髪を手入れもせずに跳ね散らかして、服ときたらどこか時代遅れで、汚らしかった。
「横、いいですか?」
ピルヒェさんがちょっと嫌味な感じに訊くと、男はじろっとふたりを一瞥し、なにも云わずに立ち上がって、どこかへ行ってしまった。クラウドはやなやつ、と思ったので、後ろ姿に向けて小さくあっかんべをした。
「教授、お茶くらい云ってくださればわたしが淹れましたのに……」
教授がキッチンからカップの乗ったお盆を持って出てくると、ひとりの女性が驚いたような声で云った。教授は手を振れない代わりに盛んに首を振って、そういう気遣いは必要のないことを示した。
「わたしは、自分のことは自分でする主義でしてね」
教授はソファに腰を下ろすと、ふたりの前にカップを置いた。
「ありがとうございます」
ふたりは丁寧にお礼を云った。お茶は、紅茶だったけれど、クラウドが嗅いだことのない、南国の日向を思わせるようなエキゾティックな香りがした。
「これは新入りでしてね。ストライフと云います。連れ歩いてるんですよ。仕事を覚えさせるためにね」
教授が手を差し出してきたので、クラウドは握り返した。すごく気さくな感じで、にっこり笑った笑顔はちょっと神経質そうな、心根の優しい感じがにじみ出ていた。クラウドは、これはピルヒェさんの観察眼が正しいんじゃないかな、と思った。こんないいひとそうなひとが、実は極悪人の犯罪者だったりなんかしたら、世の中、ひとを信じることなんて到底できないような気がしてくる。
「調査はどうです? 明日からいよいよ現地へご出発するかと思いますが」
「準備はほぼ整いました。いまは最終的な詰めの段階で……実地調査の場合はいつもそうですよ。前日が一番ばたばたするんです」
「じゃ、ぼくらは一番お忙しいときにお邪魔したってことですか。そりゃ失敬しました」
「いやあ、いいんですいいんです。忙しいといっても、わたしは最終的な確認だけで、ほかのことはみんなほかのメンバーがやってくれます。昔は、わたしもひとりで支度して、ひとりで遺跡調査に向かったもんですが……大学教授になる前のことです。あのころは、GPSだのレーダーだのなんてたいそうなものはありませんでしたから、現地で、ボディガードやガイドを調達してね。商売上手なのがいて、ぼったくられたりしましたっけ」
教授は懐かしむような笑顔になった。
「……あなたは、いまの境遇にはあまり満足しておられないようですね」
ピルヒェさんが瞑想に沈んでいるような静かな顔で云った。教授は、視線を彷徨わせた。
「そうかもしれません。たぶん……そうでしょうな。わたしは、自分のことは自分でしたいのです。申し訳ないような気持ちになるので、誰かに世話を焼いてもらうのは、落ちつかないんですよ……」
「わかりますよ」
ピルヒェさんは云った。
「あなたも、わたしと同じような孤独好きなタイプでしょう。わたしは単独行動が許される規模の仕事しかしないもんで、自分のことは自分でしますが。あなたのように、社会的地位もあれば指揮する組織もある程度の規模のものになると……どんな気持ちがするか、なんとなく想像がつくような気がします」
教授はそっと微笑んだ。
「ところで、今日お話したことは記事になったりしますかな?」
教授は自分のカップを口元へ持ってきて、鼻をひくひくさせて香りを楽しみ、実においしそうに飲んだ。
「まさか。これは個人的な訪問なので、お話したことを記事にはしませんよ。いまは、別件の取材の途中で、たまたま立ち寄っただけですから。ただ……」
ピルヒェさんはちょっと云いにくそうな顔をした。
「なんです?」
教授は眉をつり上げた。
「あのですねえ……教授、もしも……同行取材なんてことを許可していただけたら……」
クラウドの携帯が鳴り響いた。ザックスだ! タイミングの悪いやつ! クラウドはちょっと舌打ちして、すいません、とふたりに頭を下げると、大慌てで部屋を出た。いいところだったのに!
「もしもし?」
クラウドは電話に出ながら、廊下を歩いて、こそこそ話をするのに具合のよさそうなところを探した。なんでコートを持ってきてしまったんだろう? 反射神経だ。廊下のつきあたりが非常階段になっていて、その向かいに、洗濯機と乾燥機が三台並んだ洗濯スペース、そして清掃用具を入れておく小さな物置があった。クラウドは洗濯機に肘をついて、はずみで持ってきてしまったコートを洗濯機の上に置き、ザックスの声を聞いた。
「ハーロー! さっきボスにも電話したんだけど、ボス電話出なくてさあ。そういや、今日は現地調査とか云ってたなあとか思って、んで、おまえに電話したとこ。すんげえことがわかったからさ。おまえ、まだ例の教授んとこにいんの?」
「そうだよ。いま、いいとこだったんだ」
クラウドは精一杯ドスの利いた声を出した。
「あら? もしかして、ザックスちゃん邪魔しちゃった系?」
「もしかしないよ」
クラウドはもっとドスの利いた声を出した。ザックスは「あらあ」と云った。
「そりゃごめん。だってさ、超すっげえことだったんだ。まじ、ほんと一大事なんだよ」
「それ、捜査官に云った方がいいんじゃないの?」
「まあ、それもそうなんだけど。でもほら、なんとなーく第一は身内に報告したいっていうか。ちょっとさ、あんまりすごいもんでおれ……」
クラウドは途中から、ザックスの話がまったく聞こえなくなった。隣の物置からひとりの男が出てきて……その男は確かに清掃員のかっこうをしていた。でも、そいつの鼻はまれに見る大きなもので、いちじるしく赤かった!
「ザックス、悪いけど切る!」
クラウドはそう云うが早いか電話を切って、ポケットにしまい、コートをしっかり着て、だんご鼻の清掃員のあとをつけていった。クラウドが追いついたときには、清掃員はエレベーターに乗りこむところだった。クラウドはエレベーターが下へ降りていくのを確認すると、非常階段へ出て、これ以上はぜったいに早く降りられないという全速力で階段を駆け下りた。一階まで降りると、彼は大急ぎでエレベーターを確認しに行った。ギリギリセーフだ! 特徴的な鼻の清掃員がエレベーターを降りて、用具室へ立ち寄るふりをしながら、非常口からフラットの外へ出ていくところだった。クラウドは見つからないように注意しながら、少しあとから外へ出た。
清掃員の格好をしたクルスは、フラットを出るともうそんなに周りを気にしなくなって、足早に通りを歩いていった。クラウドはしばらく後をつけて、彼がもうそんなにあたりに注意を払っていないことを確かめると、念のため、ピルヒェさんに電話を入れた。
「おう、どうしたんだ? なにやってんだ?」
「すみません、ピルヒェさん。おれ、特ダネがつかめそうなんです。もし欠員が出たら、記者に雇ってくれませんか? 実は清掃員の後を追いかけて……あ、まずい、あ、いえ、心配しないでください。またあとで」
清掃員は、なんと映画館へ入っていったのだ。映画館に電話しながら入っていったら、すごく目立ってしまう。クラウドは携帯をポケットにしまって、大急ぎで追いかけた。
映画館は、もう上映がとっくに終わってしまった古い映画を、二本立てでずっと流しているところだった。「ご入場は、上映開始十分前、上映終了十分前から可能です」と書かれた立て札が、チケット売り場の前に置いてある。クラウドはチケット売り場に座っていた若いお姉さんから、丁寧な態度でチケットを買った。お姉さんはしまいには、クラウドにぱちんとウィンクまでしてくれた。クラウドはちょっと、舞い上がりそうになった。
スクリーンは映画のほんとうに終盤を映し出していた。ヒロインらしい女のひとが、すごくハンサムな男と抱き合って、涙を流している。こんなに真っ暗じゃ、どこに例の男がいるのかわかりゃしない。クラウドはむっとして、近くの空いている席に座って、あたりを注意深く見回した。ヒロインとハンサムな男は、無事結ばれたみたいだ。「The End」の文字がスクリーンに大きく表示される。エンドロールが流れはじめ、席を立って出ていくひとがちらほら出てきた。クラウドは、そのひとりひとりにくまなく注意をはらっていたが、クルスではなさそうだった。やがて、場内が明るくなった。ざっと見回した限りで、三十人かそこらのひとがいた。そのうちの半分くらいのひとがいっせいに立ち上がって、ドアへ向かってきた。クラウドはあわてて帽子を深くかぶり、そのひとりひとりをしっかり観察した……いたいた! 小柄な男と、のっぽの顔が長い男が出ていくひとの列に加わって、のろのろ歩いていく。クルスは、もう清掃員の格好をしていなくて、よれよれの分厚いコートを着ている。クラウドは、迷わずふたりの男のあとをつけていくことにした。コートのえりを立てて、そっと立ち上がった。チケット売り場のお姉さんは、新しく入ってくるお客さんへチケットを売るのに忙しくて、クラウドのことには気がつかないようだった。クラウドはよしよし、と思って、外へ出た。おれって、きっと探偵の素質があるぞ……
男たちは、なにやらこそこそ話しながら大通りを歩いて行く。ああもう! ソルジャーだったらなあ! そうしたら、小声だってなんだって聞き取れるのだけれど。クラウドは、思い切ってすこしふたりに接近してみることにした。ちょうどふたりの男の後ろに、ぼってり太ったおばさんが歩いていた。クラウドはおばさんを隠れ蓑にしながら、じりじり男たちに近づいて、会話に耳をそばだてた。
「だからよ……これでもし鏡がなくなったのがわかったとしてもだよ、結局あの教授は泣き寝入りさ。だってあの禿げたおっさんが鏡を持ってるなんてこと、誰も知らねえことになってるはずだろ。おれたち以外は。それに、たぶんわかりっこねえよ。金庫の鍵はかけ直したし」
「そうかなあ。おいらだったら、何回も見ると思うけどなあ。別に、なにがどうってわけじゃなくて、ただなんとなく見るためにさ。あーあー、心配だなあ」
「けっ、勝手に心配して、おっ死んじまえ。とにかく、あとはこれを明日の朝、ご一行様出発時に例のウータイ野郎に引き渡すんだ。おめえ、ちゃんと手順と場所わかってんだろうな?」
「わかってるよ! でも、念のためあとでもう一度確認するよ……」
心配症だなんて、変な泥棒だなあ、とクラウドは思った。でも、たいへんだ! 鏡は、もう盗まれてしまったのだ! いま眼の前にいるすごい鼻の男が、それを持っているのだ……クラウドは武者震いした。ぜったい捕まえてやる、と思ったからだ。捕まえて、鏡をあのきれいなマティルダさんに返してあげるのだ。クラウドはベルトに取りつけたガス・ピストルをにぎりしめた……。
それからが、ほんとにたいへんだった。