名字の問題
「おれ、来月から名字変わるから」
「は?」
風呂の中で潜水艦模型を振り回しながら、クラウドはなんでもないことのように云った。値段の割に精巧な作りの潜水艦に、クラウドはひと目惚れしたのだ。飾っておくのかと思いきや、その日のうちに風呂場行きになった。風呂に入っていないときは、クラウドが浴室の天井から吊り下げた二段組の棚に置いておかれる。棚にはほかに、アヒル、海チョコボ、カエル、出目金などがいて、主に遊んでもらうのをじっと待っている。
「あんた、潜水艦乗ったことある?」
急に話題が変わる。クラウドはお湯の中で、潜水艦を逆さにしてぐるぐる動かしている。
「ある。あまり乗りたくはないが」
「おれが乗ったら、発狂するんだろうな、きっと。だって密室だし。形は好きなのにな。かっこいいし」
セフィロスは潜水艦を取り上げた。
「なにすんだよ」
「ぎょっとするような話題を振っておいて別のものに夢中になるな。名字がどうした」
クラウドが必死に腕を伸ばして取り返そうとする。セフィロスはそれを吊り棚めがけて放り投げた。実に正確な軌道を描いて、潜水艦は棚の上に乗った。棚のほかの住人たちがあぶなげに揺れる。クラウドは「あーあ」といかにも不満気な声を出した。
「だから、戸籍上の名字変更になるんだよ、おれ」
「なぜ」
「母さんが再婚するから。おれまだ未成年だからさあ、母さんが名字変わったら、いっしょに変更になっちゃう」
「そうか」
セフィロスはしばしかけるべきことばに考えを巡らす。これは、おめでとうなのか、それとももっと複雑なものなのか。
「あんたが悩んでどうすんだよ」
クラウドが身体を捻り、首に腕を回してきた。
「べつに気遣わなくていいよ。実はちょっと楽しみにしてたから」
そう云って笑うと、セフィロスの肩に頭を置いた。
「そうなのか?」
「うん。だって、父親ができるから。いいひとなんだ、相手のひと」
セフィロスはそうか、とつぶやいて、クラウドの背中をそっと叩いた。彼には、父親がいない。ほとんど生まれたときから母親とふたりきりだ。男親の重要性がセフィロスにはよくわからないけれども、クラウドにはそういう方面でひと並みの欲求があるに違いない。きっと、彼にはいいことだ。父親ができること、家族が増えること。ふいになにか温かい感情でいっぱいになったらしいクラウドを、セフィロスはそっとなで続けた。もしかしたら、泣いていたかもしれない。彼のプライドのために、見ないけれども。だから、この質問が許されたのは、風呂から出て、本日二度目のベッドへ戻ったときだった。
「ところで、新しい名字はなんだ?」
クラウドはちょっと複雑な顔になった。
「ローコヴェンハウム」
「……は?」
「すごい名字だろ? おれ、一生綴り覚えられない気がする。簡易版は簡単なんだよ。Laucoviennhaum。だけど、yが入ってるとかないとか、auかoかとか、途中にhがあるとかないとか、一族のあいだで諸説あって、決着ついてないんだって。なんか、血筋に対するこだわりがどうとかで。何百年だか前に、どっかの貴族から別れただか、貴族とのあいだにやばい子ができただか、なんか。ぜんぜんわかんないけど。あんな辺鄙な田舎村に住んでて、いまさらなにが血筋だよって感じだけど。散々もめて、何代だか前に決闘までして、結局正式なときには一番長い綴りで綴ることにしたらしいんだけど、母さんは、悪いこと云わないから十八になったらもっとまともな名字のひとの婿養子になるか、ストライフに戻しなって云ってる。おれそうするつもり。だから、会社に届出もなしにする。十八まであと一年もないし、役場の書類が書き換わっただけで、会社にまで面倒な手続きする必要ないって母さんが云うんだ。名字書く時間が倍以上かかるからって。おれいまの名字好きだし」
「……おまえの親族になる人間はどうしてそうおかしなこだわりが強いんだ」
セフィロスはため息をついた。
「知らないよ。おれのせいじゃない。とにかく、内緒にしといて。ザックスにもだよ。こんな名字じゃ、あいつ、ぜったいばかにする」
それはほんとうだと思ったので、セフィロスはうなずいた。どうせそのうちにばれるだろうが。こんな重大なことを、いつまでもザックスがかぎつけないわけがない。そしてかぎつけたが最後、いつまでもクラウドをこう呼ぶだろう、ローコヴェンハウム閣下。それにぎょっとした周囲の連中が、妙な憶測をはじめるだろう。面白いが、いまは父親ができることの感動でいっぱいらしいクラウドに、もうすこし純粋にそれを味わわせてやりたかった。
「それで、いつからその長ったらしい名字になるんだ」
わざとらしくあくびをして、ベッドに横になったクラウドのとなりにセフィロスも潜りこんだ。引き寄せると、素直にすり寄ってくる。
「来月の十三日」
「中途半端だな」
「父さんの命日なんだよ」
「……酔狂だな」
クラウドがにやっと笑う。
「そう思う? おれもそう思う。でも母さんらしいよ」
「そうかもしれない。おまえの一族は実に変わり者ぞろいだ」
「なんか、籍入れるけど、挙式するつもりはないんだって。だからおれ、新婚旅行プレゼントした」
「そうなのか?」
「うん。おかげで貯金すっからかんになっちゃった。来月からお小遣いくれない? 月に二万くらい」
「なぜおまえの金をおれが補填しないとならない」
「いいだろ。あんたの金はおれの金なの」
そういうことを云われると、セフィロスはわけもなく女に結婚しろとせまられているときのような気分になる。実際にされたことはないけれど。クラウドは眠そうだが、セフィロスはこの妙な気持ちを払拭するのにもうすこし会話が必要だった。
「去年おまえの故郷に行ったときに」
クラウドはあからさまに顔をしかめたが、セフィロスは気にせず続けた。
「半日どこかへいなくなっただろう。そのときに、きっとなにか面白いことがあったに違いないと思っていたのだが、その母親の再婚がらみか?」
クラウドはあきれたような顔になった。
「あんたってさあ、そういうこと、えらい鋭いよな。なんでわかんの?」
「ありえない清楚な格好をしたおまえを見た」
「見たの? スケベ」
「遠目にな」
去年、クラウドがぶっ倒れた事件のあとだった。クラウドの故郷に魔晄炉の調査に行ったのは。ここ何年もまともに仕事をしていなかったセフィロスを焚きつけたのはザックスだ。いい仕事が来たよ、閣下の故郷訪問ツアー組める。組んだら行く? 内容はさあ、別にあんたなんか出てこなくてもいいんだけど。そんなこと云ったら、おれだって行かなくていいんだけどね。魔晄炉の調子が悪いんだって。化学屋が行けっつうのよ、これくらい。ドラゴンこわいのはわかるけど。あんたさあ、これ、会社への最後のご奉仕にでもすればいいんじゃない?
セフィロスは正直ちょっと、面白いと思った。費用会社持ちでクラウドを故郷に連れていけるというのは。クラウドは自分の故郷が大嫌いだけれど、母親には会いたそうだった。よく電話をしているし、仲がよさそうだったから。だから、セフィロスは連れていってやることにした。強制的に。そんな機会がなければ、たぶんクラウドは帰るタイミングをつかめないままずるずるするはずだ。彼のソルジャーへのあこがれは、終わったのだ。だから、ころあいだった。一度帰るには。そうして母親と、再会するには。
クラウドはもちろん、かんかんになった。誰がおれを帰していいって云ったんだよ。おれだ。ふざけんなよ。まともだ。おれがニブル嫌いなの知ってるだろ、あんなクソ田舎。だが母親は母親だ。云い争いの末に、クラウドは一週間家出した。セフィロスがかいがいしく毎日電話したので、クラウドは散々ぶつぶつ云いながらも、ぜったいに実家にちょっかいを出さないこと、よけいな詮索をしないこと、などを条件に、折れた。強権的な手段に出たことを、セフィロスは後悔していない。実際、クラウドはドラゴンを目の前にでかいのなんだのと興奮していたし、戦うあんたに惚れなおしちゃったとも云ったし、一日ひまをくれてやったら、そそくさと実家に飛びこんでいって、午後からは、おそろしく清楚な服を着て、やってきたトラックに積みこまれて(荷台にだ)どこかへ消えてしまった。あのよそ行きは、普通ではなかった。いつもつんつんに立っている髪の毛は愛らしいふわっとしたくせ毛という体で顔の周りに落ちついていたし、白のシャツに黒パンツという、クラウドが毛嫌いする面白味のない服。たぶん、その再婚がらみでなにかあったに違いないのだ。クラウドは顔をしかめてから、白状した。
「実はさ、再婚相手のばあちゃんが、母さんのこと毛嫌いしてるんだ。バツイチ子持ちなんてたいがいいい印象もたれないと思うけど、母さんほら、ちょっと見た目派手だからさ、誤解されるんだよ。で、がみがみばあちゃんをだまらせるのに、おれ大活躍した」
「大活躍」
「そう。天使みたいな顔して、ずっと前から父親が欲しかったんです、ってうるうる目で云ったんだ。ばあちゃん、陥落した。子どもに罪はないとかなんとか云って、立派な父親になれって孫に云いきかせてた。面白かったよ。ちなみにおれは、母さんの生活を助けるために、都会に出て働く孝行息子って設定。まあ間違ってないよね。軍隊にいるとは云えなかったけど」
セフィロスは心の底から、その老婆に同情した。きっと彼女は、感動すらしたに違いないのだ。身も心も美しい(ように見える)少年の存在に。その夢のようなけなげさに。あんな子が、ひ孫になるなんて。そう思って、いまだって心を温めているに違いないのだ。「おばあちゃん」とか呼ばれること。身体を気遣われて、贈り物をしあって、そういう存在ができること。
「残酷すぎる」
その少年の現実の姿を知っているセフィロスは、ため息をついた。
「いいだろ。もう八十越えたばあちゃんだよ。おれそのばあちゃんの前では、死ぬまでいい子のクラウドくんでいる。ほんとに。たぶん、いいばあちゃんだよ。頭固いだけで。頭固いのは歳のせいで、本人のせいじゃないし。それにさ、そんな先の短いばあちゃんのがみがみで、結婚おしゃかになったりなんかしたら、かわいそうすぎるよ。ほんとはもっと前に結婚してるべきだったんだ、あのふたり。おれに気遣ってたんだから、その責任くらいおれが取らないとさ」
セフィロスは笑った。クラウドが、けなげなのはほんとうだ。それをわからせようとしないし、事実非常にわかりにくいけれども。今度こそほんもののあくびをして、目を閉じたクラウドを、来月から異様に長ったらしい名字に変身してしまうクラウドを、セフィロスは不思議な生き物を見る目で見ていた。その多面性。ひどく鋭い感性。いろいろな側面が、彼の中でおかしな具合にひとつにまとまっている。ぜんぜん気にしなくて、ひどく気にして、なにも感じなくて、感じすぎる。
十八になったら。セフィロスは考える。彼は名字をもとに戻すのだろうか。あの勇ましい名字に? それは実際彼らしいけれど、もうちょっと別の可能性だってなくもないことを、彼は知っているだろうか。