息子と母親のための一章
「二時間後、四番街にある神羅エクセレントってしょうもない名前の商業ビルにカモーン! 添付地図参照、屋上にヘリポートがあるから、そこまで来てね! 何日か旅行するつもりで! ザッくん」
というメールを受け取って、エアリス嬢は大慌てで準備を開始した。男っていつもこう! 女の都合なんて、ぜんぜん考えてない! 世の中を、すごく単純に見てる。それでこっちがちょっと文句を云うと、君のためだったのに、とか云って恩着せがましく怒るのだ。もちろん、ザックスもそんなだなんて云わないけど……ぶつぶつ文句を云いながら、それでもなんとなく心が浮き足立ってしまうのも、また仕方のないことだ。なにしろ、もしこれが旅行だとしたら、ふたりにとってはじめての旅行だった……相当、変な出だしだけど。
さらに変なことに、エアリス嬢の母さんが、彼女を急かした。
「ほら、早く行きなさいな! 時間ないんだろ? そんな寝間着なんてなんだっていいからいいから、買ってもらえば……それくらいの甲斐性のある男じゃなきゃねえ」
エアリス嬢は、母親のそのひとことでちょっと赤くなった。
ヘリポートは、だだっ広くて、コンクリートの冷たい床がざりざりした感じで、なんとなくひとを落ちつかない気分にさせる。エアリス嬢はかわいい花柄の旅行かばんを持ち、右肩からまた別の、茶色の皮カバンをぶら下げて、そわそわと立っていた。どんな格好をしてくればいいのかまったくわからなかったから、とりあえずのワンピースと、コートとブーツ、それにマフラーをしてきたけれど、こんな格好で大丈夫だっただろうか?
数分間所在なげに待っていたら、上空からバラバラという音が聞こえてきて、それがしだいに近くなってきた。エアリス嬢は上を見上げた。中型のヘリコプターが、ヘリポートに近づいてきた。ものすごい風圧で、エアリス嬢はワンピースの裾を押さえるのに、すごく苦労した。
ヘリが空中で停まった。梯子がおろされ、ザックスがドアを開けていかにも慣れた調子で降りてきた。
「やっほっほー。久しぶりなんだかよくわかんないけど、ちょっとこいつで一緒にお散歩しない? だいじょぶだって、壊れないから」
エアリス嬢は、不覚にもザックスを一瞬かっこいいと思ってしまった。そして、あわてて自分のそんな乙女思考を頭から追いやって、あくまでむくれているふりをした。
「ザックスって、すっごーく、勝手」
ザックスは頭を掻いた。
「うん、そうね、ちょっと急だったかな?」
「ちょっと?」
エアリス嬢は眉をしかめ、ザックスの顔をのぞきこんだ。
「わたし、なんにもわからなくて、荷物まとめるのにすごく、苦労したんですけど」
ザックスは両手を挙げ、降参! と云った。
「わかったよ、わかったよ謝るよ! あとで殴っていいよ。正面からがつんと一発。ザックス、もんどり打って倒れる。ああ、どうかお慈悲を! お慈悲を!」
エアリス嬢はたまらず吹き出してしまった。
「わたし、ヘリって乗るの、はじめてなの」
「だろうね。たいがいの女の子は、乗ったことないと思うよ」
「それにね、わたし、友だちみんなの中で、はじめて空を飛んだ女、ってことになるの! はじめて夜景の見えるレストランでお食事した、とか、はじめて婚約指輪もらった、とかいうんじゃないのよ。そんなありきたりなの、まっぴら! わたし、うれしい!」
エアリス嬢はザックスに飛びついた。
「うわーお」
ザックスは云い、口笛を吹いた。
「エアリスちゃんって、刺激的な子だったのね。ザックスちゃん、またまたびっくりよ」
彼はエアリス嬢の旅行カバンを左肘にひっかけ、皮カバンを自分の肩にかけると、エアリス嬢のお尻をつかんで抱え上げた。エアリス嬢はザックスの肩におっかぶさって折りたたまれたような格好で、げらげら笑った。ザックスは蜘蛛みたいに梯子をよじ登って、ヘリの中に入っていった。
クラウドの母さんは、郵便屋と戦争をおっぱじめるところだった。とてもじゃないが女ひとりで郵便局まで運べそうにない量だったので、彼女はまず荷物を取りに来てくれるように頼んだ。そうしてひょこひょこやってきたのはまだ若い、今年の春ニブルヘイム支局に赴任したばかりの、のっぽな、ちょっと頭の回らない、まだ少年と呼んで差し支えない歳の男だった。クラウドの母さんは段ボール箱四つにわたる荷物を指さし、これを明日か明後日にはアイシクルエリアに配送されるようにしてもらうには、いくら払えばよいかと訊ねた。男はポケットから折りたたまれた紙を取り出し、小学生のように唇を動かしてから、アイシクルエリアには特急便で出しても配送までに最低四日かかるので、どうしたってそれはできないと云った。クラウドの母さんは食い下がった。
「あのね。人間が二日で行けるのに、それより軽い荷物が四日かかるなんて、そんなばかな話ないでしょうが。あたしはね、息子に会いに行くの。これ、息子のための荷物。あの子、かわいそうに北のすごく寒いとこで死にかけてんの。いい? どうしたって、明後日には届けてもらうから。金なんかいいのよ。いくらかかったって。問題はそれでしょ? もったいぶってないで云いなさいよ」
この憐れな若い郵便局員は、そのへんの大人の事情をまだはっきりとは把握していなかった……それに、そんなことを知るには若すぎるとも云えた。彼はにっちもさっちもいかなくなって、局へ電話した。クラウドの母さんはお化粧をはじめた。局長が飛んできた。ストライフ夫人にはいつもはらはらさせられる。彼女はしょっちゅう息子に荷物を送るので、ニブルヘイム支局にしては大のお得意さんだったが、たいていの母親のように息子のこととなったらばかになってしまって、やれ明日までに届くようにしろだの、順番はこうしろだの、無理難題をふっかけてくるので有名だった。しかし、彼女はたいていの母親よりも若く、美人だった。それは間違いなく大事なことだった。いつもはストライフ夫人からの電話は、ぬかりなく局長に回されることになっていた。でも今日はなんの手違いか、間抜けな新入りが自分で電話を取り、自分で処理することにしてしまったらしいのだ。
局長はほぼお化粧を終え、極上の美人なったストライフ夫人に、うやうやしく非礼を詫びた。彼女は長い金髪を優雅に肩に垂らし、身体にぴったりした丈の短いニットワンピースを着ていた。すばらしい形の脚が、レース柄のタイツにくるまれて伸びていた。香水をつけているのか、どことなくエキゾチックな甘い香りがした。夫人は、荷物はちゃんと届くのかと訊ねた。局長はもちろんだと云い、いつものように、特別割増の料金を掲示した。ストライフ夫人は鼻を鳴らし、受け渡し書にサインし……
そのとき、来客を告げるベルが鳴った。ストライフ夫人は「どうぞ! 開いてるから」と声を上げた。黒髪を逆立てた男がにこにこしながら入ってきて、「お迎えに上がりました、マダム!」と叫んだ。彼はものすごい力持ちで、大きな荷物をひょいひょいと担ぎ上げ、どこかへ運び去ってしまった。ストライフ夫人は外出用の黒いブーツに履き替え、「わるいんだけどさ、どうも、荷物送らなくてもよくなったみたい。また今度お願いするわ」と云った。局長と若い局員は、すごすごと引き下がった。
ヘリは近所の空き地の上空でホバリングしていた。夫人は、当然、自力で梯子を登るなんてことはしたくないし、そんなことはこのようにスカートを履いた女がするべきことじゃないと云った。で、ザックスは彼女をうやうやしく抱き上げ、ヘリに運びこんだ。
「なんだかなあ!」
ザックスは考えた。
「しっかし、閣下の母ちゃん、美人だよなあ! 閣下にそっくりだけど。でも、友だちの母ちゃんを抱き上げちゃうなんて、なんだかなあ!」
ヘリの中には先客がいた。茶色い巻き髪の、いまどき珍しい清楚な感じの女の子がザックスの彼女だということは知っていた。それからヘリの操縦をしている、ニンジンみたいな赤毛の男を見た。
「あんたさ、小学校のときのあだ名、ニンジンだったでしょ?」
ストライフ夫人は容赦なく云った。
「あたしのクラスにもいた。あんたみたいなものすごい赤毛。そばかすでさ。あんた、彼女いる?」
タークスのレノはこれでも一応、女性にもてる方だったし、またそれなりに経験も積んでいるものと自負していた。でも、初対面で会ったそばから彼女の有無を訊かれたのはこれがはじめてだった。彼は仰天し、間に合っていると云った。
「違うわよ、ばかね。あたしさ、こんなだから割と誤解されやすいの。彼女がいる男と絡もうもんならもう修羅場。だから誰にでも訊いとくの。だって相手に悪いでしょ?」
レノは赤くなってうつむいた。ザックスは笑いをこらえるのに必死だった。
クラウドの母さんは、ザックスがしだした湿っぽい話題……つまり彼女の息子についての話題……をすぐに脇へ押しのけてしまった。
「いいのいいの、うちの子のことは。なんか楽しい話しない?」
と云って、道中のべつ毒舌と猥談を振りまいた。クラウドの母さんは、恋愛談がなによりも好きだった。ザックスとエアリス嬢に向かって、やれいつからつきあっているのかだの、告白はどっちからだの、初デートの場所や性生活のことまで聞き出そうとした。今度はザックスが赤くなり、レノが笑いをこらえる番だった。エアリス嬢は案外あっけらかんとして、ますますザックスを赤くさせたり青くさせたりした。エアリス嬢はヘリを降りたあと、こっそりザックスにこう云ったものだ……「あのひと、すっごく個性的ね。楽しいひとだけど」
「息子見りゃわかんじゃん」
というのがザックスの弁だった。
女性ふたりと大量の荷物とザックスを降ろし、レノはふたたびミッドガルに帰っていった。あたりはすっかり暗くなっていた。もう夜の八時を回っていた。ストライフ夫人はヘリを降りたとたん、「くそ寒いってのはこのことね」と云い、からから笑った。エアリス嬢はこんなに寒いところに連れてこられるとは思っていなかったので、そうと知っていたら、自分の上着、もしくは下着をもう少し工夫できたと考え、ザックスにぷりぷり怒った。ザックスは頭をかき、エアリス嬢を自分の借りているコテージへ連れていき、クラウドの母さんはピエントさん夫妻に託した。クラウドのあの状態をエアリス嬢にまで見せるのは、あまり賢い判断とは思えなかったし、それにクラウドの気持ちを考えたら、自分の弱っているところを見られるのは最低限の人間にとどめておきたいはずだった。
ピエントさん夫妻はストライフ夫人を明るく歓迎した。ことにピエントさんの奥さんは、息子思いな母親として、同じく息子思いな母親に共感を寄せ、クラウドが寝ているコテージへ向かうあいだじゅう、クラウドのことについてあれこれしゃべりまくった。
「ほんっとにかわいいお子さんで。それにあんな歳で母親から独立して……なんて健気だこと!」
この話題は、ストライフ夫人の専門分野、彼女だけが専門とすることを許された領域だった。ストライフ夫人はすっかり気をよくし、お返しにピエント夫人の息子さんのことも訊いて、褒めまくった。
「大学出てる! あたしの息子なんか義務教育終えたっきりなのに? 優秀なんですねえ!」
でもあとで彼女はセフィロスにこっそりこう云った。「だってあのおばさんにいい印象持たれなきゃ、やってけないじゃないの。迷惑かけてるんだしさ。それに、クラウドのこと気に入ってくれてるみたいだし」
ともかくも、ストライフ夫人は無事コテージへ到着した。ピエントさんがやや緊張した面持ちで、荷物持ちを引き受けた。なにしろ彼にとっては、奥さん以外の久方ぶりの、レディだったのだ。
セフィロスが玄関に立っていて、ストライフ夫人を見ると、実に複雑な微笑を浮かべた。彼女は無言でセフィロスに近づき、同じような微笑を浮かべて云った。
「ま、そんなに気をもまないのよ! あんたが死にそうみたいな顔してんじゃないの!」
それから彼の頬をぺしぺし叩き(こんなことができる女性はこの世にストライフ夫人だけだった)、図体のでかい、もしかしたら将来自分の息子になるかもしれない男をハグしにかかった。そして、自分のかわいい、いい子のクラウドを見せてくれと云った。
「母親が来る、という話はしていない」
階段を登りながら、セフィロスは云った。
「あの子意識はあるわけ?」
セフィロスはそれは保証するが、寝ている時間が多いのだと云った。クラウドの母さんは鼻を鳴らした。
セフィロスが寝室のドアを開けた。クラウドの母さんはすぐに、自分の息子ののっぴきならない状態を見て取った。息子の頬は、りんご病をやったときみたいに赤かった。彼は点滴を打たれて、頭に白いタオルを載せ、氷嚢を頭の下に敷いて、か細い息をしていた。額にはびっしょり汗が浮かんでいる。
セフィロスは、クラウドの母さんがショックを起こしたり、倒れたりすることまで覚悟していた。でも、クラウドの母さんは気丈だった。息子みたいに。目を見開いたのはほんの一瞬で、すぐに顔を引き締め、鼻をすすると、ずんずん寝室の中へ入っていった。そして、燃えるように熱い息子の手を取った。
「クラウド」
母さんは呼んだ。クラウドはうなされているひとみたいに細くうなってから、目を開けた。その目はぼんやりしていて、焦点があっていなかった。
「わかる? あんたのママよ!」
そう云って、ポケットから白いものを取り出した。布マスクだった。
「ゾウがついてるやつよ。水色の。ぐるぐるストローのコップ持ってきた。ショーンじいさんの山羊のミルク飲む? ひどい顔ねえ! 湿布貼らないとね。にがーい煎じ薬飲ませるから覚悟しなさいよ! それから、ゾウのランチョンマット持ってきた。あんたのカップもよ! あんたのこと話したらさ、お菓子屋さんの奥さん、若い方じゃなくてよ、あんたにって、パウンドケーキと、シュトーレンくれたの。毎日切って食べなさいって。お砂糖どっさりのやつよ!」
クラウドは母さんがしてくれたマスクを弱々しい手で外して、ひっくり返して見た……マスクの右下のところに、空色のゾウのアップリケがついている。いつも風邪のときにしていたマスク。さあ! クラウドは、すっかり胸がいっぱいになってしまった。母さんだ! クラウドは、すんでのところで泣いてしまうところだった。彼は男なので、泣いてはいけなかった。でも、どうしても我慢できなくて、母さんに弱々しく腕を伸ばしてしまった。母さんはかがみこんで、クラウドをぎゅっと抱きしめた。クラウドは母さんの胸と頬に顔をはさまれるような形になった……母さんのにおいがした。クラウドは心の中で何回も母さん、を云った。口に出すには喉が痛かったし、それに恥ずかしかった。
「いい子ちゃん!」
母さんは云った。
「あんた、頑張ったんだって? ひとりで百人ぶん働いたわけね! いつものことだけど。あんたって、目端が利きすぎるのよ。もうちょっと鈍感に産んであげたらよかったかもね」
クラウドが盛大に鼻をすすった……そして、盛大過ぎて激しく咳こんだ。母さんはクラウドの背中をさすりながら、なだめるように「シーッ」と小さく息を吐きだした。それはクラウドに、子どものときにかかったひどい流感や、そのほかいくつもの病気のことを思い出せた。そして、そういうことを思い出しながら、彼は不思議とすごく安らかな気持ちになった。病気には、主にふたつの思い出がある。症状の不快な記憶と、それに看病された甘ったるい記憶。クラウドは母さんのにおいを嗅ぎながら、十年くらいの時間を一気にさかのぼった。クラウドはニブルの家にいた。クラウドは病気で、母さんがなんでも世話を焼いてくれる。窓の外を見ると、雪が猛烈に降っている。でもベッドの中はとても暖かい。クラウドの熱のせいだ。クラウドは体温計を口に加え、胸のところにユーカリとハッカのにおいのするスースーする湿布を貼っている。額にはタオル。ベッド横のサイドボードには、クラウドの大好きな空色のコップに、山羊のミルクを入れて置いてある。こぼれてもいいように、その下には空色のゾウがついたランチョンマットが敷かれている。ベッドにはおもちゃがたくさん並べられている。クラウドがどっちに転がってもおもちゃに当たるように、母さんが並べてくれるのだ。まん丸の赤い鼻のピエロはお気に入りだ。手触りのいいウサギと、かっこいいロケットも。クラウドは早くよくなって、木馬に乗りたいなあと思う。ちょっと口を開いた、つぶらな瞳の木馬は友だちだから、クラウドが乗らないと、すごく寂しい思いをするのだ……
目を開けたとき、クラウドは自分の記憶にあるとおりの自分のベッドには寝ていなかったけれど、枕元には見覚えのあるおもちゃが並べられていたし、喉元からは湿布のにおいがして、サイドボードにはコップとランチョンマットがあった。クラウドはいまは、チョコボのアップリケがついたマスクをしていた。そして、母さんがベッドの横に椅子を持ちこんで座っていて、編み物をしていた。それで一瞬、クラウドは自分が実家にいるのか、どこにいるのかあやふやになった。でも記憶をたどって、あたりを見回して、ここが間違いなくあのコテージだってことに確信を持った。そしてそこに、母さんがいる。母さんは、ニブルからわざわざ来たんだろうか? クラウドはすごくうれしくなって、母さんをじっと見た。母さんはかぎ針を器用にすいすい動かして、赤と黒の糸で、長方形のなにかを編んでいた。その姿は、クラウドにはすっかりおなじみだった。母さんは、冬はいつもこんな感じで編み物をしている。クラウドが学校から帰ってきたり、外で遊んでから帰ってきたりしたときは、母さんは居間でこんな感じに座って、鼻歌なんか歌いながら、針を動かしているのだ。
「起きたの?」
母さんが編み物から目を離さずに云った。クラウドはくすぐったい気分になって、ちょっと布団に潜りこんでいった。母さんには、どうしてばれてしまうんだろう? それに、もっと不思議なのは、母さんはクラウドが夜起きると、必ずすぐに目をさますことができるということだ。たぶん、母さんって、テレパシーかなんか使えるのだろう。
「どうなの、気分は」
母さんは立ち上がって、クラウドの横にやってきた。喉の痛みは引いている。クラウドは用心しいしい、声を出してみた。
「だいぶいいよ」
ちょっとかすれていたけれど、思ったよりひどい声じゃなかった。母さんはクラウドの額に手を当て、自分のと比べた。
「うん、だいぶいい。まだちょっと熱いけど、でもねえ、予言するわ。七度台の、真ん中より下。賭けてもいいわよ。ほら、熱測りな。その前に山羊ミルク飲む?」
クラウドはこくんとうなずいて、ふらふらしながらも母さんに支えてもらって、ベッドの頭板にもたれて身体を起こした。そして空色のコップから自分でミルクを飲んだ。冷たくてすごくおいしかった。ニブルで飲んでいたのと同じ味だ。それを云うと、母さんは笑った。
「だって、それショーンじいさんちの山羊のミルクだもん。あたし持ってきたのよ。こーんなでっかい、五リットル入るタンクに入れてさ!」
それでクラウドは、大好きな空色のコップに三杯飲んだ。それから熱を測った。母さんの予言は正しかった……いつだって正しいのだ。クラウドの熱は、七コンマ四だった。クラウドはまだ病人だった。そして、本人の気持ちに従えば、より幸福な病人になった。ひどいときよりも具合がいいが、まだ完全ではなく、でもある程度回復しているので、自分の意志を示して、あれこれ注文をつけたり、甘えたりすることができる。
「いま何時?」
クラウドは母さんに袖を持ってもらって、ばんざいしてパジャマを脱ぎながら訊いた。
「午後二時半よ」
「もうすぐおやつだね。今日って十二月十四日?」
母さんはクラウドの体を拭く手を止め、めんくらった顔をした。それから、笑い出した。
「あんたねえ! かわいそうな子! 今日は十七日! クリスマスまであと一週間と一日!」
「うそだ」
クラウドは両手で頬を抑えて叫んだ。急に酷使された声帯がびっくりして、咳が出た。
「あんたったら、あたしが来てからまるまる三日、昏々と眠り続けたもんね。失った時間は取り戻せないけどさ、ま、しょうがないわよ。こんな年もある」
クラウドはみるみる悲しそうな顔になった。風邪のせい(と本人は思いこんでいた)でめちゃくちゃだ! 貴重な休暇なのに!
母さんはいかにも同情した顔になって、「ねえ!」と云った。
「あんたがなに考えてるか、わかる気がする。でもね、だめよ、起きたら。まだ熱があるんだし」
クラウドはあんまり悲しいので、鼻をすすって、「あんまりだよ」と云った。
「おれ、なんで三日も寝てたの? っていうか、五日も寝てたの? 信じられないよ!」
母さんは笑いだした。
「あんた、すんごくかわいそうだったのよ。顔は真っ赤で、うなされてさ、熱なんて、九度もあった。猩紅熱みたいだったわよ。あたしあんたに障害が残ったらどうしようって思ったのよ! ほら、それよかましでしょ?」
クラウドは救急車とか消防車とか、いろんな車のイラストがプリントされている青いパジャマを着せられて、再び寝かしつけられた。
「風呂に入りたいよ」
母さんは笑った。
「お医者がいいって云ったらね。そりゃそうと、あんたのダーリン、いま外にいるの。なにしてるかは知らないけど。呼んでくる?」
クラウドは首を横に振った。だって、セフィロスとはだいたい一緒にいられるけれど、母さんとはまた別れ別れにならなくちゃいけないのだ。それを考えると、クラウドはいまからすごくつらかった! ニブルを出てきたときより、もっともっとつらかった。風邪のせいで、ほんとにめちゃくちゃだ!
母さんはクラウドが寝ている横に腰かけた。それで、クラウドは母さんの太股のつけ根のあたりと、ベッドの間に鼻先をつっこんだ。母さんはクラウドの金髪を優しく撫でた。
「ときどきさ、あんたのこと、外に出すんじゃなかったって思うの。でもそう思ったすぐあとに、だけどクラウドは男の子なんだし、どうしたっていつかは出ていくんだって思うわけよ。でしょ? あんた、ひとりでなかなかうまくやれてるじゃない。それって、大事なことだもんね。だけどだからって、あたしたち、なにかが変わったわけじゃないでしょ。成長するってさ、そういうこと。どっかで、痛い思いしなくちゃいけないわけよ、お互いに」
クラウドは目をつぶった。クラウドは、母さんからひとり立ちした。男なら、当然だ。でも、ときどきは子どものクラウドに戻ったっていいし、だからいまは別にいいんだ。そう思いながら、クラウドはうとうとしはじめた。もうすぐ眠っちゃうなあ、と思いながら、クラウドは母さんがそっとクラウドの頭を枕の上に戻すのを感じた。湿布のにおいに包まれて、クラウドはすやすや眠った。病気のための眠りではなくて、疲労回復のための眠り。
セフィロスがコテージへ戻ってくると、クラウドの母さんが台所で料理をこしらえていた。
「あら、おかえり。あのさ、帰ってきて早々悪いんだけど、医者呼んでくれない? あの子、さっき目覚ましたの。熱がなんと七コンマ四まで下がったわけよ。すごいと思わない?」
セフィロスは氷のようになった鼻をそっと指先であたためていたが、これを聞いて目を見開いた。クラウドの母さんはにやにや笑った。
「悪いね。でも母親の特権って、これくらいしかないわけよ」
セフィロスはもちろん、はなっから、母さんと勝負するつもりはこれっぽっちもなかった。母親と恋人では、役割がまるで違うのだ……混同している男もいるが。この三日間、絶えずクラウドのそばにつきそい、彼のためにあれこれ世話を焼いたのはクラウドの母さんだった。だから彼女には、自分の息子と真っ先に会話を交わす権利がある。当然だが、彼女は慣れたものだった! クラウドの母さんなので、クラウドが病気のときにどうするべきか、彼女は全部知っていた。クラウドの子どものころのものを全部持っているので、彼のベッドのまわりを見慣れた品で取り囲むことだってお手のものだった。そしてクラウドにとって、そういうのはとても大事なことなのだ。彼は、ものに執着する子なので。もちろん、クラウドは新しいことが好きで、刺激が好きで、変化が好きだ。でも、彼はそれと同じくらい、見慣れた、自分のものになったものが好きなのだった。耳あてひとつとってもそうだ。彼は心底気に入ってしまったら、もう意地でもそれを変えたくないのだ。自分の身体が大きくなったとか、歳がいくつになったとか、そんなことは関係がない。だから、母さんがきてからクラウドの調子がだんだんよくなったのは、非常に納得できることだった。本人が心からのびのびして安心できる環境にいると、しだいに不調の方でひとりでに居づらくなって、出ていってしまうものなのだ。
いちじるしく眉毛の濃いお医者が、いつぞやみたいにピエントさんと奥さんをともなってやって来た。クラウドはうとうとしていたが、ドアが開く音で目を覚まして、自分の主治医がいかに個性的な眉を持っているかはじめて知るに至った。そうして吹き出しそうになったが、どうにかそれをこらえた。クラウドの熱は七コンマ一まで下がっていた。
「峠は越えたようですね」
お医者はぴくぴく眉を動かしながら云った。
「気管支炎もだいぶいい。若さというものは、ねえ! 君」
お医者は感慨深げに云うと、クラウドの身体をぽんぽん叩いた。
「母親の力ですよ、あたしに云わせれば」
ピエントさんの奥さんは満足そうに小声で云った。クラウドの母さんは肩をすくめた。医者は否定しなかった。
「あの、ご飯食べてもいいですか? それから、風呂に入ってもいいですか?」
クラウドが云うと、医者は笑い出した。
「食事は消化のいいスープからにしなさい。お母さんから作ってもらってね。君のお腹は五日もからっぽだったんだよ! ゆっくり、少しずつ!」
「でも、おれさっき、山羊ミルクコップに三杯飲んじゃいました」
お医者はもっと笑った。そして、もう少し体力が回復しなければ入浴はとても認められないと云った。
点滴の管とカテーテルが外された。クラウドは自分ひとりでトイレに行けるようになった。で、行ってみることにしたが、立ち上がるとふらふらした。歩くのも変な感じだった。たった五日で、彼の筋肉に重篤な変化が起きてしまったらしかった。セフィロスが見かねて腕を取り、ついていった。
「おれ、頭洗いたいよ。もう限界だよ」
クラウドが唇をとんがらかして云った。セフィロスは、たしかになかなか見事にへたりこんでいると云った。
「母さんに、お湯の要らないシャンプーと、シャンプーハット持ってないか訊いてくれない? きっと、母さん忘れてないと思うけど」
クラウドはなんとかトイレに行って、セフィロスに支えられながら、洗面台で、大好きなメロン味の練り粉で歯磨きをした。クラウドはでも、自分で歯磨きすることを早々に放棄して、セフィロスにやってもらった。彼は甘えていた。母さんに甘えるよりももっとストレートに、どぎつく、甘えていた。本人曰く立派なおとなの、十六歳のクラウドとして。彼は歯ブラシをくわえたまま、何回もセフィロスにべったりくっつこうとするので、セフィロスにしてみたら、やりにくいことこの上なかった。でも彼は我慢して、クラウドのしたいようにさせた……というより、これが通常運転のクラウド・ストライフだった。クラウドはようやく、ちょっとばかり元気になったのだ。丁寧に歯を磨いてやり、クラウドがいつも家で使っているブタのコップでぶくぶくうがいをするのを見守りながら、セフィロスはそれを噛みしめていた。