緑のバスルームの理由と、みんなで最初の晩餐
ローコヴェンハウム家の中は、クラウドの母親が取り仕切っていることを考えれば驚異的なくらい片づいていた。セフィロスははじめ、信じがたいと思った……クラウドの散らかし魔ぶりを知っていたから。彼は、ぜったいにものをもとの位置に戻さない。戻すのは、気に入っているぬいぐるみとか、工具類だけ。あとは使ったその場に置きっぱなしだ。それが、この家ではすべてがあるべき場所にきちんとおさまっている。廊下を照らすのは壁にくくりつけられたオレンジの、花の形をしたランプ。リビングには大きな焦げ茶のソファがあって、灰色の猫が一匹、急に家の中が騒がしくなったのでどうしたらいいかわからないという顔で、そこに小さくなっていた。たぶん、こいつがエスメラルダだ。緑に輝くつぶらな目をしていて、どことなく神経質そうだった。彼女はセフィロスを見るとびくっと身体をふるわせ、おそるおそる彼が通り過ぎるのを見送った。
ダイニングルームは乳白色の光に照らされて、テーブルの上には食器と鍋がもうしっかりセットされていた。テーブルの隅には薄黄緑の小瓶に生けられた花。テーブルの中央には、たぶんおそろしく年代ものの、本物の燭台がある。セフィロスはため息をついた。四つ並んだ食器。家庭。団欒。これまでの人生の大半で、まったく縁がなかったものだ。それがどうだろう? 結婚するということは、そういうものの中へ、飛びこんでゆくということだ。クラウドと家族。クラウドの家族。やかましく、しょっちゅうなにか問題があって、でも退屈したり孤独を感じたりするひまもない。
男三人は、おとなしく席についた。クラウドはその前に、手を洗ってくるように母親に云われて、命令されてぶたれた犬みたいに大急ぎでバスルームに走っていった。セフィロスもあとに続いた。
バスルームは全体的に、淡い緑色で統一されていた。壁やタイルは白だったけれど、置かれているタオルや小物類が、みんななにかしら緑に分類される色だった。
「母さんは緑が好きなんだ」
クラウドは緑色の石鹸を泡立て、泡をセフィロスの手になすりつけながら云った。あたりにオリーブの香りが広がる。
「おれは空色。だから、分担を決めたんだ。バスルームとキッチンに長々いるのは母さんだから、そこは緑色。リビングは空色。これ、実家の話だけど。父さんは木目とか、原材料がむき出しのが好きだから、ここんちのリビングはそうなってる。で、玄関ドアが空色なんだ。二階は、これから生まれてくるやつのために真っ白にしてとってある」
「それで、文句が出ないようにしたわけか」
「そうだよ。母さんってそういうひとなんだ」
クラウドは手の泡を流しながら云った。うつむいていたけれど、その顔はやっぱりどこか、誇らしげだった。
「それで、結婚宣言だけど、あんたが云いだしたいとか、そういうのある? 男の沽券っていうんだっけ? そういうの」
手を洗い終えて、せっかくタオルがあるというのにクラウドは、手を振って水滴をそのあたりにまき散らしてからジーンズで乱暴にふき取った。
「そういうことばもある。絶滅しかけているが。今回帰ってきたのは、結婚もそうだがその前の……」
「名字戻すほうだろ。わかってるよ。おれ、母さんはぜったい裏技使ったんだって思ってる。変な知りあいいっぱいなんだ、母さんって。昔、前の父さんに死なれた直後に、母さんちょっとそういう……わかるだろ、深夜営業の店で働いてたことがあって。ものすごいきわどい服着て踊ったりするんだって。そのころに、役人とかいろんな知りあいができたらしいんだけど。書類偽造とか、母さんいかにもやりそうだもんな。でももしかしたらやってくれたのパパなのかな。大丈夫、たぶん母さんがなんとかしてくれるよ。なんでもできちゃうんだ、ほんとに。昔、母さんは魔法使いだからって云ってた。たぶん、それほんとだと思う」
セフィロスは薄く微笑した。すべての母親は、子どもの前ではきっと魔法使いに違いない。クラウドはバスルームのドアを開けかけたが、ふいに振り返って、云った。
「あのさ。わかってると思うけど、息子さんをおれにくださいとか、そういう典型的なのなしだからな。ぞわぞわしちゃう。うちはそういう感じじゃないんだ。それから、父さんは酔っぱらうと話が長いから、気をつけたほうがいい。あと、母さんの前でおれの悪口禁止。逆もそうだけど、地獄が待ってるから。ほんとに。近所の気持ち悪い男病院に送ってるし、同級生の父親と裁判所まで行って争ったこともある」
ずいぶん闘志にあふれた激しい魔法使いだ。セフィロスは、そのことについてはたいへんよくわかっていると云った。ぎたぎたにされてニブル山に放りこまれるのは、勘弁してもらわなければならない。
食堂へ戻ると、部屋の中は食欲を刺激する香りで満ちていた。それぞれの皿の上に、料理が盛られている。オーブンで焼かれた色とりどりの野菜、生前何者だったのかまだ正体不明の肉の塊、じゃがいもと豆がどさっと入ったミルク仕立てのスープ(クラウドはこれが好きだ、ひとりでひと鍋食べてしまう)、パンとチーズ。母親はまだ台所でごそごそやっていて、料理がこれで終わりではないのがわかる。当然だ。クラウドの主食であるイモがない。クラウドは自分の席へ飛びこみ、もう待ちきれなくて、フォークで皿をかんかん鳴らし、身体をゆすった。ローコヴェンハウム氏が、打楽器演奏ならできればドラムか、なにか木製のものでやってくれと云う。
「キンキン響く音は腹に悪いんだ。これほんと」
クラウドはそれで、フォークをテーブルに戻し、足をぶらぶらさせた。セフィロスはひとり眉をつり上げた。母親以外に、クラウドにこんなふうに云うことをきかせられるひとがいるなんて、驚きだった。それで、彼はローコヴェンハウム氏をとても尊敬しはじめた。それにキンキンする音が腹に悪いというのも、三十年生きてきてはじめて知ったことだ。ちょい髭のローコヴェンハウム氏は、クラウドがフォークを置いたのを見ると、またなにもなかったみたいな顔で腕を組み、一家の主の風格で、食事を待った。
「あのオンボロバイクどうなった?」
相変わらず足をぶらぶらさせて、椅子からずり落ちたり戻ったりを繰り返し、クラウドは云った。まったくかたときもじっとしていられない子だ。でもクラウドの今日のそわそわは、仕方がないことだ。
「もうちょいで新品みたくなるとこ。明日色塗り直す。そしたら、試運転だな。おまえやるか?」
「いいの?」
クラウドは目を輝かせた。
「ただし、つなぎ目が緩くて、乗ってる途中で全部分解されてばらばらになっちゃっても、責任持てない」
ローコヴェンハウム氏はにやっと笑った。
「ぜったいないよ」
クラウドはばかにしたような顔で云った。
「父さんの仕事に限って」
セフィロスは頬がゆるみそうになるのを抑えるのに苦労した。クラウドとその新しい父親とのあいだにある男どうしの信頼関係を、読みとったからだ。それはたぶん、確かに父親と息子のそれだった。クラウドは彼を信頼しているし、尊敬している。ローコヴェンハウム氏のほうでも、クラウドを信頼している。それはあきらかなことだった。セフィロスは男親の重要性について、自分の考えを改めなくてはいけないかもしれないと思いはじめた。
クラウドの母さん、現ローコヴェンハウム夫人が真っ赤な小さい鍋を持って、中身をテーブルの上の皿に分配しはじめる。イモだ。クラウドが恋い焦がれるイモ。乱切りにされ、おそらく一度油で揚げられて、それから赤い鍋の中で味つけされたやつだ。バター、たぶんサワークリームに、塩とコショウ。バジルを少々。客であるセフィロスの皿の上に、一番最初に乗せられる。次が一家の主の皿。クラウドが自分の皿に来る前に鍋の中身がなくなりはしないかと、はらはらした顔で見守る。彼女は、次に自分の皿の上に、鍋の中身を全部移してしまう。クラウドがもうすこしで人生に絶望してしまうというところで、同じ料理が入った別の鍋が……今度のはずっと大きい……登場する。母親はまた別の皿を持ってきて、その鍋の中身を全部移し、クラウドの目の前に置いた。
「はい、お待たせ。晩餐の時間です。いい? 大きな声で……」
「いただきます!」
クラウドとコーコヴェンハウム氏がばかみたいにでかい声を張り上げ、食事にかぶりつきはじめた。
「クラウド、あんたワイン飲む? ヤギさんとどっち?」
「ヤギさん」
クラウドが猛烈な勢いでイモを口に運ぶ合間に答える。
「ぐるぐるストローのコップにする?」
「こっちの家にあったっけ? あるんだったらそれ」
すこしして、そのぐるぐるストローのコップが、彼の前に置かれる。空色の半透明のプラスチックでできたコップの周りを、同じ素材のストローが二周半回って、最後の数センチがコップから突き出している。なるほどこれはぐるぐるストローのコップだ。それ以外に云いようがない。クラウドがストローに口をつけると、白いヤギさんミルクがコップの周りを回って、口の中に吸いこまれる。
「あんたのもあたしのも、あっち行ったりこっち行ったりしてるからね、なにがどこにあるんだか、あたしもよくわかんない。ところでさ、すごい大事な話していい?」
食事に熱中していたクラウドと、ローコヴェンハウム氏がいっせいに顔を上げる。
「あんた」
と云ってエミヤ母さんはセフィロスを指さした。
「歳いくつ?」
セフィロスはうろたえた。年齢のことに関しては、ちょっと負い目を感じていたからだ。
「…………三十」
絞りだすように云うと、クラウドが慰めるように肩をたたいた。
「うん、わかってるわかってる。ロリコンの犯罪者だってよくわかってる。おれが一番わかってるよ。でもしょうがないよ。むらむらきちゃったもんはどうしようもない」
「その云いかたは誤解を招くと思うんだが」
「事実だろ。母さん、このひと母さんと六つしか離れてないんだ。父さんとはふたつぽっきり。いかれてると思うけど、どうしようもないよ」
セフィロスがここ数ヶ月ずっと気にしていたことを、クラウドはあっさり云ってしまった。結婚相手より親のほうが年齢が近いなんてことは、これは相当に問題になることだ……普通の家なら。でもここは普通の家ではなかった。
「だいじょぶ。うちみんないかれてるから。あたしのいとこに、五十離れたじじいと結婚したのだっている。遺産目当てだけど、もちろん。じいさんは結婚して一年半後に死んだの。あたしらの中じゃさ、よく一年半も我慢したわよねって話。もっと早く殺すと思ってた……警察も調べたみたいだけど、証拠不十分でその子いま左うちわで八歳年下の弁護士といちゃついてる。そんなもんよ、人間って。ねえ?」
話を振られたローコヴェンハウム氏は、頭を掻いた。
「うちは恋愛に関してはそこまで自由じゃないからなあ……うちの場合は名前なんだ。いっつももめる。おれの兄貴は名前のせいで嫁がもらえないんだって云ってるけど、ありゃ本人のせいだ。だってさ、誰が女の身体より鉄道模型に欲情するような男とくっつきたがる? ああ、あのな、うちの兄貴、筋金入りの鉄道オタクなんだ。もう殿堂入りもいいとこ。好きすぎて、鉄道会社に就職してる。彼女なんて、たぶんいたことないんじゃないかな。人間を愛せないんだよ。妹は逆に、すごい早さで結婚したんだ。名字がいやで。まあなんにしても、いかれてるってことは、まともよりはましだ。普通よりはまし。おれだったら、年齢より相手が男だっつうことのほうをまず疑問に思うけど……でもこういうの、普通の発想なんだろうな。うん、もうなにも云わない。まとめると……」
「勝手にまとめない。あたしが云いたいのは、自分と六つしか違わない男に息子面されて敬語とか使われたら死んじゃいたくなるって話。あんた、あたしに敬語とか禁止。息子とつきあってるからって、自分ばっか若いカテゴリーに入ろうとしたって無駄だからね。三十すぎたらもうみんなおっさんおばさんなの。誰もなりたくなんかないだろうけど」
「三十はきついよ。せめて三十五……」
「そしたらこの中であたしだけおばさんになるじゃない。だめ、ぜったいだめ。ただでさえ女は若いほうがいいとか……」
クラウドが横から肘でつついてきたので、セフィロスは云い争いから視線をはがすことができた。
「いいから黙って食べてなよ。あのふたりいっつもああなんだ。母さんが云いたいのは、気遣わないで普通にしてねってこと。いいひとぶったこと云わなきゃいけないときは特に、云いかたがまわりくどいんだよ。ひねくれてるから。おれといっしょ。悪気はないんだ」
セフィロスは微笑した。
「そうだな。おまえ並みにひねくれた表現方法だ。で、それを見てどう思うんだ?」
クラウドは肩をすくめた。
「おれもおんなじだとしたら、おれってなんてかわいいんだろうって思うよ」
「……そうか」
セフィロスは重々しくうなずいた。
「ああ、そう、あと、お互いの呼び方! 最初に決めなきゃ。どうする? 名前にする? それとも、番号とかふる? あだ名とかつける?」
いまのいままで夫婦で云いあらそっていたのに、唐突に話題が変わる。
「番号にするんだったら、おれ一号がいい」
クラウドがフォークを振り回して云った。
「そりゃそうね。あんたは一番に決まってる。当然でしょ。かわいいもん」
「にしても番号はわかりにくいと思うなあ。普通じゃないから悪くないけど……だって、だったら金メッキ銀メッキ銅メッキとかでもいっしょだろ?」
ローコヴェンハウム氏にとって大切なのは、ともかく「普通じゃない」ということらしかった。
「スパナ、ドライバー、かなづちでもいいよ、おれ」
「そういう個人の趣味が反映されてるのはだめ。趣味じゃなきゃ覚えられっこない」
「名前の先頭のアルファベットで呼ぶのってスパイ映画っぽくてかっこよくない? おれがCで、母さんはEで、セフィロスがSで……あ、だめだ、シュウさんのSとかぶっちゃう。もう普通に名前でいいよ……でも、セフィロスって云いにくいんだ。おれ三年も呼んでるけど、まだ噛みそうになる」
「誰がつけたの? そんなめんどくさい名前」
ローコヴェンハウム氏は、まるで自分のことを云われたみたいにびくっとした。長年の習慣で、彼は名前について云われると、全部自分のことだと思ってしまうのだ。
「さあ。誰がつけたのかはわからない。気がついたらそうなっていた」
セフィロスは晩餐についてから、はじめてまともに口を開いたことに気がついた。でも、これは仕方のないことだった。誰だって、よその家族の食卓に招かれたらそうなるに決まっている。
「親がつけた、とかじゃなくて?」
ローコヴェンハウム氏がのんびり云った。
「そもそも、親が誰なのかわからない。生まれたときから神羅の中で育ったもので……ああ、いや、別にそれに関しては気にしていない」
ローコヴェンハウム氏がすまなそうな顔で謝ろうとするのを、セフィロスは必死に止めた。
「それって、すごくいいことじゃない? だって、めんどくさい親戚もいないってことでしょ? 親戚って、ときどきほんと皆殺しにしたくなるもんね。結婚相手のなんか特にそう。悪いひとたちじゃないけど、習慣が違いすぎるし」
パン切れを振り回しながら云う妻に、夫は複雑な顔を向けた。
「エミさん、そういうふうに思ってたわけ?」
「殺したいってこと? だいじょぶ、あんたほどは思わないから」
「……クラウド、おれ今日なんかしたらしいんだけど、原因がわかんないんだよ、ヘルプ」
「わかんないよ。だいたいさっき帰ってきたし」
「ああもう、いいのいいの。あたしとこいつのケンカのことは。じゃあ名前は名前で確定ね……へんな云いかたね、これ。それより、あんたたちのこと訊かなくちゃ。なれそめから初チュウから初ヤリから結婚まで、全部こと細かくってやつ」
「母さんが聞きたいのはおもに初チュウと初ヤリだろ?」
クラウドが顔をしかめた。
「まさか。そこまでの道のりも聞きたいに決まってんでしょ。さてさて、あたしのかわいいクラウドくんにはどんなロマンスが待ち受けていたのでありましょうか。出会い、ときめき、すれちがい……ああもう、考えただけでぞくぞくしちゃう」
そのやりとりにちょっと圧倒されていたセフィロスは、ふいに腕をつつかれて前を見た。ローコヴェンハウム氏がなんとも同情的な顔つきで、彼に苦笑を投げていた。
「慣れだよ、慣れ。こんな親子普通じゃないけど、でもなんだって普通よりはましだよ。これほんと」
セフィロスはその通りだと思うし、きっと時間が解決するだろうと述べた。
エミヤ母さんは情け容赦なくあれこれ訊いてきた。クラウドはにやにやしながらセフィロスに話を振るものだから始末が悪い。彼はおそろしく居心地の悪い思いをしながら、どうしてふたりがくっついたのかを話した。途中、初夜のクラウドがどうだったか根ほり葉ほり訊かれそうになって、彼はほんとうにあわてた。本人にも云っていない感想を、他人に……しかも母親に聞かせるというのは、相当に気まずいことだった。それにたいがいの男がそうだが、彼はこういうことは、自分の胸だけに秘めておきたいほうなのだ。幸い、ローコヴェンハウム氏がまだそういう話題には時間が早すぎると云って制したので、セフィロスはその攻撃からのがれることができたのだけれど。
「いいなあ。あたしも恋したい」
話し終わった直後の感想がそれで、セフィロスは脱力した。ローコヴェンハウム氏がぎょっとした顔で自分の妻を見、クラウドが笑い転げた……セフィロスはふいに、温かい感情でいっぱいになった。こんなにわいわい複数の人間と食事をするというのは、野営地以外でほとんど経験したことがなかったから。
「でもおれの恋愛も母さんの恋愛ももう墓場行きだね。結婚なんかしちゃったら」
クラウドがふいにちょっとしみじみした口調で云った。
「まさか。恋愛なんてその気になりゃ、いつでもできるのよ。浮気とか不倫とかいう意味じゃなくてよ。わかる? 別におんなじ相手に、何回も恋したって悪いことないでしょ」
ローコヴェンハウム氏が雷に打たれたみたいに硬直した。それから、彼は真っ赤になって、あわてて食事をかきこみはじめた。
「ま、大事なのは」
エミヤ母さんが自分の夫に優しい目を向けて云った。
「相手に死ぬほどむかついても、ぶち殺してやりたいと思っても、自分が相手のどこ好きになったのか、ちゃんとつかまえてることね。それから、それがまだそのひとの中にあるかどうか、ちゃんと探ることよ。なかったら、もうおしまい。あるんなら、まだ続ける価値はある。それだけ」
クラウドがこくりとうなずいた。セフィロスはクラウドの母さんのことも、とても尊敬しはじめた。もちろん、クラウドを生んで育てただけでも、尊敬する価値はあったのだけれど。
……しんみりした空気を破ったのは、クラウドだった。
「それもいいけどさ、聞いてよ。このひと、親がいないならまだいいけど、誕生日もわかんないし、名字もないんだ。戸籍がないんだって」
そうして彼の投げかけたことばは、その場の空気をいっぺんに変えてしまった。一瞬の間ののち、エミヤ母さんは大笑いし、その夫は静止。クラウドの母さんは気味が悪くなるくらい笑った。これまた、クラウドの云ったとおりだ……母さんは、なんでも笑っちゃうんだ……でも、それは激怒されたりいたたまれない顔をされるよりは何百倍もましだ。
「戸籍ないって! あんた、ほんとに人間なの?」
「母さん、それ云っちゃだめ。このひとすごく疑ってるから」
彼女は目を見開いた。
「そうなの? ごめん。だいじょぶ、あんたどっからどう見ても人間だから。カナブンとかゲジゲジとか、そういうのには見えないから安心して」
セフィロスは手を振って気にしていないことを告げた。
「いかれてんなあ。普通じゃないな」
ローコヴェンハウム氏が感慨深げに云ったが、それが氏にとって最大のほめことばであることは、ほんの数十分のつきあいだけれど、セフィロスにはよくわかった。
「で、われわれ結婚前から結婚できない危機に直面しております」
クラウドがふざけて敬礼しながら云った。
「おおごとだな。普通じゃないな」
ローコヴェンハウム氏はうれしそうな顔になった。
「たいへん申し訳ない」
セフィロスは心から謝った。
「厳密に云えば自分のせいではないが、この歳まで放置していたことの責任はある」
「えらい」
ローコヴェンハウム氏が云った。
「男ってのはそうでなきゃ。責任さ。男が女のかわりに持てるものって云ったら。これ男でもわかってないやついっぱいいるけど、でもほんと」
セフィロスは微笑み、ローコヴェンハウム氏は微笑み返した。
「ま、しょうがないわよね。戸籍がないなんて、気づきっこない。だって普段あることも気づかないんだから。気にしないで。結婚したあとで問題起こされるより百万倍まし。それに戸籍なんて、浮気とか遺産相続とか殺人とかより、ずっとたいしたことないしね」
エミヤ母さんが云った。セフィロスは肩をすくめて、礼を云うかわりとした。クラウドが、これは彼にとってはたいへん珍しいことだったけれど、話題を元に戻す。
「それで、最初はセフィロスの戸籍を作ろうって話になったんだ。でも、このひとに似合う名字なんて思いつかなくてさ。それで、そのこと相談した友だちがいっそのことストライフに戻せって云うんだけど……」
「そんなにローコヴェンハウムはいやかねえ?」
ローコヴェンハウム氏は心なしか傷ついたような口調で云った。
「いやだね。長すぎる」
クラウドはすぐに答え、ローコヴェンハウム氏は肩をすくめて、あきらめたように肉の塊を切りわけはじめた。ま、わかっちゃいたさ、と彼は大人の余裕をみせてつぶやいた。
「ねえ母さん、おれ名字元に戻せる?」
「戻せるんじゃない? すごくめんどくさい手続きが必要らしいけど……あたしが十二年前に戻したときは、パパに頼んだ。ほら、パパって、このへんじゃえらいでしょ? でもあんたの住所、もうこっちにないから、パパがどうにかできるかどうかわかんないけど。あ、でも本籍は動かしてないんだっけ? パパに電話で訊いてみれば? あんたと話したがってた……そうだ! それか、あたしがこいつと離婚して、またストライフに戻ったらどう? そしたら、あんたも戻れるんじゃない?」
「ちょ、ちょっと、ちょっと待って」
ローコヴェンハウム氏が青い顔で止めに入った。
「それ本気?」
夫婦は複雑な視線を交わした。
「九割本気」
負けたのは夫だった。彼は視線を逸らし、獲物を逃した犬よろしく、しょぼくれて食事に戻った。
「パパとは昨日もう話した。明日会いに来てくれるって。おれ明日からニブルの実家にいるからねって話した」
「そうなの? じゃ、そのとき話してみればいいわよ。あのひと、きっとどっちゃりおみやげ持ってくるに決まってる。結婚祝い、できたら頼むの忘れないでよ。そういうの死ぬほど楽しみにするひとなんだから」
「いいひとだよな、あのおじさん」
ローコヴェンハウム氏がつぶやいた。
「……ひとつ、訊きたいのだが」
セフィロスはそろそろと口を挟んだ。
「そのパパというのは、どういう立ち位置の方だととらえればいいのだろう」
親子は顔を見合わせた。口を開いたのはエミヤ母さんだった。
「ごめんごめん、ちゃんと説明する。パパってのは、あたしの……まあパトロンだったひとなの。クラウドが三歳くらいのときからのつきあい。もう十五年になるのかな。正確にはね、あたしの母さんが好きだったの。あたしの出身って、ここより南の村なんだけど、そこの村長やってたのね。いまは市町村長組合の組合長。超えらいひとよ、ほんとに。そうは見えないけど。で、あたしがクラウドの父さんと駆け落ちして三年後に、不幸にも相手が死んじゃって、パパってばなんかでそれ聞いて、訪ねてきてくれたわけ。正直、泣くほどありがたかったわよ。あたし途方に暮れてたから。毎晩毎晩、この子寝かせてからお勤めするってのも気が咎めてたし。まあ、そんな関係。云っとくけど、援助してくれたの、まったくの好意からなの。かわりになにか求めてたわけじゃない……まあ、あたしの母親の面影くらいは求めてたかもしれないけど……青春だったらしいからね。でもそれくらい許されるでしょ? ひとになにかしてあげるのが好きなひとなのよ。政治家には珍しいけど。会えばわかる。あたしとのことであのひとのことどうこう云うやつがいたら、あたし絞め殺す」
「おれも。めためたにして、豚小屋にまいてやる。まかれた豚が迷惑するなら、肥だめにまく。蠅が喜ぶよ」
クラウドが真剣な顔で云った。
「ま、そういうことだな。最初はおれも戸惑ったけど、慣れだよ、慣れ。会えば、好きにならずにいられないようなひとさ」
ローコヴェンハウム氏が慰めるように云った。セフィロスはわかった、と云った。
「名字の件は、だからパパに頼んでみるのね。大丈夫、なんとかしてくれる。クラウドの頼みなら。あたしの次くらいに、クラウドのこと愛してるひとだから……まあ、いまはちょっと順序が入れ替わってるかもね」
エミヤ母さんはセフィロスを見て、意地悪く笑った。