失神は心臓発作より安全であることと、いけないことだらけの人生、輝く星
午後遅くになってから、車の音が近づいてきて、近所で止まった。きっと裏の空き地に止まったのに違いない。クラウドはそれを聞きつけるや矢のような早さで台所へすっ飛んでいき、やかんを火にかけた。それから、いそいそと戸棚からチェリーパイを出し、テーブルの上に置いた。専用の紅茶とカップを用意。ちょうどそのとき玄関のチャイムがなにか眠たげに鳴り響いたので、クラウドはまたもや玄関へすっ飛んで行き……途中セフィロスの前で立ち止まって、客が心臓発作を起こすといけないので、たのむから部屋の中で待っていてくれという指示を出して、また飛んでいった。セフィロスは驚いた。クラウドが他人のためにそういうことをするような子だとは、想像もしなかった。自分はもしかするとクラウドを不当に低く評価しているのだろうかとすこし不安になりながら、彼は頭を振り振り台所へ行き、クラウドがやりはじめた仕事を引き継いだ。
チェリーパイを箱から引き出し、やかんのお湯が沸くのを待つ。クラウドのはしゃいだ声が聞こえてきた。
「パパ! 元気だった?」
「いやはや、クラウド、まったく久しぶり……四年ぶりかな? 背が伸びたなあ。すっかりおとなになって……いいコートがあって、買ったんだがねえ、もちろん母さんにサイズは確認したんだが、入るかな? 今年の冬は寒くなるとかいうから、防寒対策はちゃんとしたほうがいいかと思って……都会で着るのにふさわしいかどうかはわからんが、都会だろうが冬は冬だから……」
客人の声は落ちついた老年の男のそれで、必ずしも美声とは云えないが、声音にやさしさがにじみ出ているような、体温のこもったものだった。続いて、クラウドの笑い声。こちらは若々しく、おそれを知らず、品もなにもはねのけて感情に没頭できるそれだった。対照的なふたつの声に、セフィロスはひとりで笑った。
「とりあえず、中入ってよ。母さんがチェリーパイ焼いたよ。持ってきた。子ども? まだ生まれてない。このふざけたふくれっ腹もあと何日かの辛抱だって母さんが云ってた。女のひとってそういうのわかるの? 荷物持つよ。多いなあ。紅茶でいい? そうそう、おれのお相手紹介しないとね。母さんからなんか聞いた? 聞いてない? びっくりするよ。荷物ここに置くよ」
おそらくいまが、出ていくべきタイミングだった。そこでセフィロスは、念のためやかんの火をすこし弱めて、台所のドアを開け、居間へと歩み出た。ソファの横に大量の紙袋を並べるクラウドと、それを見守る小柄な、頭のてっぺんがむなしくもむき出しの、小さな丸めがねをかけた初老の男性がいっせいに振り向いた。男は目を丸くし、口をあんぐりと開け、そうして次の瞬間ソファめがけてぶっ倒れた。
「パパ!」
クラウドがあわてて支える。セフィロスは大股で男に近づき、その身体をきちんとソファに横たえるのを手伝った。
「どうしよう! パパ心臓があんまり丈夫じゃないんだ。発作起こしたらあぶないって云われてるのに」
クラウドがめったにないほど動揺している。セフィロスはこの状況で不謹慎なことかもしれなかったがどうにも微笑ましい気持ちになって、金髪をそっとなでて落ちつかせた。
「気絶しただけだから大丈夫だ。気絶はひとつの防衛策だ。発作よりよほど安全だ」
クラウドが唇をとがらせてにらみつけてきた。
「あんた、なんでそんな冷静なんだよ」
「何度も経験しているからだ。こちらの顔を見たとたんに、なぜだか相手が気絶する」
「…………あっそう」
クラウドはよくわかったというふうに鼻を鳴らした。ソファに横たわる彼は小太りで、だが決してみっともないほどではなく、それが適度な貫禄を与えている。こめかみのたりから後頭部を回っている髪の毛は灰色で、すくないながらもよく手入れされなでつけられていた。鼻は低めで丸まっている。口元の深いしわは、年齢というより慈悲深さを感じさせ、投げ出された手の太く短い指は、どこか愛嬌があった。そしてセフィロスは、その容姿に確かに見覚えがあった。
彼が目を開けた。
「パパ!」
クラウドが彼の肩をつかんでゆさぶった。
「あ? ああ、クラウド、……すまないね、ちょっと動転したようだ。いやはや! 君の……」
金髪の後ろにいるセフィロスに気がつくと、彼は目をしばたいて、やはり驚きの表情を示したが、幸いなことにもう気絶したりはしなかった。軽く首を振って、ゆっくりと身体を起こす。
「ああ……この歳になって、まさか気絶するほど驚くことがあるとは思わなかった、いやはや」
彼はため息をつき、しばらくそのまま体制を整えていたが、やがて立ち上がった。
「パパ大丈夫?」
クラウドが気遣うような視線を向ける。手は、また倒れてもいいように男の背中に回されている。
「大丈夫だよ、ありがとう……それで、彼がクラウドのその……結婚相手なのかね?」
クラウドはなにも云わずにうなずいた。クラウドのパパはふうん、とうなり声をあげ、顎をさすった。それから左手の指先でめがねのずれを修正し、いやはやこりゃ、と云ってから、セフィロスに向かって手を差し出してきた。
「あなたのことはわたしみたいな生粋の田舎ものでも知ってますよ。うちの娘も嫁も、一時期年甲斐もなく入れあげてたっけ……ああ失礼、こういう話は不快かな? でしょうな。ジュオムです。アーネル・ジュオム。お聞きおよびでしょうが、クラウドの、まあ、なんです、養父みたいなもんです。お恥ずかしい話」
セフィロスは握手を交わした。
「恥ずかしがることなんかないのに」
クラウドがちょっと不満げに云った。
「だってさ、そうでもしなきゃ母さん、ぼろ雑巾みたくなるまで働いて早死にしたか、おれだって毎日薄汚れた服着て、鼻水たらしてたかもしれない」
ジュオム氏は苦笑して、自らの毛のない頭をなでた。
「あなたのことを、ミッドガルでお見かけした覚えがあります」
セフィロスは云った。
「七年前です。神羅本社ビルで、確かにお見かけした」
ジュオム氏は首をかしげて考えこんだ。
「七年前……ああ! そうです、ちょっと市長に用がありましてね。お会いするのはそれが初めてでしたが……ご存じかどうか、世には市町村長組合なるものがありましてね。わたし、一応そこの代表だものだから(と云って彼は恥じているかのように顔を赤らめた)、ミッドガル市長にもぜひ、参加いただけないかと思って。わたしは最初っから無理だと思うよとは云ってたんですが、案の定無理でしたよ。面会時間の三十分、聞かされたのは神羅カンパニーへのうらみつらみで……失礼、そこへお勤めでしたね……まあそれも、仕方のないことなんでしょうが。彼の仕事は為政者のそれじゃなくて、いち社員のものでしたからね。天職を奪われるというのは、きついものです。もちろん、政治の世界に身を置く人間の中に、それが天職である人間なんて、ごくごくひと握りですが。よそと同じですよ。影響力が大きいから、より悪質に見えますがね」
ジュオム氏は一気にしゃべり終えると、ため息をついた。それから笑みを浮かべて、ソファに座りなおした。やかんがぴいぴい云いはじめる。セフィロスはまた台所へ向かった。
「チェリーパイは、八分の一がひときれと、四分の一がひときれだよ。紅茶は濃い目」
背中に投げつけられた声に、セフィロスはわかったと云うかわりに手を振った。どちらが誰なのかは聞かなくてもわかった。直径三十センチはある、中身がぎっしりつまったパイの四分の一を食べようなんてばかなことを考えるのは、クラウドだけだ。
ミリ単位まで正確に切り分けたパイと紅茶を運んでいくと、クラウドはたくさんの紙袋を開けて興奮した声を上げていた。
「これ、今年の夏に出たモデル? すごいなあ、欲しかったんだ」
クラウドの手には、大きな箱に入った機関車の模型。ソファの上にはほかにも、黒いコート、温かそうなマフラー、もこもこしたルームシューズ、やたらと重たそうな『世界の鳥類:増補改訂版』などがぶちまけられている。セフィロスは顔をしかめた。それらに囲まれて座るクラウドが、貢ぎ物の数々にほくそ笑むどこかの国の意地の悪い王子かホストのように思えてきた。彼は昔からこうやって、誕生日だのなんだののたびに、気のいいパパからどっちゃり小遣いやプレゼントをもらっていたのだろうか? どうもそうだという気がした。クラウドのあの尋常でない金遣いの荒さや物欲は、誰か気前のいい人間がここぞとばかりに金を惜しみなくつぎこんでやらなくては、育たない感覚だ。ジュオム氏が、まだ欲しいものがあったらなんでも云いつけるようにと云っているのを聞いて、セフィロスは自分の考えが正しいことを確信した。
テーブルにパイと紅茶が用意され、語らいの時間がはじまった。クラウドの仕事のこと、セフィロスの仕事のこと、ふたりの関係のこと、会社をやめた顛末……ジュオム氏は話の継ぎ目ごとにいやはや! と驚いた顔で云い、首を振り、パイを口に運んだ。
「エミヤが昔っから云っていたよ、クラウドはきっと、結婚するとなったらとんでもないのを連れてくるに決まってると。あの子がそんじょそこらの子を選ぶなんてありえない、あんなにかわいくていい子なんだから、とね。いやはや! まあそれはほんとだが(とジュオム氏が云ったため、セフィロスはおそろしく複雑な顔になった)、しかしねえ」
「男を選ぶとは思わなかった?」
クラウドがにやにや笑いながら云った。
「正直ね」
ジュオムおじさんはひとのよさそうな笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「まあ、君がとんでもないのはいまにはじまったことじゃないから。慣れてるよ。ところで、ふたりはいつ籍を入れて、どこに住む予定なんだね?」
セフィロスはクラウドと顔を見合わせた。クラウドがちょっと咳払いをする。
「あのさ、それで、パパにちょっとお願いがあるんだけど……」
またも、例の戸籍と名字の問題が持ち出される。連日話題にのぼりすぎて、セフィロスはそれにすっかり慣れっこになってしまって、はじめのころ感じていた気恥ずかしさや動揺が薄れていることに気がついた。なにごとも慣れとはよく云ったものだ。
話を聞いたジュオム氏は顎をさすりさすり難しい顔をした。
「ふーむ。クラウドの名字を戻すほうなら割合に簡単だね。ほんとうはとんでもなくめんどうな手続きが必要なんだが、それはわたしのほうでどうにかしてあげられるだろう。問題は戸籍のほうだ。まあ、戸籍がないひとというのはこれまでもいなかったわけじゃない。いろいろな理由でだね。親が故意にうっかりしていたとか、痴情のもつれがからんでいたとか……しかし、あなたともあろうひとが、いやはや! 参ったね。ミッドガルのドミノ市長にお願いするというのは、ちょっと難しいかもしれない。あのひとにそんな権限があるかどうか怪しいし、どのみちこれまで戸籍を与えてこなかった会社が、いまさら趣旨替えをするとは思えないよ。わたしが動いてもいいけれどね。そうしたら、ずっと簡単にすむんだが。このへんは都会と違って、管理方法が原始的でね。それにやたらな機械というものは、わたしはあまり信用しないんだ。紙を数枚、作るだけですむ。どうせ全部わたしのところへ回ってきて、わたしが許可を出すものだから。ただし、それでも数週間はかかることに変わりはないし、このあたりの村のどこかの出身ということになってしまうけどね。華々しいミッドガル出身の地位は、あきらめてもらわないとならない」
話をするジュオム氏の顔つきは、クラウドに接するときのようなやさしい初老男性のものではなくて、政治の第一線で複雑な職務をこなす男のそれになっていた。眉が寄り、唇は引き締められ、目が己の思考を追いかけるようにせわしなく動く。
「だって、どうする?」
クラウドがこちらへ顔を向けてきた。セフィロスは肩をすくめた。クラウドの顔が輝いた。
「それでいいよ。すごいなあ、パパってなんでもできるんだ」
クラウドが顔をほころばせて笑いかけると、ジュオム氏は苦笑して、ちょっときつい口調で云った。
「わかってると思うけど、ほんとはいけないことなんだよ」
クラウドはけらけら笑いだした。
「わかってるよ。おれ、いけないこと大好きだ。おれの人生、いけないことだらけ。禁止されると、やりたくなっちゃうんだよ。そういう性格なんだ」
セフィロスはため息をつき、ジュオム氏は、まあ、君のそういうのは昔からのことさ、と云った。これのいったいどこが面と向かっていい子と云うに値するのか……セフィロスはしばらく考えてしまった。
ジュオム氏は、夕食前に帰らないと、と云って一時間ほどで帰っていってしまった。セフィロスは、あとで郵送する書類に必要事項を記入し、送り返すことを約束させられた。もっとも、それを約束したのはクラウドだったけれど。
「パパってすごいだろ」
クラウドが、たったいま閉めたばかりの玄関を見つめて云った。顔には微笑が浮かんでいる。
「確かにすごいひとだ」
セフィロスは彼の横に並び、つんつんした金髪をなでた。
「幸せなやつだ、おまえは」
クラウドはにやっと笑った。
「それは、おれがいい子だからだって。母さんが云ってた。世の中のひとが思ってるようないい子なんて、おれ吐き気がするけど、でもほんとの意味でいい子だってことは、相手が好きで、信頼するってことなんだよ。あと、自分のこと曲げないこと。おれそう思うよ。だからそうしてるんだ。おれが好きなひとにはね。それが我慢ならないやつとは、残念だけどさよならするしかない。そういうやつのほうが多いけど」
セフィロスはそれを聞いて、いまのいままでクラウドに呆れかけていたことなんて、どうでもよくなってしまった。クラウドは、相手を利用しているんじゃない。頼っているのだ。このふたつはとてもよく似ているけれど、ぜんぜん違う。クラウドは甘やかされていると思うし甘えているけれど、でもちゃんとそれに応じたものを返せる子だ。ただのどうしようもない甘ったれじゃない。セフィロスは、クラウドが毎年書いているクリスマスカードのことを思い起こした。彼は毎年凝った、とてもきれいなカードを買ってきて、それに長い時間をかけていろいろ書く。セフィロスは一度偶然に、その内容を見てしまったことがある。もちろん、盗み見る趣味はないので数行だけだが、こんなふうに書いてあった。「身体は大丈夫ですか? 寒いのでむりしないでください。あと、書き忘れましたがおれはすごく元気です。カエルみたいに毎日はねてます。たまにいやになります。カエルっていえば……」
ああ、クラウドはいい子だ。どうしたって。セフィロスは彼をふいに抱きしめたくなった。それで、そうした。クラウドは抵抗しなかった。それどころか、抱きしめ返してきた。そうして鼻を鳴らして、感じ入ったような声で云った。
「おれ、どうせならあんたはニブル出がいいな。なんとなくだけど。別にそういうのに夢見てるわけじゃないんだけどさ」
クラウドが肩に垂れたこちらの髪をつかんで、いじりはじめた。
「あんたは、だいたいが田舎出にふさわしい感じだよ。中身地味だから。都会にいた三十年くらい、間違ってたんだと思うよ。おれほんとにそう思う」
セフィロスはそうだな、と云った。
「あんた、なんかようやくあんたになるんだって感じがする。意味わかる?」
セフィロスはわかると云った。
「どこに住むかはまだわかんないけど……でもきっと田舎だ。ここみたいな田舎。毎朝鳥が鳴いてさ、牛がいて、豚もいて、どこかにガチョウがいるといいな、おれ好きだから」
「牛に豚にガチョウか。農園でも開くか?」
「それでもいいよ。おれすごくまじめに世話しちゃう」
ふたりはそのまま、夕暮れが終わるまで黙って抱き合っていた。夜になって、食事をすませてから、連れだって給水塔を見に行った。よじ登って、空を見上げた。きれいな星空だった。宝石箱をぶちまけたって、こんなにきれいにはならないに違いない。それは星に失礼だ。セフィロスがそう云うと、クラウドは大声で笑った。外は寒かった。ふたりの吐き出す息は白かった。この村には、もうすぐ雪が降るだろう。それで、ふたりとも身を寄せあって、星空を眺めた。しばらくすると、クラウドの鼻は赤くなった。セフィロスは笑って、なでさすって暖めてやった。セフィロスは、十四歳のクラウドのことをふたたび思い浮かべた。あの母親や、義父や、養父をふりきって都会に飛び出すのは、とてもとても勇気のいることだったに違いない。いくら自分の田舎が嫌いだったとはいえ、彼をとりまくひとたちは最高だった。セフィロスはその情熱のことを想った、そのきっかけを作ってしまった自分の過去の栄光のことを想った、そうして、いまここにいる自分とクラウドのことを、想った。そういうすべてのことは、今夜の星のように、記憶の中に息づいて、たしかに輝くだろう。ちょうど今日のように、とても印象深い夜に。ふたりのあいだで。