それぞれの思惑が交錯することと、優しさもときに折れなければならないということについて
「おれたち、明日帰るよ、母さん」
宴会の翌日、朝食の席でクラウドがそう告げたとき、母さんはちょっと残念そうな顔をした。
「そ。まあ、そうよね。あっちに家があるんだもんね。ところでさ、あんたたちはこれからどうするの? いわゆる結婚生活ってやつよ」
ふたりは顔を見合わせた。
「それがさ」
クラウドがすがすがしい声で云った。
「なーんにも、決まってないんだ。おれ無職、セフィロス無職。どう? なかなかいい滑り出しだと思わない?」
「そうね。だってこれ以上悪くなりようがないもん。両足折ったら、足が折れる心配しなくてもいいって云ったなんかの話の男みたいなもんよ」
「うん、いい出だしだ」
二日酔いで赤い顔のままのローコヴェンハウム氏は目玉焼きをつつきながら云った。
「無職ってのはいいもんさ。それで食ってけるなら、誰だってそうする。おれとしちゃあ、おまえらにここに残ってもらって、クラウドに商売手伝ってもらえるとありがたいけどなあ。ま、真剣に検討するほどの思いつきじゃないけどさ」
彼がなにげなく放ったひとことで、その場の空気が一変してすこし固くなった。それは、みんながここ一週間ばかりのあいだ、なんとなく考えていたことだった。けれども誰も、その思いつきを口にする勇気がなかったのだ。クラウドはこんな田舎はいやだと正々堂々云った過去があるし、クラウドの母さんはそれをちゃんと覚えていた。そしてセフィロスは、婿の分際でそういうことに口を挟むのは、すこし差し出がましいような気がしていた……彼は、ほんとうのことを云えばクラウドの実家と、ニブルヘイムの景色がすっかり気に入ってしまっていたのだけれど。
「ん? おれなんかまずいこと云った?」
ただひとりなにも感じていないローコヴェンハウム氏がだるそうに云った。彼はまだアルコールくさくて、自分がなにをしているか正確にはわかっていなかった。レタスをつついていたクラウドの母さんが(彼女は美容と健康のために、野菜とくだものと穀物しか食べない)、ため息をついてフォークを置いた。
「わかった。まじな話しよう。いつだって、思ってることは云わなきゃ。あたし、クラウドに戻ってきて欲しい。できたら、みんなでわあわあしたいと思ってる。それに、このばか旦那ときたら、修理の腕はいいけど経営能力ずたぼろなのよ。適当すぎてため息でる、あたしもそんなお金にかりかりするほうじゃないけど、でもそのうちなんかの計算が間違ってて、脱税扱いになってるだのなんだのでごっそり財産持ってかれるなんてことになるのごめんだし。監視役、欲しいのよね。ちょっとなんかあったとき、赤ちゃん預かってくれるひとがいたらうれしいってのもあるし、まあ、なにかと都合がいいわけよ、あんたたちがそばにいるとさ。ってわけで、あんたたちこのままニブルの家住むか、ここに住むか、ここらへんに住むか、どれかにする気ない? ないならないでいいんだけど。別にいますぐってことじゃなくて、いったん帰って考えればいいわよ。とにかく、あたしはそう思ってる。ちょっと、この酔っぱらい、あんたもクラウドに店手伝って欲しいんでしょ?」
ローコヴェンハウム氏はああ? と間の抜けた声を出し、それから、今度は下がり調子でああ、と云った。
「そうなんだ。おまえがいると心強い。手先器用だし、もの作るセンスがある。それに、おまえがうちのばあちゃんにやるみたいに、猫かぶってにこってやりゃ、大概の客なんていちころだ。ためてた金だって払ってくれるよ、きっと」
「支払いつけにしてんの?」
クラウドが顔をしかめた。ローコヴェンハウム氏は肩をすくめた。
「仕方ないだろ。みんな苦しいんだ。このあたりにまともな仕事なんて数えるほどしかないし、農業は儲からない。まあ農業がさしたる金にならないのはいまにはじまったことじゃないけどな。てわけで、おれもおまえらがこっちに来てくれたらうれしいよ。もちろん、強制じゃないけど」
クラウドがセフィロスを見た。
「……だって。あんたどう思う?」
「そうだな……」
セフィロスはおまえはどうなんだ、と云いたかったが、それをいまここで云うのは控えた。ふたりは結局ろくに意見も述べないまま、すこし考えさせて欲しいと云って、その日はクラウドの実家に帰った。
家に着いたとたん、クラウドは唇をとんがらかして云った。
「そりゃ、おれだってちょっと考えたよ、そのこと。なんかそういうのもいいなって。自分の田舎、嫌いだけど。でも、なんかさ、母さんがいて、父さんがいて、その子どもがいて、そういう一式、すぐそばにいるっていうのは、なんかいいなって思った。あんたの夢の田舎に住むってのには変わりないし……ああもう! おれなんかいらいらしてきた」
セフィロスはぴりぴりしはじめたクラウドを残して緑色の台所へ行き、コーヒーをふたりぶん作った。ひとつは原液で、もうひとつは山羊さんの乳がこれでもかというくらいに入ったやつだ。カップをふたつ手にして居間に戻ると、クラウドはしかめっ面のままソファで金髪頭をかき回していた。
「いらいらはよくない。だいたいおまえは普段からちょっとしたことでいらいらしすぎる。慢性高血圧にならないか心配だ……もっとも、いまのおまえのいらいらの原因も取るに足りないことだ、と云うつもりはないが」
クラウドはふてくされた顔でセフィロスを見た。
「あんたがそうやっていっぱいしゃべるときは、だいたいこっちのこと見透かされてるってときなんだよな。でも、あんたってはっきり云わないんだ。それでおれますますいらいらする。でも云われてもいらいらする。要するに、どっちにしたっていらいらする。わかる? これ」
セフィロスはよくわかると云った。クラウドはむかつく、を三回云って、セフィロスの脚をそれにあわせて三回蹴った。
「八つ当たりするな」
「うるさい。ばか、ばーか」
クラウドはすっかり不機嫌な子になってしまった。こういうときは、普通の方法は全部意味がない。たとえば引っかき回されて乱れた金髪を整えようとすれば気安く触るなとはたかれるし、慰めのことばははねのけられ、かといっていい加減にしろと云えば家出が待っている。だからこんなときは、セフィロスはクラウドの不機嫌の合間を縫うように、慎重に細い糸を差し入れて、それを操る必要がある。上から目線でなく。やたらと同情的でもなく。ほんのちょっとだけ距離を置いて(置きすぎるとそれはそれで怒られるので)、冷静に。うまくいけば、その糸はクラウドの心臓あたりまで届く。それで、彼は機嫌を直す。
セフィロスは手はじめに、すこしのあいだ黙っていた。クラウドはテーブルの脚をごんごんやって、ふくれっ面をしていた。セフィロスはそれをしばらく放置してから、そっと糸の挿入を開始した。
「さっきの提案だが、おれは正直にうれしかった。すくなくとも、他人行儀にされるとか、顔も見たくないようなことを云われて拒絶されるよりは、よほどありがたい」
「あたりまえだろ、そんなの。父さんも母さんもそういうひとじゃないよ」
クラウドはすねたような顔になった。こちらの投げた糸は、クラウドの表皮一枚を通り抜けた。セフィロスは微笑した。
「ああ、わかっている。それでもだ。考えてみろ。息子より親のほうに年齢が近くて、無職で、前職がろくでもなくて、男で、規格外の身長で、おまけに戸籍がない。こういう人間を、息子が選んだという理由だけで受け入れるのは、悪い意味じゃないがまともじゃない。考えただけでうれしくなる」
「身長はあんたが個人的に気にしてるだけだろ。おれは気にしない……おれが云いたいのはさ」
クラウドはため息をついた。セフィロスの投じた糸は、彼の心臓めがけて無事進みはじめたみたいだった。
「こんな田舎二度と戻らないって云って出てって、ひょこひょこ戻ってくるようなこと考える自分に腹立つってことと……ソルジャー云々はもういいけど、おれこんなに意志薄弱だったのかって思うと寒気がする。風邪引きそう。それから、万が一うちの親の意見を汲んで引っ越してきたところで、こんな田舎であんたが目立たないで暮らすなんて無理だってことだよ。もっと徹底してひとっ子ひとりいないような未開の地に引っこむか、そんな感じのことしないかぎり。いままでは、あんたうろうろしないで引っこんでたからいいよ。でも、暮らすってなったらそうはいかない。あんたがものすごくすがすがしい朝とかに散歩もしないでいられるわけないし、買い物だってしないわけいかないし、畑が家の中にあるわけじゃないし」
あんたが注目されるなんてごめんだ、と不機嫌につぶやいたクラウドに、セフィロスはどうしたらいいかわからなかった。クラウドがいま云ったようなことを考えていらいらしていたのはよくわかっていた。彼のプライドと、彼の優しさ。クラウドはそういう子だ。ここでかけるべきことばは、ぜったいに「お気遣いありがとう」なんてものではなかったし、またその他たくさんの甘ったるいことばでもなく、結局、辞書にあるどんなことばでもなかった。だからセフィロスは黙った。沈黙が優しくふたりのあいだに降りてきた……そしてセフィロスはというと、主にクラウドのプライドと優しさを尊重して、どこか別の田舎へ住むつもりでいた。クラウドの家族や、ニブルヘイム周辺の景色や、空気はかなり気に入っていたし、こんなところに住んでもいいなと思っていたけれど。これは、どちらか一方の優しさが、折れなくてはならない。セフィロスは考えた。クラウドの、こちらに対する気遣いが折れれば、おそらくこのままここに定住することになりそうだった。そしてもしも逆なら、ふたりはどこか、誰も見向きもしないような土地に引っ越して、ひっそりやるだろう。問題なのは、お互いが相手のことを思いやるあまり、身動きがとれないことだった。こういうのは、よくあることだ。とりわけクラウドは、セフィロスのことになると過剰に反応する。こちらにほんのすこしの好奇の目が注がれることにすら耐えられない。彼はこちらのために爆発する。相手のためにいらいらし、相手のために、涙する。だからそんなクラウドを尊重するならば、セフィロスは人間が社会生活を営むありとあらゆる場所から逃げなくてはならない。それはもちろん、そんなに具合の悪いことではないのだけれど。
「……おまえは、どうしたい」
セフィロスは静かに云った。
「おれのことや、自分の名誉や意志の強弱云々をぬきにして考えた場合に」
クラウドは鼻を鳴らした。
「あんたは、どうしたいのさ」
彼は相変わらず不機嫌だけれど、でもすこし穏やかさのにじむ声で云った。
「おれのこととか、無視したら。せーので云う?」
セフィロスはうなずいた。クラウドが拍子を取る。
「「ここで暮らすのもいい」」
「かも」
とクラウドが云った。
「と思う」
とセフィロスはつけたした。ふたりは顔を見合わせた。それから一度そらして、もう一度見合わせた。クラウドはばつが悪そうに唇を突き出した。セフィロスは微笑んだ。
「異論は?」
彼はまた穏やかに訊ねた。
「腐るほどあるけど」
クラウドが小さな声で云った。
「でも、いちいち云ってたらきりないから。こういうとんでもないこと決めなきゃいけないときは、これだってなったら勢いが大事って、母さんが云ってた」
「その通りだ。決意は鈍る。思考はつまずく。決まったと思ったら、即やることだ……というのは、おれがいつも自分に云いきかせていることだが」
「あんた、わりかしぐずぐずだからね」
クラウドがちょっとばかにしたように云って、鼻を鳴らした。それからふたりは、ゆっくり身体を近づけて、抱きしめあった。