英雄廃止通告

「うん、そう。おれとうとう十八になるよ、もう若くないね……あと三十秒くらい……もうちょい……身長? もう止まっちゃったかも。百七十五。母さんの云ったとおりだった……あ! 過ぎた! おれ合法的に酒が飲めるよ、母さん」
 電話のために外に出てきてしまったから、すごく暑かった。家の中にいると、会話がセフィロスに丸聞こえになってしまう。こういうのは、同居の面倒な点だ。隠しごとが難しい。もちろん、セフィロスはうるさく詮索しない。部屋にこもってしまえば、なにをしているのか探るなんて失礼なことはしない。でも、クラウドはぜったいにこの電話を聞かれたくなかった。だから部屋を出てきた。電話の向こうで母さんが嬉しそうに笑っている。おめでとう成人男子、あたしと酒盛りしに戻っておいでよ、と云っている。
「うん、戻るよ、そのうち。もしかしたら近いうちに。おれさあ、もうやめようと思って、いまの仕事」
 なるだけさり気なく、なんでもないように云った。事実、もうそんなこと、なんでもないことだったから。
「そうなの? やっぱあんたには向いてなかったでしょ? 集団行動とことん苦手だったからね、昔から、あんたは。よくいままでやったわよ」
 母さんから返ってきた答えも、すごくなんでもないことみたいだった。クラウドはうれしかった。母さんは、いつだって最大の理解者だ。こちらに向いていること、いないこと、でも、向いていないからって、やめろなんて云わない。人生はやってみないとわからない、をモットーにしているから。だめなら逃げりゃいいのよ、人生なんてね、続けたからえらいってもんじゃないの、とりあえず、死ぬまで生きればそれでいいのよ、そのあいだになにしたって、別に。悪いこともあるけど、いいこともある、ほんとよ、信じな、神さまってそういうひと。これが、母さんがミッドガルに出る前に教えてくれたことだ。そして実際、そのとおりだった。クラウドを取り巻く環境は最低で、最高だ。神羅なんて原子爆弾かセフィロスのクエイガでもくらって死ねばいいけれど、住んでいる家は最高だし、家主もまあそこそこ使えるし、友だちはいいやつだ。そういうのが、神さま(かどうか、ほんとうはわからないけれど)のくれるバランスだと思っている。
「でさ、あんた、やめたらこっち戻ってくる?」
 母さんの声にはちょっと期待がこもっている。クラウドは想像してみる。もしも家に戻ったら。母さんは、いま、再婚相手ザ・ウルフととなり村に家を建てて住んでいる。ザ・ウルフの生活の基盤がそこにあるから、それは当然のことだった。ニブルの家は、最初は借り物だった……のちに、正式に母さんのものになった。パトロンのおじさん(このひととは、母さんもクラウドも、いまだにいいつきあいをしている)が買ってくれたから。母さんは、家を売りはらうことはしなかった。たぶん、気を遣ったのだ。買ってくれたおじさんに、そしてクラウドに。いつでもどこか戻るところがあるのはいいことだ、と考えたのだ。実際、クラウドはニブルの家がまだあるということに、そこにはぜったいに戻らないと思っていながら、どこか精神的なよりどころがあることを意識する。もうどうしようもなくなったら、全部たたんで、あの家に帰れる。もちろん、ぜったいに帰らない。でも、その決意と、よるべがあるのは別の問題だ。人間にはそういうものが必要なのだ。母さんは再婚して、別の家族を作った。実際、せっせと作っている。現在妊娠中だから。クラウドは、そこにはもう本質的な意味で自分の居場所はないことを知っている。もちろん、誰もそんなことは云わないし、お互いよろこんで同居だってするだろう。けれども、クラウドはそこは、母さんと、新しい父さんのふたりが、そしてその子どもが、作るところだと思っている。これまた、問題が別なのだ。みんなお互いに愛しあっていることと、みんながちゃんと役割を持って、居場所がある家族になることとは。前者は、いつでも誰とでも築ける。でも、後者はちょっと複雑だ。そこの基本にあるのはひと組の男と女であって、その関係から一部でも外れた人間は、やっぱりいつまでも融合できない存在なのを、無意識に自覚している。本能で。
 だからクラウドは云った。やだよ、ぜったい戻らないよ、そんな田舎。
「どうせばかにしてんでしょ。都会人ぶっちゃってさ。まあいいけど。実際、田舎なんてつまんないだけだと思うしね、あんたには。次の仕事とか、どうするの? 考えてる?」
「ああ、うん、それなんだけどさ」
 クラウドはそう云って、ちょっと間をおく。いよいよ云うんだぞ、と思う。興奮がせり上がってきて、鼓動を早める。
「おれ、結婚しようかなって思って」
 電話の向こうでも、ちょっとした間があった。それから、予想していたことだけれど、母さんはげらげら笑い出した。
「そうきたか〜! うんうん、やっぱりあたしの子だわ。あんた、結婚早そうだなって思ってた。あんたみたいな本質甘ったれ、ひとりじゃ生きてけるわけないからさ。もちろん、あんたちゃんと自立してるけどね、そこはあたし、感心してる。でもね、寄っかかるひと、必要だよ。うちの家系はみんなそう。あたしもそうだしね。あ、ちょっと待って、でもあんた、最初にできた彼女と別れたって話ないでしょ、もしかしてそのまま結婚する気?」
 母さんは、いまだにセフィロスのことを「彼女」だと思っている。云い出すタイミングを失ったというか、まあ、ふんぎりがつかなかっただけだ。そんなことは、これからいくらでも訂正できる。
「黄金パターンだと思わない? 初恋愛初結婚だよ。またの名を、破滅パターン」
 母さんはまたげらげら笑った。
「いるいる、そういうやつ。まあ、あんたが云うってことはもう覚悟できてんだろうからさ、やってみなよ。結婚生活楽しいから。すぐに投げ出すのはよくないけど、でも納得できるくらいに頑張ってさ、それでもだめなら別れたっていいんだよ。結婚する前からこんな話するのもなんだけど、でも、楽しい気分ではじめないとだめ。不安からスタートなんて、ろくなことにならないから。気楽にやんな。いざとなったら、あたし、なんとかするし、どうにでもなるし」
 にしても、結婚かあ、と母さんはまた笑い転げた。そう、結婚だ。もう百パーセント、そのつもりだ。そういう覚悟を示して、セフィロスのことを追いこんでやる。そういうつもりだ。
「あんた、もうプロポーズした?」
「まだ。これから」
「あのね、順番逆。普通、してから親に報告。断られたらどうすんのよ」
「断らないよ、たぶん」
「むかつく〜この自信家」
「とりあえず、そういうつもりって報告。世紀のプロポーズの結果はまた報告するからさ。これからどうするとかもね。いろいろ整理しなくちゃいけないから」
 母さんは、わかった、とだけ云った。いろいろごちゃごちゃ聞かないから、母さんが好きだ。信頼されていると思える。男に大事なのはそのことなのに、わかっていない女が多すぎる。
 でも、整理しなくちゃいけないのはほんとうだ。身辺整理項目が多すぎる。最大はセフィロス。あのデカブツにくっついているいろいろなものを、どう片づけたらいいのか、ほんとうに難問だ。でも、クラウドの中では、もう答えは見えている。すごくロマンティックで、情熱的な答えが。
 すこし世間話をしてから、クラウドは電話を切って、部屋に戻った。部屋の中は照明がぎりぎりまで落とされていて、暗かったけれど、月明かりが注いでいたから危なくはなかった。セフィロスはソファに座っていて、窓の外をぼんやり見ていた。月光浴。クラウドはその横にすべりこんだ。
「セフィロス。十八になったおれだよ。どう?」
 セフィロスは苦笑しながら、クラウドを上から下まで見た。別に変わらないが、と彼は云った。
「酒が飲めるようになるのはでかい、とザックスなら云うだろうな」
「あと、エロい本とか堂々と見れることとかね。別にそれはいいんだけどさ、いまさらだから。あ、ケーキ買ってくれた?」
「そういうことを事前に聞くな。風情のないやつめ。黙って一日待て」
 ということは、ほぼ二十四時間後には期待していいわけだ。セフィロス主催のお誕生日会。特になにをするというわけでもないのだけれど、ケーキを食べて、飲んで、げだげだ笑う。毎年それだけだ。プレゼントもあるけれど、クラウドは欲しいものを最初からセフィロスに伝えてしまう。彼はねだりたいし、セフィロスはねだられたい。公式にそれができるチャンスを逃すなんて、ばかのすることだ。ちなみに今年のリクエストは、当日……つまりいま……云うことにしてある。買えるようなものじゃないから、とセフィロスには云ってある。彼はただ、わかったとだけ云って、ちょっと面白そうな顔をしていた。
 いまがそのとき。つまり、セフィロスにリクエストを伝えるべきときだ。クラウドは、どういうふうに云ったらいいのか、結構前から考えていた。でも考えたって答えなんて出ないから、そのときの雰囲気に任せようと思った。一生に、たぶん一度しかないことだから、それこそ流れに任せるべきだと思って。その雰囲気が、早くも訪れていた。セフィロスは穏やかだし、ほぼ月の光だけで照明がまかなわれた部屋の中はとても神秘的。ソファのまわりに漂う雰囲気はちょっとだけ甘め。耐え難いほどじゃない。エロティックでもない。窓の外には月が見えている。きれいな三日月だ。こんなにきれいに見えるなんて、ミッドガルでは珍しいくらいだ。クラウドはすこし、それを見て目と、心臓を休めた。これからのひと勝負のために……この雰囲気ならいける。
「今年のリクエストだけど」
 ああ、とうとう口を開いてしまった。セフィロスはわずかに首を傾けて、視線を投げてよこした。だからクラウドも真正面から、視線を返した。決して真摯すぎず。でも、ふざけてばかりでもなく。
「あのさ、おれ、名字変えたいんだよね」
 セフィロスはもう、わかってしまったみたいだった。彼の目の中にいつもある光が、ちょっとだけ揺れたから。だからほんとうは、これ以上のことばなんていらなかったのだけれど、でも、云うことは云わないといけない。第一、そんなに以心伝心ですませていたら、面白くない。
「ローコヴェンハウムは、もういいや。ややこしいし、綴り面倒だし。ストライフに戻ってもいいけど、それって芸がない。だから、いっそのことぜんぜん別のにしたいんだけど。それが今年のリクエストなんだけど、どう?」
 セフィロスは視線をそらして、窓の外を見た。すこし、考えているみたいだった。まばたきのあいだに、いろいろな影が、ゆらぎが見える。それから彼は、またクラウドに視線を戻した。ゆらぎは消えている。ありがたいことに、戸惑いも、怒りも、不安も、どんなマイナスの感情もない。からかう気配もない。ただ、やわらかい熱があるだけだ。いつもこの身体を包むあの熱。彼の体温。優しさ。
「いつから考えていた?」
 クラウドは笑って、セフィロスの膝めがけてつっこんでいった。そこにまたがって、向かい合わせになる。胸にべたっと頬をくっつける。髪の毛に、大きな左手がやってくる。セフィロスの利き手。彼は両方使えるけれども、ほんとうに大事なときには左手なのだ。刀を握るとか、クラウド・ストライフあるいはローコヴェンハウムを攻略するとか。
「結構前だよ。こないだニブルに帰ったときは、もう考えてた。ちゃんと考えたのは母さんが再婚するってなったあたり。別に母さんが結婚するから結婚したくなったわけじゃないけど、母さんが名字を変えるみたいに、おれにだって名字変える自由があるんだって思ったから。それでふっきれたっていうか。おれ、結婚願望、あったんだよね、昔から。人生長いから、誰かといっしょにいたほうが楽しいなって思ってた。母さん見てて、そう思ってたから。母さんはおれが甘ったれだから、ひとりじゃいられないって云ってた」
 それはほんとうかもしれない、とセフィロスはすこし笑いながら云った。そうして、おまえみたいなやっかいな甘ったれを扱える人間はそうそういないと云った。ちょっと自慢げに。クラウドはそれがうれしかった。もちろん、結婚生活が全部いいものだなんて期待はしない。けれども、クラウドが素の自分でいるには、いまではセフィロスがどうしても必要なことは確かだった。というよりも、つきつめてしまえば彼だけが重要だった。彼にだけは、ほんとうの本気でぶつかれるから。爆発できるから。なにをしてもいいんだという確信が持てるから。傷つけたっていいのだ。治せるから。
「でも、条件つきだよ。おれみたいな高級物件がただで手に入るなんて思ったら大間違いだからな」
 セフィロスが眉をつり上げる。甘ったるい雰囲気の中に、紛れこむすこしの刺激。これが大事なのだ。ただ甘ったるいだけなんてごめんだ。甘さと、皮肉と刺激を少々。クラウドはにやっと笑う。
「名字が変わったら、おれ仕事やめるよ。寿退社する。あんたどうする? 返事次第で、この話はなし。よく考えろよ。一回しか聞かないから。トンチンカンな答えしたら、もう別れる。そういう顔するなよ、ばかだなあ。ヒントあげようか? おれなら、全部捨てられるよ。環境とか人間関係とか。あんたのためだったらね」
 あんた、おれのこと好きだろ? じゃあ選んで。解放したい。このひとを、いいかげんに。こんな都会から。あんなむかつく会社から。結局三年近くも、ぐずぐずしてしまったけれど。でも楽しかった。特にここ二年ばかり、クラウドは毎日セフィロスのために戦っている気になれた。セフィロスの気持ちがわかったような気になれた。好奇心むき出しの目。嫉妬、嘲り、憧憬、いろいろな感情。本人の本質なんか無視して、そのまわりに作りあげられたものだけを、盲目的に真実とみなすこと。集団洗脳みたいだ。それがどんな気分がするものなのか、どんな侮辱された気持ちになるものなのか。セフィロスと同じ傷。自分にも作った。セフィロスのよりか、もっと下卑た傷だった。色気がからんでいたから。そういう意味で最低の傷。でも心地よかった。自分に向けられる視線が面白かった。殺したいのに殺せない、ボコボコにしたいのに、怖くてできない。ざまみろ、臆病者、ばかやろう。セフィロスの一般的な価値。そのばかばかしさ。虚構。そんなもの、もういらない。ぜんぜんいらない。セフィロスのこれからの人生には。でも彼は底なしに優しいから、そんなものがくっついた自分だって、結局は受け入れてしまう。クラウドは歯がゆい。このぐずぐず屋。決断不履行というわけではないけれど、いつだっていざってときのことを、考えてしまう。力ある者の責任。そんなもの、潰れてしまえ。だから、叩きつける。おれか押しつけられた立場か、どっちか選べ。おれのほうがいいよ。おれあんたのためなら死ねるとか思っているから。
「それで、返事は?」
 クラウドはセフィロスを見上げた。もう慣れたけれど、例のひどく不思議な色合いの目が、静かな確信を持って見下ろしてきた。口元には微笑。この顔が好きだ。こちらのすることを、受け入れる顔。そして、自分が確実にこの男の中に存在することを、あかししてくれる顔。
「ここを引き払うかどうするか、未亡人に相談してみよう」
 クラウドは全身の毛が逆立った気がした。粟立つほどの歓喜。ついにやった。ついにこのひとは、自分のものになった。正真正銘。神羅なんか抜きにして。彼はあんまりうれしすぎて、ことばも行動も、ぜんぜん出てこなかった。突然全部が空っぽになったみたいだった。セフィロスが、世間一般に通っているセフィロスは、もう死んだのだ。残ったのは、感じすぎて考えすぎてぜんぜん兵士向きじゃないセフィロス。生身の男。自分の男だ。めまいがする。ふいに性欲が芽生える。まっさらな生身の、英雄成分ゼロのセフィロス、その最後の残り滓すらないセフィロスを、味わいたかったから。いらないものが削げたひと。なんにも持たないひと。だからいい。こちらにもなにもない。金も、地位も、名誉も、社会的なものはなにも。だから、あとはふたりして消えるだけ。社会の営みから永久追放される。世の中と敵対する、永久に。
 おそろしく月並みと思いながら、クラウドはセフィロスにキスした。ほんとうに肝心なときには、ひとは月並みなことをしてしまうのだということがわかった。だって、それ以外に表現する方法がない。自分の歓喜、恍惚、ことばにできないものは、行為で示すしかない。いつもどちらかになる。ことばか、行為か。行為にうつるときには、いつだってエロティックなものが絡む。それでいい。身体には、身体で応えて欲しいから。それは必然的に、肉体のぶつかりあいに移行する。とても自然なことだ。肉体で感じるもの、語るものは、ことばよりももっと雄弁なのだ。直接的な、直観的な理解。クラウドは恥ずかしげもなく云える。このひととするセックスが大好きだ。それは、ことばにできないものを伝えることだから。ことばにならないものを、交換することだから。
 背中に感じる、革張りのソファの感触。のしかかる重みが好きだ。この身体の中にいまあるもの。その熱。そこから生まれる快楽。内側を強く擦られて彼はふるえる。首筋が、背中が跳ね上がる。長い髪の毛が身体のあちこちにかかってくる。セフィロスの利き手を取って、自分のところまで導く。後ろで返してやるから、もっと触って。セフィロスの手が好きだ。その感触と熱。ゆっくり追い上げられる。頭の中がしびれそうだ。脳みそが溶けるんじゃないかと思う。むちゃくちゃに気持ちいい。出入りする感触がいい。抜かれるときのあのかき出される感じ、入ってくるときの、あの圧迫感。身体は自然にそれに応えている。小さな収縮が繰り返される。どうしてそんなことができるかなんて謎だ。意識してやっているわけじゃない。ただ、身体が知っている。快楽を得る術、つながることの意義、その恍惚。神さまは、人間があらゆるセックスを楽しむように設計していると思う。男どうしだって、ぜんぜん異端じゃない。こんなに気持ちいいなら。それに大事なのは、いつだって気持ちのほうだ。相手を好きなこと。まるごと好きなこと。どうしようもなく好きなこと。
 最後の瞬間に、無意識にセフィロスに手を伸ばしていた。それはちゃんと受け止められた。彼の肩に、髪の中に、顔をうずめてふるえた。頭がかすむみたいな気がする。最後にちょっと意識して、セフィロスをぎゅっと締め上げる。吐き出される感触、それが中でちょっと伝い動く感触。この感じが好きだ。このひとは、もう英雄じゃない。ずっと前からそうだったけれど、ほんとうにそうなる。ただのセフィロス。それがどんなにうれしいか、すこしはわかっただろうか。だって相手が、相手のままであることを幸福に思うのが愛だ。それ以外は、みんなうそだ。自分の穴を埋めるための愛なんて、愛じゃない。セフィロスはセフィロス。そして、自分は自分。それが心地よいところに落ちつく。結婚して、田舎に引っこんで。考えないといけないことはたくさんあるけれども、いまはぜんぜん、それどころじゃない。

 ザックスの「ほあー」と云う顔が面白かった。いつものファストフード店で。いつもの席で。こことも、もしかしたらお別れかもしれない。永遠にじゃなくて、当分のあいだ。また都会に戻ってきたくなるまで。
「結婚かい。そういう方向? うん、やっぱおまえ、面白いわ。でもたぶん効果的だな。セフィロス追いこむには。よかったよ、まじでさあ、あのひと、いついなくなってくれんだろうって思ってたし、ていうか、あのひとがいなくならないってことは、おれ信用されてないってことじゃん? はじめのうち引き止めたのはおれだけど、もういいっつってんのにいつまでもいられたんじゃ、おれのプライドってもんがあるじゃんか。それにおまえもね。いつまでいて、軍の連中いらだたせるんだろうって思ってた。せいせいする、まじに。とっとと消えてちょ」
「消えるよ、云われなくても」
 クラウドはコーラを飲みながら、ザックスに笑いかける。ここで何度も、世界が変わるのを感じた。友だちができたとき、セフィロスと仲良くなったとき、向こうにその気があることがわかったとき、セックスしてしまったあと、いろいろなことがあったとき、そして今日。クラウドの前に、世界はいつになく鮮明だった。晴れ晴れしていた。みんな楽しそうに見える。横の席でおしゃべりに興じているカップル、奥のカウンター席を占領している学生の集団、向かいあってゲームに精を出しているガキども、孫をにこやかに見守る老婆。みんなみんな、こんな瞬間を超えてきた、あるいはいずれ迎えるのだ。誰かをむちゃくちゃに好きだと思う夜。自分が誰かの特別になれることを信じられる夜、自分以外の誰かのことを、自分以上に想える日。そうしていままでいた世界から、これまで背負ってきた社会から飛び立つ。新しい場所を見つける。ふたりしてそこに根を下ろす。きっといろいろあるだろう。もしかしたら、うまくいかなくて、根っこを切ってまたやりなおしになるかもしれない。でも、なんだっていい。なんだって許される。大事なのは賭けること、人生がもたらすものに。そしてそれを受け入れて、がむしゃらに進むこと。きっとなにかその先にあると信じて。未来を、信じること。自分を信じること。自分が信じた人間を、信じること。その全部の瞬間に、この店があった。つまり、ザックスがいた。ここで話した。笑った。たくさん迷惑をかけた。たぶんこれからもかける。友だちだから。
「ま、あとはおにーさんに任せなさい。んで、おまえらはとっとと実家に報告でもして、トンズラしなさいよ。ああーすっきりした。でも、結婚報告ってなんかいいな。未来あるって感じで。おれも結婚しようかなー」
「それってさ、あのおまえに似合わない清楚な感じの子?」
「似合わないってなによ。むかつくなー。あれでさあ、ものすげえ行動派なんだよ。あ、ってか、今度おまえの母ちゃんに相談していい? 恋愛相談」
「おまえ母さんとしゃべったことないだろ」
「ないけどさあ、達人のアドバイス欲しいんだよ。スキル高いひとのアドバイス。スキル高いけど、まっとうなひとの。わかる?」
「云ってることはね。でも、母さんのアドバイス、たぶんまともじゃないよ」
「いいんだよ、ちょっと強めのお姉さんに背中押されたいだけだから」
「んじゃ、電話すれば? 番号教えとくから。云っとくけど、母さんいま妊娠中だから、あんまり刺激的な話題はだめ」
「そんなん気にするひとなの?」
「意味が違う。変にやりたくなられると困るから」
 ザックスはまた、ほあー、と云った。おまえの母ちゃん、すげえなあ。おれもそう思う。
「なんかもうむしろ直接話したいわ。会って拝みたいかも。会えないの? おれ行くよ? おまえらの報告についてく」
 クラウドは顔をしかめた。
「それなんだけどさあ……」
 またザックスに相談。なにかあるとそうやって、いつでも相談する。この店で。がやがやした雰囲気の中で。たくさんのひとがいろいろに送っている人生の、自分もそのうちのひとつだということを、ぼんやり感じられる店で。ザックスはストローをくわえたまま、でも真剣な目で話を聞く。いつもそうだ。これからもそう。その構図は変わらない。たとえ、名字が変わっても。住む場所が、所属が変わっても。
 クラウドはちょっと考える。ザックスが結婚するときのこと。そのときは、逆にこんなふうに、ザックスに相談されたりするんだろうか。結婚生活の、ほんのすこし先輩として。もちろん、自分たちの結婚生活なんて、イレギュラーすぎてぜんぜんあてにならないと思うけれど。でも、ちゃんと相談に乗ろうと思う。ザックスには、多大な迷惑をかけるから。セフィロスがいなくなることで。クラウドは自分が、セフィロスを世界からかっさらってしまった気持ちになる。そんなにひどく間違ってはいない。セフィロスは、死ぬべきだ。世界から、永久に消えるべき。ぜんぶ振り落として、ただの男になるべきだ。それはたぶん、ザックスも共通して持っている願望だ。ついにそれを、成就したのだ。クラウドは誇らしい気持ちになる。これから先のことなんて、なにもわからない。なにも決めていない。でも、大丈夫だ。信じられる。みんな、幸せになるために、自分らしくいるために、生きているのだということ。セフィロスだけじゃなく、みんな。その方向に進めば、ぜったいに間違いない。
 ふたりはクラウドの家族にセフィロスのことをどう持ちかけるかを、何時間も話しあった。まとまるころには夜になってしまった。ザックスが、おまえんとこで酒盛り、と云い出した。クラウドはセフィロスに電話した。ザックスがこれから行くから、じゃあね。そして返事も聞かずにすぐに切る。ザックスのバイクに飛び乗る。高速乗ろうか、とザックスが云った。クラウドは即うなずいた。まるであの日みたいだ。ザックスと出会ったあの日。はじめてこのバイクに乗ったあの日。まだほんのちょっとしか時間は進んでいなくて、でもずいぶんいろいろ進んだ。これまでの状況は、最低だったけれど、でもいまのところのフィナーレは最高。これからだってそうだ。最終的に、ぜったいに最高で終わる。世界がそうなるようにできているから。クラウドは、あの日のように、バイクの上で叫んだ。ザックスもつられて叫んだ。万歳。人生に万歳。絶望に、幸福に、すべてに万歳。いつだってそう云える。全力で。

 

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