早朝の物音と乗り物野郎、息を吹き返した家
翌朝、セフィロスはベッドに潜りこんできたクラウドに仰天して目が覚めた。
「朝日まぶしいんだ。母さんと約束したんだよ、こうするって」
クラウドが寝ぼけ眼で云うことはわけがわからなかったけれど、朝日がまぶしいというのは確かなことだった。セフィロスは枕元のサイドボードに置かれた時計を見た。午前六時半。まだ起きるのには早い。すくなくとも、よその家では。家の中はまだしんとしていたけれど、外では鳥が鳴いていた。今日はすこし風があるらしい。木々の葉が、さやさやと音を立てているのがわかる。セフィロスは腹の上にクラウドを乗せたまま微笑した。田舎の朝だ。静かで、空気が澄んでいて、一日がはじまるという、確かな重みと、実感がある。彼はすっかり布団にくるまっているクラウドの頭をなでた。ひとのベッドの中でまた眠ってしまったクラウドは、理由があってちょっと小さいパジャマを着ていた。青い細かい星がたくさん散らばっている柄の、厚手のあったかいやつだ。そのパジャマは、どう見たっていまのクラウドの身の丈には合っていなかった。両手両足が、裾から盛大に飛び出している。つんつるてんというのは、実にこのことだ。寝間着のくせに身体にぴったりしていて、窮屈そうだ。それも当然だった……これはクラウドが十四のときに、実家で着ていたやつなのだ。つまり、都会に出てくる前に着ていたもの。それから、クラウドは十三センチも背が伸びた。でも、彼は母親に着るといってきかなかった。「七分丈だと思えばいいよ」と云って。その押し問答を、セフィロスは笑いをこらえて聞いたのだった。
「そりゃあさ、あんたはいつだって、あたしのいい子のかわいいクラウドよ。背が百センチだろうが、二百センチだろうが。だからできたら、あんたのお気に入りのこのパジャマ、着せてあげたいけど。これ着てるあんたったら、そりゃかわいいし。でもどうしてもって云うから持ってきたけど、やっぱりね」
「やだよ。おれそれがいいよ。それ着ないと、家に帰ってきた気がしないよ」
「でももう無理だってば、いいかげん。同じ生地売ってれば、あたし修正してあげられたけど、ないのよ。これ造ってる工場、もうつぶれてるみたいだし」
「大丈夫、おれ着れる。まだいける」
「そ。じゃあ好きにしな。破けちゃっても知らないからね。それに、それ着るんだったら、布団のあいだに湯たんぽ入れな。夜中に凍死しちゃう」
それでクラウドは、寝る前にすごく生き生きした顔でちょっと小さいパジャマを着た。小さくはあるけれど、着れないわけじゃなかった。それに、そのパジャマを着たクラウドは、母親の弁じゃないが、やっぱりかわいかったのだ。そういうことを思い出して、セフィロスはひとりで笑った。そうして、その問題の星柄パジャマを、ちょっとつまんでなでた。
階下からごそごそ音がしはじめた。母親か、父親が起きたのだ。足音からして、女性のものだった。甘えたような猫の鳴き声がする。エスメラルダだ。腹が減った、と云っているのだ。それをいなす声と、玄関が開く音。それからしばらく音がやんで、またときおりごとごととなにかが聞こえてくるようになる。こういう音は、いつもなら気になって仕方がないのだが、彼はどこか心地よいものとしてそれを聞いていた。クラウドは十四年間、毎日この音を聞きながら朝を迎えたのだ……セフィロスは考えた。クラウドが目覚めると、朝食がもうできている。あたりには、食欲をそそる香りが満ちていて、彼はたぶん、まだ半分寝ているような目で母親に挨拶し、山羊のミルクを飲み、朝食を食べる……この音はだから、クラウドの日常の一部だった。クラウドの延長線上にあるもの。それを自分も聞くこと……セフィロスはやわらかい気持ちになって、またすこしまどろんだ。
朝食のあと、食料の買い出しをして、ふたりはローコヴェンハウム氏の運転する軽自動車で、ニブルヘイムまでわいわいやりがなら向かうことになった。クラウドが、この家にはもう泊まらない、と宣言していたからだ。
「あんたが云うから、家の中大掃除しておいたけど」
どこまでも息子のためなら骨身を惜しまない母親は云った。
「食料だけはないから、途中で買わないとだめよ。パンはノンニばあちゃんのとこで買うのよ。そのとなりで買っちゃだめ。レジのばか女がぼったくるから。あと、お菓子は『小さなオレンジ』でね。あんた見たらまけてくれる。ヤギのショーンじいさんはまだ生きてると思うわ、死んだって聞かないから。缶持ってって、ミルクわけてもらいな。鶏もまだ飼ってると思うから、必要なら卵もわけてもらって。ミングルズ肉店もまだやってる。でも鶏だけよ。牛と豚は買っちゃだめ、あいつらわけわかんない病気持ってるんだから、感染したら大変」
クラウドはこくんとうなずいた。
「あと、これがシーツ、替えのシーツ、替えの替え……」
「そんなにシーツいらなくない?」
クラウドが荷物を車に運びながら云った。
「いるのよ。それが。新婚あたりが特に。週に七枚は洗濯するね。あたしがそうだった。まあ見てな。あとであたしに感謝するから」
クラウドは合点がいった顔をして、肩をすくめた。
クラウドがほかにもパジャマやらなにやらを母親から受け取ってるあいだに、セフィロスはすっかり荷物を積み終えてしまって、先に車に乗りこむことにした。あの母子ときたら、百年離れるのでも五分離れるのでも、きっと同じように玄関先で長々とやりとりすることになっているのに違いない。
ローコヴェンハウム氏の車はベージュの、丸い古めかしいフォルムがなんとも愛らしいやつだった。正面から見ると、ヘッドライトの目と、ナンバープレートの口元が、どうしたって笑っているように見える。
「メイベルだ」
ローコヴェンハウム氏は車を指さして、ちょうど自慢の娘を紹介するような得意げな顔になって云った。
「そういう名前にした。情が移るし、大事にしようって思うだろ? こいつはもともと廃車だったんだけど、わけあって拾ってきたんだ。もうすっかり錆びててさ……全部組み替えたよ。おかげでほとんど新品。五十年も前の車だけど、まだあと二十年は走れる」
彼はそう云ってメイベル嬢の車体を、まるで女性にふれるように優しくなでた。いつまでも母親とごちゃごちゃやっていたクラウドがようやくやってきた。彼は大きな紙箱を抱えていた。中身は母さんから預かったというチェリーパイで、車に乗りこむと、彼はそれを大事に膝に乗せて抱えた。今日やってくるはずのお客への差し入れだということだった。
車のエンジンがかかる。いざ出発せんというときになって、玄関先にいた母親がなにやら大声を上げて、重たい腹を抱えてのそのそ歩いてきた。
「云い忘れた。ボイラー、調子よくないけど蹴りとばせば動くからね」
クラウドはまたこくんとうなずいた。
「ああ、そうだった。あのボイラーな。おれがちょいちょい手入れしてるんだけどさ。でもそろそろ、限界だよあいつ。いっぺん新品にしないと」
「いいのよ、まだ動くんだから。駄馬といっしょ。のらくらしてるけど、ぶちのめせばおとなしく云うこと聞くの。それから、あんたデブのタミアスには気をつけんのよ。もう十五超えてるから大丈夫だと思うけど」
「大丈夫だよ、あいつ十歳前後のやつにしか興味ないんだ。おれもう十八だから大丈夫」
「……なんの話か訊いてもいいか」
セフィロスがたまらず口を挟んだ。母親が手を振り回してしゃべりはじめた。
「近所にね、タミアスっていうデブのいかれたのがいんの。もうおっさんよ。十歳かそこらの子どもが大好き。クラウドもやばかった。あたし、頭にきてそいつのこと家の玄関から台所の椅子まで蹴飛ばしたことある。あたしの服が血だらけになるまでぼっこぼこにしてやった。そいつ、鼻の骨と歯折ってさ、だらだら血流して。あんたがこれまで村の小さい子たちになにしてたか全部知ってる、警察と話つけるって云ったら泣き出してさ。ありゃ見物だった。ま、そういうやつがいるのよ」
セフィロスは悪寒がした。
「大丈夫だって、人間は成長するんだから」
クラウドがもっともなことを云い、ローコヴェンハウム氏は車を出した。氏は走り出したとたんにものすごい音量でやかましい音楽をかけ、クラウドとふたりで大声で歌いながら、すさまじいスピードで田舎道を爆走した。彼は道すがら、自分は乗り物に乗ると興奮してアドレナリンががんがんに出る乗り物野郎だということを告白した。
「おれは基本的に、自分の運転しか信用しない。バスだとか列車だとか、他人が運転してるものに乗ってると安心できないし、家族が乗るのも感心しないね。おれの運転は荒っぽいって云うやつがいるけど、世界一安全なんだ。野ネズミ一匹殺したことなんかない。無事故無違反。完璧だよ。なあ、クラウド」
「そりゃさ、父さんの運転はすごいよ。でもおれ、知ってるんだ」
クラウドは意地悪く云った。
「父さんが十代のころ、乗り物でなにしてたか」
「それ云わないでくれよ。あれは若気の至り。少年期のあやまちってやつ。おまえもあるだろ、そういうの」
「まあ、無免許とかちょっとね」
音楽がうるさいので、みんな大声で話さなくてはならなかった。まさしく殺人級だった。セフィロスは、どう考えたってこれはボリュームを下げるべきだと思ったけれど、でも云わなかった。これがローコヴェンハウム家流のやりかたかもしれなかったし、もしもそうだとしたら、彼はそれに慣れる必要があった。
村が近づいてくるにつれ、クラウドは目に見えてそわそわしはじめた。
「トイレか?」
父親が声をかける。
「違うよ。なんだかなあ。やっぱ落ちつかないなあ。おれ、好きじゃないんだ、あの村。知り合いに会わないかと思うと、ちょっとね」
「ま、そりゃあわかるよ。自分の昔のこと知ってるやつがいるってことくらい、気まずいことないからな。ガキのころにしでかした諸々の話なんか持ち出された日にゃ最悪だ。だったら戻らなきゃいいのに、ばかだなあ、おまえ」
「そうだけどさ……でもパパに実家にいるって云っちゃったし。それにさすがにおれでも気まずいよ。新婚夫婦の家に長居するの。母さんお腹ああだしさ」
ローコヴェンハウム氏は、肩をすくめた。その件に関して責任があったのだ。
独特の形をしたニブル山が近づいてくると、セフィロスは不思議な感覚にとらわれた。ニブルヘイムには、前にも来たことがある。ついこのあいだと云ってもいい。クラウドをともなって来たのは。そのときは、天気はずっと曇りで、村の印象もどことなくぼんやりしていた。今日はこれ以上ないというくらいの晴れ。奇妙にねじれてつき出た山はなにか腹がよじれるほど笑っているようにも見え、低い家や畑がぽつぽつと並ぶ村はおもちゃの町並みのようで微笑ましく感じられる。記憶に焼きついている村の入り口と、給水塔。クラウドはよくその上に上って、星を見たと云っていた……星とか月とか太陽だけは、みんなに平等だろ? と若干十五にして云ったクラウドは、なにを思ってその場所で星を眺めていたのだろう。その前を車がゆっくりと通りすぎるとき、セフィロスの中に芽生えた感覚は頂点に達した。彼はあの給水塔の上に、まだ幼いクラウドが置き去りにされているような気がしてあわてて振り返った。もちろん、誰もいなかった。小さいクラウドも。彼は助手席にきちんと十八のクラウドが座っているのを見て、安堵した。あの給水塔の上で、ソルジャーになる宣言をした十四のクラウド。そのクラウドは、ソルジャーになれなかったいまも、十八のクラウドの中にちゃんといるのだろうか。忘れ去られずに? 英雄にあこがれて都会に出る決意をしたクラウドは、ちゃんといまでもいるのか? その実体を隅から隅まで知ってしまったいまでも?
……セフィロスは苦笑を浮かべて、首を振る。わかっている、知りたいのだ。こちらと出会う前の、少年クラウド。彼がなにを見て、なにを思っていたのか。そうして、その少年クラウドをなぞるようにして、体験してみたいのだ。少年であるということを。心ゆくまで。それはたぶん、二年前、クラウドの故郷にはじめて足を踏み入れたときから、ずっと抱いていた感情だった。あのときはクラウドがふてくされていたし、そういったものを味わうどころではなかったけれど。
軽自動車はゆるゆると田舎道を走り、クラウドの家の真ん前にやってきた。とんがり屋根の、二階建ての家。屋根を空色にしてもらいたくて、小さいときずいぶんがんばったんだとクラウドが云ったことがある。でも屋根が空色では空と区別がつかなくなって空に失礼だというので、いまもってクラウドの家の屋根はあかね色。そっちのほうが、空色よりは家らしい。
ポンコツお払い箱だったのが、ローコヴェンハウム氏の手によって生まれ変わったメイベル嬢は、ふうん、と気の抜けたような音を出して、ちょっとがたがた揺れてから止まった。そそくさと外へ出たローコヴェンハウム氏が、いたわるように車体をなで回す。クラウドも外へ出てきて、しかつめらしい顔でタイヤをのぞきこんだりする。
「泥だらけだ、タイヤ」
クラウドがおろしたてのシャツを汚されでもしたかのように唇をとがらせて云った。
「こいつがんばったからご褒美に洗ってやろう。うちにホースあったよな? あの紫ヘビみたいなやつ」
「あるよ。裏口の、納戸のところだと思う。洗車するなら、裏の空き地に行ったほうがよくない? ぎりぎりでホース届くと思うよ」
それを聞くや否やローコヴェンハウム氏はせっかく休めの体勢に入ろうとしていたメイベル嬢をたきつけて、空き地へと転がしていってしまった。
「乗り物は女性と同じだとよく云うが」
セフィロスは首を傾けて、車が転がっていく先を見つめながら云った。
「彼はよほど女性を大事にする性分とみえる」
「おれだって、タイヤについた泥に傷ついたよ」
なにを張りあっているのか知らないが、クラウドがまたもや唇をとんがらかして云った。
「でも、父さんがすごく乗り物大事にするのはほんとだ。きっとしばらく洗車にかかりっきりになるよ。なあ、早く行こうよ。お茶淹れて。疲れたから」
セフィロスはうなずいて、自分のシャツの袖を引っ張るクラウドについて歩いていった。
玄関は、真っ白に塗られた木のドアだった。ひし形の黄緑色のステンドグラスが、中央少し上にはめこんである。ドアの左横には脚の細いポスト。注意書きは特になし。てっぺんに、木でできた小さな鳥が二羽とまっている。
「その鳥、おれが作ってくっつけたんだ。十歳のとき」
クラウドが得意げに云いながら、慣れた手つきで鍵を差しこむと、ドアは待ちわびていたようにすっと開いた。セフィロスはしばしその木製の鳥の観察に専念した。二羽の鳥たちは、ところどころかくかくしているけれど、全体的に見ればとてもよくできていた。尾羽根に細かい筋がたくさん刻まれていて、セフィロスはそれを彫りこんでいったクラウドの手を、そしてその時間を想った。彫刻刀片手に、目を細めて鳥をあっちへ転がしこっちへ転がししながら、真剣そのもので制作に当たったにちがいないクラウドのこと。セフィロスはひとつため息をついた。そうして、困ったような顔でクラウドを見た。
「そうなるかなあと思ったんだ」
クラウドは生意気に唇をゆがめて云った。
「あんたのことだから。いろんなことにいちいち感動してさ。ばかだなあ」
「そうかもしれない」
セフィロスはまた視線を鳥へ向けて云った。
「いい鳥だ」
クラウドは鼻を鳴らした。
「だろ? おれ天才なんだ。そういうことに関してだけは。それ受注生産式で、商売にしようかと思ったよ……手間の割に稼げないと思ってやめたけど」
セフィロスがようやく観察を終えたので、ふたりは家の中に入った。入ってすぐに、リビングだ。部屋の中は真っ暗だった……カーテンと鎧戸が閉まっていたからだ。クラウドの母さんが再婚してからこっち、この家は空き屋になっていた。クラウドが重苦しい音を立てて窓を覆っていた鎧戸を開ける。とたんに、家の中に魔法がかかった……すくなくともセフィロスはそう思った。日差しが入りこみ、一気に鮮明になった部屋は、まるでいまのいままで誰かが生活し、呼吸していたみたいに、しっかりと息をしていた。セフィロスは、ちょっと混乱しかけた。見るものがありすぎる! 家具のひとつひとつ、小物、壁にかけられた時計や絵やポスター、おもちゃのたぐい、本、ありとあらゆる生活用品。こんなにたくさんのものを見なくてはならないとは、これは一日がかりの仕事だ。ひとまず目を引くのは、リビングの隅に居座っている、確実にクラウドの身長くらいはある、塩ビのキリンの人形。中に空気が入って、ぼよぼよしているやつだ。ちゃんと四つ脚で立っていて、でも実物よりは体長がだいぶコンパクト。黄色と茶色のそいつは、風もないのにふらふら左右に揺れているように見える。首にはピンクのハイビスカスの造花を連ねた花輪がかけられていた。
「パラニッケさんだ」
クラウドがなんとなく誇らしげに紹介した。
「パラニッケさんは、この家に十年住んでる。正確に云うと、お祭りからつれて帰ってきたんだ。おれが。もちろん、つれてきたときは折り畳まれてて、こんな大きくなかったけど。射撃の景品でさ、おれがまだパラニッケさんの脚の下に潜りこめてたときは、よくそこでおやつ食べたし、昼寝もした。おれパラニッケさんが大好きなんだ、優しいから」
塩化ビニールのキリンの長いまつげに覆われた目は、きらきらと輝いていて、たしかにとても優しそうだった。彼女……おそらく女性だ……は、その脚の下で眠るクラウドの白昼夢に出てきただろうか? 彼に優しく声をかけたのだろうか。その首をちょっと、折り曲げて挨拶しただろうか、花の首飾りを揺らしながら……そういうことは、子どもの夢妄想と片づけてはいけない。もしパラニッケさんが小さいクラウドの夢の中で挨拶したのなら、あるいは彼の悲しみの涙をぬぐったことがあるのなら、それはほんとうにパラニッケさんがそうしたのだ。自らの意志で。そういうわけで、セフィロスはパラニッケさんに挨拶した。そっと、長い首をなでて。伝わってきた感触は確かにビニールのつるりとしたそれだったけれど、でもパラニッケさんが優しいというのは、セフィロスにもよくわかった。
「ま、何日もかけて家の中じっくり見ればいいよ」
クラウドがちょっとあきれたように云った。
「ちなみに、忘れてたらなんだから云うけど、二階もあるんだからな。二階ってことは、つまり寝室ってことで、おれの部屋ってことだよ」
セフィロスは目眩がした。
「……クラウド」
セフィロスは指先をちょっと動かして、クラウドを隣に立たせた。
「キスしてもいいか」
クラウドは笑った。
「いいよ。でもお茶淹れたらだ。おれ喉がからからだから」
それで、セフィロスはまた袖を引っ張られてキッチンへと連行された。
キッチンは、緑だった。タオルや調理器具、調味料の入った瓶、ガス台の真上にある小窓にかけられているカフェカーテンも緑の水玉、そしてその窓からは、本物の緑が見えた。キッチンは裏庭と畑に面していて、ガス台横の勝手口からすぐに外に出ていって、かぶやらトマトやらをもげるようになっている。畑の横は、広い空き地になっていて、ローコヴェンハウム氏が熱心にメイベル嬢をいたわっているのが見えた。勝手口のドアもまた木製で、玄関ドアと同じようにひし形のステンドグラスがはまっていた。部屋の中央には、白いレースのテーブルクロスがかかけられたテーブル。中央に、きれいな水色のグラスに入れられたキャンドルがある。イスは四脚。うちひとつに、デブモーグリが座っている。モーグリは肌色の前かけをしていて、いまにも食事が出てくるのを待っているみたいに見える。
そういう観察をしているセフィロスの横で、クラウドは戸棚を開け、透明なガラスのポットと、同じく耐熱ガラスのカップをふたつ取り出して、ちょっと中をのぞきこみ、念のためふうふうやってからテーブルの上に置いた。それから、買ってきた食料品の中からハーブティーを見つけだし、黄緑色のやかんをガス台に設置する。ガス栓が開く。久方ぶりに、火が燃える……セフィロスはひとりでまたため息をついた。この台所で、クラウドとその母親が毎日食事をしていたということ。ここで話されたに違いないいろいろなできごと。
「どこになにあるか覚えた?」
クラウドが云った。セフィロスはおそらく記憶しただろうと云った。
「今日から、あんたの戸籍が取得されるか、おれの名字が元に戻るかするまで、何日かここにいるんだ。台所は、あんたに任せるよ。おれよくわかんないから。なんかあったら母さんに聞いて」
彼は途中で買ってきたおやつをどさどさとテーブルの上にぶちまけた。母さんが焼いて持たせてくれたチェリーパイは、午後の来客用なので、ひとまず戸棚の中にしまわれる。お湯が沸く。セフィロスはようやくすこし自分を取り戻して、やかんを取り上げ、お茶を淹れた。クラウドがふうふうしてくれたものの、ちょっと心配になったので、ポットとグラスは念のため一度洗っておいた。そうしてふたりはひと息ついた。
「いい家だ」
セフィロスは云った。クラウドはうん、とうなずいた。
「おれも自分の家は嫌いじゃない」
「空き家にしておくのはもったいないくらいだ」
クラウドは鼻を鳴らした。
「でもほんとのとこ、どうするんだろう、この家。とっとくのかなあ?」
「借家なのか?」
「はじめはそうだったんだ。でも、途中からそうじゃなくなった。この土地を持ってたひと、もう都会に住んでて、田舎には戻る気ないとかで。で、月々ちまちました額もらうよりは、どーんとした金額もらいたかったんじゃない? 他人のものになれば、税金とかも払わなくてよくなるし。支払いはもう終わってると思う。パパがしたんだけど」
「その、おまえのパパだが」
セフィロスは苦笑を浮かべて、クラウドがぼろぼろこぼしたクッキーのくずを拾いながら、今日これからやってくる客のことを話題にした。
「たいそうな金持ちなのか?」
クラウドは眉をしかめて考えるような顔をした。
「たいそうの上じゃない? あんたくらい金持ってるかもよ。わかんないけど。村長やら組合役員やらの複合給料がどうなってるのかしらないけどさ、でもすごく気前よくなんでも買ってくれるんだ。で、そういうのが好きなんだ」
「自分の家庭もあるんだろう。これから話をするにあたって大事だと思うから聞くんだが」
クラウドはああ、と云って、椅子に座りなおした。ついでにクッキーくずがぼろぼろ床にこぼれた。
「そっか。そのへん話してなかったんだっけ。家族はいるよ。もちろん。奥さんと娘ひとり。氷みたいに冷たくて、つんけんしたやなやつらなんだ。直接話したことはないけど、見ただけでわかるよ。金のことしか頭になくて。云っとくけど、パパが奥さんを選んだんじゃないよ。パパの父さんが決めちゃったんだ。政略結婚っていうの? なんかそういうの。手作りのケーキとかそういうことやりそうにないひとたちなんだよ。だから、母さんがかわりにやってあげるわけ。今日のチェリーパイとか、あと、そこの戸棚にあるすごい高そうな金ぴかの紅茶の缶とか。パパは甘いものに目がないひとだからさ。夏はチョコレートアイスとか、ベリーのケーキ、秋になったらかぼちゃとかさつまいものタルト、冬はなんでもいいんだ。まあ、そういうこと」
セフィロスはとてもよくわかった。つまり、クラウドとその母親が、例の「パパ」の中で果たしている役割について。満たされない父性というやつだ……母性ほど頻繁には聞かないが、でもこれをくすぶらせているひともまた、大勢いるに違いない。
「で、ひと息ついたら二階に行く?」
「そうだな。見なくてはなるまい。それから、例の給水塔にも登ってみたい。やりたいことが盛りだくさんだ。おれは今日の夜あたり、飽和量に達して破裂するかもしれない」
クラウドはちょっと笑った。
「やりたいことありすぎて、忘れてることがあるよ」
「なんだ?」
「さっき、キスするって云った」
「……ああ。忘れていた」
クラウドはデブモーグリを床にどけて、セフィロスのとなりにやってきた。それで、ふたりはようやくちょこんとキスして、ぎゅっとやることができた。セフィロスは自分の身体の芯がぞわぞわしていると思った。粟立っていると思った。あまりにもいっぺんに、クラウドのいろいろな背景を見聞きしてしまったので、それがあふれそうだった。きちんと消化して、自分の中へ落としこむには、ずいぶんかかりそうだ。ひとまず、それと目の前のクラウドを結びつけていかなくてはならない。風景や、人物や、ものに宿っている、クラウドの断片、彼のかけら。それを感じ、拾い集めて、構築しなくてはならない。これはたいした仕事だ。だから、とうぶんかかりきりになるだろう。
「で、このモーグリには名前がないのか?」
彼は訊ねた。
「こいつ? こいつは、母さんがデブちゃんって云うから、デブちゃんだよ」
セフィロスはデブちゃんの腕をとり、握手をした。なんにせよ、名前がないことには、安心して関係をはじめようがない。